まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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京都・奈良 西行ゆかりの桜【松本路子の桜旅便り】
桜を愛した歌人・西行 奈良・吉野山の桜を訪ねてから、桜を多く詠んだ平安末期の歌人・西行のことが気になっていた。 「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」 桜の花が咲き始めると、心が浮き立ち、花とともに宙に舞う、そんな心情だろうか。 またよく知られた歌に、次のようなものがある。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 その歌の通りに、満開の桜の下で往生を遂げている。狂おしいほどの桜への想いを、三十一文字に託した西行の生涯。その一端に触れたくて、足跡をたどる旅に出た。 武士から漂泊の歌人に 西行の出家前の名前は佐藤義清(さとうのりきよ 1118-1190年)。鳥羽上皇の御所の北面を詰所として警護に当たる北面武士だった。23歳の若さで出家したが、その動機には諸説ある。「保元の乱などの政治の混乱に嫌気がさした」「高貴な女性に憧れ、失恋した」「親友の死に世の無常を悟った」などだ。 女性への恋慕の情が溢れる歌を読むと、失恋説をとりたい気持ちにもなるが、若くして妻子を捨て仏門に入るのには、これらの出来事が重なったからではないだろうか。また、歌の道に生涯をかけるという覚悟があったのかも知れない。 勝持寺の‘西行桜’ 京都の西南郊外、大原野に西行が出家した天台宗の寺・勝持寺がある。西行が植えた桜が残っていると知り、ぜひ花を見たいと訪ねた。境内の鐘楼堂脇の枝垂れ桜が満開の枝を広げている。桜は西行が手植えの木から3代目にあたり、代々‘西行桜’として親しまれてきた。西行はこの桜の近くに庵を結んでいたという。 ‘西行桜’のほかに境内には約100本の桜が植えられ、「花の寺」と称される。勝持寺は、京の西山連峰のひとつ小汐山(小塩山)の山麓に位置しているので、‘小汐山’と名づけられた桜も、西行ゆかりの桜といえるかもしれない、 勝持寺の庭には西行が剃髪した際に、鏡代わりに使った鏡石が残され、姿を映したとされる瀬和井の泉がある。宝物館の瑠璃光殿には、室町時代に作られた、寄木造りで朱塗りの西行法師像が納められている。 西行がこの地で詠んだ歌から、世阿弥の作とされる能の演目「西行桜」が生まれた。 「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有りける」 隠遁生活を送るつもりの寺に花見客が押し寄せ、それを桜のせいだと嘆いている。能では西行の夢の中に老木の桜の精が現れ、「それは桜の罪ではない」と告げる。やがて西行と桜の精の魂は同化し、花の精は洛中の桜の名所を謡いながら、行く春を惜しみ舞う、という優美な物語だ。 庵を結んだ二尊院(にそんいん) 出家後しばらくして、西行は京都・嵯峨にある二尊院に庵を結んだ。二尊院は和歌の歌枕として知られる小倉山の麓に位置する。紅葉の名所でもあり、参道にはもみじと桜が交互に植えられ、四季それぞれ趣のある情景が広がる。 「牡鹿鳴く 小倉の山の すそ近み ただひとりすむ 我心かな」 境内には西行庵跡を示す石碑が立ち、寺の近くにある西行井戸の傍らには、この歌の石碑がある。出家後に、孤高の歌人として生きる覚悟のようなものが感じられる歌だ。 吉野山の桜に焦がれて 京都周辺の山寺に住んだ後、西行は高野山に庵を構え、およそ30年にわたりそこを拠点として、諸国行脚の旅に出た。高野山は吉野山に近く、たびたび吉野を訪れ多くの歌を残している。 「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」 「吉野山 こぞの枝折(しをり)の 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねん」 桜の季節が近づくと心は吉野山に飛び、年ごとに訪れては、まだ見ぬ桜を求めて山の奥に足を踏み入れる。桜への想いが溢れる歌だ。 「あくがるる 心はさても 山桜 散りなんのちや 身に帰るべき」 吉野の桜を見ているうちに心が身体から抜け出し桜のもとにある。花が散ってから心は身体に戻ってくるだろうかと、詠う。こうした歌は、単に花を愛でているだけでなく、桜が象徴する何か、また何者かへの哀惜の念が籠められているのではないだろうか。それが読む人の心にさまざまに響き、西行の桜は後の世まで語り継がれている。 奥千本の庵 花の季節に訪れるだけでなく、西行は吉野山の奥深い地に庵を結び、3年ほど暮らしている。 「花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ」 「吉野山 桜が枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にも有るかな」 私が訪れた時も、山の麓では桜が咲いていたが、庵に向かう山道には冷気が漂っていた。3畳ほどの広さの庵の、訪れる人もない暮らしの中で春を待つ気分はいかばかりか、と思う。 「とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば すみ憂からまし」 寂しさが山里でひとり住む身の慰めである、という境地は驚きだ。その寂寥感と無常観が、奥千本の庵の前に立つとより迫ってくる。 庵の近くには、西行が水を汲んだといわれる苔清水が今も湧き出ている。傍らには江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉がここで詠んだ「春雨の こしたにつたふ 清水哉」の句碑があった。芭蕉は西行に憧れて、奥州や諸国を旅し、『奥の細道』などの紀行作品を生み出した。吉野にも2度ほど訪れた記録が残っている。 終焉の地、弘川寺(ひろかわでら) 西行は奥州、四国、伊勢などの地を経て、文治5年(1189年)に、河内国(現大阪府河内郡)の弘川寺に居を構えた。その翌年、病のため73年の生涯を終えている。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 彼がかつて詠んだ歌の通り、亡くなったのは、旧暦2月16日(西暦3月23日)の桜の季節、満月の頃だった。 西行没後550年を経て、江戸時代の歌僧・似雲(じうん)が西行墳を発見。似雲は境内に西行堂を建立し、西行座像を祀った。さらに西行墳の傍らに「花の庵」を建て、生涯そこで暮らしたという。 私が訪ねた日、西行墳にはなぜか一輪の赤いバラが手向けられていた。墓近くには、「ねがはくは…」の歌碑が立つ。頭上の大木の‘ヤマザクラ’が、あたり一面に花びらを散らしていた。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 勝持寺 住所:京都市西京区大原野南春日町1223-1 電話:075-331-0601 HP:http://www.shoujiji.jp 二尊院 住所:京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 電話:075-861-0687 HP:http://nisonin.jp 吉野山観光協会 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430 電話:0746-32-1007 HP:http://www.yoshinoyama-sakura.jp 弘川寺 住所:大阪府南河内郡河南町弘川43 電話:0721-93-2814 HP:http://www.town.kanan.osaka.jp(河南町HP)
