まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー
「クイーン・エリザベス」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
女王に捧げられたバラ バラ園めぐりをしていると、よく出会うバラがある。英国のエリザベス女王の名前を冠した‘クイーン・エリザベス’だ。ピンク色の艶やかな花は、戴冠を祝して女王に捧げられたもので、ちょっと遠い世界のことのような気がしていた。だが今年、在位70周年を迎えて、女王の若き日のエピソードが語られることが多くなると、そこには映画『ローマの休日』の主人公を彷彿させる、ウィットに富んだ一人の女性の姿があった。 長編ドキュメンタリー映画『Elizabeth』 今年、エリザベス女王 ( Queen ElizabethⅡ 1926-) の在位70周年を記念して、イギリスではさまざまな記念行事が執り行われている。そんななか公開されたのが、ドキュメンタリー映画『エリザベス 女王陛下の微笑み』(原題Elizabeth)。1930年代から2020年代までのアーカイブ映像によって、その人となりを浮かび上がらせている。 映画のチラシには「私のすべてをご覧に入れましょう」「誰も見たことのない、エリザベス女王の姿がここにある」などの文字が躍る。25歳の若さで即位し、70年にわたり女王であり続けたその人の、いわば人生のドキュメンタリーだ。 英国女王のほか、英連邦王国や海外領土の君主として君臨する濃密な時間には、想像を超えるものがある。そしてゲームに興じたり、競馬場で自分の持ち馬の勝利にはしゃぐ姿など、じつに愛らしい面も描かれている。 エリザベスの恋 エリザベス女王は、1947年に後のエディンバラ公爵フィリップ(Prince Philip 1921-2021)と結婚している。彼女がフィリップと出会ったのは13歳の時。当時彼は18歳の英海軍の青年将校で、エリザベスは彼を見て「一目惚れ」(後に公式な伝記にも記載)したという。だが2人の恋は順調に実を結んだとはいえない。ともにヴィクトリア女王の玄孫という血筋だが、フィリップはギリシャ王室のメンバーで、革命政府に追われて亡命中の身だった。 将来の英国君主の相手にはふさわしくないと周囲から反対されたが、エリザベスの意志は変わらず、両親もついに折れて、婚約に至っている。結婚式はウェストミンスター寺院で盛大に執り行われ、2人の仲睦まじい姿は、世界中に知られることとなった。 エディンバラ公爵フィリップ王配 フィリップは君主の夫(王配)という難しい立場にありながら、女王の即位後は公務に同伴するほか、相談役として彼女を支え続けてきた。公務とは別にいくつかの団体の総裁としての活動も行っている。 野生動物や環境保護の活動団体WWF(世界自然保護基金)もその一つで、団体の初代総裁として、6回ほど来日している。私は彼が1982年秋に来日した際、写真記録係の随行員として、5日にわたり行動を共にしたことがある。印象的だったのは、北海道を訪ねる小型チャーター機の中でのこと。いつも英国式のジョークで周囲の人をなごませていたが、その日はことのほか上機嫌で、自分のポートレイトにサインして、随行員に手渡していた。私には「写真を撮られるのは嫌いだけどね」との一言を添えて。 プラチナ・ジュビリー 1952年にエリザベス女王が即位して、翌年ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われてから、今年で70年。25周年のシルバー・ジュビリー、50周年のゴールデン・ジュビリー、60年のダイヤモンド・ジュビリーに続き、2022年はプラチナ・ジュビリーとして、在位70周年を祝う記念行事が執り行われている。 6月初旬の祝賀行事に、女王は96歳という高齢ながら元気な姿を見せ、国民からの祝福を受けている。6月4日にバッキンガム宮殿前広場で行われた祝賀コンサートには欠席したが、冒頭に女王出演の動画が放映された。それは絵本や映画でおなじみのクマのパディントンとバッキンガム宮殿でテーブルに向かい合ってお茶をしている光景で、ちょっとした驚きの内容だった。 パディントンが、かぶっていた帽子の中から「もしもの時のために持っている」とマーマレード・サンドイッチを取り出すと、女王も茶目っ気たっぷりな表情で「私もよ」と、愛用の黒バッグからサンドイッチを出して見せる。絶妙な掛け合い。 また、クイーンの「ウィ―・ウィル・ロック・ユー」の歌が流れると、曲に合わせてティーカップにスプーンを当ててリズムを刻む。一瞬信じられない光景で、そのユーモアの精神には脱帽してしまった。 女王としての生涯 25歳の若さで即位し、70年の間には、幾多の困難にも見舞われたであろうが、女王は持ち前の精神力とユーモアで乗り切ってきた。女王としての顔、妻としての顔、11人のひ孫を持つ家族の長としての顔。ドキュメンタリーの映像では、一人の女性の辿った類まれなる人生の軌跡が鮮明に描き出されている。そうした映像を世に出す、英国王室の懐の深さにも、感慨深いものがある。 バラ‘クイーン・エリザベス’‘Queen Elizabeth’ エリザベス女王の戴冠を記念して、1954年に女王に捧げられたバラ。アメリカ、ジャーメインズ社のウォルター・ラマーツ作出。花は四季咲きの鮮やかなピンク色の大輪で、花径は10~12cmほどになる。樹高は約2mで、樹形は直立性。花つきもよい、強健種。枝変わりした‘つるクイーン・エリザベス’のほか、白色、黄色、アプリコット色、赤色などの‘クイーン・エリザベス’もある。 女王の即位50周年を記念したバラ‘ジュビリー・セレブレーション’、在位60周年を記念したバラ‘ロイヤル・ジュビリー’が、イギリスのデビッド・オースチン・ロージズ社から作出されている。 女王の母、エリザベス王太后に捧げられたバラ‘クイーン・マザー’、妹のマーガレット王女の名前を冠した‘プリンセス・マーガレット’、娘のアン王女の名前を冠した‘プリンセス・アン’、孫のウィリアム王子の‘ロイヤル・ウィリアム’、ウィリアム王子とキャサリン妃のウェディングを記念した‘ウィリアム&キャサリン’など、英国ロイヤルファミリーにゆかりのバラも数多い。
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ガーデン&ショップ
小説家・林芙美子のやすらぎの家と庭【松本路子の庭をめぐる物語】
