まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
-
ストーリー
【バラ物語】英国元皇太子妃ダイアナに捧げられたバラ「プリンセス・オブ・ウェールズ」
ダイアナ元妃に捧げられたバラ 英国の皇太子妃に授けられる称号‘プリンセス・オブ・ウェールズ’を冠した、ダイアナ元妃に捧げられたバラ。 英国王室の元皇太子妃ダイアナは、2021年に生誕60周年を迎えた。没後25年を経た2022年にわが国でも映画が2本同時に公開されるなど、いまだ世界中で愛され続けている。ダイアナ元妃に捧げられたバラには‘プリンセス・オブ・ウェールズ’と‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’(現‘エレガント・レディ’)がある。いずれも気品に満ちた優美な花姿のバラだ。 ‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’として世に出たバラは、現在‘エレガント・レディ’と名前を変えているが、その気品は変わらない。 私がバラ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’に出会ったのは、ロンドンのフランシス家の庭だった。ロンドンを訪れると立ち寄り、また数カ月滞在させてもらったこともあるフランシス家のバックヤードで、1株のバラが楚々とした白花を見せていた。フランシス夫人が、やや誇らしげに「ダイアナ元妃に捧げられたバラだ」と教えてくれた。 スペンサー家の肖像画 それより数年前に、フランシス家のダイニングルームで、1枚の女性の肖像画を見せられたことがある。夫人が「誰かに似ていない?」といたずらっ子のような顔をしてみせた。その絵の人物に心当たりはなかったが、「スペンサー伯爵家の先祖の肖像画だ」という。当時は存命中だったダイアナ元妃に似ているかどうかはやや疑問だったが、肖像を前にして、英国の歴史に立ち会っているような気がしたのを憶えている。 プリンセス誕生 1997年、アメリカでの地雷撲滅キャンペーンの際に撮影されたダイアナ。John Mathew Smith & www.celebrity-photos.com from Laurel Maryland, USA (Archived link), CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales, 1961-1997)は、16世紀から続く英国の貴族スペンサー伯爵家の令嬢として、英国北部サンドリンガムに生まれた。1981年、チャールズ皇太子(現英国国王チャールズ三世)と20歳で結婚。セント・ポール大聖堂での挙式や、バッキンガム宮殿のバルコニーでのウエディングドレス姿のキスは、全世界にテレビ中継され、人々を熱狂の渦に巻き込んだ。 1981年、セント・ポール大聖堂での挙式の後、バッキンガム宮殿に戻った2人はバルコニーに出て国民に手を振った。その時のウエディング・キスは世界中を熱狂させた。Joe Haup/flickr.com ダイアナ元妃のウェディングポートレート。Joe Haup/flickr.com 宮殿での日々 宮殿での生活が始まると、それまで自由に過ごしてきたダイアナは、そのしきたりに馴染めず、またマスコミに過度に追いかけられる生活や、チャールズ皇太子が公務に追われ、共に過ごす時間の少ないことなどから、次第に孤独の中に閉じこもるようになっていった。 離婚への道のり そんな中でもダイアナは1982年に最初の王子ウィリアム(現ウィリアム皇太子)を、1984年にはヘンリー王子を出産。一時期は家族水入らずの日々を過ごしていた。だが皇太子が以前の恋人、カミラ夫人(現チャールズ国王妃)との仲を復活させたことなどにより、1992年に別居。この間、暴露本が出版されたり、電話での会話が盗聴・公開されたりと、2人の仲は泥沼化の様相を呈し、やがて離婚への道のりを辿った。1996年に離婚が正式に成立した後、ダイアナは以前から熱心だった慈善活動に励み、エイズ問題、ハンセン病問題、地雷撤去などに力を尽くした。 パリに死す 離婚後、ダイアナはロンドンの老舗デパート「ハロッズ」のオーナーを父に持つエジプト人のドディ・アルファイドと休暇を過ごす姿が報道されるなど、新たな恋の噂の渦中にあった。1997年、2人が乗った車がパリで事故に会い、ダイアナは病院に運ばれたが死亡。このニュースは世界を駆けめぐり、多くの人々に衝撃を与えた。2人の写真を撮ろうと追いかけていたパパラッチの追跡を逃れんがための交通事故とみられたが、陰謀説も根強く残る出来事だった。 1997年9月6日、ダイアナ元妃の葬列に加わった2人の息子の姿は、全世界に配信され、人々の涙を誘った。John Gomez/Shutterstock.com 36年という短い生涯を閉じたダイアナ元妃。その葬儀は「王室国民葬」としてロンドンで執り行われた。バッキンガム宮殿から、礼拝会場となるウェストミンスター寺院への長い道のりを、母親の棺とともに歩くウィリアム王子とヘンリー王子の姿がテレビ中継され、彼女の死の悲劇性を一層強めた。 礼拝ではダイアナ元妃の弟であるスペンサー卿が弔辞を述べ、王室とマスコミの姉に対する扱いに皮肉を込めて語った。「古代の狩りの女神の名前を授けられた少女が、最後にもっとも狩猟された」と。 ダイアナ元妃の棺は、葬儀の後スペンサー家の地所オルソープに移され、庭園内の湖に浮かぶ小島に葬られた。湖に続く小道にはダイアナ元妃の年齢にちなんで36本のオークの木が植えられ、湖には睡蓮が咲くという。 ドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」 ドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」のチラシ写真。 ダイアナ元皇太子妃の没後25周年を迎えた2022年、「彼女を本当に‘殺した’のは誰?」という衝撃的な言葉とともに上映されたのが、エド・パーキンズ監督のドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」(原題The Princess)。監督は「ダイアナ元皇太子妃の半生には、愛、悲劇、裏切り、復讐―そのすべてが詰まっている。まさに、現代を象徴する物語だ」と語る。 16年間の在りし日のアーカイブ映像から構成された本編は、一人の女性を鮮やかに描き出し、見る者はその人生を追体験する。「歴史上もっとも愛されたプリンセス」は、人々の愛に包まれながら、その「愛」ゆえに数奇な運命へと傾斜していく。映像は美しく、また冷酷で、見る者の心に深い陰影を投げかけた。 映画「スペンサー ダイアナの決意」 ダイアナ元妃を描いた劇映画「スペンサー ダイアナの決意」のチラシ写真。 パブロ・ラライン監督の「スペンサー ダイアナの決意」は「私の道は、私が決める」という力強い言葉が添えられた劇映画。未来の英国王妃の座を拒否し、一人の女性として自分の道を進もうという決意に至ったダイアナを、実話に基づいて描き出している。 ロイヤルファミリーがクリスマスを過ごす、エリザベス女王の私邸があるサンドリアンが舞台。チャールズ皇太子との仲が冷え切り、葛藤の中にあったダイアナが、一歩を踏み出すきっかけとなった地での、決断の時間。彼女の孤独や魂の叫びを演じきった女優クリスチャン・スチュアートは、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。 『プリンセス・ダイアナという生き方』 近年出版されたダイアナ妃に関する2冊の書籍。いずれもひとりの女性としての生き方に焦点を当てている。 『プリンセス・ダイアナとしての生き方』(泉順子著、2019年、丸善プラネット刊)は、サブタイトルに『「自尊」と「自信」への旅』とある。「自尊」と「自信」はダイアナ元妃が手帳に書きとめていた言葉だという。彼女の自ら選択できなかった人生と、自ら選択した人生を描き分けていて興味深い。 『だから自分を変えたのです』(山口路子著、2022年、ブルーモーメント刊)は、サブタイトルに『ダイアナという生き方』とあり、ひとりの女性が「自分は価値がないから愛されない」ともがき続けた末に、強い女として自立する様を追っている。 プリンセス・オブ・ウェールズの称号 プリンセス・オブ・ウェールズの称号は、英国の王位継承者の妻に与えられるものだ。ダイアナ元妃は離婚後もその称号を保持していた。彼女亡き後、チャールズ皇太子(当時)と結婚したカミラ夫人は、それを受け継いだが、名乗ることはなかった。称号にはダイアナ元妃のイメージが色濃く残っているのを慮ってのことだ。 エリザベス女王の逝去に伴い、ダイアナ元妃の長男ウィリアム王子が皇太子となった今、プリンセス・オブ・ウェールズの称号は、キャサリン皇太子妃に与えられた。やがてスペンサー家の血をひくダイアナ元妃の息子が、英国国王となるのだろう。 バラ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’‘Princess of Wales’ ‘プリンセス・オブ・ウェールズ’は「英国のバラ」と呼ばれた、ダイアナ元妃に捧げられたバラ。1997年、イギリス、ハークネス・ローズ社作出。苗木の売り上げの一部は、ダイアナ元妃が長年サポートしてきたチャリティ団体「英国肺病基金」に寄付される。 四季咲き性花姿:白、中輪でカップ咲き花径:7~9cm樹高:70~90cm樹形:直立性 *同名のバラに、1871年にイギリス、トーマス・ラクトン作出の淡いピンク色のオールド・ローズがある。当時のプリンセス・オブ・ウェールズ、アルバート・エドワード皇太子(後のエドワード七世)の妃アレクサンドラに捧げられたバラだ。 バラ‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’(現‘エレガント・レディ’) 苗木の売上金の一部を「ダイアナ記念基金」に寄付することを条件に‘ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ’の名称をエリザベス女王から許可されたが、基金との契約が切れたので、バラの名前は‘エレガント・レディ’に変更された。1998年、アメリカ、ジャクソン&パーキンス社、ケイス・W・ザリー作出。 四季咲き性花姿:クリーム地にピンクの縁取りが入る大輪、剣弁高芯咲き花径:10~12 cm樹高:120~150cm樹形:直立性
