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【オランダの庭】 モダンガーデンデザインの先駆け「ミーン・ルイス庭園」<中編>
モダンガーデンの歴史を作ったミーン・ルイス 戸外でデザインするミーン・ルイス。Photo: Mien Ruys Garden Foundation ミーン・ルイス (Mien Ruys, 1904-1999) は、庭園建築家(ガーデンアーキテクト)、及び、景観建築士(ランドスケープアーキテクト)として、オランダ各地の個人や公共の庭園設計に携わり、活動を続けました。今から100年前ほどのこと、彼女は当時まだ珍しかった、宿根草を使った花壇づくりにいち早く取り組み、同時に、直線や斜線、円から成る、単純かつ効果的な幾何学模様をデザインに取り込んで、近代建築にふさわしいモダンガーデンの発展に寄与しました。シンプルで明快なデザインに、瑞々しく生い茂る植栽。それがミーンのトレードマークです。オランダにあるミーン・ルイス庭園では、時代の変化を敏感にとらえて新しいものに次々と挑戦し、試行錯誤を繰り返した、ミーンの軌跡をたどることができます。前編に続き、独創的な庭の数々を見ていきましょう。 〈ハーブ・ガーデン〉(1957年製作、1996年改修) 左/カフェテラスに続くゲートを覆う、長いシュートを伸ばしたつるバラ。赤いローズヒップもたくさん。その右下は芝生の腰かけ(ターフシート)。右/ゲートからのハーブ・ガーデン全景。手前はハーブの植わる小さな花壇スペース。 前編でご紹介した〈ウォーター・ガーデン〉から続くのは、〈ハーブ・ガーデン〉です。〈ウォーター・ガーデン〉をつくった後、ミーンは隣り合うこの区画が塀や建物で囲まれ中庭のようになっていたことから、ここに中世の僧院の中庭をモチーフにしたハーブ園をつくることを思いつきます。 四方を塀などで囲まれ、閉じられた空間となっていますが、木々の影が落ちずに日当たりがよく、開放感があります。庭の中心にあるのは、正方形のスペースに白い砂利が敷き詰められ、セイヨウツゲの生け垣があしらわれたフロア。訪れた時は高さ30cmにも満たない緑でしたが、以前の生け垣はもっと高さがあって、きっちりと刈り込まれた立派なものだったようです。セイヨウツゲが植え替えられたようですね。 周囲にはレンガと貝殻を使ったペイビングが広がっていますが、そこに大小の四角い植栽スペースがフロアを切り取るようにつくられています。ラベンダー、レモングラス、タイム、フェンネル、セントジョンズワート……、小さなスペースにはハーブが1種類ずつ植わります。ハーブは少量あればこと足りるという考えから、植栽スペースが小さいのだとか。 左奥、真っ赤なベンチの前には古い井戸が。 中央に配置された白い砂利敷きのフロアは、この空間をより明るくしています。白い砂利とセイヨウツゲの緑のコントラストが美しいデザインです。生け垣の真ん中に置かれた鉄のオベリスクの先端には、銀色の丸いボールが飾られていますが、これは、中世の英国で、悪霊や呪いをはねのけるものとして窓辺に飾られたガラス玉「ウィッチズボール(魔女の玉)」を思わせるもの。ここでは鳥よけとなっているのでしょうか。このほかにも、中世の僧院の庭でよく見られたものとして、左奥の井戸と、ゲート近くにある「ターフシート(芝生の腰かけ)」があります。ターフシートは座面部分、もしくは全体に芝生が生えたベンチのようなもので、腰かけるのに使われていました。 左/実をつけたマルメロ。右/立ち枯れのアーティチョーク。 中世の僧院では薬草が主に育てられていましたが、この庭に植わる植物も、すべて実用的なものが選ばれています。食用か薬用の植物がほとんどで、塗装に使われるものもあります。訪れた10月上旬、庭の隅にはマルメロの木が重そうに実をつけ、植栽スペースでは立ち枯れのアーティチョークが種子をつけていました。秋冬に楽しむオーナメンタルプランツとして切り取らずに残されているのでしょうか。さらに奥の足元付近には、オレンジに色づいたホオズキが実っていました。 〈サークル・イン・ザ・ウッド(森の中の円)〉(1987年製作) さて、〈ウォーター・ガーデン〉に戻り、木々が生い茂る中の小道を進むと、急に視界が広がりました。〈サークル・イン・ザ・ウッド〉です。森の中にぽっかりと、大きな円の空間が広がっています。訪れたのは、まだ日が完全に昇りきらない午前中だったので、陽光が遮られて薄暗く、神秘的な場所に感じられました。 〈サークル・イン・ザ・ウッド〉は、ミーンがデザインした庭としては後期のものになります。このヨーロッパナラの生える森は、19世紀にモーハイム・ナーセリーの風よけとしてつくられ、機能してきたものですが、1987年に庭園の一部として組み込まれることになりました。その際、森を計測すると、自然に生じた空き地があることが分かりました。そして、数本の木を切り倒しただけで、このような円形の空間が見事に出現したのでした。 ミーンがそこに作ったのは、円形の空間にぴたりとはまるような、大きな丸い花壇でした。花壇の大きな円に沿って歩きながら、足元に広がる緑の正体を確かめようと近寄ると、無数の小さな緑がひしめきあっています。まるで繊細に織り上げられた絨毯のよう。水を含んで、しっとりと鮮やかな緑色に発色しています。 ミーンは当初、この花壇に日陰に育つ植物を数種類合わせて育ててみましたが、「森の中の小さな庭」みたいになってやりすぎに感じられ、植物を1種類に絞ることにします。そして選んだのが、ここの酸性の土壌によく育ち、明るい葉色を持つコミヤマカタバミでした。しかし、単作を保つのは容易ではないとのことで、実際にはコケや他の植物が混じっています。単作を続けていると、土をよい状態に保つのも難しくなるそう。 