まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー

ライラック物語【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
初夏を告げるライラック バラが中心の我が家のバルコニーだが、季節を告げる花の木を何株か育てている。毎年2月から咲く河津桜に続き、陽光、染井吉野と3種の桜がバトンタッチで開花した後、咲き始めるのがライラック。ライラック(Lilac) は英語名で、フランス語のリラ(Lilas)という名前でもよく知られている。 ●3種の桜の記事はこちら ニューヨークのマーケットから ライラックの花を最初に身近に感じたのは、ニューヨークだった。1980年代に長期滞在していた折に、出かけたマーケットでの出合い。ブロードウェイ11丁目にロフトを借りていた私は、14丁目から17丁目にかけての公園、ユニオンスクエアで、月、水、金、土と開かれるグリーン・マーケットをしばしば訪れた。 ニューヨークの街角では、至る所でグリーン・マーケット、またはファーマーズ・マーケットと呼ばれる青空市が開かれる。中でもユニオンスクエアのマーケットは最大規模。近郊の農家などからあらゆる食材が持ち込まれ、多い時には140もの店が並び、ニューヨーカーたちで賑わっている。野菜や果物のほか、肉や魚も揃い、また自家製のパンやチーズ、ワインなども並ぶ。朝8時から夕方6時くらいまで開いていて、散歩がてら買い物に出かけるのが楽しみだった。 マーケットで一番印象的だったのは、5月になると登場するライラックの花束。木に咲く花の姿は知っていても、当時は切り花として家に飾ることは考えられなかった。いつも野菜と一緒に並べられていたので、農家の庭先などに咲いていたものなのだろう。私は腕いっぱいのライラックを抱えて、何とも幸せな気分で帰宅した。花瓶に挿したライラックはロフトの大きな窓によく似合い、その芳香とともにニューヨーク生活を彩ってくれた。 パリのバルコニーから それから10年ほど経った頃、パリ滞在中に、一人の女性アーティストの自宅を訪ねる機会があった。パリの中心部に位置するアパルトマンの居間の窓越しにライラックの花が見えた。2mほどの樹高で、房のような花が木一面に広がっている。苗木を求め育て始めてから7年目だという。アパルトマンのバルコニーで鉢植えの木が育っているのを見るのは、ちょっとした感動だった。 我が家のバルコニーへ パリでライラックの花に出会ってから数年後、東京の自宅近くの花屋の店先でライラックの苗木を見つけた。バルコニーのスペースの余地を考え一瞬迷ったが、ニューヨークとパリでの光景が目に浮かび、思わず手にしてしまった。以来二十数年にわたり、我が家のバルコニーで、紫色の花が初夏を彩ってくれる。それはやがて訪れるバラの季節の前触れで、心躍る日々の到来を告げるものだ。 ライラックとは ライラックは、4月から5月にかけて開花する落葉小高木。地植えすると6mほどの高さに成長するが、我が家では鉢植えなので、剪定して2mほどの高さに留めている。原産地はヨーロッパ南東部やアフガニスタンなどで、渡来したのは明治時代。我が国には近縁種のハシドイという自生植物があり、モクセイ科ハシドイ属に分類され、ムラサキハシドイ(紫丁香花)という和名が付けられている。 学名はシリンガ・ヴァガリス(Syringa Vulgaris)で、ギリシャ語で笛を意味するシリンクス(Syrinx)を語源とする。古代ギリシャではライラックの樹から笛を作り、牛飼いたちが吹いていたという。トルコではパイプが作られたことから、パイプを意味する言葉でもあるようだ。 花色の伝説 ライラックの花には藤紫色(ビオラケア)、紅紫色(ルブラ)、白色(アルバ)などがあり、それぞれの色によって花言葉が異なる。藤紫がまさにライラック色なのだが、白色の清楚な花姿にも惹かれる。だがロンドン滞在中に、白いライラックは不吉な花なので、家の庭には植えないと教えられた。 昔、イギリスの貴族の青年が村の娘に恋をして足しげく通っていたのだが、ある時を境に心変わり。娘は傷心のあまり自死に至った。その娘の墓に植えられた紫色のライラックが白色に変わったのが、白いライラックなのだという。花色にかかわらず、イギリスではライラックの花を贈るのは「別れ」を意味するそうだ。 ライラックを育てる ライラックは寒さに強く、夏に気温が下がる寒冷地が植栽に適しており、北海道では街路や公園に多く植えられている。札幌の大通公園には約400本の木があり、毎年5月中旬から下旬にかけて「さっぽろライラックまつり」が開かれる(2020年は開催中止)。 現在、ライラックの園芸種は約30種類あり、中には比較的暑さに強いものも。我が家の夏のバルコニーはかなりの暑さになるが、何とか持ちこたえているので、関東あたりでも育てやすい品種なのだろう。 鉢植えの苗は2、3年に1度、11月から3月にかけて植え替えを行うか、大鉢の場合は土の一部を入れ替える。肥料は2月と8月。剪定は1〜2月に行う。広い敷地があれば、シンボルツリーとしてのライラックもおすすめだ。 白色が不吉な花とされる一方、紫系の花は「愛の芽生え」「初恋」などの花言葉を持つ。一説には葉がハート形をしているから、という。また、花の先端は4つに分かれているが、まれに5つのものがあり、ラッキー・ライラックと呼ばれるそうだ。房をなす多数の花から探し出すのは至難の業だが、花びらのどこかに幸せが潜んでいると思えるのは、ちょっと嬉しい。 Information Union Square Greenmarket 月、水、金、土、開催 8:00~16:00(2020年3月から時間短縮。2020年5月現在) North & West sides of Union Square Park 住所 E17th St. & Union Square W. New York NY 10003 公式サイト www.grownyc.org/unionsquaregreenmarket 電話 +1(212)-788-7476 アクセス 地下鉄 NQR456線 14 Street Union Square Station下車1分
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ストーリー

「ウィリアム・シェイクスピア」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
映画「シェイクスピアの庭」 イギリス映画「シェイクスピアの庭」を見た。16世紀から17世紀にかけて活躍した、劇作家、詩人のウィリアム・シェイクスピアを題材にした映画だ。49歳の若さで断筆し、ロンドンからイギリス中央部にある故郷の町に帰り、庭をつくり始める主人公。 11歳で夭折した息子ハムネットを悼み、彼に捧げる庭だが、そこからさまざまな物語が展開してゆく。シェイクスピアの晩年の人生、そして光あふれる庭の光景が印象的な映画だ。 シェイクスピア劇体験 シェイクスピアの故郷、ストラトフォード・アポン・エイボンには、過去2度ほど訪れている。最初は雑誌の仕事で、俳優のジェレミー・アイアンズの撮影に出かけた。映画俳優として世界的に知られる彼だが、本国ではシェイクスピア劇を演じる舞台俳優としての評価が高い。 ロイヤル・シェイクスピア劇場の舞台に出演中のアイアンズを楽屋で撮影した後、彼の招待で「冬物語」「リチャード3世」を見ることができた。それは私にとって初めてのシェイクスピア体験ともいうべきもので、強く印象に残っている。 劇場のショップで『シェイクスピアの花々』という小冊子を手に入れ、それらが集められている庭に興味を抱いた。シェイクスピアの生家、妻のアン・ハサウェイの実家を訪ねたが、残念なことに季節は冬。劇場の脇を流れるエイボン河も凍るほどの寒さで、庭は一面の冬景色だった。 シェイクスピアの生家を訪ねて それから何年か経ってから、初夏のストラトフォード・アポン・エイボンを再訪した。