まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー

「ノヴァーリス」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
‘ノヴァーリス’登場 バラ‘ノヴァーリス’が我が家にやってきたのは、6年ほど前のこと。それまで青色がかったバラで、花弁の多いクラシカルな花は少なかったので、バラ園のカタログで写真を見て、すぐさま裸苗を取り寄せた。 名前にブルーがつく青色系統のバラは耐病性が弱く、いささか敬遠していたが、‘ノヴァーリス’は丈夫だという。確かに枝を大きく伸ばして、たくさんの花を付け、我が家のバルコニーでもひときわ華やかな存在となった。 バラの宴に訪れた友人たちの何人かがノヴァーリスと聞き、「ああ、『青い花』の作者ね」と、私にバラの名前の由来を教えてくれた。 詩人、ノヴァーリス ノヴァーリス(Novalis, 1772-1801)は18世紀ドイツ初期ロマン派を代表する詩人、小説家。ドイツ中央部に広がるチューリンゲンの森の東側に位置する、オーバーヴィーダーシュテット(現ザクセン=アルハルト州)に生まれた。本名フリードリッヒ・フォン・ハルデンベルク。その出自は12世紀まで辿ることができる貴族だという。 最初に発表した著作、断想集『花粉』から、ノヴァーリスというペンネームを用い始めた。遠い祖先に「デ・ノヴァーリ」という人物がいて、その名前にちなんだという。ラテン語で「新しい耕地を拓く人」を意味し、ノヴァーリス自身、友人への書簡で「まったくそぐわない名前ではない」と述べている。「新しい文学を拓く」という気概を感じさせる命名だった。『花粉』という題名についても、断想によって文学的思考の種子を播き、それが読み手に伝わり新たな果実を生み出す、という思考の連鎖を暗喩している。 私にとって興味深いのは、ノヴァーリスが詩や小説、さらに哲学的な命題においても、象徴としてしばしば植物を用いていることだ。 「植物は大地がじかに話しかけてくれる言葉」であり、「花は無限の生命のあふれるばかりの豊かさ、将来の大きな力、この世の終末の壮麗さ、万物の黄金の未来」(岩波文庫『青い花』 青山隆夫訳)と、作品の中で主人公に語らせている。 小説『青い花』 ノヴァーリスの代表作とされる『青い花』は、1802年に発表された。原題は『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』と主人公の名前になっている。未完の小説ながら、ドイツロマン派の代表作で、のちに続く文学者に大きな影響を与えた作品とされる。 20歳の青年ハインリヒは夢に現れた青い花を求めて旅に出る。その旅の途中に出会った人々が提示する経験談や啓示に導かれ、青年は自己に目覚め、一人の詩人として成長してゆく。夢の中の青い花はまた、花弁の奥に女性の顔を浮かび上がらせた。それは旅の終わりに出会う女性の面影でもあり、愛を求めるさすらい旅の様相も呈している。 詩の言葉で語られる「無限なるもの=永遠」を求める主人公の物語は、夢と現実の境界を行き来し、時として読者を翻弄する。だが、永遠への憧憬、自然への洞察、神秘的な愛、それらが知への好奇心を刺激し、ある種の心地よさをもたらしてくれる。 ノヴァーリスの城 ノヴァーリスが生まれ、13歳までを過ごしたオーバーヴィーダーシュテットの城は、かの地に現存している。所有者が何度も替わり、1988年には建物解体の危機に瀕した。だが近隣の住民たちの尽力で城は維持され、翌年には建物の1階にノヴァーリス記念館が開設された。 現在は「ノヴァーリス記念館」のほか「国際ノヴァーリス協会」「初期ロマン主義研究センター」「ノヴァーリス財団」と、4つのノヴァーリス関連の団体が入り、ノヴァーリスの先祖ゆかりの品の展示室や図書6,000冊を有する図書館が一般に公開されている。 城の敷地内にはノヴァーリスの父親が1770年に家族の結婚式のために植えた菩提樹の並木を復元した散策路(当時の木が5本だけ残っていた)や公園があり、公園の中のブルーガーデンでは、さまざまな青色の花が咲き乱れる。城のテラスの周りにはノヴァーリスの小説の中に登場するメルヘンにちなみ、おとぎ話に関連したバラ16種、500本が植えられている。また城に近い庭では、バラ‘ノヴァーリス’が燦然と輝き咲くのが見られる。 バラ‘ノヴァーリス’ ‘ノヴァーリス’は2010年にドイツの育種家コルデスのナーサリーで作出された。コルデスではその花色を「濃いラベンダー色」と称している。先端が尖った独特の花弁を持ち、10cm近くの大輪の房咲きとなる。樹形は直立性で、樹高は1~1.5m。春、秋ともによく返り咲き、我が家では11月の今も、たくさんのつぼみを付けている。 現在あるブルー系のバラの中では最も丈夫で育てやすいとされる。ティーの香りが爽やかで、29歳の若さでこの世を去った詩人ノヴァーリスの肖像画に残る端正な面差しを重ねると、このバラがいっそう魅力的に思われる。 Information Novalis Museum Schloss Oberwiederstedt 住所:Schafergasse 6 06456 Amstein OT Wiederstedt Garmany 電話:+49 (0)3476-85-27-20 Fax:+49 (0)3476-85-27-27 E-Mail:schloss-oberwiederstedt@t-online.de HP:www.novalis-gesellschaft.de 開館:火~日曜日 10:00〜16:00 入場料:大人5ユーロ、子ども(6〜14歳) 3ユーロ *2020 年11月1日~11月末まで新型コロナウィルスの影響で休館
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「シャリファ・アスマ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
香りのバラ 秋バラの季節。我が家のルーフバルコニーでひときわ華やかに咲いているのが、‘シャリファ・アスマ(Sharifa Asma)’。フルーティな香りが辺り一面に広がり、バルコニーでも1、2を競う香りのバラだ。作出者は、白ブドウの香りをイメージしたという。 名前の由来 20年ほど前に我が家に苗がやってきた当初、その不思議な名前の由来が分からず、ミステリアスな存在だった。作出したデビッド・オースチンのナーセリーからその由来が明かされたのは、数年前のことだ。 「シャリファ・アスマ」は、アラビア半島に位置するオマーン国の王女の名前だという。王女の夫から誕生日のプレゼントとして、新たに誕生したバラにその名が授けられた。 名前の命名権 バラの名前の由来には、大きく分けて2通りある。 まずは、新品種を作出した人が、自ら命名するケース。家族の名前、尊敬する人物、詩や小説の主人公、さまざまな芸術分野からなど、人物の名前も数多い。 また、花の色や形態からイメージして名付けられることも少なくない。 もう一つは、命名権が販売されるケース。