神奈川の庭でバラを育てながら、バラ文化と育成方法の研究を続ける。近著に『薔薇ごよみ365日 育てる、愛でる、語る』(誠文堂新光社)、『アフターガーデニングを楽しむバラ庭づくり』(家の光協会刊)、『ときめく薔薇図鑑』(山と渓谷社)著、『バラの物語 いにしえから続く花の女王の運命』、『ちいさな手のひら事典 バラ』(グラフィック社)監修など。TBSテレビ「マツコの知らない世界」で「美しく優雅~バラの世界」を紹介。
元木はるみ -「日本ローズライフコーディネーター協会」代表-

神奈川の庭でバラを育てながら、バラ文化と育成方法の研究を続ける。近著に『薔薇ごよみ365日 育てる、愛でる、語る』(誠文堂新光社)、『アフターガーデニングを楽しむバラ庭づくり』(家の光協会刊)、『ときめく薔薇図鑑』(山と渓谷社)著、『バラの物語 いにしえから続く花の女王の運命』、『ちいさな手のひら事典 バラ』(グラフィック社)監修など。TBSテレビ「マツコの知らない世界」で「美しく優雅~バラの世界」を紹介。
元木はるみ -「日本ローズライフコーディネーター協会」代表-の記事
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バラが描かれた西欧の画がのこる仙台のバラ寺「円通院」を訪ねて
江戸から移築された本堂のある「円通院」 「円通院」は、仙台駅より仙石線に乗って約40分、日本三景の一つ「松島」のある「松島海岸」駅より徒歩約6~7分の場所にあります。「伊達政宗」の嫡孫(ちゃくそん)「光宗」を祀る臨済宗妙心寺派の寺院で、「光宗」の菩提寺です。本堂の「大悲亭」(松島町指定文化財)は、江戸にあった光宗の「納涼亭」を1647年(正保4)に解体し、船で運んで移築されたものだそうです。 「伊達政宗」の嫡孫「光宗」は、「政宗」の次男「忠宗」(二代藩主)と徳川家の「振姫」との間に生まれた次男でした。兄が7歳で亡くなったために世子となり、幼少の頃より文武に優れていました。徳川幕府にとって恐るべき逸材であったためか、江戸城内で亡くなったことに関しては、病死なのか毒殺なのか憶測が広まりましたが、事実は不明とのことです。 亡くなった時、「光宗」はまだ19歳の若さでした。その死を悼んで、父である「忠宗」が円通院の境内に、「光宗」の霊廟「三慧殿(さんけいでん)」(国指定重要文化財)を造ったのは、1646年(正保3)のことです。 「三慧殿」の「厨子」に秘められた西欧への想い 「三慧殿」に近寄って内部の厨子をよく見てみると、中央には、白馬に乗った光宗像があり、その左右には、殉死した7人の像が祀られています。そして、向かって右側の上には、赤い花弁と7枚の葉のバラの画が描かれています。 当時の絵具は、サンゴを細かく砕き、膠(にかわ)で溶いたもので、これもそれを使って着色されているとのことですが、剥離もなく、色彩も鮮やかで、とてもよい状態で保存されていることに驚きました。こちらのバラの画は、伊達政宗の命を受け、1613~1620年にかけて、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)としてヨーロッパへ渡った支倉常長が、ヨーロッパから持ち帰った日本最古の「洋バラ」が描かれた画といわれています。 また、「洋バラ」の画の他にも、向かって左側には、イタリア・フィレンツェを象徴する花「水仙」が描かれ、十字架のクロス模様、クローバー模様、ダイヤ模様、スペード模様、ハート模様など、西欧文化が図案化されています。 慶長遣欧使節、支倉常長(はせくら つねなが)とは 支倉六右衛門常長(はせくら ろくえもん つねなが)といい、祖は、伊藤壱岐守常久で、伊達氏の始祖、伊達常陸介朝宗に仕えて伊達氏の世臣となりました。常久から15代目の時正に世継ぎがなく、山口飛騨守常成の子である常長を養子として迎えました。常長は、伊達藩の鉄砲組頭を務めていました。 常長は、伊達政宗よりメキシコ、スペインとの通商目的の命を受け、1613年、宣教師ルイス・ソテロ他と共に、仙台藩の月ノ浦(現、石巻市)で製造された帆船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗って、太平洋を横断し、メキシコを経て、スペインに到着。歓迎行事が開かれる中、国王フェリペ三世に謁見し、通商同盟を希望する親書を渡しました。また、国王臨席の下に洗礼を受け、霊名ドン・フィリップ・フランシスコを授けられました。 さらにローマに行き、ヴァチカンでローマ教皇パウロ五世に謁見しました。ローマでは、公民権が与えられたうえに、貴族にも列せられるなど厚遇を受けました。しかし当時、日本でのキリスト教徒迫害の情報が入っていたためか、スペインとの交渉は成功せず、再び船に乗り、フィリピンのマニラを経由し、長崎を経て、1620年8月に仙台に帰国しました。その帰国とほぼ同じ頃、伊達政宗が幕府の反キリシタン政策に従い、領内にキリシタン禁制を布告し、家臣に改宗を命じ、多数の殉教者を出すことになってしまいました。支倉常長は、帰国から2年後の1622年、失意のうちに病死したといわれています。享年52でした。また、航海を共にしたルイス・ソテロも1624年に殉教しました。 350年間、扉が閉ざされていた「三慧殿」 三慧殿の内部は、現代になってから、こうして私たちも見ることができるようになりましたが、上記のような状況下、また鎖国制度などにより、徳川幕府には、伊達家の霊廟であると伝え、約350年間もの長きに渡って扉を開けることはなかったそうです。 