-
花物語
名作『星の王子さま』の作者の名を冠したバラ「サン=テグジュペリ」
バラ園での出会い 優雅なフリルを纏った、濃いローズピンク色の大輪花で人目を惹くバラ‘サン=テグジュペリ’。 バラ‘サン=テグジュペリ’に初めて出会ったのは、「軽井沢レイクガーデン」を散策していた時だった。濃いローズピンク色の花は艶やかで、『星の王子さま』のイメージからすると、ちょっと意外な気もしたが、子どもの頃に読んだ本の作者が突然目の前に現れたような嬉しさで、心弾んだ。 「軽井沢レイクガーデン」に咲くバラ‘サン=テグジュペリ’。 『星の王子さま』との出会い 2000年に岩波書店より出版された、オリジナル版の表紙写真。米国で出版された当時の挿画が収められている。作者は第2次世界大戦中にドイツ占領下のフランスからアメリカに亡命し、『星の王子さま』は、その地で1943年に刊行された。 小学生の頃、部屋の本棚に子ども世界文学全集が毎月1冊ずつ届いていたので、いつの間にか手に取って読んでいたのが『星の王子さま』だった。当時内容を十分理解していたとは思えないが、星から来た王子さまのファンタジーに魅せられ、「おとなは、だれもはじめは子どもだった。(しかしそのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」という献辞に添えられた文章を読んで、わくわくしたことを憶えている。 『星の王子さま』の世界 2005年に集英社から出版された『星の王子さま』(池澤夏樹訳)の表紙写真。 世界中で200以上もの言語に翻訳され読まれている『星の王子さま』。サハラ砂漠に不時着した操縦士の「ぼく」が出会った金色の髪の少年は、小さな惑星からやって来た王子さまだった。王子さまとの会話から、いつしか大人になって子どもの心を失いつつある「ぼく」は改めて、「自分にとって大切なものは何か」に向きあう。 『星の王子さま』(岩波書店刊、内藤濯訳)でよく知られたフレーズは、王子が出会ったキツネの言葉「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」王子さまは地球でたくさんのバラを見て、自分の星に残してきた1輪のバラを思う。そしてそのバラこそが自分にとってかけがえのないものだったことに気づく。 文中で1輪のバラや、星、砂漠の井戸などが隠喩するものは、「愛する人」「絆」「ことの真理」だろうか。さらに私が好きなのは、砂漠に降りたった王子さまが最初に出会った花の言葉。「人間?(中略)風に吹かれて歩きまわるのです。根がないんだから、たいへん不自由していますよ」。 「星の王子さま」の作者 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。1933年にフランス・トゥールーズで撮影された写真。この頃パイロットとして、モロッコのカサブランカから西アフリカへの飛行に従事していた。Distributed by Agence France-Presse, Public domain, via Wikimedia Commons 『星の王子さま』の作者、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupery 1900-1944) は、フランスのリヨン生まれ。幼い頃から飛行機に憧れ、軍や民間会社の操縦士を経て、1927年に郵便飛行士となった。同時にこの頃から小説を書き始め、1929年に『南方郵便機』、1931年に『夜間飛行』を出版している。 『夜間飛行』と『南方郵便機』 『夜間飛行』(新潮文庫)の表紙写真。カバー挿画はアニメーション映画監督の宮崎駿が描いている。 新潮文庫の『夜間飛行』には『南方郵便機』も含まれ、サン=テグジュペリが自身の操縦士としての経験をもとに、創生期の郵便飛行業の夜間飛行に賭ける人々を描いている。 『人間の土地』 『人間の土地』(新潮文庫)表紙写真。こちらも挿画の作者は宮崎駿。 操縦士としての実体験をもとにした8編のエッセイが収められた書で、『飛行機と地球』では、次のように綴られている。空中からの彼の視界は、あたかも別の星から地球を見ているかのようだ。「僕らは1個の遊星の上に住んでいる。ときどき飛行機のおかげで、その遊星がわれわれに本来の姿をみせてくれる」。 『砂漠で』では、作者にとって砂漠とは何かを問い、一見空虚と沈黙でしかないその地に深い愛を抱き、生きることの本質を辿る。『砂漠のまんなかで』は、パリ―サイゴン間の最短時間飛行に挑戦中に、不時着したリビヤ砂漠で生死の境を彷徨った体験を綴っている。『星の王子さま』は、こうした体験や思索から生み出されたことがよく分かる初期作品だ。 幸福な子ども時代 フランス・リヨンのベルクール広場に建つサン=テグジュペリと星の王子さまの像。リヨンは作家の生まれた街で、リヨンの国際空港は、2000年に生誕100年を記念して「サン・テグジュペリ国際空港」と命名された。trabantos/Shutterstock.com サン=テグジュペリはその著書『戦う操縦士』(新潮社、堀口大學訳)の中で、「ぼくの出身地は<こども時代>だ。ぼくは、幼少期という場所からやって来たのだ」と書いている。そうした彼の幼少期の様子が分かる本がある。『庭園の五人の子どもたち』(吉田書店刊、谷合裕香子訳)は、サン=テグジュペリの姉シモーヌが日記をもとに、家族が過ごした日々を綴った書だ。 リヨンで生活していた一家は父の死後、母方の大叔母ド・トリコー伯爵夫人の城、サン=モーリス・ド・レマンス城に移り住んだ。リヨンの北東30kmに位置するその城は、菩提樹の並木の先に広大な屋敷と庭園がある場所。5人の子どもたちは庭園を駆けめぐり、動物と遊び、隠れ家をつくるのに精を出した。屋敷の中では、屋根裏部屋の探険や、互いに創作した物語を語り合い、芝居を演じて見せるなど、創造性に富んだ子ども時代を過ごしている。操縦士としての経験と同時に、彼の豊かな感性の源が、この家や庭園にあることがよく分かる。 地中海に消えた作者 サン=テグジュペリは、1943年に亡命中のアメリカからフランス領アルジェリアに戻り、偵察飛行隊に復帰。翌年フランス上空の写真偵察のためコルシカ島から飛び立ち、消息を絶っている。1998年にマルセイユ沖で彼のブレスレットが漁師の網にかかったことから、戦闘機が引き上げられるという出来事があった。ドイツ軍の戦闘機によって撃ち落とされたと推測されたが、その真相は謎のままだ。 バラ‘サン=テグジュペリ’ Saint-Exupery 2003年、フランス、デルバール社作出、『星の王子さま』の作者の名前を冠したバラ。 フリルのかかった濃いローズピンク色の大輪花で、ディープカップから、開花が進むにつれ、クォーターロゼット咲きに変わる艶やかな花。 四季咲き花径:約10cm樹高:120~150cm樹形:直立性
-
ストーリー
古代エジプトの王妃の名を冠したミステリアスなバラ「クイーン・ネフェルティティ」