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奈良・吉野山の桜【松本路子の桜旅便り】
祈りの桜 数年前、桜の季節に吉野山へ出かけた。山陵一面に咲く花の映像に惹かれ、ぜひ訪ねてみたいと思ったのだ。吉野山は奈良県の中央部に位置し、‘ヤマザクラ’を中心に、約3万本の桜がその尾根や谷を埋め尽くす。山岳仏教と結びついた信仰の場として知られ、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されている。 吉野山の桜の由来は、今から約1,300年前に遡る。飛鳥時代に活躍した修験道の開祖である役小角(えんのおづの)が、吉野山に金峯山寺(きんぷせんじ)を開き、本堂に桜の木を彫った蔵王権現を祀った。以来、桜が御神木とされ、信者たちが祈願の折に苗木を寄進するようになった。平安時代以降、献木する人も増え、約8kmの山稜が桜で覆われるようになった。吉野の桜は、人々の祈りの象徴ともいえる。 一目千本 吉野山の桜は、標高の低い場所から高いところへと、順に開花するので、約1カ月間にわたり花見の季節が続く。尾根は下千本、中千本、上千本、奥千本と名づけられ、4月初旬から、桜の開花が駆け上っていく。 花見に格好の場所はいくつかあるが、中でも中千本近くの吉水神社の境内からの展望は見事で、古来より「一目千本(ひとめせんぼん)」と称せられてきた。 吉水神社を訪ねた日はあいにくの小雨模様だったが、山脈に霧がかかり、それはまた幻想的で悪くない情景だった。 上千本の花矢倉の展望台からは、金峯山寺を望むことができる。吉野の町や桜の尾根が見渡せ、吉野山に来たことが実感できる場所だ。義経の忠臣が追っ手に矢を放ったことから、この名前で呼ばれるようになった。 義経千本桜 吉野山は祈りの場所であると同時に、数々の歴史の舞台となり、物語をのちの世に伝えている。文治元年(1185年)平家討伐の後、兄である源頼朝に追われた源義経一行が奥州へ逃れる途中に立ち寄り、身を潜めたのが吉野山の吉水院(現吉水神社)だった。 神社の書院には「義経潜居の間」「弁慶思案の間」など、義経伝説にちなんだ部屋が残されている。追手が迫り、吉水院からさらに奥の大峰山に向かった義経だが、大峰山は女人禁制のため、同行していた愛妾の白拍子・静御前は吉野に残らざるを得なかった。それが二人の今生の別れとなった。 静御前は捕らえられ、鎌倉に送られたが、頼朝の前で「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と義経を慕う今様を唄い、舞ったという。義経と吉野の物語は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目『義経千本桜』で知られ、今に語り継がれている。吉野山の奥には義経が潜んでいたといわれる「義経隠れ塔」が残されている。 後醍醐天皇の南朝 延元元年(1336年)、時の権力者・足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、吉野山に朝廷を開いた。京都では尊氏が光明天皇を擁立していたので、2カ所に朝廷が存在することとなった。京都を北朝、吉野を南朝とする、南北朝時代の始まりである。 後醍醐天皇は吉水院に滞在した後、金峯山寺蔵王堂の西にあった実城寺を御所とし、寺号を金輪王寺と改めた。3年後に後醍醐天皇はこの地で生涯を終えたが、吉野山の南朝は4代、56年にわたり続いた。 豊臣秀吉の花見 太閤秀吉は、文禄3年(1594年)に総勢5,000人を引き連れて、吉野で花見の宴を開いている。徳川家康、前田利家、伊達政宗などの武将をはじめとして、文人、茶人を伴っての花見は、吉野の桜を一躍有名にする出来事だった。5日にわたり「歌会」「能会」「茶会」「仮装行列」が繰り広げられ、その様子は「豊公吉野花見図屏風」(細野美術館蔵)と題した屏風絵に描かれている。 西行庵 「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」 (『山家集』) 『新古今和歌集』の代表的詠み人のひとりで、『山家集』など多くの歌集を残した平安時代の歌人・西行は、吉野を愛し、たびたび訪れている。さらに奥千本の山あいに庵を結び、3年ほど暮らしていた。 武士であった西行は23歳で出家し、諸国を行脚、73歳でこの世を去るまで2,000首を超える歌を残した。花を詠んだ歌はおよそ230首で、吉野の桜も数多い。 奥千本からさらに奥地へ、険しい道を下って、たどり着いた場所には、これが住まいかと驚くほど小さな庵・西行庵が建っていた。奥千本の桜の時期には早すぎたので、訪れる人も少ない寂しい場所の、霧に浮かぶ庵は別世界のように思えた。西行と桜については、改めて綴ってみたい。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 吉野山観光協会 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430 電話:0746-34-1007 HP:http://www.yoshinoyama-sakura.jp 吉水神社 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山579 電話:0746-32-3024 HP:http://www.yoshimizu-shrine.com Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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京都・平安京の桜 その③【松本路子の桜旅便り】
古都の桜を訪ねる旅 早咲きの桜便りが届き始めると、各地の桜のことが気になってくる。桜といえば‘染井吉野’を思い浮かべることも多いが、桜にはさまざまな名前が冠せられていることを知ってから、名前にゆかりの地をめぐる、そんな旅に興味を抱いた。 京都に原木のある桜や、ゆかりの桜を訪ねる旅の第3弾。古の都の佇まいと桜はよく似合う。今回は仁和寺と、桜守で知られる佐野藤右衛門さんの桜園を訪ねた旅の記憶を綴ってみたい。 仁和寺(にんなじ) 遅咲きの桜‘御室有明’(おむろありあけ、通称‘御室桜’) に会いたくて、桜の季節に仁和寺を訪ねた。仁和寺は仁和2年(886年)、平安時代創建という歴史ある寺院。宇多天皇が譲位後に出家して移り住んだことから、別名「御室御所」と称されるようになった。 仁王門をくぐり、直進した先に国宝の金堂が建っている。中間地点に中門が位置し、その北西に広がるのが‘御室桜’だけを集めた桜苑だ。桜木の数は200本といわれ、花の最盛期には白い雲が一面に舞うような光景が出現する。 ‘御室有明’(通称‘御室桜’) ‘御室桜’は江戸時代から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠まれている。また儒学者・貝原益軒の『京城勝覧』では、吉野の桜に比べても劣らないとし、「花見る人多くして、日々群衆せり」と、その賑わいを伝えている。 ‘御室桜’の特徴としては、見頃が4月中旬の遅咲きであるとともに、樹高が2~3mで、枝が横張り性であることが際立っている。それゆえ、ちょうど人の目線の位置に満開の花が広がって見える。背丈が伸びないのは、この土地の土質から根が張れないのが要因とされるが、詳しいことはいまだ調査中だという。花(鼻)の位置が低いことから、親しみを込めて「お多福桜」とも呼ばれる。 仁和寺には‘御室桜’以外の桜も多く、中でも‘胡蝶’は、古くから寺にあったとされる桜だ。満開時には蝶が舞うような趣があり、この名前がつけられた。開花は‘御室桜’とほぼ同時期なので、併せて晩春の京都を彩る花を楽しむことができる。 桜守・佐野藤右衛門 京都の桜旅で、忘れられない場所がある。それは佐野藤右衛門の私邸にある桜園だ。代々その名前を受け継ぎ、現在16代目の佐野藤右衛門は、祖父である14代、父の15代と、3代にわたる「桜守」として知られる。家業の造園業の傍ら、全国の桜の調査、苗木の保存・増殖に努めてきたことから、敬愛の念を込めて「桜守」と呼ばれるようになった。 『東京 桜100花』という本を私が出版した時、125種類の桜について調べたが、その中の多くが、佐野藤右衛門が発見、もしくは増殖した、とされていた。絶滅寸前の木の後継木として、佐野が育てた苗木が提供された例は数知れない。‘染井吉野’が全国の桜の8割を占めるといわれる今日にあって、これほど多彩な桜に出会うことができるのは、ひとえに「桜守」たちの尽力に他ならない。 佐野家は天保3年(1832年)創業、代々植木職人として御室御所(仁和寺)に仕えてきた。明治期より造園業を営んでおり、桂離宮や修学院離宮などの庭の整備にたずさわっている。16代佐野藤右衛門は、京都迎賓館やイサム・ノグチが設計したパリのユネスコ本部にある日本庭園の作庭などで知られる。2021年には、93歳にして‘オオシマザクラ’の大木の移植作業の陣頭指揮を現場で執り行うなど、いまだ現役だ。2022年4月には94歳になるという。 ‘佐野桜’ 私が佐野藤右衛門の桜園を訪ねたいと思ったきっかけは、桜守の名前を冠した桜があると知ったから。その‘佐野桜’をぜひ、桜守の庭で見たいと思った。‘佐野桜’は京都市右京区の広沢池畔にあった‘ヤマザクラ’の種子を1万個播いた中から選抜して育成された、という。自然交配の結果生まれた新しい種類の桜で、1930年に植物学者の牧野富太郎によって命名された。 半八重の花は、‘ヤマザクラ’より薄い紅色がかかり、ふっくらとしたつぼみや花弁が、優しげな風情を見せる。花径は3~4cmで、成長すると樹高は10mを超える。 桜守の桜園 佐野家の私邸のある敷地内に広がる桜園には、200の栽培品種約500本の桜が植えられている。入り口付近の京都円山公園にある「祇園の枝垂桜」の兄弟木をはじめとして、園内の散策路には、それぞれの桜の名前が分かるように、木の名札が立てられてあり、珍しい種類の桜に出会うことができる。 佐野藤右衛門によって保護、増殖された桜には、‘御室有明’、‘胡蝶’、‘祇王寺祇女桜’、‘大沢桜’、‘平野妹背’など、京都ゆかりの種類のほか、石川県金沢市の兼六園に原木があった‘兼六園菊桜’、宮城県で発見された‘簪桜(かんざしざくら)’などがある。 また、国内では途絶えていた‘太白’は、イギリスの園芸家の庭園で栽培されているのが分かり、接ぎ木用の枝を輸送して、1932年に里帰りさせた。当時の長い船旅から、枝は何度か枯れたが、最終的にジャガイモに枝を挿して輸送に成功したという。その話を聞いて庭の‘太白’の花を見上げると、感慨もひとしおだ。 『桜のいのち 庭のこころ』『桜守の話』など、16代佐野藤右衛門の著書を読むと、彼の桜や自然との付き合い方を知ることができる。同時に、そこには人が生きていくうえでの、たくさんの指針が籠められている。‘佐野桜’が咲く季節に桜園を訪れ、佐野氏の桜に寄せる思いの一端に触れることができたのは、何よりも得難い体験だった。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 仁和寺 住所:京都市右京区御室大内33 電話:075-461-1155 HP:https://ninnaji.jp 植藤造園 (佐野藤右衛門の桜園) 住所:京都市右京区山越中町13番地 電話:075-871-4202 FAX:075-861-7280 HP:www.uetoh.co.jp *桜の季節のみ桜園を一般公開。私邸内の庭ですので、見学のマナーには十分ご留意ください。 *2022年は、コロナ禍のため桜園の公開は中止となっております。 Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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京都・平安京の桜 その②【松本路子の桜旅便り】
桜の名前にゆかりの地を訪ねる 早咲きの桜便りが届くと、各地の桜のことが気になってくる。桜といえば‘染井吉野’を思い浮かべることも多いが、桜にはさまざまな名前が冠せられていることを知ってから、名前にゆかりの地をめぐる、そんな旅に興味を抱いた。 今回は、京都に原木のある桜や、ゆかりの桜を訪ねる旅の第2弾。古の都の風情と桜はよく似合う。 ●第1弾はこちら。 京都御所 平安京遷都から明治維新まで、天皇の住まいであった京都御所。その一部は一般公開されている。御所の正殿である紫宸殿(ししんでん)は、即位礼などの儀式を執り行う格式ある場所だが、前面に広がる白砂の庭越しに「左近の桜」と「右近の橘」が植えられているのを望むことができる。 「左近の桜」は、かつて桜ではなく梅だった。中国文化の影響で、それまで花といえば梅だったのが、平安時代になってから、日本各地で見られる桜に代わった。わが国独自の文化が成熟しつつあった時代の証が、紫宸殿の植樹にも表れているのは興味深い。「左近の桜」は、古くから日本に分布する野生の桜‘ヤマザクラ’で、平安時代から今日に至るまで、代々植え継がれている。 御所ゆかりの桜は‘御所御車返(ごしょみくるまがえし)’。慶長16年(1611年)に即位した第108代後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が、桜を見かけその美しさに御車を引き返させたところから、名前が授けられたと伝わる。原木は宜秋門前で見ることができる。 昭和初期に御所にあった原木から増殖されたといわれるのが、‘八重左近桜’。‘ヤマザクラ’の花に似るが、白色の花弁に紅色の筋が入る、気品のある花だ。 京都御苑 江戸時代には、御所を囲むように200もの宮家や公家の邸宅が建ち並んでいた。明治維新を迎え、都が東京に移ると、公家たちは天皇とともに京都の地を離れた。その後、屋敷跡地は公園として整備され、敷地は御所を含み約100万㎡に及ぶ。 苑内には約1,000本の桜があり、中でも摂政や関白を多く輩出した五摂家のひとつ近衛家の邸宅跡の約60本の‘枝垂桜’‘八重紅枝垂’は、見事な景観を作り出している。そのほか‘ヤマザクラ’、御所の南にある‘奈良の八重桜’、出水の小川付近の‘御衣黄(ぎょいこう)’ ‘市原虎の尾’ ‘平野妹背’など、京都ゆかりの桜が並ぶ。御苑の門は24時間開放されているので、早朝の花見も可能だ。 平安神宮 平安神宮は平安遷都1,100年を記念して1895年に創建された神社で、神苑は明治の造園家7代目小川治兵衛らの手により造園された。