境内にはバラ園がつくられて このように、支倉常長が持ち帰ったとされる洋バラの画や、支倉常長を通して伝わった西欧文化を図案化したものが、光宗の霊廟「三慧殿」の中に、秘蔵として大切に護られてきました。円通院の境内には、それらの偉業の象徴として6,000㎡の敷地にバラの庭「百華峰(びゃかほう)西洋の庭」もつくられたのです。 バラの品種はランダムに集められ、オールドローズから現代バラまでさまざまです。どれも、しっかりと手入れされ、美しく咲き誇っていました。その中に、約350年前にヨーロッパで咲いていたであろうオールドローズ「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」(G)も植栽されていました。 かつて、西欧のバラがまだ日本に無いに等しい時代から比べると、何とバラエティー豊かにさまざまな品種が、現在の日本で愛でられるようになったことか、きっと支倉常長も喜んでいるのではないでしょうか。また、「三慧殿」の中で、日本に確かに伝わっていた西欧文化の証を、まるで護ってきたかのような若き光宗の凛々しい姿が強く心に残りました。ぜひ、多くの方に訪れていただきたいと思います。
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バラの街で人気の横浜で建物探訪!「横浜山手西洋館巡り」
西洋館の始まり~横浜開港と外国人居留地の成立 1854年に、アメリカと幕府の日米和親条約が結ばれて鎖国が解かれると、1858年には、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで通商条約が締結されました。それにより国内5港(横浜、長崎、函館、神戸、新潟)で自由貿易が可能となり、開港地付近に、外国人の居住や事業などが許可された場所(居留地)ができました。 1859年、横浜港が開港されると、1860年頃より本格的に山下居留地での建築工事が始まりました。しかし、開港間もない当時は、開港や居留地制度に反対する者による外国人殺傷事件などが起こり、居留外国人防衛を目的に、山手の丘にイギリスとフランスの軍隊が駐留することになりました。 1866年、幕府は「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」をつくり、1867年、バーン商会が幕府の命により、約22万5千坪の山手の土地を競売にかけたことで、次々と買い手がつき、やがて居留地の街ができていきました。山下居留地は商工業地区として、山手地区は住宅地区として洋館が建てられ、1875年には、イギリスとフランスの両軍隊は完全に山手から撤退していました。それにより、両軍隊の跡地の分割が行われると、山手居留地は益々整備が進み、病院、学校、墓地、教会、公園、ホテルなどの施設も充実しました。 現在の山手地区の主な歴史的洋館 現代の山手地区を大きく5つのエリアに分け、9つの建物をご紹介します。まずは各エリアの由来と、そのエリアにある建物の名称をリストアップしましょう。 Ⅰ. 港の見える丘公園エリア ①横浜市イギリス館 ②山手111番館 【エリア解説】1962年に開園し、園名は戦後の流行歌『港の見える丘』に由来します。 Ⅱ. 元町公園エリア ③山手資料館 ④山手234番館 ⑤エリスマン邸 ⑥ベーリック・ホール 【エリア解説】元町公園は、元町商店街から山手にかけての谷戸と呼ばれる地形に位置します。 Ⅲ. 山手公園エリア ⑦旧山手68番館 【エリア解説】日本初の洋式公共庭園であり、日本におけるテニス発祥の地です。 Ⅳ. 山手イタリア山庭園エリア ⑧外交官の家 ⑨ブラフ18番館 【エリア解説】1880~1886年に、イタリア領事館がこの地に置かれました。 西洋館探訪1 横浜市イギリス館(横浜市指定文化財) 1937年(昭和12年)に、英国総領事館公邸として、上海大英工部総署の設計により建てられました。コロニアルスタイルの建物は、現在、1階はコンサートホール、2階は会議室に利用され、寝室や展示室などが一般公開されています。 イギリス館周囲の庭園は、現在、「イングリッシュローズガーデン」と命名され、さまざまなイングリッシュローズと共に、宿根草などの草花との組み合わせや配置が見事な英国風ガーデンとなっています。アーチやオベリスクを利用した立体的空間デザインや各コーナーごとのカラースキームも大変素晴らしく、まるでイギリスのガーデンにいるような錯覚を覚えます。こちらでは、約130品種、約1,200株が植栽されています。 また、隣接された「香りのガーデン」では、特に香りが強く香料用のバラとして栽培されている品種をはじめ、中国や日本などのさまざまな香りのバラが50種以上と、100種以上の香りの植物が植栽されています。 フランスのグラースなどで香料用に栽培されている‘ローズ・ド・メイ’が、ベンチの後ろに数株並んで。 西洋館探訪2 山手111番館(横浜市指定文化財) 1926年(大正15年)に、J.H.モーガン氏による設計で、アメリカ人、ラフィン氏の住宅として建てられました。スパニッシュスタイルの洋館は、イギリス館南側に位置し、ローズガーデンを見下ろすように佇み、現在、地階は喫茶店となっています。 西洋館探訪3 山手資料館(横浜市認定歴史的建造物) 外国人墓地の向かいの山手本通り添いに建つこちらの洋館は、1909年(明治42年)に、中澤兼吉氏の邸宅として、本牧本郷町に建てられた和洋併設住宅の洋館の部分を移築したものです。現在、開港~関東大震災までの横浜や山手に関する資料を保存し展示しています。庭園には、洋館を背景にバラが数株植栽されています。 