まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー

「メアリー・マグダレン」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラとの出会い バラ‘メアリー・マグダレン’に出会ったのは、友人のバルコニーだった。わが家のバルコニーに感化された友人が、バラ栽培を始めたのが十数年前。弁護士という忙しい仕事の傍ら苗を増やし続け、30鉢以上が花開くバラ庭を作り出している。 彼女に名前を教えられたバラの一つが、そこに咲く‘メアリー・マグダレン’だった。その名前が表す女性メアリー・マグダレンは、通称「マグダラのマリア」として知られている。新約聖書の福音書に、イスラエル北部のガリラヤ湖沿いの町、マグダラ出身のマリアとして登場する人物だ。 当時ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいて、物語の中にしばしば登場するのが、マグダラのマリアだった。小説のミステリアスな展開に惹かれていたので、その名前のバラと出会えて胸がときめいた。 マグダラのマリア 福音書によると、マグダラのマリアはイエス・キリストが十字架にかけられた時、立ち会った数人のうちの一人。またその復活の場にも居合わせ、キリストの弟子たちに復活を告げる役割を担っている。キリストが信頼した愛弟子の一人とされる女性だ。 だが「マグダラのマリア」という名前には、別のイメージが付きまとっている。娼婦を意味する「罪深い女」というレッテルが貼られているのだ。591年にローマ教皇グレゴリウスによって宣言されたその名称が広く知られ、長い間そうした印象で語られてきた。 20世紀になり新たな資料が発見されてから、男性原理を重視した教会が、女神崇拝を怖れて、イエスの弟子である女性のイメージを操作したというのが定説となっている。だが、まだそのイメージが完全に払拭されたとは言い難いようだ。 小説『ダ・ヴィンチ・コード』 小説では、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」でキリストの右隣にいるのが、マグダラのマリアであるとされる。さらにマグダラのマリアはキリストの妻で、その子どもたちがフランスに逃亡し、子孫がゲルマン人のメロヴィング朝フランク王国の王族と婚姻し、その血筋が今も続いているとしている。シオン修道会という秘密結社が、代々彼らを守り続けているという物語だ。殺人事件から始まり、秘められた謎を暗号とともに解き明かしてゆくスリリングな展開で、世界的なベストセラーとなっている。小説はフィクションだが、いくつかの研究書に基づいていて、また現存する団体や場所も登場し、読者の想像力を掻き立てる。 バラの紋様 『ダ・ヴィンチ・コード』でもう一つ私が興味を持ったのは、物語の全体を通して、バラの紋様がひとつのカギとなっていること。中にはシオン修道会の言い伝えとして次のような記述もある。 「薔薇の最古の品種であるロサ・ルゴサ(ハマナス)は花びらが5枚で、五角形の対称性を備えており、導きの星である金星と同じく図像学的に女性と強い結びつきがある。また薔薇は『正しい方向』や『人を導く』という概念とも深いつながりを持つ。コンパス・ローズ(羅針図)は旅人を導くものであり、ローズ・ライン(子午線)も助けになる。薔薇は秘められた真実へといざなう聖なる女神、導きの星というわけだ」(角川文庫、越前敏弥訳) バラが象徴するものは多々あるが、これほど意味深いものに出会ったのは初めてだった。 バラの名前 バラ‘メアリー・マグダレン’は、イギリスのデビッド・オースチンによって1998年に作出された。デビッド・オースチン社のあるシュロップシャー州、アルブライトンのセント・メアリー・マグダレン教会にちなんで名づけられたという。 メアリー・マグダレンはフランス語ではマリー・マドレーヌとなり、パリのマドレーヌ寺院は彼女を祀っている。焼き菓子のマドレーヌもこの名前に由来する。 バラ‘メアリー・マグダレン(Mary Magdalene)’ 1998年、イギリス、デビッド・オースチン作出のイングリッシュローズ。 濃いアプリコット色から淡い色に、さらに白に近い花色に変わる。ロゼット咲きで、花径は8~10cm。中央に白いボタン・アイ、また花心がほんのりと赤くなるなど、艶やかな花姿を見せる。四季咲き。 樹高は約90cmと比較的コンパクトなので、鉢植えにも向いている。樹形は木立ち性。ミルラ香(ムスクに似た香りで、ほんのりと木の香りが混じる)が強い。
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ストーリー

「メイデンズ・ブラッシュ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
「乙女のはじらい」 花の写真を見て、‘メイデンズ・ブラッシュ’というバラのことが気になっていた。バラ苗業者のカタログには見当たらず、長い間、私にとって幻のバラだった。そのバラに出会えたのは、十数年前、友人と訪ねた山梨県にあるコマツガーデンだった。想像以上に艶やかな花姿に惹かれ、早速苗木を買い求め、以来、わが家のバルコニーで、毎年咲く姿を楽しんでいる。 ‘メイデンズ・ブラッシュ’という英語名を勝手に「頬を染める少女」と訳していたが、わが家を訪れたやや露悪趣味の友人は、バラの名前を聞いたとたん「処女の赤面顔」と言い放った。それはあまりに直訳すぎるので、調べると、わが国では「乙女のはじらい」として紹介されていた。 オールドローズの‘メイデンズ・ブラッシュ’の作出については諸説あり、定かではない。だが欧米の文献によると、1400年以前から存在していたのは確かなようだ。当初は‘ロサ・アルバ・インカーネイタ’と呼ばれていた。イギリスで‘メイデンズ・ブラッシュ’と名づけられたのは、1770年のこと。キューガーデンで発見されたという説もある。 「妖精の太もも」 花の雰囲気がさまざまなイメージを喚起するのだろう、このバラには30以上もの名前がある。フランスでは、‘ラ・バージナル’、‘ラ・ロワイヤル’とも呼ばれるが、よく知られているのは、1802年に付けられた‘キュイジュ・ド・ニンフ’で、「妖精の太もも」という何とも艶めかしい名前だ。もともとの‘インカーネイタ’も「人肌のピンク色」を表す言葉だという。 マルメゾン城のバラ 世界各地のバラを集め、育種にも熱心だった、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌ( Empress Josephine 1763-1814)。これは彼女のお気に入りで、マルメゾン城のバラ園にも咲いていた。 ジョゼフィーヌの依頼で、館のバラをはじめ当時のバラのほとんどを描いた植物画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ( Pierre-Joseph Redoute 1759-1840) の『バラ図譜』にも収められている。「妖精の太もも」という名前は、ジョゼフィーヌによって命名された、ともいわれている。 ●こちらも併せてお読みください。 