バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによるバラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、ウィリアム・シェイクスピアの作品『ハムレット』に登場する悲劇の女性、オフィーリアの名を冠したアプリコット・ピンクのバラと、戯曲に登場する植物やオフィーリアにちなんだ絵画などもご紹介します。
目次
シェイクスピアへの旅
私がバラ‘オフィーリア’に思いをめぐらせたのは、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア( William Shakespeare,1564-1616 ) ゆかりの地を訪ねる旅の途上だった。英国中部に位置するストラトフォード・アポン・エイボンの町には、シェイクスピアの生家が今も残されている。シェイクスピアの戯曲には、じつにたくさんの植物が登場し、場面を彩る。また、人間の性格や感情の比喩として、花やハーブが扱われているのも興味深い。バラの登場回数も多く、一説には全作品の中で70から100を数えるという。生家の庭には、そうした植物たちが植栽されていた。
庭の一角には、イギリスの育種家、デビッド・オースチンが彼に捧げたバラ‘ウィリアム・シェイクスピア2000’も咲いていた。また、劇の登場人物にちなんだバラがいくつかあり、『ハムレット』に登場する悲劇の女性、オフィーリアという名前のバラがあることを知った。
●「ウィリアム・シェイクスピア」【松本路子のバラの名前・出会いの物語】も併せてお読みください。
四大悲劇の一つ『ハムレット』
シェイクスピアの戯曲の中でも四大悲劇の一つとされる『ハムレット』は、主人公ハムレットがデンマーク王である父を叔父(父の弟)に殺され、王位と母を奪われ、復讐するという、全5幕の壮大な物語。今でも世界各地で上演される名作だ。
その戯曲の初演は1602年頃で、当時は商業演劇にたずさわる女優が存在せず、ハムレットの妃候補であるオフィーリアは、少年の俳優が演じたという。歌う場面やリュートを演奏するシーンがあるので、音楽性豊かな俳優が演じることが多かった。
『ハムレット』の中のオフィーリア
オフィーリアは愛するハムレットに父親を殺され、ハムレットから冷酷な言葉を投げかけられた衝撃で狂っていく。正気を失ったオフィーリアを前に、彼女の兄が嘆くセリフが印象的だ。
「おお5月のバラよ。
愛しい乙女、
やさしい妹、
可愛いオフィーリア」
わが国にあって5月はバラの花の最盛期だが、イギリスでは5月に咲くのは早咲きの野生のバラで、2、3日で花を散らす。そのバラの儚さが、オフィーリアのイメージに重ねられている。
花が象徴するもの
オフィーリアの登場シーンで印象的なのは、エルシノア城内に王や王妃、兄が集まった第四幕第五場で、歌いながら一人ひとりに花やハーブを手渡すところ。
「ローズマリーは思い出のために。祈ってください」(兄もしくはハムレットへ)
「愛して、忘れないで。パンジーは深い思索のために」(兄へ)
「あなたには欺瞞のフェンネルと、不倫を表わすオダマキを」(王へ)
「あなたには昔を悔いる、ヘンルーダ(英名ルー)を」(王妃へ)
気のふれた後なので、奇妙な所業のようにも見えるが、それぞれの草花の持つ花言葉や象徴する意味を考えると、彼女なりの愛や皮肉がうかがえる。
自身へ贈るのも、低木のハーブ「ヘンルーダ」。
「でもこれには『後悔』の言葉以外の意味があるの。『安息日の恵みのハーブ』といって、傷や痛みを治す薬効があるのよ」と語る。
オフィーリアの死
同じく第四幕には、王妃が王と兄にオフィーリアの死を告げる場面がある。
「柳の木が小川に斜めに枝をのばし、輝く流れに銀の葉裏を映していた。
彼女はカラスの花、イラクサ、デイジー、コモンパープルオーキスなどで作った素敵な花輪を持ってやってきた。(中略)
花輪をしだれた枝に掛けようと、柳の木に登った瞬間枝が折れ、彼女は花冠とともに流れに落ちてしまった。
衣は大きく広がり、しばらくは人魚のように川面を漂い、彼女はとぎれとぎれに古い曲を歌っていた。
困難になすすべもないような、また、水に棲む生き物のように。
だがそれも長くは続かず、水を含んで重くなった衣装が、歌声とともに彼女を川底に引きずり込んでしまった。」
