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古代エジプトの王妃の名を冠したミステリアスなバラ「クイーン・ネフェルティティ」

古代エジプトの王妃の名を冠したミステリアスなバラ「クイーン・ネフェルティティ」

バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによるバラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、謎に包まれた古代エジプトの王妃、ネフェルティティの名を持つバラ、‘クイーン・ネフェルティティ’。彼女にまつわる近年の発見と併せ、その名にふさわしいミステリアスな魅力のバラをご紹介します。

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バラとの出会い

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’
千葉県・八千代市の京成バラ園で見かけたバラ‘クイーン・ネフェルティティ’。

‘クイーン・ネフェルティティ’というバラがあることを知ったのは、二十数年前のことだった。画廊を経営している友人から、好きなバラとしてその名前を知らされた。さらに彼女は、古代エジプトの王妃ネフェルティティについて何の知識もなかった私に、有名な胸像があること、エジプト王ツタンカーメンの義母であることなどを教えてくれた。

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’

ほどなくしてバラ園で、その名前のバラを見かけたが、なかなかよいタイミングの花姿に出会えず、ずっと気になるバラだった。

ミステリアスなバラ

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’
開花が進むにつれ、花色が変化する様は魅惑的だ。

王妃ネフェルティティのことに興味を抱き始めた頃は、考古学上不明な点が多い人物とされていた。しかし近年、CTスキャンなどで埋蔵品の研究がなされた結果、その存在がかなり明らかになっているようだ。だがミステリアスなことに変わりはなく、その名前を持つバラも、見るたびに花色が異なり、自在に変化する、まさに古代の女王の名にふさわしい佇まいを見せている。

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’
珍しく一度にたくさんの花をつけた姿に出くわした。

王妃ネフェルティティ

ネフェルティティの切手
1953年にエジプトで発行された、ネフェルティティの胸像をモチーフにした切手。World of Stamps/Shutterstock.com

ネフェルティティは、紀元前14世紀半ばのエジプト新王国時代第18王朝の王アクエンアテンの王妃とされる。その名前は、「美しいものが訪れた」を意味するという。アクエンアテン王により、王国の首都がテーベ(現ルクソール)からアケトアテン(現テル・エル・アマルナ)に移され、それまでの多神教から、太陽神アテンを信仰する一神教へと宗教改革が行われた時代を生きた人物だ。

6人の娘がいたことは明らかになっていて、その娘の一人アンケセナーメンが、第18王朝の王ツタンカーメンと婚姻を結んでいる。

義理の息子ツタンカーメン

ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメン王の墓から発見された黄金のマスク。王のミイラに被せられていたマスクで、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収蔵されている。cointree/Shutterstock.com

ツタンカーメンは若くして亡くなった第18王朝の王。1922年にその墓がルクソールの「王家の谷」で発見され、マスクや副葬品の財宝などが、盗掘から免れて完全な形で見つかったことから、今ではもっとも知られたエジプト王となった。エジプトの発掘品の中でも秀逸なツタンカーメンのマスクは、カイロにある考古学博物館に所蔵されている。

ネフェルティティの胸像

ネフェルティティの胸像
ベルリン新博物館に所蔵されている「ネフェルティティの胸像」。右目は象嵌だが、左目は細工された跡がないなど、謎に満ちている。Vladimir Wrangel/Shutterstock.com

長い間歴史から消えていた王妃ネフェルティティの名前が現代に蘇ったのは、1912年。ドイツ人考古学者が、テル・エル・アマルナの遺跡で王妃の胸像を発見したのだ。宮廷彫刻家、トトメスの工房跡の砂の中から発見されたその像は、鮮やかな色彩で、3,000年の時を経ているとは思えないものだった。

石灰岩に漆喰で肉付けされた胸像は、高さ約48cm、重さ20kg。細工も見事で、古代エジプト美術の最高傑作として評価が高い。王妃25歳くらいの像だが、右目が象嵌で作られているのに対して、左目には何の細工も施されていないことが謎とされる。

発見の経緯については、1975年にドイツで出版された、エジプト学者フィリップ・ファンデンベルク著『伝説の王妃 ネフェルティティ』(1976年 佑学社刊 金森誠也訳)に詳しい。胸像はその後ドイツに運ばれ、現在はベルリン新博物館に所蔵、展示されている。

