埼玉県川越市は、今や国内外から年間780万人が訪れる一大観光地──。蔵造りの町並みが続き、江戸時代さながらの情緒が漂う市中心部の一番街は、連日たくさんの人でにぎわっています。一方、市の南部には総面積約200万㎡の広大な森があります。林床に四季折々の植物が生い茂り、樹上では野鳥たちが鳴き交わす大きな森。かつての武蔵野の面影を残すこの森をこよなく愛し、散歩を日課とする二方満里子さん。遠くへ出かけなくても、身近な自然の中には心躍る発見がいっぱいあるようです。

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雨の日の森

雨を心配しながら家を出た。森の少し手前でとうとう降り出した。急いで森の中に駆け込んで、「ふう‥‥」と息を吐く。森の中では雨粒が当たらない。樹冠の葉っぱが大きな傘のような役割をしてくれるおかげだ。

森の中の道は梅雨の雨を吸い込んでしっとりしている。が、ぬかるみや水たまりはほとんどないので、ゆっくり散歩が楽しめる。

去年の夏初めて出会った「マヤラン」に再会できるだろうか?

「宝探し」に似たわくわく感でいっぱいになりながら、落ち葉の間を覗き込んだりしゃがみこんだりするものの、見つからない。

今年は「イチヤクソウ」の花も見なかったなぁ、と悲観的になりはじめた時、「あった!」。

マヤラン

マヤラン

去年と同様に茶色の小さなきのこの隣に、かたまって5本、少し離れて2本の合計7本のマヤランがすっと茎を伸ばし、つぼみをつけている。開いたばかりの花が2つ、白地に鮮やかな紅色の縞模様をほどこした蘭特有の花容を誇っている。

小さいけれど、

私たち蘭よ! 茶色い落ち葉の上にすぐ咲いちゃうから、緑の葉っぱがないから、まわりに紛れて目立たないけど、梅雨の森の蘭なの!

そんな声が聞こえそうなマヤランだった。

マヤランは私たちの生活圏に近い常緑広葉樹林や古い二次林に生える菌従属栄養植物であり、かつてはよく見られたようである。しかし、森林の減少により絶滅危惧種二類の仲間に入ることになってしまった。だから、この森でマヤランが咲くことは、森の生態系がなんとか守られていることの証しである。

梅雨の雨をすべて吸い込んで沈黙しているかのような森の大地に、守護神のように咲く小さなマヤラン。少しでも増えてほしいと願わずにはいられない。

トンボソウ

トンボソウ

また別の日、ふくらみ始めたヤマユリと思われるつぼみをしげしげと眺めていると、

「何か咲いていますか?」

と、声をかけられた。声の主は私と同じくらいの年齢の女性。私の視線の先のつぼみに目をやって、

「ヤマユリのつぼみでしょ。もうすぐ咲くわよ。あっちのほうにもあるよ」

森の中で、こんな風に話しかけられることはめったにない。たいていの人は、健康のために歩いていますと言わんばかりに脇目もふらず歩いている。森に咲く花を楽しみにしている人がいるなんて、珍しいこと!

私は嬉しくなって、ホタルブクロやギボウシを話題にひとしきりおしゃべりした。すると、彼女は白いスズランのような花を咲かせる植物とトンボソウが咲いている場所に行くから、一緒に行かないかと誘ってくれた。

「もちろん行きますとも!」

二つ返事で、私は彼女の後について行った。

彼女は健脚で、ぐんぐん森の奥に入って行く。いつもは私が行かない方向だった。森が途切れて小さな畑や、耕作を放棄された草はらを横切って、また森の中へ。

ここで彼女にはぐれたら、私は森の外に出られるだろうか?

そんな心配が湧き出てくる頃、

「ここよ」

と、彼女は立ち止まった。

鬱蒼と樹々が茂るほの暗い空間。しんとして音がない。しかし、倒木もなく、地表を覆う笹や竹のたぐいがきれいに刈り取られて、ギボウシや龍のひげのような植物がはっきり目立つ。ここに森の神のほこらがあって、だれかが手入れしているかのような神聖な雰囲気があった。

神様のほこらはなかったが、トンボソウがあった。初めて見る花だ。

ラン科、ツレサギソウ属。薄緑色の1cmくらいの小さな花をつける。長い距があって、羽を思わせる萼片があるためトンボソウと名づけられた。30cmほどの茎に20個ほどの花が次々に開き、トンボが集まっておしゃべりしているみたいに可愛かった。

オオバジャノヒゲ

スズランのような花は、オオバジャノヒゲだった。

小さな花を点々とつける。わずかに薄紫を帯びた花がうつむいて咲いている。5月の朝露のきらめきが似合うスズランとは異なり、オオバジャノヒゲの花は雨にぬれる憂いがちの少女のよう。林辺にいくつか咲いているのは、目にしたことがあった。しかし、こんなふうに何十本と群生しているのは、初めて見る。この森の奥の神秘的な空間が気に入って、棲みついたのだろうか?