‘シャリファ・アスマ’のように、愛する人にバラの名前を贈ることができるのだ。 ベルギーのバラのナーセリーを訪れた時、「まだ名前のないバラ」を紹介されたことがある。温室の中のそのバラは、ランブラーのかなり大きく育った苗だったが、命名権が売りに出されているのだという。当時そのことを知って感銘を受けたが、命名権の値段を尋ねることまでは思い至らなかった。あのバラの名前は、どんな人に、どのような値段で買い取られたのだろうか。 王女、シャリファ・アスマ オマーン国の王女、シャリファ・アスマとは、どんな人物なのか? バラの名前の由来が分かってから、ずっと気になっていた。アラビア諸国では、女性が表舞台に登場することが少なく、いろいろ調べても不明だった。在日オマーン・スルタン国大使館の広報官や、本国の広報ディレクターに尋ねてもその人物にたどり着けず、いまだ存在は霧の中にある。 2人の王女 私がオマーン国に関心を寄せるのには、もう一人の王女の存在がある。かの地には、日本人の母親を持つ王女がいるのだ。2020年1月に亡くなったカブース国王の祖父、タイムール元国王と日本人女性との間に生まれたブサイナ王女。 1932年に息子に王位を譲った後、アジアを旅行中のタイムール元国王が、神戸で大山清子さんと出会い、ふたりは恋に落ちた。やがて女の子、ブサイナ王女(日本名、節子)が生まれ、家族は神戸で暮らしていた。だが王女が3歳の時、清子さんが病で亡くなり、元国王は王女をオマーンで育てることに決めたという。 知人の『週刊朝日』の記者、下村満子さんが1973年に現地でブサイナ王女にインタビューを試みている。その記事を読み、また下村さんから話を聞き、私は彼女の数奇な運命に思いを馳せた。その後、王女は日本への思いを募らせ、5年後に母親の墓参に来日している。82歳になる王女の現在もまたベールに包まれているが、オマーンが親日国として知られるのには、こうした歴史背景があるからかもしれない。 シャリファ・アスマ王女とブサイナ王女。オマーン国の2人の王女のことを思い起こさせるバラ‘シャリファ・アスマ’。ちなみに、オマーンの国花は赤いバラだ。 バラ‘シャリファ・アスマ’ 1989年、イギリスのデビッド・オースチンによって作出された、イングリッシュローズの名花。花の中心部がピンクで、周辺に広がるにつれ、淡い色から白色になる花びらのグラデーションが美しい。オールドローズの雰囲気を色濃く持つロゼット咲きで、よく返り咲く。 葉は濃い緑色で、厚みがあり、葉脈が細かく浮き出ている。 樹形は半横張り性、1~1.5mの中低木で、鉢植えでも育てることができる。香りはイングリッシュローズの中でも際立ってフルーティで、香りのバラ‘ボレロ’の交配親でもある。 西アジアの野生のバラは、ヨーロッパにわたり近代バラの交配親として、その誕生に貢献している。‘シャリファ・アスマ’の中にもアラビア半島原産のバラの血統が息づいているのではと、想像を逞しくしている。
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「ブラザー・カドフィール」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
‘ブラザー・カドフィール’登場 鮮やかな濃いバラ色で、大輪の花をいくつも咲かせ、我が家のバルコニーでもひときわ目を引く‘ブラザー・カドフィール(Brother Cadfael)’。 このバラと出合ったのは20年ほど前、毎年開催されていたイベント「国際バラとガーデニングショウ」の会場だった。バラ友達に誘われて出かけたのだが、当時イングリッシュローズが実際に咲いているのを目にする機会が少なかったので、それを見るのが楽しみだった。いくつか気に入った花の名前をメモして、秋に裸苗を取り寄せた。その中の1株が‘ブラザー・カドフィール’だった。 修道士カドフェル バラの宴に我が家を訪れる客たちは、一様にこの花の名前を尋ねた。‘ブラザー・カドフィール’だと告げると、一人が「それは推理小説の主人公の名前ではないか」と言う。カドフェルという修道士がさまざまな事件を解決してゆく物語と聞いて、にわかには信じられなかった。修道士の名前を冠するには色っぽすぎる花に思えた。 半信半疑で話を聞いていたところ、修道士カドフェル・シリーズのファンだという編集者の友人が現れた。作者はエリス・ピーターズという女性で、全20巻出版されているという。その友人が送ってくれた数冊をさっそく紐解くと、その世界にどっぷりはまってしまった。 ブラザー(修道士)カドフェルは豊富な人生経験を経たのちに修道院に入り、若いカップルの恋の手助けをするなど、なかなか魅力的な人物に描かれている。12世紀のイギリスの僧院が舞台で、そこの薬草園を任されたカドフェルが、草木や花を事件解決の糸口にするのも興味深い。バラとの繋がりを探っていくと、薬草園にバラ園が含まれていることが分かる。当時バラは観賞用としてではなく、ほとんどが薬用目的で栽培されていた。 バラと推理小説 シリーズ第13巻にバラがモチーフの『対価はバラ一輪』(The Rose Rent)があり、書店でこの一冊を見つけた時、バラの名前の由来が分かるのではと、手に取った。 物語は資産家の女性が夫を亡くし、思い出の家を修道院に寄贈するところから始まる。その時の条件が、年に一度、家の庭に咲く白バラの「最高の一輪」を彼女に届けるというもの。 ある日、白バラの木が斧で切り倒され、木の根元に若い修道士の死体が横たわっていた。殺人事件を解決するカドフェル。それはバラを巡る恋の物語でもあって、奇跡的に守られたバラ一輪が女性に手渡された時、「開きかけた花びらはほのかな赤みをおびた真珠色に変わった」(大出健訳)と、心ときめくラストシーンを迎えている。 物語の作者 エリス・ピーターズ(Ellis Peters, 1913-1995)は、本名イーディス・バージター。本名で歴史小説家としてスタートし、ピーターズ名で推理小説を書き始めた。修道士カドフェル・シリーズは、1977年に始まり、作者の死で未完になった21巻まで続いている。 イギリス中西部のシュロップシャー州に生まれ、終生をその地で過ごした。物語の舞台となったベネディクト修道会のシュルーズベリー修道院もシュロップシャー州にあり、いわば彼女のホームグラウンドといえる。 バラ‘ブラザー・カドフィール’ ‘ブラザー・カドフィール’はデビッド・オースチン作出で、1990年にチェルシー・フラワーショーでお披露目された。樹高1.5~3mほどの直立性のバラで、ディープカップの大輪の花を咲かせる。春の花径は10~13cmで、秋はやや小ぶりの花になるが、よく返り咲く。 デビッド・オースチンのナーセリーは、シュロップシャーとアルブライトンの州境にあり、エリス・ピーターズとはいわばご近所同士。彼女の家の庭にも‘ブラザー・カドフィール’が咲き、晩年その花を見るのを楽しみにしていた。 苗の売り上げの10%が小説の舞台となったシュルーズベリー修道院の修復基金に充てられるという。 小説の作者や主人公がバラを愛する人物であることは分かった。だが、ひときわ妖艶なバラ‘ブラザー・カドフィール’が、骨太の修道士カドフェルであることの不思議は、いまだ霧の中だ。バラは謎を秘めたまま、毎年華やかな姿で、咲き誇っている。 Information Shrewsbury Abbey(シュルーズベリー修道院) 住所:25 Abbey Foregate,Shrewsbury,Shropshire,England SY2 6BS 電話:+44 7401 260508 https://shrewsburyabbey.com/ アクセス:ロンドン、ユーストン駅から都市間鉄道にて、クルー経由、約3時間。シュルーズベリ―駅下車、徒歩15分