晩年の安住の地 『放浪記』『浮雲』など、映画や舞台でも知られる小説の作者、林芙美子(はやし ふみこ1903-1951)。彼女が晩年の10年間を過ごした家と庭が、新宿区中井にあり、現在、林芙美子記念館として公開されている。長い放浪生活の果てに得た、安住の地ともいえる家や庭。その瀟洒な佇まいの中に、作家の想いや人生が色濃く漂っている。 自ら設計した家 それまで借家住まいだった芙美子が、下落合(現・中井)に300坪の土地を購入したのは、1939年のこと。家を建てるにあたり、200冊近くの建築の本を買い込み、自ら100枚近く設計の青写真を描いた。それを当時の気鋭の建築家、山口文象に託し、時間をかけて図面を完成させている。 文献だけでなく、建築士や大工を伴い、京都に10日間滞在して、寺社や民家を見てまわった。彼女は「家をつくるにあたって」と題した一文に「東西南北風の吹き抜ける家と云うのが、私の家に対する最も重要な信念であった。〈中略〉生涯を住む家となれば何よりも、愛らしい美しい家をつくりたいと思った」と書き残している。 数寄屋造りの特色と、「茶の間と風呂と台所に力を入れた」という、住み手の暮らしを重視した京風の民家の色合いを併せ持つ家は、1941年8月に完成。台所や茶の間のある生活棟と、芙美子の書斎や画家であった夫・緑敏のアトリエのある棟からなる、よく考えられた間取りだ。各部屋の中から南側に広がる庭を見渡すことができる、開放的な平屋造りになっている。 竹林のある庭 京都の庭を見てまわった芙美子は、ことのほか竹林と苔の庭に惹かれたという。苔の庭は気候的に無理とのことであきらめたが、庭一面に孟宗竹を植えることは叶った。 さらに、柘榴、寒椿、おおさかづきもみじ、カルミアなど、彼女が愛した木々が植えられた。『風琴と魚の町』という尾道を描いた著作に「この家の庭には柘榴の木が4、5本あった」と書き残している。最初に柘榴を植えたのは、それを懐かしんでのことだろうか。 芙美子亡き後、庭には夫の好んだ山野草が多く植えられ、竹林は玄関付近にしか残されていないが、これらの木々は今も健在だ。6月には柘榴がオレンジ色の花をつけて、迎えてくれた。 5月に訪ねた時には、北側の斜面の、家を見下ろすような場所にカルミアの白い花が咲き誇っていた。カルミアの傍には、いくつかのバラが開花していた。 庭への思い 現在は展示室となっているアトリエで、2022年4月から5月にかけて「林芙美子 花への思い」という展示がなされ、芙美子が花の手入れをしている写真を見ることができた。夫の緑敏の柘榴の絵とともに、芙美子の描いた桜草の絵も並び、その傍らには彼女が好んで書いた「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」という自筆の色紙が添えられていた。 尾道の家 1903年に山口県下関市(福岡県門司市ともいわれる)で生まれた芙美子は、実の父親からは認知されず、行商人の養父と母とともに各地の木賃宿を転々とする幼少期を過ごした。 一家がようやく落ち着いたのは、12歳から18歳までの6年間を過ごした尾道。尾道市立高等女学校へ進学し、周囲からその文才を評価された。尾道には親子3人が間借りしていた離れの2階が残されている。私は十数年前に「レストランカフェ おのみち芙美子」(現・おのみち林芙美子記念館)を通り抜けたところに建つ、その家に立ち寄っている。およそ5畳の部屋は、親子3人が暮らすのにはあまりに狭く見えたが、彼女にとって、木賃宿暮らしではない、安らぎの場所だったのかも知れない。 『放浪記』の中で「私は宿命的に放浪者である。私は古里をもたない」とした芙美子だが、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい」とも書き残している。私はその言葉に救われる思いがした。 ベストセラー作家への道 恋人を追って尾道から上京した後も、女工やカフェの女給などの職業を転々として、苦闘の日々を送っていた。その中で書き続けた日記をもとに、著した自伝的小説が『放浪記』だ。1930年に出版され、『続放浪記』と合わせて60万部というベストセラーとなった。一躍売れっ子作家となった芙美子は、次々に作品を発表。パリやロンドンに長期滞在して、紀行文を書いたりもしている。 終の棲家 何人かの男性と同棲を繰り返した後、画学生の手塚緑敏と暮らし始めたのが1926年。下落合の新居では、生後間もない男児を養子に迎え、緑敏とともに林家に入籍させて、ちゃぶ台を囲んでの一家団欒の日々を送っている。放浪の果てに得た家族との平穏な生活。仕事の合間に食事を作り、漬物を漬けるなど、料理好きな一面もあったという。台所には当時の食器が残されている。 執筆活動は精力的に続けられ、この家で『うず潮』『晩菊』『浮雲』などの代表作が生み出された。だが、仕事の無理がたたり、1951年に心臓まひで急逝。47年の生涯だった。立て続けに依頼される仕事を断ることができなかったという。それもあるだろうが、「誰も語らない、市井の人々を書きたい」という欲求が彼女を突き動かしていた、そのようにも思いたい。 庭のバラ園 2022年5月のアトリエの展示では、バラの庭の写真も飾られていた。家の北側の斜面を登った高台に、かなり広いバラ園があり、おもに夫の緑敏が手入れをしていた。その土地は人手に渡り、今は記念館の斜面に植えられた数本のバラが、往時をしのばせる。 バラ園では、当時切り花として市販されていなかった種類のバラが栽培されていた。そのバラを愛した洋画家の梅原龍三郎のもとに、定期的に花が届けられた。梅原龍三郎の描くバラの花は、芙美子たちの庭で咲いたものなのだ。バラ園は無くなったが、バラは絵の中で永遠に生きている。 芙美子の生涯もまた、その著作の中に息づいている。残された家を訪ね、ひとりの女性の生き方に思いを馳せる、そんな庭めぐりもよいものだ。 Information 新宿区立 林芙美子記念館 住所:東京都新宿区中井2-20-1 電話:03-5996-9207 Fax:03-5982-5789 HP:https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/fumiko 休館日:月曜日 入館料:一般150円、小・中学生50円 アクセス:都営地下鉄大江戸線・西武新宿線「中井駅」より徒歩7分 アトリエ展示:「小さきもの*可愛いもの」(2022年6月1日~8月31日) 取材協力:新宿区立 林芙美子記念館
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ガーデン&ショップ
千葉「佐倉草ぶえの丘バラ園」5月の散策
復活したバラ園 今年5月、数年ぶりに千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘バラ園」を訪れた。アーチやパーゴラ、スクリーンなどの立体的なつるバラの設えが充実し、バラの香りに包まれながらの散策は、以前にもまして、至福の時間をもたらしてくれた。 2019年9月、台風15号で壊滅的な被害を受けたバラ園が、クラウドファンディングなどの復旧支援プロジェクトを経て、見事に復活した様子は聞き及んでいたが、その後もコロナ禍ですっかりご無沙汰してしまった。今回、あらためて野生のバラやオールドローズを中心とするバラ園の景観に魅せられた。また、このバラ園の前身ともいえる「ローズガーデン・アルバ」を訪ねた時のことを思い起こしていた。 ローズガーデン・アルバ 友人に誘われて、佐倉市の「ローズガーデン・アルバ」を訪ねたのは、2003年頃だった。畑の中に忽然と現れたバラ園のユニークな佇まいと、初めて見るバラの種類が多かったことが記憶に残っている。園内の道具小屋の手前のアーチに咲くつるバラ‘シティ・オブ・ヨーク’に惹かれ、帰ってから早速苗を求めた。以来、わが家では鉢植えながら、このバラが7mほど枝を伸ばしている。 「ローズガーデン・アルバ」はNPO法人バラ文化研究所により、野生バラやオールドローズの収集・保存・研究を目的としてつくられた。わが国の「バラの父」と称される育種家・研究者の鈴木省三(1913-2000)のコレクションが母体となっている。 「佐倉草ぶえの丘バラ園」開園 「ローズガーデン・アルバ」は2004年に閉じられ、その後、現在の場所で新たに「佐倉草ぶえの丘バラ園」として開園された。