まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー

「シティ・オブ・ヨーク」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
‘シティ・オブ・ヨーク’との出会い 白バラの名花、‘シティ・オブ・ヨーク(City of York)’に初めて出会ったのは、二十数年前、千葉県佐倉市にあったバラ園「ローズガーデン・アルバ」だった。バラ園のことを知り訪ねたが、そこは広い畑の真ん中に忽然と現れる不思議な空間だった。バラ園はNPO法人バラ文化研究所の運営で、原種やオールドローズを中心としたバラの保存、研究を目的とした場所だった。 ‘シティ・オブ・ヨーク’は、園内の作業小屋の屋根を覆うように咲いていて、楚々としたその花姿に見とれてしまった。その年、早速苗を手に入れ、バルコニーで育て始めた。 佐倉草ぶえの丘バラ園 「ローズガーデン・アルバ」は2005年に佐倉市の公共施設の中に移転し、「草ぶえの丘バラ園」として開園した。バラ文化研究所が管理委託を受け、現在13,000㎡の敷地に、1,050品種、2,500株のバラが栽培されている。 ヘリテージローズ(原種バラやオールドローズ)が中心で、「世界の原種バラ」「アジアの原種バラ」「日本の原種バラ」など、コーナー別に見ることができ、バラの歴史を辿るコーナーもある。また植物画家ルドゥーテの描いた『バラ図譜』に登場するバラを集めた「ルドゥーテコーナー」、リヨンのバラ園から寄贈されたバラを集めた「ラ・ボンヌ・メゾンコーナー」など興味深い展開がなされている。 我が家の‘シティ・オブ・ヨーク’ バルコニーで育てているバラは、最初は2mの高さのフェンスに設えていた。その後、大鉢に植え替え、リビングルームの窓の縁に誘引すると、7mほど枝を伸ばした。反対側にもう1株を植え、2株の枝を繋げると、窓の縁はバラのアーチのように、花で彩られた。 昨年の冬、マンションでバルコニーの防水工事が実施され、すべての鉢の移動を余儀なくされた。10年に1度は訪れるバルコニーガーデニングの宿命ともいうべき事業だ。鉢を移動させるため、‘シティ・オブ・ヨーク’の枝を3mまで切り詰めた。残念に思っていたが、枝を切り詰めたことで今年のバラはいつになく花数が多く、枝一面に白い花が広がった。鉢植えのバラとは思えないほど、見事な咲き方だった。 名前の由来 長い間、シティ・オブ・ヨークはイギリス北部ノースヨークシャー州にある都市の名前だと思っていた。だがある時、アメリカのペンシルベニア州、ヨーク市に由来する名前だと知った。アメリカのヨーク市は「ホワイト・ローズ・シティ」(The White Rose City)を名乗り、白バラを市のシンボルとしているのだという。 バラ戦争 ヨーク市が白バラを街のシンボルとしていると知って、思い起こされるのはバラ戦争のこと。バラ戦争は15世紀後半のイギリスで起きた内戦で、ヨーク家とランカスター家の王位継承をめぐっての争いだ。ヨーク家の紋章が白バラで、ランカスター家の紋章が赤バラだったことから、のちにバラ戦争と名付けられた。一説にはウィリアム・シェイクスピアが劇中で創作した名前ともいわれる。 アメリカ、ヨーク市 アメリカのヨーク市は、ペンシルベニア州の南部中央に位置する。フィラデルフィアからの入植者でつくられ、イギリスの都市名が付けられた。 同じペンシルベニア州にはランカスター市もあり、こちらは「レッド・ローズ・シティ」(The Red Rose City)を名乗っている。イギリスのバラ戦争が、アメリカの都市に飛び火しているのは興味深いことだ。白バラチームと赤バラチームのフットボールの試合が行われるなど、この名が人々に愛されるのは、バラの名前が冠されているからに違いない。 バラ‘シティ・オブ・ヨーク’ バラ‘シティ・オブ・ヨーク’は、1939年にドイツ北部、ユーテルゼンにあるバラ育種会社タンタウにて作出された。オリジナルの名前は‘デレクター・ベンショップ’。人の名前のようだが、調べてもどのような人物かは、いまだ不明だ。 丈夫なつるバラで、7〜8mほど枝を伸ばす。オフホワイトの花弁に、黄色い雄シベが鮮やかに映える。丸弁の半八重咲きで、花径は10cmほど。挿し木で容易に増やすことができる。 一季咲きだが、株が充実すると秋にも開花する。 Information 佐倉草ぶえの丘バラ園 住所:千葉県佐倉市飯野820 電話:043-486-9356 アクセス:京成佐倉駅下車、北口からバスで約20分 開園:9時〜17時(最終入園16時半) 休園日:月曜日(11月〜3月19日)、年末年始、臨時休園あり 入園料:大人410円、子ども100円、未就学児 無料 https://kusabueroses.jp
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果樹

パッションフルーツを育てる【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
収穫できるグリーンカーテン わが家では、北に面した広めのバルコニーで、60鉢のバラを育てている。さらに東に面したベランダには、熱帯植物などの鉢が並び、寝室の窓辺の日除け用にパッションフルーツが誘引してある。パッションフルーツは、成長が早い多年生のつる性植物で、葉が多く茂ってグリーンカーテンとなり、同時に実が収穫できるという、実用的で嬉しい植物だ。 最近では4月頃から、園芸店の店先で1年目の挿し木苗を見かけることが多くなった。購入して1回り大きな鉢に植え付けると、やがて花芽が出てくる。苗が成長したらさらに植え替えて、翌年にはグリーンカーテンを作ることが可能だ。 夏に実を付けた苗が、行燈仕立ての鉢で出回ることもある。そのまま育ててもよいが、プランターに植え替えて、トレリスやネットに這わせると、グリーンカーテンとして楽しめる。 ユニークな花姿 5~6月にかけて咲く花は、ユニークな姿をしている。和名はクダモノトケイソウで、花を時計の文字盤に見立ててその名前が付けられた。観賞用に改良されたさまざまな花色の園芸品種もあるが、我が家で育てているのは、名前の通り果実の収穫を目的とする品種だ。 パッションフルーツの名前の由来 パッションフルーツという名前を知ってから長い間、パッションは「情熱」だと思っていた。だがある時、パッションは「キリストの受難」を意味する言葉だと知った。原産地の南米で花を見たイエズス会の宣教師が、花の子房柱を十字架、雄シベを釘、ガクを茨の冠として、キリストが十字架にかけられた姿を思い描き、ラテン語で「パッション・フローラ」(英語でパッション・フラワー)と名付けたのが由来とされる。 それからはトロピカルで華やかな花が、なんだか別の顔を持って現われたような気がしている。 懐かしい味 父の仕事の関係で、子ども時代を伊豆の熱帯植物園の敷地内の家で過ごした私にとって、パッションフルーツの実は最高のおやつだった。