「ジャクリーヌ・デュ・プレ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによる、バラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、半つる性で早咲きのバラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’を、その名の由来となった女性チェリストにも触れながらご紹介します。
目次
カタログの写真に一目惚れしたバラ
バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’が我が家にやってきたのは、20年ほど前のこと。バラ園のカタログの写真に魅せられて求めた苗で、最初に花開いた時は感動的だった。純白の大輪の花の中心部に赤い雄しべが鮮やかに浮き上がって見える。白い花弁は日差しの中で輝き、夕暮れとともにゆるやかに閉じてゆく。
チェロの音色
ある時、友人がジャクリーヌ・デュ・プレは、女性のチェリストの名前だと教えてくれた。天才的な演奏家として世に出たが、病のため夭折した人物だという。さっそくデュ・プレの演奏が収録されたCDを手に入れ、聴き始めた。
その音色の、澄んでやさしげなこと。情熱的に弾いている曲も、どこかゆったりと聞こえる。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「白鳥」は、「瀕死の白鳥」というバレエの曲として、私にはなじみの深いものだった。切々と歌うように奏でられるチェロの音がバラの間を流れていったときは、思わず身震いをしてしまった。バレエの舞台では、ロシア出身のダンサー、マイヤ・プリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」が素晴らしく、デュ・プレとプリセツカヤが共演しているような錯覚を覚えたからかも知れない。
チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレ
ジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline du Pré 1945-1987)は、イギリス、オックスフォード生まれ。3歳の時、ラジオから流れるチェロの音色を聴き、母親に「ああいう音を出してみたい」と言ったと伝えられる。音楽大学出の母親は、翌年彼女に4分の3サイズのチェロを与え、5歳からスクールに通わせた。その後の上達は目覚ましく、10歳で国際コンクールに入賞、12歳でBBC主催のコンサートで演奏する、といった早熟ぶり。
1961年、16歳の時に正式なデビュー・コンサートで、エドワード・エルガー作曲の「チェロ協奏曲」を演奏。その直後に、ファンから名器ストラディヴァリウスのチェロを贈られた話は有名だ。以来弾き続けたこの曲では、今も彼女の右に出る演奏家はいないとされる。
天賦の才能を讃えられ、各地で演奏活動を続けていた彼女の身体に異変が起きたのは、26歳の時。指先の感覚に異変を感じたのが最初で、徐々に身体の自由が利かなくなっていった。「多発性硬化症」という、神経を包む組織が破壊される難病の診断を下され、28歳で演奏活動を断念することになった。晩年は車椅子の生活を余儀なくされ、42歳の若さでこの世を去っている。
デュ・プレがチェリストとして演奏していたのは、ほんの十余年のことだ。クラシックファンにとっては、彗星のごとく現れ、消えていった、まさに伝説のチェリストといった存在なのだろう。
伝記と映画
デュ・プレの死後、彼女の姉と弟の手で伝記『ジャクリーヌ ある真実の物語』(原題A Genius in the Family『家族の中の天才』)が出版された。さらに本をもとにした映画「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」(原題Hilary and Jackie)が製作された。
本を手に取る前に、私は深夜のテレビで放映されていた映画を偶然に見てしまった。映画は一人の音楽家を、身近な家族の目で容赦なく描いていた。天才特有の自己中心的な振る舞い、さらに病を得てから身体の自由が利かないもどかしさからくる苛立ち。そうした彼女の日常は想像に難くない。
だがその描き方はあまりに辛辣で、赤裸々だ。デュ・プレの姉がプロの演奏家を志しながら挫折した人物であることと無関係ではないのでは、と勘ぐってしまう。家族としての愛情、そして嫉妬と憎しみが入り混じった感情が渦巻いている。映画を見た夜、私は眠ることができなかった。
墓石の刻印
デュ・プレは、ロンドン郊外のゴルダーズ・グリーン・ユダヤ人墓地に眠っている。墓石の写真を見ると「ジャクリーヌ・デュ・プレ ダニエル・バレンボイムに愛された妻」と刻まれている。数年間彼女の夫であったバレンボイムは、著名なピアニスト・指揮者だが、「その妻」というだけの墓石の文字は解せない。デュ・プレは「偉大なチェリスト」として葬られるべきではなかったろうか。
本当のジャクリーヌ・デュ・プレ
私は「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」は、その演奏の中に在る、と思いたい。墓石の傍には、バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’が咲いていた。彼女はバラのように楚々として鮮やかな姿で、今もなお人々の胸の中に生き続けている。
1965年に再びファンから贈られ、愛用した「ダヴィドフ」というチェロの名器は、現在ヨー・ヨー・マが譲り受けて、演奏している。
バラ‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’
半八重の房咲きで、ひと房に3〜10輪の花を付ける。花径約9cm。四季咲きでよく返り咲く。早くから開花し、初冬まで花を楽しめる。枝は横張り性。半つる性で、フェンスなどに設えると樹高2.5mほどになる。
バラは、デュ・プレの死を悼んで、その翌年の1988年にイギリスのハークネスによって、彼女に捧げられた。
Credit
写真&文 / 松本路子 - 写真家/エッセイスト -
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2023年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
- リンク
記事をシェアする
新着記事
-
ガーデン&ショップ
都立公園を新たな花の魅力で彩る「第2回 東京パークガーデンアワード 神代植物公園」は晩夏の彩り
新しい発想を生かした花壇デザインを競うコンテスト「東京パークガーデンアワード」。第2回のコンテストは、都立神代植物公園(調布市深大寺)を舞台に一般公開がスタートしています。ここでは、5つのコンテストガ…
-
外構事例
【住宅事例】大好評シンプルモダンシリーズ第4弾 住宅とエクステリアを徹底的に解説!
各地の素敵な庭と住宅の実例をご紹介しているこの連載では、現在スタイリッシュなシンプルモダンデザインの邸宅を特集中。そんなシンプルモダンシリーズ第4弾となる今回は、直線が生きるシックなモノトーンの住宅を…
-
宿根草・多年草
アルテルナンテラはカラフルな葉色も魅力! 特徴や育て方を詳しく解説
さまざまな葉色の種類があり、花々をより引き立てるカラーリーフプランツとして活躍するアルテルナンテラ。この記事では、アルテルナンテラの基本情報や特徴、名前の由来や花言葉、種類・園芸品種、育て方のポイン…