伝説の王妃 ネフェルティティ
『伝説の王妃 ネフェルティティ』(ドイツ語の原題は『ネフェルティティ ひとつの考古学的伝記』。1976年 佑学社刊 金森誠也訳)の表紙写真。

石板は語る

アクエンアテン王とネフェルティティの石板
アクエンアテン王とネフェルティティが3人の娘たちとともに、太陽神アテンの光線を浴びる姿が刻まれた石板。ベルリン新博物館所蔵。Radiokafka/Shutterstock.com

同書によると、ネフェルティティの胸像が発見された後、1965年にエジプトのカルナックの神殿跡から大量の石灰石板が出土し、その断片を繋ぎ合わせると、王妃についてかなりの部分が明らかになったという。

また発掘された幾多の墓の壁面に描かれた絵図から、当時の様子が偲ばれる。王と王妃が並び、そのまわりで幼い娘たちが遊ぶレリーフや、公園や庭を散歩する姿、黄金の馬車に乗って一家で出かける図などが描かれている。王妃の宮殿には動物園や植物園があり、庭園にはアフリカの奥地で採取された珍しい植物が植えられてあったことが分かる。

統治者としてのネフェルティティ

第19王朝において、アクエンアテン王の宗教改革は否定され、王と王妃はほとんどの記録から抹殺された。だがこうして発見された壁画などから、第18王朝では王妃ネフェルティティが、政治的、宗教的にかなりの力を持っていたのでは、と推測されている。著名な胸像は遷都した頃に作られたというが、当時から新しい都市づくりや宗教改革に不可欠な存在として、君臨していたのではないだろうか。

ナショナルジオグラフック別冊の『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』
2022年3月に和訳が出版された、ナショナルジオグラフィック別冊の『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(日経ナショナルジオグラフィック社刊)。

著書『エジプトの女王』の中で、エジプト学の専門家であるカーラ・クーニーは、ネフェルティティを王との共同統治王に位置づけている。残された当時の図像には王と王妃が同等に描かれ、その関係性が明らかだとの説だ。また後に共同統治王として王と並んで描かれたアンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンも、多くの歴史学者によってネフェルティティその人であると推測されている。

アクエンアテン王の死後に王座を継いだスメンクカラーと呼ばれる王もまた、彼女であるという説があるが、これはエジプト学者の間でも意見が大きく分かれるところだ。スメンクカラーの後を継いだのが、ツタンカーメン王である。

墓は何処に

「王家の谷」で新たな発見がなされるたびに、ネフェルティティの墓ではないかと期待されている。エジプト学者たちが彼女の墓を探し続けているのだ。

近年、ツタンカーメン王の墓の奥にいくつかの部屋が存在するとされた。そこにネフェルティティが埋葬されている可能性があるという。19歳の若さで急死したツタンカーメン王は、建設中であった他の王族の墓に同時に葬られたのではないかという推理は、古代史の謎や伝説の王妃の実像に迫る興味深いものだ。

最近の発見

エジプトでは今も発掘作業が進行中だ。2021年には考古学者のグループがエジプトで最大級の古代都市を発見している。ナイル川西岸の砂の中から出現した都市は、アクエンアテン王が、アマルナに遷都する前に統治していた場所だという。高さ3mの家壁、装飾品に加え、製パン所や日常の生活用品も残されている。発掘作業は始まったばかりで、ここからも新たなネフェルティティの実像が浮かび上がってくるかもしれない。

謎多き古代エジプトの王妃。その人物の断片をたどることは、3,000年のかなたへの歴史旅ともいえる。バラの名前から、時空を超える物語に触れることができるのだ。

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’Queen Nefertiti

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’Queen Nefertiti’

1988年、イギリス、デビッド・オースチン作出で、古代エジプトの王妃ネフェルティティに捧げられた。クリーム、アンズ、オレンジに赤色が加わるなど、開花状況によってさまざまな花色を見せる、ミステリアスなバラ。

四季咲き
花径:7~8cmの中輪、クォーターロゼット咲き
樹高:100~120cm
樹形:半横張り性

バラ‘クイーン・ネフェルティティ’Queen Nefertiti’
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