「エンプレス・ジョゼフィーヌ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】 花の魅力 やや遅咲きで、オールドローズ特有のクラシカルな花弁と、白と淡いピンクの花色のグラデーションが際立っている。近代バラに比べて、気難しいところもあり、我が家のバルコニーでは、あまり多くの花を付けてくれない。だが、華麗で優しげな花と甘い香りで、開花すると幸せな気分にしてくれる。その名前の通り、何とも悩ましいバラだ。 バラ‘メイデンズ・ブラッシュ’’Maiden’s Blush’ 作出年、作出者は不明だが、1400年以前から存在するアルバ系のオールドローズ。一季咲き。艶やかで柔らかい花色の印象から、さまざまな名前を持つ。花径は約8cmで、クォーター・ロゼット咲き。甘くフルーティな香りを放つ。 樹高は約1.5mで、樹形は直立性が強いが、つるバラとして設えることもできる。耐寒性が強く、半日陰でも生育できる。性質が同じで、花がやや大きめの‘グレート・メイデンズ・ブラッシュ’もある。
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ストーリー

ローズ・ヒップ物語【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
今年のわが家の収穫 秋バラの開花と同時に、ローズ・ヒップ(バラの実)を楽しむ季節がやってきた。 今年の最初の収穫は‘バレリーナ’の実。バラは花が終わると花がら摘みをして、実が生らないようにする。春に最初に咲く一番花の花後に、二番花、三番花を咲かせるために、実に栄養が奪われないようにするためだ。 例外なのが野生のバラ。一季咲きなので秋に花を付けない分、赤や黄色のローズ・ヒップが庭に彩りを添えてくれる。つるバラの‘バレリーナ’は野生ではないが、生育が旺盛なので、株の半分の花がらを残して実を生らせている。 ローズ・ヒップは、乾燥させた後、紅茶の茶葉に加えてローズ・ヒップ・ティーとして味わう。さらにビネガーに漬けて、サラダのドレッシングを作るなど、さまざまに活用できる。ビタミンCがレモンの20倍とか。それはさておき‘バレリーナ’の小さな実が可愛くて、見とれている。 日本の原種バラ バラは西洋の花というイメージが強いが、実際には中国をはじめとする東アジア、西アジア、北アフリカなど、北半球の広い範囲に分布している。日本にも十数種の原種バラが、野山に自生する。ノイバラやハマナスは人々の身近にあって、古くから詩歌にも登場してきた。 日本の原種バラに興味を持って各地を訪ね、2012年に『日本のバラ』(淡交社刊)という本にまとめた。北海道、九州、そして富士山中腹と、バラを求めた旅の中で、ローズ・ヒップとの出会いもあった。 タカネバラ タカネバラは、おもに中部地方の高山に自生している。学名はロサ・ニッポネンシス。「日本のバラ」を意味するその名前の通り、わが国固有の原種バラだ。バラ園を訪ね歩いたが、実際に出会えたのは1回だけで、1輪の花が咲いていた。その株も翌年には姿を消していた。 わが家で最初に咲いたタカネバラは、バラ苗業者から取り寄せた苗木で、たくさんの花が咲いたが、どうもバラ園で見たものとは違うような印象を受けた。タカネバラかどうかはやや疑わしいが、見事なローズ・ヒップ(記事トップの写真)が収穫できるので、その実を楽しんでいる。 タカネバラの自生地の写真を求めて、富士山中腹まで出かけたが、そこで見たのは、数株に1輪だけ咲く寂しい姿だった。富士山では絶滅寸前だという。その後、友人から長野の山奥で採取されたというタカネバラの苗木を譲り受けた。それは紅紫色の花で、バラ園で見たタカネバラと同じものだった。花の美しさに魅せられ、なかなか出会えなかったそのバラを、密かに「高嶺の花」と名付けている。 ハマナス 本州の北部や北海道の海岸を中心に分布しているハマナス。花は5弁の一重で、濃いピンク色と白色がある。ハマナスの和名の由来は「浜梨」が訛ったという説、また「浜茄子」説などがあるが、いずれも独特なローズ・ヒップの形から来ている。丈夫で耐寒性に優れているので、ヨーロッパに渡り、たくさんの栽培品種(ハイブリッド・ルゴサ)の親となっている。ドイツやオランダの街角で何度かハマナスに出会い、感慨深いものがあった。 ハマナスが自生地で咲く光景が見たくて、北海道を訪れたことがある。知床半島や野付半島で見たハマナスの群生は見事だった。だがそれは原生花園として保護された場所でのことで、年々自生の株は少なくなっている。かつて北海道では海岸線のそこかしこに見られ、子どもたちは海水浴の後に、赤く熟した実を食べたという。焼酎に漬けた果実酒も各家庭にあったが、今や昔話だと聞かされた。 カラフトイバラ 中国、朝鮮半島、樺太、シベリアからアラスカまで広く分布し、日本では本州中部や北海道の高山に自生する。ハマナスに似た花で、別名ヤマハマナスとも称されるが、花はハマナスよりかなり小さく、房咲きになる。 ノイバラ 日本全国に広く分布し、野山や人里でも見ることができる、白く小さな5弁の花。『万葉集』にも登場するほど古くから知られる。学名の「ムルティフローラ」には「多数の花が付く」という意味があり、ヨーロッパに渡り、多花性のランブラーローズの交配の親となった。花が多い分、実もたわわに生り、生け花やリースなどに用いられる。 ツクシイバラ 主に九州に自生する原種バラで、ノイバラの変種とされる。筑紫は九州を意味する言葉で、熊本県南部の球磨川河岸では約5kmに渡り、数千株が群生している。絶滅危惧種とされていたのを、人吉市の有志を中心に「球磨川ツクシイバラの会」が作られ、十数年にわたり自生地保存活動を行った結果だ。早朝の霧の中で見た河岸の幻想的な光景は、今も忘れられない。 2020年7月の集中豪雨で、河岸に濁流が押し寄せたが、ツクシイバラは無事だった。今年5月に花を咲かせ、復興作業途上の人々を勇気づけたという。原種バラは自然の中では強く、絶滅の危機は、河岸工事などの人工的な要因が大きいのだと、あらためて感じている。 サンショウバラ 葉がサンショウに似ているのでこの名がつけられた原種バラ。本州の富士箱根地域に自生し、ハコネバラの別名を持つ。バラにしては珍しく、樹高5〜6mの木となる。箱根の湿原や草原の中に立つこの木を見かけたが、バラのイメージからは遠く、実の形もほかのバラとは異なっている。 イザヨイバラ 中国に自生するサンショウバラの近縁種から生まれたイザヨイバラ。江戸時代以前に渡来したといわれ、かなり古くからあるバラだ。イザヨイは十六夜。花の一部が欠けていて、それを十六夜の月に見立てた優美な名前が付けられている。
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ストーリー

写真家・松本路子の『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』出版記