総面積約3万3,000㎡で、平安京千年の技法を結集した日本庭園とされる。池泉回遊式庭園の池を囲むそこかしこに植えられた‘枝垂桜’は、野生の‘エドヒガン’が突然変異して生まれたもので、花色が紅色のものを‘紅枝垂’、その八重の種類を‘八重紅枝垂’と呼ぶ。 平安神宮の‘八重紅枝垂’は、明治時代に仙台市長が苗木を献上したもので、市長の名前から「遠藤桜」という別名がある。もともとは京都御苑にあった苗木を増殖したものなので、「里帰り桜」とも呼ばれている。 小説家の谷崎潤一郎は、その著書『細雪』の中で、平安神宮の桜の情景を「夕空にひろがっている紅の雲」と描写している。まさに満開の桜が空一面に広がる様が、目に浮かぶようだ。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 京都御所 京都府京都市上京区京都御苑 https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/index.html 京都御苑 京都府京都市上京区京都御苑3 https://www.fng.or.jp/kyoto/ 平安神宮 京都府京都市左京区岡崎西天王町97 http://www.heianjingu.or.jp/shrine/heianjingu.html 桜の開花情報 日本気象協会:https://tenki.jp ウェザーニュース:https://weathernews.jp Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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京都・平安京の桜 その① 【松本路子の花旅便り】
桜の名前にゆかりの地を訪ねる 早咲きの桜便りが届くと、各地の桜のことが気になってくる。桜といえば‘染井吉野’を思い浮かべることも多いが、桜にはさまざまな名前が冠せられていることを知ってから、名前にゆかりの地をめぐる、そんな旅に興味を抱いた。 ‘染井吉野’は全国の桜の約8割を占める。だがこの桜が登場したのは江戸末期で、全国的に広まったのは明治になってからだ。古来日本には‘ヤマザクラ’をはじめとする野生の桜が、人々の暮らしとともにあった、その数は10種といわれている。人々は野山に出かけ満開の花の下で、妖気に酔い、散る風情に世の無常を儚む。そうした桜をめぐる豊かな文化が息づいていた。 平安時代になると、公家の手によって宮中や寺社に桜が移植され、栽培・観賞の習慣が生まれた。やがて自然界での変異や異種間での交雑、さらに人工交配によって、さまざまな栽培品種が誕生するようになった。‘奈良の八重桜’や‘枝垂桜’は、平安時代の早い時期に宮中や公家の邸宅に植えられていた。 百人一首で知られる「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」は、平安中期に女性歌人伊勢大輔(いせのたいふ)によって詠まれた歌で、奈良時代からこの花があったことを教えてくれる。 桜の栽培品種は生まれた地、花色、花の形などから名前が付けられ、今やその数は300とも400ともいわれている。 特に京都に原木のある桜は、名前も雅で、ルーツをたどるだけでも楽しい。京都に花の名所は数々あるが、そうした名前にゆかりの地を訪ねてみた。 平野神社 平野神社は794年、平安遷都と同時に奈良から遷座された歴史ある神社。現在、60種類400本の桜が見られる。平安時代に花山天皇が桜を手植えしたことをきっかけに、氏子の公家たちが珍しい品種の桜を競って神社に奉納するようになった。桜は「生命力を高める象徴」とみなされ、家の繁栄を願ってのことだ。江戸時代になると、庶民にも夜桜が解放され「平野の夜桜」として広く知られるようになった。 平野神社に原木があり、またゆかりのある桜は‘魁(さきがけ)’、‘平野寝覚(ひらのねざめ)’‘平野妹背(ひらのいもせ)’‘手弱女(たおやめ)’など。また‘楊貴妃(ようきひ)’という名の艶やかな桜花も見ごたえがある。種類によって開花時期が異なるので、3月から4月にかけて約1カ月半にわたり花を愛でることができる。 祇王寺 ‘祇王寺祇女桜(ぎおうじぎじょざくら)’という桜と出会い、その名前の由来が『平家物語』にあると知って興味を覚えた。平清盛の寵愛を受けた白拍子(歌や舞を披露する格式高い遊女)の祇王が、清盛の心変わりによって都を追われ、母と妹の祇女とともに出家をするという、悲恋の物語だ。出家後に住まいとした奥嵯峨の尼寺が、今に残る祇王寺だという。桜は19歳の若さで出家した妹の白拍子、祇女に捧げられたものだ。 嵯峨野は都の西方の郊外にあることから、別名西郊と呼ばれ、平安時代から公家や文人に愛され、離宮や山荘が建てられた。嵐山から足をのばした「竹林の小径」がよく知られている。奥嵯峨はさらに北へ行ったあたりで、『平家物語』の時代には草深い里であったのではと思われる。祇王、祇女の姉妹とその母はこの地で生涯を終え、寺の敷地内にその墓が残されている。 私が祇王寺を訪ねた数年前には‘祇王寺祇女桜’の木は見当たらず、樹齢150年を経た切り株のみだった。近年、新しく植樹されたというので、桜の季節に再訪してみたい。一時期廃寺となり、今ある草庵も明治時代に他から移築されたものだが、そのひなびた様子がゆかしい。さらに苔むした庭が静寂の中に凛とした佇まいを見せ、そこに身を置けただけでも、訪れた甲斐があったと思えた。 京都府立植物園 京都市街北部にある植物園は1924年開園の京都市民憩いの場所で、170種500本の桜が植えられている。園内では桜林の‘紅枝垂’ほか、北山門近くの桜品種見本園で、京都に原木のある桜の品種を数多く見ることができる。‘駒繋(こまつなぎ)’ ‘朱雀(すざく)’など京都らしい名前に加え、‘鬱金(うこん)’ ‘御衣黄(ぎょいこう)’など、黄緑色の花弁の桜も京都にゆかりがあるとされる。 半木の道 植物園の西側には大きな河が流れている。鴨川の上流となる賀茂川だ。川沿いをさらに上流に向かう散策路は、‘八重紅枝垂’のトンネルが幾重にも連なる「半木(なからぎ)の道」。京都の桜守、16代佐野藤右衛門により増殖された桜が約800mにわたり続いている。花のスクリーン越しに、夕刻の水面のきらめきを眺め、その日の桜めぐりを終えた。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 平野神社 住所:京都市北区平野宮本町1 電話:075-461-4450 Mail :info@hiranojinja.com HP:www.hiranojinja.com 祇王寺 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32 電話:075-861-3574(9:00~16:30) Mail:giou@giouji.or.jp HP:www.giouji.or.jp 京都府立植物園 京都市左京区下鴨半木町 電話:075-701-0141 HP:www.pref.kyoto.jp 桜の開花情報 日本気象協会: https://tenki.jp ウェザーニュース:https://weathernews.jp
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「ロズレ・ド・ライ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
