まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2023年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2023年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ガーデン
バラ咲く旧小笠原邸の建物と庭を訪ねて
スパニッシュ様式の瀟洒な洋館 スパニッシュ建築の先駆けとして1927年に竣工された建物と、正面口のクスノキ。 都心とは思えないほど静けさに満ちた建物と庭。東京、新宿区河田町にある旧小笠原邸は現在「スペインレストラン小笠原伯爵邸」として、ゲストを招き入れている。 かつて伯爵家の客人を迎え入れた、趣あるエントランス。 邸の正面玄関に立つと、2羽の小鳥のトピアリーが迎えてくれる。エントランスでは、ブドウ棚の模様が描かれたキャノピー(外ひさし)が、光を浴びて、大きく翼を広げる。建物の外観や玄関のたたずまいからも、旧小笠原邸を訪れる期待に胸が高鳴る。 ブドウの蔦や葉、実がデザインされたキャノピー。 エントランスの重厚な扉と照明。 扉の上部、籠の鳥を配した明り取り。邸内の至る所に小鳥の意匠が見られ、別名「小鳥の館」という愛らしい名前で、呼ばれる所以となっている。 エントランス扉の上部、ブドウと小鳥をモチーフにした鉄製の明り取りが美しい。 館の数奇な歴史 レストランのガーデン席付近から見た庭の風景。オリーブの木とガーデンテントがよく似合う。 建物は、旧小倉藩藩主であった小笠原家の30代当主小笠原長幹伯爵の邸宅として、1927年に建てられた。敷地は江戸時代の小倉藩の下屋敷跡で、竣工当時は2万坪の広さを誇っていたという。今なお千坪の敷地を保ち、建物の周囲には、樹齢500年を超えるオリーブの木や、バラが咲く庭が広がっている。 エントランスからロビーを経て至る回廊。右手がパティオで、左手にはグランドサロン、ラウンジ、シガールームなどの部屋が並ぶ。 伯爵家の館として約20年間にわたり家族が暮らしていたが、第2次世界大戦後の1948年に米軍に接収され、GHQの管理下に置かれた。その後1952年に東京都に返還され、都福祉局の児童相談所として使用されていたが、1975年以降は老朽化のため放置され、取り壊しも検討されていたという。 庭から見たシガールームの外壁の装飾。太陽と、草花と、鳥の構図は「生命の賛歌」がモチーフとなっている。 2000年に東京都から民間貸し出しの方針が示され、1年半にわたる全面的な修繕工事の後、レストランとして甦った。外壁のレリーフなどの修復作業は、竣工当時の資料を基に忠実に実施され、内装、家具、照明機器はヨーロッパから取り寄せて、当時の雰囲気そのままを再現している。 邸内をめぐる 現在、レストランのメインダイニングとして使用されているのは、伯爵の書斎や寝室だったところ。かつてのベランダが庭に面したテラス席となっている。 (左)唐草模様の鉄細工が施された、ロビーから回廊へと続く欄間。(右)ヨーロッパから取り寄せた家具や照明器具で、当時の客室が再現されたラウンジ。 メインダイニングに至る回廊わきに並ぶ3つの部屋は、伯爵家の食堂、客室、シガールーム(喫煙室)で、現在、客室はレストラン客のラウンジとして使用されている。 伯爵家のメインダイニングだった部屋。大テーブルのメロンレッグと呼ばれる脚部には、細かな装飾が見られる。 かつて食堂だったグランドサロンにある大テーブルは、イギリス、エリザベス様式のアンティークで、伯爵家で実際に使用されていた唯一の家具。伯爵夫妻と5男6女の家族が晩餐のテーブルを囲んでいた情景が目に浮かぶようだ。 半透明の色ガラスを使った、アメリカンスタイルの当時のステンドグラス。 客室だった部屋の窓には、日本最初期のステンドグラス作家小川三知氏による、小さな花がデザインされたオリジナルのステンドグラスが残されている。 イスラム風のシガールーム。大理石の柱や床はオリジナルのものを磨いて使用し、天井は竣工時の資料をもとに、現代画家によって彩色された。 ヨーロッパのタバコや葉巻がトルコやエジプトから入ったことから、当時の洋館の喫煙室はイスラム風の内装で作られることが多かった。ブルーの天井、漆喰彫刻に彩色を施した壁面、大理石の柱と床が、荘厳な雰囲気を醸し出している。単なる喫煙所ではなく、男性の社交場といった場所だったのだろう。庭に面した半円形の美しい部屋だ。 シガールーム入り口。花籠のレリーフが美しい。(右)イギリスのビクトリア朝で好まれた、イスラム模様の内壁。 パティオのモッコウバラ パティオに咲く黄モッコウバラと白モッコウバラ。別名スダレバラの通り、見事に壁一面を覆っている(2024年4月16日撮影)。 スペイン建築の特徴のひとつが、パティオ。建物の中心部に位置し、光がさし込む空間だ。パティオでは植栽されて20年が経つモッコウバラが、雄大な姿を見せている。テーブル席が設けられていて、邸内のカフェを訪れた客は、ここでお茶の時間を過ごすことができる。毎年4月のモッコウバラの開花時期には、それを目当てに訪れる人もいるほどで、見事な景色が出現する。 (左)パティオの一角にあるオレンジの木と、バラに囲まれた噴水。噴水の彫刻は館の当主だった小笠原長幹氏作といわれている。(右)カフェの窓。 2階屋上のパーゴラ モッコウバラのほか、鉢植えのバラが配された屋上庭園。 パティオから大理石の階段を上ると、そこは2階の屋上庭園。当時の設計図と写真を基に復元されたパーゴラにも、黄色と白色のモッコウバラが咲き誇る。 庭から見たシガールームの外壁 当時の色タイルの発色を確認しながら、新たに焼き上げ、修復されたシガールームの外壁レリーフ。 庭に回り建物を眺めると、ひときわ目につくのが円筒状のシガールームの外壁。古陶器の色使いにおいては日本の第一人者といわれる小森忍氏の作品で装飾されたものだ。「生命の讃歌」がモチーフで、太陽、花、鳥の意匠が日差しを浴びて輝いている。1600個のパーツで構成されており、ほとんどが剥がれ落ちていたが、陶芸家夫妻の手によって約3年の歳月をかけて修復された。 庭をめぐる 白色の花で統一された庭の一角。専任のガーデナーが季節折々の花を演出している。 庭では春を告げるアーモンド、姫リンゴの花、5月には白バラ‘スワニー’が開花し、季節の花々を楽しむことができる。バラは前庭や屋上庭園にも植えられ、17種類を数える。 (左)オリーブの木が銀色の葉を風に揺らす庭では、都会にいることを忘れるほど、ゆったりとした時が流れる。(右)すっくと立つ糸杉の木。 中央に植えられたシンボルツリーは、推定樹齢500年のオリーブの木。スペインとの交流400年を記念して、2013年にアンダルシアからやってきた。夏から秋にかけて実を付け、大きな籠いっぱいの収穫があるという。 鳥の巣箱のオブジェ。 ガーデンでの催し 小鳥たちが遊ぶ庭の噴水。 レストランのガーデン席での食事(4月から)、全館を利用したウェディング・パーティー、初夏に催されるスペインナイトなど、いずれも庭を楽しむことができる催しだ。 (左)庭の小道を散策すると、さまざまな草花に出合うことができる。(右)「小鳥の館」にちなんで、邸の修復中に作られた焼き窯。地下にあったボイラーの鉄蓋や、外壁のタイル片が使われた。今は現役引退で、庭のオブジェとなっている。 5月のバラ 庭の中央付近に咲く、1978年メイアン作出の小輪白バラ‘スワニー’。 5月のバラの季節に小笠原邸を再訪した。庭の中央ではバラ‘スワニー’が満開で白い清楚な姿を見せている。壁沿いには‘フロレンティーナ’という赤いつるバラが。 壁沿いに仕立てられた‘フロレンティーナ’というつるバラ。 屋上に上がると、ピンクと白のバラ‘安曇野’が光を浴びて輝くように咲き誇っている。カフェでくつろいだ後に、バラの庭を散策できるのは嬉しい限りだ(2024年5月21日撮影)。 屋上で満開の一重バラ‘安曇野’。 (左)屋上にはクレマチスの彩りも。(右)シックな色合いのゼラニウムのハンギング飾りが、クラシックな照明とよく似合う。 エントランス付近では‘紅玉’という名前のバラがゲストを出迎える5月。 かつて貴族たちが集った小笠原邸の室内、パティオや庭で過ごす。それは極上のひとときに違いない。 Information スペインレストラン小笠原伯爵邸 住所:162-0054 東京都新宿区河田町10-10電話:03-3359-5830 ランチ 11:30~15:00 ディナー 18:00~22:00 予約制OGA BAR &Café 12:00~20:00 予約不要アクセス:都営大江戸線 若松河田町駅下車、河田口より徒歩1分https://www.ogasawaratei.com *館内、庭園の見学はレストラン、カフェ利用者のみ可能。カフェ利用者の見学時間は15:30~17:00(レストランの貸し切りなどで見学できない日もありますので、事前にお問い合わせください)。
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樹木
八重桜の楽しみ<ご当地桜>【松本路子の桜旅便り】