ガーデン物語誕生 広いバルコニーのある住まいに移り住んで、もうすぐ30年になる。何もない空間にプランターを持ち込み、10本のバラ苗を植えたのが、事の始まりだった。このあたりは「Garden Story」でも書いているが、今やバラは60鉢を数えるまでになっている。 北側のバルコニーは25㎡ほどの広さで、ほとんどのスペースをバラ鉢で埋め尽くしている。東側にも狭いバルコニーがあって、そこには最近、熱帯の花や果樹が増えてきた。2つのバルコニーからの季節の便りを、折にふれFacebookや「Garden Story」で綴ってきたが、このたびそうした文や写真を整理し、新たな発想と記述を加えて、『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA)という本にまとめた。 「秘密の……」と名乗るのにはいささかためらいもあったが、ごくプライベートな庭であることは事実だ。バラの最盛期には古くからの友人たちが花見に訪れるが、そのほかの季節は自分一人の空間。都心のマンションのバルコニーでの庭仕事は、植物とともに暮らすという意味合いが強い。それが珍しくもあり、またコロナ禍の現在では、より共感が得られるのだろう。プレゼント用にと何冊か求める人もいて、今までの著書にはなかった反響に驚いている。 植物との出会いの物語や、愛でる愉しみと同時に、育て方のページを加えたのは、ちょっとしたポイントを知るだけで、植物を育てることが容易になるからだ。30年の経験から、植物の自ら育つ力を引き出す手助けをする、という発想をしてみたいと思っている。12カ月は、花の咲く頃、果実の収穫時期などに分けているので、1月のレモンから始まる。 1月のバルコニー 「レモンの収獲」 友人が黄色く色づいたレモンの実を、夏まで木に実らせていたことが記憶に残っていた。1月頃には収穫しないと、次の花の時期、木に十分な栄養が行き渡らないのだ。花の香り、青いレモン、そして葉に産みつけられた卵から生まれた蝶。そうした物語を経て、収穫されたレモンの輪切りは、皮ごと蜂蜜に漬ける。その瓶やグラスに入れたレモネードの写真を見た友人が「美味しそう~」とため息をついたのは、嬉しいことだった。無農薬の自家栽培ならではのご褒美だ。 2月のバルコニー 「早咲きの桜」 わが家には、河津桜、陽光、染井吉野と、3種類の桜の木がある。中でも早咲きなのが河津桜で、1月末から開花した年もあった。鉢植えの桜は2mほどの樹高にとどめているが、毎年よく咲いてくれる。花の蜜を求めてメジロが集まってくるのをリビングルームから眺めるのも愉しみの一つ。 3月のバルコニー 「クリスマスローズとハーブ」 まだ寒さが残る頃、庭を華やかにしてくれるのが「冬の貴婦人」と称されるクリスマスローズ。一つとして同じ花が無いといわれるくらい多彩な色や花姿に魅了される人も多い。名前の由来や秘められた性格もミステリアスな存在だ。 ハーブは、料理の際に一つまみあると足りるので、鉢で育てていると重宝する。 イタリアのバジルやルッコラに加えて、シソ、ミツバ、ネギ、パクチーなども日本やアジアのハーブ。 4月のバルコニー 「ライラックと早咲きのバラ」 パリの知人宅のバルコニーでライラックが育っているのを見て、さっそく苗を求めたのが20年ほど前。紫の星のような花がこぼれんばかりに咲くのを見るのは心躍る。 4月下旬に開花するバラは、ほとんどが原種である。日本の高山にしか咲かないとされるタカネバラや、中国原産のナニワイバラなど、素朴さと華やかさを兼ね備えた風情は味わい深い。 5月のバルコニー 「バラ」 5月はまさにバラの最盛期。本の中で最もページを割いて、写真も多いのが、この月だ。バルコニーでの「鉢植えバラの設え方」「さまざまなバラ遊び」「バラに合う草花」など、バラの愉しみ方満載。「Garden Story」に連載している「バラの名前の物語」についても少し触れている。 6月のバルコニー 「初夏を彩るユリとアジサイ」 数年前の秋に植え付けたユリの球根が5種類あって、次々と開花リレーする。鉄砲ユリ、カサブランカ、山ユリなど、1鉢ずつだが、開花するとそれなりに華やいで見える。 アジサイは友人宅や旅先で手に入れた枝を挿し木した苗の成長記。開花すると、同行した友人の顔や旅の記憶が重なって見える。 7月のバルコニー 「パッションフルーツとゴーヤ」 収穫できるグリーンカーテンとして、2種類のつる植物を紹介している。本を読んだ友人から、自宅の庭にあるのがパッションフルーツだと知ったという手紙をもらった。実を生らせる方法が分かった、と感激してくれたのだ。来年は彼女の庭でも収穫できるに違いない。ゴーヤもわが家の定番。どちらも旺盛な生命力で、茂った葉が夏の日差しを遮ってくれる。 8月のバルコニー 「朝顔と熱帯の花々」 朝顔は千利休ゆかりとされる種を手に入れ、毎年咲かせている。その由来の真偽は確かめようもないが、日本古来の楚々とした姿に見惚れている。変化朝顔との出会いが、江戸の園芸文化に思いを馳せるきっかけとなったことにも触れている。 熱帯の花は、ハイビスカス、ブーゲンビレア、デュランタ、ベニゴウカンなどで、伊豆の熱帯植物園で育った私にとって、これらが茂った温室は、子どもの頃の原風景ともいえるものだ。 9月のバルコニー 「観葉植物」 ポトス、ヒロハオリヅルラン、パキラ、アスパラガスなどが、何十年にもわたりわが家で育っていて、その生命力には驚かされる。こうした室内の観葉植物とともに、バルコニーで育てているバナナやアボカドの木も、風に揺れるその葉を眺めて時を過ごしているので、観葉植物に加えている。 10月のバルコニー 「ストロベリーグアバの収穫」 パッションフルーツもストロベリーグアバも、子どもの頃、植物園で味わった果実の記憶が忘れられず育て始めたものだ。ストロベリーグアバは、今年も9月から10月にかけて、2本の木から100個ほどの収穫があった。5月に咲く、白い幻想的な花も美しい。 11月のバルコニー 「寄せ植えと秋バラ」 寄せ植えの苗は、おもにパンジーとビオラ、ハボタン、オルレアなど、秋からバラの季節まで咲き続けるものを中心に選んでいる。陶芸家の作る植木鉢や、さまざまなものを応用した鉢カバーも紹介している。 12月のバルコニー 「クリスマスリースとバラの冬仕事」 冬は花の少ない季節で、思案していたところ、ブリコラージュという設えのクリスマスリースに出会った。その作り方を伝授され、生きた植物のリースが春までにどのように変化を遂げるかを追っている。 鉢植えバラの冬仕事は、土替えなど厳しい作業だが、それもまた愉しめる範囲で行う。本の最後は、雪のバルコニーの写真で締めくくっている。一面の銀世界と、5月のバラいっぱいの景色とのコントラストが際立っている。 写真と文で綴る、植物との12カ月 バルコニーでの植物との付き合いは、仕事の傍らひとりで手入れできる範囲の、ささやかな営みだ。だが部屋の中にいて、小鳥たちのさえずりや季節の移り変わりを感じることができる。窓から手を伸ばして果実を収穫することも。植物との12カ月は、暮らしにたくさんの恵みをもたらしてくれる、と今あらためて感じている。 本の中の写真は、花や果実の最高の瞬間を選んで撮影したつもりだ。写真家が自ら育てたものなので、愛着ぶりも見てほしい。花や果樹との出会いの物語と併せて、しばし遊んでいただけたら、とても嬉しい。