‘ロズレ・ド・ライ’との出会い そのバラに最初に出会ったのは、長野県に住む作家の庭を訪ねた時だった。ルゴサ(ハマナス)系の深紅色のバラが1輪だけ咲いていて、それが‘ロズレ・ド・ライ’だった。バラ園の名前を冠したバラはいくつかあるが、パリ郊外の「ライ・レ・ローズ」は私にとって最も印象に残ったバラ園で、そのバラの名前を聞き、園内の光景が鮮やかに蘇ってきた。 バラ園の成り立ち 「ライ・レ・ローズ」(現ヴァル・ド・マルヌ) バラ園は、パリの約10km南に位置する、世界で最初のバラだけを集めた庭園。1899年に開園と歴史は古く、成り立ちもユニークだ。そこはジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux 1844-1916)という一人の男性のバラへの情熱で造られた。 グラヴローはパリ左岸にある高級百貨店、ボン・マルシェの重役だったが、48歳で引退。1894年に、農村だったライ村に1.5ヘクタールの土地を求め移り住んだ。そこで以前から興味があったバラの収集を始め、苗が1,600種類に達した時、バラ園を造ることを決意した。それまでバラは薬草、香料、切り花のために栽培されることが主で、庭の主役として観賞されることはほとんどなかったので、画期的な計画だった。 バラ園が評判を呼び人が集まるようになると、ライ村はその名前をライ・レ・ローズ(バラのライ村)に変えた。それほど人気が出たのだ。現在、バラ園はヴァル・ド・マルヌ県の所有となり名前も変わったが、ライ・レ・ローズの呼び名は今も愛称として親しまれている。 バラの設え方 グラヴローは造園師のエドゥアール・アンドレに庭の設計を依頼し、バラの設え方を試行錯誤し習得していった。現在一般的なアーチ、スクリーン、オベリスクなど、バラを立体的に見せる仕立ては、ほとんどこのバラ園で考え出されたものだ。 私が訪れた6月の初旬はまさに花の盛りで、気温が高かったこともあるが、満開の花に囲まれ花酔いをするという、稀有な経験をした。全身が花に埋もれる感覚で、軽い眩暈を覚えたのだ。 庭園デザイン バラ園は現在18ヘクタールの敷地に、約3,200種類、1万6千本の苗を数えるほどになっている。中央にフランス式の「フォーマルローズガーデン」があり、その背景となる巨大なガゼボとスクリーンにはピンクのバラ‘アレクサンドル・ジロ’が一面に花を付けていた。池のあるこの場所から、左右2方向に翼を広げるように庭が続いている。 正門から見て右手が歴史上のバラで、左手が近代バラ、さらに全体がテーマ別に13のセクションに分けられている。「フォーマルローズガーデン」「歴史上重要なバラ」「原種バラ」「ルゴサローズ」「木立バラ」「18世紀以前のガリカローズ」「マルメゾンのバラの小道」「オリエンタルローズ」「1850-1950年のオールドローズ」「海外のモダンローズ」「フランスのモダンローズ」「ティーローズの小道」「グラヴロー夫人のバラ庭」で、これらはグラヴローの研究の結果分類されたものだ。 マルメゾンのバラ 興味深いのは「マルメゾンのバラの小道」と名づけられた一画。グラヴローはバラの種類の分類や育種に熱心だったが、なかでもバラの発展に功績のあったナポレオン皇妃ジョゼフィーヌの館、マルメゾンのバラの研究に力を尽くした。ジョゼフィーヌの時代から1世紀が過ぎていて、資料も散逸していたが、彼は3年の月日をかけてマルメゾンに250種類のバラがあったことを調べ上げた。さらにそのうちの198種類を集め、育てた。 私は‘エンプレス・ジョゼフィーヌ’、‘マリー・ルイーズ’、‘スヴニール・ド・ラ・マルメゾン’など、一つひとつの花の名前を確かめながら小道を歩いた。200年前のジョゼフィーヌゆかりのバラに出会える喜び、そしてそれらを今に伝えた先人たちの想いをかみしめながら。 バラ‘ロズレ・ド・ライ(Roseraie de l’Hay)’ 1901年、フランスのチャールズ・ピエール・マリー・コシェ作出。「ライ・レ・ローズ」バラ園を造ったグラヴロー氏によって命名されたといわれる。 シュラブローズで、ハイブリッド・ルゴサ(ハマナスの交配種)。花径約7cmで、紫がかった深紅色の多くの花弁を持つ。5月から11月までよく返り咲き、強い香りを放つ。樹高約2.5m、樹形は直立性で、半つるとしても設えられる。剛健種で育てやすい。 Information Roseraie du Val-de-Marne(L’Hay-les-Roses) 住所:Rue Albert Watel 94240 L’Hay-les-Roses France 電話:01 47 40 04 04 https://roseraie.valdemarne.fr 開園:5月中旬~9月 10:00~20:00 入場料:大人4€、子ども(5歳から15歳)・60歳以上・学生など2€、5歳以下無料 アクセス:パリから地下鉄7号線、Porte D’ltalie駅下車。バス184または186(祝日は286)、l’Hay-les Roses Sour-Prefecture Eglise 下車。 *開園状況は変わることがありますので、お出かけの際はご確認ください。
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「マリア・テレジア」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラ‘マリア・テレジア’との出会い そのバラを最初に見かけたのは、千葉県にあるバラ園だった。ピンクの花を房いっぱいに咲かせた姿は、ヨーロッパで一大帝国を築いた女帝マリア・テレジアに相応しい気品と華やかさに満ちていた。私にとってその名前は、はるか昔に訪れた、ウィーンのシェーンブルン宮殿とその庭園の記憶を呼び覚ますものだった。 女帝誕生物語 18世紀ヨーロッパで、広大な領地を統治したハプスブルク帝国。その最盛期、実質上の為政者が、マリア・テレジア(Maria Theresia 1717-1780)だった。生涯で16人の子どもを出産し、のちにフランス王妃となったマリー・アントワネットは、彼女の16番目の子どもである。 マリア・テレジアは1717年、オーストリア、ウィーンの王宮で、神聖ローマ帝国の皇帝カール6世の娘として生まれた。両親は彼女を「レースル」と呼び、慈しんだ。当時、帝国の君主の座は男子が継承することに定められていたが、男子が誕生しなかったので、皇帝は彼女に相続させたいと考えていた。 迎え入れた夫フランツが、皇帝フランツ1世となり、皇后である彼女が共同統治者として君臨。フランツは政治的手腕に乏しく、実権を握っていたのは彼女だった。当時、ヨーロッパ各地で領土争いが絶えず、プロイセン王フリードリッヒをはじめとした近隣諸国からの侵略を防ぐことに心を砕いている。ハプスブルク帝国の統治者であると同時に、オーストリア女大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあり、複雑な領土問題が彼女を悩ませていた。 こうした中にあって、国内では司法制度の独立、学校制度の新設、軍隊の新設などの改革を行い、帝国を中央集権国家として築き上げている。領土問題については、外交に力を注ぎ、長年の宿敵であったフランスと同盟を結ぶという大胆な決断を下している。彼女の子どもたちの何人かは、両国の同盟を強固にすべく、当時フランスを統治していたブルボン家と婚姻関係を結んでいる。 