日本各地で開花する<里桜> ‘ヤマザクラ’ 『京都・平安京の桜 その①』より。 わが国にはヤマザクラやエドヒガンなど、野生の桜が10種(一説には9種)ほど分布している。野生の桜以外で観賞を目的とした栽培品種の数は、300とも400ともいわれている。それらは自然界で生じた変異や異種間での交雑でできたもの、人工交配によって作出されたものなどだ。 ‘奈良の八重桜’ 『京都・平安京の桜 その①』より。 桜の栽培の歴史は古く、平安時代には「奈良の八重桜」や「枝垂桜」などが、宮中や貴族の邸宅に植えられていた。当時は突然変異した山の木々を移植するか、種を播く実生による栽培が主だったが、室町時代になると枝を接ぎ木して増殖する技術が生まれた。 栽培技術が急速に発展したのは、江戸時代。当時の画帳『花譜』(全5冊)には、252の桜の栽培品種が掲載されていて、江戸の園芸文化の豊かさを知ることが出来る。大名たちが全国から珍しい品種の桜の苗木を持ち寄り、植木商がそれらを盛んに増殖した。主に大名屋敷や神社仏閣に植えられていたが、明治維新後、これらの場所は荒廃していった。打ち捨てられた桜を自園に集め保存を図ったのが、駒込の植木職人高木孫右衛門である。彼の集めた桜は、1885年荒川の堤防が改修された際に移植され、のちに<荒川の五色桜>と言われるほど、多彩な桜並木になった。現在見られる桜の多くはここから全国に広がったものとされる。 森林総合研究所 多摩森林科学園の桜の頃(令和6年はサクラ保存林は非公開)。 八重咲きの栽培品種は<里桜>と呼ばれ、特に珍重された。それらの桜は原木のある場所や作出された土地にちなんで命名されることが多い。そうした<ご当地桜>を辿ってみた。現在、東京では、新宿御苑や多摩森林科学園などで、こうした桜を見ることができる。 奈良の八重桜(ならのやえざくら) 百人一首で知られる平安中期の女性歌人、伊勢大輔(いせのたいふ)によって詠まれた次の歌は、奈良時代に八重桜があったことを教えてくれる。 「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」 野生のカスミザクラから生まれた八重咲きの栽培品種で、原木は奈良市の東大寺知足院で植物学者三好学によって発見され、1923年に国の天然記念物に指定された。原木は2009年に強風で倒れたが、後継木が多数増やされ、現在奈良公園の約800本をはじめ、奈良の各所で見ることができる。淡紅色の3cmほどの小さな花を多数咲かせる。 大沢桜 京都市嵯峨の大覚寺東にある大沢池のほとりで発見された桜。京都の桜守、佐野藤右衛門によって増殖、広められた。花弁の先端に細かな切れ込みが見られる。京都市左京区の仁和寺の仁王門付近で見事な花を見ることができる。仁和寺の有名な桜「御室有明」とほぼ同時期に開花する。 江戸 江戸時代中期の文献に名前が見られる江戸の桜。荒川堤から広まった。花は太い枝先に丸くまとまって咲き、雄しべが葉のように変化する葉化や花弁状になる旗弁が見られる。 松前早咲(まつまえはやざき) 北海道松前町の光善寺に原木があり、江戸時代文政元年の記録が残されていて、樹齢300年以上とされる。<血脈桜(けちみゃくざくら)>の別名があり、また地元では<南殿(なでん)>の名前で親しまれている。松前には250種類1万本の桜が植栽され、日本各地から集められた140種類の桜と、松前生まれの桜約100種類が見られ、桜の名所となっている。 塩釜桜(しおがまざくら) 宮城県塩釜市の鹽竈神社に原木があったが、1957年頃に枯死。「塩釜桜保存会」が、佐野藤右衛門の指導のもと育成した後継木が神社内に50数本あり、そのうちの27本が現在国の天然記念物となっている。めしべが変化して、2~3枚の青い葉になる葉化が見られる。平安時代に歌に詠まれ、江戸時代には井原西鶴や近松門左衛門の著書に登場するなど、その名前はよく知られていた。 市原虎の尾(いちはらとらのお) 細枝が毎年少しずつ伸びて、編み込み模様のような独特の姿を見せ、先端に多数の白い花が付く。それを虎の尾に見立てた。京都市左京区の市原に原木があり、西本願寺の大谷光端門主によって命名された。作出は不明だが、江戸時代以前とされ、佐野藤右衛門の桜園で増殖され広まった。 兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら) 八重咲きのなかでも特に花弁数が多く、100枚を超えるものを菊咲きという。花弁が密に詰まり、菊のように球形に見えることからこの名前で呼ばれる。兼六園菊桜は花弁100から300枚を数える。石川県金沢市の兼六園に原木があり、国の天然記念物に指定されたが1970年に枯死。現在、園内では3代目の後継木が開花する。原木は孝明天皇により前田家に下賜されたもので、<御所桜>とも呼ばれている。 気多の白菊桜(けたのしろぎくざくら) 石川県羽咋(はくい)市の気多神社に原木があり、主幹は枯れたが、現在根元から生えた数本のひこばえが開花する。花弁数40から200枚。菊咲きの白色は珍しく、緑褐色の葉が花と同時に茂る。 六高菊桜(ろっこうきくざくら) 岡山県の旧制第六高等学校(現岡山大学)の校庭にあったもので、その名前をつけられた。花弁数100から200枚で、花には葉化や2段咲きが見られる。黄緑色の葉が花と同時に伸びる。 弥彦(やひこ) 新潟県弥彦村の弥彦神社に原木があり、この名前がつけられた。奥丁子桜(おくちょうじざくら)が菊咲きなったもので、別名を<雛菊桜(ひなぎくざくら)><菊咲奥丁子桜>ともいわれる。花弁数100から200枚の小輪で、葉化や2段咲きが見られる。 梅護寺数珠掛桜(ばいごじじゅずかけざくら) 新潟県阿賀野市の梅護寺境内にあった原木は、1927年に国の天然記念物に指定された。現在は後継木が12本あり、開花する。越後に流された親鸞上人が京に帰る途中、数珠を掛けた桜から数珠のような花が咲いたと伝えられる。菊咲きで、花弁は100から200枚を数える。菊桜の開花は八重桜とほぼ同じ頃。葉が花と同時に茂る品種が多い。 梅護寺数珠掛桜のつぼみの頃。
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樹木
多彩な八重桜を楽しむ【松本路子の桜旅便り】
もう一つの桜の季節に輝く八重桜 ‘染井吉野’ 『京都・平安京の桜 その①』より。 河津桜、寒桜、‘陽光’と早咲きの桜の開花が続き、‘染井吉野’の季節を迎える。国内の桜の約8割が‘染井吉野’とされるので、その満開時はまさに春爛漫。 東京・新宿御苑で満開の八重桜、‘福禄寿’。 そうした‘染井吉野’の花が終わった頃、もう一つの桜の季節が訪れる。八重桜の登場だ。桜の花弁は基本的に5枚だが、10枚を超えると八重咲きと呼ばれる。八重咲きは雄しべが花弁状に変化したもので、いわば突然変異株なのだが、特に江戸時代にこうした変化が喜ばれ、観賞目的の栽培品種が数多く作出された。 1つの花に雄しべが2本あり、果実も2個付く‘妹背’。 江戸の園芸愛好家たちは突然変異の結果生み出された変化朝顔を「芸をする花」と称え、その変化ぶりを競った番付表を作っている。それに倣えば、八重桜もまた、桜が芸を見せてくれる姿と言えなくもない。その多彩な芸を楽しんでみるのも一興だ。 関山(かんざん) 街や公園で見かける八重桜の代表的な栽培品種が‘関山’。紅色の花が鮮やかで、病虫害に強いことから広く植栽されている。江戸後期の記録にその名前が残されており、明治時代に78種類の桜が植えられた荒川堤の桜並木から全国に広まった。東京都内の新宿御苑には100本以上の‘関山’が植えられている。桜湯や桜餅にはこの花の塩漬けが用いられることが多い。 一葉(いちよう) ‘関山’と並んでよく見かけるのが‘一葉’。花色は‘関山’よりやや淡く、満開時は木一面が白に近い色に染まる。雄しべが葉のような形に変化し、花の中心部分から突出する葉化現象が起こることから、この名前が付けられた。 東京の新宿御苑に咲く‘一葉’。 江戸後期から関東を中心に広まり、新宿御苑には140本ほど植栽され、多くが10mを超える大木となっている。 八重紅枝垂(やえべにしだれ) 「枝垂桜」は野生の桜が突然変異して生まれたもので、平安時代以前から宮中や寺院で栽培されていた。江戸期になると八重の枝垂桜が作られ、「糸桜八重」などの名称で記録が残されている。京都の平安神宮に植栽された八重紅枝垂は、明治時代に仙台で増殖されたものだが、もともとは京都にあった品種なので、<里帰り桜>とも呼ばれている。 楊貴妃(ようきひ) 村上勉の『櫻守』という小説を読んで、その中に登場する「楊貴妃」という桜の描写に魅了された。いつか見てみたいと思っていたのが叶ったのは、かなり年月が経ってからだ。『東京 桜100花』という本を出版するにあたり、各地の桜を訪ね、京都の平野神社で満開の‘楊貴妃’に出会った。 京都市北区にある平野神社に咲く‘楊貴妃’。平野神社では京都ゆかりの桜を中心に、約60の栽培品種が2カ月にわたり、次々と開花する。 中国・唐の時代に玄宗皇帝に愛された絶世の美女の名前を冠した桜は、古くから奈良にあり、一説には奈良・興福寺の僧玄宗にちなんで名づけられたとされる。その姿は期待に違わず妖艶で、風に揺らぐさまは、はかなく美しい。 泰山府君(たいざんふくん) 中国の泰山に祀られた、寿命を司る神の名前を冠した桜。平安時代の貴族藤原成範(しげのり)が泰山府君に祈り、花の命が21日延びたという故事に由来する。自らを桜町中納言と称し、自邸にたくさんの桜を植えていたこの人物の物語は、世阿弥によって能の演目「泰山府君」となり、広く知られることとなった。 花の命が延びることを祈るのは、ゆく春を惜しむ気持ちからだろう。それとともに開花期間でその年の稲の出来具合を占ったという当時の人々の思いも偲ばれる。 普賢象(ふげんぞう) 白色の花弁の中心に葉化した雄しべが2本突き出ているさまを、普賢菩薩が乗る白い象に見立てて命名された。室町時代の文献にその名前が残されているが、現在見られる品種は江戸時代に作出されたものとされる。花と同時に伸びる紫がかった褐色の葉も美しい。 妹背(いもせ) 1つの花に雄しべが2本あり、果実も2個付くことから、夫婦を現す言葉「妹背」と名付けられた。花の中央にもう1つの花ができる2段咲きが見られることもある。 京都の平野神社に咲く‘妹背’。 原木は京都の平野神社にあり、佐野藤右衛門によって広められた。佐野藤右衛門は親子3代にわたり全国に桜を訪ね、貴重な品種を接ぎ木で増やすなど、絶滅寸前の桜を救う「桜守」として知られる。京都の佐野家の庭には130種約10万本の桜が植えられている。 福禄寿(ふくろくじゅ) 紅色で縁取られた白色の大輪花で、花弁がねじれ大きく波打ち、木全体を覆うように彩るさまは見事。荒川堤から広まり、関東を中心に栽培されてきた。福禄寿は中国の道教で理想とされる幸福、財宝、長寿の三文字を現し、福禄寿尊はこれらのご利益を授ける神様として、広く人々の信仰を集めている。日本では七福神のうちのひとりとして知られる。 御衣黄(ぎょいこう) 黄緑色の桜が一面に咲く光景に初めて出くわした時、ちょっとした衝撃だった。 その名は、平安時代の貴族が着用した衣(御衣)の萌黄色に見立てて付けられた。江戸中期に京都で栽培されていた記録が残るが、それ以前から知られていたようだ。独特の花色が珍重され、荒川堤から全国に広まった。同じ黄緑色の桜‘鬱金’(うこん)と系統的には近縁とされるが、‘御衣黄’は花に緑色の筋が入り、花弁に厚みがある。開花が終期にかかると花弁が紅色を帯びていく。