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ストロベリー・グアバを育てる【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
懐かしの味 10月になってほぼ毎日、ベランダで収穫しているのが、ストロベリー・グアバの実。今年はことのほかたくさんなって、1株で50個以上の果実を得ている。20年ほど前に父の庭の木から枝をもらって挿し木した苗が、東向きのベランダで大きく育って毎年実を結ぶのだ。 私が育った伊豆の熱帯植物園では、露地の至る所に垣根のように植えられていたので、この季節になると毎日口いっぱいに実をほおばって歩いていた。いわば子ども時代のおやつで、懐かしい味となっている。 植物園は熱帯の果実が我が国でどれだけ育てられるかの研究所でもあったので、キウイやパッションフルーツ、ストロベリー・グアバなど、当時は珍しかった果実が日常のおやつだったのは、今思うと稀有な体験だった。 ストロベリー・グアバとは ストロベリー・グアバは、熱帯性の木本植物で、原産地はブラジルを中心とした南米。わが国には漢方薬の材料として大正時代初期に渡来している。バンジロウやテリハバンジロウなど「海外から来たザクロ」という意味の名前で呼ばれた。現在では英名のストロベリー・グアバとして知られている。 いわゆるグアバの木とは、同じPsidiumに属するが別種で、葉や実の大きさなどかなり異なっている。ハワイでは野生化した木が多く見られ、そのほとんどが赤色の実なので、我が家のような黄色い実の木は、イエロー・ストロベリー・グアバと呼ばれている。 幻想的な白い花 初めて我が家で花を見た時は、ちょっとした感動だった。それまではまさに「花より団子」で、開花の記憶が全くなかったのだ。花びらが見えないほどに雄しべが無数に開き、つぼみが爆発したように思えた。開花は5月から6月にかけてで、しばらくはそのトロピカルな風情を眺め、楽しむ日々を過ごした。 結実を迎える 花の先に小さな青い実が付き、やがてピンポン玉くらいの大きさに育つ。開花から2カ月から2カ月半で、青い実は徐々に黄色く色づき始める。完全に熟すと自然落下するので、完熟の少し手前で収穫して、2~3日後に食するようにしている。皮が柔らかくなったら食べ頃だ。 実を味わう 実は甘みと酸味が絶妙に入り混じった、まさにトロピカルな味。イチゴの甘い香りがするのでストロベリーの名前が付いたというのが定説だが、香りは熱帯果実そのもの。赤い実からイチゴを連想して、この名前が付いたのではないかとも思える。 私は、毎朝自家製のヨーグルトに加えて、デザートとして味わっている。ビタミンCが豊富で、風邪予防になるような気がする。生食、ジャム、スムージーのほか、ミキサーでピューレ状にしてドレッシングに用いることもできる。焼酎と氷砂糖に漬けて、1~2カ月で果実酒もできるそうだが、これはまだ試したことがない。いずれにしても完熟のタイミングで食することができるのは、自家栽培ならでは。 葉を煎じる ストロベリー・グアバは、ガジュマルの木に似た光沢のある葉の常緑樹で、観葉植物としても楽しめる。わが国に漢方薬として渡来したのは、その葉を乾燥させ、グアバ茶として煎じるためという。 若葉を1~3週間乾燥させたものを沸騰した湯で煎じる。下痢止めや鎮痛効果のほか、高血圧や糖尿病に効くプロアントシアニジンが含まれているそうだ。 ストロベリー・グアバの育て方 最近では苗を取り扱う園芸店も増え、ネットで購入することもできる。熱帯性の植物だが、かなりの耐寒性があり、関東以南では露地植えが可能だ。鉢植えでも育てられるので、ベランダ栽培にも適している。 3月から5月にかけて、日当たりのよい高温多湿の場所に植え付ける。樹高は1~3mほどだが、熱帯地方では8~9mほどにもなるという。1mくらいのところで切り返すと結実しやすくなる。肥料は開花期の前や、収穫後に与える。 梅雨時期などに挿し木で増やすほか、実生苗を育てることもできる。種子を播いて2週間前後で発芽し、1年で50cm程の苗に成長する。成長が早く、2~3年後には結実が期待できる。 ベランダ園芸の醍醐味 マンションのベランダでの鉢植え栽培なので大量の収穫は望めない。だが、花が開き、小さな実が育っていくのを居間から眺めるのは幸せな時間だ。ストロベリー・グアバは一斉に熟さないので、1カ月近くにわたり、少しずつその実を味わうことができる。 何よりも部屋から手を伸ばしたところで収穫できるのが、ベランダ園芸の醍醐味といえるのではないだろうか。
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都会のベランダでバナナの木を育てる【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
東向きのベランダで葉を広げるバナナの木 窓の外でバナナの葉が風にわさわさと揺れている。都心のマンションからの眺めとは思えない光景だ。背後のビルを視野に入れず、空の青に浮かんだ緑の葉だけを見ていると、気持ちがほっこりとしてくる。 バナナの苗を手に入れる 園芸店のネット通販カタログでアイスクリームバナナ(Blue Java Banana)の苗を見つけたのは、昨年の初夏だった。その美味しそうな名前に惹かれて、思わず衝動買いをしてしまった。マンション住まいでバナナの木を育てることが可能か考える前に、葉が繁るイメージがどんどん膨らんでいったのだ。 6月になって届いた苗は、高さ40cm程の細長いものだった。バナナらしさがあまり感じられずやや落胆したが、鉢増し(一回り大きな鉢に植え替え)をして2カ月もすると、しっかりと葉を繁らせ始めた。 その葉の1枚を切り取り、食卓の上に敷いて皿を載せると、ハワイや東南アジアの島々で出合ったエスニック料理のように見えた。 幼い頃の原風景 撮影の仕事を始めてから、南国を旅する機会が増えていった。そこに住む人々や風景にも心惹かれるが、熱帯植物の花や果実がほぼ一年中路地に見られることに何よりも感動していた。それは私が育った環境と無縁の感情ではないだろう。 父の仕事の関係で、伊豆の熱帯植物園の敷地の奥に住まいがあり、植物園の中で育ったといっても過言ではない子ども時代だった。熱帯植物の試験場だったが、一部の温室は観光用に一般公開されていた。