佐倉市の公共施設の中にあり、バラ園の管理、運営はNPO法人バラ文化研究所に委託されている。面積は13,000㎡と広く、現在1,250種、2,500株のバラを見ることができる。 園内は15のエリアに分けられ、鈴木省三コーナー、植物画家ルドゥーテが描いたバラを集めたルドゥーテコーナー、歴史コーナー、ヨーロッパ、中国、日本それぞれの野生バラコーナー、香りのコーナーなど、テーマ別に植栽されている。 「とどろきばらえん」のこと 鈴木省三コーナーでは、彼が生み出した「天の川」「万葉」「乾杯」「ひなまつり」など、日本語の名前がつけられたバラを見ることができる。「とどろき」というバラを見つけ、鈴木省三が1937年に24歳で開いたという「とどろきばらえん」に思いを馳せた。 かつて私の父がバラの話になると、いつもなつかしそうに語ったのが、「とどろきばらえん」のことだった。第二次世界大戦後すぐのことで、若かった父がバラを育てるようになったきっかけの場所だという。父の語り口が鮮やかだったので、私は自分が訪れたことのあるバラ園のような気がしている。 ルドゥーテコーナー ルドゥーテは、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌの命を受け、彼女の居城マルメゾンのバラを描いたほか、当時のバラのほとんどを網羅した『バラ図譜』3巻を出版したことで知られる。このコーナーには、ロサ・ガリカ・オフィキナーリスや‘スレイターズ・クリムズン・チャイナ’など、『バラ図譜』に登場する野生バラやオールドローズが植えられている。 中国のバラ 中国のバラが東インド会社を経由してヨーロッパに渡り、四季咲きのバラや、真紅色のバラを生み出すもととなったことは、バラの歴史の中でも特筆すべきことだろう。中国のバラコーナーでひときわ目についたのが、‘オールド・ブラッシュ’。18世紀、最初にヨーロッパにもたらされた4種類のバラのうちの一つで、それまでヨーロッパに無かった四季咲きのバラの誕生に貢献している。 日本のバラ 日本にはハマナスやノイバラなど、十数種の野生のバラが自生している。2012年に『日本のバラ』(淡交社刊)を出版した時、「佐倉草ぶえの丘バラ園」でいくつかのバラを撮影させてもらった。熊本県の球磨川河岸などに自生するツクシイバラ、本州や北海道の高山でしか見られないカラフトイバラなど、稀少なバラを見ることができる。 NPO法人バラ文化研究所の協力で、江戸時代に作られた植物図鑑『本草図譜』から、当時描かれたバラの図を写真に収めたことも忘れがたい。 ホワイト&ピンクコーナー オールドローズにもっとも多く見られるのが、白色とローズ色のバラ。同じ白やローズでも、色は微妙に異なるので、この2色のグラデーションが幻想的な情景を生み出している。東屋を覆うように咲く‘ホワイト・ミセス・フライト’がとりわけ見事だ。 「インドの夢」と「サンタ・マリアの谷」 比較的新しくできた2つのエリア。「インドの夢」では、インドの亜熱帯地域に自生するロサ・クリノフィラを使い、亜熱帯地方でも丈夫に育つようにと改良された苗が植栽されている。世界的に温暖化が進む中で、これから暑さに強いバラは、より必要とされるだろう。 「サンタ・マリアの谷」は、北イタリア、サンタ・マリアのバラ研究家、ヘルガ・ブリッシェから贈られたバラが植栽されている。バラ園の入り口付近から、谷を下りる形で散策できるエリア。 つるバラとコンパニオンプランツの設え バラの歴史や分類を辿る楽しみもさることながら、回廊式の小道を歩くと、さまざまに展開するバラの設えが眼福で、次第に気持ちが弾んでくる。‘ボビー・ジェームス’ ‘トレジャー・トロープ’などのバラが巨大な姿を見せるオールドローズガーデンや、いたるところのパーゴラやスクリーンに見られるつるバラが特に秀逸。‘ニューポート・フェアリー’のようにパーゴラの屋根とスクリーンに連なり、こぼれんばかりに咲く花もある。 景観を際立たせているのが、宿根草をはじめとする、一年草や球根植物など、さまざまなコンパニオンプランツ。ジギタリス、デルフィニウム、オルレア、カモミールなど、淡い色の花や葉がバラの株元にそよぐさまは、風薫る野原を連想させ、心地よい空間を生み出している。
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みんなの庭
バラに囲まれる豊かな暮らしを手作りで。中村真美さんの庭【松本路子の庭をめぐる物語】
バラの芳香あふれる庭 つるバラや木立バラが咲き誇り、その周りにクレマチスや野趣あふれる草花が配された端正な庭。個人のお宅とは思えないほど、充実した庭をつくり上げたのは、中村真美(まなみ)さん。今年5月、バラの最盛期に埼玉県入間市にあるご自宅に伺った。 真美さんの庭を知ったのは、彼女が発信するSNSの写真からだった。1年間かけて夫と2人でつくり上げたという小屋の写真と、その小屋の屋根をバラ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’で覆うのが夢、という話に惹かれ、訪ねてみたいと思った。 6年目の景観 庭に招き入れられてまず向かったのは、彼女が「ジャッド」と呼んでいる、農具やガーデニング用品を収納する小屋。鹿児島弁の「じゃっど」(そうだ)と、ガーデンシェッドを掛け合わせた楽しい造語だ。基礎を専門家に頼んだほかはすべて手づくりで、彼女がペンキを塗ったという青い壁が日差しの中で輝いている。屋根の上から‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’が顔を出していた。 現在の地に家を建て、庭づくりを始めたのは6年前。だが、つるバラの茂り具合や、木々に絡まる様子などは、長い年月を経たかのように、のびやかで、自然に見える。 図面に沿って、小道に煉瓦を敷き、タイルや石を配すなどの庭づくりは、自ら手作業で行ったというから、さらに驚かされる。 「1日に1mとか、煉瓦50個とか目標を決めて、少しずつ作業を進めました。鉄製のアーチ以外、木製のパーゴラなどもすべて手づくりです」 煉瓦の重さや敷き詰める労力を推し量ると、庭への熱情が並大抵のものではないことがよく分かる。 バラとの出会い 真美さんがバラと出会ったのは、1999年、第1回「国際バラとガーデニングショウ」の会場だった。今まで見たことのないバラの花を目にして、すっかり魅了された。当時、会場だった所沢の西武球場近くに住んでいたので、毎年5月に開かれるこの催しに出かけ、購入した苗を腕いっぱいに抱えて帰った。バラづくりには20年以上の年季が入っているのだ。この頃から理想とするバラの庭の構想が生まれていたのかもしれない。 土づくりからのスタート 6年前に現在の場所に移ってきたのは、夫が定年退職後に畑で農作物を作りたいと、広い土地を探したのがきっかけだった。彼女がユーモアをこめて「畑部長」と称する彼は、近くの農地を借りて無農薬の野菜づくりに励んでいる。そこで収穫される野菜の味は格別だという。 庭は彼女のバラのために設計され、家が完成した直後、近所の乗馬クラブから2トン車で2回ほどの馬糞堆肥が運ばれた。まずは土づくりからのスタート。以来、毎年寒肥を入れる際に馬糞堆肥を追加している。植物たちが元気な秘訣は、豊かな土壌にあるのだ。 お気に入りのバラ 以前の家から移植したバラは30株ほど。現在は88種類、103株に増えている。オールドローズが好きで、中でも香りのよいバラに惹かれるという。 