円形の緑の絨毯はセイヨウシャクナゲでぐるりと囲まれていますが、背丈のあるシャクナゲに囲まれることで、この場所が閉じられているように感じます。一方、見上げれば木々のこずえの開口部から、円形の空間に優しい光が降り注ぎます。ミーンが〈大聖堂〉と呼んだこの場所は、シンプルだけれど印象深い空間です。 右奥に写っている人のサイズと比べると、このエリアの広さに驚くのでは。 1999年にミーンが亡くなった後、2010年の春からは、後輩デザイナーの計画によって、この花壇に白いラッパズイセンが植えられています。訪れた10月上旬は、まだスイセンの葉の存在はまったく感じられませんでしたが、今ごろはきっと、花咲く準備を始めたスイセンのツンツンとした葉が、この空間を面白い景色に変えていることでしょう。 〈ウィークエンド〉(1950年代製作) 〈サークル・イン・ザ・ウッド〉から先に進むと、開けた場所にいったん出ました。その先にある建物に引き寄せられるように、落ち葉を踏みながら進みます。 小道沿いの狭い場所にもグラスやゲラニウムが緑を添えていたり、建物に沿って真っ赤な花を吊り下げたフクシアの鉢が並んでいたり。ひとけの少ない場所にまで植物による演出が見られ、細やかな心遣いを感じます。 〈ウィークエンド〉の名には、庭の裏手にある水路にちなんだ「水路の行き止まり」と「週末」という2つの意味が。 この建物は〈ウィークエンド〉と名付けられたサマーコテージです。ミーンは1943年、庭園のあるデデムスファールトから首都アムステルダムに拠点を移して自身の設計事務所〈ブーロ・ミーン・ルイス〉を立ち上げ、建築家や芸術家と交流することで活躍の場を広げました。 1950年に父ボンヌが亡くなり、その後、両親の家が売却されることになると、ミーンは週末を庭園で過ごすための場所が必要となり、古い豚小屋を建築家に頼んでコテージに改装してもらいます。そして、普段はアムステルダムで働き、週末に庭園に戻るという生活を続けますが、晩年にはここで暮らすようになり、1999年に亡くなりました。 ミーンの設計事務所〈ブーロ・ミーン・ルイス〉は、1979年には父の興した種苗会社モーハイム・ナーセリーから離れて独立した会社となりました。現在は、ミーンから直接教えを受けた設計家のアネット・ショルマが会社を牽引し、庭園建築や景観建築、都市緑化の設計を行っています。また、〈ブーロ・ミーン・ルイス〉はミーン・ルイス庭園のアドバイザーとして、今も庭園の活動を支えています。 建物に対して芝生とテラスの境目が斜めになるよう配されています。Photo: Mien Ruys Garden Foundation 1950年代、戦後の再建期に、ミーンは共同住宅などの公共ガーデンを設計することが多々ありましたが、その際、四角い敷地に対角線を引いたような、斜めのラインをデザインに取り入れました。集合住宅の建物に対して、小道や植栽、テラスなどで斜めのラインを作り、コントラストをつけたのです。この斜めのライン使いによって、この時期の彼女は「斜めのミーン」と呼ばれていました。1960年代に入りしばらくすると、ミーンのデザインから斜めのラインは消え、再び直線や正方形を用いたデザインへと変化しています。 Photo: Mien Ruys Garden Foundation ウィークエンドの小さな庭でも、家に対してテラスと芝生の境目が斜めになるよう設計されています。こうすることで、芝生や植栽が家に近づき、扉を開ければすぐに花や緑が目に入るという効果があります。花壇には、長く咲く、明るい花色の丈夫な宿根草が植えられました。 このコテージは2013年に改修され、新しい屋根と、ガラスの明かり取りのある現在の姿となりました。今は資料館として使われている建物の中に入ってみると、中央に、ミーンと共に働いた建築家で家具デザイナーの、リートフェルトの代表作「赤と青の椅子」が2脚。部屋をぐるりと囲む明かり取りの高窓から自然光が入り、ドア脇の可愛い小窓のそばにはグラスが活けられています。 Photo: Mien Ruys Garden Foundation こちらは改修前の建物の写真。ミーンが暮らしていた頃は、このような姿をしていました。ウィークエンドの庭は、庭園に組み込まれる2006年まで非公開でした。 Photo: Mien Ruys Garden Foundation 庭の中にあるコテージ。ミーンが庭と共に生きたことが伝わります。 〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー(標準宿根草花壇)〉(1960製作、1987年修復、国定記念物) 左は3本のメタセコイア。右に実験用花壇が並びます。 〈ウィークエンド〉の建物から少し戻り、〈サークル・イン・ザ・ウッド〉を抜けて出た、開けたエリアにある最初のガーデンです。まだ日が高く昇りきる前に着いたので、高い木々が日差しを遮り、ひんやりとしています。うっすらとモヤのかかるガーデンでは、緑がとても濃く感じられました。 よく刈り込まれた芝生は厚みがあって、フカフカとして歩き心地もよく、振り返ると木漏れ日がとても幻想的。この大きな木々は、ここにいつからあるのでしょう。この庭をずっと見守っている頼もしい樹木に思えました。 調べてみると、この3本の大木はメタセコイアでした。メタセコイアは絶滅したと考えられていた樹木ですが、1940年代に中国で発見され、モーハイム・ナーセリーはその種子を入手していました。この庭のメタセコイアは、その種子から育った子どもたち。長い時の流れを感じます。 芝生の中には石づくりのアート作品が。まるで女性が椅子に座って庭を眺めているようです。このエリアでは、大きな木を引き立てるようにコの字に花壇が設けられています。くすんだ紫花を咲かせるセダム‘ハーブストフロイデ’を背景に、ルドベキア‘ゴールドストラム’の黄花が鮮やか。 ミーンがここに作ったのは「既製品」の花壇です。