我が家のバルコニーで‘ウィリアム・シェイクスピア2000’というバラが咲くようになって、バラの名前に興味を抱いた私は、イギリスでの心残りが思い出され、その地を再訪することにしたのだ。 町にはシェイクスピアゆかりの家が5戸あり、一般公開されていた。数日滞在した私は一つひとつを見て歩いた。生家は町の中心部から歩いて数分のヘンリー・ストリートに位置している。オーク材と漆喰の壁でできた、ハーフティンバー様式の建物で、シェイクスピアが生まれた16世紀から変わらぬ姿で残されている。家の内部を見学した後、建物の裏手に回り庭に出た。散策する人は少なく、広大な庭を満喫することができた。 シェイクスピアの戯曲には、約170種類の植物が登場するという。それらが登場人物の人間模様を彩る比ゆ的な存在で、重要な役割を果たしている。『ハムレット』の中で、愛するハムレットに父親を殺され、さらに裏切られて、狂っていくオフィーリアがハムレットに花を渡しながら「ローズマリーは思い出のために」(私を忘れないで)、「パンジーは物思うしるし」(思慮深くあって)と言葉を投げかけていく。そして現王、王妃には皮肉を込めた花ことばの植物を、といった具合だ(文中英訳・松本)。 生家の庭には、そうした植物たちが植えられていて、古い建物とのコントラストが美しい。バラは当時の原種が中心だが、例外的にイングリッシュローズの‘ウィリアム・シェイクスピア2000’が咲くコーナーもあった。 アン・ハサウェイの家 生家の庭とともに忘れられないのが、妻の実家「アン・ハサウェイズ・コテージ」。町から1.6kmほど離れたショッタリー村にあるこの家は、アンが結婚するまで暮らしていたところだ。大部分は15世紀半ばの建物で、一部が17世紀に増築されている。300年にわたりハサウェイの一族が住んでいたので、室内の家具も、16世紀から19世紀まで家族が使用していたものが残っている。 茅葺屋根の家とヴィクトリア時代のコテージ・ガーデンの典型ともいえる庭の風情に魅せられ、町に滞在中に3度ほど足を運んだ。庭の横手に果樹園があり、その先に古きイングランドの田園風景が広がる。そこは、シェイクスピアが描く自然描写そのもののように思えた。 シェイクスピア劇中のバラ シェイクスピアの劇中に描かれた植物の中でも、バラの登場回数はとりわけ多く、全作品の中で70回から100回といわれている。バラはじつに効果的に使われており、特に知られているのが、『ロメオとジュリエット』のバルコニーの一場面。ロメオが宿敵の家の息子であることを嘆くセリフである。 「私の敵はあなたの名前。名前に何の意味があるの。私たちがバラと呼んでいる名前を変えても、その花の甘い香りに変わりはないわ」 ジュリエットの嘆きにもかかわらず、バラはバラとして存在する。2人の運命を予告する象徴として、バラが使われている。 また『真夏の夜の夢』では、妖精の女王ティターニャが森の中で眠るシーンで、ムスクローズやエグランティーヌがその寝床を天蓋のように覆っている。いずれも当時イギリスにあった原種で、強い香りのバラだ。『リチャード3世』の中では、幼な子2人の唇を4枚のバラの花びらに例え、夏の日差しの中で口づけをするシーンが際立っている。 ※上記記載のエグランティーヌは、現在私たちが知るイングリッシュローズの‘エグランティーヌ(エグランタイン)’とは別のバラ。 イングリッシュ・ガーデンへの影響 シェイクスピアの豊富な植物の知識は、どこから得られたのだろうか。くしくも16世紀に、ジョン・ジェラードの『植物とその歴史』、ジョン・パーキンソンの『地上の楽園』と、イギリス植物学の2大著書といわれる本が出版されている。ストラトフォード・アポン・エイボンの自然の中で育ったシェイクスピアが植物に興味を抱き、こうした出版物から知識を得たとは考えられないだろうか。 シェイクスピア劇は、当時の庶民にとっての娯楽だった。劇中で頻繁に登場するバラ、スミレ、カーネーション、桜草、アイリス、ユリ、水仙、ハニーサックルなどの花々、ローズマリーやラヴェンダーなどのハーブ類。これらは今も人気の植物たちだ。イギリスで現在のような園芸が始まったのは15世紀からだといわれている。それまで植物は、薬用か食用として栽培されていた。 シェイクスピアの劇が、植物たちを専門書から解き放ち、劇を見る人々にその魅力を伝えたとしたら、彼がイギリス園芸の発展に大きな役割を果たした、といえるのではないだろうか。 バラの名前 今もニューヨークのセントラルパークをはじめとして、世界各地に「シェイクスピア・ガーデン」がつくられている。そしてバラの名前にも、シェイクスピアゆかりのものが多い。 我が家のバルコニーでは‘ウィリアム・シェイクスピア2000’のほか、‘スイート・ジュリエット’(『ロメオとジュリエット』から)、‘セプタード・アイル’(『リチャード2世』から)が長年咲き続けている。そのほか、バラ園でよく見かけるのが、‘オフィーリア’(『ハムレット』から)、‘フォールスタッフ’(『ウインザーの陽気な女房たち』から)、‘オセロ’(『オセロ』から)、‘ジェントル・ハーマイヤー’(『冬物語』から)など。こうしたバラを愛でながら、シェイクスピアの時代に思いを馳せるのも楽しいひとときだ。 Information ストラトフォード・アポン・エイボン(Stratford-upon-Avon)へのアクセス。 ロンドンのメルリボーン(Marylebone)駅から列車で約2時間15分。ストラト・フォード・アポン駅下車、生家へは駅から徒歩で約10分。 Shakespeare's Birthplace & Shakespeare Centre(生家) Henley street Stratford –upon-Avon Warwickshire CV37 6QW U.K. 電話44(0)1789 204 016 入場料 大人£18、子ども£12 https://www.shakespeare.org.uk (日本語あり) ※2020年3月現在、コロナウィルスの影響のため閉鎖中。HPのご案内を参照してください。
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バラのアンティークカップでお茶の時間【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
ミルクティーで乾杯 我が家のバルコニーでは毎年、バラの花の最盛期に友人たちを招いて「バラの宴」と称する花見の会を催している。そこで「バラとシャンパンの日々」と豪語しているが、じつはアルコールはほんの少ししか味わえない、下戸である。 普段は午後のバルコニーでのお茶の時間を何よりの楽しみにしている。その時活躍するのがアンティークのティーカップ。撮影で海外を訪れるたびに、各地の骨董市で少しずつ買い揃えたものだ。特にイギリスには長期滞在することが多く、足しげく骨董市や骨董店に通った。 骨董修行 ロンドンで長期滞在が可能だったのは、親しいイギリス人の邸宅に居候することができたから。ルドゥーテの絵の話の折にも少し触れたフランシス家は、ニューヨークで知り合ったアーティストのクレアのご両親の家で、20代に初めて訪れて以来、ゲストルームを自由に使用させてもらっていた。長い時は3カ月ほど滞在している。短い時でも仕事が終わったところでホテルをチェックアウトして、数日をそこで過ごした。 フランシス家に滞在中、フランシス夫人にたくさんのことを伝授された。特に骨董に関しては私の師匠ともいえる存在だ。夫人は趣味で収集しているのだが、骨董市で掘り出し物を見つけ、それを磨き上げて別の市で売りに出すなど、素人の域を超えた目利きだった。彼女の自慢はジャンク市で見つけた絵をオークション会社のクリスティーズに持ち込んで、それが後に美術館に収められたことだ。 早起きは苦手だが、骨董市が立つ日は夫人とともにまだ暗い朝方に家を出る。私が集めているのは、ティーカップや皿、銀製品、ガラスの器など、骨董といっても暮らしの中で使用するものばかりだ。