西洋館探訪4 山手234番館(横浜市認定歴史的建造物) 山手本通りを元町公園前に向かって進むと、間もなく見えてくるこちらの洋館は、1927年頃(昭和2年)に、朝香吉蔵氏の設計により建てられました。関東大震災で横浜を離れてしまった外国人に戻ってきてもらうための、外国人向けアパートメントハウスでした。当時は、3LDKの間取りが4セット、玄関ポーチに向かい合うよう設計されました。 こちらでは、ハンギングや寄せ植えなどがセンスよく配置されていました。 西洋館探訪5 エリスマン邸(横浜市認定歴史的建造物) 山手234番館の前の山手本通りを少し進み、向かい側にあるのがエリスマン邸です。1925~1926年(大正14~15年)に、日本の近代建築の父といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド氏の設計により、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会のスイス出身フリッツ・エリスマン氏の邸宅として建てられました。1990年(平成2年)には、元町公園内に移築されました。 西洋館探訪6 ベーリック・ホール(横浜市認定歴史的建造物) エリスマン邸のすぐ隣に建つスパニッシュスタイルの洋館は、1930年(昭和5年)、アメリカ人建築家であるJ.H.モーガン氏設計により、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建てられ、2000年(平成12年)まで、セント・ジョセフ・インターナショナルスクールの寄宿舎として使用されていました。 西洋館探訪7 旧山手68番館 1934年(昭和9年)に外国人向けの賃貸住宅として、山手68番に建てられ、1986年(昭和61年)に、山手公園内に移築されました。現在は、山手公園管理事務所になっています。 山手公園は、1870年(明治3年)、日本初の洋式公園としてこの地に誕生し、日本で初めてテニスが行われた場所でもあります。居留地外国人女性によってレディーズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ(LLT&CC)が創設され、1998年(平成10年)には、LLT&CCが改称した公益社団法人 横浜インターナショナル・テニス・コミュニティ(YITC)創立120周年を迎え、テニス発祥記念館を同公園内に開設しました。 また、1879年(明治12年)にイギリス人のH.ブルック氏がインドよりヒマラヤ杉のタネを取り寄せ、日本で初めて植栽しました。2004年(平成16年)には、国の「名勝」指定を受けた公園でもあります。 西洋館探訪8 外交官の家(国重要文化財) 明治政府の外交官として、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使を務めた内田定槌氏の邸宅として、1910年(明治43年)に、J.M.ガーデナー氏設計により東京・渋谷区南平台に建てられましたが、1997年(平成9年)に、現在建物があるイタリア山庭園内に移築されました。建物は、アメリカン・ヴィクトリアン様式です。また、幾何学模様にデザインされた整形式庭園も見どころです。 西洋館探訪9 ブラフ18番館(横浜市認定歴史的建造物) 外交官の家の隣に建つこちらの洋館は、大正末期頃に建てられた外国人用住宅で、1991年(平成3年)まで、カトリック山手教会司祭館として使用されていました。1993年(平成5年)に現在の山手イタリア山庭園内に移築されました。 なおブラフとは、かつて居留外国人たちが、山手の港寄りの切りたった崖の地を「ブラフ」と名づけたことに由来します。 ブラフ18番館からJR京浜東北線・根岸線「石川町」駅に向かう大丸谷坂の道に、懸崖仕立てにバラが植栽されていました。 各洋館の歴史がそれぞれにあるように、庭園もそれぞれの経緯を経て今に至ります。横浜開港150周年を記念して平成19年に市民投票により名前が選ばれ、平成21年に名づけられたピンクのバラ‘はまみらい’は、あちらこちらで目にすることができました。 現在、横浜では市をあげて、花と緑のフェア「ガーデンネックレス」が開催されています。また、5月は「横浜ローズウィーク」とメインイベントとなる「ばらフェスタ2019」も、横浜の大さん橋ホールにて初開催されています。 バラが最盛期の今、ぜひバラとの歴史が深い横浜で花咲く喜びを体感していただきたいです。 併せて読みたい ・横浜とバラの歴史を刻み続ける「港の見える丘公園」 ・新しい花のイベント開催スタート!「ばらフェスタ2019」in横浜 ・編集部厳選・国内名ガーデン案内「神奈川・横浜イングリッシュガーデン」の四季
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皇室ゆかりのバラ〜皇居東御苑のバラとプリンセスローズ〜