彼女は1950年代のプレハブ建築に着想を得て、「目的別の花壇キット」を作って販売することを思いつきます。土の質や日照、花壇の大きさや、草花の色合いなど、条件をいろいろと変えて何種類もの「花壇キット」を考え、その見本をここに作ったのでした。植物はどれも丈夫で育てやすく、開花期の長い宿根草が選ばれています。客が、例えば「日当たりがよくて土は酸性、花壇の大きさはこのくらい」と、自分の庭の条件や希望を伝えると、モーハイム・ナーセリーからその希望に合った「花壇キット」の植物苗と植栽図面、育て方の手引書が届くという仕組みでした。個人宅の小さな庭にもフィットする、小さなサイズの花壇もありました。 花壇と花壇は、丸みを帯びた形に刈り込まれた小さな生け垣で仕切られています。生け垣は仕切りというだけでなく、平坦な芝生に立体的な変化をつける役割も果たしています。芝生と花壇の間は、凹凸模様に石のステップが浮き立って、美しい縁飾りとなっています。 コの字形の花壇の向かい側には、株張りが3mほどもあるホンアジサイ‘オタクサ’が茂ります。花がらをそのままにしてあって、その褪せた花色が美しく感じられました。左から丈高く穂を伸ばすのは、タケニグサ。ケシ科の植物で、日本では空き地などにはびこっている地域もあるアメリカの帰化植物です。日本では新規で植えてはいけないケシ科の毒草のようですが、切れ込みがある大きな葉は、霜をまとって存在感がありました。 〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉を見渡して。 1954年、ミーンは人々にガーデニングの知識を伝えようと、夫のテオ・マウサウルトと共に"Onze Eigen Tuin"(オンズ・エイガン・テイネン、私たち自身の庭)というタイトルのガーデニング季刊誌を創刊しました。ミーンは雑誌や書籍を通じて知識や思いを伝えることで、人々のガーデニングへの興味を後押ししたのですね。この雑誌はオランダで最も古いガーデニング誌として、今も発行が続いています。 〈サンクン・ガーデン(沈床式庭園)〉(1960製作、2015年修復、国定記念物) 一段高い場所から見たサンクン・ガーデン全体。 〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉の隣のエリアは、一段低く下がった〈サンクン・ガーデン(沈床式庭園)〉です。とても小さいスペースですが、枕木に縁取られた花壇の中はまるでパッチワークのよう。植物リストには37の品種が記載されています。 左/〈サンクン・ガーデン〉から〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉を見ると、手前部分が枕木1本分ほど低くなっているのが分かります。右/隣り合う〈サン・ボーダーズ(日向の花壇)〉と比べても一段下がっています。 ミーンがこの庭で行ったのは、鉄道で使われた枕木を建材として使うことでした。そのきっかけは、砂丘に庭を設計するよう依頼されたこと。町で、使用済みになって積まれていた枕木を見かけたミーンは、砂丘の高低差を調整するのに使えるのではと考え、トラックの荷台いっぱいに積んで庭園に運び込みました。そして、隣り合うエリアから地面を15cmほど掘り下げて、枕木を仕切りに使って段差をつけてみたり、花壇を作ったりと、さまざまな実験をしながらこの庭をつくりました。 庭の主よろしく大きく枝を広げている樹木は、ヤマボウシです。赤い果実がいっぱい実っていて、美味しそう。春は白い花が咲いて、それもまた見事だろうとイメージできます。ひさしのような枝の下には、枕木の枠と似た、長い木製ベンチが置かれていますが、自由に葉を広げる植物の中で、まっすぐなラインが際立ちます。間仕切りとなって突き出ている枕木の上には石像が置かれて、アクセントに。直線の枕木がさまざまな四角を描くように組み合わさったデザインで、ここにも画家ピート・モンドリアンの色面構成のエッセンスが感じられます。 石像が置かれた向かい側には、丸く水をたたえた器が角に置かれ、これもまた、垂直に組まれた枕木の、四角ばかりの構図の中で、いいアクセントとなっています。這って広がる明るい緑のグラウンドカバーは、ペルシカリア‘ニードルハムズ・フォーム’。ヒメツルソバよりも柔らかな雰囲気で、小さな花が株一面に咲いていました。ここはかなり日陰の庭で、そのため、日陰でもよく見える明るめの花や葉の植物が選ばれています。 近くで見ると葉の形が特徴的な、ペルシカリア‘ニードルハムズ・フォーム’。 枕木の使い手となったミーンは、今度は「枕木のミーン」というあだ名を得ました。その後、庭における枕木の使用はオランダ国内で真似されて、どんどん広まったそうです。日本でも枕木を使った住宅のエクステリアやガーデンデザインを見かけますが、その始まりはミーン・ルイスだったのですね! 〈シェイド・ラビング・ボーダーズ(日陰の花壇)〉(1960年製作、国定記念物) 右手のメタセコイアの下が、セイヨウイボタの生け垣に仕切られた日陰の花壇。 〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉と〈サークル・イン・ザ・ウッド〉の間に通る幅広の道は、木々に日差しを遮られてひんやりしています。〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉で見たメタセコイアをはじめとする高木が森のようで、ガーデンは自然の一部なのだなと感じる空間。 この道に沿って、セイヨウイボタの生け垣に仕切られた、日陰の花壇が作られています。この花壇は〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉の一部として作られたもので、日陰で育つ、強くて育てやすく、花がある程度長く咲く宿根草を試す場となりました。