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「コレット(コレッタ)」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】

「コレット(コレッタ)」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】

バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによるバラと人をつなぐフォトエッセイ。フランス人作家であり舞台女優でもあるなど、多彩な才能を発揮したコレットと、その女性の名を冠したフランス生まれの美しいバラ‘コレット’をご紹介します。

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映画『コレット』

コレット

イギリス、アメリカ合作の『コレット』という映画を見た。フランス人作家シドニー=ガブリエル・コレット(Sidonie-Gabrielle Colette,1873-1954)をモデルにその半生を描いたものだ。映画はフランスの田舎で育った彼女が結婚のためパリに出て、やがて作家コレットとして独り立ちするまでをストーリー化している。宣伝チラシには「ココ・シャネルに愛され、オードリー・ヘップバーンを見出した実在の小説家」とある。

主人公の少女時代の映像を見ながら、私は10年ほど前にコレットが生まれ育った、フランスのブルゴーニュ地方、サン=ソヴール=アン=ピュイゼーの村を訪ねた時のことを思い出していた。それは『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』という著書のための、パリからの小旅行だった。

バラ‘コレット(コレッタ)’

バラ「コレット(コレッタ)」

我が家のバルコニーにその名前のバラがやってきたのは、20数年前のこと。以来、毎年オレンジがかった杏色で、ロゼット咲きの花を枝いっぱいに咲かせる。フランス、メイアン社で1995年に作出された半つる性のバラだ。

バラ園のカタログで「コレッタ(Colette)」と表記された苗を見つけた時、一瞬コレットと結びつかなかった。だが名前のスペリングを見ると、まさに作家のものだ。コレットの小説は少女時代に『青い麦』や『シェリ』を読んで、胸をときめかせていた。大人の女性の世界を覗き見るような後ろめたさと同時に、キラキラとしたその感性に魅了された。また作家の誕生日が自分と同じと知って、勝手に親近感を抱いていた。

著書『「コレット花28のエッセイ』(森本謙子訳、八坂書房刊)では、さまざまな花について綴っている。植物に寄せる並々ならぬ熱情の持ち主だ。特にバラについては、特別な思いを寄せていた。

バラ
我が家のバルコニー、5月のバラ風景。手前が‘コレット’。奥は‘マダム・エルンスト・カルヴァ’(左)、‘クリスティアーナ’(右)。

サン=トロぺに別荘を手に入れた時には「庭、庭、まず庭だ」「土を掘り起こしたり、踏みしめたり、くだいていったりするのは労働―快楽―である」と記している。自らの手で庭をつくっているのだ。ここでもバラは特別扱いを受けている。白バラ、黄バラ、薄紅色のバラ、真紅のバラと苗木を植えこむ様子は、舞台の演出家が登場人物の立ち位置を決めているかのようだ。

「バラにはすべてが許されている。(略)この花はなんとしっかりして、愛らしいのだろう!果実よりも熟し、頬や胸よりも肉感的だ」私はこの文章を読んで、「コレッタ」と表記されたバラは、作家コレットに捧げられたもの、と確信した。

コレットの生家を訪ねて

フランス、ブルゴーニュ地方のサン=ソヴール村
フランス、ブルゴーニュ地方のサン=ソヴール村の田園風景。コレットはこの村で生まれ、少女時代を過ごした。

パリから特急列車で約2時間。さらに最寄りの駅から45km離れているサン=ソヴールの村。そこに行くのにはバスもなく、駅であちこち聞きまわり、やっと1時間後にタクシーを得て、なんとかたどり着くことができた。

コレットの生家
コレットが18歳まで暮らした生家。中央付近が入口で、ドアの上の窓のある部屋が彼女の居室だった。

村には生家が残っていて、その前の道はコレット通りと名づけられていた。家には住む人がいないとのことだが、当時見ることができたのは外観だけで、裏手の庭への道は閉ざされていた。コレットはこの家で幼い頃から小説を読みふけり、同時に薬草摘みの女性たちの後をつけて森の奥深くに分け入ったという。
*現在コレットの生家はLa Maison de Coletteとして一般公開されている。

サン=ソヴール村
サン=ソヴール村の生家近くには、緑あふれる風景が広がっていた。

コレットの小説では自然描写、特に光や色彩、香りが鮮明に描かれている。こうした感受性は生まれ故郷の田園や森によって育まれたと、作家自身が語っている。

村のコレット記念館

コレット記念館
村の古い城館が1995年から「コレット記念館」になり、作家の遺品や資料が展示されている。

サン=ソヴールの村は丘の上に建つ17世紀に再建された城を中心に、丘の斜面に沿って家々が連なっている。その古城はコレット記念館として一般公開されていた。生家や小説の舞台にもなった小学校に立ち寄り、最後に記念館を訪れると、入り口の階段わきに咲くバラの‘コレット’が私を迎えてくれた。

コレット記念館

晩年の16年間を暮したパリのパレ・ロワイヤルの部屋に残された遺品が集められ、館内には彼女のサロンや寝室が再現されていた。私がパレ・ロワイヤルを訪れた時は、その庭園から彼女の住んでいた部屋の窓しか望むことができなかったので、感慨深いものがあった。
*『フランス・パリの隠れ家「パレ・ロワイヤル」』参照。

コレット記念館
人生が7つのパートに分けられ、それぞれの時代の写真が飾られた「自伝の間」。

いくつかのテーマ別に展示室が続き、1階から3階までの各部屋を巡ると、コレットのほぼ全体像が浮かび上がってくる。圧巻なのは彼女の写真が250枚ほど額装され、壁に掛けられた「自伝の間」。7つのパートに分けられ、その時々の写真で生涯をたどることができる。部屋には自作を朗読する作家の声が静かに流れていた。

コレットの人生

少女時代のコレット
「故郷での写真」と題された、少女時代のコレットの肖像。

コレットは小説家、脚本家、ジャーナリストといった著述業のほか、踊り子、舞台女優、美容院経営者、化粧品販売業と、いくつもの顔を持っていた。自作の舞台化にあたり、当時無名だったオードリー・ヘップバーンを主役に抜擢し、彼女を世に送り出したことでも知られている。

コレット記念館
2階から3階へ上る階段。1段ごとに本のタイトルが刻まれ、踊り場の壁にはコレットの目がプロジェクターで投影されていた。少女の瞳から、晩年の思索的なまなざしへと数秒ごとに変わる映像は秀逸だ。

自由奔放な生き方ゆえ、50歳を過ぎる頃まで常にスキャンダルの渦中の人でもあった。だが全生涯にわたり撮られた膨大な写真は、いかに彼女が懸命に生きたか、その証のようにも見えた。自らの直感を信じ、常に自分に正直であったのだ。そしてバラをこよなく愛した。

私はコレットの生まれ故郷の城の入り口に咲いていたバラを、帰り際にそっと写真に収めた。

バラ‘コレット’
丘の上のコレット記念館に咲いていたバラ‘コレット’。

Information

Musée Colette

Château 89520 Saint Sauveur en Puisaye
Phone +33(0)3 86 45 61 95
contact@musee-colette.com

4月1日から10月31日まで開館
10:00~18:00、火曜日休館

www.musee-colette.com

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