妻、そして母として マリア・テレジアが夫となるフランツと出会ったのは、6歳の時。フランツは15歳だった。国家間が取り決めた縁談だったが、彼女は彼を見るなり恋に落ち、2人は相思相愛の仲となった。1736年に結婚し、20年に満たない間に16人の子どもをもうけている。夫は政治的手腕には乏しかったが、財産管理や殖産能力にたけ、その方面で彼女をサポートしていた。 5男11女の16人の子どものうち、長生したのは10人。夫フランツ1世亡き後、長男のヨーゼフが皇帝となり、彼女は息子の共同統治者として帝国に君臨し続けた。子どもたちが宮殿や庭園で遊ぶ姿を眺め、母親としての喜びに浸っていたという。同時に「王家に生まれたからには、国家の政略に従って婚姻を結ぶのが当然の義務」と公言し、実際、子どもたちはヨーロッパ各国の統治者やその妃となっている。 マリー・アントワネットとの往復書簡 マリア・テレジアの末娘、マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)は「外交革命」といわれたオーストリア=フランス同盟が成立した翌年に生まれた。両国の同盟強化のための婚姻が図られ、アントワネットは14歳でフランス国王ルイ15世の息子(後のルイ16世)のもとに向かった。 マリア・テレジアは自由奔放に育った娘の行く末を案じて、毎月母親に手紙を書くことを命じている。母からは「愛しい娘へ」、娘からは「愛するお母様」で始まる母と娘の往復書簡は、マリア・テレジアが他界するまでの11年間続いた。母からは167通、娘からは93通という数の手紙が交わされたという。2人の書簡集はウィーンで1980年に出版され、日本語訳は『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(パウル・クリストフ編、藤川芳朗訳、岩波書店刊)として、2002年に刊行されている。 書簡集を読むと、マリア・テレジアは王太子妃、さらに王妃となったアントワネットに、フランス王室での振る舞いを助言すると同時に、「ハプスブルク家の娘としての誇りを忘れないように」と繰り返し伝えている。アントワネットもウィーンでの日々を懐かしみ、幼い頃の兄弟との光景を描いた絵画を母親に所望している。ベルサイユ宮殿の離宮、プチ・トリアノンの1階には、今も母親から贈られた絵が2点飾られている。私がその絵を見た時、最初はアントワネットの子どもたちが描かれているのではと思ったが、往復書簡の中に母親が壁の寸法を問うくだりがあり、アントワネットの子ども時代の絵だと知った。 マリア・テレジアは亡くなるまで、アントワネットの行く末を案じていた。フランス革命で、アントワネットが断頭台の露と消えたことは知る由もない。だがアントワネットはフランス王妃として、またマリア・テレジアの娘として、誇り高く死に臨んでいった。 シェーンブルン宮殿と庭園 マリア・テレジアは歴代君主が夏の離宮としていたウィーン郊外のシェーンブルンの建物を大改造し、現在に残る宮殿として整備した。バロック様式の外観で、室内はロココ様式で装飾され、部屋数は1,441を数える。「美しい泉」を意味するシェーンブルンは、家族にとってくつろげる地で、ウィーンにある王宮よりこちらで過ごすことが多かったという。 東西1.2km、南北1kmにわたる庭園の造園は、夫である皇帝フランツ1世が尽力し、フランス式庭園とともに、フラワーガーデン、野菜園、果樹園を備えていた。また植物園、動物園も併設され、大温室と4つの小温室には、椰子の木やヨーロッパでは知られていなかった南米の蘭など、4万5千種の植物が集められていた。緑豊かな庭園は子どもたちにとって格好の遊び場であり、政務に追われるマリア・テレジアにとってもかけがえのない憩いの場であった。 女帝としての生涯 彼女は1765年に夫に先立たれた後、亡くなるまでの15年間を喪服で過ごしている。息子との共同統治期を含め、40年間の女帝としての生涯は、市民とのふれあいを欠かさず「どうしたら国民を幸福にできるか」と問い続ける日々。世界遺産となったシェーンブルン宮殿とともに、今もハプスブルク帝国の統治者として歴史に名を残すひとりの女性。生涯を知るにつれ、その偉大さと同時に、妻や母として生きた等身大の女性の姿が浮かび上がってくる。 バラ‘マリア・テレジア(Maria Theresia)’ 2003年、ドイツのタンタウ作出のシュラブローズ。花色はソフトピンクで中心部は濃く、花弁が波打つクラシカルで優美な花姿。花径は6〜7cm 。クオーター・ロゼット咲きで、ひと房に4〜5輪の花を付ける。花付きもよく、繰り返し咲く。 樹形は横張り性で、樹高は1.2〜1.5m。樹勢が強く、半つる性としてアーチやトレリスに設えることも可能。病気や耐暑性に強く、鉢植えにも適している。 Information シェーンブルン宮殿 Schloss Schonbrunn 住所:Schonbrunner Schlosstrase 47 1130 Wien Austria 電話:+43 1 811 13-0 開場:月曜~日曜、9:30~17:00 開園:6:30~17:30 E-mail:info@schoenbrunn.at HP: www.schoenbrunn.at 入場料:見学コース別の料金(ホームページに日本語案内あり) アクセス:ウィーン市内から地下鉄4番線Schonbrunn下車、徒歩8分 トラム10,60番でSchloss Schonbrunn下車、徒歩3分
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伊豆・河津桜物語【松本路子の花旅便り】
早春の桜便り 毎年2月になると、静岡県東部にある伊豆から桜が咲き始めたという便りが届く。4月に開花する染井吉野ではなく、早咲きの河津桜だ。今では伊豆だけでなく、全国で植栽され、早春の桜として知られるようになった河津桜。その誕生物語は、奇跡とも思えるものだ。 わが家のバルコニーにも2本の木が育っていて、鉢植えながらけなげに花を咲かせる。まだ寒い季節に、これから訪れる春を予感させ、気持ちをほっこりと温めてくれる貴重な存在だ。 河津桜、そのルーツ 河津桜は静岡県の河津町で、1955年頃に川沿いの雑草の中で苗木が発見され、発見者の故・飯田勝美さんの家の庭先に移植された。10年目に開花し、大木となったその原木は、今も同地で花を付ける。 2月上旬から、淡い紅色の花が1カ月近く咲き続けることから注目を集め、60年代から有志の手によって増殖されるようになった。その後、調査で新種の桜であることが判明し、発見された地にちなんで、1974年に河津桜(かわづざくら)と命名された。 河津桜は伊豆半島に自生する野生の桜オオシマザクラと、他種の桜との自然交配の結果生まれたもので、一方の親はカンヒザクラと推測されている。オオシマザクラは伊豆大島に多く分布し、その名が付けられた。開花期は3月下旬頃だが、1月下旬に咲く「寒咲大島」もある。 一方のカンヒザクラも野生の桜で、主に沖縄に分布するが、江戸時代後期には関東地方でも栽培されていた。沖縄では1月下旬頃から開花する。オオシマザクラは白色で、カンヒザクラは緋色の花を付けるので、河津桜はその中間の花色といえるのかもしれない。いずれにしても2種類の桜がどのように出会って、交配に至ったか、自然界の不思議を感じさせる出来事だ。 河津川沿いの桜並木 1本の原木から増殖された苗木が、今や現地では8,000本を数えるほど植栽されている。