まだ国内では苗が流通していない時代で、植物園では実験的に露地栽培を行っていたのだ。 当時はトケイソウと呼んでいて、青い実が付くと、完熟するのを心待ちにしていた。収穫した実を父が自宅に持ち帰ると、母が果肉をガーゼで絞りジュースにして、姉と私に手渡してくれた。 幼い頃、母の手元をかたずを呑んで見つめていた記憶が、今も鮮明に残っている。 人工授粉 花が咲くと、蝶や虫がやってきて受粉を助けてくれる。だが確実に結実してほしいので、いくつかの花に人工的に授粉作業を施す。朝の開花と同時に、綿棒を使い雄シベの花粉を直接雌シベにつけるのだ。受粉すると数日後に花の中央の子房が膨らみ、小さな実が生まれる。受粉しなかった花は落下する。 食べ頃 青い小さな実が、約2カ月かけて5~6cmほどの楕円の球形に成長する。それが濃い赤紫色に変わるのが収穫の合図。収穫前に実が自然落下することもあるので、最近は色付いたところでネット状の袋がけをして実を受け止めている。 収穫した実は完熟しているが、それから2~3日常温下に置くと、表面がシワシワになり、甘みが増してくる。実を2つに割ると、中に種子とそれを包むゼリー状の果肉が現れるので、種子ごとスプーンですくって食べる。ヨーグルトやアイスクリームにトッピングするほか、サラダのドレッシングに加えても美味だ。 甘酸っぱい南国の果実は、私にとって懐かしさとともに、夏の到来を告げる季節の味となっている。
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ストーリー

「ウィンチェスター・キャシードラル」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
早咲きのイングリッシュローズ クラシカルな花姿の白バラが欲しくて探していた十数年前に出合ったのが、‘ウィンチェスター・キャシードラル’。デビッド・オースチン・ロージズ社がまだ日本に設立されていない時代、苗の輸入代理店のカタログを見て、裸苗を取り寄せた。我が家のバルコニーの中では、原種のバラに次いでの早咲きで、例年4月から咲き始める。 ロゼット咲きの白い花弁が枝一面に付くと、イングリッシュローズの開花シーズンの到来に胸躍る。 ウィンチェスター大聖堂 バラはイギリス、ハンプシャー州、ウィンチェスターにある大聖堂の名前が冠されている。大聖堂の身廊はヨーロッパ一の長さを誇り、ゴシック様式の建物とその内部の美しさには定評がある。近年では、映画『ダヴィンチ・コード』のロケ地になったことでも知られている。 ウィンチェスターは中世の面影が色濃い、落ち着いた佇まいの街だ。その歴史は古く、紀元前、古代ローマ帝国の時代に栄えた地だという。9世紀のアングロ・サクソン七王国の時代は、ウェセックス王国の首都でもあった。 ウィンチェスター大聖堂の前身ともいえる礼拝堂の建物は、7世紀に建てられている。大聖堂が築かれたのは1093年。以来、増築や改修作業を経て、現在の姿となっている。建物だけでなく、12世紀の壁画、13世紀の彫刻、大聖堂図書館に残る12世紀のウィンチェスター聖書など、多くの国宝級の遺産を見ることができる。 ジェイン・オースティンの墓 大聖堂にはさまざまな著名人が埋葬されている。なかでも訪れる人が多いのは、イギリスの作家、ジェイン・オースティン(Jane Austen 1775-1817)の墓だ。19世紀前半に活躍したオースティンは『高慢と偏見』『エマ』などの著作で知られ、それらはイギリス長編小説の頂点と評されている。 生涯のほとんどをハンプシャー州の田舎で過ごした彼女は、亡くなった1817年当時、ウィンチェスター近くのチョウトンという村に住んでいた。41歳で病を得て、ウィンチェスター病院で治療を受けていたが亡くなり、彼女が称賛していた大聖堂の建物の中、北通路に埋葬された。作家としての名声が高まると、「ジェイン・オースティン、多くの著作で知られる」というプレートが近くの壁に掲げられた。 枝変わりの不思議 バラ‘ウィンチェスター・キャシードラル’は、十数年たった今もたくさんの花を付ける。不思議なのは、白い花弁にピンク色が混じることだった。バラの栽培を続けるうちに、「枝変わり」という言葉を知り、その理由が明らかになった。 「枝変わり」とは、植物の成長の途中に突然変異によって、違う性質の枝が出現することを意味する。そうした本来と異なる花色や、枝、葉、また木立性バラからつるバラへと変化した枝などを、接ぎ木や挿し木で増やして、新しい品種を生み出す。 ‘ウィンチェスター・キャシードラル’は、同じイングリッシローズである‘メアリー・ローズ’の枝変わり。ピンク色の‘メアリー・ローズ’から純白の花が出現したのは不思議なことに思える。時折白色にピンクが混じるのは先祖返りしたもので、一つの株で白色とピンク色の花が同時に咲いたこともある。 ‘メアリー・ローズ’の花は、以前友人と訪れた「軽井沢レイクガーデン」での印象が強く残っている。湖の一角を縁取るように植えられていて、水面に映る花姿が優美だった。 ‘メアリー・ローズ’の枝変わりには、バラを描いた植物画家の名を冠した‘ルドゥ―テ’もあり、こちらは淡いピンク色。我が家では‘ウィンチェスター・キャシードラル’からほんの少し遅れて開花する。3種とも花色以外の性質はほぼ共通していて、イングリッシュローズの中でも早咲きで知られている。 ●「ルドゥーテ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】 バラ‘ウィンチェスター・キャシードラル’ イギリス、デビッド・オースチンが1988年に作出した、イングリッシュローズで、白バラの名花。多弁のロゼット咲きで、花径は7〜8cmほど。房咲きで、よく返り咲く。 樹形はシュラブで、半直立性。樹高は1.2mほどになる。イギリス、ハンプシャー州、ウィンチェスターにある大聖堂の名前が付けられている。 Information ウィンチェスター大聖堂 Winchester Cathedral 住所:9,The Close, Winchester, Hampshire SO239LS England 電話:+44(0)1962-857200 Email:cathedral.office@winchester-cathedral.org.uk Website:http://www.winchester-cathedral.org.uk 時間:月~土曜 9:00~17:00、日曜 12:00~15:00 入場料:大人£9.95.学生£6.50、大人同伴の16歳以下無料 アクセス:ロンドンのウォータールー駅から、南西部鉄道網にて、ウィンチェスター駅まで直通あり。所用約1時間。
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ストーリー

「ナニワイバラ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