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ストーリー
シェイクスピア劇『オセロー』の悲劇のヒロインに捧げられたバラ‘デスデモーナ’
バラのカタログから バルコニーに咲いた夏バラの‘デスデモーナ’。 わが家のバルコニーのバラ、今年のニューフェイス5種類のうちの一つが‘デスデモーナ’。昨秋に裸苗を鉢に植え付けたものが、4月下旬から5月にかけて次々と開花し、その清楚な花姿にすっかり心を奪われてしまった。よく返り咲き、夏の暑さの中でも、けなげに花をつけている。バラとの出合いは、デヴィッド・オースチン社のカタログだったが、実際の花は写真よりはるかに魅力的だった。そしてそのバラの名前は、ずっと昔に見た舞台を思い出させてくれた。 ニューヨークの劇場で 新潮文庫版『オセロー』の表紙カバー写真。初版は1973年で、現在も版を重ねている。 20代の頃、ニューヨークの小さな劇場で、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の舞台を見たことがある。当時は英語のセリフのほとんどが聞き取れなかったが、ヒロインが陰謀によって死に至ったことは分かり、その理不尽さだけが記憶に残った。後日、福田恒存訳の新潮文庫版『オセロー』を読んで、話の流れは理解できたが、理不尽さは増すばかりだった。 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』 英国ウォリックシャー州、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるシェイクスピアの生家。 『オセロー』(Othello)は、シェイクスピア戯曲の四大悲劇の一つとされる。タイトルのオセローは主人公の名前で、副題は『ヴェニスのムーア人』(The Moor of Venice)。 イタリア、ヴェニスの軍隊の指揮官オセローが、部下イアーゴーの謀略によって、若き新妻デスデモーナの浮気を疑い、その息の根を止めるまでに至ってしまう。真実を知ったオセローは、冷たくなった妻に口づけしながら、自ら剣を以て果てるという物語。 『ハムレット』とほぼ同時期に書かれたとされる戯曲だが、シェイクスピアの他の悲劇のような国家を背景にした国王や王位継承者たちの壮大な人間模様は展開されない。数々の戦歴を持ち、勇敢で、沈着冷静な一人の武人が、言葉巧みな男の策略によって次第に妄想を膨らませていく、その経過を事細かに描いている。いわば心理劇ともいえるもので、現代までに繰り返し上演されてきたのは、そこに普遍的な何かがあるからだろう。 デスデモーナの愛 さまざまな思惑が交錯する物語の中で、ひたすらオセローを信じ、純真な愛を貫くのが、ヒロインのデスデモーナ。だからこそ、いわれもなき罪で夫に締め殺されるという不条理な結末が胸を打つ。 「結婚を嫌って、この国の富める貴公子さえ断りつづけてきた」(父親のセリフ)デスデモーナは、父親にも告げずにオセローの妻となる。ほかの登場人物が北アフリカにルーツを持つムーア人のオセローの肌の黒さを揶揄していることに比べ、彼女はそうした人種への偏見にもとらわれていないのが分かる。純粋にオセローの人間性に惹かれていたのだ。 オセローの最後のセリフから 自分にとって宝ともいえるデスデモーナを殺めた罪を自覚した主人公は、ヴェニス政庁への罪状報告について、次のように懇願する。 「どうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして、愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取り乱してしまった一人の男の物語。(中略)かつてはどんな悲しみにも滴ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同然、潸然と涙を流していたと、そう書いていただきたい」(福田恒存訳、新潮文庫刊) そして「今、俺にできることは、こうして自らを刺して、死にながら口づけすることだ」というセリフを残し、息絶える。 理不尽な死だからこそ、永遠に生きる 清楚な花に、劇中の登場人物デスデモーナのイメージが重なる。 武人としての誇りと美学を以て愛に殉じるオセローだが、デスデモーナの身になってみると、その死はやはり理不尽だ、と思える。もっとも理不尽な最期ゆえに、彼女に思いを寄せる人が絶えないのかもしれない。デスデモーナは多くの画家たちによって描かれ、星やバラの名前として残されている。 現代に上演される『オセロー』 2007年に蜷川幸雄演出で上演された舞台「オセロー」のチラシ写真。 『オセロー』が上演された最古の記録は、1604年、英国の国王劇団によるものとされる。それから400年以上たった今でも世界各地で上演が続いている。国内で記憶に残っているのは、シェイクスピア戯曲を数多く演出している蜷川幸雄の舞台だ。彩の国さいたま芸術劇場で2007年10月に行われた公演では、オセローを吉田鋼太郎、デスデモーナを蒼井優が演じている。 公演に先立ちヴェニスを訪れた蜷川は、その旅についてインタビューにこう答えている。 「ヴェニスに来て改めて感じたのは、豪奢な貴族社会や支配体制下にあって、徹底的な美意識に取り囲まれている世界だということ。(中略)黒人のオセローがその世界の代表的存在である白人の大貴族の娘と結婚することは、一大悲劇だと確信しました。美しく無垢な魂は必ず邪悪なものに破れるに決まっているものです」(埼玉県芸術文化振興財団公式サイトより) 2018年に上演された井上尊晶演出の舞台「オセロー」のチラシ写真。 また2018年9月には、蜷川の演劇を長年支え、その演出の血を受け継ぐ井上尊晶による舞台が新橋演舞場で上演され、オセローを歌舞伎俳優の中村芝翫、デスデモーナを宝塚出身の檀れいが演じている。 オセロゲーム 余談だが、ボードゲームのオセロは、戯曲『オセロー』から名づけられたとされる。正方形の盤上に表裏を黒と白に塗り分けた石を使用し、黒と白を担当するプレイヤーが相手の石を裏返すことで勝負する。「覚えるのに1分、極めるのに一生」というキャッチフレーズがあり、単純なルールだが、多数の戦術があることで知られている。 GrooveZ/Shutterstock.com 水戸市のゲーム研究家・長谷川五郎によって現在の形が考案され、その父親・長谷川四郎教授によってオセロゲームと命名された。英文学者の四郎は、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々と変わっていくゲームを、オセローとデスデモーナをめぐって敵味方が目まぐるしく入れ替わる戯曲になぞらえたのだという(長谷川五郎著『オセロゲームの歴史』河出書房新社刊)。ほぼ同様のゲームにリバーシがあり、こちらは19世紀にロンドンで考案されたそうだ。 バラ‘オセロー(オセロ)’Othello 1986年、イギリス、デビッド・オースチン作出のイングリッシュローズ。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公に捧げられたバラ。カップ咲きで、深紅色から赤紫色へと花色を変化させ、オールドローズの面影を色濃く残す。四季咲きで、よく返り咲く。 花径:10~13cmの大輪樹高:120~180cm樹形:半つる性香り:強いダマスクの香り バラ‘デスデモーナ’Desdemona 2015年、イギリス、デビッド・オースチン作出のイングリッシュローズ。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の悲劇のヒロインに捧げられたバラ。咲き始めはピーチがかった淡いピンク色で、咲き進むにつれ白一色の花色になる。四季咲きで、よく返り咲く。 花径:5~9cm樹高:90~120cm樹形:半直立性香り:オールドローズの香り+アーモンドの花の香り
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ストーリー
イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’