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「スブニール・ド・アンネ・フランク」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラとの出会い 最初に‘スブニール・ド・アンネ・フランク’に出会ったのは、ベルギーのバラ園だった。「アンネ・フランクの思い出」と名づけられたこのバラは、真紅のつぼみが開花すると、オレンジがかった黄色の花弁になり、さらに縁に赤みが加わり、最後はピンク色になるという、多彩な表情を見せる。ベルギーの育種家、イポリット・デルフォルジュによって、『アンネの日記』の著者、アンネ・フランクへ捧げられたバラだ。 ベルギーのバラ園を訪ねる旅の途中、思いがけず作出者の息子さんに会い、彼からこのバラ誕生の物語、そして日本とのバラが取り持つ縁について、興味深い話を聞くことができた。 アンネ・フランク 『アンネの日記』によってその名が世界的に知られる、アンネ・フランク(Annelies Marie Frank 1929-1945)は、ドイツのフランクフルトに生まれた。ユダヤ系ドイツ人の一家は、第二次世界大戦中、反ユダヤ主義を掲げるナチスの迫害を恐れ、アンネが4歳の時に、オランダ、アムステルダムに移り住んだ。 やがてオランダもドイツ軍の占領下に置かれ、1942年夏、家族は隠れ家に潜む生活を余儀なくされた。日記はおもに隠れ家での2年間に書かれたものだ。13歳の誕生日に、父オットー・フランクから贈られた赤いチェックのサイン帳が最初の日記帳だった。小説家かジャーナリストになりたいと願っていた多感な少女は、潜んで暮らすという状況下で、克明に日々を綴った。 ある日突然、ナチスのゲシュタポにより隠れ家が捜索され、家族はポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。その後に移送されたドイツの収容所の劣悪な環境下で、アンネはチフスに侵され、15年という短い生涯を終えている。 アムステルダムの隠れ家 私はかつてアムステルダムのアンネが潜んでいた家を訪ねたことがある。1980年代、海外レポートの仕事をしていた頃のことだ。プリンセングラハト通り263番地のその家は、現在ほど記念館として整備されていなかったが、一般公開されていた。隠れ部屋の入り口をカモフラージュしていた本棚が開かれていて、狭い間口を通り抜けたことを記憶している。 隠れ家は、アンネの父が所有していた会社の建物の裏に連なる「後ろの家」と呼ばれる部分だ。2家族とひとり、合計8人がそこで761日にわたり暮らしていた。協力者たちが、3階にある本棚の隠し扉から食料を差し入れていたという。 日記の出版 戦争が終わり、収容所から戻ってきたのは、家族4人のうち父のオットー・フランクだけだった。協力者が保管していたアンネの日記がオットーに手渡され、それを読んだ彼は、日記の出版化のために奔走した。最初は1947年にオランダで、その後ドイツ、フランス、アメリカと出版が続いたが、いずれも少部数だった。 1950年代、ニューヨークの新聞に書評が掲載されたことがきっかけになり、出版部数は格段に増えていった。やがてブロードウェイで舞台化され、さらに映画化されることによって、反響は大きく広がっていった。世界70の言語に翻訳され、日本でも1952年に『アンネの日記 光ほのかに』と題された、最初の日本語版が出版されている。 バラの誕生 ベルギーのバラの育種家イポリット・デルフォルジュは、スイスでアンネの父親に出会ったことをきっかけに、自らの園芸会社で生み出した新種のバラをアンネ・フランクに捧げたいと、父親に1通の手紙を出した。 父親からの返事のコピーを手に入れたが、文面は‘スブニール・ド・アンネ・フランク’というバラが誕生することへの喜びに満ちていた。「アンネはとても自然を愛していました。ですからバラに彼女の名前が冠されることは誠に相応しいと思います」(セレクト・デルフォルジュ社の資料より)。 バラの苗は父親の庭に植えられ、毎年開花しているという手紙も残されている。その手紙の最後に、バラの苗を日本に贈りたいという相談も記されていた。 日本で咲く‘アンネのバラ’ 京都に本部を置く聖イエス会が、1971年に国際交流のためにイスラエルに派遣した合唱団一行が、その地で偶然オットー・フランクと出会った。団員の大槻道子との文通を縁に、翌年10本のバラ苗が日本に送られてきた。1カ月にわたる船旅で苗は弱っていたが、そのうちの1本が大槻の庭に根づき、開花した。この1本は「アンネのバラ」と呼ばれ、評判となった。 さらに10本の苗が贈られてきたことから、『アンネの日記』を読んだ人々の手によって、バラは接ぎ木で増やされ「平和へのメッセージ」として全国に広まっていった。私が国内で最初に見たのは岐阜のバラ園で、アンネの像を囲むようにして、華やかな色のバラが咲いていた。 1980年、聖イエス会によって、兵庫県西宮市にアンネ・フランク生誕50周年を記念した「アンネのバラの教会」が建てられた。教会の庭には50本のアンネのバラが植えられ、アンネ・フランク資料館も併設されている。 東京都杉並区の高井戸中学校の校内にも、アンネのバラが植えられている。こちらは『アンネの日記』を読んだ生徒たちが、その感想文を英訳してアンネの父親に送ったことをきっかけに、1976年に3本の苗木が贈られた。今では200本以上に増えて、学校の花壇を彩っている。 バラ‘スブニール・ド・アンネ・フランク’ 平和と友好のシンボルとして、世界各地で花開いているバラ‘スブニール・ド・アンネ・フランク’。つぼみから散る寸前まで、幾重にも色を変化させる花姿は華やかで、麗しい。ベルギーのイポリット・デルフォルジュによって8年の歳月をかけて1955年に作出されたバラは、‘アンネ・フランクの思い出’を意味する名前で、1960年に世に出された。 四季咲きの木立バラで、花径は約7cm。房咲きでよく返り咲く。樹形は横張り性で、樹高は0.8mほどになる。 Information アンネ・フランクの家 Anne Frank Huis 住所:Prinsengracht 263-267 1016 GV Amsterdam Netherlands 電話:(020)5567100 開館:月曜~木曜 9:00~20:00 金曜~日曜 9:00~22:00 休館:9月16日 入館料:大人 14.00€、10~17歳 7.00€、0~9歳 1.00€ アクセス:アムステルダム中央駅から徒歩20分。駅からトラム13、17番にて、ウェスタ―マルクト下車。徒歩2分。 H.P.:www.annefrank.nl Email:services@annefrank.nl アンネのバラの教会 住所:兵庫県西宮市甲陽園西山町4-7 電話:0798-74-5911 資料館開館:土曜日13:00~17:00 (予約制) 庭:いつでも見学可 H.P.:www.annesrose.com Email:church@annesrose.com アクセス:阪急電鉄甲陽園下車、駅から徒歩10分