葉山のバラ 我が家のバルコニーのバラの中で、今年の開花一番乗りは、ナニワイバラ。早咲きのバラだが、例年より2~3週間早く咲き始めている。ナニワイバラは花径6~8cmほどの大輪花で、純白の5弁が楚々とした風情を醸し出す。バラの季節の到来を告げるのにふさわしい花姿だ。 この花は、私と友人たちの間ではひそかに「葉山のバラ」と呼ばれている。二十数年前に、何人かの女友だちと葉山に住む友人宅に遊びに出かけた折に、このバラと出会った。海岸に向かう道を散策している途中に、一軒の家の垣根一面に白いつるバラが咲いていた。垣根の長さは15mほどもあっただろうか。 あまりの見事さに、一枝の花盗人をするつもりが、葉山の友人に止められた。 「ご近所での狼藉はいかん」という。それではと、思い切って見知らぬお宅のドアチャイムを鳴らした。顔を出したのは白髪の上品な婦人で、「挿し木にしたいので、一枝いただけますか」とお願いすると、にっこりと微笑み、玄関に置いてあった剪定バサミを渡してくれた。 50cmほどの枝を、2本大切に持ち帰り、いくつかに分けて挿し木を試みた。その苗木が成長して、今もバルコニーの一画を彩っている。葉山に同行した友人たちの家にも苗が行き渡り、互いに成長や開花を報告し合っている。その後も苗を増やし続け、何人もの友人宅で開花している。庭に地植えした友人からは、3年後に2階に届く勢いだという知らせが届き、その成長の速さに驚かされた。 葉山のバラの主とは後日談がある。枝を頂いたお礼にバラのカードを送ったら、短歌が返ってきた。不躾な来訪者にたおやかに対応し、歌を詠む。その方の暮らしぶりが偲ばれた。 名前の由来 「葉山のバラ」は当時ほとんど知られていなくて、名前が不明だった。父の本棚の古いバラ事典の写真から「ナニワノイバラ」という名前を見つけたのは、出会って4、5年経ってからだ。中国中南部や台湾に分布する原種のつるバラで、江戸時代に日本に渡来し、一説には浪花商人が苗木を扱ったので、この名前がついたとされる。現在では至る所で見られ、四国や九州では野生化しているという。 チェロキー・ローズ ナニワイバラは、ブータン、ラオス、ベトナムなどでも見られる。またアジアだけでなく、18世紀に北米に渡り、米国南東部を中心に野生化して、現地ではチェロキー・ローズと呼ばれている。ネイティブアメリカンのチェロキー族の居住地に多く生息していることから、名づけられた。 彼らの地に金鉱が発見され、当時のアメリカ政府は、チェロキー族をジョージア州からオクラホマまで強制移住させた。そうした歴史の物語に登場するバラでもある。 チェロキーの人々が辿った道は1,000マイル(1,609km)に及び、「涙の道」と呼ばれるほど過酷なものだった。多くの人が行進の途中に亡くなり、一族の古老は、女性たちを励ますために「流した涙が道筋のバラを育てる」と伝えたという。またその涙が白い花になったと、伝説化もされている。 哀しい物語にまつわるバラだが、彼らにとってチェロキー・ローズは、いつか戻ることを熱望する、故郷を象徴する花でもあった。1916年、ジョージア州は、チェロキー・ローズを州花に定めている。 ナニワイバラ おもに中国中南部や台湾に自生するつるバラ。学名はロサ・レヴィガータ。花径6〜8cmの大輪で、5弁の一重の白花を咲かせる。光沢のある葉は常緑で、冬でも落葉しない。強健種で、つるは10mにも成長する。育てやすいバラだが、鋭いトゲが多いので、植える場所や鉢を置く場所に注意が必要だ。挿し木で増やすことが容易で、5〜6月が適期。秋に赤橙色に熟すバラの実は生薬で「金桜子」と呼ばれ、下痢止め、縮尿などに薬効がある。 一回り花が大きく、花びらが波打つブータンナニワイバラの苗も市販されていて、ナニワイバラより10日ほど遅くに開花する。ナニワイバラの枝変わりにピンクの花を咲かせるハトヤバラがある。学名はロサ・レヴィガータ・ロゼア。開花はナニワイバラとほぼ同時期で、埼玉県鳩ケ谷で生産されているので、この名前がついたという。
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ガーデニング

ブリコラージュフラワーの愉しみ【松本路子の花の現場レポート】
寄せ植えリースとの出会い 昨年末に、花苗を寄せ植えしたクリスマス・リースを見かけた。バラの花のような葉牡丹を中心に、紫色のビオラや白色のアリッサムを配したパステルカラーのリースは、楚々として、また華やかなものだった。 リースの作り手は、福岡県で鉢花の販売や寄せ植え教室を主宰している「アトリエ華もみじ」の小森妙華さん。東京の多摩地区、東久留米市にある「秋田緑花農園」でも寄せ植えのワークショップを開いていると聞き、さっそくお話を伺いに農園を訪れた。 小森さんは鉢物の植物の根と土をほぐし、いくつかの苗をブーケのように束ねて植え付ける独特の方法を用い、それをブリコラージュフラワーと名付けている。ブリコラージュとは、フランス語で「好きなものを寄せ集めて、新しいものを作る」という意味だという。 ブリコラージュフラワーの作り方 まずは自分がアレンジしたい全体のイメージを描き、花苗を選ぶ。 同時に、陶器鉢、リース、バスケットなど、どんな器に植え込むかを考える。 リースは市販のリース台を、またバスケットは水に強いアラログラタン製がおすすめ。 器(ここではリースとバスケット)の底に、ヤシの実チップの植え込み材「ベラボン」を敷き詰める。 ポットから苗を抜き出し、土と根をほぐす。根の周りに直径3〜4cmほどの土を残した苗のいくつかを、手に持てる大きさに束ねる。その時、花や枝の向きや色彩のバランスなどを整える。 手の中で苗をブーケのように束ねたら、根株の周りが崩れないように長めの水苔をギュッと巻き付ける。 直径35cmのリース台には小さめのブーケを9個、バスケットには大きさに合わせて、ブーケを作りながら植え付けていく。 全体を植え付け終わったら、軽く土を押さえて器に馴染ませる。余分な茎や葉を取り除き、姿を整える。 最後に、たっぷりと水を与える。 ブリコラージュフラワーの育て方 リースやバスケットに植えた植物は日々成長し、表情を変えてゆく。冬に植え付けた苗は、春の訪れとともに大きく伸びをするように花茎や葉を広げ、4月頃まで楽しむことができる。 【育て方ポイント①】 水やりは2、3日に1回を目安に行う。リースはバケツに水を入れ、底の部分を5分ほど浸すとよい。気候や置き場所などの条件にもよるので、乾燥や水のやりすぎに注意する。 【育て方ポイント②】 ゆっくりと成長させたいので、肥料はあまり与えない。ビオラやペチュニアなど生育が旺盛な植物のために、月に1回、液体肥料を与える。 【育て方ポイント③】 寄せ植えを長く楽しむために、咲き終わった花がらを摘み取り、傷んだ葉などは取り除く。 「可愛い!」を連発 今回、作り方を見せていただいたバスケットの寄せ植えは、大きめのブーケを2個使っている。苗は黄色のプリムラ・ジュリアン、ニオイスミレ、ムスカリ、イベリス、ビオラ、スカビオサ、ジャスミンの葉。 想像以上に大胆に株を分け、土を落とすが、根の先端を残すことがポイントだろう。