それでも100年以上経ったものは少なく、ひたすら歩いて探す。 夫人からは陶磁器や銀器に刻まれたマークの読み取り方や、材質・形によって変わる年代など、骨董の見分け方を教えられた。厳しい師匠だったが、20年近く経った頃、私のコレクションをほめてくれた。「免許皆伝!」と笑って。ガラクタが詰まった段ボール箱から探し出した飾り皿が、19世紀の珍しいもので、それを1ポンドで手に入れた日のことだった。 ティーカップ色模様 バラの栽培に夢中になってから、カップや皿の花模様が気になり始めた。モダンな食器では花柄はちょっと気恥ずかしくて避けるのに、古いものは気にならない。自然な色合いや手描きの模様が落ち着いた表情を見せているからだろうか。 骨董市では食器がセットで売られていることが少ないので、ティーカップも1客ずつ求めていく。その分多彩なデザインが楽しめ、家の客人が自分の好みの器を選ぶこともできる。何年か後に同じ模様の器が見つかり、ペアになったりすることもある。 コレクションの中で貴重なものは、イギリスの初期の磁器であるカップ&ソーサー。陶器に近い質感を持ち、重量感が手に伝わる。長い間探して2客しか手に入れることができなかったレアものである。ある時、同じ模様のものを見つけて喜んで求めたが、精巧に作られたレプリカだった。 18~19世紀前半の陶磁器には製造元の窯印(バックスタンプ)がないことがほとんどで、素地の材質や絵付けの具合で判断しなければならないのに、同じ模様と似た風合いに飛びついたのが失敗のもとだった。 磁器とティータイムの歴史 私が集めたカップや皿はヴィクトリア女王が統治していたヴィクトリア朝(1837~1901)の時代のものが多い。イギリスの黄金期で、産業革命後、帝国が最も栄え、陶磁器や銀器もたくさん作られた時期だ。 17世紀に中国から磁器が到来した頃、ヨーロッパでは磁器作りに必要なカオリン(磁土)を採掘できなかった。18世紀になって磁器が作られ始めてからヨーロッパ各地に窯が誕生している。イギリスでは1751年にウースター社(現在のロイヤルウースター)、1759年にウェッジウッド社が創設された。 さらに土にボーンアッシュ(牛の骨粉)を混ぜたボーンチャイナが作られ、より薄く透光性のある磁器が登場。スポード社が1799年に最初に製品化している。イギリスでは1730年頃から、ティーガーデンという庭園で、散策しながらティーハウスでお茶を楽しむという習慣が生まれた。そのティータイムを愛し、広めたのがヴィクトリア女王であった。 ウェッジウッドの廃番品 アンティークのティーカップでお茶を味わってはいるが、時間を経るごとにその貴重性が増し、特別な会にのみ登場するようになった。代わりに普段使いしているのが、ウェッジウッドのチャーンウッドという模様の食器。チャーンウッドは、イギリス中東部レスターシャーにある森の名前だという。以前ニューヨークの友人宅で見て以来魅了され、集めるようになった。 製造されたのは1951年から1987年までで、すでにこの模様は廃番になっている。新しい製品は手に入らないので、これもまたヴィンテージものを探すのだが、比較的手に入れやすいので、我が家ではティーポット、シュガーボール、クリーマー、ティーカップ6客が揃っている。 ウェッジウッドの古い食器には裏面に壺のマークが押されていて、その色によって製造年代が異なる。茶色の壺は1878~1902年、緑色は1902~1962年、黒色は1962~1997年。それ以降はW印のバックスタンプが付けられている。 骨董市で気に入ったものを見つけると、台の上に置かれた拡大鏡で陶磁器のバックスタンプや、銀器の刻印を覗くようにしている。面白いのは、こちらが分かっても分からなくても、そうしているだけで売り手の言い値が半分くらいになることだ。最初は観光客用、そしてコレクター用の値段に変わるのだろう。ルーペを携帯していれば、さらに効果は絶大である。そうしたやり取りも骨董市の醍醐味だ。 冬の花見のティータイム イギリス、フランス、ドイツと各地のティーカップに加え、紅茶葉のコレクションも試みている。朝食時の定番はトワイニングのレディグレイだが、ティータイムは、その時々の気分で銘柄と味を選ぶ。 と、この原稿を書いている最中に偶然にも紅茶のセットが届いた。友人の紹介で最近知り合った御仁からの到来物だ。初めて知るイギリスの銘柄。ティーバッグのパッケージと箱がオリエンタルで美しい。この冬のバルコニーにはまだバラの花が少しだけ残っている。休眠期の作業に入る前に、暖かい陽ざしの午後、厚着をしてミルクティーを味わいながら、今シーズン最後の花見というのも一興かも知れない。
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「マリー・アントワネット」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラとの出合い 十数年前、我が家のバルコニーに‘マリー・アントワネット’というバラがやってきた。友人から誕生日祝いに贈られた苗で、以来、毎年クリーム色の、華やかだが、どこか清楚な印象の花姿を見せてくれる。 何年か経つと、私にとって遠い存在だったフランス王妃マリー・アントワネットのことが気になり始めた。彼女が愛したベルサイユ宮殿の離宮、プチ・トリアノンについて知るにつれ、離宮とその庭を訪れてみたいと思うようになった。 アントワネットについては、凶作続きで食料が手に入らない国民に「パンがなければ、お菓子を食べればいいのよ」と言い放ったという逸話が、長い間伝えられてきた。だが今では、それはフランス革命時、諸悪の根源が彼女にあるかのように流布された噂の一つだったことが判明している。近年フランス革命についての再検証がなされ、アントワネットの人物像についても捉え直しが進んでいる。 フランス王妃マリー・アントワネット マリー・アントワネット(Marie-Antoinette 1755-1793)はオーストリア、ウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれた。母はハプスブルク家の女帝マリア・テレジア。テレジアの15番目の子どもである。 かなり前、旅の途中にシェーンブルン宮殿を訪れたことのある私は、愛らしい少女の肖像画に魅せられた。後に思い起こすと、それがアントワネットだった。 14歳でフランス王太子ルイ・オーギュストとの結婚のためパリへ。1774年、ルイ15世の突然の死によって夫がフランス国王になり、アントワネットは王妃となった。この時国王19歳。王妃は18歳。2人の結婚に悲劇的なものがあるとしたら、当時のヨーロッパで対立する二大勢力のハプスブルク家とフランスのブルボン家との政略結婚であったこと、そして若くして絶対的ともいえる権力を手中にしたことだろう。 アントワネットはフランス宮廷の形式や儀礼を重んずる古いしきたりを嫌い、宮殿に自己流のやり方を導入し始めた。さらに退屈から逃れんがために、次第に享楽に明け暮れる日々を送る。彼女にとって夫のルイ16世は伴侶として物足りない存在だった。 1789年、大凶作に端を発した民衆の不満が高まり、それを利用して権力を得ようとする者たちが加わったフランス革命が勃発。ベルサイユ宮殿は暴徒によって襲撃された。国王は王権を停止されて4年後に処刑され、アントワネットも革命広場(現コンコルド広場)で断頭台の露と消えた。37年の短い生涯であった。 バラ‘マリー・アントワネット’ バラの‘マリー・アントワネット’は、2003年にドイツのタンタウ社によって作出され、王妃に捧げられた。フロリバンダ系の四季咲きで、繰り返し花開く。アイボリーがかった淡いクリーム色の花を一房に4~5輪付け、ときには折り紙細工のように端正に花びらを重ねる姿が見られる。 樹形は半横張り性で、樹高は1m〜1.5mほど。枝は比較的細く、曲線を描くように伸びてゆく。スパイシーな香りをほのかに放つのがゆかしい。 