もともとは日向の場所でしたが、両側の木々が育つにつれ、半日陰から日陰の場所となりました。生け垣にセイヨウイボタが使われているのは、大きく枝を広げる木々の下でも育つため。花壇には、多種のホスタやカンパニュラ、アネモネ、ルドベキアなど、さまざまな宿根草が混植されていました。 〈サン・ボーダーズ(日向の花壇)〉(1960年製作、国定記念物) 左右の生け垣も実験の一部。高さと木の種類を変えて作られています。左は落葉するセイヨウシデ、右は常緑のヨーロッパイチイ。 この花壇も〈スタンダード・ペレニアル・ボーダー〉の一部として作られたもので、日向に咲く、丈夫で育てやすい宿根草の実験が行われました。庭の小部屋と小部屋をつなぐようなシンプルなエリアで、両側にある背丈より高い生け垣によって周囲の景色が遮られているため、見る者の意識が自然と、奥の開けたガーデンに集中します。朝早い時間だったためかまだ薄暗く、植物たちはしっとりと落ち着いた印象でした。 植栽は、はっきりとした明るい花色の宿根草が選ばれているとのこと。左奥に見える、風に揺れる細長い白い穂は、日本でも見かけるサラシナショウマ。その株元では紫のつぼみをつけた矮性のアスターやセダムが小道を縁取り、右奥には、フジバカマの仲間、ユーパトリウム‘ベイビー・ジョー’の花が、ちょうど見頃でした。 〈ポンド・ウィズ・リード(トキワススキの池)〉(1960年製作) 四角い池の大きさは2×3m。Tatyana Mut/Shutterstock.com 〈サンクン・ガーデン〉から〈サン・ボーダーズ〉の生け垣の間を抜けると、背の高いトキワススキが大きく茂る〈ポンド・ウィズ・リード(トキワススキの池)〉があります。小さな長方形の池とテラスを、トキワススキがダイナミックな緑のスクリーンとなって引き立てる、小さな空間です。 池には直立的なホソバヒメガマが生え、初夏には白花のスイレンが浮かびます。Tatyana Mut/Shutterstock.com この庭は、1960年代に市場に出た、プラスチック製の「池」を実験するためのものでした。製作時に「池」として設置されたプラスチック製の四角い容器は、およそ60年経った今もそのまま問題なく使われているとのことで、その耐久性に驚かされますね。池の3辺は水際まで芝生を生やし、残る1辺はテラスの敷石を水の上に少し出すことで、池の縁をうまく隠しています。 〈シティ・ガーデン〉(1960年製作、国定記念物) 第二次世界大戦後、町では小さな庭のある家が次々と建てられるようになり、一般の人々も時間的余裕が生まれて、庭やガーデニングに関心を寄せるようになりました。ミーンがここに作ったのは、町で見られる平均的なサイズ(6×10m)の小さな庭、〈シティ・ガーデン〉です。この庭も周囲を生け垣に囲まれて、屋外の小部屋のようです。赤い色に導かれ、飛び石をたどって中に入って行きました。 この庭では、敷石の小道が斜めに配置され、導かれる視線の先に樹木が1本植わっていますが、これはミーンが考案したデザイン上の工夫です。ミーンが庭を広く見せるために見つけた原理は、次のとおり。 斜めのラインを取り入れると、庭が広く見える。樹木を1本植えると、奥行きが生まれる。高さの違う生け垣や塀を配置すると、「長細い庭」に見えなくなる。芝生が端から端まで続くようにすると、庭が広く見える。飛び石の間も芝生を生やすと、小道によって芝生が分断されない。 小さな庭でも、デザインによって平凡でないものが作れるということを、ミーンはこの庭で示しています。 中央付近で振り返ると、赤いフクシアの花とベンチの座面の赤がなんともおしゃれ! 背景のフェンスの高さや椅子の配置、芝生の緑……絶妙なバランスです。よく見ると、右側のミズヒキの赤い穂も色を添えています。 一般家庭の庭を想定している〈シティ・ガーデン〉では、丈夫で育てやすい宿根草が花を咲き継ぐように選ばれていて、また、建材も安価なものが使われています。 左/生け垣の外から見た景色。右/シンボルツリーのように枝を広げるモクゲンジ。 幹肌が苔に覆われた木は、モクゲンジ。袋状の実をつけていました。夏には鮮やかな黄色い花を咲かせ、秋には黄色く紅葉する樹木です。日本では庭木としてあまり使われませんが、ミーンは小さな庭に向くと選んだようです。プラスチックの蓋がついた地面の赤い枠は何かと思ったら、子ども用の砂場。まさに一般家庭の庭ですね。左端の植木鉢にもバーベナの赤花が咲いて、緑に引き立っていました。 このエリアに入って出るまで10歩程度。シンプルなのに見飽きない、親しみを覚えるガーデンでした。シンプルだからこそ、タイムレスな美しさがあるのでしょう。 〈ガーデン・オブ・スクエア(正方形の庭)〉(1974年製作、2014年修復) 〈シティ・ガーデン〉に隣接するのは〈ガーデン・オブ・スクエア(正方形の庭)〉、70年代に作られた庭です。名前の通り、正方形が基本となる庭。正方形の敷石が敷き詰められ、前編でご紹介した〈ウォーター・ガーデン〉と同じく、芝生はありません。正方形の植栽スペースや、正方形の箱のような生け垣、正方形に切り取られた池があって、一番奥には、一段高くなったテラスにひさし付きの木製ベンチが置かれています。直線から成る整理された空間に、さまざまな植物がオブジェさながらに配置されて、美術展示のようです。 正方形の敷石の目地は、約2cm幅と広めです。そこにコケが生えて、格子状のラインがよりはっきりと分かるようになっています。大小の正方形を組み合わせたデザインが、ここでもモンドリアンの絵画を思わせます。正方形の植栽スペースはどれも同じサイズで、奥に見える池だけが、大きな正方形となっています。右手の白い壁の上には、こちらを見下ろしているような女神像がありますが、あの高さから眺めたら四角の配置が一目瞭然なことでしょう。 