作業は慣れないと案外難しいかもしれない。小森さんは手際よく花苗のアレンジを作りながら、「ああ可愛い、可愛い」と草花に声をかけている。花を励ましているようにも、また自分の気持ちを花に向かって集中させているようにも思える。 「自分が愛しいと思った花を集め、弾む気持ちで作った作品でないと、人の心に響くものはできない」と語る。まずは「好き」という気持ちを大切にして、自分の心に素直に向き合うことが第一歩。そうすることで、選んだ花の色や形のアレンジが、折々の自分を表現することにつながっていくのだろう。 小森さんの寄せ植えからは、柔らかな春の日差しや、野原を吹き渡る風が感じられる。植物の声を聴き、絵を描くようにブーケを束ねる。それが新たな世界を作り出しているのだ。こんな寄せ植えリースやバスケットを部屋の窓辺に置くことができたら、風景が変わって見えるかもしれない。 Information アトリエ華もみじ 福岡県大野城市下大利3-2-22 電話:092-558-6288 Email:support@hana-momiji.net HP:https://www.hana-momiji.net 福岡、大阪、東京でのワークショップのお問い合わせ Email :lesson@hana-momiji.net
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ストーリー

「ジャクリーヌ・デュ・プレ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
カタログの写真に一目惚れしたバラ バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’が我が家にやってきたのは、20年ほど前のこと。バラ園のカタログの写真に魅せられて求めた苗で、最初に花開いた時は感動的だった。純白の大輪の花の中心部に赤い雄しべが鮮やかに浮き上がって見える。白い花弁は日差しの中で輝き、夕暮れとともにゆるやかに閉じてゆく。 チェロの音色 ある時、友人がジャクリーヌ・デュ・プレは、女性のチェリストの名前だと教えてくれた。天才的な演奏家として世に出たが、病のため夭折した人物だという。さっそくデュ・プレの演奏が収録されたCDを手に入れ、聴き始めた。 その音色の、澄んでやさしげなこと。情熱的に弾いている曲も、どこかゆったりと聞こえる。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「白鳥」は、「瀕死の白鳥」というバレエの曲として、私にはなじみの深いものだった。切々と歌うように奏でられるチェロの音がバラの間を流れていったときは、思わず身震いをしてしまった。バレエの舞台では、ロシア出身のダンサー、マイヤ・プリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」が素晴らしく、デュ・プレとプリセツカヤが共演しているような錯覚を覚えたからかも知れない。 チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレ ジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline du Pré 1945-1987)は、イギリス、オックスフォード生まれ。3歳の時、ラジオから流れるチェロの音色を聴き、母親に「ああいう音を出してみたい」と言ったと伝えられる。音楽大学出の母親は、翌年彼女に4分の3サイズのチェロを与え、5歳からスクールに通わせた。その後の上達は目覚ましく、10歳で国際コンクールに入賞、12歳でBBC主催のコンサートで演奏する、といった早熟ぶり。 1961年、16歳の時に正式なデビュー・コンサートで、エドワード・エルガー作曲の「チェロ協奏曲」を演奏。その直後に、ファンから名器ストラディヴァリウスのチェロを贈られた話は有名だ。以来弾き続けたこの曲では、今も彼女の右に出る演奏家はいないとされる。 天賦の才能を讃えられ、各地で演奏活動を続けていた彼女の身体に異変が起きたのは、26歳の時。指先の感覚に異変を感じたのが最初で、徐々に身体の自由が利かなくなっていった。「多発性硬化症」という、神経を包む組織が破壊される難病の診断を下され、28歳で演奏活動を断念することになった。晩年は車椅子の生活を余儀なくされ、42歳の若さでこの世を去っている。 デュ・プレがチェリストとして演奏していたのは、ほんの十余年のことだ。クラシックファンにとっては、彗星のごとく現れ、消えていった、まさに伝説のチェリストといった存在なのだろう。 伝記と映画 デュ・プレの死後、彼女の姉と弟の手で伝記『ジャクリーヌ ある真実の物語』(原題A Genius in the Family『家族の中の天才』)が出版された。さらに本をもとにした映画「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」(原題Hilary and Jackie)が製作された。 本を手に取る前に、私は深夜のテレビで放映されていた映画を偶然に見てしまった。映画は一人の音楽家を、身近な家族の目で容赦なく描いていた。天才特有の自己中心的な振る舞い、さらに病を得てから身体の自由が利かないもどかしさからくる苛立ち。そうした彼女の日常は想像に難くない。 だがその描き方はあまりに辛辣で、赤裸々だ。デュ・プレの姉がプロの演奏家を志しながら挫折した人物であることと無関係ではないのでは、と勘ぐってしまう。家族としての愛情、そして嫉妬と憎しみが入り混じった感情が渦巻いている。映画を見た夜、私は眠ることができなかった。 墓石の刻印 デュ・プレは、ロンドン郊外のゴルダーズ・グリーン・ユダヤ人墓地に眠っている。墓石の写真を見ると「ジャクリーヌ・デュ・プレ ダニエル・バレンボイムに愛された妻」と刻まれている。数年間彼女の夫であったバレンボイムは、著名なピアニスト・指揮者だが、「その妻」というだけの墓石の文字は解せない。デュ・プレは「偉大なチェリスト」として葬られるべきではなかったろうか。 本当のジャクリーヌ・デュ・プレ 私は「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」は、その演奏の中に在る、と思いたい。墓石の傍には、バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’が咲いていた。彼女はバラのように楚々として鮮やかな姿で、今もなお人々の胸の中に生き続けている。 1965年に再びファンから贈られ、愛用した「ダヴィドフ」というチェロの名器は、現在ヨー・ヨー・マが譲り受けて、演奏している。 バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’ 半八重の房咲きで、ひと房に3〜10輪の花を付ける。花径約9cm。四季咲きでよく返り咲く。早くから開花し、初冬まで花を楽しめる。枝は横張り性。半つる性で、フェンスなどに設えると樹高2.5mほどになる。 バラは、デュ・プレの死を悼んで、その翌年の1988年にイギリスのハークネスによって、彼女に捧げられた。