バラとの出会い 千葉県・八千代市の京成バラ園で見かけたバラ‘クイーン・ネフェルティティ’。 ‘クイーン・ネフェルティティ’というバラがあることを知ったのは、二十数年前のことだった。画廊を経営している友人から、好きなバラとしてその名前を知らされた。さらに彼女は、古代エジプトの王妃ネフェルティティについて何の知識もなかった私に、有名な胸像があること、エジプト王ツタンカーメンの義母であることなどを教えてくれた。 ほどなくしてバラ園で、その名前のバラを見かけたが、なかなかよいタイミングの花姿に出会えず、ずっと気になるバラだった。 ミステリアスなバラ 開花が進むにつれ、花色が変化する様は魅惑的だ。 王妃ネフェルティティのことに興味を抱き始めた頃は、考古学上不明な点が多い人物とされていた。しかし近年、CTスキャンなどで埋蔵品の研究がなされた結果、その存在がかなり明らかになっているようだ。だがミステリアスなことに変わりはなく、その名前を持つバラも、見るたびに花色が異なり、自在に変化する、まさに古代の女王の名にふさわしい佇まいを見せている。 珍しく一度にたくさんの花をつけた姿に出くわした。 王妃ネフェルティティ 1953年にエジプトで発行された、ネフェルティティの胸像をモチーフにした切手。World of Stamps/Shutterstock.com ネフェルティティは、紀元前14世紀半ばのエジプト新王国時代第18王朝の王アクエンアテンの王妃とされる。その名前は、「美しいものが訪れた」を意味するという。アクエンアテン王により、王国の首都がテーベ(現ルクソール)からアケトアテン(現テル・エル・アマルナ)に移され、それまでの多神教から、太陽神アテンを信仰する一神教へと宗教改革が行われた時代を生きた人物だ。 6人の娘がいたことは明らかになっていて、その娘の一人アンケセナーメンが、第18王朝の王ツタンカーメンと婚姻を結んでいる。 義理の息子ツタンカーメン ツタンカーメン王の墓から発見された黄金のマスク。王のミイラに被せられていたマスクで、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収蔵されている。cointree/Shutterstock.com ツタンカーメンは若くして亡くなった第18王朝の王。1922年にその墓がルクソールの「王家の谷」で発見され、マスクや副葬品の財宝などが、盗掘から免れて完全な形で見つかったことから、今ではもっとも知られたエジプト王となった。エジプトの発掘品の中でも秀逸なツタンカーメンのマスクは、カイロにある考古学博物館に所蔵されている。 ネフェルティティの胸像 ベルリン新博物館に所蔵されている「ネフェルティティの胸像」。右目は象嵌だが、左目は細工された跡がないなど、謎に満ちている。Vladimir Wrangel/Shutterstock.com 長い間歴史から消えていた王妃ネフェルティティの名前が現代に蘇ったのは、1912年。ドイツ人考古学者が、テル・エル・アマルナの遺跡で王妃の胸像を発見したのだ。宮廷彫刻家、トトメスの工房跡の砂の中から発見されたその像は、鮮やかな色彩で、3,000年の時を経ているとは思えないものだった。 石灰岩に漆喰で肉付けされた胸像は、高さ約48cm、重さ20kg。細工も見事で、古代エジプト美術の最高傑作として評価が高い。王妃25歳くらいの像だが、右目が象嵌で作られているのに対して、左目には何の細工も施されていないことが謎とされる。 発見の経緯については、1975年にドイツで出版された、エジプト学者フィリップ・ファンデンベルク著『伝説の王妃 ネフェルティティ』(1976年 佑学社刊 金森誠也訳)に詳しい。胸像はその後ドイツに運ばれ、現在はベルリン新博物館に所蔵、展示されている。 『伝説の王妃 ネフェルティティ』(ドイツ語の原題は『ネフェルティティ ひとつの考古学的伝記』。1976年 佑学社刊 金森誠也訳)の表紙写真。 石板は語る アクエンアテン王とネフェルティティが3人の娘たちとともに、太陽神アテンの光線を浴びる姿が刻まれた石板。ベルリン新博物館所蔵。Radiokafka/Shutterstock.com 同書によると、ネフェルティティの胸像が発見された後、1965年にエジプトのカルナックの神殿跡から大量の石灰石板が出土し、その断片を繋ぎ合わせると、王妃についてかなりの部分が明らかになったという。 また発掘された幾多の墓の壁面に描かれた絵図から、当時の様子が偲ばれる。王と王妃が並び、そのまわりで幼い娘たちが遊ぶレリーフや、公園や庭を散歩する姿、黄金の馬車に乗って一家で出かける図などが描かれている。王妃の宮殿には動物園や植物園があり、庭園にはアフリカの奥地で採取された珍しい植物が植えられてあったことが分かる。 統治者としてのネフェルティティ 第19王朝において、アクエンアテン王の宗教改革は否定され、王と王妃はほとんどの記録から抹殺された。だがこうして発見された壁画などから、第18王朝では王妃ネフェルティティが、政治的、宗教的にかなりの力を持っていたのでは、と推測されている。著名な胸像は遷都した頃に作られたというが、当時から新しい都市づくりや宗教改革に不可欠な存在として、君臨していたのではないだろうか。 2022年3月に和訳が出版された、ナショナルジオグラフィック別冊の『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(日経ナショナルジオグラフィック社刊)。 著書『エジプトの女王』の中で、エジプト学の専門家であるカーラ・クーニーは、ネフェルティティを王との共同統治王に位置づけている。残された当時の図像には王と王妃が同等に描かれ、その関係性が明らかだとの説だ。また後に共同統治王として王と並んで描かれたアンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンも、多くの歴史学者によってネフェルティティその人であると推測されている。 アクエンアテン王の死後に王座を継いだスメンクカラーと呼ばれる王もまた、彼女であるという説があるが、これはエジプト学者の間でも意見が大きく分かれるところだ。スメンクカラーの後を継いだのが、ツタンカーメン王である。 墓は何処に 「王家の谷」で新たな発見がなされるたびに、ネフェルティティの墓ではないかと期待されている。エジプト学者たちが彼女の墓を探し続けているのだ。 近年、ツタンカーメン王の墓の奥にいくつかの部屋が存在するとされた。そこにネフェルティティが埋葬されている可能性があるという。19歳の若さで急死したツタンカーメン王は、建設中であった他の王族の墓に同時に葬られたのではないかという推理は、古代史の謎や伝説の王妃の実像に迫る興味深いものだ。 最近の発見 エジプトでは今も発掘作業が進行中だ。2021年には考古学者のグループがエジプトで最大級の古代都市を発見している。ナイル川西岸の砂の中から出現した都市は、アクエンアテン王が、アマルナに遷都する前に統治していた場所だという。高さ3mの家壁、装飾品に加え、製パン所や日常の生活用品も残されている。発掘作業は始まったばかりで、ここからも新たなネフェルティティの実像が浮かび上がってくるかもしれない。 謎多き古代エジプトの王妃。その人物の断片をたどることは、3,000年のかなたへの歴史旅ともいえる。バラの名前から、時空を超える物語に触れることができるのだ。 バラ‘クイーン・ネフェルティティ’Queen Nefertiti 1988年、イギリス、デビッド・オースチン作出で、古代エジプトの王妃ネフェルティティに捧げられた。クリーム、アンズ、オレンジに赤色が加わるなど、開花状況によってさまざまな花色を見せる、ミステリアスなバラ。 四季咲き花径:7~8cmの中輪、クォーターロゼット咲き樹高:100~120cm樹形:半横張り性
-
花物語
「スウィート・ジュリエット」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
ジュリエットとの出会い わが家のバルコニーで長年咲くバラ‘スウィート・ジュリエット’。 バラ‘スウィート・ジュリエット’がわが家にやってきたのは、25年ほど前のこと。当時デビッド・オースチン社の代理店をしていた会社のカタログ写真から、花の色に惹かれて苗を取り寄せたのが始まりだ。ミステリアスなアプリコット色から、優しいピンク色に変化するその花姿は、初期のイングリッシュ・ローズの中でも、群を抜いて気品あふれるものだ。 花弁が開くたびに、さまざまに花色を変化させる。今年5月のバルコニーから。 スウィート・ジュリエットという名前から、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare ,1564-1616)の戯曲『ロミオとジュリエット』を連想したが、当時はバラの名前の由来について語られることもなく、真相は藪の中だった。近年になって、オースチン社から名前の由来について案内されることが増え、やはりシェイクスピア劇からの命名だと分かった。 戯曲『ロミオとジュリエット』 『ロミオとジュリエット』和訳本の表紙。左は新潮文庫で中野好夫訳、右はちくま文庫で松岡和子訳。 シェイクスピアには『ハムレット』など、四大悲劇とされる戯曲があるが、『ロミオとジュリエット』は、重々しい悲劇というよりは、軽妙なセリフを交えた恋愛悲劇として位置づけられている。ロミオとジュリエットの恋の純粋さと衝撃的な結末から、映画やバレエにも多く登場し、最もなじみのあるシェイクスピア作品の一つといえるだろう。 イギリスでの初演は1595年前後で、イタリアのヴェローナが舞台の全5幕。モンタギュー家の一人息子ロミオと、敵対するキャピュレット家の娘ジュリエットが出会い、瞬時に恋に落ちる。両家の対立が激化し、翻弄されながらも愛をつらぬこうとするが、行き違いから2人とも死への道を辿ることになる。儚い結末の物語だ。 オフィーリアの語る「バラという名前」 イギリス、ストラトフォード・アポン・エイボンに残るシェイクスピアの生家。