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「オマージュ・ア・バルバラ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】

「オマージュ・ア・バルバラ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】

バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによる、バラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、フリルと優雅な巻きの花弁が美しいバラで、シャンソンの女王の名を冠した‘オマージュ・ア・バルバラ’をご紹介します。

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‘オマージュ・ア・バルバラ’との出会い

バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’
黒紅色のバラは、いつも黒い衣装に身を包み、ステージに立つシャンソン歌手バルバラを彷彿させる花姿だ。

そのバラに出会ったのは、友人の家の庭だった。例年、自宅のバラの花見客の接待に忙しく、友人宅のバラを見に出かけるのは、たいてい花の盛りを過ぎた頃になってしまう。そうした出遅れた客を今を盛りと迎えてくれるのが、遅咲きの‘オマージュ・ア・バルバラ’だ。

バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’
フリルと優雅な巻きの花弁に、思わず引き込まれてしまう。

フランスのシャンソン歌手バルバラに捧げられたそのバラは、光沢を帯びた深みのある黒紅色で、孤高の歌い手に相応しい気品と佇まいを見せている。

バルバラの曲の記憶

バルバラの歌を初めて聴いたのは、パリのシャンソン・バーだった。歌い手はバルバラ本人ではなく、パリ在住の日本人歌手の写真を撮っていた時で、彼女が歌ったのがバルバラの「リラの花咲く時」。当時はフランス語の歌詞の意味が解らなかったが、胸の底に秘めた哀しみが色濃く迫ってくる。だがどこか明るい、そんな曲に惹かれた。

過ぎ去った リラの花咲く季節、

バラが贈られてくる時も、

愛の誓いの時も、

永遠の、永遠の時も、

私を置き去りにしていった。アドレスも残さずに。

時は去った。さようなら、ベルト。

もしもあなたが時を見かけたら、

連れてきて、

美しいリラの季節を。

(松本訳)

私が自宅のバルコニーでリラ(英名ライラック)の木を育て始めたのは、パリでこの曲を聴いた記憶が、心のどこかに潜んでいたからかも知れない。ずっとそのことに気づかずに、リラの花を愛でていた。

シャンソン歌手への道

いつも黒い衣装に身を包み、ピアノの弾き語りで自作の歌を歌う。その歌詞は、日常の出来事や恋など、自身の心情を切り取ったものが多い。体験や内面を淡々と投げかけるように歌うので、かえって聴き手の胸に迫ってくる。

バルバラ
2001年にフランスで発行された、バルバラのステージ写真が印刷された切手。Sergey Goryachev/Shutterstock.com

バルバラ(Barbara 1930-1997)、本名モニック・アンドレ・セールは、パリ17区で生まれた。ユダヤ人の両親のもと、ドイツ軍が占領中の第二次世界大戦下のフランスで、迫害を逃れるため転々と住まいを変える生活が続いた。貧しい生活の中で歌を学び始め、周囲からはクラシックの道を勧められたが、彼女はミュージックホールで歌うことを望んだ。

「私は人びとの言葉、メロディを歌いたかった。独りピアノに向かって話しかけ、ささやき語り、怒り、告発し、荒れ狂い、ユーモアを放ち、最後に『愛』を歌いたかった」

(自伝より。小沢君江訳)

シャンソンの女王誕生

18歳の時、パリの劇場のオーディションに受かり、その片隅で歌い始めた。それは歌手としての長い放浪生活の始まりでもあった。1950年代末、キャバレー「レクリューズ」と契約したのをきっかけに、徐々にバルバラとしての独自の舞台スタイルや曲の世界が出来上がった。その後、大きな舞台で歌う機会が増え、曲がレコード化されてヒット曲も生まれた。やがてフランス、シャンソン界の女王と称される存在になっていった。

代表曲

バルバラ・ベストのCD
2017年にユニバーサルミュージックから発売された、バルバラ・ベストのCDジャケット写真。今も世界各地で、さまざまなベストアルバムが発売され続けている。

最初に注目されたのが、「ナントの街に雨が降る」(原題Nantes)だった。発表当時は明かされていなかったが、この曲は10年前に家を出て消息不明だった父親の死を知らされ、ナント(フランス西部ロワール河岸の街)の病院に駆けつけた時のことを歌っている。彼女の代表曲は多いが、中でもこの曲と、もう一つ「黒い鷲」が知られている。いずれも父親のことを歌っていると思われる。

バルバラベスト
「黒い鷲」を筆頭に、「我が麗しき恋物語」「ナントに雨が降る」「ピエール」など、全12曲が収められたCD。

自伝「一台の黒いピアノ」

バルバラは、亡くなる1年前から、遺書ともいえる自伝を書き始めた。それは未完の回想だったが、1998年に遺族の手で出版された。自伝は彼女の少女時代から、自分のピアノとともに世界各地への演奏旅行に出かけられるようになるまでを綴っている(日本語版『バルバラ 一台の黒いピアノ…』2013年、緑風出版刊)。

「一台の黒いピアノ」
日本語版自伝の表紙写真。原題『IL ETAIT UN PIANO NOIR…』 は、分身ともいうべきピアノと旅をしたバルバラの、歌うことへの想いが詰まった未完の回想録だ。

その中で、「リラの花咲く時」の曲が生まれた背景を語っている。独りの男性との狂おしい愛の日々。その幸せの絶頂期に、恋人は彼女にピアノを弾くことと、歌うことを止めるよう求めた。

「わたしはHを失うことを受け入れ、高々とわたし自身の帆を上げた。わたしは『歌う女』の人生という、美しいものに向かって進み始めた」

(自伝より。小沢君江訳)

「リラの花咲く時」は、失った恋を詠った曲だが、どこか心地よく響いたのは、そんな彼女の決意が根底にあったからだと納得させられた。

バルバラは、自伝の中で、父親との関係で衝撃的な事実を明かしている。その恥辱が生涯彼女を苦しめていた。そうした父親とのことを歌った曲が、代表曲とされたのは、さぞ複雑な思いだったに違いない。

バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’「Hommage a Barbara」

バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’

バルバラの曲を改めて聴き、自伝を紐解くと、その人生の深淵に至る。今や伝説と化した歌い手は、生涯にわたって自分の言葉で思いを伝え続けたのだ。黒い衣装で、黒いピアノを愛したその人に相応しく、バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’は、黒紅色のベルベットのような花姿で、見るものを魅了する。

バラ‘オマージュ・ア・バルバラ’

バラはフランスのデルバールによって、2004年に作出された。フリルがかった八重の房咲きの花で、花径6〜8cmの中輪。四季咲きでよく返り咲き、開花の期間も長い。樹高0.8~1m、樹形は半横張り性で、耐病性が強く、鉢栽培にも適している。

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