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ストーリー

「アルベルティーヌ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
‘アルベルティーヌ’との出会い 長野県、蓼科高原のバラクラ イングリッシュ ガーデンを訪れたのは、園が創設されて4年目の1994年だった。我が家のバラの最盛期が過ぎた6月下旬に見頃を迎えるということで、友人から日帰りのドライブ旅に誘われた。 園を一周した帰りに、鉢植えの苗木を一つ求めた。それがバラ‘アルベルティーヌ’だった。以来、我が家のバルコニーで最後に花開き、初夏の高原の風を運ぶ花となっている。 詩人・矢川澄子との想い出 ある年の5月、詩人の矢川澄子が我が家を訪れた。例によってバラの名前を一つひとつ披露していると、‘アルベルティーヌ’のところで彼女の顔がぱっと明るくなった。ちょっと小首を傾げて「プルーストの物語に出てくる名前かしら?」という。言葉は疑問形だったが、その瞳は確信に満ちていた。 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の登場人物の何人かは、彼らを象徴する花を持っていて、アルベルティーヌは「海辺に咲くバラ」に例えられているという。 その後、矢川から1冊の本が届いた。『プルーストの花園』と題されたその本は、いくつかの花の水彩画と、花をめぐるプルーストの言葉が詩画集として編まれたもの。それは私の宝物の一つとなった。 翌5月に矢川にバラの宴へのお誘いの手紙を送ったが、返事はなかった。長野県の黒姫山麓で自然に囲まれて暮らしている彼女に、都心の小さな花見に足を運んでもらうのも少々はばかられて、そのままになっていた。バラの季節も終わる頃、花の写真をカードにして彼女に送ったあくる日、新聞の紙面で訃報を目にした。自宅にて自ら選んだ死だった。 毎年‘アルベルティーヌ’が花開くと、大きな帽子をかぶり、首をかしげるようにしてプルーストを語る彼女の顔が思い浮かぶ。私にとって‘アルベルティーヌ’は矢川澄子との想い出のバラとなった。 小説『失われた時を求めて』 マルセル・プルースト(Marcel Proust 1871-1922)が『失われた時を求めて』を刊行したのは、1913年から1927年にかけてで、全7篇にわたる長編小説となっている。一人称の「私」が物語を綴るその小説は、20世紀最高の文学と称されるが、難解であることでも知られている。多くの人が読書の途中で挫折する、という話を聞いて尻込みしていたが、アルベルティーヌのことが気になり、ある時、意を決して読み始めた。 アルベルティーヌ(和訳本の表記ではアルベルチーヌ)が登場するのは、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』の後半から。「私」がフランス、ノルマンディ―地方の海辺のリゾート地に滞在中の出来事を綴った篇で、「カモメの一群のようにあらわれた娘たち」5,6人のうちの一人がアルベルティーヌ・シモネという少女だった。 彼女の最初の印象は「なめらかで紫がかったバラ色に染まったほほの持ち主で、ろうをひいたようにつやつやしたバラの花を思わせた」(岩波文庫刊、吉川一義訳)と語られている。彼女に魅せられた「私」の複雑な心理描写と恋の駆け引きが、ひと夏の海のきらめきとともに印象的な場面だ。 第5篇の『囚われの女』では、パリのアパルトマンでの「私」とアルベルティーヌとの同居生活の一部始終が語られる。彼女への嫉妬と猜疑心による束縛、そうした関係への心理考察が延々と展開される。 そして、第6篇『消え去ったアルベルティーヌ』は、アルベルティーヌの出奔が告げられるところから始まる。彼女を呼び戻そうとする「私」の元に届いたのは、その死を告げる叔母からの電報。散歩の途中に馬から落ち、木に激突したという。そのあとに「戻りたい」という彼女からの手紙が。以後はまたしても延々とアルベルティーヌとの記憶をたどる記述が続く。不在によって、心に占めるその存在の大きさが際立っていくのだ。 プルーストはこの小説の中で、複雑な人間心理の描写、芸術をめぐる思索、重層的に語られる比喩、それらを駆使して奥行きの深い作品世界を創造している。 さらに全篇を貫くのは記憶と忘却の物語。アルベルティーヌの喪失に苦しみ、嘆きながらも、やがてそれを忘却の彼方に押しやる。アルベルティーヌなど存在しなかったように。そして読者の記憶には、アルベルティーヌの面影が深く刻まれていく。 バラ‘アルベルティーヌ’Albertine ‘アルベルティーヌ’という名前のバラは、1921年にフランスの育種家、バルビエによって作出された。プルーストの『花咲く乙女たちのかげに』の初版は、その3年前に出版されている。バルビエはしばしば「バラ色のほほを持つ」と形容される主要な登場人物アルベルティーヌに、このバラを捧げたのではないだろうか。矢川澄子の確信は、今や私の確信に近くなっている。 花は明るいサーモンピンク色で、波打つ花弁を持つランブラーローズ。一季咲きで、花径は6~7㎝。樹高は4~6mになるつるバラで、横張り性。トゲが多く、枝の張り方も複雑なので設えに注意が必要だが、丈夫でたくさんの花を付けるので育てやすい。ヨーロッパでは城壁などにもよく見られる。遅咲きで、初夏の花の季節の最後を彩る趣のあるバラだ。 日本ではアルバータイン、アルバーティンとも表記されるが、フランス語の読みはアルベルティーヌで、これらは同一のバラである。
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「エンプレス・ジョゼフィーヌ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