プチ・トリアノンを訪ねての旅 ベルサイユ宮殿の北テラスから園内を巡るミニトレインに乗って20 分ほど行くと、離宮プチ・トリアノンに至る。アントワネットは馬車で10分ほどの道のりをしばしば歩いて通ったという。 離宮はもともとルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために建てたもので、周囲にはフランス式庭園が広がり、植物園を有していた。ルイ16世は即位後、この館を「花の好きなあなたに贈りましょう」と妻のアントワネットに捧げている。 離宮に着いた私は、館内を見るよりもまず庭に出てみた。アントワネットが最も心を砕いたのが庭園づくりだったからだ。植物園にあった植物を全て王立園(現パリ植物園)に移し、そこに自然に近い形のイギリス式庭園をつくり出した。 彼女が最初に手掛けた人工の小川に沿って歩くと、その先の小島に丸屋根を頂く12本のコリント式柱を配した建物が見えた。中央にキューピッドの彫像が立つギリシャ風の建物は「愛の神殿」と名付けられている。アントワネットは小島にバラを植えていた。バラの香りの中で、愛する人とのひとときを過ごしたと伝えられている。 さらに小道を行くと、湖のほとりの小高い丘に八角形のパビリオンの優雅な姿が現れる。ベルヴェデーレと呼ばれる音楽堂で、彼女のお気に入りの場所だった。夏のラウンジともいわれ、窓を開け放ち、野外のリビングルームとして使用していた。 王妃の村里 イギリス式庭園の奥まったところにあるのが「ル・アモー・ド・ラ・レーヌ」(王妃の村里)と呼ばれる村落だ。中央につくられた池にはハスの花が浮かび、白鳥が遊んでいた。この池を囲むようにノルマンディー地方の田舎家を模した12軒の茅葺屋根の家が並んでいる。そのうちの1軒が「王妃の家」で、アントワネットはここで田舎暮らしを体験していた。 ベルサイユ宮殿の敷地内に突然現れる村落の風景。きらびやかな宮殿との落差にしばし唖然とさせられる。この村里が完成したのはフランスが大凶作に見舞われた頃だ。そのさなかに巨額の建設費が投じられたことと、こうした村落を必要とした王妃の心の空洞、そのどちらも痛ましいと思えた。 王妃の肖像 プチ・トリアノンの館内に入ると、1階のレセプションルームで3人の子どもが踊っている絵に出くわした。そのうちの一人がアントワネットだという。彼女とその母との手紙のやり取り『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(岩波書店刊)を読むと、テレジアがその絵を送るために部屋の寸法を尋ねるくだりが出てくる。 アントワネットとテレジアは、テレジアが亡くなるまで11年間にわたり毎月手紙を交わしていた。フランス王妃であると同時に、ハプスブルク家の娘であることを常に意識させられていたのだ。アントワネットにとって、離宮はベルサイユ宮殿にあって、ウィーンの宮殿での少女時代を呼び覚ます場所だったのかも知れない。 館の2階に向かうと、すぐ右手の部屋の壁によく知られたアントワネットの肖像画が掛けられていて、等身大のその肖像の迫力に一瞬ドキリとさせられた。手にはバラの花を持ち、背景にも庭園のバラが描かれている。当時あったバラ‘ロサ・ケンティフォリア’だろうか。たくさんの花弁が重なる優美な姿だ。そして気品と自信にあふれた肖像は、彼女を大輪のバラのように見せている。 女性画家エリザベート=ルィーズ・ヴィジェ=ルブランがこの絵を描いた時、アントワネットは28歳。長い間恵まれなかった子どもを授かり、また生涯でただひとり愛したといわれるフェルセン伯爵に見守られていた時期。彼女にとっての幸せの瞬間が、そこに永遠に写し止められている。 バラ‘プチ・トリアノン’ プチ・トリアノンと名付けられたバラは、ベルサイユ宮殿の庭園長とメイアン社との親交から、2006年にフランスのメイアンによって作出された。離宮に掲げられたアントワネットの肖像画の中の淡いピンクのバラをイメージしたものだという。我が家では、‘マリー・アントワネット’と並んで、このバラが咲いている。 フロリバンダの四季咲きで、1本の茎に5~6輪のつぼみを付ける。花弁はロココ調に波打ち繊細な印象だが、開ききると牡丹の花のように艶やかな様相を見せる。樹形は直立性で、高さは1〜1.2m、花径は10〜13cmほどの大輪だ。 ベルサイユのバラ オーストリアの伝記作家シュテファン・ツヴァイクは、その著『マリー・アントワネット』(中野京子訳、角川文庫)の中で「不幸になって初めて、自分が何者か、本当にわかるのです」という彼女の言葉を紹介している。私には革命の嵐の中で、フランス王妃としての自分を真に自覚した、という意味に受け取れた。 ハプスブルク家の娘は、その地位を否定された時に、初めてフランス王妃であることの誇りを胸に抱いたのではないだろうか。37歳の若さで断頭台の露と消えたことで、歴史上もっとも名を残した王妃となった。その名前を冠したバラとともに、人々の記憶の中に「ベルサイユのバラ」は咲き続けている。 Information Petit Trianon(プチ・トリアノン) Place d’Armes 78000 Versaille France Phone +33 (0)1 30 83 78 00 RER lineC Versaille Chateau Rive Gauche 下車(パリ市内から約40分) 駅からベルサイユ宮殿まで徒歩約10分。 プチ・トリアノンまでは宮殿北テラスからミニトレインで約20分(徒歩30分) 開館:12:00~18:30(11~3月は17:30まで) *最終入館は閉館の30分前まで。チケットオフィスは40分前にクローズ。 月曜、祝日休館 入場料:ベルサイユ宮殿+トリアノン 20 € トリアノンのみ 12€ 18歳未満 無料 庭園見学は無料(イベントのない時) ミニトレイン:8€
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ストーリー

「ルドゥーテ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
ルドゥーテとの出会い ロンドンに行くと、ニューヨークで知り合った友人の両親の家のゲストルームに滞在することが、長年続いていた。その家のフランシス夫人が亡くなってから、セントジョンズ・ウッドにあった邸宅も人手に渡ったが、彼女のゲストルームを思い起こすと、ある絵が浮かんでくる。骨董好きな夫人が市場で手に入れた絵で、「ルドゥーテの作だ」と教えられた。 それは植物の細密画で、いわば図鑑の挿絵なのだが、壁に4枚並んだバラの絵は一つひとつが妖しく、花の芳香を放つかのように見えた。初めて見たのが1970年代。当時まだルドゥーテの名前を知る人は少なくて詳細が分からず、ずっとその絵が気になっていた。我が家のバルコニーにバラ苗が増えるにつれ、名前が伝わってくることが多くなり、少しずつその人の全貌が明らかになっていった。 画家ルドゥーテ ピエール=ジョセフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté/1759-1840)はベルギーに生まれ、パリで植物画家として生計を立てていた。その才能に注目したのが、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌである。ジョゼフィーヌはパリ西部のリュエイユにあるマルメゾンの館に1,800ヘクタールのバラ園を所有し、育種家たちに新種のバラをつくらせていた。当時のバラの数は250種ともいわれ、そのすべてをルドゥーテに描かせている。 ルドゥーテはジョゼフィーヌ亡き後もバラを描き続け、『バラ図譜』(Les Roses)3巻を出版した。自ら多色刷りの印刷技術を改良し、水彩画の繊細なフォルムと色彩を再現。さらに印刷された図版に一枚ずつ筆で彩色を施すなどの手を加えている。当時の『バラ図譜』を手に入れることは困難だが、その中の数ページがときおり骨董市で見つかったりする。フランシス家の壁の絵もそうしたうちの4枚だった。