昭和から平成、そして令和へと引き継がれるバラ 「令和」の新しい時代が明けようとしています。"皇室とバラ”といえば、雅子様のお印が「ハマナス」、眞子様のお印が「モッコウバラ」。そして雅子様、眞子様のお持ち物には、この「ハマナス」、「モッコウバラ」が描かれているとのことです。 皇居東御苑の一角にあるバラ園には、この「ハマナス」や「モッコウバラ」をはじめ、全部で15品種のバラが植栽されています。もともとは、昭和天皇に献上され、育てておられたバラが大半で、上皇陛下のお考えから1996年(平成8年)に整備され、吹上御所からこちらに移植されたそうです。 では、植栽されている15のバラをご紹介しましょう。 1.テリハノイバラ(ロサ・ウィクライアーナ) 一季咲きで3~4cmほどの白い花を咲かせ、つる性のほふくする枝に光沢のある照り葉が茂るのが特徴です。20世紀初頭、ヨーロッパやアメリカに渡り、さまざまなランブラー、ハイブリッド・ウィクライアーナの作出に貢献しました。 原生地:日本、中国 2.イザヨイバラ(ロサ・ルクスブルギー) 繰り返し咲く約8cmの花は、花弁が多くとても美しい。満月が少し欠けたような花形から十六夜(いざよい)バラと呼ばれます。江戸時代には、葉の形状から、「サンショウバラ」と呼ばれていました。 原生地:中国の南西部から東南アジア 3.シロバナハマナス(ロサ・ルゴサ・アルバ) ハマナスの白花品種で、花径約8cmの花は繰り返し咲き、秋には大きな実を付けます。 原生地:カムチャッカ半島、千島列島 4.コウシンバラ(ロサ・キネンシス) 四季咲き性が強く、コンパクトな木立ち性の樹形。1309年、藤原氏の氏神である春日神の霊験を描いた絵巻「春日権現験記」(三の丸尚蔵館所蔵)の第5巻第2段に描かれた花が、このバラではないかといわれています。 原生地:中国 5.かのこ 一季咲きで、5枚弁の紅色の花弁は、中心が白く抜け、房咲きになります。 原生地:日本 6.フローレンス・ナイチンゲール フローレンス・ナイチンゲール国際基金発足75周年を記念して作出されたバラ。2009年9月に国際看護師協会から贈られ、このバラ園には、上皇・上皇后両陛下がお手植えされました。 1989年、アメリカで作出されたシュラブローズ。 7.のぞみ ほふく性の株でコンパクト。一重の可憐な薄いピンクの花は一季咲きです。 作出は1968年、小野寺透氏。 8.ハマナス(ロサ・ルゴサ) このバラが日本からヨーロッパへ渡ると、「耐寒性に優れ、返り咲き性があり、大きなローズヒップも楽しめる」ことから、北欧などの寒冷地向きのバラの交配に貢献しました。爽やかなスパイシー香があります。 原生地:日本 9.マイカイ 中国では、「マイカイ」(メイグイ)は、バラの総称に加え、薬や食用に使用される、このバラの個体名も指します。ダマスクにスパイシー香が混ざる心地よい香りの花は、お茶やお菓子に利用されてきました。 原生地:中国 10.サクラバラ(ロサ・ウチヤマナ) 5弁の花弁の先にピンクが乗る優しい雰囲気のバラは、つる性で一季咲き。日本のノイバラ(ロサ・ムルティフローラ)と中国のコウシンバラ(ロサ・キネンシス)の交雑種とみられます。 原生地:日本(九州) 11.サンショウバラ(ロサ・ヒルトューラ) 一季咲きの5弁の大輪。薄いピンクの花の中央にある豪華なシベが美しい。木立ちの大木になり、葉の形状から「山椒薔薇」、富士箱根地区が自生地であることから「箱根薔薇」とも呼ばれています。 原生地:日本 12.ナニワイバラ(ロサ・レヴィガータ) 光沢のあるしっかりとした常緑の葉に、純白の5弁の大輪の花が美しい一季咲きのバラ。樹勢が強く、大きな株に育ちます。1700年頃、日本へ。 原生地:中国 13.ツクシイバラ(ロサ・ムルティフローラ・アデノカエタ) 5弁のハート形の花弁の先に優しいピンクが乗り、房咲きになる姿が愛らしい。一季咲き。 原生地:日本(九州) 14.キモッコウバラ(ロサ・バンクシアエ'ルテア') 八重咲き(プレナ)の黄色(ルテア)のモッコウバラは、常緑のつる性で、温暖な場所で真価を発揮します。東御苑のバラ園では、陽当たりがよく、ベッド仕立てにしてあるため、とても花付きがよく、開花時には大変見事に咲き誇ります。 原生地:中国 15.モッコウバラ(ロサ・バンクシアエ) 白い(アルバ)八重咲きのモッコウバラは、キモッコウバラと同様、ベッド仕立てに。 19世紀初め頃、八重咲きの白いモッコウバラ(ロサ・バンクシアエ・バンクシアエ)は、スコットランドの園芸学者兼植物学者ウィリアム・カーによって、中国からヨーロッパに紹介されました。その際、イギリスのキュー・ガーデン所長、ジョゼフ・バンクスの妻の名を付けて、「レディ・バンクス・ローズ」という名で紹介されました。白の一重と八重、黄色の一重には香りがあることから、「木香薔薇」と呼ばれます(黄色の八重は微香)。 原生地:中国 以上のように、植栽されている品種を紐解けば、東御苑のバラ園には、中国との歴史や友好、記念など、日本の歴史、皇室の歴史、バラの歴史の一端が、凝縮されていることが見えてきます。 皇族の方々のお名前を冠したバラ そして、東御苑バラ園には植栽されてはいませんが、皇族の方々のお名前を冠したバラもご紹介しましょう。 ‘プリンセス・ミチコ’(F) ‘エンプレス・ミチコ’(HT) ‘プリンセス・マサコ’(HT) 雅子様がご成婚前に直々に選ばれたバラ「プリンセス・マサコ」。滋賀のWABARA / Rose Farm KEIJIのバラ育種家、國枝啓司さんが1993年に作出しました(現在は非売品)。 ‘マサコ(エグランタイン)’(S) ‘ハイネス雅(みやび)’(HT) ‘プリンセス・サヤコ’(HT) ‘プリンセス・アイコ’(F) 皇室と縁のあるバラ農家、長野県富士見町にある「アサオカローズ」さんでは、美智子様のお誕生日には、1980年から毎年、‘プリンセス・ミチコ’の花束を献上し、2013年からは、‘プリンセス・ミチコ’に3種のバラをブレンドしたローズウォーターを献上されています。 また、寛仁親王妃信子殿下は、公益財団法人日本ばら会の名誉総裁で、淡いローズピンクが美しい‘プリンセス・ノブコ’(HT/2001年 スコットランド アンG.クッカー作出)と名のついたバラもあります。 年号が変わるこの節目の年に、皇室にゆかりのあるバラに再注目してみました。これから全国でバラが咲き誇る季節。ぜひ、お近くのバラ園などでも、皇室にゆかりのあるバラの美しい咲き姿を愛でてはいかがでしょうか?