イギリスの骨董市巡り 仕事でロンドンに行き、時間があると立ち寄るのが、骨董市やアンティークショップ。骨董といっても、手に入れるのはティーカップなど生活の中で使用するささやかなものがほとんどだが、時代を経て存在感が増した品々を見て歩くのが楽しい。 気に入ったものを手に取ると、店の主人から「それはヴィクトリアンだ」と告げられることが多い。ヴィクトリア女王が統治していた、1837年から1901年までのヴィクトリア朝時代に作られたものを意味する言葉だ。イギリスでは100年以上を経たものをアンティークと呼ぶので、まさに真の骨董品。ヴィクトリア朝時代は、文化やファッションが栄えた時期で、残された物のたたずまいも瀟洒だ。 バラとの出合い 今年5月、わが家のバルコニーで初めて咲いた‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。 昨年出かけた千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘バラ園」で出合ったのが、‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。コロンとしたカップ咲きの花に惹かれて、名前を確かめた。ヴィクトリアはイギリスの女王だと推測できたが、ラ・レーヌがフランス語なので、ヴィクトリア女王を意味するのか確信が持てなかった。それでも昨秋に苗木を取り寄せて、植え付けてみた。 細くしなやかな枝に、たくさんの花を付ける可憐なバラだが、その成長ぶりには驚かされる。 届いたのは新苗だったが、冬までに2m以上枝を伸ばし、春になるとさらに成長し、一面に花を付けた。調べると、ラ・レーヌはフランス語で女王を意味するのだという。わが家のニューフェイスは、やはりヴィクトリア女王だった。 ヴィクトリア時代 ヴィクトリア女王の肖像写真。1800年代半ばから写真技術の発達によって、女王やロイヤル・ファミリーの肖像が多く残されるようになった。 Everett Collection/Shutterstock.com ヴィクトリア女王は、大英帝国を象徴する君主といわれる。女王が統治した時代、英国は世界各地を植民地・半植民地化し、領土を10倍以上に拡大している。在位は63年7カ月という長きにわたり、産業革命を経たのちの英国は、技術、経済、文化を大きく発展させ、一大帝国を築き上げた。ちなみにヴィクトリア女王は、2022年までイギリス女王であったエリザベスⅡ世の高祖母(祖父母の祖母)に当たる。 ヴィクトリア女王誕生 ヴィクトリア女王は1819年、ロンドンのケンジントン宮殿でアレクサンドリナ・ヴィクトリアとして生まれた。1837年にウィリアム4世が崩御し、王には子どもがいなかったので、姪であるヴィクトリアが、18歳にしてハノーファー朝第6代の女王に即位した。 若くして女王となったヴィクトリアの決意を、彼女が残した日記で読み取ることができる。 「私をこの地位に就かせたのは喜ばしい神のお導きによるものなので、わが国に対する義務を全力で果たしたいと思う」(『ヴィクトリア女王 英国の近代化をなしとげた女帝』デボラ・ジャッフェ著、二木かおる訳、原書房刊) ヴィクトリアとアルバート ウィンザー城でのヴィクトリア女王とアルバート公、長女ヴィクトリア王女が描かれた絵画。Everett Collection/Shutterstock.com ヴィクトリア女王は1840年、いとこであるザクセン=コーブルク家のアルバート王子とセント・ジェームズ宮殿で挙式し、バッキンガム宮殿にて披露宴を行った。ドイツの小さな公国の王子であったアルバートと会ったヴィクトリアは、彼を一目見たとたんに夢中になり、結婚する気になったという。アルバートはハンサムで、礼儀正しく、知的でユーモアがある青年だった。 結婚当初、女王の夫であるアルバートには何の役割も与えられなかったが、ヴィクトリアにとって信頼できる相談相手となった。ヴィクトリアは結婚から10カ月後に第一王女を出産し、その後も出産は続いたので、アルバートは妻の代理として行事に参加するようになった。やがて国政について意見するのを許されるようになり、ヴィクトリアとアルバートの共同統治の様相を帯びていった。 最初は外国人のアルバートを受け入れられなかったイギリス国民も、その存在を次第に認め始めていた。王立技芸協会の会長となり、芸術と工芸を発展させたアルバートは、1851年のロンドン万国博覧会を取り仕切るなどの実績を残している。 映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」 映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、表面。 若き日のヴィクトリア女王の半世紀を描いた劇映画に、「ヴィクトリア 世紀の愛」(原題「The Young Victoria」)がある。監督ジョン=マルク・ヴァレ、主演エミリー・ブラントで、2009年に作られた英・米合作の映画だ。11歳で王位継承順位の一番にあると知らされたヴィクトリアの、女王への自覚、アルバートとの恋、2人の共同統治に至るまでの道のりなどが描かれている。 映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、裏面。 結婚式のシーンでは、髪に花飾りを付けた女王が登場する。実際の挙式でも伝統的なティアラを嫌い、モックオレンジの白い花飾りを用いたという。また現在、白のウエディングドレスを着る習慣はヴィクトリア女王から始まったと伝えられている。前述のデボラ・ジャッフェの著書によると、ウエディングドレスはクリーム色だったが、披露宴で白いシルクのドレスを身に着けたという。それまで花嫁はさまざまな色のドレスを着ていたので、白いドレスは印象的だったのだろう。 ロイヤル・ファミリー ヴィクトリア女王は20年の結婚生活の中で、9人の子どもをもうけている。王室のニュースが新聞や雑誌で報道されるようになると、一家はロイヤル・ファミリーとして、国民のあこがれとなっていった。その伝統は今もイギリス王室に受け継がれている。また子どもたちがヨーロッパ各地の王家と婚姻関係を結び、女王はヨーロッパ王家の家長的存在でもあった。 家族のための家 イギリス南東部に位置するワイト島にあるオズボーン・ハウス。女王一家が夏の休暇を過ごすようになって、ワイト島はヨーロッパ王室のリゾート地となった。RogerMechan/Shutterstock.com バッキンガム宮殿やウィンザー城の堅苦しい生活から逃れて子どもたちと家庭生活を過ごすために、2人はイギリスのワイト島にオズボーン・ハウス、スコットランドにバルモラル城を購入した。 スコットランド・アバディーンシャーにあるバルモラル城。A.Karnholz/Shutterstock.com 女王は特にバルモラル城を「楽園」と呼び、田園生活を楽しんだ。以前から子どもたちをスケッチしていたが、それに加え、たくさんの水彩による風景画を描いている。1850年代に写真術が発達すると、ヴィクトリアとアルバートは、積極的に被写体となった。残された写真から、2人の関係や家族の様子、当時の服装や生活様式を垣間見ることができる。 バルモラル城はエリザベス女王も夏の避暑地として愛し、この地で生涯を終えたことは記憶に新しい。 喪服の女王 1861年に夫のアルバートが亡くなると、ヴィクトリアの嘆きは大きく、オズボーン・ハウスとバルモラル城に隠遁し、その生活は10年の長きにわたった。また、生涯を喪服で過ごすことに決め、以後40年にわたり黒服を着続けている。 1870年代初頭から、徐々に気力を取り戻した女王は公務に復帰し、以前にも増して大英帝国に君臨する存在となっていった。1877年には英領インドの女帝となり、これ以降、「女王にして女帝、ヴィクトリア」と署名している。 映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」 映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」チラシ表面。 1887年、女王即位50周年を記念した式典に英領インドからイギリスにやってきたのが、のちに女王の秘書となったアブドゥル・カリム。映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」(原題「Victoria&Abdul」)は、女王とカリムの絆を描いている。 2019年に日本公開された映画、チラシ裏面。 女王は彼からインドの生活や言葉を学び、食事のメニューにカレーを加えたという。白人至上主義の時代に、インド人を重用する女王への周囲の反感は強く、息子のエドワード7世により歴史から抹殺されていた実話に基づき、2017年に作られた映画。監督スティーヴン・フリアーズ、主演ジュディ・デンチで、実際にワイト島のオズボーン・ハウスで撮影された美しい映像が印象的だ。 19世紀の終焉とともに バッキンガム宮殿の正面に建てられたクィーン・ヴィクトリア記念碑。maziarz/Shutterstock.com 女王の在位60周年記念式典が執り行われたのが、1897年。20世紀が幕開けした頃から女王の健康状態は悪化し、1月に家族に囲まれてオズボーン・ハウスで息を引き取った。波乱に満ちた81年の生涯は、19世紀の終焉とともに閉じられたのだ。盛大な葬儀の後、ヴィクトリアは夫アルバートの隣に埋葬され、バッキンガム宮殿の正面のザ・マルに巨大な記念碑が建立された。 2019年には女王の生誕200年を記念したさまざまな行事が執り行われ、バッキンガム宮殿で特別展が開催されている。 バラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’ ‘La Reine Victoria’ 1872年にフランスで作出されたオールドブルボンローズ。ラ・レーヌはフランス語で女王を表し、イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ。作出者はジョセフ・シュワルツ。コロンとした小花を枝一面に付け、よく返り咲く。枝変わりに、淡いローズ色の‘マダム・ピエール・オジェ’がある。 花形:ラベンダーローズ色のデープカップ咲き花径:5~6cm樹高:2~3m樹形:しなやかな枝が扇状に広がる香り:ティー+ダマスクにフルーツの香り ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’、6月の二番花と2色の鉄砲ユリ。
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ストーリー
【バラのアート】わが家のバラが合田ノブヨの作品「ボタニカル・エッグ」に!
