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幕末の京都・ラベンダー物語

幕末の京都・ラベンダー物語

Julietphotography/Shutterstock.com

激動の幕末──。開国か、攘夷かをめぐって不穏な空気が漂い始めていた京の都に、ラベンダーの花咲く美しい庭があった……。そんな空想をしてみたくなる、ある歴史的な事実があります。アメリカに派遣された幕府の使節団がラベンダーの種を持ち帰り、それがある経緯を経て、京都の医師の手に渡っていたのです。さあ、時空を超えた空想庭園への旅に出かけましょう!

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元号が変わるとき

平成から令和へ

元号が「令和」に変わって1カ月あまり。今回は新天皇の即位に伴っての改元でしたが、かつては天変地異や大事件の直後に、その厄を払うという意味で元号が変えられたこともありました。

桜田門外の変

井伊直弼

例えば──。

安政7年(1860)3月、時の大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されるという事件が起きました。そのため、元号はすぐに「万延」へと変更されました。

実はこの暗殺事件の1カ月前、総勢77名からなる幕府の使節団が横浜港から出航。アメリカへと向かっていました。一行が大老の非業の死と万延への改元を知ったのは、アメリカでの最初の寄港地サンフランシスコか、あるいは首都ワシントンに到着してからのことだったでしょう。

以上のような事情により、この使節団は「万延元年遣米使節団」として歴史にその名を残すことになります。

使節団の意外な一面

万延元年遣米使節団
万延元年遣米使節団。

ところで、この使節団にはある意外な特色がありました。随行員として参加した武士たちの中には、花好き、植物好き、園芸好きが非常に多く含まれていたのです。

使節団ナンバーツーの村垣範正も、その一人。彼は幕府の役人としては、いささか凡庸な人物でした。けれども、サンフランシスコで日本にはない珍しい草花を見つけ、早速それを採集。押し花にして、江戸の家族への手紙に添えて送りました。

外国方支配調役の塚原重五郎と外国奉行支配組頭の成瀬善四郎も、大の花好き、園芸好き。二人は行く先々で種苗店を探しては花の種を買い、日本に持ち帰りました。成瀬はアメリカから帰ると下谷の自宅の庭に種をまいて、栽培もしています。

重要な任務を果たして帰国

一方、幕府もこの使節団に対して、アメリカでなるべく多くの薬草の種を収集し、日本に持ち帰るよう指示していました。

というのも、当時はまだ化学薬品などない時代。病気やケガの治療に用いる医薬品としては薬草以外にはなかったからです。

使節団はアメリカで2年前に締結した日米修好通商条約の批准書の交換を行い、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどを歴訪して各地で大歓迎をうけ、万延元年の11月末に帰国。欧米の文明の圧倒的な先進性を物語る写真機、ミシン、医療器具、武器、辞書、学術書といった文物とともに、野菜の種や花の種を多数持ち帰りました。

アメリカ土産の野菜の種、花の種

アマの花
アマの花。A_Lesik/ Shutterstock.com

井伊大老が暗殺された直後という混乱期だったため、幕府はそれらの種について公式の記録を残すことができませんでした。

しかし、近年の研究により、以下のような植物の種が持ち帰られたことが分かっています。

アマ、キャベツ、ニンジン、ダイコン、カブ、チコリ、トマト、パセリ、タバコ、ネモフィラ、ノラナ、ハナビシソウ、ヤグルマギク、キンギョソウ、スイートピー、ペチュニア、ラベンダー。

種を手に入れた人々

飯沼慾斎

同じく近年の研究により、そうした種の多くが岐阜・大垣の医師で薬草学の権威、飯沼慾斎(1782〜1865)の手に渡ったことも分かっています。

遣米使節団の派遣が決まったとき、アメリカでぜひ植物の種を収集してくるようにと、使節団のメンバーに強力に働きかけたのが慾斎だったからです。

慾斎は手に入れた種のうち24種類を自宅の庭にまいて栽培し、その様子を観察した記録を残しています。また彼は、江戸で医学を学んでいたときに同門だった京都の医師、山本榕室に、かなりの量の種を贈呈しました。ラベンダーの種も彼のプレゼントの一部でした。

いつどこで、誰が?

ラベンダーの精油
Leonori/Shutterstock.com

このラベンダーの種を、使節団員の誰が、アメリカのどこで手に入れたのかは、今のところ分かっていません。

しかし、このときの遣米使節団には何人かの医師が随行員として加わっていました。種を手に入れたのは、その医師の一人であったろうと考えられます。

というのも、この時代の日本の医師は蘭学と薬草学を修めた人々であり、ラベンダーが貴重な薬草であることを知っていましたし、とくにそのエッセンシャルオイル(花精油)は切り傷や刺し傷の特効薬であり、鎮痛剤としても効果を発揮することを知っていたからです。

種苗店でラベンダーの種が売られているのを発見して、欣喜雀躍。「これは絶対に買って帰らなければ!」と勇んで買い求めたのは、もしかしたら飯沼慾斎と交流のあった佐賀藩の医師、川崎道民だったかもしれません。

最も花が美しく、香りのよい種類

ラベンダーのタネ
Agustin Vai/Shutterstock.com

ラベンダーには、花が最も美しく香りも素晴らしいコモン・ラベンダー、花は美しいけれど香りにちょっと癖のあるスパイク・ラベンダーなど、いくつかの系統がありますが、種が売られているのは、通常はコモン・ラベンダーです。

京都の山本榕室の手に渡ったのも、おそらくはコモンの種だったのでしょう。

さて、榕室はその種をどうしたのでしょうか? 慾斎のように自分で種まきをして、ラベンダーを栽培してみたのでしょうか?

空想のラベンダー庭園

ラベンダー
Julietphotography/Shutterstock.com

ラベンダーは夏に長い花穂を伸ばし、青紫色の美しく香りのいい花を咲かせる多年生のシソ科の小灌木です。

けれども、種まき栽培をすると、咲くのは青紫色の花だけとは限りません。ラベンダーの種には多様な遺伝子が秘められているため、時にはピンク色や白色の花も出現するのです。

もし山本榕室が飯沼慾斎から贈られたコモン・ラベンダーの種をまいて、栽培を試みていたとしたら──。

彼の家の庭には青紫色やピンクや白の花が咲き乱れ、風に揺れて甘い香りを放ったことでしょう。

残念ながら、幕末の京都に本当にそんな庭があったかどうか、今日ではもはや確かめることができないのですが。

Credit

文/岡崎英生(文筆家・園芸家)
早稲田大学文学部フランス文学科卒業。編集者から漫画の原作者、文筆家へ。1996年より長野県松本市内四賀地区にあるクラインガルテン(滞在型市民農園)に通い、この地域に古くから伝わる有機栽培法を学びながら畑づくりを楽しむ。ラベンダーにも造詣が深く、著書に『芳香の大地 ラベンダーと北海道』(ラベンダークラブ刊)、訳書に『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアーヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社刊)など。

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