温室の高い天井までブーゲンビレアが枝を伸ばし、花を咲かせていた。バナナやパパイヤが実り、そこは格好の遊び場だった。バナナの葉が繁る光景は、いわば原風景ともいえる。 バナナの冬越し アイスクリームバナナは、比較的寒さに強い品種で、関東地方以西では路地で冬越しができるとされる。それでも最低生育温度は0℃。冬に葉が枯れても、幹が生き残れば春にまた新葉が出てくるというが、実験的に幹に不織布を巻き付け、冬越しに備えた。生育1年未満の苗が寒さに耐えられるか心もとなかったが、ルーフバルコニーとは別の、東向きの陽当たりのよいベランダに置いたのがよかったのだろう。葉を残したまま無事春を迎えた。 夏の陽差しの中で 暖かくなるにつれ、バナナの木は背丈を伸ばし、7月になると2mほどの高さになっていた。葉も7、8枚に増えている。幹の横に小さな子株を見つけ、生育ぶりに感嘆してしまった。 葉が繁るのを楽しみに、いわば観葉植物として育て始めたバナナだが、そうなると欲が出てきて、実がなるかも知れないと期待を抱き始めた。調べてみると、南国では子株から成長して1年で結実するが、関東地方の露地では2〜3年後に実るという。 植え替え作業に四苦八苦 8月のある日、バナナの葉に勢いが無く見えた。水遣りは十分なはずで、その場合考えられるのは根詰まり。一回り大きな鉢と土を用意して、植え替え作業に取り掛かった。それが大変だったこと。 プラスチックの鉢に根が張り付いてどうにも離れない。少しずつ剥がしていって、結局鉢から苗を取り出すのに3時間余りかかってしまった。考えてみれば夏に向かっての旺盛な成長ぶりから、鉢の中の根もかなり張っていると想像できたはずだ。ほかの植物の植え替えと同様に考えていたのが甘かった。 根を傷めたので、水分の蒸散を抑えるために、植え替え後に葉を数枚切り落とした。やや淋しい姿になったが、何日もしないうちに巻葉が出て、新たな葉が繁り始めた。 バナナの実を期待して 自家でのバナナの収穫を望むのなら、三尺バナナやドワーフバナナなどの矮性種を選ぶと、鉢植えでも結実しやすいという。だが、葉を見上げながら南国気分を味わいたい向きには、やはり樹高が欲しい。葉も果実も、と夢想しながら、これから来る冬の越し方を思案している。 都心のマンションの4階でバナナが実ったら、と想像しただけで楽しくないだろうか?
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アート・ディレクターの「花あしらい」【写真家・松本路子の花写真レポート】
「花あしらい」の写真 ある日、インスタグラムで、素敵に花をアレンジした写真を見つけた。作者は辛嶋陽子さん。偶然にも私の著書『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』のブックデザインを担当した、アート・ディレクターだった。 器に活けられた花や葉が凛として、空間構成に無駄がない。それでいて作者がその空気感を愛おしんでいる様が感じられ、そこには緩やかな風が吹いていた。生活者の視点とアート・ディレクターの感性が程よく調和しているのだ。こうした「花あしらい」の写真が生まれた背景を知りたくて、辛嶋さんに話を聞いた。 マンションの庭から 辛嶋さんが都内世田谷区にある現在の住まいに暮らし始めたのは13年前のこと。マンション1階の部屋は窓が広く、何よりもベランダを含めると75㎡近い庭があり、それが気に入って移り住んだ。 窓から見える景色をグリーンにしたくて、塀沿いに常緑のシラカシ、ソヨゴ、トネリコなどの木を植えることから庭づくりが始まった。花壇ではハーブや野菜、チューリップを育て、‘ピエール・ドゥ・ロンサール’などのバラや、5、6種類の紫陽花を植えた。 ガーデニングの経験がなかったこともあり、やがて若い女性のガーデナーに植栽や手入れを任せるようになった。彼女の手で、ツリージャーマンダー、斑入りヒメトベラ、マホニア・コンフューサ、ブルーベリー、ラン類など珍しい植物も増えていった。 花を摘む 2児の母として、アート・ディレクターとして、仕事に忙しく、ほとんど向き合えなかった庭。それが新型コロナウイルスの影響で、毎朝庭でお茶を飲む時間が生まれた。春の庭は心地よく、目に留まった花を摘んで、自作の陶器などに活け、部屋のそこかしこに置いて写真を撮り始めた。 花器を選ぶ 辛嶋さんが陶芸を始めたのは22年ほど前で、5年前まで続けていた。写真に登場するのは、彼女の陶芸の師で、現在、山梨・小淵沢に窯を持つ菊地勝さんの器。そして15個ほどある自作の花器。そのほか深皿、急須、片口など、なんでも思いつくままに花をあしらう。 自ら作陶した器は、ほとんどが白か黒で、形も直線的で図形に近い。 「花を活けた時や料理を乗せた時を思い描いて作っているので、あまり主張がない」と語るが、余分な部分をそぎ落とした器は端正で、さりげない存在感を放っている。そうした陶器に加え、ヴィンテージの薬瓶やグラスなども登場。コーディネートの発想は自由で無限、何とでも組み合わせられる、という。 写真を撮る 撮影にはすべてスマートフォンを使用。窓辺の白壁や部屋のブルーの壁を背景に、光の具合を見ながら、花の雰囲気に合う場所を決める。室内には美術書や、好きで集めた雑貨、オブジェなどが飾られているので、それらを花器に配することも。 画面を見ながら余白を意識し、いらないものを省いたり、重なり具合を調整。花や物のカタチが美しく見える角度を選んでいく。撮影用の絵コンテを描く要領だ。この間5分から10分。長くても20分。こうした作業が直感的にできるのは、アート・ディレクターとして、何度となく写真の撮影に立ち会ってきたからだ、という。 友人たちとのグループライン 写真は美術大学時代の友人6人のグループラインで披露し始め、やがて花の写真を撮って送るのが楽しい日課になった。それは4月初めから100日間、毎日続いた。海外に住む友人もおり、コロナ禍のもと、花の写真はどんなにか彼らの心を和まし、勇気づけたことだろう。 夏になると庭に咲く花が少なくなり、ラインの写真は不定期に。その間、友人たちに勧められ、インスタグラムに今までの写真を選んで載せ始めた。 アート・ディレクターとして長年養ってきた「眼」が生み出す「花あしらい」。心地よい写真空間からの風に誘われて、私も花を1輪、活けてみたいと思うのだ。
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バラの酵母でパン作り【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
