バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによるバラと人をつなぐフォトエッセイ。18世紀のフランスで宮廷画家としても活躍した植物画家、ピエール=ジョセフ・ルドゥーテとその名を冠したバラ‘ルドゥーテ’、そしてルドゥーテの故郷を訪ねた旅をご紹介します。
目次
ルドゥーテとの出会い
ロンドンに行くと、ニューヨークで知り合った友人の両親の家のゲストルームに滞在することが、長年続いていた。その家のフランシス夫人が亡くなってから、セントジョンズ・ウッドにあった邸宅も人手に渡ったが、彼女のゲストルームを思い起こすと、ある絵が浮かんでくる。骨董好きな夫人が市場で手に入れた絵で、「ルドゥーテの作だ」と教えられた。
それは植物の細密画で、いわば図鑑の挿絵なのだが、壁に4枚並んだバラの絵は一つひとつが妖しく、花の芳香を放つかのように見えた。初めて見たのが1970年代。当時まだルドゥーテの名前を知る人は少なくて詳細が分からず、ずっとその絵が気になっていた。我が家のバルコニーにバラ苗が増えるにつれ、名前が伝わってくることが多くなり、少しずつその人の全貌が明らかになっていった。
画家ルドゥーテ
ピエール=ジョセフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté/1759-1840)はベルギーに生まれ、パリで植物画家として生計を立てていた。その才能に注目したのが、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌである。ジョゼフィーヌはパリ西部のリュエイユにあるマルメゾンの館に1,800ヘクタールのバラ園を所有し、育種家たちに新種のバラをつくらせていた。当時のバラの数は250種ともいわれ、そのすべてをルドゥーテに描かせている。
ルドゥーテはジョゼフィーヌ亡き後もバラを描き続け、『バラ図譜』(Les Roses)3巻を出版した。自ら多色刷りの印刷技術を改良し、水彩画の繊細なフォルムと色彩を再現。さらに印刷された図版に一枚ずつ筆で彩色を施すなどの手を加えている。当時の『バラ図譜』を手に入れることは困難だが、その中の数ページがときおり骨董市で見つかったりする。フランシス家の壁の絵もそうしたうちの4枚だった。近年、ルドゥーテの絵の人気が高まり、我が国でも何回か展覧会が開かれ、カレンダーやポストカードでもお馴染みになっている。
バラ‘ルドゥーテ’
バラの画家に敬意を表して、育種家のデビッド・オースチンの手で「ルドゥーテ」という名前のバラがつくられたのは1992年のこと。イングリッシュローズの銘花‘メアリー・ローズ’の枝変わりで、白と淡いピンクのグラデーションが優美だ。
初めてバラ‘ルドゥーテ’に出合ったのはベルギーのバラ園で、一つのコーナーがこの花で覆われ、幻想的ともいえる光景だった。我が家にやって来たのは15年ほど前。やや早咲きで、ロゼット咲きの花は5月のバラの季節の到来を告げるかのように開き始め、四季咲きなので、繰り返しその花姿を見せてくれる。
ベルギーの生家への旅
何年か前にベルギーのバラ園を訪ねる機会があり、その旅の日程にルドゥーテの生誕地を加えた。首都ブリュッセルから南へ下る、アルデンヌ地方の小さな町、サン・チュベールが彼の生まれた地で、13歳までをその町で過ごしている。
町は人口5万人ほどで、鹿狩りの盛んな地として知られていた。広場に向かうと、市役所の前にルドゥーテの胸像を掲げた噴水が建っている。そこから続く道の一つがルドゥーテ通りと名づけられていた。通りの8番地が生家のあった所で、家屋は第二次世界大戦で破壊され、空き地のままになっている。
生家跡地の向かいに「ルドゥーテ・センター」(現在はルドゥーテ美術館と改名)と名づけられた2階建ての記念館が建っていた。館内には作品とともに彼とその家族の肖像画、生家に残されていた家具などが展示されており、画家その人が急に身近に感じられた。
家は代々画家の家業で、父親は町のベネディクト派修道院のために宗教画を描いている。ルドゥーテは父親の仕事を手伝い、13歳になると家を出て、フランドル各地を旅して絵の修業に励んだ。修道院を訪ねてみると、そこはルドゥーテの時代のまま、ほとんど変わっていないという。周囲にはルドゥーテの名前を冠したバラ園が広がり、芝生の上で家族連れが憩う姿が見られた。
パリ郊外、ルドゥーテの邸宅探し
ルドゥーテは23歳の時、兄を頼ってパリに出た。王立植物園に通い、花のデッサンに勤しんだことがきっかけで、植物関係の書物の挿画を描くようになった。やがて植物画の本を何冊か出版し、代表作ともいえる『バラ図譜』3巻は、合わせて169種類のバラを収録し、1817年から1824年に何度か刊行している。
パリのセーヌ通りにアトリエを構え、郊外のヴァル=フルーリに荘園を購入して邸宅と庭園にしていた。私はシャルル・レジェが著した伝記『バラの画家 ルドゥテ』(八坂書房刊)でフルーリという地名を知り、気になっていた。そこではたくさんのバラが育てられていたという。
2008年の夏、パリ滞在中の私はムードン・ヴァル・フルーリという名の駅を見つけ、思わずそこに降り立った。伝記は60年以上前に書かれたもので、それ以上何の手がかりもなかった。駅の案内係や町の人たちに尋ねても、ルドゥーテの名前すら知らない。歴史博物館を探し訪ねてみると、学芸員の一人が「たぶんこのあたりに家があったはず」と地図に印をつけてくれた。「でも今はすべて壊されている」という言葉を添えて。
地図の印を頼りにその通りにたどり着いた私は、道行く人に声を掛けながら、小1時間ほどあたりを巡っていた。1軒の家の門が開き、中から10代の少年が顔を出したので彼に尋ねると、そこがまさにルドゥーテの家だという。私の胸は高鳴った。
アポイントを取り翌日再訪すると、少年の両親で現在の住人夫妻が出迎えてくれた。現存する建物は18世紀のもので、ルドゥーテの時代には馬車置き場とガーデナーの住居として使用されていた。一段高くなった場所に、ルドゥーテがアトリエとしていた小部屋が残されていた。彼の邸宅はさらに高台にあったが、今はないという。
後にルドゥーテ・センターの資料集を見ると、アトリエの正確な絵図が載っていて、まさに私が出合ったのはその建物だった。夫妻の話では、かつての庭はこの家の敷地だけでなく、歩いて6、7分かかる駅の辺りまで広がっていたという。今は住宅地としてすっかり変わっている街並みを見るにつけ、ルドゥーテの庭の一片にたどり着けた幸運に改めて感謝した。
人々を魅了する植物画
ルドゥーテは晩年の著書『美花選』の中で次のように語っている。
「植物画は(中略)魔法の筆で花の女神のはかない贈り物にいのちの持続を与えることが出来る」
フランス革命の激動の時代にルイ16世やマリー・アントワネットに、革命後は皇妃ジョゼフィーヌにと、絶大な信頼を得てひたすら描き続けた人生。永遠の命を内包したルドゥーテのバラたちは、200年の歳月を経た今も、見る人の心を捉えて離さない。
Information
Muée Pierre-Joseph Redouté
rue Redouté 11
6870 Saint-Hubert
Belgique
Tel:+32(0)61 61 14 67
開館:7、8月 13:00~17:00
9~6月(予約制、10人以上のグループのみ)
入場料:大人 2.5 €
14~21歳 1.25 €
14歳以下 無料
Credit
写真&文 / 松本路子 - 写真家/エッセイスト -
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
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