「今一番気に入っているのは‘ジュード・ジ・オブスキュア’という名前のバラ。フルーティな香りが際立っています。でも最後に一株だけ残すとしたら、やはり‘アイスバーグ’でしょうか。いろいろな点で、愛すべきバラです」 庭での時間 これだけ見事なバラを咲かせるのには、どれだけの手間と時間がかかることか、想像に難くない。彼女にたずねると、毎日朝6時から8時、夕方4時から6時が庭の手入れの時間だという。鉢植えのバラへの水やり、剪定、花がら摘みなど作業は山積している。 「庭仕事で大事なことは、よく見ること。目が行く、そして手が行くことですね」 オープンガーデン こうして手入れされた庭は、年に1度、5月の第4日曜日のオープンガーデンでお披露目される。その日はローズガーデン・マルシェとして、コーヒーのキッチンカーや、焼き菓子、パンなどの作り手が出店する。 4年ほど習っているヘルマンハープの演奏を披露することもあるそうだ。バラに囲まれ、ハープの音色に耳を傾けるのは、さぞ心地よいことだろう。 庭とともにある暮らし バラは、年に1~2度だけ農薬を散布する低農薬で育てている。‘アンリ・マルタン’と‘ルイーズ・オジェ’という2つのバラだけは、ジャム作りのために無農薬に徹している。自家製のバラジャムを味わったら、やめられないという。 こうした庭仕事と同時に、自宅にてフラワーアレンジメントの教室を主宰し、近隣の家のバラの庭づくりも指導している真美さん。庭に寄り添い、花に彩られた素敵な暮らしぶりに出会えた、バラ日和だった。
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ストーリー
「ザ・ウェッジウッド・ローズ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
わが家の今年のニューフェイス 今年のわが家のバラのニューフェイスは、‘ザ・ウェッジウッド・ローズ’。優しげなローズピンクの花姿と、その名前に惹かれて、昨秋に裸苗を手に入れた。茎や根が短かったので8号鉢に植え付けたが、枝の成長の勢いが強く、4~5輪の房咲きで、鉢から溢れんばかりに開花している。 ‘ザ・ウェッジウッド・ローズ’は、英国の陶磁器メーカー、ウェッジウッド社の創立250周年を記念して、デビッド・オースチン・ロージズ社が命名したイングリッシュ・ローズ。ウェッジウッドの陶磁器に魅せられた私にとって、その名前が冠されたバラはずっと気になっていた。バルコニーの鉢は60を超え、スペース的にこれ以上増やせない状態だったが、思い切って求めてしまった。 名前の由来 ウェッジウッド社は「英国陶芸の父」と称される、ジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood 1730-1795)によって1759 年に設立された。陶器メーカーの家に生まれた彼は、29歳でウェッジウッド社の前身であるアイヴィ・ハウス工房を立ち上げている。工房のあったスタフォードシャー州は、陶芸に適した良質の粘土が産出される地で、探究心旺盛だったウェッジウッドは、それまでになかった乳白色の硬質陶器、クリームウェアを完成させた。 英国国王ジョージ3世の王妃シャーロットがこの陶器を愛用し、クイーンズ・ウェア(女王の陶器)という称号を許可している。さらに王室御用達となったことで、世界各地の王族、貴族が揃って求めるようになった。 ウェッジウッドのティーセット 私がウェッジウッドの陶磁器に出会ったのは、1980年代にロンドンに長期滞在していた時だった。出張で東京からやってきた友人に誘われて、リージェント・ストリートにあるショールームに出かけた。単なる物見遊山のつもりだったが、店内を歩いていて、突然ティーポットとカップのセットを求めたいという衝動に駆られた。 それまでアンティークのティーカップは集めていたが、ティーポット、クリーマー、シュガーポット、カップ6客と同じ絵柄で揃えるのは初めてのことだった。「コロラド」というシリーズで、仕事場で長く愛用している。その後、自宅用に「ハミングバード」のシリーズを求めた。酒類やコーヒーをたしなまない身にとって、こうした器とともに味わうティータイムは、貴重な時間となっている。 バラ模様のティータイム バルコニーでバラの花見の客人をもてなすのに、バラ模様のティーセットが欲しいと、集め始めたのが「チャーンウッド」のシリーズ。すでに廃番になっていたので、仕事でヨーロッパに行くたびに骨董市に立ち寄り、ヴィンテージ品をひとつずつ買い求めた。 チャーンウッドは英国中央部レスターシャ―州にある森の名前。ウェッジウッドが1940年から本拠地にしているストーク・オン・トレントに近いところに位置する。森の中に咲く野バラをイメージした意匠は、どこか東洋的でもあり、華やかだがゆかしい佇まいを見せる。昨年秋に出版した拙著の表紙写真にも、バルコニーのテーブル上に登場させている。 ウェッジウッドブルー 実用的なテーブルウェアのほかに、ウェッジウッドで知られるのが、ジャスパーと呼ばれる装飾用のストーンウェア。クリスマスイヤープレートなどの記念プレートや室内装飾品が主で、ブルーやグリーンの地に、白色のネオクラシカルなレリーフ模様が描かれている。 ジャスパーの青色にはロイヤルブルー、ポートランドブルー、ペールブルーなどがあり、中でもペールブルーは、ウェッジウッドブルーと呼ばれるものだ。私がジャスパーウェアを知ったのは、ロンドンで居候していたフランシス家のバスルームだった。6畳ほどの広さの空間がブルーで彩られ、壁にはジャスパーウェアの飾り皿が掛けられていた。フランシス夫人は、このバスルームを「ウェッジウッドブルーの部屋」と呼んでいた。 ブランドマーク 骨董市で陶器を探している時は、器の底にあるバックスタンプを見るようにしている。製作年代によってマークが異なるのだ。ウェッジウッドは、アンティークにはWedgwood Englandの文字だけのものもあり、1878年から1997年にかけてのものには、茶壺のマークが記されている。壺の色は年代の古い順に、茶色、緑色、黒色と年代順に分けられている。ちなみに1998年以降はWの文字マークとなっている。バックスタンプを見ることで、その器の年代と、経てきた時間に思いを馳せることができる。 バラ‘ザ・ウェッジウッド・ローズ’ ‘The Wedgwood Rose’ ‘ザ・ウェッジウッド・ローズ’は、デビッド・オースチン・ロージズ社から2009年に発表されたバラ。陶磁器メーカーのウェッジウッドは、いくつかの会社の傘下に入るなど紆余曲折を経ながら、世界的に根強い人気を保ち、この年創立250年を迎えた。バラはその記念の年に捧げられたもの。 花色は中心部がローズピンクで、外側に向かうに従いペールピンクから白色に近づく。そのグラデーションは、ため息が出るほど美しい。多弁の八重で、花径は約10cm。樹形は半直立性。樹高は木立バラとして整えることができるが、3mほどのつるバラとして設えることも可能だ。 四季咲き性で、よく返り咲く。1本の茎に4~5個の房状のつぼみをつけて、順次開花し、花もちもよいので、1カ月近く花を楽しむことができる。剛健で、鉢植え栽培にも適している。
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北の大地・北海道の桜【松本路子の桜旅便り】