手前の植物は、黄花を咲かせる、草丈60cm程度のアキレア ‘ムーンシャイン’。その奥の細長い葉は、コアヤメ(シベリアアヤメ)。池の向こう側には、ソリダゴ ‘ファイアーワークス’が黄色の花をたっぷり咲かせています。植栽は、モンドリアンの3原色の絵画と同じく、赤、黄、青の花が咲く宿根草のみが選ばれています。 池のそばから左手を見ると、フェンスのように仕立てられたモミジバフウが緑の帯状に葉を伸ばし、見る者の視線を遮って、隣の庭との仕切りとなっています。その株元付近にも3つの四角い花壇があって、手前から奥に、ゲラニウム・マグニフィカム、コンパクトなルドベキア‘ゴールドストラム’、キレンゲショウマが植わっています。低いものから高いものへ、奥にいくほど草丈が高くなっていることで、遠近感を感じます。 このエリアの中央付近には、見慣れない実をつけた樹木が植わっています。直線で統一されたデザインの中で、波打つ幹が引き立っていました。この樹木は、赤みがかった実が香辛料として利用されているウルシ科のスマック(ルース)。紅葉が美しく、ヨーロッパの庭園ではよく使われる樹種のようです。植物選びも凝っていると感じました。 この庭を訪れた同行のガーデナー、新谷みどりさんは、こう振り返ります。 「この庭は予備知識を入れずに訪れるのも、しっかり勉強してから見るのもどちらも意味のある稀有なガーデンだな、と改めて思います。永遠に変わらないものと常に進化し続けるものが共存する庭だからなのでしょう。サークル・イン・ザ・ウッドに時折光が射し込む風景に感動したのを思い出します。木の実が落ちて、その音が少し響く感じがたまらなかったです」 後編に続きます。前編はこちら。 参考資料:https://www.tuinenmienruys.nl/en/ Many thanks to Mien Ruys Garden Foundation. 執筆協力/新谷みどり
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【オランダの庭】 モダンガーデンデザインの先駆け「ミーン・ルイス庭園」<前編>
20世紀のオランダ庭園史を体感する庭 1924年、ミーン・ルイスが初めてつくった庭〈ウィルダネス・ガーデン〉。 オランダの首都、アムステルダムから東に車で2時間ほど行ったデデムスファールトの町に〈テイネン・ミーン・ルイス(ミーン・ルイス庭園)〉はあります。20世紀を生きたミーン・ルイス (Mien Ruys, 1904-1999) は、オランダを代表する庭園建築家(ガーデンアーキテクト)、また、景観建築士(ランドスケープアーキテクト)として、70年にわたりこの地で実験を続け、オランダ各地の庭園設計に携わりました。 20世紀オランダを代表する庭園建築家ミーン・ルイス。Photo: Fred Zandvoort ミーンは今から約100年前に、当時まだ珍しかった宿根草を使った花壇づくりにいち早く取り組みました。この流れはやがて、現代オランダの世界的ガーデンデザイナー、ピート・アウドルフが牽引する〈ニュー・ペレニアル・ムーブメント(新しい宿根草の動き)〉につながります。また、ミーンは、直線や斜線、円から成る、シンプルだけれど効果的な幾何学模様をデザインに取り込んだり、鉄道の古い枕木を利用してステップや間仕切りにしたりと、次々と新しい要素にチャレンジしました。そういった彼女のアイデアは、多くの人々に取り入れられて広まり、今のガーデンデザインにも残されています。 ミーン・ルイス庭園はかつて、ミーンの両親が暮らし、ナーセリーを営んだ場所でした。1976年からは非営利団体のミーン・ルイス庭園財団によって管理され、一般公開されています。ミーンが植栽やガーデン建築の実験を行い、試行錯誤を続けたこの庭園は、20世紀のオランダ庭園史を生きた形で目にし、体感できる場所。彼女がデザインした庭の多くは国や自治体の記念物として認定を受け、当時からほぼ変わらない姿で残されています。また、庭園では、ミーンの志を継ぐガーデナーたちによって、今もさまざまな実験が続けられています。 左上/公道に掲示された庭を示す看板。右上/庭のエントランスに向かう道は森の中のよう。左下/奥へ進むと小川にかかる小さな橋と入り口を示す小さな看板(右下)が。 さて、朝一番で向かうミーン・ルイスの歴史的な庭。どのような景色が広がっているのか、期待に胸を躍らせながら庭園に続く小道を進みますが、辺りは木々が生い茂って、森の中を歩いているようです。入り口はどこ? と思いながら行くと、小川に小さな橋がかかっていました。手前には控えめな「入り口」の表示が。日本から同行するガーデナーから「なんて控えめで可愛い入り口! もうここからワクワクしちゃうね」という声が上がり、期待が高まります。 ミーンの父、〈モーハイム・ナーセリー〉を営むボンヌ・ルイスは、時代に先駆けてガーデン用の宿根草の交配に取り組み、カンパニュラなどの新しい優良品種を生み出して、20世紀初頭のヨーロッパ園芸界で注目を集める存在でした。一方、娘のミーンは、植物の育種より、庭の中で植物をどう使うかに興味を持ち、19歳から父の会社のデザイン部門で働き始めます。しかし、1920年代当時、ガーデンデザインを学べる学校などはなく、彼女は英国に行って、父の友人であった伝説的ガーデンデザイナー、ガートルード・ジーキルに手ほどきを受けたり、ドイツのベルリンでガーデン建築を学んだりしました。 1924年、ミーンは両親の家の裏手にあった果樹園に初めての庭をつくり、それから70年にわたって、この地でデザインのアイデアを形にしたり、新しい宿根草を試したり、新しい建材を使ってみたりと、実験を続けます。この庭園には、彼女の飽くなき探求心が刻まれています。 右/ミルストーン・ガーデン。木漏れ日に水面が輝いています。奥の生け垣にはカシワバアジサイの紅葉が見られました。 