バラとの出合い ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌの名前を冠したバラがあるとは知っていたが、なかなか出合うことができなかった。十数年前のある日、友人と山梨県にある「コマツガーデン」を訪れバラ苗を見ていた時、多くの中でもひときわ艶やかな花に目が留まった。それが‘エンプレス・ジョゼフィーヌ(Empress Josephine)’だった。すぐさま苗を手に入れ、我が家のバルコニーにジョゼフィーヌ様をお迎えしたのはもちろんのことだ。 バラを愛したことで知られる皇妃ジョゼフィーヌだが、バラの歴史を語る上でも重要な人物である。居城マルメゾンの庭に世界各地の原種バラを集め、さらに人工交配で新種のバラを生み出すという、当時としては画期的な試みを育種家たちに命じて実行させている。 今私たちが目にする多くのモダンローズ(近代バラ)誕生への扉を大きく開いた女性なのだ。 マルメゾン城への旅 皇妃ジョゼフィーヌ(Empress Josephine 1763-1814)が暮らしたマルメゾン城がパリ郊外のリュエイユにあり、一般公開されていると知った私は、2008年のバラの季節にフランスに旅立った。 パリ中心部から地下鉄で約30分。駅から石畳の並木道を5分ほど歩くと、瀟洒な館にたどり着く。ジョゼフィーヌがこの城を買い求めたのは1799年。ナポレオン・ボナパルトの妻になり3年目のことだ。ナポレオンは高額な買い物の支払いを余儀なくされたが、彼自身もこの城を気に入り、離宮として頻繁に滞在している。 城は彼女の没後、人手に渡り家具も散逸したが、孫にあたるナポレオン3世がジョゼフィーヌの暮らしていた当時の姿に復元し、ベッドなども元の場所に戻された。 ナポレオンがしばしば帝政下の国策会議を開いたというカウンシルルームの壁に、1枚の肖像画がかかっていた。画面右手に座しているジョゼフィーヌの隣のソファーに小さなバラの花束が置かれている。彼女とバラがほぼ等分の空間を占め、あたかも2人の人物がいるかのように見える。私はその部屋で「バラこそ我が伴侶」という彼女のつぶやきを聞いたような気がした。絵が描かれて2年後、ナポレオンは自分との間に子どもができないことを理由に、ジョゼフィーヌに離縁を言い渡している。 マルメゾンの庭 マルメゾン城の2階のジョゼフィーヌの寝室からバラの咲く中庭が見渡せる。庭は現在、城の周辺にしか残されていないが、当時は700ヘクタール(700万㎡)を超える広大なものだった。特に自慢だったのが、居間や広間を設けた50mもの長さの温室で、世界各地の珍しい植物が収集されていた。彼女は庭を流れる川に小舟を浮かべ、客たちを乗せて温室まで案内するのが常だった。 バラに関しては、あらゆる手立てを尽くし、フランス全土はもとよりオランダ、イギリスなどから苗を手に入れた。アンドレ・デュポンなどの育種家を城に招き、中国や日本のバラとヨーロッパのバラを掛け合わせるなどして、それまでヨーロッパになかった四季咲きの深紅のバラを誕生させている。マルメゾンの庭のバラは250種を数え、その多くが、現在あるモダンローズのルーツとなっている。ジョゼフィーヌが「バラの母」と称される所以だ。 さらなる彼女の功績は、庭の花を植物画家たちに描かせたこと。その代表といえるのがピエール=ジョゼフ・ルドゥーテで、彼はマルメゾンのバラのほとんどを描き、さらに当時あったバラを加えて『バラ図譜』全3巻を出版している。ルドゥーテの『バラ図譜』の中のバラを、今私たちは復刻版の本で見ることができる。彼女を偲んで捧げられたバラ‘エンプレス・ジョゼフィーヌ’もその中の一つで、我が家のバルコニーに咲く花はマルメゾンのバラの子孫ともいえるだろう。 ●「ルドゥーテ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】 ライ・レ・ローズのバラ園 マルメゾンのバラは城の主の亡き後、散逸してしまった。だが、およそ100年後に彼女のバラへの情熱を受け継いだ人物がいる。その名はジュール・グラブローで、彼はライという町に世界最初のバラ園「ライ・レ・ローズ」をつくり、マルメゾン城にあったバラを集め始めた。 3年の歳月をかけて資料を探したグラブローは、城にあったバラ250種のうち、198種にたどり着いたという。私はパリから10キロほど南に位置するライ・レ・ローズ(現ヴァル・ドゥ・マルヌ県バラ園)を訪ね、バラまたバラのアーチで花酔いをするという稀有な体験をしている。 バラ園の13に分けられたセクションの一つが「マルメゾンのバラの小路」と名付けられていた。‘エンプレス・ジョゼフィーヌ’、‘スヴニール・ド・マルメゾン’など、マルメゾンゆかりのバラの名前を一つひとつ確かめながら小道を歩くのは、至福の時間だった。 バラ‘エンプレス・ジョゼフィーヌ(Empress Josephine)' ピンクの濃淡にやや紫がかった花色のロゼット咲きで、花弁は波打ち、薄い和紙のような質感がある。花径は約7cmで、一枝にいくつもの花を付ける。樹高は150cm、樹形は横張り性。 作出は1815年頃とされ、作出者不明のオールドローズ(ガリカ)。ジョゼフィーヌの死後、マルメゾンにあったバラにその名前が付けられたという説が有力である。 バラ‘スヴニール・ド・ラ・マルメゾン(Souvenir de la Malmaison)’ 淡いピンクのクォーター・ロゼット咲きで、開花にしたがい白に近い花色となる。四季咲きで、花径約10cmの花をたくさん付ける。樹高は100cm、樹形は横張り性。 1843年、フランスのBeluze作出のオールドローズ(ブルボン)。「マルメゾンの想い出」と名付けられた、ジョゼフィーヌへのオマージュともいえるバラである。 Information マルメゾン国立博物館 Mmusée National des Château de Malmaison 住所:Avenue du Château de la Malmaison 92500 Rueil-Malmaison,France 電話:+33(0)1 41 29 05 55 Fax :+33(0)1 41 29 05 56 Email:malmaison@culture.gouv.fr http://www.chateau-malmaison.fr 開館:10~3月 10:00~12:30、13:30~17:15(週末~17:45) 4~9月 10:00~12:30、13:30~17:45(週末~18:15) 休館:火曜日 入場料:一般 €6.50 ヴァル・ドゥ・マルヌ県バラ園(ライ・レ・ローズバラ園) La Roseraie du Val-de-Marne(L'Haÿ-les-Roses) 住所:1Rue Albert Watel,94240 L'Haÿ-les-Roses,France 電話:+33(0)1 47 40 04 04 Fax :+33(0)1 47 40 04 75 Email:roseraie@valdemarne.fr www.roseraieduvaldemarne.com 開園:5月19日~9月20日(2020年) 10:00~19:00 開園期間中は無休 入場料:一般 €4、 5~15歳、学生、60歳以上、€2 *新型コロナウイルスのため、開園状況などは変わる可能性がありますので、HPなどでご確認ください。
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「ピエール・ド・ロンサール」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