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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラとの出会い わが家に‘レオナルド・ダ・ヴィンチ’がやってきたのは、十数年前のこと。 イタリア、ルネサンス期の天才画家に捧げられたそのバラは、濃いピンク色で、花姿と名前に惹かれた私は、バラ園から裸苗を取り寄せた。バルコニーで毎年艶やかな花を咲かせ、何度も返り咲く花を見るにつけ、画家の生まれたイタリアの村を訪ねてみたいと思い始めた。だが、その願いはいまだ果たせないでいる。 一昨年はトスカーナ地方で、造形作家ニキ・ド・サンファルの映画の撮影を行った。ダ・ヴィンチの生家のあるフィレンツェにそう遠くない場所だったが、足をのばす時間的余裕がなかった。私にとってこれから旅したい地の一つが、ダ・ヴィンチゆかりのイタリアと、フランスの町や村となっている。 ヴィンチ村からフィレンツェへ レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci,1452-1519)は、フィレンツェから20km離れたヴィンチ村で生まれた。村には彼が生まれた家が500年経った今も残され、修復されて当時と同じような様子で公開されている。 ダ・ヴィンチは14歳(一説には15歳)の時に、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に見習いとして入り、画家としての修業を始めた。時は15世紀後半、ルネサンス最盛期で、フィレンツェは自由と活気に満ちていた。 10代の頃からその才能を開花させ、師のヴェロッキオは彼の絵を見て、絵筆をとることをやめたというエピソードが伝わっている。当時の美しいがパターン化された描写に対して、天使がそこに存在するかのごとく、人の心の奥底に響く絵を描き出していたのだ。 「最後の晩餐」 フィレンツェで16年間を過ごしたダ・ヴィンチは、30歳の時にミラノに居を移した。ミラノでは、後世に残る代表作のうちの2つを制作している。一つは「岩窟の聖母」。そしてサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂の壁に描いた「最後の晩餐」。「最後の晩餐」はダ・ヴィンチが43歳の時に描き始めて、3年かけて完成させている。「モナ・リザ」と並び、画家を語るうえで欠かせない作品だ。 「モナ・リザ」 ヴェネツィア滞在を経て、ダ・ヴィンチは再びフィレンツェに向かった。この頃は人体解剖や土木工学などの分野にも才能を発揮している。そして「モナ・リザ」を描き始めたのは、1504年、52歳の時だった。 ポプラ板に描かれた油彩の肖像画は「リザ夫人」と名づけられてはいるが、モデルの女性が誰であるか真相は不明のままだ。ダ・ヴィンチの自画像ではという説まで出現し、その謎めいた微笑とともに、さまざまな物語を纏っている。 ルーヴル美術館の「モナ・リザ」 何度かルーヴル美術館を訪れているが、館内で最も人が多いのが「モナ・リザ」の絵の前。それだけ世界的によく知られている名画だ。展示室の奥の壁面に防弾ガラスで囲まれたその絵を最初に見た時、意外なほど小さいのに驚かされた。イメージが脳裏に焼き付いていて、人物像が実物大であるかのように錯覚していたのだろう。実際は77×53cmの油彩画である。オリジナルの絵を見つめていると、その微笑が一層謎めいて見えてくる。 バラ園で‘スーリール・ド・モナ・リザ(モナ・リザの微笑)’という鮮やかな赤いバラに出会った時、絵のイメージがバラに重なって見えた。 フランス、ロワール地方の城 ダ・ヴィンチは最晩年をフランスで過ごしている。1516年、64歳の時にフランスの国王フランソワ1世に招かれ、王の居城アンボワーズ城の近くのクルー城(のちのクロ・リュセ城)を住まいとして与えられたのだ。ダ・ヴィンチはその地で67年の生涯を終えるまで、さまざまな実験や発明を試みている。 館にはイタリアから3枚の絵を携えてきていた。「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」そして「モナ・リザ」である。「モナ・リザ」については、死の直前まで絵に筆を入れ続けていたという。 クロ・リュセ城は現在一般公開されていて、画家の寝室や居間、アトリエなどが見学可能だ。資料展示室では、あらゆる学問に精通していたダ・ヴィンチの足跡を辿ることができる。 城の公園と庭園 城の周囲に広がる7ヘクタールのレオナルド・ダ・ヴィンチ公園は、彼が発明した機械20点の屋外展示場となっている。 さらに公園に隣接するのが、ダ・ヴィンチの描いた風景をもとにつくられた緑溢れるレオナルドの庭園。池には彼が設計した二重橋が架けられ、その周りには植物学者でもあったダ・ヴィンチがスケッチを残した、ロワール地方の植物が植栽されている。 バラ‘レオナルド・ダ・ヴィンチ’ ダ・ヴィンチに捧げられたバラは、1994年にフランスのメイアン社によって作出された。アティアス・メイアン氏によると、クロ・リュセ城のダ・ヴィンチ研究チームがメイアン社の数ある新作のバラから、この花を選んだのだという。 深みのあるローズピンクのロゼット咲きの花が、房になって開花する姿は見事だ。花径は8~10cmで、やや厚めの花弁が波打ち、クラシカルに重なる。樹形は直立型。欧米では木立バラに分類されているが、樹高1.5mほどのつるバラとしても設えることができる。 このバラの枝変わりではないが、同じメイアン社から2003年に‘レッド・レオナルド・ダ・ヴィンチ’と名づけられた、クリムゾンレッドの花色のバラが作出されている。 Information ダ・ヴィンチの生家 Casa natale di Leonardo da Vinci Via di Anchiano 50059 Vinci Fl. Italy 電話:0571-933-248 開館:10:00~19:00 (11月から2月は18:00まで) 休館日:なし 入場料:大人11€、子ども8€ アクセス:フィレンツェから列車でエンポリ駅下車。エンポリ駅からヴィンチ村までバスで20~25分。 クロ・リュセ城 Le chateau du Clos Luce 2rue de clos Luce 37400 Amboise Val de Loire France 電話:+33(0)2 47 57 00 73 Fax:+33(0)2 47 57 62 88 http://www.vinci-closluce.com 開館:時間は月ごとに変わるのでご確認ください。 休館日:12月25日、1月1日 入場料: 大人17,50€ (4月1日~11月15日), 14,50€ (11月1日~3月31日) 子ども15,50€ (4月1日~11月15日)12,50€ (11月1日~3月31日) 7歳未満 無料 アクセス:パリ、オーステルリッツ駅から直通で2時間。アンボワーズ駅下車。駅から市の中心部までバス。
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「ファンタン・ラトゥール」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