右手奥の方向に庭が広がっていることを感じながら、小道をさらに進むと、ガラス温室の建物が見えてきました。その手前に、人々を出迎える庭があります。〈ミルストーン・ガーデン〉(1976年製作、2008年改修)です。 丈高く茂る竹が背景となるスペースに、大小の石材が正方形に敷かれ、その中央に、水を湛えた丸い石臼が置かれています。和の庭の手水鉢のような佇まい。この石臼は、中心から静かに水が湧く水盤に細工されていて、縁から溢れた水は小石の間に吸い込まれていきます。そして、その向かいには、黒いフェンスを背にギボウシの植わるスリムなコンテナが5つ並んでいます。この庭のオリジナルのデザインは、ミーンが設立した設計事務所に属していたデザイナー、アレンド・ヤン・ファン・デル・ホルストによるものだそうですが、和モダンの雰囲気が感じられるデザインです。 左/ワイン瓶がツリーのように配置されたアート作品のようなフラワースタンドには、先が尖った楕円形のルナリアのタネがたっぷりと。ローズヒップも彩りになっています。 建物に入ると、ガーデンツールなどの販売コーナーやストーブを備えたカフェがあり、あちこちに、庭からの恵みかしらと思われる草花や種子がディスプレイされています。この建物を出ると、いよいよ庭めぐりが始まります。敷地のマップには、全部で30もの番号が! 約2.5ヘクタールのこの広い敷地につくられている庭の番号だそうです。迷子にならないよう、庭を巡っていきましょう。 ガーデン敷地図の左下から右へ行き、上へと進みます。 〈オールド・イクスペリメンタル・ガーデン(旧実験庭園)〉(1927年製作、国定記念物) 右側が日向に咲く宿根草の花壇。 カフェのテラスから木柵の向こうへ回ると、ミーン・ルイスがごく初期に手掛けた、この庭園で2番目に古い庭となる〈オールド・イクスペリメンタル・ガーデン(旧実験庭園)〉があります。この場所はもともと、ミーンの暮らした実家のキッチンガーデンでした。ミーンはイギリスの伝統的なボーダーガーデンに倣い、この庭の片側に奥行4m、幅30mの細長い花壇(ボーダー)をつくり、父の会社で交配された、日向に咲く宿根草を試す場としました。 若い頃のミーン・ルイス。Photo: Mien Ruys Garden Foundation 花壇の後ろには敷地を区切る縦格子の木製フェンスがあり、花壇の手前には、2列に並べられた敷石で小道が作られています。フェンス・植物・敷石の対比がくっきりと浮き立つデザインです。 敷石に使われているのは使い古されたコンクリート平板で、表面が削れて中の砂利が見え、いい風合いとなっています。ナーセリーで使われていたものを流用したといわれており、ミーンはのちに、これをまねて〈グリオンタイル〉と呼ばれる洗い出し平板の敷石を作ることになります。 ベンチはいつまでも座って景色を眺めていたくなる特等席。庭が美しく見える場所に置かれています。 ミーンにとって、庭のデザインは植栽同様に大切なもので、コントラストを意識していました。この庭では、片側に明るい花色の直線的な花壇を置き、中央には広い芝生のオープンスペースを設けて、反対側には波打つような生け垣を形作る灌木の植え込みを配しています。光と影、直線と曲線の、2つの対比が存在するデザインで、光の中にある花壇は明るく色鮮やかですが、日陰に植わる灌木は深い緑の陰を作ります。太陽の動きとともに、光と影は刻々と変わり、庭の景色が変化します。また、敷石の小道を歩くか、真ん中の芝生を歩くかによっても、目に映る景色に変化が生まれます。 左/花壇越しに、芝生エリアとその奥の灌木を望みます。灌木の茂みは、春になれば花色の彩りが。右/芝生エリアの中に、小島のように植えられたグラスの茂みは2つ。 庭の片側に伸びる花壇はかなり大きく、大邸宅でガーデナーを雇って管理するようなサイズのものです。ミーンが英国で教えを受けたガートルード・ジーキルは、色彩を重視した花壇の植栽を発展させた人物ですが、ミーン自身も何年にもわたって、色彩の実験を繰り返したといいます。アスチルベ、ユーフォルビア、カンパニュラ、ヘメロカリス、アスター、サルビア、ソリダゴ、デルフィニウム……。約80種の宿根草が植わるこのボーダーの植栽デザインは、制作当初からほとんど変わらないそうで、色鮮やかな、黄、オレンジ、赤、青、紫の花々が、5月半ばから9月まで咲き継ぎます。ピークは6月から8月の夏の時期で、訪れた10月上旬は色が少ない印象でした。植物は姿にもコントラストを持たせて面白みを出していますが、花がたくさん咲くピーク時の花壇もぜひ見てみたいものです。 庭の外から〈オールド・イクスペリメンタル・ガーデン〉の花壇奥側を見たところ。光と影が感じられる景色。 〈ウィルダネス・ガーデン(原生自然の庭)〉(1924年製作、国定記念物) この庭は、1924年、ミーン・ルイスが初めて手掛けた記念すべき庭で、ミーンの暮らした実家の裏手にあった果樹園の中に設計されました。目に飛び込んでくるのは、自然のままに生い茂る豊かな植栽です。この庭を訪れた10月上旬は、ルナリアの小判形をした半透明のタネが宙に浮かんで、濃い緑と美しい対比を見せていました。 ミーンは果樹園に生えていた数本のリンゴと洋ナシ以外のすべてを取り除くと、初めての「ガーデン建築」に取り組みました。まず思い描いたのは、思うままに植物が茂る豊かな植栽。そこにコントラストをつけるため、真四角の池と直線の小道というシンプルな構造物を加えました。小道はかつて、家とナーセリーをつないでいたもので、そこにもう1本の、ベンチへと続く行き止まりの小道がT字に配されています。そして、2本の道が交差する地点に、センターポイントとなる真四角の池があります。 緑の生い茂る植栽と、池や小道の直線が美しいコントラストを見せています。豊かな植栽と、構造物の描く幾何学模様。