中庭では戯曲に登場するバラや、シェイクスピアに捧げられたバラが花開いていた。 シェイクスピア劇には、多彩な植物が登場する。中でもバラは登場回数が多く、全戯曲の中で、70から100を数えるとされる。よく知られているのが、『ロミオとジュリエット』第2幕第2場のジュリエットのセリフ。 「私の敵はあなたの名前だけ。(中略)名前に何の意味があるの。私たちがバラと呼んでいる花の名前を変えても、その花の甘い香りには何の変わりもないわ」 イギリス人の多くが、英語の‘a rose by any other name’(「花の名前を変えても」)を聞くと、ジュリエットが窓辺で嘆くシーンを思い浮かべるという。 夕陽のスポットライトを浴びて、神秘的な姿を見せる、わが家の‘スウィート・ジュリエット’。 シェイクスピアの時代以前、バラは観賞用というより、薬効を得るために栽培されていた。特に香りは気つけ薬などに用いられ、花の色や形ではなく香りこそが重んじられた。 「名前は人間の身体の一部でもなければ、血肉でもない」と、語り続けるジュリエット。バラの香りが象徴するのは、事の本質。名前や表象にとらわれて、事の本質を見誤るな、という教訓ともとれる言葉だ。 舞台「ロミオとジュリエット」 舞台の「ロミオとジュリエット」は、蜷川幸雄演出で見たことがある。蜷川の演出、松岡和子翻訳のセリフ、若い2人の主役、藤原竜也と鈴木杏の瑞々しい演技など、どれも印象に残っている。 シェイクスピアの生まれ故郷ストラトフォード・アポン・エイボンにある、ロイヤル・シェイクスピア劇場で、ジェレミー・アイアンズが演じる『冬物語』『リチャード二世』を見たことも忘れ難い。この劇場で『ロミオとジュリエット』を上演する機会はあるのだろうか。いつか本場の舞台で、ジュリエットの語る「バラの名前」のセリフを聞いてみたい。 映画「ロミオとジュリエット」 世界的に話題になった映画「ロミオとジュリエット」宣伝チラシ。 舞台と同様に、映画も数多く作られている。私にとって忘れられないのは、1968年製作の「ロミオとジュリエット」。無名の俳優をキャスティングしたことから冒険といわれたが、世界的な大ヒットで、この物語が広く知れわたるきっかけとなった。繰り返し上映されているので、オリビア・ハッセイの演じるジュリエットに魅せられた人も多いだろう。 映画「ロミオ+ジュリエット」の宣伝パンフレット。 1990年代に製作された「ロミオ+ジュリエット」は、シェイクスピア作品を現代劇として大胆に翻案したもの。俳優レオナルド・ディカプリオの事実上のデビュー作で、スタイリッシュなロミオの登場により、悲劇性がより強調されている。 現代劇といえば、ブロードウェイ・ミュージカルのヒット作で、映画にもなった「ウエスト・サイド・ストーリー」も、「ロミオとジュリエット」から着想を得て、ニューヨークを舞台にした物語として展開されている。 バレエと音楽 ウクライナ、ドニプロペトロウシク(現ドニプロ)劇場で、2011年4月に上演されたバレエ「ロミオとジュリエット」の舞台写真。Igor Bulgarin/Shutterstock.com バレエ・ダンサーの肖像を撮り続けていたので、バレエの舞台はよく見ている。だがビデオ録画でしか見ていない英国ロイヤルバレエの舞台が特に印象的だった。1965年に初演された、ケネス・マクミラン振付の「ロミオとジュリエット」。ルドルフ・ヌレエフとマーゴ・フォンテインという2人の伝説の踊り手による、歴史に残る演目だ。 その舞台はロシアの作曲家、セルゲイ・プレコフィエフ作曲の、同名のバレエ音楽を使用したことでも知られている。プレコフィエフは1935年に「ロミオとジュリエット」の52曲からなる全曲を完成させた。登場人物の内面まで描き出すバレエ音楽の誕生は画期的なことで、多くの振付師たちによって舞台上で使用されている。 ヌレエフはその後、プレコフィエフの音楽で「ロミオとジュリエット」の振付を手掛け、パリのオペラ座バレエは、80年代からヌレエフ版の振付で上演している。 バラ‘スウィート・ジュリエット’ Sweet Juliet イギリス、デビッド・オースチンによって、1989年に作出されたイングリッシュ・ローズ。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』のヒロイン、ジュリエットの名前が冠されたバラ。四季咲きで、よく返り咲く。 アプリコット色のカップ咲きから、開花するにつれ淡いピンク色のロゼット咲きに変わる。低温時などにオレンジ色が加わることもある。 花径:7~8cmの中輪樹高:150~180㎝樹形:半直立性 *「ロミオ」の表記は、イタリア語の「ロメオ」より、現在多く使われる英語読みとしました。*文中のセリフは松本路子訳
-
ストーリー
「オフィーリア」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
シェイクスピアへの旅 私がバラ‘オフィーリア’に思いをめぐらせたのは、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア( William Shakespeare,1564-1616 ) ゆかりの地を訪ねる旅の途上だった。英国中部に位置するストラトフォード・アポン・エイボンの町には、シェイクスピアの生家が今も残されている。シェイクスピアの戯曲には、じつにたくさんの植物が登場し、場面を彩る。また、人間の性格や感情の比喩として、花やハーブが扱われているのも興味深い。バラの登場回数も多く、一説には全作品の中で70から100を数えるという。生家の庭には、そうした植物たちが植栽されていた。 庭の一角には、イギリスの育種家、デビッド・オースチンが彼に捧げたバラ‘ウィリアム・シェイクスピア2000’も咲いていた。また、劇の登場人物にちなんだバラがいくつかあり、『ハムレット』に登場する悲劇の女性、オフィーリアという名前のバラがあることを知った。 ●「ウィリアム・シェイクスピア」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】も併せてお読みください。 四大悲劇の一つ『ハムレット』 シェイクスピアの戯曲の中でも四大悲劇の一つとされる『ハムレット』は、主人公ハムレットがデンマーク王である父を叔父(父の弟)に殺され、王位と母を奪われ、復讐するという、全5幕の壮大な物語。今でも世界各地で上演される名作だ。 その戯曲の初演は1602年頃で、当時は商業演劇にたずさわる女優が存在せず、ハムレットの妃候補であるオフィーリアは、少年の俳優が演じたという。歌う場面やリュートを演奏するシーンがあるので、音楽性豊かな俳優が演じることが多かった。 『ハムレット』の中のオフィーリア オフィーリアは愛するハムレットに父親を殺され、ハムレットから冷酷な言葉を投げかけられた衝撃で狂っていく。正気を失ったオフィーリアを前に、彼女の兄が嘆くセリフが印象的だ。 「おお5月のバラよ。 愛しい乙女、 やさしい妹、 可愛いオフィーリア」 わが国にあって5月はバラの花の最盛期だが、イギリスでは5月に咲くのは早咲きの野生のバラで、2、3日で花を散らす。そのバラの儚さが、オフィーリアのイメージに重ねられている。 花が象徴するもの オフィーリアの登場シーンで印象的なのは、エルシノア城内に王や王妃、兄が集まった第四幕第五場で、歌いながら一人ひとりに花やハーブを手渡すところ。 「ローズマリーは思い出のために。祈ってください」(兄もしくはハムレットへ) 「愛して、忘れないで。パンジーは深い思索のために」(兄へ) 「あなたには欺瞞のフェンネルと、不倫を表わすオダマキを」(王へ) 「あなたには昔を悔いる、ヘンルーダ(英名ルー)を」(王妃へ) 気のふれた後なので、奇妙な所業のようにも見えるが、それぞれの草花の持つ花言葉や象徴する意味を考えると、彼女なりの愛や皮肉がうかがえる。 自身へ贈るのも、低木のハーブ「ヘンルーダ」。 「でもこれには『後悔』の言葉以外の意味があるの。『安息日の恵みのハーブ』といって、傷や痛みを治す薬効があるのよ」と語る。 オフィーリアの死 同じく第四幕には、王妃が王と兄にオフィーリアの死を告げる場面がある。 「柳の木が小川に斜めに枝をのばし、輝く流れに銀の葉裏を映していた。 彼女はカラスの花、イラクサ、デイジー、コモンパープルオーキスなどで作った素敵な花輪を持ってやってきた。(中略) 花輪をしだれた枝に掛けようと、柳の木に登った瞬間枝が折れ、彼女は花冠とともに流れに落ちてしまった。 衣は大きく広がり、しばらくは人魚のように川面を漂い、彼女はとぎれとぎれに古い曲を歌っていた。 困難になすすべもないような、また、水に棲む生き物のように。 だがそれも長くは続かず、水を含んで重くなった衣装が、歌声とともに彼女を川底に引きずり込んでしまった。」 この場面の描写は、文学史上もっとも詩的なものとされている。 ミレイの描いた「オフィーリア」 劇中の死の描写に触発され、多くの画家がオフィーリアを描いている。中でも記憶に残るのが、イギリス、ヴィクトリア朝絵画の巨匠ジョン・エヴァレット・ミレイ( Jone Everett Millais, 1829-1896 )の油彩「オフィーリア」。