「バラの籠」 ずいぶんと昔になるが、イギリス滞在中に、ロンドン・ナショナル・ギャラリーで印象的なバラの絵を見たことがあった。花瓶に活けられていることが多い花の絵の中にあって、そのバラは籠の中とテーブルに置かれ、今摘んできたばかりという瑞々しさに満ちていた。 その時は画家の名前を記憶にとどめることはなかったが、数年前に、その絵「バラの籠」がアンリ・ファンタン=ラトゥールの作だと改めて知った。バラの‘ファンタン・ラトゥール’が我が家のバルコニーで咲くようになって十数年が経つ。バラの名前の由来を辿るようになって、バラの画家といわれるファンタン=ラトゥールの画集を紐解いた時に、「バラの籠」に再会したのだ。 絵の中に白、ピンク、赤のバラが一見無造作に置かれているように見えるが、絶妙なバランスで収まっている。1890年、作者50代の頃の作品だ。 画家ファンタン=ラトゥール アンリ・ファンタン=ラトゥール(Henri Fantin-Latour,1836-1904)は、19世紀を代表する油彩画とリトグラフの画家として知られる。油彩は静物画が多く、生涯で800点以上の花の絵を描いたとされる。 フランス南東部のグルノーブルに生まれ、5歳の時に両親とともにパリに移り住んでいる。画家である父親の影響で、10代の頃からパリのエコール・デ・ボザールで絵を学んだ。同時にルーブル美術館に通い、16世紀ヴェネツィア派や、17世紀フランドル派の画家の絵の模写に励んだ。20代の頃にロンドンでの展覧会に出品した花の絵が評判を呼び、やがてイギリスで人気の静物画家となった。 バラの絵 「バラの籠」以外に「白いバラの静物」(1870年作)、「ボウルの中のバラ」(1883年作)、「バラのある静物」(1889年作)など、代表的なバラの絵を見ると、写実的だがどこか幻想的な雰囲気も感じられる。何よりも、バラがそこで息づいているかのような、花の生気が描き出されている。 当時の画家は、静物をスケッチした後、それをもとに絵を彩色し、完成させることがほとんどだった。だがファンタン=ラトゥールは、最後の仕上げまで、咲いている花を前にして描き続けたのだという。 集団の肖像画 ファンタン=ラトゥールは静物画と同時に肖像画も描いている。妹をモデルにした「読書する女」(1861年)も忘れがたい絵だ。そして当時珍しかった、複数の人物が集まっている肖像画もいくつか残している。絵の中の人物は友人の画家や作家たちで、「バティニョールのアトリエ」(1870年作)では、エドゥアール・マネを中心に、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールなどが登場している。 ファンタン=ラトゥールは、こうした同時代の印象派の画家たちと交流していた。流行の最先端を行く彼らと親しく付き合いながら、彼独自の写実世界を追及していたのだと思うと感慨深いものがある。 多弁のバラ 彼が主に描いていたのは、現在オールドローズに分類されるケンティフォリア系のバラだ。ケンティフォリアは「100枚の花弁」という意味の言葉で、多くの花びらが重なるように咲く特徴がある。 花弁の重なり具合がキャベツのように見えることから、別名‘キャベッジ・ローズ’。ダマスク香が強く、香料やエッセンシャルオイルの原料として栽培されていて、南仏の栽培地グラースのある地方の名前から‘プロバンス・ローズ’とも呼ばれる。 18世紀から19世紀半ばにかけてオランダで品種改良されたので、オランダの画家の絵に多く登場している。フランスの王妃マリー・アントワネットの有名な肖像画の中で、彼女が手にしているのも、ケンティフォリアのピンクのバラだ。 バラ‘ファンタン・ラトゥール’ 我が家のバルコニーのバラ‘ファンタン・ラトゥール’は、大きめのプランターに植えてあるが、幹を伸ばしてもなかなかたくさんの花を付けてくれない。フェンスに沿って直立させているのが原因なのだろうか、気難しいバラで、やや持て余し気味だった。だが、それでも何輪か花開くと、その優美な姿に魅了される。今年はことのほか多く開花してくれた。 ‘ファンタン・ラトゥール’は1900年頃フランスで発見され、名前が付けられた。作出者は不明だ。花はソフトピンクでクォーター・ロゼット咲き、花径は8~9cmほど。樹高が3~4mになる一季咲きのつるバラで、トゲが少ないので誘引しやすい。ケンティフォリア独特の多弁で、中央にボタンアイが見られることもある。 ファンタン=ラトゥールが亡くなる4年前に命名されたというが、画家自身は、自分の名前が冠されたバラと出会うことがあったのだろうか。出会ったとしても、私のようにバラの名前から発して、彼の絵に親しむような、後世の人間を想像することはなかったに違いない。
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「カカヤンバラ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
夏のバラ 強い日差しが続く夏には、四季咲きのバラも少しずつしか開花しない。その中にあって、我が家のバルコニーで元気なのが、主に東南アジアや東アジアに分布する原種のバラ、カカヤンバラだ。 白い5弁の花の中央に鮮やかな黄色の雄シベと赤い雌シベがあり、いかにも南国のバラといった風情を醸し出している。 カカヤンバラとの出会い カカヤンバラを初めて見たのは、十数年前に友人と訪れた、山梨県にあるコマツガーデンでのことだった。当時はガーデンの創設者・小松孝一郎氏がご存命で、訪れる客たちの対応をしていた。すでに長女の後藤みどりさんが、2代目としてガーデンを引き継いでいたので、小松氏はいかにも楽しげに客たちとバラ談議を弾ませていた。 私が『日本のバラ』という本を書いていると告げると、見せてくれたのがカカヤンバラだった。当時その花は珍しく、なかなか出会うことがなかったので、しばらく立ち止まり見とれていた。するとバラ園を去る時、彼が鉢苗をひとつ私に手渡してくれた。それが今バルコニーで咲いている花の出所である。 名前の由来 カカヤンバラの名前は、フィリピンのルソン島にあるカガヤンという地名に由来するという。江戸末期、旗本で本草家、植物画家でもあった馬場大助(1785-1868)がその著書の中で明らかにしている。 八丈島の漁船が遭難し、ルソン島に漂着。運よく帰還できた船長が、カガヤン川の河岸からバラの種を持ち帰った。天保元年(1830年)、馬場大助は船長と会い、その種を譲り受けた。自邸で蒔いた種が活着し、やがてその苗が開花したのだという。 このバラには、「ヤエヤマイバラ」というもう一つの和名がある。石垣島などの八重山諸島に自生していることから、その名前で呼ばれる。こちらはカカヤンバラと名づけられる前から存在していたようだ。台湾に古くから自生しているので、実を食べた鳥が飛来し、糞とともに種をもたらしたのだろうか。いずれにしても、海を渡ってきた種が、この国に根付き花開いたのは、ロマンを感じさせる出来事だ。 いくつもの名前 カカヤンバラの学名はロサ・ブラクテアタ(Rosa Bracteata)。ドイツの植物学者ヨハン・クリストフ・エンドランドによって名づけられた。花の下の苞が幅広で、大きいことから、苞を意味するブラクト(Bract)に由来する。 世界的には‘マッカートニー・ローズ’(Macartney Rose)という英名で知られている。