トップへ戻る

小説家・林芙美子のやすらぎの家と庭【松本路子の庭をめぐる物語】

小説家・林芙美子のやすらぎの家と庭【松本路子の庭をめぐる物語】

映画や舞台で知られる『放浪記』の小説家、林芙美子が晩年過ごした家と庭が保存され、「新宿区立 林芙美子記念館」として一般公開されています。自ら住宅の設計案を考え、庭をつくり、バラも愛でていた林芙美子。今も残るその住まいを、写真家でエッセイストの松本路子さんが訪ねました。ひとりの女性の生き方に思いを馳せながら、林芙美子の家と庭をご案内します。

Print Friendly, PDF & Email

晩年の安住の地

新宿区立 林芙美子記念館
左/林芙美子の家の正門。現在は閉じられ、勝手口が記念館の入り口となっている。右/道路に面した記念館の看板。右手の坂を上がったところに門、記念館入り口が並ぶ。

『放浪記』『浮雲』など、映画や舞台でも知られる小説の作者、林芙美子(はやし ふみこ1903-1951)。彼女が晩年の10年間を過ごした家と庭が、新宿区中井にあり、現在、林芙美子記念館として公開されている。長い放浪生活の果てに得た、安住の地ともいえる家や庭。その瀟洒な佇まいの中に、作家の想いや人生が色濃く漂っている。

自ら設計した家

新宿区立 林芙美子記念館
孟宗竹に囲まれた石段を上ったところにある玄関。右手に記者や編集者が待機する客間が設けられた。

それまで借家住まいだった芙美子が、下落合(現・中井)に300坪の土地を購入したのは、1939年のこと。家を建てるにあたり、200冊近くの建築の本を買い込み、自ら100枚近く設計の青写真を描いた。それを当時の気鋭の建築家、山口文象に託し、時間をかけて図面を完成させている。

新宿区立 林芙美子記念館
書斎としてつくられたが、明るすぎるというので、夫と息子の寝室となり、ときにはごく親しい客をもてなす部屋となった。

文献だけでなく、建築士や大工を伴い、京都に10日間滞在して、寺社や民家を見てまわった。彼女は「家をつくるにあたって」と題した一文に「東西南北風の吹き抜ける家と云うのが、私の家に対する最も重要な信念であった。〈中略〉生涯を住む家となれば何よりも、愛らしい美しい家をつくりたいと思った」と書き残している。

新宿区立 林芙美子記念館
芙美子の書斎。原稿に向かう作家が今にも立ち現れそうな佇まいだ。

数寄屋造りの特色と、「茶の間と風呂と台所に力を入れた」という、住み手の暮らしを重視した京風の民家の色合いを併せ持つ家は、1941年8月に完成。台所や茶の間のある生活棟と、芙美子の書斎や画家であった夫・緑敏のアトリエのある棟からなる、よく考えられた間取りだ。各部屋の中から南側に広がる庭を見渡すことができる、開放的な平屋造りになっている。

竹林のある庭

新宿区立 林芙美子記念館
邸宅内から見た玄関へと連なる門。孟宗竹や熊笹に囲まれ、京都の寺院や邸宅の佇まいを彷彿させる。

京都の庭を見てまわった芙美子は、ことのほか竹林と苔の庭に惹かれたという。苔の庭は気候的に無理とのことであきらめたが、庭一面に孟宗竹を植えることは叶った。

新宿区立 林芙美子記念館
左・中/芙美子が最初に庭に植えたという柘榴の木に、オレンジ色の花が咲いていた。右/庭の白色のツツジ。

さらに、柘榴、寒椿、おおさかづきもみじ、カルミアなど、彼女が愛した木々が植えられた。『風琴と魚の町』という尾道を描いた著作に「この家の庭には柘榴の木が4、5本あった」と書き残している。最初に柘榴を植えたのは、それを懐かしんでのことだろうか。

芙美子亡き後、庭には夫の好んだ山野草が多く植えられ、竹林は玄関付近にしか残されていないが、これらの木々は今も健在だ。6月には柘榴がオレンジ色の花をつけて、迎えてくれた。

新宿区立 林芙美子記念館
芙美子が植えたというカルミアが大木となって、家を見下ろしている。5月には白い花を一面に咲かせる。

5月に訪ねた時には、北側の斜面の、家を見下ろすような場所にカルミアの白い花が咲き誇っていた。カルミアの傍には、いくつかのバラが開花していた。

庭への思い

新宿区立 林芙美子記念館
左/芙美子が好んで色紙に書いたという一文。右/「絵を描くことは私の仕事の二番目」という、芙美子の桜草の絵(2022年5月の展示より)。

現在は展示室となっているアトリエで、2022年4月から5月にかけて「林芙美子 花への思い」という展示がなされ、芙美子が花の手入れをしている写真を見ることができた。夫の緑敏の柘榴の絵とともに、芙美子の描いた桜草の絵も並び、その傍らには彼女が好んで書いた「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」という自筆の色紙が添えられていた。