近年、ルドゥーテの絵の人気が高まり、我が国でも何回か展覧会が開かれ、カレンダーやポストカードでもお馴染みになっている。 バラ‘ルドゥーテ’ バラの画家に敬意を表して、育種家のデビッド・オースチンの手で「ルドゥーテ」という名前のバラがつくられたのは1992年のこと。イングリッシュローズの銘花‘メアリー・ローズ’の枝変わりで、白と淡いピンクのグラデーションが優美だ。 初めてバラ‘ルドゥーテ’に出合ったのはベルギーのバラ園で、一つのコーナーがこの花で覆われ、幻想的ともいえる光景だった。我が家にやって来たのは15年ほど前。やや早咲きで、ロゼット咲きの花は5月のバラの季節の到来を告げるかのように開き始め、四季咲きなので、繰り返しその花姿を見せてくれる。 ベルギーの生家への旅 何年か前にベルギーのバラ園を訪ねる機会があり、その旅の日程にルドゥーテの生誕地を加えた。首都ブリュッセルから南へ下る、アルデンヌ地方の小さな町、サン・チュベールが彼の生まれた地で、13歳までをその町で過ごしている。 町は人口5万人ほどで、鹿狩りの盛んな地として知られていた。広場に向かうと、市役所の前にルドゥーテの胸像を掲げた噴水が建っている。そこから続く道の一つがルドゥーテ通りと名づけられていた。通りの8番地が生家のあった所で、家屋は第二次世界大戦で破壊され、空き地のままになっている。 生家跡地の向かいに「ルドゥーテ・センター」(現在はルドゥーテ美術館と改名)と名づけられた2階建ての記念館が建っていた。館内には作品とともに彼とその家族の肖像画、生家に残されていた家具などが展示されており、画家その人が急に身近に感じられた。 家は代々画家の家業で、父親は町のベネディクト派修道院のために宗教画を描いている。ルドゥーテは父親の仕事を手伝い、13歳になると家を出て、フランドル各地を旅して絵の修業に励んだ。修道院を訪ねてみると、そこはルドゥーテの時代のまま、ほとんど変わっていないという。周囲にはルドゥーテの名前を冠したバラ園が広がり、芝生の上で家族連れが憩う姿が見られた。 パリ郊外、ルドゥーテの邸宅探し ルドゥーテは23歳の時、兄を頼ってパリに出た。王立植物園に通い、花のデッサンに勤しんだことがきっかけで、植物関係の書物の挿画を描くようになった。やがて植物画の本を何冊か出版し、代表作ともいえる『バラ図譜』3巻は、合わせて169種類のバラを収録し、1817年から1824年に何度か刊行している。 パリのセーヌ通りにアトリエを構え、郊外のヴァル=フルーリに荘園を購入して邸宅と庭園にしていた。私はシャルル・レジェが著した伝記『バラの画家 ルドゥテ』(八坂書房刊)でフルーリという地名を知り、気になっていた。そこではたくさんのバラが育てられていたという。 2008年の夏、パリ滞在中の私はムードン・ヴァル・フルーリという名の駅を見つけ、思わずそこに降り立った。伝記は60年以上前に書かれたもので、それ以上何の手がかりもなかった。駅の案内係や町の人たちに尋ねても、ルドゥーテの名前すら知らない。歴史博物館を探し訪ねてみると、学芸員の一人が「たぶんこのあたりに家があったはず」と地図に印をつけてくれた。「でも今はすべて壊されている」という言葉を添えて。 地図の印を頼りにその通りにたどり着いた私は、道行く人に声を掛けながら、小1時間ほどあたりを巡っていた。1軒の家の門が開き、中から10代の少年が顔を出したので彼に尋ねると、そこがまさにルドゥーテの家だという。私の胸は高鳴った。 アポイントを取り翌日再訪すると、少年の両親で現在の住人夫妻が出迎えてくれた。現存する建物は18世紀のもので、ルドゥーテの時代には馬車置き場とガーデナーの住居として使用されていた。一段高くなった場所に、ルドゥーテがアトリエとしていた小部屋が残されていた。彼の邸宅はさらに高台にあったが、今はないという。 後にルドゥーテ・センターの資料集を見ると、アトリエの正確な絵図が載っていて、まさに私が出合ったのはその建物だった。夫妻の話では、かつての庭はこの家の敷地だけでなく、歩いて6、7分かかる駅の辺りまで広がっていたという。今は住宅地としてすっかり変わっている街並みを見るにつけ、ルドゥーテの庭の一片にたどり着けた幸運に改めて感謝した。 人々を魅了する植物画 ルドゥーテは晩年の著書『美花選』の中で次のように語っている。 「植物画は(中略)魔法の筆で花の女神のはかない贈り物にいのちの持続を与えることが出来る」 フランス革命の激動の時代にルイ16世やマリー・アントワネットに、革命後は皇妃ジョゼフィーヌにと、絶大な信頼を得てひたすら描き続けた人生。永遠の命を内包したルドゥーテのバラたちは、200年の歳月を経た今も、見る人の心を捉えて離さない。 Information Muée Pierre-Joseph Redouté rue Redouté 11 6870 Saint-Hubert Belgique Tel:+32(0)61 61 14 67 開館:7、8月 13:00~17:00 9~6月(予約制、10人以上のグループのみ) 入場料:大人 2.5 € 14~21歳 1.25 € 14歳以下 無料
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「コレット(コレッタ)」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
映画『コレット』 イギリス、アメリカ合作の『コレット』という映画を見た。フランス人作家シドニー=ガブリエル・コレット(Sidonie-Gabrielle Colette,1873-1954)をモデルにその半生を描いたものだ。映画はフランスの田舎で育った彼女が結婚のためパリに出て、やがて作家コレットとして独り立ちするまでをストーリー化している。宣伝チラシには「ココ・シャネルに愛され、オードリー・ヘップバーンを見出した実在の小説家」とある。 主人公の少女時代の映像を見ながら、私は10年ほど前にコレットが生まれ育った、フランスのブルゴーニュ地方、サン=ソヴール=アン=ピュイゼーの村を訪ねた時のことを思い出していた。それは『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』という著書のための、パリからの小旅行だった。 バラ‘コレット(コレッタ)’ 我が家のバルコニーにその名前のバラがやってきたのは、20数年前のこと。以来、毎年オレンジがかった杏色で、ロゼット咲きの花を枝いっぱいに咲かせる。フランス、メイアン社で1995年に作出された半つる性のバラだ。 バラ園のカタログで「コレッタ(Colette)」と表記された苗を見つけた時、一瞬コレットと結びつかなかった。だが名前のスペリングを見ると、まさに作家のものだ。コレットの小説は少女時代に『青い麦』や『シェリ』を読んで、胸をときめかせていた。大人の女性の世界を覗き見るような後ろめたさと同時に、キラキラとしたその感性に魅了された。また作家の誕生日が自分と同じと知って、勝手に親近感を抱いていた。 著書『「コレット花28のエッセイ』(森本謙子訳、八坂書房刊)では、さまざまな花について綴っている。植物に寄せる並々ならぬ熱情の持ち主だ。特にバラについては、特別な思いを寄せていた。 サン=トロぺに別荘を手に入れた時には「庭、庭、まず庭だ」「土を掘り起こしたり、踏みしめたり、くだいていったりするのは労働―快楽―である」と記している。自らの手で庭をつくっているのだ。ここでもバラは特別扱いを受けている。白バラ、黄バラ、薄紅色のバラ、真紅のバラと苗木を植えこむ様子は、舞台の演出家が登場人物の立ち位置を決めているかのようだ。 「バラにはすべてが許されている。(略)この花はなんとしっかりして、愛らしいのだろう!果実よりも熟し、頬や胸よりも肉感的だ」私はこの文章を読んで、「コレッタ」と表記されたバラは、作家コレットに捧げられたもの、と確信した。 コレットの生家を訪ねて パリから特急列車で約2時間。