北の桜、‘オオヤマザクラ’ 遠くに霞む山脈に向かい、まっすぐに伸びる道。その両端の桜並木の見事なこと。北の大地、北海道ならではの雄大な景観だ。この桜に出会いたいと、数年前、北海道日高郡新ひだか町の静内二十間道路(しずないにじゅっけんどうろ)を訪れた。 静内二十間道路の桜並木は、主に‘オオヤマザクラ’で成り立っている。5月初旬に咲く‘オオヤマザクラ’が終わるころ、一週間ほど遅れて‘カスミザクラ’ ‘ミヤマザクラ’が開花する。いずれも日本に分布する野生の桜10種に含まれ、主に寒冷地や山岳部に生育する種類だ。街路樹など、低地で見られるのは北海道ならではで、まさに北の桜といえる。 ‘オオヤマザクラ’は‘ヤマザクラ’より花弁が大きく、花径が3~4cmあるので、この名前がつけられた。雪や寒さに強いので、‘染井吉野’が育ちにくい北の地域では、桜といえば‘オオヤマザクラ’を意味する。北海道に多く見られることから、「蝦夷桜(えぞざくら)」とも呼ばれる。まれに白色の花が見られるが、ほとんどが紅色なので、「紅山桜(べにやまざくら)」とも称され、満開の季節には山が薄紅色に染まるという。 樹高は20~25mほどで、花の終わり頃に紅褐色の葉が伸び始める。幹や枝の樹皮は紫褐色で光沢があることから、東北地方では昔から樺細工として、工芸品に用いられてきた。 静内二十間道路の桜並木 7kmにわたる直線道路の両側には、約2,200本の桜が連なっている。道路はかつてあった宮内省所管の新冠御料牧場を視察する皇族のために、明治36年(1903年)につくられた。当初は中央道路と称されたが、幅が二十間 (約36m)あることから、いつしか二十間道路と呼ばれるようになった。 桜が植栽されたのは大正5年(1916年)で、当時の御料牧場の職員が近隣の山々から木を移植し、3年の歳月をかけて完成させた。現在ほとんどが樹齢50年から100年の古木で、威風堂々とした姿を見せている。 明治初期、日高地方では野生馬が群れをなしていた。そうした野生馬を集めて放牧したのが産馬改良のための牧場の始まりで、町内には現在も牧場が点在し、優駿・競走馬を多く輩出している。桜並木を馬に乗った人が通り過ぎるのも、この地方ならではの光景だ。 花のトンネル 二十間道路のほぼ中間地点に、牧場に続く脇道がある。そこでは‘オオヤマザクラ’の大木が枝を伸ばし、花の回廊を形作っている。私が訪れたのは、花の盛りをやや過ぎた頃だったが、薄紅色の花と若葉の紅褐色が重なり、夕日に照らされた様子は、何とも言えず幻想的だった。 北海道の桜 ‘カスミザクラ’は、本州、四国、九州の低山地に広く分布する野生の桜だが、北海道では公園や街路に植栽されている。2~3cmのやや小さめの花を枝一面に咲かせ、遠目には霞がかかったように見えるので、この名前がつけられた。葉や花柄にうぶ毛が見られるので、「毛山桜」とも呼ばれる。 ‘ミヤマザクラ’は、おもに山岳地帯の高所に分布する野生の桜だが、北海道では5月から6月にかけて低地でも開花する。2cmほどの小さな花が房状に見られ、葉が完全に開き切ってから花がつく特異性がある。 ‘タカネザクラ’は、標高1,500~2,800mの高山に分布し、「峰桜」の別名がある。2~3mの低木で、枝が地表近くを水平に伸びることもある。標高の高いところでは夏に開花し、登山者は季節外れの花見を楽しむことができる。私にとっては出会うことができない、まさに「高嶺の花」だったが、静内の桜舞馬公園で開花している姿に、奇跡的に遭遇することができた。 ‘千島桜’は、根室市が開花予想の標本木に採用している桜で、‘タカネザクラ’の変種とされる。明治時代に国後島から苗が運ばれ、当初は「国後桜」と呼ばれていたが、根室市の清隆寺に移植されたことをきっかけに‘千島桜’と名前が変えられた。今では広く植栽されるようになり、5月下旬に開花することから、日本で最も遅く低地で見られる桜とされている。 札幌で出会った桜 静内を訪れた帰路、札幌に立ち寄った。市の中心部に位置する大通公園に‘カスミザクラ’と‘ミヤマザクラ’が開花していると聞きつけたからだ。‘ミヤマザクラ’はまだつぼみだったが、満開の‘カスミザクラ’に出会うことができた。 大通公園から徒歩で、北海道大学植物園に向かった。ここは明治10年(1877年)に、当時札幌農学校の教頭だったウィリアム・クラーク博士の進言でつくられた農園を前身とする歴史ある植物園。13.3ヘクタールの園内には、北海道の自生植物を中心に、約4,000種類の植物が育成されている。ビルが立ち並ぶ都市の中にあって、巨木や札幌の原始の姿に出会える貴重な場所だ。また、北方民族が育てる植物を、その文化とともに紹介するユニークな試みも行っている。 サクラ林では‘オオヤマザクラ’の古木が開花し、‘タカネザクラ’が高山での姿に近く、地表を這った姿で咲いている様を見ることができた。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 二十間道路桜並木(新ひだか町HP) 住所:北海道日高郡新ひだか町静内本町5-1-21 電話:0146-43-1000 HP: https://www.shinhidaka-hokkaido.jp/ 北海道大学植物園 住所:北海道札幌市中央区北3条西8丁目 電話:011-221-0066 HP: https://www.hokudai.ac.jp/fsc/bd
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ストーリー
「ロサ・オドラータ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
早咲きのバラ わが家のバルコニーでは、早咲きのバラが次々と開花している。今年の一番乗りは、4月初旬に花開いたロサ・キネンシス・スポンタネア。チャイナ・ローズの原種で、開花してから花色がクリーム色、淡いピンク、紅色と変化する。ヨーロッパにわたり、真紅色のバラのもととなったバラだ。 その後、白花八重咲きモッコウバラ、一重咲きのキモッコウ、ナニワイバラと、中国原産の野生バラが続く。また20年来のわが家の古株、ムタビリスも咲きはじめた。野生バラに近い、チャイナのオールド・ローズだ。これらのバラについては、すでに「早咲きのバラを巡る物語 ① ②」として綴っている。 ロサ・オドラータ 今年お披露目のニューフェイスともいえるのが、ロサ・オドラータ。「ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ」の英名でも知られるバラだ。3年前に友人宅から3本の細枝を持ち帰り、挿し木したものが、1mほどに成長して、いくつかの花をつけはじめた。 淡いピンクの八重咲きは、一重の花が多い早咲きのバラの中にあって、異色の存在だ。さらに特筆すべきは、その香り。部屋に1輪飾っただけで、あたり一面に甘い芳香を放っている。それもそのはず、学名ロサ・オドラータは、ラテン語で「香るバラ」を意味するのだという。 英名はイギリス人の資産家でバラの蒐集家であるアブラハム・ヒュームが中国から取り寄せ、普及させたことに由来する。直訳すると「刷毛でぼかしたような花色の、紅茶の香りの中国バラ」とでも言えようか。イギリス人はバラの香りを紅茶のそれに似ているとして、これがティー・ローズ系統の祖となった。ヨーロッパのバラと交配され、多くのハイブリッド・ティー・ローズ誕生に貢献している。 四季咲きバラ ヒュームが、東インド会社を経由してロサ・オドラータを手に入れたのは、1808年から1809年にかけて。