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旬の花との出会いを求めて、国内外の名所・名園を訪ね続ける写真家の松本路子さんによる花旅便り。その土地で愛されるようになった背景と見どころをレポートしています。日本各所にゆかりの桜を訪ねる旅の第7弾は、源義経の愛した白拍子・静御前にちなむ‘静桜’と、古都鎌倉に咲く桜をご紹介します。

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‘静桜’に会いたくて鎌倉へ

‘静桜’
‘静桜’。鶴岡八幡宮、流鏑馬(やぶさめ)馬場の東の鳥居近くで、ひっそりと花開く一重の儚げな花。‘染井吉野’とほぼ同時期に開花する。

奈良の吉野山で源義経と別れた白拍子・静御前は、源頼朝の追っ手に捕らえられて鎌倉に送られた。吉野山で2人が数日間隠れ住んだ吉水院(現吉水神社)の書院について綴っていて、鎌倉に‘静桜’という名前の桜が植えられたという話を思い出した。鶴岡八幡宮の一角に咲くという‘静桜’を目指し、今年(2022年)4月、鎌倉を訪れた。

鶴岡八幡宮に咲く‘静桜’
鶴岡八幡宮に咲く‘静桜’。福島県郡山市にある「静御前堂」境内の桜から移植されたもの。

鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)馬場、東の鳥居近くにある‘静桜’は、満開を迎え、やや花の盛りを過ぎていたが、楚々とした花姿で迎えてくれた。静御前は鶴岡八幡宮で、源頼朝や北条政子を前にして、義経への想いを今様で詠い、舞ったことで知られる。

「よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき 」

「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」

義経が吉野山の奥の女人禁制の山に落ち延び、別れざるを得なかった心境と、繰り返し自分の名前を呼んだ愛しい人と過ごした時に戻りたい、との切々たる思いが溢れた歌だ。

頼朝はこの歌に激怒したが、政子がとりなしたという話が『吾妻鏡』に残されている。『吾妻鏡』は北条氏側の記録書なので、史実は定かではないが、静御前の命が絶たれなかったのは事実のようだ。彼女のその後には諸説あり、そのひとつが奥州に向かった義経の後を追ったが、義経が討たれたことを知り、旅の途中で池に身を投げたとするものだ。

静桜と実朝桜
‘静桜’の右隣には‘実朝桜’が植えられている。こちらは八重桜なので、静桜が散った頃に花開く。

福島県郡山市には静御前を祀る「静御前堂」がある。亡くなった静御前を憐れんだ里人が塚を設け、江戸時代に、その場所にお堂が建てられたのだという。堂内には静御前の木像が安置され、近くには同伴した乳母や従者の碑が建っている。堂の傍らには、‘静桜’、‘義経桜’と名づけられた桜が植えられ、毎年3月に「静御前堂例大祭」が執り行われる。鎌倉の‘静桜’は、2005年にここから移植されたものだ。静御前の儚い生涯と悲恋の物語は、桜とともに今に語り継がれている。

静桜

‘実朝桜’と歌碑

‘実朝桜’
‘実朝桜’。淡紅色の八重咲きで、華やかな花姿を見せる。12歳で鎌倉幕府の三代将軍の座に就き、満26歳で落命した悲劇の若武者に捧げられた。

‘静桜’の隣には‘実朝桜’が 植えられている。源実朝は頼朝の二男で、鎌倉幕府三代将軍。武家同士の権力争いの中、鎌倉八幡宮の境内で若くして暗殺された人物だ。歌人としても知られ、百人一首では「鎌倉右大臣」と称され、自作集に『金槐和歌集』がある。桜を詠んだ歌も多く、‘実朝桜’の傍らには、歌碑が建っている。

‘実朝桜’と実朝の桜を詠んだ歌碑
‘実朝桜’と、歌人であった実朝の桜を詠んだ歌碑。

‘実朝桜’は2011年に神奈川県秦野市から移植された八重桜。神奈川県秦野市には実朝の首が葬られた御首塚(みしるしづか)があり、毎年11月に「実朝まつり」が開かれている。

鶴岡八幡宮の桜

鶴岡八幡宮、舞殿と本宮楼門
鶴岡八幡宮、舞殿(右)から本宮への階段。源実朝は参拝後、この階段を降りる途中に暗殺された。

‘静桜’と‘実朝桜’が植樹された鶴岡八幡宮は、源頼朝が開いた鎌倉幕府とともに始まった。頼朝の祖先が由比ヶ浜に祀った氏神を現在の地に移したのが、治承4年(1180年)。以来、鎌倉の守り神、武士の守り神として崇められてきた。