これは英国の初代中国大使ロード・マッカートニーが、中国からロンドンに持ち帰ったことから、その名前が付けられた。 紛らわしいのは、似た名前のピンクのバラ、‘ザ・マッカートニー・ローズ’(The MaCartney Rose)があること。こちらは1991年にビートルズのポール・マッカートニーの50歳の誕生日に、メイアン社から彼に捧げられたものだ。当初ポール・マッカートニーという名前を考えていたメイアン社だが、ポールが「マッカートニー家のバラ」を意味する命名を希望したという。 アメリカに自生するバラ カカヤンバラはアメリカに渡り、南部を中心に野生化している。英名の‘マッカートニー・ローズ’が一般的だが、俗に‘フライド・エッグ・ローズ’(目玉焼きのバラ)とも呼ばれている。白い花弁の中央に鮮やかな黄色が見られる花姿から、目玉焼きを連想したのだろう。 つるバラで鋭いトゲがあるので、農場の柵として植えられることもある。その実が熟すと、家畜たちが喜んで食べるのだそうだ。 マーメイド カカヤンバラの交配種のバラに‘マーメイド’(Mermaid/人魚)がある。クリームがかった白の一重咲きで、花径8〜10cmの大輪花だ。印象派の画家クロード・モネが愛したバラとして知られる。モネは一重のバラを好み、‘マーメイド’が1917年に紹介されると、すぐさま苗を取り寄せている。 私がフランスのジヴェルニーにあるモネの家を9月に訪れた時、家の外壁の1階と2階の間に、横につるを伸ばした‘マーメイド’が開花していた。2階のモネの寝室の窓から見下ろすと、花が上を向いて花弁を広げているのが見えた。 ‘マーメイド’がイギリスのウィリアム・ポール&サン社からお披露目されたのは、1917年といわれる。だがこのバラを好んだ育種家、デヴィッド・オースチンによると、1878年頃にウィリアム・ポール(William Paul)によってすでに作出されていたという。 イギリス国内の庭で‘マーメイド’を見ることも多く、コッツウォルズを旅していた時、壁一面にこのバラが咲く家を見かけた。庭にいた住人はその家を「マーメイド・コテージ」と名付けていると語ってくれた。 バラ カカヤンバラ 常緑のつるバラで、小さな葉をたくさん繁らせる。花径7〜8cmで、ハート形の白色の5弁の花を付ける。中央の雌シベは黄色のものと赤色のものがある。 球形の実を付け、黄赤色に熟する。初夏から秋にかけて咲く、夏に強いバラで、耐寒性もある。 その根には薬効があり、中国では生薬名『苞薔薇根』(ホウショウビコン)と呼ばれ、ヘルニア、脚気、リュウマチの治療薬として用いられる。
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「プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
バラとの出会い モナコ公妃の名前を冠するバラに出会ったのは、数年前、千葉県にあるバラ園だった。淡い杏色の何ともいえない気品に満ちた花姿に惹かれて、その年の秋に、早速大苗を取り寄せた。 そのバラ‘プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ(Princesse Charlene de Monaco)’ は、翌春に我が家のバルコニーで、大きく枝を伸ばし、たくさんの花を付けた。杏色の花は開花が進むにつれ、次第にピンク色に変わり、最後はシェルピンクの儚げな色になって散っていく。まさにプリンセスの名前に相応しい優美なたたずまいを見せてくれる。 モナコ公妃シャルレーヌ モナコ公国とバラといえば、バラを愛した故グレース公妃のことが思い起こされる。彼女に捧げられたバラ、‘グレース・ド・モナコ’と‘プリンセス・ド・モナコ’はあまりに有名だ。 公妃シャルレーヌは、故グレース公妃の息子で現公国君主のアルベール2世の妃である。2011年に二人が結婚した時、公妃はその美しさと同時に、ユニークな経歴で話題になった。南アフリカ出身の競泳選手で、シドニーオリンピックで5位に入賞した実績の持ち主だったのだ。 二人は2000年にモナコのモンテカルロで開かれた水泳大会で出会い、2006年から交際をスタートさせた。彼女は北京オリンピックへの出場資格を得ながら、それを放棄して公妃になる道を選んだという。ハリウッド女優グレース・ケリーからグレース公妃となった義母と同様に、大きな決断に迫られた人生に違いない。 その生い立ち シャーリーン・リネット・ウィットストックは1978年、ジンバブエで生まれた。シャルレーヌはシャーリーンのフランス語読みだ。12歳で家族とともに南アフリカに移住。2歳で始めた水泳が上達して、18歳で南アフリカの全国選手権で優勝。2000年のモナコの競技会では、200m背泳ぎで金メダルを獲得した。 2児の母として 公妃シャルレーヌは、2014年に双子の男女を出産している。現在6歳になるジャック公子とガブリエラ公女の写真を見ると、その愛らしさに目を奪われる。 ヨーロッパの王族たちが個人名を使いSNSで発信しているのは、今や珍しくない。だが公妃のインスタグラムを見ると、いかにも自ら撮影し、コメントを付けたと思われる子どもたちの写真がアップされている。民間出身で、それまでとかけ離れた世界で生活する彼女にとって、子どもたちの存在がかけがえのないものであることは、想像に難くない。 慈善活動 プリンセス・シャルレーヌ財団を設立した公妃は、子どもの水難事故を無くすための水泳教室などを開き、公務と並行して慈善活動も熱心に行っている。また2020年には、財団主催のチャリティ水上自転車レースをに自らも参加。コルシカ島を出発して地中海を横断、モナコのヨットクラブがゴールという180kmのレースだが、公妃は完走し、また多くの寄付を集めることに成功している。 バラの名前 バラ‘プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ’は、2014年にモナコの「プリンセス・グレース・ローズガーデン(Roseraie Princesse Grace)」のリニューアルオープンに際して、シャルレーヌ公妃に捧げられた。 ローズガーデンはグレース公妃が事故死した2年後に、夫であるレーニエ3世がモナコのフォンヴィエイユ地区に創設したもの。リニューアルで拡張され、300品種4,000本のバラが植栽された。オープンセレモニーのテープカットの後に、シャルレーヌ公妃はその名を冠したバラの花束を贈られた。 バラはフランスの育種会社メイアンで作出されたものだ。2011年のお披露目後、ジュネーブバラコンクールで金賞を得るなど、数多くの賞に輝いている。じつは、当初このバラは別の名前を持っていた。芳香が際立つところから、‘Haiku Perfumella’、「香りの俳句」と呼ばれていたのだ。 公妃は夫アルベール2世とともにメイアンのナーセリーを訪れ、数あるバラの中からこのバラを自ら選んだと伝えられる。 バラ‘プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ’ フランスのメイアン社で作出されたこのバラは、花径10~12cmの大輪の花を咲かせる。杏色から淡いピンクへと花色を変化させ、フリルのある花弁が優雅だ。丈夫で、春から秋にかけて繰り返し開花する。 樹高は約1.5mで半直立性。2005年にモナコ公国発行の0.68ユーロの切手にその画像が採用されている。 Information Roseraie Princesse Grace 住所:Avenue des Guelfes 98000 Monaco 電話:+377 92 16 61 16 開園:24時間オープン 入場:無料 https://www.visitmonaco.com アクセス:モナコ駅から、徒歩約25分