花を手に小川に浮かび、空を見つめる若き女性の姿が胸を打つ。 ドレスの傍には「(死の象徴である)赤いケシ」「(無垢を表す)デイジー」「(愛の象徴)パンジー」などが配され、岸辺には白い野バラが描かれている。ロンドンの国立美術館、テート・ブリテンの所蔵品であるこの絵は、東京でも何回か公開されている。 夏目漱石とミレイの「オフィーリア」 1900年にロンドンに留学した夏目漱石(なつめ そうせき、1867-1916)は、慣れない海外生活で神経衰弱に陥り、苦難の日々を送っていた。そんな中、出会ったのが、ミレイの絵画「オフィーリア」。のちに画家が主人公の小説『草枕』を書く動機ともなり、作中でこの絵画について何度か言及している。 詩の中のオフィーリア オフィーリアの生涯とその死に触発されて詩を書いたのが、フランスの詩人、アルチュール・ランボー ( Arthur Rimbaud,1854-1891 )。「オフィーリア」は、1870年、ランボー16歳の時の詩だ。私はランボー詩集を、詩人中原中也 (なかはら ちゅうや、1907-1937) の訳で読んだ。 「星眠る暗く静かな浪の上、 蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、 漂ふ、いともゆるやかに長きかつぎに横たはり、 遠くの森では鳴ってゐます鹿追ひ詰めし合図の笛 (後略)」 15歳から20歳までという短い期間のみ詩作し、その後世界を放浪した後、アフリカで貿易商となったランボー。その生涯と詩は、今も多くの人々を魅了してやまない。訳者の中原中也もまた、コアな読者の多い詩人だ。二人とも30代の若さでこの世を去っている。オフィーリアの死の場面が、夭折の詩人たちの琴線に触れ、現代に伝えられているのには感慨深いものがある。 バラ‘オフィーリア(オフェリア)Ophelia’ イギリスのウィリアム・ポールによって、1912年に紹介されたバラ。嵐で地面に落ちた実から生まれたと伝えられている。モダンローズの代表花として、100年以上愛され続けている歴史的品種。同時に、マザー・ローズ(交配親)としても知られる。現代の名花で‘オフィーリア’の血を引かないものはないといわれるほど、多くのバラの誕生に貢献している。四季咲き。 花姿:アプリコットがかった淡いピンク色の、剣弁高芯咲き。 花径:9~10cm。 樹高:100~130cm、樹形:半直立性。 香り:ダマスクとティーの混ざった香りは「オフィーリア香」と呼ばれる。 枝変わりに、‘つるオフィーリア’ ‘レディ・シルビア’ ‘マダム・バタフライ’がある。 *文中『ハムレット』のセリフは、松本路子訳
-
ストーリー
「マリア・カラス」【松本路子のバラの名前・出会いの物語 】
歌姫がやってきた マリア・カラスの名前が冠されたバラがわが家にやってきたのは、二十数年前のこと。バラ園のカタログから、その名前に惹かれて苗を求めた。バラ‘マリア・カラス’は「ドラマチックな人生を送った、20世紀最大のオペラ歌手」という名声に相応しく、濃いローズピンク色の大輪の花を咲かせた。 マリア・カラスは奔放な恋の噂と、映像が示す圧倒的な存在感で、オペラとは縁のない少女時代の私にもその名が記憶されていた。大人になってその歌声に耳を傾けると、透き通った高音の中に含まれるまろやかで甘美な響きに魅せられた。 わが家では、バラたちが夕陽のスポットライトを浴びる午後の遅い時間が、彼女の出番だ。バルコニーにCDデッキを持ち込んで、「トスカ」の一節「歌に生き、恋に生き」を流せば、深みのあるローズ色の花弁はひときわ輝いて見えた。 ディーバ(歌姫)への道 マリア・カラス(Maria Callas 1923-1977)はギリシャ系移民の両親のもと、アメリカ、ニューヨークに生まれた。1937年、母とともにギリシャに移り住み、アテネ音楽院で学んだ。17歳から入学資格が与えられるところを、年を偽り13歳で入学した、とドキュメンタリー映画の中で本人が語っている。 ソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴの指導を受け、才能を開花させたカラスは、アテネ歌劇場でデビュー後、1950年代にはミラノ・スカラ座、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、パリ・オペラ座など、世界各地の名だたるオペラハウスに出演。優れた歌唱力と心理描写で「オペラの登場人物に血肉を与えた歌い手」と評された。 主要なレパートリー ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」、ベッリーニの「ノルマ」「夢遊病の女」、ヴェルディの「椿姫」、プッチーニの「トスカ」「トゥーランドット」などが主要なレパートリーとされ、繰り返し歌われ、また録音もされている。 当たり役に悲劇の主人公が多く、哀愁を込めた歌声が記憶に残るのは、家族からの愛や結婚後の夫からの愛に恵まれず、常に満たされない思いを抱えていたからかも知れない。それが演じる人物に深い陰影を与えている。「ノルマ」の劇中、第1幕で歌われる「清らかな女神よ」は「天の平和を地上にも」と、祈りにも似た歌声で聴く者の心を震わせる。 ドキュメンタリー映画「私はマリア・カラス」 マリア・カラスについての伝記や映画は驚くほど多い。ドラマチックな生涯に光を当てようと、あらゆる角度からの試みがなされている。中でも2017年にフランスで公開されたドキュメンタリー映画「私はマリア・カラス」(原題「Maria by Maria」)は、トム・ヴォルフ監督が3年をかけて集めた、本人の肉声、未完の自叙伝、手紙文、未公開舞台やプライベート映像で構成され、興味深い。そこにはマリア・カラスという歌い手の強い信念とともに、ひとりの女性としての揺れ動く心情が描き出されている。 オナシスとの恋 マリア・カラスを語るのに、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシスの存在は欠かせないだろう。1957年にイタリア、ヴェニスでオナシスに出会った彼女は、「彼を心から愛している」「神によってひきあわされた相手」と語っている。映画の中にビゼー作曲「カルメン」から「恋は野の鳥」を歌うシーンがあるが、実に幸せそうな表情を見せていた。オナシスの愛に包まれていた頃の歌声ではないだろうか。 それは、最初は母親から、次はマネージャーを務めた夫から、絶え間なく舞台に立つことを要求された彼女にとって、歌う機会を自由に選べるという歓びの時でもあった。 失意の時 オナシスとマリア・カラスの関係は世界的に知れわたっていた。だがオナシスは突然、元アメリカ大統領夫人のジャクリーヌ・ケネディとの結婚を発表。その時のことをカラスは「一撃された気分。呼吸ができないほどだった。9年もともに過ごしていたのに、彼の結婚を新聞で知ったのだ」と語っている。 ほどなくしてオナシスはカラスのもとに戻ってきたが、彼女が受けた心の傷は癒えないままだった。 幕引きの時 1958年、気管支の炎症で突然声が出なくなるというアクシデントに見舞われ、ローマでの公演をキャンセル。喉を酷使したことと、不摂生な生活が原因だった。その後復活を果たしたが、1965年にパリ・オペラ座での公演を途中で中止せざるを得ない状況に陥り、これが最後のオペラの舞台となった。 エーゲ海の彼方 再起を望んでいたが、カラスは1977年にパリの自宅で逝去。53年の生涯だった。一度はパリ20区にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、1979年にギリシャ沖のエーゲ海に散骨された。 私がカラスのことを思う時、浮かんでくる映画の情景がある。イタリアのフェディリコ・フェリーニ監督の「そして船は行く」のワン・シーン。オペラ歌手が亡くなり、友人たちが遺灰を彼女の故郷の島に近い海に撒くために船出する。島影が見えたころ、歌声が響く甲板から、風に乗った灰が静かに流れるように空に、海に消えていく。映画のストーリーの詳細は思い出せないが、その場面だけが鮮明に記憶の中に残っている。 完成した自叙伝 マリア・カラスはインタビュー映像の中で、オペラについて、「私にとって不可欠なもの。自己表現の手段。私の宇宙」と語っている。書いていた自叙伝は未完のまま残されたが、インタビューでは次のように語っている。 「私の自叙伝は、歌の中に綴られている。歌は私の唯一の言語だから」 マリア・カラスの歌声は、今も多くの人を魅了してやまない。2019年には全盛期の歌声から名アリア33曲を集めたCD2枚組が発売された。それはひとりの女性の、完成された自叙伝にほかならないだろう。 バラ‘マリア・カラス Maria Callas’ フランス、メイアン社のマリー=ルイーズ・メイアンが1965年に作出。この年オペラの舞台を事実上引退したマリア・カラスに捧げられた。 濃いローズピンク色の半剣弁高芯咲き。四季咲き。 花径10cmの大輪。 樹高120~150cm、樹形は半直立性。 枝変わりに‘つるマリア・カラス’がある。 バルコニーの‘マリア・カラス’は、わが家に数年間滞在した後、彼女の大ファンだという友人宅に移って行った。庭に地植えされたバラは、大きく枝を伸ばし、5月の空に向かい高らかにその姿を歌い上げていた。