草花とコラボするアート 5月のある日、わが家に卵が届いた。瀟洒な箱に納められた1個の卵。そこにはバラ‘ルドゥーテ’の葉を染め写したというメッセージカードが添えられていた。 2023年4月末、恵比寿にあるギャラリーLIBRAIRIE6に、コラージュ作家の合田ノブヨさんの個展を見に出かけた。その折、わが家のバルコニーで咲き始めたバラを少しだけ持参した。‘Green Remembrance’と題されたギャラリーの展示は、「草花たちが見ていた景色とその記憶」として、草木染めした紙に写真や押し花をコラージュし、着彩した作品で、夢の中の草花の世界を描いている。ファンタジックでありながら、どこか凄味のようなものが潜んでいる魅力的な作品たち。作家の植物への造詣と愛の深さが感じられるものだった。 ボタニカル・エッグ展示作品。ノースポールの花や ニガヨモギ、菊の花などを卵の殻に染め写している。* ギャラリーの中央に置かれた展示ケースには、花や葉を染め写したというボタニカル・エッグが並び、不思議な雰囲気を醸し出していた。 ボタニカル・エッグ ‘バレリーナ’の花を染め写したボタニカル・エッグの制作工程。* ギャラリーに持っていったバラは、やや早咲きの‘ルドゥーテ’や‘ウィンチェスター・キャシードラル’、‘ボレロ’などだった。合田さんによると、花は大きすぎたので、バラの葉を卵の殻に染め写したという。卵に絵を描くのは、イースター・エッグなどで知られているが、彼女のボタニカル・エッグは描くのではなく、植物の持つ色素やエッセンスを写し留めるのだという。 試行錯誤の末に得た手法は、ちょっとした秘密らしいが、調合した液体で夜な夜な卵を染めるという彼女の話から、魔女めいた仕事ぶりを想像し、ワクワクさせられた。 今年のわが家のバラ、ニューフェイス バルコニーで初めて咲いた‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ。 5月に入り、バルコニーのバラたちは一斉に開花し、バラ協奏曲を奏で始めた。今年のニューフェイスは、‘ファンシー・ラッフル’ ‘デスデモーネ’ ‘ソフィー・ロシャス’ ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’ ‘アントニ・ガウディ’。もう鉢を置くスペースがないと言いながら、昨秋も5種類の苗を植え付けてしまった。 贈られた卵の無事到着のお知らせに、‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’の花と個展の案内状を写真に撮って合田さんに送った。その写真を見た彼女から「‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’は、バラを育てていた頃に苗を探して、見つけられなかった憧れの品種です。コロンとした姿がポール・ポワレのドレスに縫い付けられたコサージュのようで…」というメッセージが届いた。何となく選んだわが家の新入りのバラが、彼女の琴線に触れていたのは、嬉しいことだった。 バラの花が永遠の卵に ギャラリーに置かれていたボタニカル・エッグは、主にノースポールの花とヨモギの葉を写し留めたもの。卵の殻の大きさに合う花と草で、染め写して美しい結果が現れるものを選んでいるという。 わが家のバルコニーに咲く‘バレリーナ’。 そこでひらめいたのが、小輪のバラを染めることはできないかということ。合田さんに相談すると、試してもよいという返事だった。さっそく、バルコニーのバラの中で、卵の殻の大きさに合う、‘バレリーナ’ ‘ブルー・ランブラー’ ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’などの花を手渡した。 ‘ルドゥーテ’の葉(左)と‘バレリーナ’の花(右)のボタニカル・エッグ作品。 結果、バラを染めるのは難しいとのことだったが、黒地に花が浮かび上がった‘バレリーナ’が、ことのほか美しく仕上がった。黒地はブレンドした茶葉で染めるのだという。‘バレリーナ’の形とかすかに残るローズ色が、アール・ヌーボーの時代の絵のように見えるのは、欲目だろうか。わが家のバラが永遠の命を与えられたかのように感じた。 合田ノブヨのボタニカル・ライフ コラージュ作品「花鎖」* 合田さんは早い時期から植物に興味を持って、草花遊びをするような子どもだった。葉山に住んでいた高校生の頃、オールドローズを紹介する本を見て、庭でバラを育て始めた。一時期、バラは30種類を数えたという。 コラージュ作品「Green Remembrance/薔薇の葉・紅」* 2年前の個展で、押し花をコラージュした作品を作り、残った押し花を卵に写し留めたのが、ボタニカル・エッグを始めるきっかけだった。以来実験を重ね、今年の個展でいくつかの卵を展示するまでになった。彼女のコラージュ作品は人気で、ほとんどが売約済みだったが、卵も同様で、あっという間に人手に渡っていた。卵たちがそれぞれの家でどんなにふうに飾られているか、その様子がSNS上に飛び交っている。 彼女の現在の庭は、海外から種子を取り寄せたニガヨモギやコストマリーなどのハーブ類がほとんどで、そこからコラージュ作品やボタニカル・エッグの素材が生まれている。 アゲハチョウの誕生 何年か前にレモンの木に産み付けられたアゲハチョウの幼虫を孵化させて、家の中で蝶を誕生させたことがあった。蛹(さなぎ)が蝶になる瞬間を目撃できたときの感動は、今でも忘れられない。 それは合田ノブヨさんが、数羽の蝶を手に止まらせている写真を見て、憧れたのがきっかけだった。彼女から飼育法を伝授され、10羽ほどの蝶を誕生させた。あらためて尋ねると、1年で300羽ほどの蝶を孵化させたという。まさに「虫めづる姫君」の世界だ。 バラの花のインク バラの花から抽出したインク。* 草花からインクを作ることは、ジャーマンアイリスの花がら摘みをしていて思いついたのだという。指に染まった青色を見て、そこからインクを連想し、実際に作ってしまうのは、非凡な才能だ。中世のインクの作り方のレシピに沿って、さまざまな花や木の実で試作している。 赤いバラの花のインクで合田さんが描いたカリグラフィー。* 私が魅了されたのは、バラの花びらから抽出したバラ色のインク。書き始めは澄んだピンク色で、乾くと紫がかった色になるという。彼女の手になるカリグラフィーも美しく、こんなインクで手紙をもらったら、胸がときめくに違いない。バラのインクは紙の上に永遠に残るものなのだろうか。ある日突然文字が消えていたら! それも素敵ではないか。 ボタニカル・エッグ、再び 友人宅から枝を持ち帰って挿し木した野生のバラ、ロサ・ムリガニー。 わが家のやや遅咲きのバラに、ロサ・ムリガニーがある。純白の小輪のバラで、ボタニカル・エッグの素材になるのではと、再び合田さんにお渡しした。長い雄シベが優美なバラで、結果それが写し留められ、麗しい姿になった。 ちょっと珍しいバラなので、オレンジ色の‘ファイヤー・グロー’を花束に加えた。これは花弁が多く卵には無理だと思ったが、不思議な姿が現れた。作者がことのほか気に入っている様子で、それが何よりだった。 バラを育てる愉しみ バラを育てていると、さまざまに愉しむことができる。30年間無農薬なので、バラ風呂やバラジャム、バラの花びらを発酵させた酵母で作ったパンなどが可能で、生活の彩りも豊かになる。バラは写真の絶好の被写体でもあって、早朝つぼみが開きかけた瞬間を日々撮影できるのは自家栽培ならでは、とも思える。 ロサ・ ムリガニーや‘ファイヤー・グロー’などのバラのエッセンスを写し留めたボタニカル・エッグ作品。* 今年はそれに、ボタニカル・エッグが加わった。まだバラでは実験段階のようだが、今後、わが家の花が合田ノブヨさんの作品になって、ギャラリーに並ぶことを夢想している。
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ガーデン&ショップ
東京・根津美術館で「燕子花図屏風」を見て、庭園のカキツバタと出合う
カキツバタの記憶 根津美術館の庭園内、茶室・弘仁亭近くの池に咲くカキツバタ。一度咲いた茎から次のつぼみが花開き、二度咲きとなる。 10年近く前に、友人に誘われて東京・青山にある根津美術館に、尾形光琳筆の「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」を観に出かけたことがある。その折の屏風の佇まいもさることながら、庭園に咲くカキツバタが見事だったことが記憶に残っていた。 庭園内の石橋の上から見たカキツバタの群生。水面に映る姿が優美だ。 屏風は毎年、カキツバタが咲く4月から5月にかけての約1カ月間公開される。今年(2023年)はいつになく開花が早いという花便りが届き、改めて国宝・「燕子花図屏風」と庭園のカキツバタを見てみたいと、根津美術館を訪ねた。 展示室にて 特別展会場に展示された、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(特別に許可を得て会場撮影をしています)。 美術館の1階の広い空間の中央に置かれた「燕子花図屏風」はひときわ輝いて見えた。屏風の公開に当たっては、毎年テーマが決められ、今年は「光琳の生きた時代1658-1716」という切り口で構成されている。宮廷や幕府主導の文化の時代から、町人が担い手となって花開いた元禄文化の時代へと、尾形光琳が生きた約60年間の江戸の美術史を切り取る試みだ。 光を放つ、燕子花図屏風 「燕子花図屏風」。6曲1双の屏風は、見る角度によって、躍動する様子が違って感じられる。 総金地に描かれた群青色の花と緑青色の葉。リズミカルで大胆な構図は、現代に生きる私たちにとってもモダンで斬新に感じられる。屏風を数える単位は隻(せき)で、1隻の中に縦長の画面を6枚つなぎ合わせたものが6曲屏風。6曲屏風が2隻で1組みになっているこの屏風は6曲1双とされる。 国宝・「燕子花図屏風」 尾形光琳筆 日本・江戸時代 18世紀 根津美術館蔵(上/右隻 下/左隻) 写真提供:根津美術館 右隻には根元からすっくと立つ花の群生が描かれ、左隻では根元をほとんど見せていない。写真家の眼からは、右隻は広角レンズでやや下から仰ぎ見た図、左隻は望遠レンズでやや上から見た図、とも思える。この対照的な構図によって、燕子花は躍動し、空間は無限に広がっている。 総金地に群青と緑青の2色の岩絵具をふんだんに使い、色彩の濃淡によって幽玄の世界を現出させている(右隻の部分)。 金箔の部分は光を反射し、見る角度によって艶めかしくも、冷淡にも見える。2色の岩絵具の濃淡だけで燕子花の生気を描き出すという色彩感覚もまた驚異的だ。 尾形光琳の生涯 茶室・弘仁亭側から見たカキツバタの群生。 