バラの宴から 数日前に、東久留米市のパン屋、「プチ・フール」の宮沢ロミさんからパンが届いた。バラの酵母で焼き上げたカンパーニュ! ほのかにバラの香りとほろ苦い花びらの味がする、まさにバラのパンだ。 花びらから作った酵母でパンを焼く話を知ったのは、昨年のこと。バラの宴がきっかけだった。毎年5月のバラの最盛期に、気の置けない友人たちとバラの宴と称する花見の会を催している。客人たちには1、2輪のバラの花を持ち帰っていただいているのだが、その花びらを使って宮沢さんがパンを焼いたという。 今年のバラのバルコニー 今年(2020年)のバラの季節は残念なことに、コロナ禍のためワインや料理を持ち寄っておしゃべりを楽しむ会は実行できない状況だった。皮肉なことに、バラは例年になく見事に咲き誇り、お披露目できないことに、眺めて出るのはため息ばかり。そんな時思いついたのが、バラのジャムを作ること。 散る間際の花びらを集めてバラ風呂にすることはあっても、咲き始めの花びらを摘むのは初めてのことだった。我が家のバルコニーのバラは、28年間農薬を使用していないので、食することが可能だ。スズメやホオジロなどの小鳥が、鉢皿に溜まった水を飲みに来るので、安全は彼らが保障してくれている。 バラの花を送る ジャムを作っている時、宮沢さんのパン作りの話が頭をよぎり、花を届けることを思いついた。宅配便で切り花を送るのは初めてのことで、花びらの状態が心配だったが、何とか無事に到着したという。箱を開けたとたんにバラの香りが広がったという、うれしい報告だった。 それからしばらくして、花を発酵させている写真が届いた。瓶の中の花びらはガラス越しにきらめいて見えた。さらに、焼き上がったパンが到来したという顚末だ。 「プチ・フール」事始め 宮沢ロミさんがパンを焼き始めたのは30代の頃だった。ワーカーズコレクティブで、10人の仲間たちとのパン作りからスタートし、5年後の1990年に独立。 自宅を改装したパン屋、「プチ・フール」の店先で販売するほか、保育園の給食や自然食料品店に卸している。そもそもパン作りに向かったのは、安心な素材を使った、手作りのパンを子供たちに届けたいとの思いからだった。 東久留米の小麦畑から 東京の多摩地区東部に位置する東久留米市には、何代も続く農家が点在している。そこでは江戸時代に作られていた柳久保小麦が15軒の農家によって復元され、また秋田緑花農園では、広大な畑で農薬不使用の小麦が栽培されている。 宮沢さんがパン作りに用いるのは、そうした地元の小麦畑から収穫された小麦の粉がほとんどだ。苗の成長を見守り、ときには収穫を共にしながら得た小麦粉は、まさに安心の食材といえるだろう。 花びらからのパン作り バラの花びらから酵母を作る過程の話は、とても興味深い。まずは煮沸した瓶に花びらとミネラルウォーターを入れ、洗糖(精製されていない砂糖)を加える。1週間ほど時折かき混ぜながら発酵を待ち、泡が出始めた頃に冷蔵庫へ。冷蔵庫で3、4日寝かせてできるのが液体の酵母で、パン生地にその酵母を加え、発酵させて成形し、再び発酵させ、それから窯で焼き上げる。 簡単なように思えるが、加える水や糖分の量、発酵の温度など、試行錯誤の末に見いだしたレシピだ。また生きた酵母は少しずつ変化していくので、その状態を見極める必要がある。 バラの酵母は果物などを発酵させた酵母より、一見すると弱そうに見える。だが、パンにする段階では底力の強さを感じるという。バラは古来薬用として栽培されていた歴史があるので、花の持つ生命力が酵母の強さになって現れるのかもしれない。 バラのクロワッサンが店先に並んだ カンパーニュが届いてほどなくして、今度はクロワッサン、雑穀パン、パンドリーナなどが到来した。まだまだパン作りの試行錯誤は続いているらしい。クロワッサンは花びらの苦みがバターでやや薄らぎ、口当たりがソフトになって、ほのかにバラの味がする。 店先に並べられたクロワッサンは好評で、「幼い子どもが口にくわえてずっと離さなかった」と宮沢さんが弾んだ声で教えてくれた。秋バラが咲いたらまた花を送る約束をしている。来春のバラの宴では、客人たちにバラのパンを供すことができるかもしれない。バラ栽培の楽しみが、また一つ増えたようだ。 Information プチ・フール 住所:東京都東久留米市中央町4-2-18 電話:042-474-0139 オープン:月、金、土、日曜日、10~17時、 アクセス:西武池袋線ひばりヶ丘駅より田無行きバス、イオンモール下車(都立六仙公園すぐそば)
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「ボレロ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
ラヴェルの曲「ボレロ」 今年5月のバルコニーでひときわ華麗に咲いたのが、我が家に来て十数年目の‘ボレロ’という名前のバラ。‘ボレロ’はフランスの作曲家、ジョゼフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel/1875-1937)が1928年に作曲したバレエの名曲の名前を冠している。1980年代から多くのバレエ・ダンサーの肖像を撮影してきた私にとって、ボレロの曲と踊りには特別な思いがあった。 同一のリズムが続く中で2種類のメロディが繰り返される曲は、単調でありながら、その官能的ともいえる響きと多彩な音色で、記憶の中に鮮やかに存在している。バレエの舞台に限らず、意外な媒体や場面で突然曲が流れることもあり、ドキリとさせられる。 曲の誕生物語 ラヴェルに作曲を依頼したのは、ロシア、サンクト・ペテルブルク出身で、フランスで活躍したバレエ・ダンサーのイダ・ルビンシュタイン。彼女は1909年、パリにおけるバレエ・リュス(ディアギレフ主宰のロシア・バレエ団)の公演に参加し、主役のクレオパトラを演じるなど、当時の美意識を象徴する女性だった。後に自らのバレエ団を立ち上げ、ラヴェルにバレエのための曲を依頼している。遺産相続で得た莫大な財で、ベル・エポックの芸術家たちのパトロン的存在でもあった。 ボレロは20世紀バレエ団のモーリス・ベジャールが振り付け、1979年からジョルジュ・ドンが踊ることで世界的に知られるようになったが、最初は女性の踊り手のために創られた曲だった。 舞台「ボレロ」 ボレロはスペインで18世紀に作られた舞曲の名前に由来している。バレエの設定舞台は、セビリアの酒場。ひとりの踊り子が円形の台の上でゆっくりと動き始め、やがて踊りは速いテンポを迎える。後半、客たちが台を囲んで粛々と踊る群舞が加わり、クライマックスに至る。 舞台は太古の時代に神に捧げられた踊りを彷彿とさせる、祝祭的な様相を帯びている。ベジャールのボレロは、彼が認めた踊り手にのみ演ずることが許された。私が生の舞台を見ることができたのは、ジョルジュ・ドンとシルヴィ・ギエムのもの。ほかは映像でしか見ていないが、この2人に加え、マイヤ・プリセツカヤ、ニコラ・ル・リッシュのボレロが秀逸だと思える。それぞれの踊り方に違いはあるが、見る人を引き込んでしまう迫力は共通している。 映画「愛と哀しみのボレロ」 クロード・ルルーシュ監督が1981年に発表した映画「愛と哀しみのボレロ」で、ボレロの曲は世界的な知名度を得た。映画ではパリ、ニューヨーク、モスクワ、ベルリンを舞台に、4組のカップルとその家族の人生模様が描かれている。ダンサーのルドルフ・ヌレエフ、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン、歌手のエディット・ピアフ、音楽家のグレン・ミラーと、世界的な芸術家が登場人物のモデルであるといわれている。 