-
ストーリー
クルクマが咲いた!【松本路子のルーフバルコニー便り】
クルクマの花に魅せられて 園芸会社のカタログ写真を見ていて、ずっと気になっていた花がある。東南アジアを旅していてよく見かけた、クルクマという名前の花だ。球根で育つ熱帯植物で、都心のマンションのバルコニーでは育てられるか心もとなかったので、写真を眺めるだけになっていた。 それが昨年の夏、屋久島に住む友人からクルクマの切り花がどっさりと送られてきた。自宅の畑で栽培しているという。エメラルド、白、淡いピンクとそれぞれに鮮やかな花色で、花姿もトロピカル! すっかり心奪われ、がぜん育ててみたいという思いにとらわれた。バルコニーでバナナの木を育てて2年目、うまく冬越しして、たくさんの葉が繁っていることが、背中を押してくれた。 球根が届いた! 友人に育ててみたいと伝えると、その年の秋に畑から掘り上げた球根が届いた。球根は発芽体の下に、いくつかの乳白色の袋状のものがぶら下がっている。その不思議な物体は、ミルクタンクとも呼ばれる養分貯蔵体だという。エメラルド色と白色の球根は大きめの鉢に植え付け、ピンク色の球根は春に植え付けるように室内に保管しておいた。バルコニーで冬越しできるか分からなかったので、植え付け時期を変えてみたのだ。 球根の半分は三浦半島に住むイラストレーターの友人に届けた。彼女と知り合ったのはタイのチェンマイだったので、この花は懐かしいに違いないと思ったのだ。クルクマは東南アジアの中でも、特にタイでの印象が強い。バンコクの青果市場では、野菜の脇にクルクマの束が並んでいたので、仏花として用いられるのかもしれない。英名は「シャムのチューリップ」〈Siam tulip〉で、シャムはタイの旧名なので、やはりタイで多く見かける花なのだろう。 クルクマが咲いた! クルクマの球根は、なかなか発芽しなかった。今年1月に何回か雪が降り、バルコニーでも40cmほど積もったので、半ばあきらめていたが、6月になって暑い日が続くと葉が伸びてきた。その後、花芽が1本顔を出したのは7月中旬だった。すっくと立つエメラルド色の花を見たときは、たとえようもなく嬉しかった。熱帯植物が積雪に耐え、都心のマンションで花開いたのだ。 1本の開花だけでもよしとしようと思っていたが、やがて白色の花も咲き始めた。5月に植え付けた球根からもピンクの花が咲いた。三浦半島の友人からも開花の便りが届いた。近所に住む友人が、到来物の桃を届けてくれた時、クルクマの小さな花束を手渡すことができたのも、嬉しいことだった。 屋久島のクルクマ畑 咲いた花の写真を屋久島の友人に送ると、クルクマ畑の写真が届いた。今年は例年のように一斉に開花せず、花つきが段階的だという。畑の広さは想像以上で、友人のパートナーが栽培する花は、住まいのある集落の市場に出荷するほかは、友だちや近所の人たちに手渡されるそうだ。 東京育ちの友人が、元NHKのカメラマンだった夫と屋久島に移住したのは、1980年代のこと。私が雑誌の撮影で屋久島を訪れた時、同行した編集者が彼女の大学時代の同級生だったことから、親しく話をする縁を頂いた。その後も折に触れ屋久島での日々の話を聞き、自然豊かな地での、のびやかな暮らしぶりに思いを馳せてきた。その思いがクルクマにつながっている。 クルクマとは? その栽培法を探る クルクマ(Curcuma)は、ショウガ科クルクマ属(ウコン属)の多年草の熱帯植物。おもな原産地はマレー半島、インド、アフリカなどで、50種類ほどの原種が分布する。カレー粉などに使われるターメリック(ウコン)と同属。30~50cmほどの高さの、花と呼ばれるトーチ形の部分は苞で、正確にはいくつもの苞の中に小さく咲くのが花だ。 最近、都心の花屋でクルクマが並んでいるのを見かけた。これから切り花としても需要が高まるかもしれない。 【植え付け】 球根の植え付けは、関東平野部では、5月初旬から中旬にかけてが適期とされる。土の表面から4~5cm下の深さに発芽体と養分貯蔵体を植え付ける。 鉢植えの土は、小粒の赤玉土7に腐葉土3を混ぜたもの、もしくは市販の園芸用土。水はけがよく、保水性のある用土が望ましい。 【置き場所】 高温多湿を好むので、日当たりのよい場所で育てる。 【水やり】 鉢植えは土の表面が乾いたら、鉢底から流れるまでたっぷりと水を与える。乾燥を嫌うので、夏場の水枯れに注意。 【肥料】 多肥を好むので、植えつけの時に元肥、発芽後には液肥を月2~3回与える。 【花後の手入れ】 ほぼ1カ月にわたる開花後は、花がらを摘み、有機肥料などのお礼肥を与える。秋まで葉を残して球根を育て、10月から11月中旬、葉が枯れる直前に掘り上げ、室内で保管する。 【病害虫】 特にない。 【増やし方】 1個の株から3~4個の小球根ができるので、分球する。 わが家では、秋に植え付けた球根より、5月に植え付けた球根のほうが開花は遅かったが、花芽がたくさん付いた。花の少ない真夏に元気な姿を見せてくれるクルクマ。これから少しずつ増やしていきたいと思っている。
-
ストーリー
「オールド・ブラッシュ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
歴史上のバラ 中国原産で、わが国には室町時代以前に渡来し、コウシンバラの一種として知られる‘オールド・ブラッシュ’。18世紀にイギリスにもたらされ、それまでにヨーロッパにはなかった四季咲きのバラの誕生に貢献した品種の一つだ。私が初めて‘オールド・ブラッシュ’に出会ったのは、皇居東御苑にあるバラ園。一見すると近代バラのようにも見えるが、そのルーツをたどると、壮大なバラの歴史に触れることができる。 皇居東御苑バラ園での出会い バラ好きの友人に所在を教えられて、皇居東御苑に向かったのは十数年前のこと。江戸城本丸・二の丸跡にある東御苑は21万㎡の広大な庭園で、その一画に日本の野生バラを中心とするバラが植栽されている。 バラはヨーロッパの花のイメージが強いが、ノイバラやハマナス、サンショウバラを見て、改めて日本がバラの宝庫であることに気付かされた。ここでの出会いが後に『日本のバラ』(淡交社刊)を出版するきっかけとなっている。 日本の野生バラと同時に、早い時期に中国から渡来したモッコウバラ、ナニワイバラ、イザヨイバラなどもあり、そこで見かけたのが、‘オールド・ブラッシュ’だった。 ザ・フォー・スタッド・ローズ・オブ・チャイナ 18世紀、最初に中国からヨーロッパにもたらされたバラは4品種で、英語で「the Four Stud Chinas(中国からの4種)」と呼ばれている。‘スレイターズ・クリムゾン・チャイナ’ ‘パーソンズ・ピンク・チャイナ’(‘オールド・ブラッシュ’) ‘ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センテッド・ローズ’(‘ロサ・オドラータ’) ‘パークス・イエロー・ティー・センテッド・チャイナ’がそれで、前2品種はロサ・キネンシス系統、後2品種はティー・ローズ系統とされる。 これら4品種を筆頭に、東インド会社などを経由して中国からヨーロッパにわたったバラは、バラの歴史に一大改革をもたらした。ヨーロッパのバラと交配させることにより、今までになかった四季咲き性のバラ、かつて見られなかった深紅色のバラが誕生したのだ。こうして生まれたバラが、近代バラ(モダン・ローズ)以前の、黎明期の園芸品種となっている。当時のバラの姿は、植物画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの描いた『バラ図譜』の中に見ることができる。 オールド・ブラッシュ(パーソンズ・ピンク・チャイナ) ‘オールド・ブラッシュ’は、植物学者でプラントハンターのジョセフ・バンクス卿によってイギリスにもたらされた。苗を入手したジョン・パーソンズが、ロンドンの北西、リックマンズワースの自園で開花させたことから、‘パーソンズ・ピンク・チャイナ’とも呼ばれる。 このバラの噂を聞きつけたナポレオン皇妃ジョゼフィーヌは、マルメゾン城のバラ園に苗を迎え入れた。さらにフランスを経由してインド洋の仏領ブルボン島(現・レユニオン島)に渡った‘オールド・ブラッシュ’が、他のバラと自然交配した結果、最初のブルボンローズが誕生している。 樹齢200年の‘オールド・ブラッシュ’ ベルギーのバラ園を訪ねた旅の途中、東南部のリエージュ近郊にあるヘックス城に立ち寄った。野生のバラやオールド・ローズが咲き乱れる城の庭園の一角に、樹齢200年の‘オールド・ブラッシュ’があると聞いていたので、出会うのを楽しみにしていた。東インド会社を通して、当時のリエージュ司教に届けられたものだという。 200年という樹齢から巨大な木を想像していたが、バラは1mほどに切り詰められ、小さなピンクの花がいくつか咲いているだけだった。いささか拍子抜けしたが、200年にわたりそこに在り続けたことを思えば、改めてバラの生命力に驚嘆させられた。 コウシンバラと呼ばれて ‘オールド・ブラッシュ’がいつ頃わが国に渡来したかは定かではないが、室町時代以前ではないかと推測されている。