江戸時代を代表する絵師のひとり、尾形光琳(1658-1716)は、伝統的な大和絵に斬新な構図を取り入れ、のちに琳派と呼ばれる画派を確立した人物として知られる。 1658年に京都でも有数の呉服商の家に生まれ、幼い頃からさまざまな絵画や工芸に触れて育った。30代前半から絵師の道を志し、本格的に活動を始めたのは40代になってから。「燕子花図屏風」は40代半ばの代表作とされる。その後、「紅白梅図屏風」(国宝)、「風神雷神図屏風」(重要文化財)などを制作。1716年に没するまで、わずか十数年の制作期間であった。 尾形光琳晩年の筆「夏草図屏風」。ここにも燕子花が描かれている。日本・江戸時代 18世紀 根津美術館蔵 写真提供:根津美術館 燕子花図屏風に描かれた花の群生は、一部に染め物で使う型紙の技法が使われ、同じ形が反復されている。これは子どもの頃から着物の意匠に接してきた光琳ならではの発案だろう。燕子花図は、平安時代前期に書かれた『伊勢物語』第九段「八橋」に想を得ているという。光琳が好んで描いた花の背景には、彼が思いを馳せた和歌や物語があることを知ると、鑑賞の趣もまた変わってくる。 根津美術館の庭園 左/池の縁に沿って配されたカキツバタは、群生とは違った雰囲気を醸し出す。右/庭園南西の、ほたらか山と名づけられた石仏や石塔を集めた丘。 根津美術館を訪ねる楽しみの一つが、庭園散歩。広さ2万㎡の起伏に富んだ庭園をめぐると、都会にいることを忘れるほど、深山幽谷の気配を感じることができる。美術館は実業家初代根津嘉一郎氏の古美術コレクションを保存し、展示するために作られたが、庭園もまた彼の意向に添ったもので、いわば自然が生み出す芸術といえるものだ。その最たるものが、水辺のカキツバタの群生だ。庭内には灯籠や仏像などの石造物が100体ほど配され、薬師堂の竹林、初夏に色づく紅葉など、印象的な景観が展開する。 庭園散歩の途中立ち寄った、茶室・披錦斎(ひきんさい)のお抹茶。 庭内には4つの茶室があり、その1室で抹茶を味わった。カキツバタをかたどった練り菓子が供され、眼も舌も愉しんだひととき(今回展期間中のみ)。 左/孟宗竹の林を背景とした薬師堂。右/茶室・斑鳩庵へと続く小道。 庭内を悠然と散歩するサギ。毎年どこからか飛翔してくるという。 カキツバタの群生 池の周囲を360度巡ると、カキツバタの群生のさまざまな表情がうかがえる。 カキツバタは、庭園の中央部に位置する池の一角に群生している。開花の最盛期に訪れることができたのは幸運だった。池をぐるりと巡り、違った角度から見ると、花の趣もまた変わってくる。私が訪ねた日にはサギが園内を悠然と散歩し、池には水鳥が遊んでいた。どこからか飛来してくるのだという。 初夏の日差しを受け、凛として華やかなカキツバタの姿は印象的だ。 カキツバタはアヤメ科アヤメ属の植物で、乾燥した場所を好むアヤメに対して、カキツバタは湿地を好む。カキツバタのほうが葉幅が広く、また花弁の付け根に網目模様があるのがアヤメで、カキツバタには1本の白い筋が見られる。 今も水が湧き出ている「吹上の井筒」のある池と、カキツバタ。 庭園のカキツバタが池の水に映る様は、たとえようもなく優美。さらに尾形光琳の屏風絵を見たあとの散策には格別なものがある。この時期ならではの贅沢な時間を味わうことができるのだ。 Information (左上から時計回りに)美術館外観、エントランスへの道、NEZUCAFE、美術館ホール。 根津美術館 特別展「国宝・燕子花図屏風 光琳の生きた時代1658-1716」2023年4月15日(土)~ 5月14日(日) 住所:107-0062 東京都港区南青山6-5-1電話:03-3400-2536開館:10:00~17:00(入館は16:30まで)、 5月9日~5月14日は19:00まで開館(入館は18:30まで)休館:月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休)、展示替期間、年末年始入館料:[特別展] 一般1,500円、学生1,200円(オンライン日時指定予約) 当日券 一般1,600円、学生1,300、小・中学生以下は無料 (*混雑状況によっては当日券を販売しない場合もあります)アクセス:地下鉄銀座線・半蔵門線・千代田線、表参道下車、徒歩約10分HP:https://www.nezu-muse.or.jp
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ガーデン
牧野富太郎博士ゆかりの植物に出合える「練馬区立牧野記念庭園」
練馬区立牧野記念庭園を訪ねて 牧野富太郎博士が描いた植物画集とポストカード(高知県立牧野植物園刊)。特注の細筆で描写したという植物画の緻密さは驚嘆に値する。 子どもの頃、父の本棚にあった植物図鑑を飽かず眺めていた。その図鑑の著者が、日本の植物分類学の基礎を築いた牧野富太郎博士と知ったのは、ずっと後のことだ。植物との付き合いが今も続いているのは、図鑑の植物画が記憶のどこかに残っているからかも知れない。 ‘染井吉野’とほぼ同時期に開花する、庭園内の桜‘仙台屋’。牧野博士が名付けたとされる。 『東京 桜100花』(2015年、淡交社刊)という本を出版するにあたり、2年ほど桜三昧の日々を過ごしたことがある。桜に関するあらゆる書物を読み、都内の桜を撮影し、さらに原木のある北海道など各地にも足をのばした。その折に、牧野博士が名付けたとされる‘仙台屋’という桜があることを知ったが、開花のタイミングに合わず、撮影できなかったことが心残りだった。 左/‘仙台屋’と並んで咲く‘染井吉野’。右/‘仙台屋’から数日遅れて開花するヤマザクラ。いずれも大木だ。管理室・講習室棟の前では、等身大の博士のパネルが迎えてくれた。 今年も桜の季節が到来し、わが家のバルコニーでも‘河津桜’、‘陽光’に続き、‘染井吉野’が咲き始めた。仙台屋も染井吉野と同じ頃の開花のはずと、西武池袋線大泉学園駅に近い、練馬区立牧野記念庭園を訪ねた。そこには牧野富太郎博士が晩年の30年あまりを過ごした私邸跡地に設けられた庭園と記念館がある。折しも牧野博士が主人公のモデルとなる、NHKの朝ドラ「らんまん」が始まるというタイミングで、園内は思いのほか賑わいを見せていた。 武蔵野の面影を残す庭園 庭園内には、アカマツ、エゴノキなど武蔵野の雑木林に以前からあった大樹と、博士収集の植物が今も残されている。 牧野富太郎博士は、その生涯で1,500種類以上の植物を発見・命名している。出身地の高知県には雄大なスケールの県立牧野植物園があるが、練馬の庭園も博士が「我が植物園」と呼んでいたように、各地から集めた植物など、300種類以上の多彩な草木を見ることができる場所だ。 庭園入り口に咲く早咲きの桜、‘大寒桜’。薄紅色の花は終わりに近づくにつれ濃い紅色に変化していく。 今では周辺は住宅地だが、かつては武蔵野の雑木林だった地で、その面影を残す大木も見られ、草木も野にあるような自然な佇まいを見せている。博士は桜を好み、園内では仙台屋以外にもカンヒザクラ、ヤマザクラなどの野生の桜、さらに大寒桜、‘染井吉野’、‘福禄寿’などの栽培の桜が開花する。 桜‘仙台屋’の由来を辿る 咲き始めの可憐な花姿を見せる桜‘仙台屋’。 ‘仙台屋’は淡い紅紫色で、5弁の楚々とした花姿を見せていた。原木はかつて高知市の仙台屋という店の庭にあったもので、その屋号にちなみ牧野博士が名付けたとされている。桜の由来については、高知の園芸家、武井近三郎氏の著書『牧野富太郎博士からの手紙』(高知新聞社刊)に以下のような記述がある。「佐伯さんという人が仙台から移動してきて、中須賀で仙台屋という屋号で商売を始めたのですが、その屋敷の庭へ移植した桜です」。 満開時の‘仙台屋’と‘染井吉野’(左)。‘仙台屋’の横には地下根が伸びて育った若木が寄り添うように立っている。 桜の種類は、東北から北海道にかけて分布する野生種のオオヤマザクラ(ベニザクラ)の栽培品種ではないかとされているが、定かではない。牧野博士はこの桜を気に入り、武井氏に「高知の名物の桜にするべし」と書き送り、また苗木ができたら自分へも送ってほしいと再三手紙を出している。 庭園内の‘仙台屋’は博士自ら植栽した桜で、樹齢70年と推定される。 武井氏は博士の熱意に応え、桜の小枝1,000本を挿し木して苗木を育てた。その苗木が博士に送られたという高知新聞の記事が残っている。1953年12月4日の記事で、それによると庭園の‘仙台屋’は樹齢70年ということになる。 これは推測だが、仙台屋のあるじは望郷の念に駆られ、宮城から桜の苗木を移植したのではないだろうか。桜は高知に根付き、やがて博士が故郷を偲ぶ桜となった。そんな風に花に寄せる思いをたどることができるのも、桜ならではと思えるのだ。 牧野富太郎博士の生涯 記念館の常設展示室に飾られた牧野博士の肖像。笑顔が印象的だ。 牧野富太郎(1862-1957)は、1862年(文久2)に高知県高岡市佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な家に生まれた。子どもの頃から植物に興味を示し、小学校を中退、植物採集に励んだという。22歳で上京し、本格的に植物研究の道に進んだが、ほとんどが独学といえるものだった 記念館、常設展示室の展示資料。植物標本と博士愛用の採集道具が並ぶ。 1889年(明治22)、土佐で発見した新種「ヤマトグサ」に学名をつけ、友人と創刊した雑誌に発表するなど、創生期であった日本の植物学に大きな足跡を残している。それまで日本では、植物の学名を付けることを海外の学者に依頼していたのだ。1888年(明治21)に『日本植物志図篇』、1900年(明治33)に『大日本植物志』の刊行を始めた。さらに集大成となる『牧野日本植物図鑑』を1940年(昭和15)に刊行。この図鑑は植物研究のバイブルとして、今も多くの人々に愛用されている。 妻に捧げるスエコザサ 牧野博士胸像を囲むスエコザサ。妻への感謝と愛をこめて博士が名付けた笹だ。 博士は妻、寿衛との間に13人の子どもをもうけている。研究のために必要な経費と家族を養うために大変な苦労をしたことが、『牧野富太郎自叙伝』(日本図書センター刊)に残されている。研究に没頭する博士を支え続けた妻亡きあと、博士は仙台で見つけた笹を新種としてSasa suwekoanaと命名し、和名をスエコザサとした。スエコザサは庭園の博士の胸像を囲むように植えられている。 博士の植物画 記念館の常設展示室に置かれた、牧野博士のさまざまな著書。 牧野博士は植物画を自ら描いている。『牧野富太郎植物画集』(高知県立牧野植物園刊)によると、その数は約1,700 点という。