鶴岡八幡宮、舞殿
鶴岡八幡宮の舞殿(まいどの)。毎年4月に、ここで「静の舞」が奉納される。
静御前
鶴岡八幡宮で見かけた静御前人形と、静の詠った歌詞が書かれた竹の栞。静御前にちなむものも多い。

境内には静御前が舞ったとされる若宮回廊跡に舞殿(まいどの)が建てられ、毎年4月に開催される「鎌倉まつり」では、雅楽とともに「静の舞」が奉納される。

鶴岡八幡宮、段葛の桜
鶴岡八幡宮、段葛(だんかずら)の‘染井吉野’。二の鳥居から三の鳥居までの、一段高く作られた歩道を段葛と呼ぶ。段葛は源頼朝が妻政子の安産を祈願して築かせたものとされる。

鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の段葛(だんかずら。一段高く築かれた歩道)には、‘染井吉野’の並木が続く。境内の桜も数多く、なかでも‘オオシマザクラ’の古木が目につく。‘オオシマザクラ’は、伊豆大島を中心とした伊豆諸島に分布する野生の桜だが、伊豆半島や三浦半島の海岸線にも自生している。室町時代に関東武士によって京都に運ばれた‘オオシマザクラ’が、数多くの桜の栽培品種を生み出すもととなった。鎌倉由来の桜‘桐ヶ谷(きりがや)’‘普賢象(ふげんぞう)’は、‘オオシマザクラ’が突然変異して生まれた桜で、こちらも古くから知られている。

鶴岡八幡宮、若宮
鶴岡八幡宮の若宮近くに咲く‘オオシマザクラ’。若宮(下宮)は本宮(上宮)とともに重要文化財の建物。静御前が舞ったのは、若宮の回廊だった。

‘桐ヶ谷’という名前の桜

‘桐ヶ谷’
‘桐ヶ谷’。鎌倉で生まれた桜で‘オオシマザクラ’の突然変異種。‘御車返’、‘八重一重’とも呼ばれる。鎌倉、極楽寺の古木に咲く一重の‘桐ヶ谷’。

‘桐ヶ谷’と名づけられた桜には、‘御車返(みくるまがえし)’ ‘八重一重’という別の呼び名がある。‘桐ヶ谷’は鎌倉・材木座にあった地名から、‘御車返’は車上の2人が、花が八重か一重か言い争って車を引き返したという故事から、‘八重一重’は一本の木に八重と一重の花が同時に咲くことから、とされる。

‘御車返’は、京都に原木のある‘御所御車返’としばし混同されて語られるが、こちらは後水尾天皇が花の見事さから車を引き戻したとされるもので、別の栽培品種である。

‘桐ヶ谷’
‘桐ヶ谷’はひとつの株に一重の花と八重の花が同時に開花する。極楽寺の古木に咲く‘桐ヶ谷’。

極楽寺の桜

極楽寺
極楽寺の茅葺きの山門から、本堂に続く‘染井吉野’の並木。極楽寺は北条義時の三男、重時により正元元年(1259年)に創立された。

極楽寺に‘桐ヶ谷’の古木が1本あると知り、訪ねた。寺の山門から本堂に向かって‘染井吉野’の並木路が続く。本堂の手前では‘桐ヶ谷’が大きく枝を広げていた。ここでは‘八重一重咲き分け桜’との案内板が掲げられており、その名の通り、同じ木に一重と八重の花が咲いていた。北条時宗が手植えした桜の株から発生した木だとの説明があり、それによると‘桐ヶ谷’は鎌倉時代中期から存在していることになる。花は数輪だけだったが、数日後に再び訪れ、一面に開花した桜を見ることができた。

極楽寺本堂と‘桐ヶ谷’の古木
極楽寺本堂と‘桐ヶ谷’の古木。
‘桐ヶ谷’
‘桐ヶ谷’は‘染井吉野’から数日後に満開を迎える。一面に開花する様は見事だ。

‘普賢象’という名前の桜

‘普賢象’
‘普賢象’
‘普賢象’。鎌倉で生まれた桜で、‘オオシマザクラ’の突然変異種。室町時代から知られ、現在も八重桜の代表のひとつとして、広く栽培されている。

日本最古の八重桜である‘普賢象’。白色の花弁の中央から太い雌しべが2本突き出ているさまを、普賢菩薩が乗る白象に見立ててこの名前がつけられた。原木は鎌倉の普賢堂にあったとされ、別名‘普賢堂’。室町時代には京都に伝わっていて、室町幕府三代将軍、足利吉満がこの桜を愛でたという記録が残されている。

*植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。

Information

鶴岡八幡宮

住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

電話:0467-22-0315

HP:https://www.hachimangu.or.jp

極楽寺

住所:神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7

電話:0467-22-3402

HP:http://www.trip-kamakura.com/place/135.html(鎌倉観光公式ガイドHP)

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