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ストーリー
英国の薔薇戦争がその後のバラの世界に与えた影響とは
赤バラと白バラの戦い バラがお好きな方なら、「薔薇戦争」のことはよくご存じかと思います。 1455年~1485年、イギリスで起こった王位継承権を争うランカスター家とヨーク家の戦いで、それぞれの紋章が、ランカスター家は赤いバラ「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」、ヨーク家は白いバラ「ロサ・アルバ」であったため、「薔薇戦争」と呼ばれました。 いつ頃から「薔薇戦争」と呼ばれたかは不明ではありますが、ヨーク公リチャードが、フランスとの100年戦争に負けて気を病んだといわれる、当時のイングランド王ヘンリー6世に対して反乱を起こしたのが始まりです。最初はヨーク家が勝利し、ヨーク公リチャードの息子エドワード4世、その息子エドワード5世、エドワード4世の弟リチャード3世と、ヨーク家がイングランドの王位に3代続いて就くことができました。しかし、エドワード5世とリチャード3世が内輪もめで戦い、リチャード3世が勝利すると、それに不満を持った貴族たちが、ランカスター家を復活させようと、気を病んだヘンリー6世の異父兄弟のヘンリー・テューダーを担ぎ出し、リチャード3世に対抗しました。そして、ヘンリー・テューダーが、ボースワースの戦いでリチャード3世に勝利し、ヨーク朝のエドワード4世の娘であり、リチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークを妃に迎えて薔薇戦争を終結させ、イングランド王ヘンリー7世となり、テューダー朝が始まりました。 そして、赤バラと白バラが重ねられた紋章「テューダー・ローズ/Tudor rose(別名ユニオン・ローズ/Union rose)」の紋章ができ、現代の女王、エリザベス2世にも、その紋章が引き継がれています。 このように「薔薇戦争」と呼ばれたのは、争った家の紋章がバラをモチーフにしていたのが理由で、生花のバラとはあまり関係が無かったのでしょうか。ここからは「薔薇戦争」とその後を振り返りながら、実際のバラの世界との関係を考えてみたいと思います。 ヘンリー7世の息子ヘンリー8世 ヘンリー7世の二男で、兄アーサーの死により、王位に就いたヘンリー8世(Henry VIII, 1491-1547年)は、薔薇戦争に翻弄された父や母、薔薇戦争そのものへの思いから、男子の世継ぎを切望したといわれます。統治者としてのカリスマ性もありましたが、自身の意にそぐわない人物を反逆罪として処刑した件数も多く、また、6度の結婚とそれに伴う非道ともいえる離婚劇などでも有名です。 ヘンリー8世と6人の妃たち 1度目の結婚は、亡き兄アーサーの妻であったスペインのキャサリン・オブ・アラゴンとの政略結婚でした。ヘンリーとの間に6人の子をもうけましたが、成長したのはたった1人。後のメアリー女王だけでした。世継ぎとなる嫡出の王子を切望していたヘンリーは、王子が生まれないために、王妃キャサリンとの結婚は無効であると主張し、その侍女のアン・ブーリンとの再婚を希望しました。そして、それを認めなかったカトリック教会から離脱し、また国王至上法を発布すると、自らイングランド国教会の長として宗教革命まで起こして結婚の無効性を認めさせ、アン・ブーリンとの再婚を果たしたのでした。 2番目の妻アン・ブーリンと再婚を果たしたヘンリーは、彼女との間に、後のエリザベス1世をもうけますが、やはり世継ぎとなる王子が誕生しないまま、いろいろな罪を着せてアン・ブーリンを逮捕、処刑してしまいます。 そして、処刑の翌日には、アン・ブーリンの侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、10日後には結婚しています。 3番目の妻ジェーン・シーモアは、ヘンリーにとって待望の世継ぎの男子エドワード王子(後のエドワード6世)を出産しますが、出産後すぐに命を落としてしまいます。 その後ヘンリーは、側近のトマス・クロムウェルに、次の王妃を探させます。クロムウェルはユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の姉、アン・オブ・クレーヴズを、4番目の王妃としてヘンリーに推薦し、2人は結婚します。しかし、結婚後すぐにヘンリーは、結婚の無効を主張し、アン・オブ・クレーヴズもそれを受け入れます。 ヘンリーは、5番目の妻となった若いキャサリン・ハワードにもいろいろな罪をきせ、逮捕、処刑しています。そして、最後となる6番目の妻キャサリン・パーは知的な人物であったため、エドワード王子の教育を任されます。また、キャサリンは庶子の身分となっていたメアリー、エリザベスにも心を配り、エドワード王子の下ではありますが、王位継承権を復活させました。 ヘンリー8世亡き後 1547年、ヘンリー8世が逝去すると、唯一の男子エドワード王子は、わずか9歳でエドワード6世としてイングランドの王位に就くことになりました。しかし、生まれつき体が弱かった若き王は、15歳でこの世を去ってしまいます。 その後、ヘンリー8世の最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に誕生したメアリーが女王となります。敬虔なカトリック信者であったメアリー1世は、父のヘンリー8世が行った宗教改革を覆し、ローマ教皇を中心とするカトリック世界に戻しました。そこで、メアリーはプロテスタントを迫害し、約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれます。1558年、メアリー1世は病死し、次の王位継承者である異母妹のエリザベスが、25歳の時に女王エリザベス1世となります。 エリザベス1世の功績 エリザベス1世の母は、先程も触れましたようにヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンです。実の父ヘンリー8世によってロンドン塔に送られ、ギロチンの刑に処された母親…エリザベスはその時わずか2歳8カ月でした。エリザベス1世は女王になると、まずメアリー1世が行ったローマ教皇を中心とするカトリック世界を覆し、父ヘンリー8世が行った国王至上法と英国国教会体制を確立しました。そして、スペインの無敵艦隊を撃退し、貿易に力を入れ、1600年12月31日に、イギリスの独占的な東洋貿易を進めるために「イギリス東インド会社」を設立させました。