案内してくれた彼女が途中まで送ってくれたおかげで、無事帰ることができた。今度は一人で行きたいが、行かれるかどうかこころもとない。いつもよく行く森の中でさえ道に迷うことがあるからだ。

その時は、その時。「道に迷う」ことを楽しめばいいのだが‥‥。

ギボウシ

ギボウシ

ギボウシは先ず、鮮やかな春の芽出しを楽しむ。それから2カ月あまり。ぐんぐん大きく立派に成長した葉を株元に茂らせ、見事な群落になる。そして、梅雨の雨を一心に吸い込んだように何本もの花茎を伸ばし始める。

花茎の先端についているつぼみは、橋の欄干についているネギ坊主のような形の飾り「偽宝珠(ギボシ)」に似ている。このことから、ギボウシと名付けられた。花茎は伸びながら、はらはらとつぼみをほどけさせ、下から花を咲かせていく。

じつは最初に花茎の先のネギ坊主を見た時、ギボウシの花と結びつかず当惑した。何回も通って観察して、花の咲き方が分かり、なるほどと納得した。

花の色は、かすかに光を通す白。花は一日花で、深夜に咲き出し夕方には閉じてしまう。うつむいて咲く、儚い風情の森の佳人である。

ギボウシ

ギボウシの花を観察すると、雌しべが花の先に突き出し、雄しべは花の中にとどまっているのが分かる。自家受粉しないように雌しべと雄しべが離れているのだ。そして、受粉は主としてマルハナバチのような昆虫が担う。ギボウシは虫媒花なのである。受粉は一日が勝負。昆虫を呼び寄せるため、いい香りを放つギボウシもあり、儚い様子にも似ぬ戦略家だ。

ギボウシは東アジア原産。江戸時代の日本で多数の園芸種が作られた。さらにシーボルトによってヨーロッパにもたらされ、多くの品種が育成された。多彩な葉色の変化と育てやすさから、日陰の庭を彩る夏の植物として大変人気がある。

家の庭にも1株あるが、まだ小さくて花が咲かない。花が咲くようになったら、夏の一日、ギボウシのかたわらでマルハナバチの訪れを待って、受粉の様子をじっくり観察したいと思う。

ヤマユリ

ヤマユリ ヤマユリ

例年なら梅雨明け、夏本番を祝うユリたちはしびれを切らしたのか、梅雨明けを待たずに相次いで咲き出してしまった。

曇天のもと、先ずオニユリ、次いでヤマユリが開花。

ヤマユリの前で、その完璧なフォルムと香りを存分に味わっていると、先日私をトンボソウの咲く場所に案内してくれた女性に再会した。ヤマユリの香りが呼び寄せてくれたのだろうか?

「咲きましたね!」

「ほんと。いい香り!」

私たちは再会を喜び、ヤマユリの美しさを堪能した。

アメリカオニアザミ

アメリカオニアザミ

森の周りには、農家の方が作っている畑やレジャー農園、そして原っぱがある。3つある原っぱは大きさが違うだけでなく、生えている植物も異なっている。その一つは、鉄塔があって住宅地にできなかったらしく放置され、ぼうぼうと草が茂り、雑草好きな私でも探検をためらうような荒れ地になっていた。

その荒れ地の片隅に、アメリカオニアザミが堂々とそびえ立っていた!

草丈は150cmほど。横幅はそれ以上。そして、茎や葉、つぼみまで鋭い棘に覆われている。特に葉は、キク科特有の切れ込みから柔らかさを全部削ぎ落としたような形状で、先端に1cmはある槍のような棘を突き出している。

見事なまでに戦闘的な植物。

柔らかいのは花だけ。しかし、鮮やかな赤紫色の花に惹かれて、うっかり花を支える苞(ほう)に触れようものなら、「ぎゃー!!」と叫ぶことになる。

アメリカオニアザミには、こんな伝説がある。

じつは、アメリカオニアザミはヨーロッパ原産。スコットランドの国花である。

10世紀の頃からスコットランドは、デンマークやノルウェーなど北欧の国からの侵略に悩まされて来た。

ある時、守勢にまわるスコットランド軍はデンマーク軍(一説ではノルウェー軍)を前にして、籠城を余儀なくされた。一気に攻め落とそうと夜襲をかけたデンマーク軍は、明かりの乏しい暗闇の中、棘だらけのオニアザミの茂みに突入してしまった。痛みに思わず悲鳴を上げる兵士たち。その悲痛な叫び声に夜襲を知ったスコットランド軍は、デンマークの兵士に襲いかかった。そして、見事侵略軍撃退に成功した。

こうして、オニアザミは「勝利の花」、スコットランドの国花となったのである。

アメリカオニアザミは、日本へは北アメリカから輸入された穀物や牧草に混入して持ち込まれたようだ。1960年代に北海道で初めて確認されている。酪農地帯では鋭い棘ゆえ、放牧地の害草として駆除の対象となっている。

アメリカオニアザミ

今、アメリカオニアザミはこの原っぱで綺麗な花をいっぱい咲かせ、荒れ地の魔女のように妖艶に微笑んでいる。花には、その花粉や蜜を求めてやってくるハチやチョウが群れ飛んでいる。

アザミはハチの重要な蜜源だそうだ。昆虫たちにとって棘は何の障害にもならない。

晩夏のユリ

シンテッポウユリ

今年は例年になく梅雨明けが遅かった。梅雨明けを待たずして、オニユリもヤマユリも散ってしまった。

シンテッポウユリが咲きだしたのは8月半ば。立秋も過ぎているから、晩夏のユリである。シンテッポウユリは、台湾原産のタカサゴユリと日本のテッポウユリから作られた園芸種。自然交配の場合もあるそうだ。

このユリは自家受粉で種子ができ、種子が落ちれば翌年には花を咲かせる。だから庭のあちこちに花を咲かせ、庭から飛び出して野草化する。とても繁殖力の旺盛なユリである。

森の手前の草はらでも年々花数を増やしている。

また、高速道路の法面を華やかに彩っているのをよく目にする。お盆の季節で渋滞する車から眺める白いテッポウユリは、爽やかな風のようである。

残暑を吹き飛ばし、涼しい秋を呼び込んでおくれ!

シンテッポウユリ。

Credit

写真&文/二方満里子(ふたかたまりこ)
早稲田大学文学部国文科卒業。CM制作会社勤務、専業主婦を経て、現在は日本語学校教師。主に東南アジアや中国からの語学研修生に日本語を教えている。趣味はガーデニング、植物観察、フィギュアスケート観戦。

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