この場面の描写は、文学史上もっとも詩的なものとされている。
ミレイの描いた「オフィーリア」
劇中の死の描写に触発され、多くの画家がオフィーリアを描いている。中でも記憶に残るのが、イギリス、ヴィクトリア朝絵画の巨匠ジョン・エヴァレット・ミレイ( Jone Everett Millais, 1829-1896 )の油彩「オフィーリア」。花を手に小川に浮かび、空を見つめる若き女性の姿が胸を打つ。
ドレスの傍には「(死の象徴である)赤いケシ」「(無垢を表す)デイジー」「(愛の象徴)パンジー」などが配され、岸辺には白い野バラが描かれている。ロンドンの国立美術館、テート・ブリテンの所蔵品であるこの絵は、東京でも何回か公開されている。
夏目漱石とミレイの「オフィーリア」
1900年にロンドンに留学した夏目漱石(なつめ そうせき、1867-1916)は、慣れない海外生活で神経衰弱に陥り、苦難の日々を送っていた。そんな中、出会ったのが、ミレイの絵画「オフィーリア」。のちに画家が主人公の小説『草枕』を書く動機ともなり、作中でこの絵画について何度か言及している。
詩の中のオフィーリア
オフィーリアの生涯とその死に触発されて詩を書いたのが、フランスの詩人、アルチュール・ランボー ( Arthur Rimbaud,1854-1891 )。「オフィーリア」は、1870年、ランボー16歳の時の詩だ。私はランボー詩集を、詩人中原中也 (なかはら ちゅうや、1907-1937) の訳で読んだ。
「星眠る暗く静かな浪の上、
蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、
漂ふ、いともゆるやかに長きかつぎに横たはり、
遠くの森では鳴ってゐます鹿追ひ詰めし合図の笛
(後略)」
15歳から20歳までという短い期間のみ詩作し、その後世界を放浪した後、アフリカで貿易商となったランボー。その生涯と詩は、今も多くの人々を魅了してやまない。訳者の中原中也もまた、コアな読者の多い詩人だ。二人とも30代の若さでこの世を去っている。オフィーリアの死の場面が、夭折の詩人たちの琴線に触れ、現代に伝えられているのには感慨深いものがある。
バラ‘オフィーリア(オフェリア)Ophelia’
イギリスのウィリアム・ポールによって、1912年に紹介されたバラ。嵐で地面に落ちた実から生まれたと伝えられている。モダンローズの代表花として、100年以上愛され続けている歴史的品種。同時に、マザー・ローズ(交配親)としても知られる。現代の名花で‘オフィーリア’の血を引かないものはないといわれるほど、多くのバラの誕生に貢献している。四季咲き。
花姿:アプリコットがかった淡いピンク色の、剣弁高芯咲き。
花径:9~10cm。
樹高:100~130cm、樹形:半直立性。
香り:ダマスクとティーの混ざった香りは「オフィーリア香」と呼ばれる。
枝変わりに、‘つるオフィーリア’ ‘レディ・シルビア’ ‘マダム・バタフライ’がある。
*文中『ハムレット』のセリフは、松本路子訳
Credit
写真&文 / 松本路子 - 写真家/エッセイスト -
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
- リンク
記事をシェアする
新着記事
-
ガーデン
都立公園を新たな花の魅力で彩る「第3回 東京パークガーデンアワード」都立砧公園で始動
新しい発想を生かした花壇デザインを競うコンテストとして注目されている「東京パークガーデンアワード」。第3回コンテストが、都立砧公園(東京都世田谷区)を舞台に、いよいよスタートしました。2024年12月には、…
-
ガーデン&ショップ
都立公園を花の魅力で彩る画期的コンテスト「第3回 東京パークガーデンアワード 砧公園」全国から選ばれた…
2022年に代々木公園から始まった「東京パークガーデンアワード」。第2回の神代植物公園に続き、3回目となる今回は、東京都立砧公園(世田谷区)で開催されます。宿根草を活用して「持続可能なロングライフ・ローメ…
-
観葉・インドアグリーン
インテリアにぴったり! ミルクブッシュの育て方とお手入れ方法
サンゴのようなユニークな株姿が美しく、観葉植物として人気の高いミルクブッシュ。さまざまな園芸品種が見つかるのも魅力です。この記事では、インテリアグリーンにおすすめのミルクブッシュの基本情報や特徴、名…