バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによる、バラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、花弁が波打つクラシカルで優美な花姿のバラ‘マリア・テレジア’を、女帝マリア・テレジアの人物像とともに紹介します。
目次
バラ‘マリア・テレジア’との出会い
そのバラを最初に見かけたのは、千葉県にあるバラ園だった。ピンクの花を房いっぱいに咲かせた姿は、ヨーロッパで一大帝国を築いた女帝マリア・テレジアに相応しい気品と華やかさに満ちていた。私にとってその名前は、はるか昔に訪れた、ウィーンのシェーンブルン宮殿とその庭園の記憶を呼び覚ますものだった。
女帝誕生物語
18世紀ヨーロッパで、広大な領地を統治したハプスブルク帝国。その最盛期、実質上の為政者が、マリア・テレジア(Maria Theresia 1717-1780)だった。生涯で16人の子どもを出産し、のちにフランス王妃となったマリー・アントワネットは、彼女の16番目の子どもである。
マリア・テレジアは1717年、オーストリア、ウィーンの王宮で、神聖ローマ帝国の皇帝カール6世の娘として生まれた。両親は彼女を「レースル」と呼び、慈しんだ。当時、帝国の君主の座は男子が継承することに定められていたが、男子が誕生しなかったので、皇帝は彼女に相続させたいと考えていた。
迎え入れた夫フランツが、皇帝フランツ1世となり、皇后である彼女が共同統治者として君臨。フランツは政治的手腕に乏しく、実権を握っていたのは彼女だった。当時、ヨーロッパ各地で領土争いが絶えず、プロイセン王フリードリッヒをはじめとした近隣諸国からの侵略を防ぐことに心を砕いている。ハプスブルク帝国の統治者であると同時に、オーストリア女大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあり、複雑な領土問題が彼女を悩ませていた。
こうした中にあって、国内では司法制度の独立、学校制度の新設、軍隊の新設などの改革を行い、帝国を中央集権国家として築き上げている。領土問題については、外交に力を注ぎ、長年の宿敵であったフランスと同盟を結ぶという大胆な決断を下している。彼女の子どもたちの何人かは、両国の同盟を強固にすべく、当時フランスを統治していたブルボン家と婚姻関係を結んでいる。
妻、そして母として
マリア・テレジアが夫となるフランツと出会ったのは、6歳の時。フランツは15歳だった。国家間が取り決めた縁談だったが、彼女は彼を見るなり恋に落ち、2人は相思相愛の仲となった。1736年に結婚し、20年に満たない間に16人の子どもをもうけている。夫は政治的手腕には乏しかったが、財産管理や殖産能力にたけ、その方面で彼女をサポートしていた。
5男11女の16人の子どものうち、長生したのは10人。夫フランツ1世亡き後、長男のヨーゼフが皇帝となり、彼女は息子の共同統治者として帝国に君臨し続けた。子どもたちが宮殿や庭園で遊ぶ姿を眺め、母親としての喜びに浸っていたという。同時に「王家に生まれたからには、国家の政略に従って婚姻を結ぶのが当然の義務」と公言し、実際、子どもたちはヨーロッパ各国の統治者やその妃となっている。
マリー・アントワネットとの往復書簡
マリア・テレジアの末娘、マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)は「外交革命」といわれたオーストリア=フランス同盟が成立した翌年に生まれた。両国の同盟強化のための婚姻が図られ、アントワネットは14歳でフランス国王ルイ15世の息子(後のルイ16世)のもとに向かった。
マリア・テレジアは自由奔放に育った娘の行く末を案じて、毎月母親に手紙を書くことを命じている。母からは「愛しい娘へ」、娘からは「愛するお母様」で始まる母と娘の往復書簡は、マリア・テレジアが他界するまでの11年間続いた。母からは167通、娘からは93通という数の手紙が交わされたという。2人の書簡集はウィーンで1980年に出版され、日本語訳は『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(パウル・クリストフ編、藤川芳朗訳、岩波書店刊)として、2002年に刊行されている。
書簡集を読むと、マリア・テレジアは王太子妃、さらに王妃となったアントワネットに、フランス王室での振る舞いを助言すると同時に、「ハプスブルク家の娘としての誇りを忘れないように」と繰り返し伝えている。アントワネットもウィーンでの日々を懐かしみ、幼い頃の兄弟との光景を描いた絵画を母親に所望している。ベルサイユ宮殿の離宮、プチ・トリアノンの1階には、今も母親から贈られた絵が2点飾られている。私がその絵を見た時、最初はアントワネットの子どもたちが描かれているのではと思ったが、往復書簡の中に母親が壁の寸法を問うくだりがあり、アントワネットの子ども時代の絵だと知った。
マリア・テレジアは亡くなるまで、アントワネットの行く末を案じていた。フランス革命で、アントワネットが断頭台の露と消えたことは知る由もない。だがアントワネットはフランス王妃として、またマリア・テレジアの娘として、誇り高く死に臨んでいった。
シェーンブルン宮殿と庭園
マリア・テレジアは歴代君主が夏の離宮としていたウィーン郊外のシェーンブルンの建物を大改造し、現在に残る宮殿として整備した。バロック様式の外観で、室内はロココ様式で装飾され、部屋数は1,441を数える。「美しい泉」を意味するシェーンブルンは、家族にとってくつろげる地で、ウィーンにある王宮よりこちらで過ごすことが多かったという。
東西1.2km、南北1kmにわたる庭園の造園は、夫である皇帝フランツ1世が尽力し、フランス式庭園とともに、フラワーガーデン、野菜園、果樹園を備えていた。また植物園、動物園も併設され、大温室と4つの小温室には、椰子の木やヨーロッパでは知られていなかった南米の蘭など、4万5千種の植物が集められていた。緑豊かな庭園は子どもたちにとって格好の遊び場であり、政務に追われるマリア・テレジアにとってもかけがえのない憩いの場であった。
女帝としての生涯
彼女は1765年に夫に先立たれた後、亡くなるまでの15年間を喪服で過ごしている。息子との共同統治期を含め、40年間の女帝としての生涯は、市民とのふれあいを欠かさず「どうしたら国民を幸福にできるか」と問い続ける日々。世界遺産となったシェーンブルン宮殿とともに、今もハプスブルク帝国の統治者として歴史に名を残すひとりの女性。生涯を知るにつれ、その偉大さと同時に、妻や母として生きた等身大の女性の姿が浮かび上がってくる。
バラ‘マリア・テレジア(Maria Theresia)’
2003年、ドイツのタンタウ作出のシュラブローズ。花色はソフトピンクで中心部は濃く、花弁が波打つクラシカルで優美な花姿。花径は6〜7cm 。クオーター・ロゼット咲きで、ひと房に4〜5輪の花を付ける。花付きもよく、繰り返し咲く。
樹形は横張り性で、樹高は1.2〜1.5m。樹勢が強く、半つる性としてアーチやトレリスに設えることも可能。病気や耐暑性に強く、鉢植えにも適している。
Information
シェーンブルン宮殿 Schloss Schonbrunn
住所:Schonbrunner Schlosstrase 47 1130 Wien Austria
電話:+43 1 811 13-0
開場:月曜~日曜、9:30~17:00
開園:6:30~17:30
E-mail:info@schoenbrunn.at
入場料:見学コース別の料金(ホームページに日本語案内あり)
アクセス:ウィーン市内から地下鉄4番線Schonbrunn下車、徒歩8分
トラム10,60番でSchloss Schonbrunn下車、徒歩3分
Credit
写真&文 / 松本路子 - 写真家/エッセイスト -
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
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