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「ポールズ・ヒマラヤン・ムスク」【松本路子のバラの名前、出会いの物語】
Hex城での出会い 初めてバラ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’に出会った時、その巨大な姿に驚かされた。10mほどの高さの木に絡み、そのすべてを花で覆い尽くしていた。10数年前、ベルギーのバラ園を訪ねる10日間の旅に出かけ、東部トングレン近くにあるヘックス城に立ち寄った時のことだ。 ヘックス城はその地方を収めるリエージュの司教が、1770年に夏の別荘として建てた歴史ある城。現在は城主の母、故ナンダ・デュルセル伯爵夫人が作り上げたバラの庭園で知られている。 60ヘクタールに及ぶ広大な敷地の中の庭園には、原種バラやオールドローズを中心に、1,200種類のバラが植えられている。年2回オープンガーデンが催され、6月のローズフェスティバルには、ヨーロッパ各地からバラの愛好家が集まり賑わう。 ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’は、別名‘ポールズ・ツリー・クライマー’と呼ばれ、まさに木に登る勢いのあるバラ。ヘックス城のバラがそれを実証していた。 わが家の‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’ 花に近づくと、その優しげな風情に惹きつけられた。淡いピンク色と白色のグラデーションの花弁で、小さな花が房状に咲くさまが可憐だ。風が吹くと、はらはらと花びらを散らすさまもゆかしい。桜の花びらが舞う姿にどこか似ている。 ベルギーの旅から戻った私は、早速‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’の苗を手に入れた。10mにも伸びるつるバラを、都心のマンションのバルコニーで育てるのは無謀だとは思ったが、その花の魅力にはあらがえなかった。 大きめのプランターに植えたバラは、10数年経った今も毎年元気に開花する。枝を四方に伸ばすので、冬の休眠期に2mの高さのフェンスに合わせて剪定をしている。5月のバラの最盛期、ほかのバラがやや少なくなった頃に満開を迎えるのも、嬉しいことだ。何年か後に、もう1本苗を手に入れ、さらに挿し木した苗を加えて、今は3株のバラが育っている。 名前の由来 わが家でこのバラが咲くようになって、その名前の由来が気になり始めた。英文の資料を調べると、作出者のポールのフルネームは、ジョージ・ポール・ジュニア(George Paul Jr. 1841-1921)。イギリス、ハートフォードシャー州のチェスハントの「ポール&サン」というナーセリーでバラの育種をしていた人物だ。 「ポール&サン」は祖父、アダム・ポールによって1806年に設立されたナーセリーで、彼が父親の後を継いでこの道に入ったのは、1867年のこと。その5年後にイギリスで最初のハイブリッド・ティー・ローズである‘チェスハント・ハイブリッド’を作出している。ちなみに人気の高いバラの‘マーメイド’を作出したのは、彼の叔父であるウィリアム・ポールだ。 ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’は、花がジャコウ鹿の雄の分泌物であるムスクの香りを漂わせることから、その名前が付けられた。ジャコウ鹿の腹部にあるジャコウ腺から得られる香りは、そのままでは強烈だが、薄めると芳しい香りになる。香水の原料として知られ、また媚薬としても用いられた。 わが家の‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’の香りは薄く、これがムスクの香りなのかと、かすかに感じられる程度だ。 軽井沢レイクガーデン 日本の庭園では、「軽井沢レイクガーデン」のガゼボに設えたこのバラが優美だった。私が訪れた数年前は、まだそれほど枝が伸びていなかったが、今や屋根を覆うほどに茂っている。 軽井沢レイクガーデンでは、400種類のバラと300種類の宿根草が植栽されている。湖の水面に写るバラの姿が見られ、イングリッシュローズ、フレンチローズ、香りのバラなどのコーナーをめぐる散策路も充実している。春の花の最盛期が、わが家のバラが一段落した6月中旬から7月初旬にかけてなのも嬉しい。 ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’は一季咲きで、開花は春のみだが、秋には木々の紅葉とともに、秋バラ、野生バラのローズヒップなどが楽しめる。 バラ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’ ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’はジョージ・ポール・ジュニアによって、1916年に作出された、一季咲きのつるバラ。花径3cmほどのランブラーローズで、ポンポン咲きの花が房になって咲く。 淡いピンクと白の混ざった花色で、咲く年によってその濃淡が異なる。5〜6日開花が続いた後、小さな花びらをはらはらと散らす。 樹形は半横張り性で、まっすぐに伸びたシュートの先から横に枝を伸ばしていくので、パーゴラやガゼボに設えると見事な景観を生み出す。 Information Kasteel Hex 住所:BE-3870 Heers-Heks Belgium 電話:+32 (0)12 74 73 41 ホームページ:www.hex.be 毎年6月と9月にガーデンフェスティバルが開かれ、庭園が公開される。 次回は、2021年9月11日、12日10:00〜18:00 入場料:€11、前売り€9.5、17歳未満無料 アクセス:ブリュセルからトングレンまで快速電車で約90分、タクシーで約15分。 軽井沢レイクガーデン 住所:389-0113 長野県軽井沢町発地342-59 電話:0267-48-1608 ホームページ:https://www.karuizawa-lakegarden.jp 開園:4月23日〜11月7日 9:00〜17:00 入場料:5月1日〜6月11日大人1000円、小中学生500円、小学生未満無料 6月12日〜7月11日大人1500円、小中学生500円、小学生未満無料 11月1日〜7日大人800円、小中学生300円、小学生未満無料 アクセス:JR北陸新幹線軽井沢駅下車、バス、タクシーで約10分


