映画は、彼らの波乱に満ちた人生を3時間という長さで描き、そのラストシーンで、ジョルジュ・ドンが15分にわたり踊るのがボレロ。エッフェル塔の下、夜の野外で繰り広げられる踊りは圧巻で、この映画でボレロに魅せられたという人も少なくない。 ジョルジュ・ドンの思い出 ジョルジュ・ドン(Jorge Donn 1947-1992)の肖像は、公演中の楽屋などで何度か撮影している。彼はボレロについて、踊りというより「儀式」のようなものだという。そして15分の舞台の間、とてつもない集中力が必要なのだと語った。広い会場を満たすほどのエネルギーと存在感を以て、見るものを圧倒する伝説の舞台は、そのようにして生まれたのだ。 舞台上では官能的で野性美が匂い立つような踊りを見せる彼だが、素顔は寡黙で思索的なたたずまいの人。禅に興味を抱き、十数年にわたりその世界を探求していた。ある時、ファンから大きな赤いバラの花束が届き、それを抱えた彼がポツリと「僕は白いバラが好きなんだ」とつぶやいた。その時のちょっと淋しげな表情が今も忘れられない。 バラ‘ボレロ’ ‘ボレロ’は2004年にフランス、メイアン社によって発表された、クラシカルな花姿のバラ。咲き始めは花の中心部が淡いピンク、ときにはクリーム色に彩られ、開花にしたがい白バラとしての優美な姿を見せる。その色の変化が楽しい。 花径は約10cm。四季咲きで繰り返しつぼみを付ける。樹高は1m前後とコンパクトなので、ベランダなどでの鉢植え栽培にも適している。イングリッシュローズの中でも香りが際立つ‘シャリファ・アスマ’を片親に持ち、甘くフルーティに香る。耐病性に優れ、暑さにも強い強健なバラで、比較的育てやすいといえよう。 ゆったりとした気分で花を見ていると、ラヴェルの曲とジョルジュ・ドンの舞姿が目に浮かんでくる。‘ボレロ’は私にとって、甘美な時間をもたらすバラの一つなのだ。
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「ウィリアム・モリス」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
リバティ・ロンドンから ロンドンに滞在すると、リージェント・ストリートにあるリバティ・ロンドンに立ち寄ることが多い。チューダー様式のクラシカルな建物の3階(日本の4階)にあるファブリック・コーナーがお目当てだ。そこにはリバティプリントが無数に並んでいて、布好きにはたまらない空間になっている。 リバティプリントの中では、アールヌーヴォ―模様のアイアンシ(Ianthe)が私のお気に入りで、自宅のベッドカバーやクッションをこの布で揃えたほどだ。ウィリアム・モリスの「ストロベリー・シーフ」(いちご泥棒)に初めて出会ったのもこの場所で、当時はあまり知られていなかったので、そのデザインの斬新さに驚かされた。 書籍『ウィリアム・モリスの庭』 ウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896) は19世紀イギリスの詩人・思想家・デザイナー。産業革命によって失われつつあった手仕事の重要性を説き、生活と芸術の調和を目指したアーツ・アンド・クラフツ運動を提唱したことでも知られている。 モリスのデザインした壁紙や布には、しばしばバラが登場する。自宅のバルコニーでバラを育てるようになると、バラをモチーフにしたモリスのテキスタイルが気になってきた。 そんな折、友人のエッセイスト、鶴田静さんから、彼女が翻訳した『ウィリアム・モリスの庭』(東洋書林刊)という本が送られてきた。副題に「デザインされた自然への愛」とある。モリスが自然や植物を愛したことは彼のデザインした意匠から推し量れるが、庭園のデザインに並々ならぬ熱意と深い造詣があったことを3人の著者が丁寧に考察している。 イングリッシュ・ガーデンの理念 私が特に興味を持ったのは、8項目にわたる庭園デザインの原則ともいうべきもの。 「家と庭を統一する。(庭は建物の衣服)」 「樹木、生垣あるいは自然に見える垣根で庭を囲む」 「地域の独自性を保つ」 「素朴な花を植える」 「流行を避ける」 「現存する木を残して調和させる」 「庭を生産的にする。(果樹園や菜園のある庭)」 「レクレーションとリラックスの場所を含める」 こうしたモリスの見解が、現在のイングリッシュ・ガーデンの造園の基礎となっている、という。イングリッシュガーデンが一般化したのは、造園家のウィリアム・ロビンソンや庭園デザイナーのガートルード・ジェキルの力が大きいとされている。ロビンソンは『イギリスの花の庭』を著し、雑誌『ザ・ガーデン』『図解ガーデニング』を創刊・編集した人物。ジェキルは『イギリスの庭園のための薔薇』『森と庭』など、多くの著書で庭づくりの魅力とその方法を説いている。 2人はともに、モリスの庭に対する理念を庭づくりにおいて実践し、その普及に努めた。特にジェキルは、モリスと出会ったのをきっかけに、刺繍や銀工芸、テキスタイルなどの装飾芸術を始め、さらにアーツ・アンド・クラフツ運動の延長としてガーデニングの道に進んだ、いわばモリスの弟子ともいえる女性だ。モリスの庭に思いを馳せる、それはイギリスのナチュラルガーデンの源流をたどることでもあった。 コッツウォルズへの旅 コッツウォルズはロンドンから西に200kmほど行ったところにある丘陵地帯で、田園の中に瀟洒な村々が点在する。なかでもモリスが「イギリスで一番美しい村」と讃えたのがバイブリー。歩いても3、4時間で一周できる小さな村に、私は数日間滞在して、付近の庭園を巡った。 最初に訪れたのが、バイブリーから車で30分ほど行った、レッチレイドという村にあるケルムスコット・マナー。ここは、モリスが1871年に友人の画家ロセッティとともに借り、25年間にわたり妻と2人の娘と休日を過ごした家だ。 16世紀に建てられたコッツウォルズ特産のライムストーンの石壁と切妻屋根のたたずまい、そしてそれに付随する庭…。モリスにとって理想的ともいえるこの住まいに、彼は「荘園領主の館」を意味する「マナー」という名を授けている。 ケルムスコット・マナーにて その敷地に入ってすぐに、建物へのアプローチの美しさに息を呑んだ。玄関ポーチに向かって石畳が敷かれ、その両側にはスタンダード仕立てのバラの木が並んでいる。訪れたのが6月だったので、花の最盛期。石壁には淡いピンクのつるバラが枝を伸ばしていた。建物の奥に回ると、そこには草花にあふれたナチュラルガーデンがあり、石垣やバーゴラにもバラが設えてあった。 モリスはこの庭のキッチンガーデンで収穫した野菜や果物を食し、草花を採取して染色の材料とした。彼のテキスタイルデザインや図案の多くは、この家の庭、そしてコッツウォルズの田園からインスピレーションを得ている。 ケルムスコット・マナーの庭には野生のヘビイチゴが生え、また苺の栽培もされていた。そこにしばしばツグミが顏を出し、苺をついばむ。モリスは怒る庭師に、ツグミを追い払わないように伝えたという。