当時ヨーロッパには四季咲きバラは存在していなかった。このバラは中国からヨーロッパに渡った最初の4種の一つに数えられ、現在広く栽培されている四季咲きバラ誕生にも関わっている。 中国のバラ バラは西洋の花のイメージが強いが、北半球のさまざまな地に自生している。中でも中国には多くの原種バラが存在し、その数は60種ともいわれる。ロサ・オドラータは、おもに四川・雲南地方に多く見られ、中国名は「香水月季」。これも「香り」と「繰り返し咲くこと」に由来する名前だ。原種バラではなく、ロサ・キネンシス(コウシンバラ)とロサ・ギガンティアの自然交配種とされる説が有力。作出年は不明で、イギリスにもたらされた年の「1808年以前」と記されることが多い。 皇妃ジョゼフィーヌが愛したバラ ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌは、パリ郊外の居城マルメゾンの庭園に世界各地のバラを蒐集し、バラの改良・育種を行ったことで知られる。ジョゼフィーヌが愛したバラの一つが、ロサ・オドラータ。このバラの噂を聞きつけたジョゼフィーヌは、当時フランスとイギリスは戦闘中だったにも関わらず、海軍本部の間に協定を結ばせ、イギリスから苗木を取り寄せた。 彼女をとりこにしたのは、やはりその香りだろう。1809年という年は、ナポレオンとの間に子どもができないことを理由に、離婚を言い渡された年だ。その後、庭園での時間が増え、ロサ・オドラータの香りが、彼女の心痛を癒してくれたであろうことは想像に難くない。ジョゼフィーヌの死後30年を経て、彼女に捧げられたバラがある。そのバラ‘スヴニール・ド・ラ・マルメゾン’(マルメゾンの想い出) は、どこかロサ・オドラータに似ている。 ジョゼフィーヌは、マルメゾンに咲くバラのほとんどを植物画家に描かせている。ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの描いた『バラ図譜』の中にある「ロサ・インディカ・フレグランス」が、ロサ・オドラータだ。復刻版では、ロサ・オドラータとヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナの名前が添えられている。 小説『ヴェネツィアのチャイナローズ』 中国原産のバラについて考えていて、数年前に読んだ小説を思い出した。アンドレア・ディ・ロビラントの『ヴェネツィアのチャイナローズ』(堤けい子訳/原書房刊)だ。その書名に惹かれて求めた本だが、ヴェネツィアの田舎町に咲く謎のバラについての物語は、いま読み返すと新たな発見があった。 主人公が6世代前の祖先の地を訪ね、かつての領地の森に咲くバラのルーツをたどると、マルメゾン城から持ち帰ったものだと判明する。祖先の日記を発見し、彼女が皇妃ジョゼフィーヌと親しく交流していたさまが描かれる。バラの名前を探る過程と同時に、ヨーロッパにもたらされたチャイナ・ローズについても詳しく述べられている。イタリアの地で、マルメゾンのバラが咲いているという展開は、心躍るものだ。 ロサ・オドラータ(Rosa Odorata) (ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ) 昨年はまだ小さい苗だったが、4月から秋まで繰り返し開花した。花首が細いので、満開になるとややうなだれ気味だが、つぼみから開花まで徐々に変化する花姿には風情がある。 クリームがかった淡いピンクの八重咲きで、花径は5~8㎝ほど。樹高は100~150㎝。樹形は半横張り牲。オールド・チャイナ・ローズで、作出は1808年以前。香りが秀逸で、ティー・ローズの祖とされる。中国からヨーロッパにもたらされた最初の4種のうちの一つで、ハイブリッド・ティー・ローズ、四季咲きバラなど、多くの新種バラ、近代バラの誕生に貢献している。
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古都・鎌倉ゆかりの桜【松本路子の桜旅便り】
‘静桜’に会いたくて鎌倉へ 奈良の吉野山で源義経と別れた白拍子・静御前は、源頼朝の追っ手に捕らえられて鎌倉に送られた。吉野山で2人が数日間隠れ住んだ吉水院(現吉水神社)の書院について綴っていて、鎌倉に‘静桜’という名前の桜が植えられたという話を思い出した。鶴岡八幡宮の一角に咲くという‘静桜’を目指し、今年(2022年)4月、鎌倉を訪れた。 鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)馬場、東の鳥居近くにある‘静桜’は、満開を迎え、やや花の盛りを過ぎていたが、楚々とした花姿で迎えてくれた。静御前は鶴岡八幡宮で、源頼朝や北条政子を前にして、義経への想いを今様で詠い、舞ったことで知られる。 「よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき 」 「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」 義経が吉野山の奥の女人禁制の山に落ち延び、別れざるを得なかった心境と、繰り返し自分の名前を呼んだ愛しい人と過ごした時に戻りたい、との切々たる思いが溢れた歌だ。 頼朝はこの歌に激怒したが、政子がとりなしたという話が『吾妻鏡』に残されている。『吾妻鏡』は北条氏側の記録書なので、史実は定かではないが、静御前の命が絶たれなかったのは事実のようだ。彼女のその後には諸説あり、そのひとつが奥州に向かった義経の後を追ったが、義経が討たれたことを知り、旅の途中で池に身を投げたとするものだ。 福島県郡山市には静御前を祀る「静御前堂」がある。亡くなった静御前を憐れんだ里人が塚を設け、江戸時代に、その場所にお堂が建てられたのだという。堂内には静御前の木像が安置され、近くには同伴した乳母や従者の碑が建っている。堂の傍らには、‘静桜’、‘義経桜’と名づけられた桜が植えられ、毎年3月に「静御前堂例大祭」が執り行われる。鎌倉の‘静桜’は、2005年にここから移植されたものだ。静御前の儚い生涯と悲恋の物語は、桜とともに今に語り継がれている。 ‘実朝桜’と歌碑 ‘静桜’の隣には‘実朝桜’が 植えられている。源実朝は頼朝の二男で、鎌倉幕府三代将軍。武家同士の権力争いの中、鎌倉八幡宮の境内で若くして暗殺された人物だ。歌人としても知られ、百人一首では「鎌倉右大臣」と称され、自作集に『金槐和歌集』がある。桜を詠んだ歌も多く、‘実朝桜’の傍らには、歌碑が建っている。 ‘実朝桜’は2011年に神奈川県秦野市から移植された八重桜。神奈川県秦野市には実朝の首が葬られた御首塚(みしるしづか)があり、毎年11月に「実朝まつり」が開かれている。 鶴岡八幡宮の桜 ‘静桜’と‘実朝桜’が植樹された鶴岡八幡宮は、源頼朝が開いた鎌倉幕府とともに始まった。頼朝の祖先が由比ヶ浜に祀った氏神を現在の地に移したのが、治承4年(1180年)。以来、鎌倉の守り神、武士の守り神として崇められてきた。 境内には静御前が舞ったとされる若宮回廊跡に舞殿(まいどの)が建てられ、毎年4月に開催される「鎌倉まつり」では、雅楽とともに「静の舞」が奉納される。 鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の段葛(だんかずら。一段高く築かれた歩道)には、‘染井吉野’の並木が続く。