エリザベス1世は生涯独身を貫き、国のために尽くした女王であったようです。エリザベス1世の死と共に、テューダー朝は幕を閉じました。 東インド会社とバラ 19世紀、東インド会社の社員として中国に駐在していた英国人ジョン・リーヴスは、本国へお茶を輸出する仕事をしていましたが、植物の蒐集も行っており、1808年、アレクサンダー・ヒューム卿に、中国のバラの木を送りました。このバラの花は、お茶のような香りがあったため、香りのバラという意味の「ロサ・オドラータ」という名前が付けられ、「ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ」と呼ばれました。四季咲きで大変な人気を博し、ティーローズの系統の作出に貢献しました。 他にも、中国のバラが商人やプラントハンターによって、インドを経由し、ヨーロッパに渡ることになりました。そして、あのバラの蒐集で有名なナポレオンの最初の妃ジョゼフィーヌのマルメゾン城の庭園へもバラが集められ、そこで働くアンドレ・デュポンらによって、人工交配の技術が磨かれ、バラの新品種誕生に繋がっていったのでした。 また、ベルギー出身の宮廷画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテがマルメゾン城のバラを描いた『Les Roses バラ図譜』を1817年に完成させていますが、これは当時のバラの重要な資料となり、現代ではアートとしても高い人気を誇っています。 『Les Roses バラ図譜』の中には、「ロサ・インディカ」と記された東インド会社経由でヨーロッパに持ち込まれたバラと見られる画がいくつかあります。このように、薔薇戦争が、その後のバラの世界に与えた影響は、決して小さなものではなく、実は大きかったのかもしれません。 併せて読みたい ・花の女王バラを紐解く「赤バラか白バラか、王位をめぐる薔薇戦争」 ・バラの季節を楽しむなら朝がベスト! 心身ともに癒される「バラの芳香浴」 ・バラの香りを閉じ込めたローズゼリーのつくり方
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ライフスタイル
大正ロマン~昭和モダンのファッションとバラ
日本の女性たちに愛されるバラ 現在、洋服や着物に、バラの絵柄や模様、刺繍などが日常的にたくさん見られるようになりましたが、これは、それほど人々にとってバラが身近な存在であり、なおかつバラの美しさに対する思いが存在する表れでもあるかと思います。 日本で栽培用のバラが急速に広まっていったのは、明治維新以後のこと。洋の花の一つとして、その美しさと西洋への憧れを伴い、上流階級の人々から徐々に庶民に広がっていきました。 明治から大正時代には、実際に、バラの苗を自分自身で育てて愛でる人、そして公園や温室、切り花の普及により、自分では育ててはいないけれどもバラの花を愛でられるようになった人など、現代のバラと人々との関係を築く礎が構築された時代でもありました。 そして、バラと人々が触れ合う機会が増えたことは、人々のバラへのさまざまな思いが表現されることにもつながりました。今回は、その一例として、大正ロマン~昭和モダンに見られるファッションや、その様子が描かれた雑誌の挿絵などに描かれたバラから、その魅力を探りたいと思います。 大正ロマン・昭和モダンとは 1912年から始まった大正時代の日本は、明治維新後の文明開化と共に進められてきた工業化、産業化が功を成し、また、1914年に起こった第一次世界大戦では、勝利国として列強の仲間入りを果たし、国際連盟の常任理事国となりました。 民間では、印刷技術の向上により新聞や書物が広まり、大正デモクラシーと呼ばれる日本独自の民主主義運動が起こりました。新しい時代の気運の高まりと共に、個人の解放なども相まって、自由や耽美性、ロマンティシズムを表現する文学が登場し、文芸誌、婦人雑誌、少女雑誌、児童雑誌、青年雑誌など、さまざまな雑誌が創刊されました。 また、欧米を中心に流行していたアール・デコ様式、その前のアール・ヌーヴォー様式の影響を受け、建築や芸術、ファッション、暮らしにまで、和洋折衷文化が花開きました。諸説ありますが、これらを称して「大正ロマン」、その後の昭和の戦前までのモダニズムな気運に満ちた時代を「昭和モダン」と呼ぶようです。 大正ロマン・昭和モダンを今に伝える着物 開港以後、明治、大正、昭和の戦前は、日本にとって新しい外国からの多様な文化が大量に入ってきましたが、その中には栽培用のバラもありました。また、身近な、着物という当時の日常着に、新しく外国から入ってきた文化を絵柄にしたものが登場し、その中には西洋バラも描かれ、まずは当時の裕福な家庭の主婦や「令嬢」と呼ばれた良家の子女に人気を博しました。百貨店やファッション誌も登場し、徐々に流行に敏感な若い女性たちのファッションに取り込まれていきました。 その若い女性たちが夢中になっていたのが、少女雑誌や婦人雑誌です。その人気をさらに高めていたのが、表紙画や誌面に掲載された抒情詩などに添えられた挿絵でした。 表紙画や挿絵に描かれたバラ 当時の挿絵画家としては、竹久夢二、高畠華宵、中原淳一、蕗谷紅児、橘小夢、岩井専太郎ほか、現代にも名を残す画家が活躍し、彼らの描く絵だけでなく、画家自身への憧れや人気も高かったといわれます。その挿絵画家たちが描く世界には、美しい女性と共に、当時、洋の花と呼ばれた西洋バラや洋蘭、ドイツスズラン、チューリップなどが多く見られます。 例えば、少女雑誌『女学生』大正12年4月号は、竹久夢二が描いた「薔薇の露」が表紙を飾りました。そこには、大輪のバラの花に口付けする女学生が描かれています。 また、少女雑誌『少女画報』に掲載された高畠華宵が描いた「(仮)すずらん」(大正末~昭和初期)の挿絵には、当時洋の花の一つであったドイツスズランを手に持つ、欧米で流行していたクロッシェという帽子を被ったショートヘアーの洋装の女性が描かれています。こういったファッションは、当時の日本のモダンガール(モガ)の憧れでした。 少女雑誌は、女学生の間で大変人気ではありましたが、欲しい人全員が購入できた時代ではなく、持っている女学生はごく限られ、回し読みするなど、雑誌自体への憧れも強かったようです。 コミュニケーションツールとして流行した 便箋に描かれたバラ 当時はもちろん携帯もなく、電話もまだ若い女性が、友人との会話に利用するという時代ではありませんでしたので、自分の思いを伝えるには手紙を書くことが一般的でした。 