苺は鳥たちに食べられたが、そこから彼の代表作ともなった「いちご泥棒」が生まれた。 地上の楽園 モリスは小説『ユートピア便り』の口絵に、ケルムスコット・マナーの建物とバラが並んだ前庭の挿画を盛り込んでいる。彼にとってそこは、草花や鳥の鳴き声に満ちた地上の楽園であった。 そして、モリスによって永遠の命を与えられた生きものたちの意匠が、今も私たちの日常に自然の息吹をもたらしてくれる。 バラ‘ウィリアム・モリス’ モリスは、じつにさまざまな植物を図案化している。『ウィリアム・モリスの庭』という本の後半は、植物の写真とそのデザインを対比させていて、じつに興味深い。モリスが最も愛したのはバラで、最初にデザインした壁紙「トレリス」には、ヨーロッパの原種バラ、ロサ・カニナを描いている。 そうしたモリスに捧げられたのが、1998年にデビッド・オースチンによって作出されたバラ‘ウィリアム・モリス’。ソフトなアプリコットピンクで、多弁のロゼット咲きの花は、華やかさと楚々とした風情を併せ持つ。樹高は2.5mほどになり、小型のつるバラとして仕立てることが可能だ。四季咲きで、繰り返しよく返り咲く。 バラ‘ウィリアム・モリス’が我が家にやってきたのは、モリスの庭の本を読んでしばらくたった頃だった。またしてもバラに導かれて、モリスの家と庭「地上の楽園」にたどり着いたのだった。 Information Liberty London 住所:210-220 Regent St. London W1B 5AH U.K. 電話:+44(0)20 3893 3062 HP: http://www.liberty.co.uk アクセス:地下鉄 オックスフォード・サーカス(Oxford Circus)またはピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)下車、徒歩3分 *2020年6月現在休業中 (順次ご確認ください) Kelmscott Manor 住所:Kelmscott Lechlade GL7 3HJ U.K. 電話:+44(0)1367 252 486 HP: http://kelmscottmanor.org.uk アクセス:ロンドンのパディントン(Paddington)駅から英国鉄道で約1時間、スウィンドン(Swindon)駅下車、タクシーで約30分。 *保全と修復のため2021年5月まで休館中(2020年夏一部開館。順次ご確認ください)
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「モネの庭とバラ‘クロード・モネ’」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
モネの家でのTVロケ フランス、パリ北西部の村ジヴェルニーにあるクロード・モネ(Claude Monet 1840-1926)の家を最初に訪ねたのは、1985年のことだった。当時、パリ滞在中だった私は、友人が関係していた日本のテレビ番組のスチール写真の撮影を依頼され、ロケ隊に同行していた。 「印象派」を特集する美術番組で、フランス各地の印象派の画家にゆかりの地を訪ねる企画は、興味深いものだった。ナレーションを担当していた女優のジャンヌ・モローがロケ地で絵画や画家について語る、という画期的な内容。特に記憶に残っているのは、女優自らがナレーションを手直しする姿だ。その場で感じたことを自らの言葉で語ろうとする真摯な姿勢に、大女優の心意気を垣間見た。 ジヴェルニーでは、モネに扮したフランスの男性俳優が庭を散策し、その映像にジャンヌ・モローの声が重なる。一瞬、モネの時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。 バガテル公園のバラ園 それからずいぶんと月日が流れ、2000年代になり、私は世界各地の庭園を訪ねる機会が多くなっていた。特にバラに興味を抱いて、パリのバガテル公園には何度か立ち寄っている。パリ16区ブローニュの森に位置するバガテル公園では季節ごとにさまざまな植物を楽しむことができるが、その一角にあるバラ園は、バラの育種家や愛好家にとって憧れの場所ともいうべきところだ。 ここでは毎年6月、バラの新品種の国際コンクールが行われる。審査の対象となるバラは2年前から植えられているので、世界中から集まったまだ世に出ていない花を100種類以上一望できる。私が最初に訪れた時は、ちょうどコンクールの審査の日で、審査員たちが熱心に一つひとつの花を見てまわっている光景に出くわした。 バガテル公園で出合った初めてのバラの中で、特に私の心を捉えたのは、‘クロード・モネ’という名前のバラ。ピンクにオレンジイエローの絞りの淡いグラデーションが何とも優美な花姿だった。それはまさに、モネの家の庭で見た花々の色彩を彷彿とさせるものだった。 我が家のバラ‘クロード・モネ’ バガテル公園で‘クロード・モネ’に出会って数年後、日本でもその苗が手に入ると知り、さっそく取り寄せた。晩秋に裸苗を注文し、私好みにブレンドした鉢土に植え付けると、翌春見事な花を咲かせてくれた。 毎年訪れる常連の花見客たちは、一様にその花に眼を見張った。60鉢あるバラの中でも新入りのそのバラが特に目立っていたのだ。さらに名前を聞いて、アート好きな客人が喜んだのは言うまでもない。 ジヴェルニー再訪 数年前の9月、モネの家を再び訪れた。拙著『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』の続編が企画されてのことだった。撮影が許可されたのは、モネの家が休館日の月曜日。パリからの日帰り旅だった。サン=ラザール駅で、最寄り駅のヴェルノンまでの列車の切符を求めると、「今日はモネの家は休館日だよ」と窓口の係員が教えてくれた。他人のことにはめったに口を出さないフランス人には珍しい親切さ。それだけモネの家を訪ねる日本人が多いということだろう。 モネは1883年に、パリの北西80kmに位置し、セーヌ川支流のエプト川に近いジヴェルニーに居を構え、亡くなるまでの歳月を過ごした。最初は借りていた土地や家を1890年に購入すると、果樹園や菜園だった場所に庭をつくり始めた。家や庭園はモネのもう一つの作品といわれるほど、その完成に生涯をかけている。 家や庭園はモネの死後、遺族によって芸術アカデミーに寄贈されたが、長い間荒れたままだった。1970年代に屋敷や庭園の修復がなされ、画家が暮らしていた当時の趣を再現、1980年よりクロード・モネ財団の管理のもと、一般公開されている。 モネの家 2階建ての家の外観はピンクの漆喰で塗装され、階段やドア、窓枠は深い緑色に彩られている。私の2度目の旅は、前回ゆっくり見ることができなかった、屋敷の内部から始まった。 1階の部屋の中でも目を引くのは、ダイニングルームだ。モネはこの部屋の壁や天井、窓、家具などすべてを、淡い黄色と濃い黄色の色調で統一させた。中央に置かれた食卓も黄色で、ここでは15人ほどの会食者を迎えたという。壁には無数の浮世絵が飾られていた。 