中でも河津川両岸の桜並木は4kmにわたる見事なもので、河津駅近くの河口から上流に向かい約850本の桜が続き、花のトンネルを散策できる。 染井吉野の花が10日ほどで散るのにくらべて、河津桜はたくさんのつぼみが徐々に花開き、花もちもよいので、1カ月ほど花の見頃が続く。例年花の季節に「河津桜まつり」が開催され、2021年は中止となったが、2022年は一部のイベントを除いて開かれる。 わが家の河津桜 河津桜が初めてわが家のバルコニーにやってきたのは、20年ほど前のこと。伊豆から到来した苗木だったが、数年後に、成長しすぎて友人の広い庭に地植えしてもらった。当時は鉢植えの木の扱い方がよく分かっていなかったのだ。 十数年前に河津町の生花店で苗木を求め、再び栽培にチャレンジ。バラと同じように冬の休眠期に鉢の土替えをすると、2mの高さで安定して育つようになった。考えてみれば、桜もまたバラ科の植物なのだ。4階の東側のバルコニーは日当たりがよいので、年によっては1月下旬から開花する。 鉢植えの桜 鉢植えのよいところは、動かせること。普段はバルコニーの隅に置いてある鉢を、つぼみがほころび始めたところで、中央のテーブル近くに移動させる。暖かい日には桜花の下でティータイム、そしてリビングルームから花見ができる。夜はライトアップして、ささやかな夜桜見物も。 桜が咲くと、頻繁に訪れてくるのがメジロ。花の蜜が大好物のこの鳥が、窓辺の木の枝に止まり、夢中で蜜を吸う姿が見られる。食用には適さないが、サクランボも実り、小さな果実は見ているだけで楽しい。青い実が熟し、赤くなると、小鳥たちがやってきてそれをついばんでいる。 Information 第32回「河津桜まつり」 会期:2022年2月1日~28日 アクセス: 車 東名沼津ICから河津町まで、約1時間20分。東名厚木ICから河津町まで、約2時間30分 電車 JR東京駅から特急踊り子号で、伊豆急河津駅まで約2時間40分。新幹線熱海駅から伊豆急行で、伊豆急河津駅まで約1時間30分 開花情報:電話 0558-34-1560 事務局:河津町観光協会 www.kawazu-onsen.com info@kawazu-onsen.com
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「オマージュ・ア・バルバラ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
‘オマージュ・ア・バルバラ’との出会い そのバラに出会ったのは、友人の家の庭だった。例年、自宅のバラの花見客の接待に忙しく、友人宅のバラを見に出かけるのは、たいてい花の盛りを過ぎた頃になってしまう。そうした出遅れた客を今を盛りと迎えてくれるのが、遅咲きの‘オマージュ・ア・バルバラ’だ。 フランスのシャンソン歌手バルバラに捧げられたそのバラは、光沢を帯びた深みのある黒紅色で、孤高の歌い手に相応しい気品と佇まいを見せている。 バルバラの曲の記憶 バルバラの歌を初めて聴いたのは、パリのシャンソン・バーだった。歌い手はバルバラ本人ではなく、パリ在住の日本人歌手の写真を撮っていた時で、彼女が歌ったのがバルバラの「リラの花咲く時」。当時はフランス語の歌詞の意味が解らなかったが、胸の底に秘めた哀しみが色濃く迫ってくる。だがどこか明るい、そんな曲に惹かれた。 過ぎ去った リラの花咲く季節、 バラが贈られてくる時も、 愛の誓いの時も、 永遠の、永遠の時も、 私を置き去りにしていった。アドレスも残さずに。 時は去った。さようなら、ベルト。 もしもあなたが時を見かけたら、 連れてきて、 美しいリラの季節を。 (松本訳) 私が自宅のバルコニーでリラ(英名ライラック)の木を育て始めたのは、パリでこの曲を聴いた記憶が、心のどこかに潜んでいたからかも知れない。ずっとそのことに気づかずに、リラの花を愛でていた。 シャンソン歌手への道 いつも黒い衣装に身を包み、ピアノの弾き語りで自作の歌を歌う。その歌詞は、日常の出来事や恋など、自身の心情を切り取ったものが多い。体験や内面を淡々と投げかけるように歌うので、かえって聴き手の胸に迫ってくる。 バルバラ(Barbara 1930-1997)、本名モニック・アンドレ・セールは、パリ17区で生まれた。ユダヤ人の両親のもと、ドイツ軍が占領中の第二次世界大戦下のフランスで、迫害を逃れるため転々と住まいを変える生活が続いた。貧しい生活の中で歌を学び始め、周囲からはクラシックの道を勧められたが、彼女はミュージックホールで歌うことを望んだ。 「私は人びとの言葉、メロディを歌いたかった。独りピアノに向かって話しかけ、ささやき語り、怒り、告発し、荒れ狂い、ユーモアを放ち、最後に『愛』を歌いたかった」 (自伝より。小沢君江訳) シャンソンの女王誕生 18歳の時、パリの劇場のオーディションに受かり、その片隅で歌い始めた。それは歌手としての長い放浪生活の始まりでもあった。1950年代末、キャバレー「レクリューズ」と契約したのをきっかけに、徐々にバルバラとしての独自の舞台スタイルや曲の世界が出来上がった。その後、大きな舞台で歌う機会が増え、曲がレコード化されてヒット曲も生まれた。やがてフランス、シャンソン界の女王と称される存在になっていった。 代表曲 最初に注目されたのが、「ナントの街に雨が降る」(原題Nantes)だった。発表当時は明かされていなかったが、この曲は10年前に家を出て消息不明だった父親の死を知らされ、ナント(フランス西部ロワール河岸の街)の病院に駆けつけた時のことを歌っている。彼女の代表曲は多いが、中でもこの曲と、もう一つ「黒い鷲」が知られている。いずれも父親のことを歌っていると思われる。 自伝「一台の黒いピアノ」 バルバラは、亡くなる1年前から、遺書ともいえる自伝を書き始めた。それは未完の回想だったが、1998年に遺族の手で出版された。自伝は彼女の少女時代から、自分のピアノとともに世界各地への演奏旅行に出かけられるようになるまでを綴っている(日本語版『バルバラ 一台の黒いピアノ…』2013年、緑風出版刊)。 その中で、「リラの花咲く時」の曲が生まれた背景を語っている。独りの男性との狂おしい愛の日々。その幸せの絶頂期に、恋人は彼女にピアノを弾くことと、歌うことを止めるよう求めた。 「わたしはHを失うことを受け入れ、高々とわたし自身の帆を上げた。わたしは『歌う女』の人生という、美しいものに向かって進み始めた」 (自伝より。小沢君江訳) 「リラの花咲く時」は、失った恋を詠った曲だが、どこか心地よく響いたのは、そんな彼女の決意が根底にあったからだと納得させられた。 バルバラは、自伝の中で、父親との関係で衝撃的な事実を明かしている。その恥辱が生涯彼女を苦しめていた。そうした父親とのことを歌った曲が、代表曲とされたのは、さぞ複雑な思いだったに違いない。 バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’「Hommage a Barbara」 バルバラの曲を改めて聴き、自伝を紐解くと、その人生の深淵に至る。今や伝説と化した歌い手は、生涯にわたって自分の言葉で思いを伝え続けたのだ。黒い衣装で、黒いピアノを愛したその人に相応しく、バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’は、黒紅色のベルベットのような花姿で、見るものを魅了する。 バラはフランスのデルバールによって、2004年に作出された。フリルがかった八重の房咲きの花で、花径6〜8cmの中輪。四季咲きでよく返り咲き、開花の期間も長い。樹高0.8~1m、樹形は半横張り性で、耐病性が強く、鉢栽培にも適している。