特注の細筆や面相筆で描かれた絵は、草木の息吹まで伝わってくるような、細密で生気に満ちたものだ。『日本植物志図篇』を自費出版するにあたっては、石版印刷の技法を学び、自ら印刷を手掛けたという。日本各地で植物を採取し、描き、出版する、それは驚嘆に値する仕事量だ。 庭園の植物 300種類以上の植物が生育する庭園は、周囲を住宅に囲まれながら、そこだけは別天地の様相を見せている。 庭園では季節ごとにさまざまな植物が開花し、それを楽しみに通う人も多い。私が訪ねた3月下旬には、ヤブツバキ、ボケ、カタクリ、コブシ、ヒロハノアマナ、シュンラン、バイモなどの花を見ることができた。 左上から時計回りに/クサイチゴ、バイモ、ヤマブキソウ、カタクリ、ヒロハノアマナ、ボケ。 牧野博士が植栽した樹木には、樹名板に独特のマークが添えられている。そのマークは博士の印鑑と同じく、巻いた「の」(マキノを意味する)が描かれていて、博士のユーモアあふれる人柄が感じられる。 庭園内の施設 庭園内には、企画展示室と常設展示室のある記念館、書屋展示室、講習室などがある。常設展示室には博士の遺品や資料が展示され、その生涯と業績をたどることができる。博士愛用の植物採集道具を見ていると、野山を駆け巡っている姿が目に浮かぶようだ。 書物が積み上げられた書斎は、博士が執筆し、植物画を描いた当時を再現している。 木造の家の一部がそのまま建物に覆われた書屋展示室は、今年(2023年)4月3日にリニューアルオープンし、書斎と書庫内部が当時の様子に近い状態に再現されている。 植物に寄せる思い 採集道具の中でも印象的な牧野式胴乱。 牧野博士は学問の世界に留まらず、各地の植物採集会の講師を務め、全国に植物愛好家が増えるようにと願っていた。植物への愛は尽きることなく、著書で繰り返し語った。「私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。或いは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。ハハ、、」というユーモアたっぷりの一文も残されている。 著書の表紙写真。左/『牧野富太郎自叙伝』(1997年、日本図書センター刊)、右/『好きを生きる 天真らんまんに壁を乗り越えて』(2023年、興陽館刊) 初期の自叙伝の最後を締めくくる句は「草を褥に木の根を枕、花を恋して50年」。後に「今では私と花との恋は、50年以上になったが、それでもまだ醒めそうもない」と綴っている。 植物を愛し、愛された牧野富太郎の94年の生涯。そのゆかりの庭園を散策し、あらためて植物と在ることの幸せを感じた。 庭園内の顕彰碑。「花在れバこそ、吾れも在り」という博士の言葉が刻まれている。 Information 練馬区立牧野記念庭園面積:2,576.22㎡開園:1958年(昭和33)12月1日場所:東京都練馬区東大泉6-34-4電話:03-6904-6403開園時間:9時~17時 休園:毎週火曜日、年末年始入園料:無料アクセス:西武池袋線大泉学園駅(南口)歩5分HP: https://www.makinoteien.jp
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ストーリー
【バラの名前】19世紀フランスの文豪に捧げられたバラ「ギィ・ドゥ・モーパッサン」
バラとの出会い 清楚なつぼみは、やがて艶やかに花開く。モーパッサンの名前を冠されたバラは、バラ園でもひときわ輝いて見える。 バラ園を巡っていると、花を愛でると同時にバラの名前のタグに目がいく。かなり以前から見かけて、ずっと気になっていたバラに、フランスの作家の名前が冠せられた‘ギィ・ドゥ・モーパッサン’がある。その名前を見るたびに、20代の頃に途中で読むのをやめてしまった『女の一生』という小説のことが思い出された。当時は意気盛んで、主人公の煮え切らない態度にいらだったのが最後まで読まなかった理由だが、バラの名前に誘われて、モーパッサンの小説を改めて読んでみようと思いたった。 作家・詩人、ギ・ド・モーパッサン フランスの写真家ナダールによって撮影されたギ・ド・モーパッサンの肖像。Nadar, Public domain, via Wikimedia Commons モーパッサン(Guy de Maupassant 1850-1893)は、19世紀後半に台頭したフランスの自然主義作家の一人として知られる。『女の一生』に代表される長編小説を6編発表しているが、短編小説の名手でもあり、その著作の数は300近いともいわれている。島村藤村や永井荷風など、20世紀初頭の日本の作家に与えた影響は大きく、モーパッサンの名前は、わが国でも広く知られている。 フランス、ノルマンディー地方の町の裕福な家庭に生まれたモーパッサンは、自然豊かな地で、漁師や農夫の子どもたちと遊ぶ幼少期を過ごしている。『女の一生』をはじめ、多くの小説がノルマンディー地方を舞台とするなど、その著作には作者の少年時代の環境が色濃く反映されている。 文学好きな母親の影響で、子どもの頃からシェイクスピアの戯曲を読み、自由な空想の世界に惹かれたモーパッサンは、13歳の頃から詩作を始めた。パリ大学在学中の20歳の頃にフランスとプロイセン(後のドイツ)との間に戦争が勃発。遊撃兵として召集されて惨禍を目撃した体験は、その後の彼の人生に深い影を落としている。 文壇デビュー 22歳でパリに出たモーパッサンは、母の勧めで同じノルマンディー地方出身の小説家、ギュスターヴ・フローベールと出会った。『ボヴァリー夫人』で著名な作家フローベールは、彼を愛弟子とし、7年間にわたり薫陶を与え続けた。 フローベールに紹介され、エミール・ゾラに会ったモーパッサンは、ゾラのまわりに集まる若い文学者たちと交流し、ゾラの別荘で文学を論じ合っていた。1980年、ゾラが編んだ短編集『メダン夜話』に小説『脂肪のかたまり』を発表。6人の作家がフランスとプロシャの戦争を題材にした作品を持ち寄ったこの本の中で、モーパッサンの短編の評価が群を抜いて高く、事実上の文壇デビュー作となった。 短編小説『脂肪のかたまり』 モーパッサンのデビュー作となった『脂肪のかたまり』(オランドルフ社版)の表紙。 『脂肪のかたまり』は、プロイセン軍占領下のフランスの町を抜け出す馬車の客10人の物語。そのうちの一人『脂肪のかたまり』と呼ばれた娼婦と、他の客との6日間の道中の出来事が描かれている。作者は登場人物に「鉄砲でわたしらの子どもたちを死なせると、立派なことになるんですよ。一番余計に殺したものが勲章なんかもらってね」(岩波文庫刊、高山鉄男訳)と語らせている。戦争を呪い、愚かさを憎む作者の心情が託されたものだ。 同時に馬車に乗り合わせた客たちが示す社会の縮図ともいえる人間模様の描写が際立っている。ブルジョアや貴族、革命家、修道女といった客たちのエゴイズムと偽善が絶望的なまでに表現されているのだ。こうした著作からモーパッサンは悲観主義者といわれる。だが、彼の人間を見るまっすぐな眼差しが、読者の胸に温かなものを残すのも、また事実だと思う。 『女の一生』の自然描写 モーパッサンの代表作『女の一生』(新潮文庫、新庄嘉章訳)の表紙。 『脂肪のかたまり』の3年後に刊行されたのが、代表作と評される『女の一生』。物語はフランスの男爵家に生まれたジャンヌが、修道院で教育を受け、17歳でノルマンディーの海辺の館に帰るところから始まる。その館と庭園の描写が素晴らしく美しい。特に庭の芝生に立つ鈴懸や菩提樹の木、所有する農園との境にあるポプラの並木路、野原の先にある海岸の真っ白な断崖、それらすべてが彼女の行く末を祝福しているように思える。 「ジャンヌは幸福感でなんだか気でもちがったような気持だった。輝かしい自然の事物を前にしての狂おしいばかりの歓喜、無限の感動が、彼女の心を躍らせ、心は茫然と己を失っていた。これは私の太陽だ! 私の夜明けだ! 私の生活の始まりだ! 私の希望の門出だ! 彼女は太陽を抱きしめたい欲望にかられて、輝きにみちた空間に両腕をさしのばした」(新潮文庫刊、新庄嘉章訳) 『女の一生』の物語 『女の一生』は、輝かしい未来を夢見た主人公が、恋に憧れ、結婚生活を始めた結果、夫に裏切られ続ける。また溺愛した一人息子の放蕩三昧から館や農園を手放す羽目になるという、いわば苦闘に満ちた人生の物語だ。本の解説には、深い孤独感と悲観主義に支配された小説とある。確かに主人公を襲う悲劇は耐え難いものだが、最後まで読むと不思議と絶望的な気分に陥らない何かがある。 それは主人公が生まれながらに持った無垢な魂を、最後まで持ち続けたことからくるのではないだろうか。自ら何かを変えようとは動かないが、世の流れに迎合しないことで、自分を保ち続ける。作者は一人の女性の人生に起こった事実の断片を淡々と重ね、主人公もどこかでそれを受け入れ、達観しているようにも見える。 小説『女の一生』の原題は『UNE VIE』(「ひとつの生涯」)。サブタイトルに「ささやかな真実」とある。原題のほうが、作者と主人公の距離感に近いような気がするのは私だけだろうか。 映画「女の一生」 『女の一生』はこれまで何度も映画化されている。小説は刊行されてから100年以上経つが、2016年(日本公開2017年)にも新たにフランス、ベルギー合作映画が製作された。監督はステファヌ・ブリゼ、主演はジュディット・シュムラ。原作に忠実なストーリーで、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞にノミネートされている。 モーパッサンの晩年 パリ8区の凱旋門近くにある18世紀風に作られたモンソー公園。その一画に、1897年に設置されたモーパッサンの胸像が建っている。かたわらの女性像は、長編小説『死の如く強し』の登場人物とされる。lembi/Shutterstock.com 『女の一生』を出版後、モーパッサンは10年間で300以上の作品を発表するなど、精力的に執筆を続けたが、28歳の頃から神経疾患に悩まされるようになった。弟も同じ病だったので、遺伝的なものだったのだろう。1892年にパリの精神病院に入院し、翌年そこで亡くなっている。43年の生涯だった。パリ8区のモンソー公園にはモーパッサンの彫像が建てられ、彼を敬愛していた永井荷風が公園を訪れたという逸話が残っている。 バラ‘ギィ・ドゥ・モーパッサン Guy de Maupassant’ 19世紀フランスの自然主義作家、モーパッサンに捧げられたバラ。1995年、フランス、メイアン社のアラン・メイアン作出。 四季咲き性花姿:ややサーモンがかったピンクの花色で、浅いカップ咲きから、咲き進むとクォーターロゼット咲きに変化する。花径:7~10cm樹高:90~120cm樹形:半横張り性香り:青りんごのようなフルーツ香 斑入りの葉に枝変わりしたバラに、メイアン作‘ギャラクシー・エ・モーパッサン’がある。