この対比はミーンのデザインにおける出発点であり、やがて、彼女のトレードマークとなっていきます。 ミーンは当初、この庭に、日陰を好むプリムラやオダマキ、カンパニュラ、ケマンソウなどを植えました。しかし、周囲の高い木々に日が遮られたこの場所は、これらの植物にとって光の量が足りず、また、このデデムスファールトの酸性土壌にも合いませんでした。これらはアルカリ性の白亜質土壌でよく育つものだったのです。植えた草花はすべて1年もたたないうちに消えてしまい、その現象は、ミーンに一つの教えをもたらします。「これからどうしたらよいのか? 選んだ植物に適した土壌に変えるのか、それとも、その土地の土壌に合わせて植物を選ぶのか。当然、後者だ!」。 古いセメント石板を用いてつくられた池と小道。 こうしてミーンは、この地の酸性土壌に合うような、ホスタやキレンゲショウマ、ヤグルマソウなどを選び直して植え、あとは茂るに任せました。これらはうまく育って、ミーンが思い描いた通りに自然に生い茂り、庭を埋め尽くします。そこに雑草が生える余地はなく、結果、雑草取りの必要がないローメンテナンスな庭となりました。また、樹木の落ち葉によって腐葉土ができるため、肥料をやる必要もありませんでした。ミーンはこれを「抑制された原生自然」と呼びました。 この庭の長い歴史に感動しながら、緑を映す水面を眺めました。 このガーデンデザインは一度も変えられたことはありません。1960年代に、嵐でリンゴとオークの木が倒れて新しいものに植え替えられた時は、光の量や湿度条件が変化してバランスが崩れてしまい、雑草が生えることもありましたが、しばらくするうちに戻ったそうです。 最初につくった庭がこんなに完成度の高いものだなんて、ミーンはきっと、生まれついてのガーデナーであり、ガーデンデザイナーだったのですね。 同行のガーデナーの一人、新谷みどりさんが、この庭を訪れた瞬間の感動をこう語ってくれました。 「ウィルダネス・ガーデンは、20代の頃に白黒の恐ろしくピンボケの写真を初めて見て、何か強く心惹かれた庭だったので、あの場を訪れることができたときは、なんとも言えない気持ちで胸がいっぱいになり、涙が出そうでした。初めて来たのに、ずっと昔から知っている庭のように感じて不思議でした」 20世紀、モダニズム建築の流れ 右/家具デザイナーとしてのリートフェルトの代表作「赤と青の椅子」。左/PGMart 右/Picture Partners/Shutterstock.com ミーンが仕事を始めた1920年代は、建築の世界に大きな転換期が訪れた時代でした。19世紀以前の伝統的な様式建築から離れ、機能的・合理的な造形理念に基づいたモダニズム建築(近代建築)の考えが成立していったのです。ル・コルビジェやミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライトといった建築家や、ドイツの芸術学校バウハウスが推進役となり、世界各地で、鉄やガラス、コンクリートなどの工業製品を使った、合理的でシンプルなデザインの建築が生まれました。 1924年にリートフェルトが設計した世界遺産の〈シュレーダー邸〉。オランダ、ユトレヒト市内。左/Wirestock Creators/右/Rini Kools/shutterstock.com 1930年代の数年間、ミーンはデルフトで建築を学びますが、その後、アムステルダムの〈8(アフト)〉とロッテルダムの〈Opbouw(オップバウ)〉という建築家グループの作品に共鳴し、協力するようになります。彼らの設計する、光と風通しのよい、大きな空間のあるシンプルな建物を、美しいと感じたのです。このときミーンは、20世紀オランダを代表する建築家で家具デザイナーのヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld, 1888-1964)にも出会います。彼は画家のピート・モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)らと芸術運動〈デ・ステイル〉(オランダ語でスタイルの意味。新造形主義)に参加した人物です。デ・ステイルの「垂直線と水平線、白、黒、グレーと3原色で構成される」という特徴は、のちに多くの芸術分野に影響を与えています。 こうして、モダニズムの流れをくむ、シンプルで明快な建築を設計するオランダの建築家たちと組んで、ミーンはその後、個人邸だけでなく、共同住宅の共有ガーデンなども設計することになります。 〈ウォーター・ガーデン〉(1954年製作、2002年改修、国定記念物) 庭の中央に流れる小川を跨ぐ石の橋は、高さがなくフラットな造り。小川の水は、レイズドベッド(高さのある花壇)の途中に設けられた水場に注がれます。 この庭は、第二次世界大戦後につくられました。戦後、オランダではさまざまな変化が起き、庭はというと小さくなって、ガーデナーが雇われることもなくなりました。手入れを必要とする大きな花壇は時代に合わなくなったのです。重要なのは手間がかからないこと。求められるガーデンデザインが変わったのです。 写真左側が一直線に作られた2段式のレイズドベッド。中央付近の窪んだ場所に水場があります。 ミーンはこの比較的小さなエリアに「手間のかかる芝生を使わない庭」を実験的につくりました。敷石のテラスに花の咲く花壇の小島が浮かぶようなデザインで、敷石の隙間はコケが生えるようにわざと広く取られています。時間の経過とともに緑が育って、石の硬さが和らぎ、緑と石がバランスよく共存しています。また、生け垣や2段式のレイズドベッド(高さのある花壇)で高さに変化がつけられ、日向と日陰のコントラストも考えられたデザインとなっています。 天然石を積んだレイズドベッド。その角を隠すように葉を茂らせるのは、ベルゲニアやゲラニウム。右奥は赤花のフクシア。