28年前、バラとの出会い ‘ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard)’が我が家にやってきたのは28年前のこと。ルーフバルコニーのある部屋に移り住んで、最初に求めた10本のバラ苗のうちの一つだった。当時、花弁の多いクラシカルなつるバラは希少で、私はその色と姿に魅了された。 バラが60鉢に増え、マンションのルーフバルコニーでのバラ栽培は珍しかったのだろう。新聞や雑誌に取材されることも多く、その都度好きなバラとして‘ピエール・ド・ロンサール’の名前を挙げていた。 名前の由来は不明だったが、ある時バルコニーを訪れたパリ在住の友人によって明かされた。16世紀フランスの「愛とバラの詩人」だという。それから詩集を探したが、なかなか巡り会えず、私にとってその人物は長く霧の中に在った。 詩集を紐解く 何年か経ち、別の友人が詩集の翻訳者である高田勇氏を紹介してくれて、全詩集に触れることができた。詩集の1篇「カッサンドルへのオード」は、フランス人が「バラ」と聞くと思い浮かべる詩だという。 可愛いひとよ、見に行こう、 今朝、あけぼのの陽を浴びて 深紅の衣を解いた薔薇の花、 その紅の衣の襞(ひだ)も あなたに似た色艶も 失わなかったか、今宵いま。 ああ、ごらん、これほど束の間に、 可愛いひとよ、薔薇は大地に ああ、ああ、その美しさを散らしてしまった。 おお、何と無慈悲な「自然」よ、 この花の命さえ 朝から夕べまでとは。 さあ、可愛いひとよ、 私の言葉を信ずるなら、 あなたの齢(よわい)が花の盛りに匂う間に、 摘めよ、摘め、あなたの青春(はる)を、 この花のように、老いて あなたの美も曇るから。 『ロンサール詩集』(高田勇訳、青土社刊) ロンサールの詩の中で、バラは恋人の美しさと生への讃歌、人の命のはかなさへの無常観、そうしたものの象徴として詠われている。当時、ヨーロッパにあったバラは野生種で、開花から1、2日で散ってしまうものだった。その短い花の命がさまざまな思いを呼び起こしたのだろう。 ロンサールの館への旅 フランス、ロワール地方を旅した友人が、その地にロンサールが晩年を過ごした僧院がある、との情報をもたらしてくれた。ただそれだけの手がかりしかなかったが、私は2006年6月、詩人の姿を求めてロワール地方のトゥールという町を訪ねた。 僧院はサン・コーム小修道院という名前で、駅から車で10分ほどの場所にあった。12世紀に建てられた石造りの建物などが点在し、その周囲に端正に整えられた庭が配されている。ロンサールは領地を所有する院長として、1565年から亡くなるまでの20年間をここで過ごし、いくつかの詩集を生み出している。 驚いたことに、彼が暮らしていた15世紀に建てられた館が現存していた。部屋の内部は当時のままだという。私はしばらくの間、部屋の中にたたずんでいた。窓から見えるツゲの木は樹齢400年を超えるという。ロンサールもまた同じ風景を見ていたのだろう。 出かけるまでは廃墟のままの僧院では、と危惧していたが、その心配に反して、たくさんのバラが私を迎えてくれた。苗木は250種、数千本を数え、‘ピエール・ド・ロンサール’もそこかしこに見られた。 ロンサールの庭園 庭園は9つに分けられ、それぞれに名前が付いていた。ロンサールの館の前には白の‘アイスバーグ’、ピンクの‘ボニカ’が咲く「ローズ・ガーデン」、教会堂の裏手にはロンサールのソネット(14行詩)を作曲した「フランシス・プーランクの庭」、香りのバラを集めた「香りの庭」、イタリアから運ばれたつる棚をアーチに設えた「ビロードの庭園」、糸杉の樹の下にラベンダーが広がる「回廊の庭園」といった風に。‘ピエール・ド・ロンサール’の淡いピンクに合わせて、白やピンクのバラ、クレマチスやデルフィニウムの青が絶妙に配され、色彩のハーモニーが奏でられていた。 こうした庭はルネッサンス様式を取り入れているが、1990年代に整備されたものだ。例外は「野菜・果樹園」で、中世のままの姿で残されていた。当時の僧園の庭は実用的なものがほとんどで、バラも薬草の一つとして野菜園に植えられていた。ロンサールはそうした野菜園とは別に館の裏庭でバラを育てていたという。そこはまさに彼の「秘密の花園」で、詩作する場であったに違いない。 詩人の生涯 ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard 1524-1585)は、トゥールにほど近い村の貴族の家に生まれた。その姓は「燃えるいばら」(ronce ard)を意味し、野バラはロンサール家の紋章でもあった。12歳で小姓として宮廷に入ったが、熱病で耳が不自由になり、19歳で剃髪し僧として身を立てることになった。 その生涯に何度も自らの詩を出版していて、詩作は多岐にわたったが、やはり「愛とバラの詩人」の印象が強い。カッサンドルのほか、数人の女性に愛の詩を捧げているが、そうした恋は実ることがあったのだろうか? 当時、詩には曲が付けられ、宮廷などで歌われたので、そのような甘美な詩と曲に心を動かされた女性がいたと信じたい気もする。いずれにしても妻帯を許されない僧職であったがゆえに、女性たちは彼の詩作のミューズであったことは確かだ。 サン・コーム小修道院の、朽ちたままの建物が残る教会堂の近くで「ロンサール、ここに眠る」と刻印された墓標を見つけた。長い間その場所が不明だったが、1933年に発見され、新たに墓石が作られたという。 ロンサールは「咲き匂うどの花よりもバラの芳香を愛する」と詠っている。その墓のあたり一面にバラの香りが漂っていた。 バラ ‘ピエール・ド・ロンサール’ 花の中心がピンクで、外に向かい徐々に淡くなり、外弁が白色になる。花径10~12cm、花弁は70枚を数える。深いカップ咲きからロゼット咲きに移行する。つる性で樹高2~3m。直立性なので、フェンスなどにも設えやすい。 1986年にフランス、メイアン社のマリー・ルイーズ・メイアンによって作出、発表される。2006年に世界中で愛されるバラに与えられる栄誉、バラの殿堂入りを果たす。 英語圏ではフランス語の名前が難しいとされ、‘エデン・ローズ’という名前で取り扱われることがある。そのため別種の‘エデン・ローズ’という木立ち性のバラと混同されることがある。 枝変わりに、ほぼ同じ性質を持つ白色の‘ブラン・ピエール・ド・ロンサール’、四季咲き性が強いなど、性質の違う赤色の‘ルージュ・ピエール・ド・ロンサール’などがある。 ロンサールの時代のバラと違い、つぼみから開花にしたがい花姿を変化させ、花の命も10日ほど長らえる。ロンサールがこれらのバラを見たら、どんなふうに詠うだろうか。
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「ガートルード・ジーキル」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