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ストーリー
【バラ物語】英国元皇太子妃ダイアナに捧げられたバラ「プリンセス・オブ・ウェールズ」
ダイアナ元妃に捧げられたバラ 英国の皇太子妃に授けられる称号‘プリンセス・オブ・ウェールズ’を冠した、ダイアナ元妃に捧げられたバラ。 英国王室の元皇太子妃ダイアナは、2021年に生誕60周年を迎えた。没後25年を経た2022年にわが国でも映画が2本同時に公開されるなど、いまだ世界中で愛され続けている。ダイアナ元妃に捧げられたバラには‘プリンセス・オブ・ウェールズ’と‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’(現‘エレガント・レディ’)がある。いずれも気品に満ちた優美な花姿のバラだ。 ‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’として世に出たバラは、現在‘エレガント・レディ’と名前を変えているが、その気品は変わらない。 私がバラ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’に出会ったのは、ロンドンのフランシス家の庭だった。ロンドンを訪れると立ち寄り、また数カ月滞在させてもらったこともあるフランシス家のバックヤードで、1株のバラが楚々とした白花を見せていた。フランシス夫人が、やや誇らしげに「ダイアナ元妃に捧げられたバラだ」と教えてくれた。 スペンサー家の肖像画 それより数年前に、フランシス家のダイニングルームで、1枚の女性の肖像画を見せられたことがある。夫人が「誰かに似ていない?」といたずらっ子のような顔をしてみせた。その絵の人物に心当たりはなかったが、「スペンサー伯爵家の先祖の肖像画だ」という。当時は存命中だったダイアナ元妃に似ているかどうかはやや疑問だったが、肖像を前にして、英国の歴史に立ち会っているような気がしたのを憶えている。 プリンセス誕生 1997年、アメリカでの地雷撲滅キャンペーンの際に撮影されたダイアナ。John Mathew Smith & www.celebrity-photos.com from Laurel Maryland, USA (Archived link), CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales, 1961-1997)は、16世紀から続く英国の貴族スペンサー伯爵家の令嬢として、英国北部サンドリンガムに生まれた。1981年、チャールズ皇太子(現英国国王チャールズ三世)と20歳で結婚。セント・ポール大聖堂での挙式や、バッキンガム宮殿のバルコニーでのウエディングドレス姿のキスは、全世界にテレビ中継され、人々を熱狂の渦に巻き込んだ。 1981年、セント・ポール大聖堂での挙式の後、バッキンガム宮殿に戻った2人はバルコニーに出て国民に手を振った。その時のウエディング・キスは世界中を熱狂させた。Joe Haup/flickr.com ダイアナ元妃のウェディングポートレート。Joe Haup/flickr.com 宮殿での日々 宮殿での生活が始まると、それまで自由に過ごしてきたダイアナは、そのしきたりに馴染めず、またマスコミに過度に追いかけられる生活や、チャールズ皇太子が公務に追われ、共に過ごす時間の少ないことなどから、次第に孤独の中に閉じこもるようになっていった。 離婚への道のり そんな中でもダイアナは1982年に最初の王子ウィリアム(現ウィリアム皇太子)を、1984年にはヘンリー王子を出産。一時期は家族水入らずの日々を過ごしていた。だが皇太子が以前の恋人、カミラ夫人(現チャールズ国王妃)との仲を復活させたことなどにより、1992年に別居。この間、暴露本が出版されたり、電話での会話が盗聴・公開されたりと、2人の仲は泥沼化の様相を呈し、やがて離婚への道のりを辿った。1996年に離婚が正式に成立した後、ダイアナは以前から熱心だった慈善活動に励み、エイズ問題、ハンセン病問題、地雷撤去などに力を尽くした。 パリに死す 離婚後、ダイアナはロンドンの老舗デパート「ハロッズ」のオーナーを父に持つエジプト人のドディ・アルファイドと休暇を過ごす姿が報道されるなど、新たな恋の噂の渦中にあった。1997年、2人が乗った車がパリで事故に会い、ダイアナは病院に運ばれたが死亡。このニュースは世界を駆けめぐり、多くの人々に衝撃を与えた。2人の写真を撮ろうと追いかけていたパパラッチの追跡を逃れんがための交通事故とみられたが、陰謀説も根強く残る出来事だった。 1997年9月6日、ダイアナ元妃の葬列に加わった2人の息子の姿は、全世界に配信され、人々の涙を誘った。John Gomez/Shutterstock.com 36年という短い生涯を閉じたダイアナ元妃。その葬儀は「王室国民葬」としてロンドンで執り行われた。バッキンガム宮殿から、礼拝会場となるウェストミンスター寺院への長い道のりを、母親の棺とともに歩くウィリアム王子とヘンリー王子の姿がテレビ中継され、彼女の死の悲劇性を一層強めた。 礼拝ではダイアナ元妃の弟であるスペンサー卿が弔辞を述べ、王室とマスコミの姉に対する扱いに皮肉を込めて語った。「古代の狩りの女神の名前を授けられた少女が、最後にもっとも狩猟された」と。 ダイアナ元妃の棺は、葬儀の後スペンサー家の地所オルソープに移され、庭園内の湖に浮かぶ小島に葬られた。湖に続く小道にはダイアナ元妃の年齢にちなんで36本のオークの木が植えられ、湖には睡蓮が咲くという。 ドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」 ドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」のチラシ写真。 ダイアナ元皇太子妃の没後25周年を迎えた2022年、「彼女を本当に‘殺した’のは誰?」という衝撃的な言葉とともに上映されたのが、エド・パーキンズ監督のドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」(原題The Princess)。監督は「ダイアナ元皇太子妃の半生には、愛、悲劇、裏切り、復讐―そのすべてが詰まっている。まさに、現代を象徴する物語だ」と語る。 16年間の在りし日のアーカイブ映像から構成された本編は、一人の女性を鮮やかに描き出し、見る者はその人生を追体験する。「歴史上もっとも愛されたプリンセス」は、人々の愛に包まれながら、その「愛」ゆえに数奇な運命へと傾斜していく。映像は美しく、また冷酷で、見る者の心に深い陰影を投げかけた。 映画「スペンサー ダイアナの決意」 ダイアナ元妃を描いた劇映画「スペンサー ダイアナの決意」のチラシ写真。 パブロ・ラライン監督の「スペンサー ダイアナの決意」は「私の道は、私が決める」という力強い言葉が添えられた劇映画。未来の英国王妃の座を拒否し、一人の女性として自分の道を進もうという決意に至ったダイアナを、実話に基づいて描き出している。 ロイヤルファミリーがクリスマスを過ごす、エリザベス女王の私邸があるサンドリアンが舞台。チャールズ皇太子との仲が冷え切り、葛藤の中にあったダイアナが、一歩を踏み出すきっかけとなった地での、決断の時間。彼女の孤独や魂の叫びを演じきった女優クリスチャン・スチュアートは、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。 『プリンセス・ダイアナという生き方』 近年出版されたダイアナ妃に関する2冊の書籍。いずれもひとりの女性としての生き方に焦点を当てている。 『プリンセス・ダイアナとしての生き方』(泉順子著、2019年、丸善プラネット刊)は、サブタイトルに『「自尊」と「自信」への旅』とある。「自尊」と「自信」はダイアナ元妃が手帳に書きとめていた言葉だという。彼女の自ら選択できなかった人生と、自ら選択した人生を描き分けていて興味深い。 『だから自分を変えたのです』(山口路子著、2022年、ブルーモーメント刊)は、サブタイトルに『ダイアナという生き方』とあり、ひとりの女性が「自分は価値がないから愛されない」ともがき続けた末に、強い女として自立する様を追っている。 プリンセス・オブ・ウェールズの称号 プリンセス・オブ・ウェールズの称号は、英国の王位継承者の妻に与えられるものだ。ダイアナ元妃は離婚後もその称号を保持していた。彼女亡き後、チャールズ皇太子(当時)と結婚したカミラ夫人は、それを受け継いだが、名乗ることはなかった。称号にはダイアナ元妃のイメージが色濃く残っているのを慮ってのことだ。 エリザベス女王の逝去に伴い、ダイアナ元妃の長男ウィリアム王子が皇太子となった今、プリンセス・オブ・ウェールズの称号は、キャサリン皇太子妃に与えられた。やがてスペンサー家の血をひくダイアナ元妃の息子が、英国国王となるのだろう。 バラ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’‘Princess of Wales’ ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’は「英国のバラ」と呼ばれた、ダイアナ元妃に捧げられたバラ。1997年、イギリス、ハークネス・ローズ社作出。苗木の売り上げの一部は、ダイアナ元妃が長年サポートしてきたチャリティ団体「英国肺病基金」に寄付される。 四季咲き性花姿:白、中輪でカップ咲き花径:7~9cm樹高:70~90cm樹形:直立性 *同名のバラに、1871年にイギリス、トーマス・ラクトン作出の淡いピンク色のオールド・ローズがある。当時のプリンセス・オブ・ウェールズ、アルバート・エドワード皇太子(後のエドワード七世)の妃アレクサンドラに捧げられたバラだ。 バラ‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’(現‘エレガント・レディ’) 苗木の売上金の一部を「ダイアナ記念基金」に寄付することを条件に‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’の名称をエリザベス女王から許可されたが、基金との契約が切れたので、バラの名前は‘エレガント・レディ’に変更された。1998年、アメリカ、ジャクソン&パーキンス社、ケイス・W・ザリー作出。 四季咲き性花姿:クリーム地にピンクの縁取りが入る大輪、剣弁高芯咲き花径:10~12 cm樹高:120~150cm樹形:直立性