その手紙をしたためる便箋にも、人気の挿絵画家の絵が描かれ、送り手は、その絵に思いを重ね合わせながら便箋選びをしたようです。そのように大切なコミュニケーションツールであった便箋の絵にも、バラが多く登場していました。 高畠華宵による便箋表紙絵「真澄の青空」(大正末~昭和初期)には、当時人気であったハイブリッド・ティー・ローズの大輪のバラが描かれた羽織と、ドイツスズランの絵柄の着物を着た女性が描かれています。季節は、背景のススキや紅葉で、秋から冬にかけてであることが分かりますし、それにより、背景に植栽されている白いバラは、四季咲き性のあるバラだと分かります。着物は、絵柄によって季節感を出し、花の時期より少し前に着るのが慣わしになっていましたが、モダンローズとなって四季咲き性が多く作出されるようになったバラは、温室の普及で通年咲くようになった切り花のバラの普及と共に、通年着てもよい絵柄となりました。 以上のように、大正ロマン~昭和モダンを今に伝える着物や、雑誌の表紙絵や挿絵、また大切なコミュニケーションツールであった手紙に使う便箋などには、当時の最先端の文化やファッションが散りばめられ、その中に、バラが存在していたことが分かります。 そして、その描かれたバラを見ると、日本の自生バラではない、当時の最先端のモダンローズが人気の主流であったこと、庶民にとってバラはだいぶ身近になったとはいえ、まだまだ憧れの花であり、人気の花であり続けたこと、そして、バラに対する美意識の強さがあったことなどが伝わってきます。 つまり、バラは人々の美意識に訴えかける花であり、花形や系統などの流行は時代によって変化しつつも、昔も今も、人々を魅了し続けているということではないでしょうか。 最後に、昭和13年5月に発行された婦人雑誌『主婦之友』の付録をご紹介します。内容は、まだ一般の普段着であった着物のさまざまな体型に合った仕立て方や、着方の工夫などが、詳細に書かれたファッション実用書となっています。 左ページの下側には、アールデコ調のバラの絵柄の着物のイラストが見て取れます。しかし、右側に目を移すと、白いバラを手に持った女性の横には、「戦時女性の床しい身嗜み!」と書かれた広告があるように、昭和13年5月といえば、1カ月前に国家総動員法が公布され、戦時体制が本格的に確立されたばかりの時期です。 そして、翌年の昭和14年9月に第二次世界大戦が開戦となり、それ以降、戦火が厳しくなることも知らず、まさか敗戦するに至るなど、誰もが考えも及ばなかった時期ではなかったかと思います。おしゃれやファッションを楽しんでいた多くの女性たちも戦火に巻き込まれ、バラの花も着物も大半が失われてしまうことを、あの時、誰が想像したでしょう。 大正ロマンから続いた昭和モダンのまさに終焉を迎える一歩手前の、最後の華やかなりし時期が、このページから伝わってきます。 今回、ご紹介させていただいた大正ロマン~昭和モダンの時代の着物をはじめ、約30点の古き良き時代の歴史的バラの着物や帯、便箋などを、実際にご覧いただきながら、当時のバラ人気や時代背景をご紹介させていただく講座が4月24日(水)、『家庭画報』他を出版する(株)世界文化社が運営するカルチャースクール「セブンアカデミー」にて開催予定です。 1日講座「着物に描かれたバラの世界~大正ロマン・昭和モダン」 開催日時:2019年4月24日(水)13:30~15:00 会場:セブンアカデミー 所在地:東京都千代田区九段北4-2-29 セブンアネックスビル6F 最寄駅:JR中央・総武線「市ヶ谷駅」より徒歩3分) ご参加費:3,240円(セブンアカデミー会員) 3,888円(一般) 講師:元木はるみ お申込み:2/20(水)10:00~ TEL:03-6697-0771(平日10:00~17:00) 併せて読みたい ・大正〜昭和の戦前の着物に咲いた華やかなりし洋の花 ・江戸のおしゃれなガーデンライフを見に行こう! 展覧会「江戸の園芸熱 -浮世絵に見る庶民の草花愛-」 ・「私の庭・私の暮らし」インスタで人気! 雑木や宿根草、バラに囲まれた大人庭 千葉県・田中邸
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バラ愛好家が提案する「和風に飾る冬の庭バラのアレンジメント」作り方
冬に咲いた貴重なバラを暮らしに飾る方法 剪定や整枝の時に、まだ咲き残っている冬のバラは、集めてみると結構あるもの。寒さによる花傷みはあるものの、それも冬ならではの表情です。この時期らしい表情を、暮らしの中で身近に楽しんでみましょう。 また、年末の家の中の大掃除や整頓などで、押し入れや物置の中から普段使っていなかった和風の器や、お菓子の空き箱などがみつかる時期でもありますね。 今回は冬に咲いているバラを使用して、眠っていた器や、お菓子の空き箱などに活ける楽しみをご紹介いたします。 大掃除で発掘した器や空き箱を利用するアレンジ例7つ お菓子の空き箱を利用したアレンジメントの方法 空き箱は、水を入れることができないからと、花を飾るアイテムとして認識が低いかもしれませんが、一工夫でおしゃれなアレンジメントが完成する便利な器です。飾りやすいコンパクトなアレンジができるので、ぜひチャレンジしてください。 作り方は簡単です。空き箱の内側にセロファンを敷いてから、水に浸けたオアシスをカットして中に入れ、バラとプラスアルファの花をバランスよく挿していきます。花茎が短いバラでも、オアシスを使えば安定させることができ、花も長もちします。 主役になっているバラは、多花性で四季咲き性の強い‘マリア・テレジア’です。色合わせと、この時期に入手しやすい花材でもある、ガーベラやストック、ヒぺリカムを組み合わせました。小さな松と扇を添えることで、お正月の雰囲気がプラスされます。コンパクトで、持ち運びしやすく、お年賀のプレゼントにも重宝しますよ。 扇や松などお正月の雰囲気がある小物は、100円ショップでも多数利用できるものがあるので、この機会に活用しましょう。 南部鉄器の急須を利用したアレンジメントの例 安定感のある花器として利用できる南部鉄器の急須の中に、水に浸したオアシスを入れます。 オアシスの大きさは、目安として、まず蓋の大きさにカットするとよいでしょう。 蓋の大きさと同じサイズにカットしたら、さらに一回り小さく整えて中に入れます。 急須の向きや配置を決めて、バラを活けていきます。急須に活けたバラは、ティーローズやノワゼットローズといった古い時代の品種を合わせてみました。花首が細く、横や下を向くバラであっても、このような高さが低い器なら活けやすく、また、取っ手にもたれかけさせることもできて便利です。