境内の桜も数多く、なかでも‘オオシマザクラ’の古木が目につく。‘オオシマザクラ’は、伊豆大島を中心とした伊豆諸島に分布する野生の桜だが、伊豆半島や三浦半島の海岸線にも自生している。室町時代に関東武士によって京都に運ばれた‘オオシマザクラ’が、数多くの桜の栽培品種を生み出すもととなった。鎌倉由来の桜‘桐ヶ谷(きりがや)’‘普賢象(ふげんぞう)’は、‘オオシマザクラ’が突然変異して生まれた桜で、こちらも古くから知られている。 ‘桐ヶ谷’という名前の桜 ‘桐ヶ谷’と名づけられた桜には、‘御車返(みくるまがえし)’ ‘八重一重’という別の呼び名がある。‘桐ヶ谷’は鎌倉・材木座にあった地名から、‘御車返’は車上の2人が、花が八重か一重か言い争って車を引き返したという故事から、‘八重一重’は一本の木に八重と一重の花が同時に咲くことから、とされる。 ‘御車返’は、京都に原木のある‘御所御車返’としばし混同されて語られるが、こちらは後水尾天皇が花の見事さから車を引き戻したとされるもので、別の栽培品種である。 極楽寺の桜 極楽寺に‘桐ヶ谷’の古木が1本あると知り、訪ねた。寺の山門から本堂に向かって‘染井吉野’の並木路が続く。本堂の手前では‘桐ヶ谷’が大きく枝を広げていた。ここでは‘八重一重咲き分け桜’との案内板が掲げられており、その名の通り、同じ木に一重と八重の花が咲いていた。北条時宗が手植えした桜の株から発生した木だとの説明があり、それによると‘桐ヶ谷’は鎌倉時代中期から存在していることになる。花は数輪だけだったが、数日後に再び訪れ、一面に開花した桜を見ることができた。 ‘普賢象’という名前の桜 日本最古の八重桜である‘普賢象’。白色の花弁の中央から太い雌しべが2本突き出ているさまを、普賢菩薩が乗る白象に見立ててこの名前がつけられた。原木は鎌倉の普賢堂にあったとされ、別名‘普賢堂’。室町時代には京都に伝わっていて、室町幕府三代将軍、足利吉満がこの桜を愛でたという記録が残されている。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 鶴岡八幡宮 住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 電話:0467-22-0315 HP:https://www.hachimangu.or.jp 極楽寺 住所:神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7 電話:0467-22-3402 HP:http://www.trip-kamakura.com/place/135.html(鎌倉観光公式ガイドHP)
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東京・伊豆大島の桜【松本路子の桜旅便り】
野生の桜‘オオシマザクラ’ 日本国内には10種類の野生の桜が分布している。そのうちの一つが‘オオシマザクラ’だ。伊豆大島を中心とした伊豆諸島が主な自生地で、伊豆半島、房総半島、三浦半島など、海岸沿いの暖かい地方にも生育している。 ‘オオシマザクラ’の開花は4月上旬で、3~5cmの白色の花をつけ、桜には珍しくかすかな芳香がある。開花と同時に緑色の若葉をつけ、赤みがかった若葉の‘ヤマザクラ’や、花だけが先に出る‘染井吉野’との違いがある。 伊豆半島の南端で育った私にとって、‘オオシマザクラ’は‘ヤマザクラ’と同様に、なじみのある桜だ。自宅のあった熱帯植物園の裏山で木に登り、口いっぱいに桜の実をほおばった。黒く熟した実は甘酸っぱく、その味の記憶が今も残っている。 伊豆大島への旅 ‘オオシマザクラ’をその故郷である伊豆大島で見たいと、桜の季節に旅立った。東京・竹芝桟橋から高速ジェットで約1時間45分。島に近づくと、白い霞のような木々が見えてきた。船から見ると、桜が海岸線に沿って分布しているのがよく分かる。 伊豆大島は伊豆諸島最大の島で、都心から約120kmの洋上に位置し、行政区域は東京都大島町だ。下船して海岸線の桜を見ながら向かったのは、都立大島公園内の植物園。ここは椿園で知られるが、‘オオシマザクラ’の植栽も豊かで、寒咲き、八重、旗弁を持つ旗桜など、珍しい種類が揃っている。 樹齢800年の‘オオシマザクラ’ 大島を訪ねたらぜひ行きたい場所があった。樹齢800年といわれる桜の古木のあるところだ。島の北東部泉津地区の山中のその木は、幹の周囲6mの大木だが、主幹は倒れ、龍が地面にのたうっているような姿をしている。倒れてはいるが、太い幹から伸びた3本の若い幹に花をつけていた。ほとんど朽ちているように見えるが、根は地中に伸び、新たな息吹を生み出しているのだ。実際に古木に向かい合うと、その生命力に圧倒された。 かつては島に向かう船がこの桜を目印に航海をしたというから、かなりの高木だったのだろう。島の人々は親しみを込めて、この桜を「サクラッ株」と呼んでいる。 「里桜」の親として 野生の桜に対して栽培の桜を「里桜」と呼ぶことがある。植物学上では‘オオシマザクラ’由来の園芸品種を総称して「里桜」としている。園芸品種の中で‘オオシマザクラ’を片親に持つ桜は数多い。 ‘オオシマザクラ’が変異した桜に、鎌倉で発見された‘御車返し(桐ケ谷)’ ‘普賢象’などがある。‘オオシマザクラ’は鎌倉時代に関東の武士によって京都に運ばれた。京都では平安時代より桜の交配技術が進んでおり、この桜を片親としていくつかの新種が生みだされた。江戸時代になるとさらに交配技術が進み、‘関山’ ‘一葉’ ‘白雪’など、現在見ることができる八重桜のほとんどが誕生している。 江戸の末期に生まれた‘染井吉野’も、‘オオシマザクラ’と‘エドヒガン’の種間雑種と考えられている。こちらは江戸の染井村から「吉野桜」として売り出され、明治期に全国的に広まると‘染井吉野’と名づけられた。 桜餅の葉 ‘オオシマザクラ’の花にはほのかな香りがあり、葉を塩漬けにすると香りが際立つ。葉は大きく、産毛が少ないので口当たりもよいことから、塩漬けの後、桜餅に用いられるようになった。「餅桜」の別名で呼ばれるほどで、桜餅のほんのりとした香りは‘オオシマザクラ’のものだ。 現在、桜葉の塩漬けの約7割は、伊豆の西海岸の町で生産されている。葉の収穫時期は5~8月で、樽に塩漬けしてほぼ半年寝かせると、芳香成分のクマリンが発散されるのだという。 木の成育が早く再生力が強いことから、木炭燃料として雑木林に植えられてきて、「薪桜」とも呼ばれる。また浮世絵の版木や建材にも用いられた。そうした実用性に加え、純白に近い、凛とした花姿に惹かれて、この桜を愛でる人も多い。 *植物学の慣例に従い、野生の桜の名前をカタカナで、栽培品種を漢字で表記しています。 Information 都立大島公園 住所:東京都大島町泉津福重2 電話:04992-2-9111 HP: https://www.town.oshima.tokyo.jp/(大島町公式サイト) 伊豆大島観光協会 住所:東京都大島町元町1-3-3 電話:04992-2-2177 HP: www.izu-oshima.or.jp
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京都・奈良 西行ゆかりの桜【松本路子の桜旅便り】