台所は青と白の陶製タイル、銅製の台所用具、石造りの流しなど、モネが食事を楽しんだ様子が彷彿とさせられる。この家を訪れた多くの人が、そこでの食事の素晴らしさを書き残している。 2階にあるモネの寝室には、18世紀に作られた寄木造りの机と箪笥、そしてベッドが置かれている。モネの存命中は、ここにルノアールやロダンなど友人たちの作品が数多く飾られていたという。 寝室の窓からは庭が一望できる。モネはここから俯瞰してキャンバスに絵を描くように植栽の計画を立てたのだろう。窓から真下を見下ろすと、そこには‘マーメイド’という名前のバラが咲いていた。‘マーメイド’はモネが愛したバラとして知られているが、5弁の一重の花びらは上を向いて花開く。1階と2階の間の壁面に咲く花は、下からも上からも眺めることができるように設えてあるのだ。 花の庭園「クロ・ノルマン」 家の正面からまっすぐに伸びる中央のアレー(小路)を囲むように、いくつもの花壇が作られている。クロ・ノルマン(ノルマンディーの囲いの庭)と呼ばれる花の庭。9,175㎡のこの庭は、モネ自らが設計し、土を耕している。当初は家族総出で庭づくりに勤しんだ。植栽はフランスやイギリスで自らが選んだもので構成され、牡丹やユリなどは友人を介し、日本からも取り寄せている。 撮影に訪れたのは休館日だったので、数人の庭師たちが、花苗の植え替えをしていた。 その作業の様子を見ながら、人影が少ない庭を終日探索できたのは、貴重な体験だった。 庭に植えられた植物の種類は数えきれないほど多彩だ。私が再訪した9月は、中でもさまざまな花姿のダリアが見られ、夏の名残のバラも咲いていた。庭は植栽の場であると同時に、モネにとっては光と色彩のシンフォニーであり、また絵画のインスピレーションの場でもあった。 モネの死から約50年後に庭を忠実に復元するのには、子ども時代にそこに滞在した人々、植物の納入業者、働いていた庭師などから集められた情報のほか、驚くことに写真の存在があったという。モネは写真の創生期、いち早くその発明品に興味を抱き、自分の庭を写した写真を数多く残している。 水の庭園 モネの庭で忘れてならないのが、水の庭園。1983年に、花の庭から線路を挟んだ向かいの土地を新たに手に入れたモネは、そこにエプト川の分流リュ川から水を引き、池をつくった。池は最終的に全長60m、最大幅20mの大きさになり、水面で花を咲かせる睡蓮をはじめとして、周囲にはしだれ柳やポプラの木など、さまざまな植栽がなされた。 日本の太鼓橋を思わせる橋がつくられ「日本の橋」と呼ばれた。薄紫と白色の藤の花が橋の棚の上を被い、背後に竹林のある風景は、まさに浮世絵の世界。当時のジャポニズム(1867年のパリ万博をきっかけに生まれた日本ブーム)が庭園にも反映されている。 水の庭園はモネにとって、絵画のモチーフの宝庫であった。初期の頃は池を巡る風景を多く描いたが、やがて関心は睡蓮に特化し、代表作ともいえる睡蓮の連作が生まれた。睡蓮の開花は5月末から9月まで。その4カ月ほどは戸外での写生の日々で、それからアトリエで仕上げにかかったという。 私が訪ねた時、一面に咲く睡蓮は見られなかったが、いくつかの花が咲いていた。モネは次のような言葉を残している。「私は自分の庭にある睡蓮の素晴らしさに気付くのに時間がかかった。睡蓮は楽しむために植えたもので、絵に描こうなどとは思ってもいなかった。ある日突然、私は自分の池の素晴らしさを発見した。私はパレットを手にした。その時以来、他のものを題材にすることはほとんどなくなった」(クロード・モネ財団刊の小冊子より)。 オランジュリー美術館の睡蓮 ジヴェルニーから戻って数日後、私は改めてモネの睡蓮に向き合いたくて、パリのチュイルリー公園にあるオランジュリー美術館を訪ねた。美術館は元チュイルリー宮殿のオレンジ温室だったところで、今は印象派の画家の作品を多く集めた美術館になっている。ここも印象派のテレビ番組のロケで訪れた場所の一つだった。 モネは30年間、睡蓮を描き続け、生涯で約300点の作品を残している。晩年は、横6m、縦2mの装飾的な大作などを手掛けた。オランジュリー美術館にはモネ・ギャラリーがあり、そうした大作を収めるために楕円形の2つの展示室が作られ、モネによってフランスに寄贈された作品が各部屋に4点ずつ配置されている。 最初「水の庭」の風景を描いていたモネが、やがて睡蓮をモチーフに描き始め、最終的には空と花影が反射する水面だけがキャンバスに現れるようになっていく。その過程が空気感とともにリアルに感じられる展示室。自然光が差し込む部屋でベンチに座って睡蓮の大装飾画と対峙していると、身も心も浄化されるような不思議な感覚にとらわれる。モネの庭で見た現実の水面もまた脳裏に揺らめくのだ。 バラ‘クロード・モネ’と画家シリーズ バラ‘クロード・モネ’は、フランスのデルバール社で2011年に作出された比較的新しい品種だ。木立ち性で、樹高は1~1.2mほどの中型シュラブ。鉢植えにも適している。ロゼット咲きで、花径8~10cmの中大輪花。四季咲きでよく返り咲く。ピンクとオレンジイエローの絞りのグラデ―ションの色合いが花開くごとに変化して、次第に淡い色となり、水彩画のよう。香りも楽しめる。なお同じ名前のバラで、花も似ている品種が、アメリカのJ&P社から出ている。 フランス中部、オーベルニュ地方にあるデルバール社は、1954年よりバラの育種に力を入れ、現在は3代目のデルバール氏が代表を務めている。デルバールのバラは、フランスらしい華やかさと香りが特徴で、中でもローズ・ド・ペーントゥル(Les Rose de Peintres)という画家シリーズが知られている。ほとんどが多色の絞りのバラで、画家のパレットを覗き込んだような艶やかさ。オルセー美術館の館長に印象派の絵のようだと言われたのがきっかけで、このバラのシリーズが誕生したのだという。 クロード・モネ以外にも、エドガー・ドガ、アルフレッド・シスレー、ポール・ゴーギャン、モーリス・ユトリロ、ポール・セザンヌ、アンリ・マティス、マルク・シャガール、エドゥアール・マネなど、画家たちへのオマージュとして、バラにその名が捧げられている。 Information モネの家と庭園(クロード・モネ財団) 84,rue Claude Monet 27620 Giverny France 電話+33(0)2 32 51 28 21 contact@fondation-monet.com www.fondation-monet.com 開館:2020年は4月1日から11月1日まで。9時半~18時(最終入場17時半)。月曜休館 入場料:大人€9.50、 学生・12~7歳 €5.50、7歳以下 無料 アクセス:パリのサン=ラザール(Saint-Lazare)駅からルーアン(Rouen)行の列車で、約45分。ヴェルノン(Vernon)駅下車。列車到着の15分後にジヴェルニー行きのシャトルバスが発車。 *2020年5月時点で、団体客の受付は停止中。個人客は人数制限にて受付。(順次状況をご確認ください)


