ベルギー、ヘックス城の庭園にて 初めてバラ‘ガートルード・ジーキル’に出合ったのは20年近く前、ベルギーのヘックス城の庭園を訪れた時だった。ヘックス城のバラは、原種やオールドローズが中心で、近代バラは珍しかった。案内してくれた城主のデュルセル伯爵は、私がそのバラを見ていると「偉大なる庭園デザイナーに敬意を表して、その名前のバラを植えてあるのだ」と教えてくれた。 その後、ウィリアム・モリスの庭に関する著書を紐解くと、ガートルード・ジーキルという人物が立ち現れてきた。モリスは生活と芸術の調和を目指すアーツ・アンド・クラフツ運動の中から、庭園デザインの原則を生み出した。それを実践したのがジーキルだといわれている。モリスやジーキルの庭への熱情に思いを馳せること、それはイングリッシュガーデンの源流を辿る旅でもあった。 ●「ウィリアム・モリス」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】 ガートルード・ジーキルの仕事と生涯 ガートルード・ジーキル (Gartrude Jekylle 1843-1932) は1843年にロンドンの名家に生まれた。5歳の時、家族とともにサリー州に移り住み、生涯のほとんどをその地で過ごしている。画家としてスタートしたが、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴し、美術工芸に興味を抱いた。家具の装飾彫刻、金属細工、テキスタイルデザインなどに携わり、刺繍作品を作っていたが、視力が低下したこともあって、幼い頃から好きだったガーデニング、中でも庭園デザインの道に進むことを決めた。 ジーキルのおもな功績は、ガーデニングが芸術であることを主張し、英国文化の一つに組み入れたこと、自邸の建設にあたり建築家と造園家のコラボレーションを実現させ、その後、建物と一体化させた庭園を数多く作り出したこと、ウィリアム・ロビンソンの園芸誌などに記事を寄稿し、15冊の著書を出版したこと、などが挙げられる。 庭に関する著作とともに、2,000に上る庭園プランニング、400もの庭園設計を行い、現在のイングリッシュガーデンの基礎を作り上げた。 花の庭のための色彩計画 ジーキルの代表的な著書『花の庭のための色彩計画』(Colour Schemes for the Flower Garden、日本語タイトル『ジーキルの美しい庭 花の庭の色彩設計』) は1914年に出版され、イギリスでベストセラーとなった。植物の色彩を重視した作庭手法を「カラースキム理論」として展開している。当時まだ一般に普及していなかったカメラを使い自ら撮影した85枚の写真、豊富な設計図とともに、自邸ムンステッド・ウッドの森や庭の植栽、色彩の配置を四季にわたり詳細に記述しているのに驚かされる。 『花の庭のための色彩計画』以前の著書リストには『森と庭』『家と庭』『ウォール・ガーデンとウォーター・ガーデン』『イギリスの庭のためのユリ』『イギリスの庭のためのバラ』と、興味深いタイトルが並んでいる。残念なことに、それらはまだわが国で翻訳出版されていない。 ムンステッド・ウッドの邸宅 ジーキルに関連したバラに‘ムンステッド・ウッド(Munstead Wood)’ がある。サリー州、ギルフォードに近いゴドルミングにジーキルが建てた家と庭の名前を冠したバラだ。 ジーキルは1897年に、母親と暮らしていた家の近くに土地を購入。建築家のエドウィン・ラッチェンスに設計を依頼し、家を建て始めた。2年の歳月を費やして完成した建物は、地元産の建築素材を用い、職人の手仕事を生かしたアーツ・アンド・クラフツスタイルの邸宅で、彼女は残りの人生35年をそこで過ごし、すべての著作を生み出した。 ムンステッド・ウッドの庭 ムンステッド・ウッドは6ヘクタール(6万㎡)にわたる三角形の敷地で、そのうちの東側4ヘクタールは森となっていて、西側にはキッチンガーデン、果樹園、育苗園が配されている。森に隣接した中央部に邸宅が建てられ、その周辺に14カ所の独立した庭がつくられた。 庭は「春の庭」「6月の庭」「秘密の庭」「タンク(池)の庭」「プリムローズ(プリムラ)の庭」などと名付けられ、それぞれ植栽や趣が異なっている。 最も力を入れていたのが「メインボーダー」と呼ばれる一角。長さ61mの壁に沿った幅4.2mの土地に、月桂樹などの常緑の低木が植えられている。その緑を背景にして、宿根草や春播き一年草が幾重にも連なり、花や葉を繁らせる。植物の色彩の配置を考え、全体を一枚の絵のように眺められること、それがジーキルの意図したボーダーで、今では一般的になっているイギリスのコテージ・ガーデンスタイルの始まりであった。 ジーキルは常時12人ほどいた庭師たちとともに、庭だけでなく、森の中も自らの手で植栽を作り上げている。ムンステッド・ウッドは理想の森、庭を求める彼女のいわば壮大な実験場であった。そこでの成果がイングリッシュガーデンのバイブルともいえる著作に集約されている。 復元される庭園 ムンステッド・ウッドはジーキル亡き後人手に渡り、その敷地は3分の2ほどに縮小されたが、邸宅は今も残されている。庭園は近年、彼女の時代の面影を再現すべく整えられ、その一部が公開されている。 ジーキルの影響を受けてつくられた庭に、グロスター州のヒドコート・マナー・ガーデン、ケント州のシシングハースト城ガーデンなどがある。いずれも一般公開されて、人気の場所だ。またサマセット州のヘスタークーム・ガーデンやハンプシャー州のアプトン・グレイのように、ジーキルの残したデザインの図面をもとに、当時の植栽が忠実に復元された庭園も存在している。 ガートルード・ジーキルという一人の女性が、19世紀末から20世紀初頭の時代に、生涯をかけて生み出した庭園スタイルが再評価されるのは嬉しい限りだ。あらためてジーキルの足跡を辿る旅に出たいと願っている。 バラ‘ガートルード・ジーキル’ 濃いローズ色の、花径10cmにもなる大輪のロゼット咲きの花を付ける、1986年デビッド・オースチン作出のバラ。樹形は半直立性。シュラブとしても、小型のつるバラとしても仕立てられる。 ダマスク系の強い香りを放ち、イギリスではローズエキス抽出用とされる。イングリッシュローズの中でも育てやすい品種といわれる。 バラ‘ムンステッド・ウッド’ ベルベットの光沢をもつ黒赤紫色のバラで、3~5輪の房咲きになり、カップ咲きからロゼット咲きに変化する。樹高1m前後で、樹形は半横張り性。 デビッド・オースチンが作出し、2007年ロンドンのチェルシ―・フラワーショーで披露された。オースチン社の香りの専門家は「ブラックベリーとブルーベリー、さらにすももの香り」と表している。 イギリスだけでなく、世界中の庭園を愛する人々にとって、ジーキルと彼女の庭の名前を冠した2つのバラは、特別な思いをもって迎え入れられ、各地でたくさんの花を咲かせている。 Information Munstead Wood 住所:Heath Lane Godalming Surry England GU7 1UN メール:contact@munsteadwood.org.uk HP:www.munsteadwood.org.uk ガーデンツアー:一人£10 (メールによる予約制) *2020年12月現在閉庭中で、今後の予定は未定




