さらに最寄りの駅から45km離れているサン=ソヴールの村。そこに行くのにはバスもなく、駅であちこち聞きまわり、やっと1時間後にタクシーを得て、なんとかたどり着くことができた。 村には生家が残っていて、その前の道はコレット通りと名づけられていた。家には住む人がいないとのことだが、当時見ることができたのは外観だけで、裏手の庭への道は閉ざされていた。コレットはこの家で幼い頃から小説を読みふけり、同時に薬草摘みの女性たちの後をつけて森の奥深くに分け入ったという。 *現在コレットの生家はLa Maison de Coletteとして一般公開されている。 コレットの小説では自然描写、特に光や色彩、香りが鮮明に描かれている。こうした感受性は生まれ故郷の田園や森によって育まれたと、作家自身が語っている。 村のコレット記念館 サン=ソヴールの村は丘の上に建つ17世紀に再建された城を中心に、丘の斜面に沿って家々が連なっている。その古城はコレット記念館として一般公開されていた。生家や小説の舞台にもなった小学校に立ち寄り、最後に記念館を訪れると、入り口の階段わきに咲くバラの‘コレット’が私を迎えてくれた。 晩年の16年間を暮したパリのパレ・ロワイヤルの部屋に残された遺品が集められ、館内には彼女のサロンや寝室が再現されていた。私がパレ・ロワイヤルを訪れた時は、その庭園から彼女の住んでいた部屋の窓しか望むことができなかったので、感慨深いものがあった。 *『フランス・パリの隠れ家「パレ・ロワイヤル」』参照。 いくつかのテーマ別に展示室が続き、1階から3階までの各部屋を巡ると、コレットのほぼ全体像が浮かび上がってくる。圧巻なのは彼女の写真が250枚ほど額装され、壁に掛けられた「自伝の間」。7つのパートに分けられ、その時々の写真で生涯をたどることができる。部屋には自作を朗読する作家の声が静かに流れていた。 コレットの人生 コレットは小説家、脚本家、ジャーナリストといった著述業のほか、踊り子、舞台女優、美容院経営者、化粧品販売業と、いくつもの顔を持っていた。自作の舞台化にあたり、当時無名だったオードリー・ヘップバーンを主役に抜擢し、彼女を世に送り出したことでも知られている。 自由奔放な生き方ゆえ、50歳を過ぎる頃まで常にスキャンダルの渦中の人でもあった。だが全生涯にわたり撮られた膨大な写真は、いかに彼女が懸命に生きたか、その証のようにも見えた。自らの直感を信じ、常に自分に正直であったのだ。そしてバラをこよなく愛した。 私はコレットの生まれ故郷の城の入り口に咲いていたバラを、帰り際にそっと写真に収めた。 Information Musée Colette Château 89520 Saint Sauveur en Puisaye Phone +33(0)3 86 45 61 95 contact@musee-colette.com 4月1日から10月31日まで開館 10:00~18:00、火曜日休館 www.musee-colette.com
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熱帯花木を育てる楽しみ【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
バルコニーの夏を彩る熱帯の植物たち 我が家には2カ所にバルコニーがある。北面の広い空間は60鉢のバラ苗で埋め尽くされ、東側にはおもに熱帯の植物の鉢が並んでいる。また、居間の窓辺には天井に届くまでに葉を繁らせたパキラの木や、ハイビスカスの鉢が鎮座している。熱帯地方原産の植物たちは、初夏から秋にかけて元気に開花を続ける。 松本路子さんのバルコニーの夏の収穫記事はこちら ハイビスカス 窓辺に置いたハイビスカスの鉢はガラス越しにたっぷりと朝の陽光を浴び、真紅の鮮やかな花姿を見せる。その名前はエジプトの美の神「ヒビス」に由来するというが、まさに自然界の造形美そのものだ。 原産地はハワイ諸島、モーリシャス島で、ハワイの州花でもある。沖縄では家々の垣根などに植えられ「アカバナー」として親しまれている。一説にはハワイに移住した島人により、もたらされたものだという。 我が家にやってきたのは15年ほど前で、小さな鉢植え苗だった。5月から10月くらいまで開花が続き、花が終わった頃に剪定、1mほどの樹高を保っている。剪定した枝はなかなか捨てられず、挿し木にするので、その苗が増えるばかりだ。 ちなみにクレオパトラが美と若さを保つのに愛飲したといわれるハイビスカスティーは、この花からではなく、同じアオイ科フヨウ属のローゼルという花の実(タネを包むガク)から作られる。 ブーゲンビレア(ブーゲンビリア) たびたび綴っているが、私の原風景は、幼い頃育った熱帯植物園の大温室の天井まで届いたブーゲンビレアの花姿だ。20代の頃、雑誌の海外レポートの仕事で初めて東南アジアを旅した時、ブーゲンビレアが路地のそこかしこに茂っているのを見て、感動した。つる性の植物なので、家の屋根を覆うほどに成長しているものもあった。 原産地は中南米で、その名はブラジルでこの木を見つけたフランスの探検家「ブーガンヴィル」に由来するという。ピンク、赤、紫、白などがあるが、そうした艶やかな部分は葉苞で、花は中心にある白い小さな筒状の部分だ。 近年は温暖化に加え,改良種も増えたので、国内の路地で見かけることも増えてきた。静岡県の伊豆地方でも、かなりの高さまで枝を伸ばし開花していた。我が家では鉢を居間の窓辺に置いていたが、鋭いトゲが気になりバルコニーに移している。何とか冬越しはするが、成長具合は今ひとつ。それでも花が咲くと、器に浮かべて楽しんでいる。 アボカド アボカドのタネから観葉植物を育てることを知ったのは、70年代のニューヨーク。友人の家で涼やかな葉を繁らせている植物が、実を食した後のアボカドだと教えられた時の驚き。当時アボカドは、日本ではほとんど知られていない果実だったからなおさらだ。 以来、タネから芽を出させることに熱中した。その地を去る時、近所の小さな公園に苗のいくつかをひそかに移植した。自分が食べたアボカドの木がニューヨークの街で成長する様を想像するだけでもワクワクした。 バルコニーでもいくつかの苗を育てたが、ほとんどが友人宅に移り、今あるのは1mほどの木と、1年前に芽を出した小さな苗。タネはなかなか捨てられないが、育てるスペースが限られているので、思い切ることにしている。ちなみに、こうした実生苗から収穫を得ることはほとんど期待できないそうだ。 デュランタ デュランタの苗は10年ほど前に誕生日のお祝いに友人から贈られたもの。鉢に30㎝の高さの苗が2本植えられていた。成長が旺盛で、いつの間にか1mを超えるほどになっていた。大木になると知り、1本は千葉の友人宅の庭に引き取ってもらい、残った木は剪定を重ね、東面のバルコニーに収まるサイズに保っている。 紫色に白い縁取りの花は、枝から降り注ぐように房状に咲き、楚々とした風情が好ましい。原産はブラジルで熱帯の木だが、関東以南では地植えしてもたくさんの花を付ける。 バナナ 伊豆熱川のバナナワニ園に立ち寄った後、しばらくバナナの葉が繁っている光景が残像のように脳裏にあった。そんな時、園芸会社から届いたカタログに、バナナの苗のセールのお知らせが。‘アイスクリームバナナ’と、いかにも美味しそうな名前だ。 マンションのバルコニーで鉢植えのバナナを育てることがいかに無謀なことかは分かっていた。が、衝動的に苗を注文してしまった。届いた苗は20㎝程で、葉が3枚の小さなもの。1カ月半経って、やっとバナナの葉らしきものが見られるようになった。これから少しずつ鉢増しをして育ててみようと思っている。花や果実は期待できないが、背丈ほどの木に葉が繁り、風にそよぐ様を想像して、ひとり悦に入っている。 ベニゴウカン インドネシア・バリ島で見かけた赤い花を都内の花屋の店先で見つけ、購入したのが10年ほど前のこと。マメ科の常緑低木で、枝先に米粒のような小さなつぼみを付け、やがて鮮やかに開花する。深紅色の花のように見えるのは雄しべで、針状に多数伸び、扇形に広がっている。 ベニゴウカンは紅合歓と書き、別名はヒネム(緋合歓)。原産地はメキシコで、熱帯地方の植物だが、日本のネム(合歓)に似ているので、この和名が付けられた。花の形や、夜に閉じる葉などよく似ているが、大木になるネムの木と違い、樹高は1〜2mほどにとどまっている。 トロピカルな風情を味わう 熱帯花木の魅力は、独特の花姿、色彩の鮮やかさに特化している。基本的に丈夫な植物がほとんどなので、最低気温の問題をクリアすれば、比較的育てやすい。ハイビスカスやデュランタなどは、花期も初夏から秋まで続き、繰り返し花開く。鉢植えにして、冬の期間だけでも室内の窓辺に置くことができれば、容易に育てることが可能である。