春から庚申月(旧暦の9月くらい)まで咲き続けることから、コウシンバラと呼ばれた。一説には60日に1度めぐってくる庚申の日のように、繰り返し咲くからともいわれる。 『バラの誕生』の著者・大場秀章氏によると、『古今和歌集』や『源氏物語』に登場する薔薇(そうび)が、記述された内容からコウシンバラと解釈されている。図版で花の姿が現れるのは、1309年完成の『春日権現験記絵巻』(かすがごんげんげんきえまき)の巻五からだという。 江戸時代になると「長春花」「月季花」「かうしんばな」として、園芸書にも登場している。いずれも繰り返し咲くことから付けられた名前だ。 佐倉草ぶえの丘バラ園 今年5月に訪れた佐倉草ぶえの丘バラ園では、満開の‘オールド・ブラッシュ’に出会うことができた。園内は15のエリアに分けられ、‘オールド・ブラッシュ’は、「ルドゥーテに描かれたバラコーナー」と「中国のバラコーナー」の2カ所で盛大に花開いていた。 バラ‘オールド・ブラッシュ’ Rosa Chinensis ‘Old Blush’ ‘オールド・ブラッシュ’は登録名で、前述の‘パーソンズ・ピンク・チャイナ’のほか、‘マンスリー・ローズ’ ‘オールド・チャイナ・マンスリー’とも呼ばれる。 作出年は、10世紀頃の中国と推測されているが、イギリスで確認された「1793年以前」と表記されることが多い。作出者は不明。 四季咲き。やや早咲きで、4月末から12月くらいまで繰り返し咲く。 濃淡のピンク色のグラデーションが優美な、半八重のカップ咲き。 花径5~7cm。 樹高100~120cmで、樹形は半直立。 枝変わりに‘つるオールド・ブラッシュ’がある。
-
ストーリー
「プリンセス・ド・モナコ」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】
プリンセスがやってきた 「地中海の宝石」と称されるヨーロッパのモナコ公国。その公妃に捧げられたバラ‘プリンセス・ド・モナコ’が我が家にやってきたのは、二十数年前。友人が誕生日祝いにプレゼントしてくれた苗木が、翌年から開花した。白い花に鮮やかなピンクの縁取りが際立つ、気品あふれる花姿だ。花を愛し、特にバラに関しては特別な思いを抱いていたモナコ公国グレース公妃。バラの名前とともに、その生涯の断片に触れてみたい。 女優からプリンセスへ モナコ公国グレース公妃(Princesse Grace de Monaco 1929-1982)は、ハリウッド女優グレース・ケリーからプリンセスへと、華麗な変身を遂げたことで知られる。彼女の出演した映画は今でも繰り返し上映されるので、私にとっても、女優グレース・ケリーのスクリーン上の姿はなじみ深いものだ。 グレース・ケリーをプリンセスに迎えたことで、ヨーロッパの小国モナコもさらに輝きを増すことになった。そしてプリンセスが自ら運転する車で断崖から転落し、52歳という若さで亡くなったという劇的な出来事もまた、一つの伝説のように語り継がれている。 女優グレース・ケリー誕生 グレース・パトリシア・ケリーは、アメリカペンシルバニア州フィラデルフィアの裕福な家庭に生まれ、厳格な母親のもとで、厳しいしつけを受けて育った。少女時代にバレエと演劇に出会い、両親の反対を押して18歳でニュ―ヨークにある演劇学校に入学。モデルや舞台の端役を経て、テレビや映画に出演するようになった。 グレース・ケリーを映画女優としてスターダムに押し上げたのは、アルフレッド・ヒッチコック監督だろう。『ダイヤルMを廻せ!』(1954年) 『裏窓』(1954年) 『泥棒成金』(1955年)の3作によって、気品と茶目っ気あふれる彼女の姿は世界中の人々を虜にした。ヒッチコックは一見クールに見えるグレースの内に秘めた情熱を見抜き、「雪におおわれた活火山」と評している。彼女の後の生涯に触れる時、この言葉は興味深い。 レーニエ大公との出会い グレース・ケリーは映画『喝采』(1954年)で、アカデミー主演女優賞を受賞。『喝采』が上映されるのを機に、1955年5月、カンヌ映画祭に出席することになった。グレースのカンヌ行きを聞きつけたフランスの雑誌『パリ・マッチ』が企画したのが、彼女とモナコ大公レーニエⅢ世の2人をモナコ宮殿で写真撮影することだった。グレースは気が進まないまま、断れずにモナコに向かった。 雑誌の企画による出会いだったが、2人は思いのほか打ち解けて、庭園を散策しながら語り合った。グレースはカンヌを去る時、ニューヨークの自宅の住所を記した礼状をレーニエ大公宛にしたためた。そこから2人の文通が始まり、互いの思いを交換したのだという。 アメリカでのプロポーズ 同年のクリスマスに、フィラデルフィアのケリー家を訪れたレーニエ大公は、数日を共に過ごす中で、グレースにプロポーズ。レーニエ大公へ直接インタビューしたジェフリー・ロビンソンの著書『グレース・オブ・モナコ』(角川文庫刊。藤沢ゆき・小松美都訳) によると、大公は以下のように語ったという。「フィラデルフィアで再会して互いに確信しました。今したいことは一緒に生きることだと。(中略) 2人で話し合い、考え、前に踏み出そうと決めたのです。愛しあっていましたから」。 モナコ公妃誕生 ニューヨークを出航した客船コンスティテューション号が、8日間の船旅の後、モナコのヘラクレス湾に到着したのは、1956年4月。湾でグレースを出迎えたのは、自家用のモーターヨットに乗ったレーニエ大公で、彼女はバラのブーケを手に客船からヨットに乗り移り、モナコに入国という劇的なシーンを演じている。女優としての絶頂期のキャリアを捨て、未知なる世界に降り立った彼女の新たな舞台への登場だった。 宮殿とモナコ大聖堂での2度にわたる結婚の儀式は、テレビを通じて配信され、豪華なウェディングドレスと125年前に織られたバラのレースのベールを纏ったグレースの姿は、ため息とともに全世界を駆け巡った。 困難と栄光と 前述のロビンソンの著書によると、モナコ国民はグレース・ケリーがモナコにやってきたのは大歓迎だったが、彼女のことをグレース公妃と呼び始めるのには4、5年かかったという。彼女自身もこの間は多くの困難を抱えていた。まずは言葉の問題。フランス語を日常的に使えるようになるまでには多くの時間を費やしたことだろう。さらに一国のプリンセスとしての立ち位置の模索。 そうした困難を乗り越え、グレース公妃がモナコにもたらしたものは多大だ。公務と外交の場で魅力を発揮し、そのニュースが世界中に発信されると、多くの人々がモナコを訪れるようになった。赤十字の総裁としての社会活動、文化や芸術の面での新しい試み、劇場の再建など、功績は数えきれない。 私にとって印象的なのは、何度か見たモンテカルロバレエ団の舞台。公妃は「ダンス・アカデミー・モナコ」を創立し、バレエダンサーの育成に努めた。その意志を継いだ娘のキャロリーヌ王女が1985年に設立したのがモンテカルロバレエ団。ジャン=クリストフ・マイヨーが率いるバレエ団は、古典の名作を現代風にアレンジした独特の舞台を展開し、異彩を放っている。2022年11月には来日し、シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』を上演する予定だ。 花への思い 少女の頃から庭の一角に自分の花壇を持っていたというグレースの、花への思いには格別なものがある。1966年にモンテカルロ国際フラワーショーを提案。ショーは長年続き、モナコ・ガーデン・クラブを設立後、理事長となった公妃は、花を通じた芸術振興に取り組んだ。 フラワーショーで押し花画に出会い、花びらや葉をプレスして乾燥し、台紙の上で自由に構成するというコラージュ作品を、自ら創作するようになった。自分を表現する手段を見つけたのだ。何時間もアトリエに籠って創作は続けられた。1980年に出版された『MY BOOK OF FLOWERS』(Doubleday刊)の中で、「花への愛は私に多くの扉を開いてくれました」と述べている。押し花絵画はパリやニューヨークのギャラリーで展示され、わが国でも2006年、2016年とお披露目されている。 永遠への道 キャロリーヌ王女、アルベール王子(現・モナコ大公アルベールⅡ世)、ステファニー王女と3人の子どもに囲まれ、レーニエ大公とともに撮られた幸せそうな家族写真。だがその出来事は突然にやってきた。1982年9月のことだ。南仏ロックアジェルの別荘からモナコに帰る途中、公妃の運転する車が、カーブを曲がりきれずに転落。彼女は52年の生涯を閉じた。訃報は世界を駆けめぐり、人々に与えた衝撃の大きさは計り知れない。 私はニースからモナコへ車で移動したことがあるが、カーブも多く、眼下に地中海を見下ろす切り立った断崖が続く、険しい道だった。小国のモナコを「ヨーロッパの宝石」へと変えた公妃は、モナコ大聖堂に眠り、今でも墓前に花が絶えることがない。「宝石」は彼女の記憶とともに、永遠に輝き続けるに違いない。 公妃のバラ園 グレース公妃が花の中で最も愛したのはバラ。公妃亡き後、レーニエ大公によって1984年にフォンヴィエイユ公園の一画に、グレース公妃バラ園(Roseraie Princesse Grace)が造られた。創設30周年を迎えた2014年、バラ園の敷地は5,000㎡に拡張され、300種類、8,000本のバラが植えられた。