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「アルベルティーヌ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】

「アルベルティーヌ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】

バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによる、バラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、1921年にフランスで作出されたつるバラ‘アルベルティーヌ’を、その名の由来と思われるマルセル・プルーストの著作『失われた時を求めて』に触れながらご紹介します。

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‘アルベルティーヌ’との出会い

長野県、蓼科高原のバラクラ イングリッシュ ガーデンを訪れたのは、園が創設されて4年目の1994年だった。我が家のバラの最盛期が過ぎた6月下旬に見頃を迎えるということで、友人から日帰りのドライブ旅に誘われた。

バラ‘アルベルティーヌ’
我が家のバルコニーに咲くバラ‘アルベルティーヌ’。

園を一周した帰りに、鉢植えの苗木を一つ求めた。それがバラ‘アルベルティーヌ’だった。以来、我が家のバルコニーで最後に花開き、初夏の高原の風を運ぶ花となっている。

詩人・矢川澄子との想い出

ある年の5月、詩人の矢川澄子が我が家を訪れた。例によってバラの名前を一つひとつ披露していると、‘アルベルティーヌ’のところで彼女の顔がぱっと明るくなった。ちょっと小首を傾げて「プルーストの物語に出てくる名前かしら?」という。言葉は疑問形だったが、その瞳は確信に満ちていた。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の登場人物の何人かは、彼らを象徴する花を持っていて、アルベルティーヌは「海辺に咲くバラ」に例えられているという。

プルーストの花園
マルト・スガン=フォント編・画の『プルーストの花園』の和訳本の表紙(1998年、集英社刊、鈴木道彦訳)。

その後、矢川から1冊の本が届いた。『プルーストの花園』と題されたその本は、いくつかの花の水彩画と、花をめぐるプルーストの言葉が詩画集として編まれたもの。それは私の宝物の一つとなった。

プルーストの花園
「ペンシルヴェニア・ローズの茂み」と題されたページ。『花咲く乙女たちのかげにⅡ』の中では、アルベルティーヌたち少女がバラに例えられ、描写されている。

翌5月に矢川にバラの宴へのお誘いの手紙を送ったが、返事はなかった。長野県の黒姫山麓で自然に囲まれて暮らしている彼女に、都心の小さな花見に足を運んでもらうのも少々はばかられて、そのままになっていた。バラの季節も終わる頃、花の写真をカードにして彼女に送ったあくる日、新聞の紙面で訃報を目にした。自宅にて自ら選んだ死だった。

プルーストの花園
「薔薇」と題されたページには、「彼女(アルベルティーヌ)の姿がまるで海辺に咲く薔薇の花のように浮かんでくる」という、小説の一節が引用されている。

毎年‘アルベルティーヌ’が花開くと、大きな帽子をかぶり、首をかしげるようにしてプルーストを語る彼女の顔が思い浮かぶ。私にとって‘アルベルティーヌ’は矢川澄子との想い出のバラとなった。

小説『失われた時を求めて』

ホテル「グラン・オテル」のプルーストの像
作家プルーストが何度も夏を過ごしたフランス・カブールの海辺のホテル「グラン・オテル」と、その前に立つ、彼の像。胸ポケットには花が。保養地のリゾートホテルは、小説の中で主人公やアルベルティーヌが登場する重要な舞台となっている。Julien_j/shutterstock.com

マルセル・プルースト(Marcel Proust  1871-1922)が『失われた時を求めて』を刊行したのは、1913年から1927年にかけてで、全7篇にわたる長編小説となっている。一人称の「私」が物語を綴るその小説は、20世紀最高の文学と称されるが、難解であることでも知られている。多くの人が読書の途中で挫折する、という話を聞いて尻込みしていたが、アルベルティーヌのことが気になり、ある時、意を決して読み始めた。

アルベルティーヌ(和訳本の表記ではアルベルチーヌ)が登場するのは、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』の後半から。「私」がフランス、ノルマンディ―地方の海辺のリゾート地に滞在中の出来事を綴った篇で、「カモメの一群のようにあらわれた娘たち」5,6人のうちの一人がアルベルティーヌ・シモネという少女だった。

彼女の最初の印象は「なめらかで紫がかったバラ色に染まったほほの持ち主で、ろうをひいたようにつやつやしたバラの花を思わせた」(岩波文庫刊、吉川一義訳)と語られている。彼女に魅せられた「私」の複雑な心理描写と恋の駆け引きが、ひと夏の海のきらめきとともに印象的な場面だ。

失われた時を求めて
岩波文庫版の『失われた時を求めて』表紙(吉川一義訳)。この文庫では14巻にわたり収録、刊行されている。

第5篇の『囚われの女』では、パリのアパルトマンでの「私」とアルベルティーヌとの同居生活の一部始終が語られる。彼女への嫉妬と猜疑心による束縛、そうした関係への心理考察が延々と展開される。

そして、第6篇『消え去ったアルベルティーヌ』は、アルベルティーヌの出奔が告げられるところから始まる。彼女を呼び戻そうとする「私」の元に届いたのは、その死を告げる叔母からの電報。散歩の途中に馬から落ち、木に激突したという。そのあとに「戻りたい」という彼女からの手紙が。以後はまたしても延々とアルベルティーヌとの記憶をたどる記述が続く。不在によって、心に占めるその存在の大きさが際立っていくのだ。

プルーストはこの小説の中で、複雑な人間心理の描写、芸術をめぐる思索、重層的に語られる比喩、それらを駆使して奥行きの深い作品世界を創造している。

さらに全篇を貫くのは記憶と忘却の物語。アルベルティーヌの喪失に苦しみ、嘆きながらも、やがてそれを忘却の彼方に押しやる。アルベルティーヌなど存在しなかったように。そして読者の記憶には、アルベルティーヌの面影が深く刻まれていく。

バラ‘アルベルティーヌ’Albertine

バラ‘アルベルティーヌ’Albertine
我が家のバルコニーで、26年間咲き続ける‘アルベルティーヌ’。その時々によって微妙に花色を変化させる。

‘アルベルティーヌ’という名前のバラは、1921年にフランスの育種家、バルビエによって作出された。プルーストの『花咲く乙女たちのかげに』の初版は、その3年前に出版されている。バルビエはしばしば「バラ色のほほを持つ」と形容される主要な登場人物アルベルティーヌに、このバラを捧げたのではないだろうか。矢川澄子の確信は、今や私の確信に近くなっている。

花は明るいサーモンピンク色で、波打つ花弁を持つランブラーローズ。一季咲きで、花径は6~7㎝。樹高は4~6mになるつるバラで、横張り性。トゲが多く、枝の張り方も複雑なので設えに注意が必要だが、丈夫でたくさんの花を付けるので育てやすい。ヨーロッパでは城壁などにもよく見られる。遅咲きで、初夏の花の季節の最後を彩る趣のあるバラだ。

バラ‘アルベルティーヌ’Albertine

日本ではアルバータイン、アルバーティンとも表記されるが、フランス語の読みはアルベルティーヌで、これらは同一のバラである。

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