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ガーデン&ショップ

熱帯植物の楽園「熱川バナナワニ園」【松本路子の庭をめぐる物語】
約5,000種の熱帯植物が育つ楽園 静岡県、伊豆熱川にある熱川バナナワニ園。ここには16種類約130頭(交雑含む)のワニが飼育されており、ワニ園としての注目度が高い。またバナナの温室では、世界各地のさまざまな種類のバナナがたわわに実っている。 だが意外に知られていないのが、約5,000種の熱帯植物を見ることができるということ。豊富な源泉を有する熱川ならではの、温泉熱を利用した温室がいくつも連なり、熱帯植物の楽園ともいえる姿を見せている。 ブーゲンビレアとハイビスカスのアーチがお出迎え 熱川バナナワニ園は開園が1958年と、歴史ある植物園。本園のほか、1971年には分園もオープンした。本園は熱川の駅前で、駅から園の入り口まで徒歩1分と、地の利がよい場所にある。 本園に入ると、まず熱帯花木の温室があり、ブーゲンビレアの巨大なアーチに迎えられる。周りには八重や珍しい色のブーゲンビレア、さらにさまざまな種類のハイビスカスが茂っている。 ブーゲンビレアやハイビスカスは、近年耐寒性のある種類の苗が市販され、関東以南では露地植えも可能だ。また観葉植物として、室内の窓辺で育てることもできる。温室でこうした花々に囲まれると、我が家でももっと熱帯植物を育てたいという気にさせられる。 ヒスイカズラをはじめ、珍しい熱帯の花々 園内の植物は世界各地から取り寄せられたもので、学芸員が旅先から持ち帰った貴重なものも多い。ランに関しても、お馴染みのコチョウランやカトレアのほか、原種ランが1,500種展示されている。 開花期に人気を博すのがジェードパイン。ヒスイカズラとも呼ばれ、3月から5月にかけて、濃いエメラルドグリーンの房を何百と付ける。フィリピン原産のマメ科の大型つる性植物。「女王の耳飾り」とも称される、宝石のような花だ。東京都内では植物園の温室などでも見ることができるが、日本で初めて育成開花させたのがこの園だという。花数も桁外れに多い。 本園中庭ではオーストラリア原産の多肉植物ドリアンテス・パルメリーのつぼみが5月の開花を待っていた。栽培29年にして2度目の開花だという。こうした珍しい花をはじめとして、ほぼ一年中見られる花々、季節ごとに出合える花、と見どころは尽きない。 水面を彩る水生植物 エレベーターに乗り、本園の上階に向かうと、熱帯性スイレンの温室に至る。常時60種ほどのスイレンの花が見られ、水面に映る花姿が優美だ。 また大温室の池ではオオオニバスが直径2mを超す円形の葉を広げる。学名「ビクトリア・アマゾニカ(Victoria amazonica)」。イギリス女王の名を冠するにふさわしい迫力だ。夏休みには体重30kg以下の子どもに限り、水面に浮く葉の上に乗り記念撮影ができるイベントがある。オオオニバスは夜に開花し、刻々とその花姿を変えていく。昼間、その名残の幻想的な花を見ることができたらラッキーだ。 バナナ、パパイヤ、マンゴーの実り 熱帯果樹の茂る温室群は分園に位置する。分園は本園から500mほど離れており、順次マイクロバスで送迎される。圧巻なのは、20種類のバナナが立ち並ぶ温室。 バナナは木ではなく草なので、成長がきわめて早い。植えてから1年半ほどで収穫できるという。夏は特に収穫量が多く、温室で熟した珍しい種類のバナナを園内のフルーツパーラーで味わうことができる。 パパイヤとマンゴーの温室では、果実とともに花も見ることができる。パパイヤの花はクリーム色で楚々としている。熱帯果樹の温室では、チョコレートの原料のカカオの実、グアバ、ミラクルフルーツなどの果物が実っている。 熱帯植物を育てたい! 園内を巡っていると、植物の息吹や温室特有の空気感に、言いようのない懐かしさを憶える。子どもの頃、私は父の仕事の関係で伊豆の熱帯植物園の敷地内にあった家で育ち、温室が遊び場だった。 その植物園は今存在しないが、ブーゲンビレアやハイビスカスの茂るさまは、いわば原風景ともいえるものだ。オオオニバスの葉の上に乗せられ、また夜半に家族総出で、ハスの開花を見に出かけたことなど、幼児期の記憶が鮮明に蘇る。 熱帯植物の持つ多彩な色や、珍しい形。果物の濃厚な味わい。今、そうしたものに心惹かれる。トロピカル体験をした熱川の旅から帰り、アイスクリームバナナという名前のバナナの苗木を取り寄せた。都心のマンションのバルコニーでの鉢植え栽培なので、実を得ることは難しいだろうが、バナナの葉が背丈ほどに繁るさまを想像して楽しんでいる。 Information 熱川バナナワニ園 所在地:静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本1253-10 TEL:0557-23-1105 http://bananawani.jp アクセス:伊豆急行線「伊豆熱川駅」(東京から約2時間)下車、駅から徒歩 1 分 営業時間 9:00〜17:00(最終入園16:30)年中無休 入園料:大人1,800円、子ども(4歳から小学生)900円、4歳未満無料
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ストーリー

バラのワイングラスものがたり【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
バラの宴を盛り上げる名脇役 バルコニーでの5月のバラの宴は、5〜6人のグループに分かれ、7〜8回に渡り開かれる。もう20年以上続いているので、客人は古くからの友ばかり。気の置けない面々だ。シャンパンとちょっとした前菜以外の料理は、すべて客人の持ち寄りでお願いしている。 ご馳走は咲き誇るバラの花々。そして私が長年かかって少しずつ集めた器の数々。 ワイングラスをプロデュース バルコニーでのバラの宴が恒例の行事となった頃、バラ模様のワイングラスが欲しいと思い始めた。仕事でヨーロッパに出かけるたびに骨董市や骨董店を捜し歩いたが、なかなか見つけることができなかった。 そこで10年ほど前に、ガラス工場に勤める友人の伝手で、ガラス作家にオリジナルのグラスを作ってもらうことになった。透明グラスの生地の上に赤い生地を重ねたグラスから、赤い部分を削り、バラの花の部分だけをレリーフとして残す。サンドブラストという技法を用いた制作方法だ。 ガラス作家の白山まさいさんと共同で、いくつかのデザイン画や、試作を重ねる時間は、実にわくわくするものだった。最終的に決まったのが、凛としたバラのつぼみが2本グラスに添って立ち上がっているデザイン。外側はマットな質感で、内側はガラスの光沢を生かした素材だ。マットな感じが柔らかな雰囲気を醸し出し、シャープだが温かみのある意匠に仕上がったと自負している。 生地のグラスを発注するのにまとまった個数が必要だったので、思い切って松本路子プロデュースのバラのワイングラスとして、身近な友人たちに声を掛け、販売することになった。桐の箱入りで、ちょっとした贈り物としても重宝された。 思いがけず人気を得たグラスは、バラの宴の客人を中心にそれぞれの家に飾られ、また愛用されている。今でもたまに問い合わせがあるが、残念なことにグラスの生地が手に入らなくなり、制作することが叶わない。