桜を愛した歌人・西行 奈良・吉野山の桜を訪ねてから、桜を多く詠んだ平安末期の歌人・西行のことが気になっていた。 「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」 桜の花が咲き始めると、心が浮き立ち、花とともに宙に舞う、そんな心情だろうか。 またよく知られた歌に、次のようなものがある。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 その歌の通りに、満開の桜の下で往生を遂げている。狂おしいほどの桜への想いを、三十一文字に託した西行の生涯。その一端に触れたくて、足跡をたどる旅に出た。 武士から漂泊の歌人に 西行の出家前の名前は佐藤義清(さとうのりきよ 1118-1190年)。鳥羽上皇の御所の北面を詰所として警護に当たる北面武士だった。23歳の若さで出家したが、その動機には諸説ある。「保元の乱などの政治の混乱に嫌気がさした」「高貴な女性に憧れ、失恋した」「親友の死に世の無常を悟った」などだ。 女性への恋慕の情が溢れる歌を読むと、失恋説をとりたい気持ちにもなるが、若くして妻子を捨て仏門に入るのには、これらの出来事が重なったからではないだろうか。また、歌の道に生涯をかけるという覚悟があったのかも知れない。 勝持寺の‘西行桜’ 京都の西南郊外、大原野に西行が出家した天台宗の寺・勝持寺がある。西行が植えた桜が残っていると知り、ぜひ花を見たいと訪ねた。境内の鐘楼堂脇の枝垂れ桜が満開の枝を広げている。桜は西行が手植えの木から3代目にあたり、代々‘西行桜’として親しまれてきた。西行はこの桜の近くに庵を結んでいたという。 ‘西行桜’のほかに境内には約100本の桜が植えられ、「花の寺」と称される。勝持寺は、京の西山連峰のひとつ小汐山(小塩山)の山麓に位置しているので、‘小汐山’と名づけられた桜も、西行ゆかりの桜といえるかもしれない、 勝持寺の庭には西行が剃髪した際に、鏡代わりに使った鏡石が残され、姿を映したとされる瀬和井の泉がある。宝物館の瑠璃光殿には、室町時代に作られた、寄木造りで朱塗りの西行法師像が納められている。 西行がこの地で詠んだ歌から、世阿弥の作とされる能の演目「西行桜」が生まれた。 「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有りける」 隠遁生活を送るつもりの寺に花見客が押し寄せ、それを桜のせいだと嘆いている。能では西行の夢の中に老木の桜の精が現れ、「それは桜の罪ではない」と告げる。やがて西行と桜の精の魂は同化し、花の精は洛中の桜の名所を謡いながら、行く春を惜しみ舞う、という優美な物語だ。 庵を結んだ二尊院(にそんいん) 出家後しばらくして、西行は京都・嵯峨にある二尊院に庵を結んだ。二尊院は和歌の歌枕として知られる小倉山の麓に位置する。紅葉の名所でもあり、参道にはもみじと桜が交互に植えられ、四季それぞれ趣のある情景が広がる。 「牡鹿鳴く 小倉の山の すそ近み ただひとりすむ 我心かな」 境内には西行庵跡を示す石碑が立ち、寺の近くにある西行井戸の傍らには、この歌の石碑がある。出家後に、孤高の歌人として生きる覚悟のようなものが感じられる歌だ。 吉野山の桜に焦がれて 京都周辺の山寺に住んだ後、西行は高野山に庵を構え、およそ30年にわたりそこを拠点として、諸国行脚の旅に出た。高野山は吉野山に近く、たびたび吉野を訪れ多くの歌を残している。 「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」 「吉野山 こぞの枝折(しをり)の 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねん」 桜の季節が近づくと心は吉野山に飛び、年ごとに訪れては、まだ見ぬ桜を求めて山の奥に足を踏み入れる。桜への想いが溢れる歌だ。 「あくがるる 心はさても 山桜 散りなんのちや 身に帰るべき」 吉野の桜を見ているうちに心が身体から抜け出し桜のもとにある。花が散ってから心は身体に戻ってくるだろうかと、詠う。こうした歌は、単に花を愛でているだけでなく、桜が象徴する何か、また何者かへの哀惜の念が籠められているのではないだろうか。それが読む人の心にさまざまに響き、西行の桜は後の世まで語り継がれている。 奥千本の庵 花の季節に訪れるだけでなく、西行は吉野山の奥深い地に庵を結び、3年ほど暮らしている。 「花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ」 「吉野山 桜が枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にも有るかな」 私が訪れた時も、山の麓では桜が咲いていたが、庵に向かう山道には冷気が漂っていた。3畳ほどの広さの庵の、訪れる人もない暮らしの中で春を待つ気分はいかばかりか、と思う。 「とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば すみ憂からまし」 寂しさが山里でひとり住む身の慰めである、という境地は驚きだ。その寂寥感と無常観が、奥千本の庵の前に立つとより迫ってくる。 庵の近くには、西行が水を汲んだといわれる苔清水が今も湧き出ている。傍らには江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉がここで詠んだ「春雨の こしたにつたふ 清水哉」の句碑があった。芭蕉は西行に憧れて、奥州や諸国を旅し、『奥の細道』などの紀行作品を生み出した。吉野にも2度ほど訪れた記録が残っている。 終焉の地、弘川寺(ひろかわでら) 西行は奥州、四国、伊勢などの地を経て、文治5年(1189年)に、河内国(現大阪府河内郡)の弘川寺に居を構えた。その翌年、病のため73年の生涯を終えている。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 彼がかつて詠んだ歌の通り、亡くなったのは、旧暦2月16日(西暦3月23日)の桜の季節、満月の頃だった。 西行没後550年を経て、江戸時代の歌僧・似雲(じうん)が西行墳を発見。似雲は境内に西行堂を建立し、西行座像を祀った。さらに西行墳の傍らに「花の庵」を建て、生涯そこで暮らしたという。 私が訪ねた日、西行墳にはなぜか一輪の赤いバラが手向けられていた。墓近くには、「ねがはくは…」の歌碑が立つ。頭上の大木の‘ヤマザクラ’が、あたり一面に花びらを散らしていた。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 勝持寺 住所:京都市西京区大原野南春日町1223-1 電話:075-331-0601 HP:http://www.shoujiji.jp 二尊院 住所:京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 電話:075-861-0687 HP:http://nisonin.jp 吉野山観光協会 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430 電話:0746-32-1007 HP:http://www.yoshinoyama-sakura.jp 弘川寺 住所:大阪府南河内郡河南町弘川43 電話:0721-93-2814 HP:http://www.town.kanan.osaka.jp(河南町HP)