バラ園は8つのテーマに分けられ、ウェブサイト(www.roseraie.mc)で写真とともに、それぞれのバラの所在場所を知ることができる。 また30周年のリニューアルに向けて、バラ園の写真集(『Roseraie PRINCESSE GRACE』Stile Libero刊)が、3カ国語で出版されている。 公妃は前述の『MY BOOK OF FLOWERS』で、バラについて熱を込めて語っている。 「バラはどうしてこんなにも特別な花なのでしょう。たぶん長い時をかけて作り上げられた神秘性のためかも知れません。絶え間なく与えてくれる歓びのせいかも。人は言葉で表現できない時、それをバラに託してきました。(中略)野生のバラからハイブリッドのバラまで、その美しさは比類のないものです」(松本路子訳) 家族のバラ バラ園ではバラ‘プリンセス・ド・モナコ’とともに、公妃の像が立っている。さらに夫、レーニエ大公の即位50周年を記念したバラ‘ジュビレ・デュ・プリンス・ド・モナコ’、3人の子どもの名前を冠したバラ‘キャロリーヌ・ド・モナコ’、‘ プリンス・アルベールⅡ世・ド・モナコ’、‘ステファニー・ド・モナコ’、現モナコ大公アルベールⅡ世の公妃のバラ‘プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ’などが周囲に花開き、家族に囲まれた像は、かすかに微笑んで見えた。 バラ‘プリンセス・ド・モナコ Prinsesse de Monaco’ モナコ公妃に捧げられたバラ。モナコ・ガーデン・クラブが運営する、第1回モナコ国際バラコンクールに審査委員長として出席した公妃が、一目で気に入ったバラにこの名前が付けられた(‘プリンセス・ドゥ・モナコ’と呼ばれることもある)。 1981年、フランス、マリー=ルイーズ・メイアン作出。 木立ち性の四季咲きバラ。 花は花径10~12cmの大輪で、白地にピンクの覆輪が入る。 樹高は100~150cm。樹形は半横張り性。 枝変わりに‘つるプリンセス・ド・モナコ’がある。 Information Roseraie Princesse Grace 住所:Av.des Papalins 98000 Monaco 電話:+377 98 98 27 27 開園:24時間 入園料:無料 モナコへのアクセス:陸路は、パリからモンテカルロ駅までTGVで約6時間。空路はニース・コート・ダジュール国際空港へ。空港からモナコまで、列車で約20分、バスで約50分、ヘリコプターで約7分。 HP: http://www.roseraie.mc
-
ストーリー
「ファッションデザイナーたちのバラ」【バラの名前・出会いの物語】
華麗なるファッションの世界 バラ園巡りをしていると、思いがけない人物の名前を冠したバラに出会うことがある。ファッションデザイナーに捧げられたバラもその例だ。シャネル、ソニア・リキエル、ピエール・カルダンなど、服飾の世界だけでなく、女性たちのライフスタイルにまで大きく影響を与えたデザインの先駆者たち。バラの名前とともに、その人物像の一端に触れてみたい。 シャネル「コルセットからの解放」 2022年6月、東京・丸の内の三菱一号館美術館で「ガブリエル・シャネル展 Manifeste de mode」が始まった(2022年9月25日まで)。シャネルの創業者、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel 1983-1971)は、「20世紀でもっとも影響力の大きな女性ファッションデザイナー」と評される。東京での展示は、パリの美術館での大規模な回顧展を再構成したもので、8つのテーマ別にデザイナーの生涯にわたる仕事を、その理念とともに紹介している。 ココ・シャネルの愛称で知られる彼女の功績は、何といっても下着やコルセットで身体を締め付ける、19世紀の装飾的な服装から女性を解放したことにある。実用的で、着心地のよさを中心にしたファッションを生みだしたのだ。それは20世紀初頭、女性の社会進出が始まった時期と無縁ではない。男性の服であったスーツ、ジャケット、パンタロンを女性用にデザインして、機能性とエレガントな美を兼ね備えたものにしている。 それまで喪服にしか用いられなかった黒色の布で、「リトル・ブラック・ドレス」と呼ばれる優雅なドレスを作り出したのも彼女だ。現代の女性たちが当たり前のように着ている服は、一人の女性の既成のドレスコードへの挑戦の結果生み出されたものともいえる。 彼女はシャネルのトレードマークともいえるCを2つ組み合わせたモノグラムを自らデザインし、香水、バッグ、ジュエリーと、トータルなファッションを展開する一大帝国を築き上げた。 アーティストのためにシャネル財団を設立。南仏に「ラ・パウザ」という庭園のあるヴィラ、パリ郊外にヴィラ「ベル・レスピロ」を造り、画家、音楽家、詩人などを招き、彼らを支援する活動を行った。ヴィラの客はジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、サルバトール・ダリ、イゴール・ストラヴィンスキー、マリー・ローランサンなど、のちに現代を代表するアーティストとなる面々だった。 バラ‘シャネル Chanelle’ 1959年、イギリスのサミュエル・D・マックグレディ作出。 つぼみは濃いオレンジ色で、花色は淡いピンクから杏色へと変化し、シャネルの名前に相応しい優美な花姿を見せる。 花径8~10cm。四季咲き。樹高は約100cmで、樹形は半横張り性。 15年間の活動休止期間を経て、1954年にクチュールハウスを再開したシャネルに捧げられた。 ソニア・リキエル「カラフルなニット」 ソニア・リキエル(Sonia Rykiel 1930-2016)は、それまで家庭着・日常着だったニットをファッショナブルなアイテムとして定着させ、「ニットの女王」と呼ばれた。妊娠中に着たいと思えるマタニティウェアがなかったことから、自らマタニティドレスとセーターを作ったことがデザイナーになるきっかけだった。夫の経営するブティックに並べた「貧しい少年のセーター」(「Poor Boy Sweater」)と呼ばれたニット製品が雑誌に取り上げられ、一躍注目された。 1968年、パリ左岸、サンジェルマン・デュ・プレにブティックをオープン。「脱流行」(「demode」)を唱え、「自由、大胆、自信」をモットーとした服作りで、新しいパリジェンヌのイメージを打ち出した。 小説や自伝のほか、ファッションについての自説を語った『裸で生きたい ソニアのファッション哲学』(1981年、文化出版局刊)、フォトエッセイ集『ソニア・リキエルのパリ散歩』(2000年、集英社刊)などを出版し、作家としても活動。映画出演や歌に挑戦するなど、多彩な面を見せた。 2018年、ブランド設立50周年を記念して、サンジェルマン・デュ・プレの一画が、ソニア・リキエル通りと名付けられた。そこは彼女が暮らしたラスパイユ市場の近くで、通りでは命名を記念したファッションショーが繰り広げられた。パリの通りに名前が冠された、初めてのファッションデザイナーだという。 バラ‘ソニア・リキエル Sonia Rykiel’ 1995年、フランスのギヨー作出。ソニア・リキエルに捧げられたバラ。 ほのかな琥珀色を含むピンク、クォーターロゼットの房咲き。花径10~12cmの中大輪。四季咲きで、繰り返しよく咲く。 樹高120~150cm、樹形は半つるで横張り性。 香りのバラと称され、フルーティな香りが際立つ。 ピエール・カルダン「宇宙時代的スタイル」 ピエール・カルダン(Pierre Cardin 1922-2020)は、イタリア・ベニスに生まれ、2歳の時に一家でパリに移住。クリスチャン・ディオールのアトリエを経て、1950年に独立。幾何学模様や直線を用いた、近未来的で斬新なスタイルは、「宇宙時代的」(コスモ・コール)と称された。 富裕層向けのオートクチュールから脱却し、60年代にデパートで誰でも買えるプレタポルテに参入。ライセンス契約を導入し、ライフスタイルに関わるあらゆる商品をデザイン。商品は飛行機からスリッパまで多岐にわたり、当初パリのファッション界で批判を浴びたが、やがて多くのデザイナーが生活を取り巻く商品のデザインに関わるようになった。 モードの民主化とともに、日本人の松本弘子をはじめとして、アジア人、アフリカ人など、多様な人種のモデルをファッションショーや広告に起用。それは1960年代のフランスのファッション界では、画期的な出来事だった。 1972年、パリ8区に劇場、映画館、ギャラリーを併設した「エスパス・ピエール・カルダン」を設立。ファッションとアートの殿堂を目指した。98歳で亡くなる直前まで、精力的に活動を続けた。 バラ‘ピエール・カルダン Pierre Cardin’ 2008年、フランスのメイアン作出。ピエール・カルダンに捧げられたバラ。 ソフトピンクをベースに、ローズ色の霜降り状のスポットが加わる優雅な花姿。 四季咲き性。剣弁高芯咲きの大輪で、花径は10~15cm。 樹高は約150cmで、樹形は直立性。 ●「クリスチャン・ディオール」に捧げられたバラについてはこちら。