幻の器として語り草になっている。 沈黙と秘密の象徴 イギリスでアンティークグラスを探している時に、知人のコレクターから興味深い話を聞いた。英語に「Under the Rose」(バラの下で)という言葉があり、それは「秘密で」や「内緒の話で」という意味だという。ラテン語の「Sub rosa」(スブ・ロサ)が語源だ。 中世ヨーロッパで秘密の会議を開く時、テーブルの上にバラを置く、もしくは天井からバラを吊るす風習があった。またバラの天井画も同様な意味を持った。バラは「守秘を誓う」象徴として用いられたのだ。その起源は諸説あるが、ギリシャ神話に遡るのだという。 「Under the Rose」の理由から、バラのワイングラスは作られなかったのではないか、と私は仮説を立ててみる。教会の告解室に5弁のバラの彫刻が施されていることからも、ワインを楽しむ合間に、懺悔や秘密の時間を思い起こしたくないのかも、と。 私のバラのグラスは、大いに飲み、語りつくそうとのもくろみで作られたので、「沈黙と秘密の象徴」でないことは確かである。 アメリカのアンティークグラス 歴史の浅いアメリカには骨董というものは存在しない。厳密には制作されてから100年以上経ったものを骨董品と呼ぶからだ。あえて言えば1930年代を中心に、ごく短い期間に作られたプレスドグラス(型押しグラス)やエレガントグラス(エッチンググラス)などがそれに相当するだろう。 ガラス製品は模様がシリーズ化され、多彩な器が作られた。そこにはいくつかのバラの花の模様が展開されている。私が集めているのは「ローズ・ポイント」という名前のエレガントグラスで、ワイン、リキュール、シャンパンなどのグラス、果物や菓子を入れるコンポートなどがある。 1934年から1954年にかけて、アメリカのケンブリッジ社で製造された「ローズ・ポイント」は、徽章紋とつるバラの模様が組み合わさったエッチングが施されている。 デザインはフランスのレース模様から採ったもので、その繊細さから当時のアメリカで人気を博し、かなりの量が作られた。 それでも日常的に使われたガラス器なので、現在そう多くは残っていない。熱心なコレクターが存在し、模様を特集した本も出ているが、年々手に入れるのが難しくなっている。骨董を集める楽しみは、リサイクルショップやジャンク市など意外なところでお目当ての品物と出合えること。長い時間をかけて、ローズ模様のグラスを少しずつ増やしていく、それもまたバラものがたりの一つに他ならない。
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みんなの庭

アゲハチョウの誕生を見守る【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
レモンの木から 我が家のバルコニーには2本のレモンの木がある。花が咲き終わり小さな実をつける頃、その木にアゲハチョウが卵を産み付ける。柑橘類の葉は幼虫の大好物なのだ。 卵から幼虫が孵(かえ)っても、たいていは小さなうちに鳥に捕まり、いつしか姿を消していた。だが今年、葉陰に隠れていた緑色の幼虫を見つけた時、ふと育ててみようか、という気になった。以前、コラージュ作家の合田ノブヨさんのブログに、自宅で羽化した蝶の写真があったのを思い出したのだ。 彼女から幼虫の育て方を教えてもらい、箱に網をかぶせた簡易の虫カゴを用意した。それから目を凝らしてレモンの葉の上を探すと、合計8匹の幼虫が見つかった。成長具合もさまざまだったので、以来、次々と羽化するアゲハチョウの誕生に立ち会うこととなった。 濡れた羽の美しさ リビングルームに置かれた箱の中で蝶が生まれる瞬間は感動的だった。誕生したばかりの羽は濡れて光り、模様、色彩ともに際立って見える。まだ飛び立てない蝶を、花瓶に挿したバラや、窓辺に咲くハイビスカスの花の上に乗せて撮影を続けた。 やがて羽が乾いた蝶は、部屋の中を自在に飛び回り始める。それでもカメラを向けると、じっとして動かず、モデルとしての役割を心得ているかのようだ。 撮影が一段落すると、窓を開けて蝶をバルコニーに放つ。一気に空に向かって飛んでいくもの、バルコニーで終日過ごしてからおもむろに飛び去るものなど、さまざまだ。こうして8匹の幼虫すべてを蝶にして、無事飛び立たせることができた。 幼虫から蛹、羽化へ レモンの木で見つけた幼虫は、5~15mmほどの大きさで、茶色と白のまだら模様をしている。まさに鳥のフンにそっくり。身を守るための擬態だろう。葉と一緒に箱に移し、毎日新鮮なレモンの葉を与え続けた。 数日経つと、それが緑色の幼虫と化し、食欲も旺盛になる。時にはバリバリと音を立てて葉を食するのだ。 幼虫が3~4cmになると、やがて蛹になる。せわしなく動き回り、自分の居場所を探し始めるのが合図。糸を吐き、箱の壁面に自らを固定し、徐々に蛹となっていく。さらに緑色の蛹が黒色に変わると、たいていは翌朝に羽化となる。 羽化する瞬間に立ち会えたのは、1回だけだった。蛹の上部が割れ、頭が見えたと思ったら、黒い液体の中から羽がするりと抜け出した。一瞬の出来事。3cmに満たない蛹から、羽を広げると10cmほどになる蝶が誕生したのは驚きだった。 虫愛づる姫君 幼虫の最後の1匹が蛹になるまで約1カ月間、レモンの葉を運び、箱にたまったフンの掃除をしていると、なんだか奇妙な感覚に捕らわれた。昔読んだ「虫愛づる姫君」の世界に迷い込んだ気分だ。確か平安時代後期の短編集『堤中納言物語』の中の一編。虫好きの姫という部分しか記憶になかったが、改めて紐解いてみると、なかなかに面白い。 「人は花よ、蝶よと、きれいなものばかり愛でるけれど、誠実な心で物事の本質を探ることこそ、心の様子も趣があるのだ」と、たくさんの虫を集め、成長ぶりを観察する。 また、当時の貴族の娘のたしなみである眉毛を抜くことや、お歯黒にすることもせず、「人は繕わず、ありのままがいい」と言い放つ。さらに周囲の者が世間体を気にすると、「突きつめれば何も恥ずかしいことはない。誰が永遠に生きて、物の善悪を見定められようか」と、時代とともに価値観が変化することを言い当てる。 千年以上も前に書かれた物語だが、現代に生きる女性にも通ずるメッセージが随所に散りばめられている。それは新たな発見だった。 風の谷のナウシカ 「虫愛づる姫君」はまた、宮崎駿によるアニメーション映画『風の谷のナウシカ』の主人公のモチーフになった人物だという。人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカ。優れた観察眼を持ち、独自のものの見方を貫くその姿勢は、虫愛づる姫君と共通のものだ。ナウシカは「私、生きるの好きよ。光も愛も人も虫も、大好きだもの」と語る。 宮崎監督みずから原作本の中で「私の中でナウシカと虫愛づる姫君はいつしか、同一人物になってしまっていた」と述べている。文明社会が戦争によって滅んだ千年後の地球を舞台にした物語。それもまた、今を生きる私たちへの大いなるメッセージに他ならない。 帰ってきたアゲハチョウ 最初に生まれた蝶が飛び立った翌日、バルコニーでバラの水やりをしていると、どこからともなくアゲハチョウが舞い降りてきた。私の頭上を一巡すると、また飛び去った。以来、連日バルコニーに数羽の蝶が訪れるようになった。偶然の出来事かとも思ったが、特徴のある羽の持ち主を見た時、それは確信に変わった。彼らは、生まれたバルコニーに戻ってきたのだ。 ある時はカップルで訪れ、パンジーの花の上で交尾を行った。これもまた一瞬の出来事だった。6月から7月にかけてのバルコニーは、バラの二番花の季節。少しずつ花開くバラの隣で、また新しい生命の誕生が見られるかもしれない。 併せて読みたい ・初めてでも庭で育てられる! かんきつ類の育て方とおすすめの種類をご紹介 ・感動の果樹栽培「レモンの木」育て方と楽しみ方 ・意外とカンタン! ベランダでゆずの木を育てて果実を収穫してみよう


