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ストーリー

「オードリー・ヘプバーン」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
バラとの出会い バラ‘オードリー・ヘプバーン(ヘップバーン)’と出会ったのは、友人宅のバラ庭だった。淡いサーモンピンクの花弁の縁にピンクのぼかしが入る清楚な花姿が、いかにも女優その人、といった趣のバラだ。女優としてのオードリー・ヘプバーンは世界的に知名度が高いが、晩年スイスの自宅で庭仕事に勤しんでいたことは、あまり知られていないだろう。 何年か前に、「オードリー・へプバーンの庭園紀行」というテレビ番組を見たことがある。アメリカで制作されたシリーズ番組で、彼女の庭への愛と見識が溢れた内容だった。バラ‘オードリー・ヘプバーン’は、この番組制作中の1991年に、彼女に捧げられたものだ。 女優オードリー・ヘプバーン 映画「ローマの休日」を最初に見たのは、いつの頃だったろう。少女時代にその物語に胸をときめかせた記憶は鮮明に残っている。ヨーロッパ某国の王女アンが、親善旅行の途中のローマで滞在先のホテルからひとり抜け出し、アメリカ人新聞記者と恋に落ちるストーリー。ローマの街を背景に、王女の冒険と二人の恋模様が鮮やかに描かれている。何よりもアンを演じるヘプバーンのチャーミングで、気品あふれる姿が印象的だった。 ヘプバーンは1953年に発表されたこの作品が映画の主役デビューで、鮮烈な登場で世界中を熱狂させたといっても過言ではない。以来、「麗しのサブリナ」(1954)、「尼僧物語 」 (1959)、「ティファニーで朝食を」(1961)、「マイ・フェア・レディ」(1964)、「暗くなるまで待って」(1967) と、映画史に残る名作への出演が続く。1970年以降、映画への出演は少なくなったが、代表作は繰り返し上映されるので、当時のイメージは色褪せないままだ。 女優への道 オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn, 1929-1993)は、1929年にベルギー、ブリュッセルで生まれた。イギリス人の父とオランダ人の母のもと、オランダやイギリスで幼年期を過ごしている。第二次世界大戦時、ドイツ占領下のオランダで苦しい生活を体験したことから、のちにユニセフ親善大使として、世界各地の紛争地の子どもたちを援助する活動に携わっている。 オランダやイギリスでバレエを習い、バレリーナを目指したが、プリマとしては170cmと身長が高すぎたことから断念、女優の道を選んだという。フランスの小説家、ガブリエル・コレットに見いだされて、ブロードウェイの舞台「ジジ」で初めて主役の座を射止めた。その舞台姿から「ローマの休日」への出演が決まったので、コレットが世に出した女優ともいわれている。当時は無名の女優が映画の主役に抜擢されるのは異例のことだった。 スイスでの生活 ヘプバーンは、プライベートでは2度の結婚、離婚を経験し、2人の子どもを育てている。晩年はスイス、レマン湖畔のトロシュナ村に居を構えていた。18世紀に建てられた農家を改装した住まいにパートナーと暮らし、敷地内にある果樹園や野菜畑、庭園で木々や草花、野菜を育てる日々。自ら草取り、接ぎ木、刈り込みをする、と語っている。 「私は草花の手入れをしながら、ゆっくりと空を見上げ、多くの時間を庭で過ごします。夏には湖から激しい風がやってきて、とうもろこしなどは倒れてしまいます。しかし棒で支えると再び立ち上がります。植物の力は驚くべきもので、少しの手助けで生き続けるのです。私は庭があるだけで幸せを感じます」 庭園紀行①テレビドキュメンタリー 今回あらためて『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』(Garden of the World with Audrey Hepburn)を見てみたいと、DVD BOXを手に入れた。世界7カ国17庭園をヘプバーンが訪れ、案内役として登場。30分、全8回シリーズの番組が4枚のディスクに収められ、日本版には「美しさを求めて」というメイキングやインタヴュー映像の1枚が添えられている。その中で印象的なのが「庭園と花が大好きなので、この仕事に胸を躍らせました」という彼女の言葉だ。 撮影は1990年の春から夏にかけて行われ、放映は1993年1月から。1回目の放送は、くしくも彼女が亡くなった翌日だった。 庭園紀行②バラとチューリップ 番組の第1回目は「バラとバラ園」。バラの花を愛したヘプバーンは、フランス、パリ郊外のバラ園ライ・レ・ローズ(現ヴァル・ド・マルヌ県バラ園)からスタートし、バラの魅力、その歴史などを語っている。ライ・レ・ローズのほか、ジヴェルニーのクロード・モネの庭、パリのバガテル公園バラ園など、私が訪れたことのある場所が登場するので、感慨深いものがある。 ヘプバーンはバラと同様に、チューリップの花を愛していた。番組2回目「チューリップと春の球根草」では、オランダ、キューケンホフ公園のチューリップの花壇や球根栽培畑などが色彩豊かに映し出される。メイキング映像では、純白のチューリップに‘オードリー・へプバーン’という名前が冠され、その命名式がヘプバーン一族所有のドールン城で行われた光景も描かれている。 庭園紀行③さまざまな庭園物語 番組3回目以降は、「整形式庭園」「フラワー・ガーデン」「カントリー・ガーデン」「公園と樹木」「日本の庭園」「トロピカル・ガーデン」と続く。「日本の庭園」はヨーロッパから遠いので、最初の予定には入っていなかった。だが、彼女は西芳寺、龍安寺、大仙院、龍源院、金地院、平安神宮、桂離宮、真々庵を訪ね、「日本のどの景色をとっても、風流な調和を生み出そうとしている、その心遣いが汲み取れます。日本人にとってこの庭園という世界は、存在する数々の世界の中で、最も美しい場所であり続けるのです」と語っている。 庭園紀行④衣装とナレーション へプバーンは番組出演が決まると、ニューヨークのデザイナー、ラルフ・ローレンのオフィスで、個々の庭園に合わせた服を自ら選んだ。ほとんどが白か紺色、パステルカラーの衣装で、主役である庭園に寄り添うように心を砕いたという。その姿は楚々として、美しい年のとり方をしていると思える佇まいを見せている。 庭園を語るナレーションは奇麗な英語で、何よりも「ローマの休日」以来変わらぬ独特の甘い声と、語り口調を聴けるのが嬉しい。 バラ‘オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)’ バラ‘オードリー・へプバーン’は、1991年にアメリカの育種家ジェリー・F・トゥーミーによって作出された。この年の初頭、アメリカで庭園紀行のシリーズ番組に先だって、1時間のスペシャル番組が放映されている。作出者はヘプバーンのバラへの深い愛を感じて、新しく生まれたバラを彼女に捧げたいと思ったのではないだろうか。 バラは柔らかなサーモンピンクの花色で、「ローマの休日」で登場した頃の、女優の初々しい姿を彷彿させる。花径が10〜12cmと大輪、丸弁八重の四季咲き。樹高は0.8m、樹形は半直立性で、鉢植えにも適している。


