ヨーロッパイチイの生け垣が濃い緑の背景に。 この庭がつくられた頃は戦後の物資不足で、敷石として使えるレンガや自然石がほぼ流通していませんでした。代わりにコンクリートが建築では多く使われるようになりましたが、庭づくりでは魅力的な建材とは考えられていませんでした。しかしミーンは、以前の庭で敷石として使った、古びて表面が削れ、中の砂利が見えるようになったコンクリート平板を、なかなかいい風合いだと思いました。そこで、セメント工場に頼んで、表面に砂利を散らしたコンクリート平板(日本でいうところの「洗い出し平板」)を作ってもらい、敷石としてこの庭に使いました。1970年代以降、この平板に似た商品が〈グリオンタイル〉と名付けられ、世の中に多く出回るようになりました。 この庭の実験的要素は建材だけでなく、植栽にも見られます。2段式のレイズドベッドには、乾いた場所に適した植物を植える一方で、水場周辺の湿った場所には、水辺や沼地に育つ、ミズバショウに似たオロンティウム・アクアティクムのような植物を植えてあり、対照的な植栽が隣り合っています。また、管理の楽な、支柱のいらない背丈の低い植物を選んだり、冬場の景色が寂しくならないように常緑の灌木を庭の骨格として植えたりと、よく考えられた植栽となっています。晩秋のレイズドベッドでは、シュウメイギクやセダムのくすんだピンクの花が優しい彩りを添えていました。 中編に続きます。 参考資料:https://www.tuinenmienruys.nl/en/ Many thanks to Mien Ruys Garden Foundation.
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オランダ
オランダ「ヘット・ロー宮殿」と「キューケンホフ」の庭【世界のガーデンを探る旅10 】
前回までフランス式庭園についてご紹介してきました。フランス革命(1789年)により、かのマリー・アントワネットも処刑され、時代は貴族から庶民へと移り、ナポレオンの出現(1799年)によりヨーロッパは大きく動きました。ヨーロッパ中の憧れの的であったフランス式庭園は、イギリスをはじめ、あちこちでつくられるようになっていました。その動きがドーバー海峡を渡る前に、もう少し大陸の中の庭園のお話をしましょう。 オランダ王室の夏の離宮「ヘット・ロー宮殿」 15世紀、バスコ・ダ・ガマやコロンブスなどの活躍で大航海時代が始まりました。ポルトガルやスペイン、16世紀には、オランダやフランスも加わって、17世紀に入るとオランダ、イギリスが世界の海を支配し、世界中の富がそれぞれの国へ集まってきました。オランダでは、16世紀にトルコで見つかったチューリップが引き金になって、「チューリップ狂時代」が始まりました。 今回ご紹介する「ヘット・ロー宮殿」も、オランダ大航海時代に、オランダ王室の夏の離宮、狩猟の場所として1684年に建てられ、1975年まで実際に使われていました。広大な庭園は幾何学模様のバロック式庭園です。オランダ人の友達から聞いた話ですが、ナポレオンがフランスから攻め上がってきた19世紀初頭に、その素敵な庭園をナポレオンに見られるのが悔しくて、なんと埋めてしまったそうです。その後、近年になって庭は掘り起こされ、当時のままの姿に再建されて、1975年から貴重な博物館として一般公開されています(2018年1月8日から2021年頃まで宮殿の博物館部分は改修工事のため休館予定。工事期間中は、4〜9月のみ、庭園と厩、レストランのみ一般公開)。 アッペルドーン郊外の森を背景に、宮殿の各部屋の窓から遠くに見下ろす広大な幾何学模様の整形式庭園。きれいに低く刈り込まれた緑一色の草ツゲの間に、色砂利を敷き詰めて彩りを見せています。 春限定の公開庭園「キューケンホフ」 オランダにはもう一つ、必ず訪れてほしい庭があります。それは春の季節にだけ開園する「キューケンホフ」です。 3月中旬から5月中旬の春の間だけ一般公開されるこの庭は、あまりにも有名で、世界中から観光客が押し寄せます。元々ここは、かつてはハーブを育てていたことから「キューケンホッフ(台所の畑)」と呼ばれるようになりました。1949年に「キューケンホフ」があるリッセ市の市長のアイデアにより、球根を使った庭のコンテストが開催されたことをきっかけに、現在のような素晴らしい庭になりました。 実は、この場所は個人の持ち物で、リッセの球根生産者が春の期間だけ借りて、地域の自慢の球根や新品種を植え込んで、商談を進める見本市の要素も持ち合わせているのです。ですから、春の季節が終われば静かな森に戻ります。僕も以前、このキューケンホフで、鳥取の花回廊の寄贈による日本庭園をつくったことがありました。つくった当初は球根は植え込まれていなかったのですが、やはりそこはオランダ。翌年からは、球根で花いっぱいになっていたのです。 リッセ市のカラフルな球根畑 ここリッセは、球根の世界的産地でもあります。キューケンホフへ行くまでに、色とりどりの球根による縞模様の畑を見ることができます。この地域でなぜ球根栽培が盛んなのかというと、すぐ西側が砂丘になっている砂地であること、また偏西風が球根栽培に向いているためだと思われます。 球根の熟成のため、満開になってから花摘みをするので、毎年花のカーペットがリッセ市中に出現します。ただまったく平らな土地なので、空撮でなければこの壮大な景色を見ることはできません。 ムスカリとスイセンのあとは、ヒヤシンス。色合いはぐっと落ち着いて、よい香りが園内に溢れます。 そしていよいよ主役のチューリップが咲き始めると、世界に類を見ない光景で観光客を驚かせます。 球根でいえば、チューリップが終わると百合の季節ですが、ここではヨーロッパブナの芽吹きが始まって、黄緑色の世界が静かに広がり、それまでの華やかさとは打って変わって静かな公園に戻るのです。