尾道の家

尾道水道
尾道、千光寺公園から桜越しに尾道水道を望む。芙美子は『放浪記』の中で千光寺の桜を懐かしんでいる。

1903年に山口県下関市(福岡県門司市ともいわれる)で生まれた芙美子は、実の父親からは認知されず、行商人の養父と母とともに各地の木賃宿を転々とする幼少期を過ごした。

林芙美子の家
尾道に残されている、林芙美子が少女時代の一時期を過ごした家。

一家がようやく落ち着いたのは、12歳から18歳までの6年間を過ごした尾道。尾道市立高等女学校へ進学し、周囲からその文才を評価された。尾道には親子3人が間借りしていた離れの2階が残されている。私は十数年前に「レストランカフェ おのみち芙美子」(現・おのみち林芙美子記念館)を通り抜けたところに建つ、その家に立ち寄っている。およそ5畳の部屋は、親子3人が暮らすのにはあまりに狭く見えたが、彼女にとって、木賃宿暮らしではない、安らぎの場所だったのかも知れない。

尾道本通り商店街入口にある林芙美子のブロンズ像
尾道駅近く、尾道本通り商店街入り口にある林芙美子のブロンズ像。Dutchmen Photography/Shutterstock.com

『放浪記』の中で「私は宿命的に放浪者である。私は古里をもたない」とした芙美子だが、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい」とも書き残している。私はその言葉に救われる思いがした。

ベストセラー作家への道

林芙美子の肖像
昭和9年(1934年)に撮影された林芙美子の肖像(展示作品より)。

恋人を追って尾道から上京した後も、女工やカフェの女給などの職業を転々として、苦闘の日々を送っていた。その中で書き続けた日記をもとに、著した自伝的小説が『放浪記』だ。1930年に出版され、『続放浪記』と合わせて60万部というベストセラーとなった。一躍売れっ子作家となった芙美子は、次々に作品を発表。パリやロンドンに長期滞在して、紀行文を書いたりもしている。

終の棲家

林芙美子の家
掘りごたつのある茶の間は、ちゃぶ台を囲んでの一家団欒の場だった。

何人かの男性と同棲を繰り返した後、画学生の手塚緑敏と暮らし始めたのが1926年。下落合の新居では、生後間もない男児を養子に迎え、緑敏とともに林家に入籍させて、ちゃぶ台を囲んでの一家団欒の日々を送っている。放浪の果てに得た家族との平穏な生活。仕事の合間に食事を作り、漬物を漬けるなど、料理好きな一面もあったという。台所には当時の食器が残されている。

林芙美子の家
流しの素材や調理台の照明、食器棚など、台所の設えには特にこだわった。家族の食事のほか、親しい客が訪れると手早く酒の肴を作り、深夜にひとり台所に立つこともあった。

執筆活動は精力的に続けられ、この家で『うず潮』『晩菊』『浮雲』などの代表作が生み出された。だが、仕事の無理がたたり、1951年に心臓まひで急逝。47年の生涯だった。立て続けに依頼される仕事を断ることができなかったという。それもあるだろうが、「誰も語らない、市井の人々を書きたい」という欲求が彼女を突き動かしていた、そのようにも思いたい。

林芙美子の書庫
北側の書庫。次の間、寝室へと南北に風が吹き抜けるようになっている。

庭のバラ園

林芙美子のバラ園
かつて家の北側の高台にあったバラ園の写真。

2022年5月のアトリエの展示では、バラの庭の写真も飾られていた。家の北側の斜面を登った高台に、かなり広いバラ園があり、おもに夫の緑敏が手入れをしていた。その土地は人手に渡り、今は記念館の斜面に植えられた数本のバラが、往時をしのばせる。

バラ
南側の斜面に咲くバラ。左上/‘ヨハン・シュトラウス’ 右上/‘ダグマー・シュぺート’右下・左下/‘ブルー・ムーン’。

バラ園では、当時切り花として市販されていなかった種類のバラが栽培されていた。そのバラを愛した洋画家の梅原龍三郎のもとに、定期的に花が届けられた。梅原龍三郎の描くバラの花は、芙美子たちの庭で咲いたものなのだ。バラ園は無くなったが、バラは絵の中で永遠に生きている。

自宅バラ園での林芙美子
自宅バラ園での林芙美子。

芙美子の生涯もまた、その著作の中に息づいている。残された家を訪ね、ひとりの女性の生き方に思いを馳せる、そんな庭めぐりもよいものだ。

新宿区立 林芙美子記念館
庭から望む家。庭には四季折々の草花が植栽され、春の新緑や秋の紅葉など、景観を味わうことができる。

Information

新宿区立 林芙美子記念館

住所:東京都新宿区中井2-20-1

電話:03-5996-9207 Fax:03-5982-5789

HP:https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/fumiko

休館日:月曜日

入館料:一般150円、小・中学生50円

アクセス:都営地下鉄大江戸線・西武新宿線「中井駅」より徒歩7分

アトリエ展示:「小さきもの*可愛いもの」(2022年6月1日~8月31日)

取材協力:新宿区立 林芙美子記念館

Print Friendly, PDF & Email

人気の記事

連載・特集

GardenStoryを
フォローする

ビギナーさん向け!基本のHOW TO