庭の姫ウツギの葉を添えました。 茶道のお茶碗を利用したアレンジメントの例 茶道のお茶碗は、口が広く高さが低いので、中側には、水に浸したオアシスを入れると安定して、活けやすくなります。 バラは、‘雅’などの「和ばら」を中心に活けました。庭のバラは、あまり茎を長く残してカットできない場合が多いので、こうした低い器に活けると収まりがよいようです。 あまったバラを、さらに小さな湯呑み茶碗などに 余った小さなバラたちも、捨てられないのが、ロザリアンです。 高さのある器には、ハイブリッドティーローズやチャイナローズなどの、茎がすっと伸びるバラが合うようです。 印判の器を利用したアレンジメントの例 水を張った印判の器に、ただ浮かべるだけの簡単アレンジです。 同じ器に山のようにこんもり盛り上がったような形に整えたオアシスを入れて、冬のバラだけを隙間なく挿して作ります。 バラは、洋風のアレンジメントに利用する機会が多いと思いますが、ご紹介したように意外と和の器にも雰囲気が合うものです。家の中に眠っている和の器に、どんなバラが似合うか、考えるのも楽しい時間ですよね。 庭のバラも剪定作業が進むとともに、花や葉がなくなって、いよいよ春に向かって本腰を入れて冬のお手入れ作業を進める時期がきます。大変な作業の後に待っている、庭で咲いていたバラと遊ぶ時間を楽しみに、作業を頑張りましょう。 併せて読みたい ・冬のバラの活用法~花のない時期でもローズライフを楽しむために ・新春を祝う白いチューリップのお正月アレンジメント ・お正月に飾りたい 一年のスタートを彩る清々しくて縁起のよい植物8種
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ライフスタイル
バラ愛好家が提案する「冬の自然の恵み~ローズヒップ活用法」
冬の悩みに役立つローズヒップ 初冬のガーデンでは、花が少なくなりますが、ローズヒップの赤やオレンジの鮮やかな色彩が、明るく彩ってくれるのは嬉しいですね。 日に日に気温が下がり始めるこの季節、人の体温も低くなり、抵抗力が落ちるといわれています。また、空気が乾燥すると、風邪やインフルエンザなどのウイルスが空気中に浮遊しやすくなり、それらのウイルスが体に侵入しやすい条件が増えるとのことです。さらに、肌も乾燥しがちで、カサカサしたり、小じわができるなど、とても困った季節ですよね。 そんな季節に、バラは「ローズヒップ」という自然の恵みを用意してくれました。 バラの実、ローズヒップとは ローズヒップは、一般にバラの実と思われていますが、じつは花床という部位が膨らんだものです。一見果実に見えることから、植物学上では「偽果」と呼ばれています。 上写真は、「ペネロペ」(HMsk)のローズヒップです。春に咲いた花の咲きがらをそのままにしておくと、秋~冬にかけてローズヒップが色付きます。 ローズヒップの成分 ローズヒップには、各品種ごとに違いはあるかもしれませんが、一般に、ビタミンC、カルシウム、鉄分、ベータカロテン、ビタミンE、植物繊維他が含まれているといわれています。 特にビタミンCが豊富で、本来ビタミンCは水や熱に弱く、体に吸収されにくいのですが、ローズヒップの中には、ビタミンCを守るビタミンPやビタミンEも含まれているため、熱を加えてもビタミンCを有効に働かせることができるそうです。 また、一緒に含まれるフラボノイドは、ビタミンCの働きを増強します。 ローズヒップの効能 ロ-ズヒップを体内に取り込むと、ビタミンCが、肌のハリや弾力性を保つコラーゲンの生成を促進し、冬の乾燥や紫外線などによってダメージを受けた肌のコラーゲンの減少を抑える効果があるとのことです。 人によって違いはあるようですが、一般的に、ローズヒップは美肌作りだけでなく、風邪やインフルエンザ、便秘の予防と改善にも役立つといわれています。 ※大量摂取はなさらないよう気を付けてください。また、アレルギーのある方や妊婦さん、お子様、高齢の方のご使用は十分気を付けてください。 自家採取したローズヒップの利用法 今回は、そんな冬の自然の恵みである「ローズヒップ」の利用方法の一つをご紹介します。 なお、ローズヒップは12月以降、寒さとともに、徐々に硬さを増していきますので、なるべくみずみずしいうちに採取し、利用することをオススメします。また、あまり小さなものより、2cm以上の大きさのローズヒップがよく、無農薬で育てたバラのローズヒップをご使用ください。 ローズヒップを半分に切ると、種子と白毛がびっしり詰まっています。食用にするので、これらをきれいに取り除きます。 ローズヒップを瓶に入れ、ハチミツを注いで、約2週間漬けてでき上がりです。生のまま漬けるので、少し硬めの仕上がりとなります。 ジャムのように使うなど、柔らかめがよい時には、ハチミツに漬ける前にスライスしたり、みじん切りにして、鍋で約20分煮ます(それでも少し硬さは残ります)。ローズヒップをよく煮た後、ハチミツに漬けましょう。 ローズヒップのハチミツ漬けでティータイム 私はよく紅茶やヨーグルトに加えて頂いています。他では売っていないオリジナルのローズヒップのハチミツ漬け。花好きの友達とのお茶の時間やリラックスタイムに、ぜひローズヒップでビタミン補給してください。 春にたくさん花が咲けば、それだけ冬に恵みをいただけることになります。ですので、また次の春に、たくさん花が咲いてくれるように冬のバラのお手入れをすることは、とても大切ですね。これから寒い季節を迎えますが、ローズヒップの効果を得ながら、来春に向けた庭作業も少しずつ進めていきましょう。 併せて読みたい ・庭のバラを摘んで作るバラジャム【色をきれいに残す5つのコツ】 ・冬のバラの活用法~花のない時期でもローズライフを楽しむために ・βカロテンで美肌対策! 保存食 杏子(あんず)のシロップの作り方【キッチンガーデンレシピ】
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ライフスタイル
バラを食す!レシピ「薔薇の花びら入りアイスボックスクッキー」の作り方
香りのよいバラの花びらを使ったティータイムのお菓子 10月は秋バラが開花する楽しみなシーズンですね。秋に返り咲く香りのよいバラをドライにすれば、微かに立ちのぼるバラの香りが絶妙な味わいになるクッキーができ上がります。春よりゆっくりと花開く庭のバラたちを愛でながら、温かい紅茶に、手作りで用意したバラの花びら入りクッキーを添えて、ティータイムはいかがでしょうか。 お菓子づくりに重宝する秋にも咲く香りのよいオススメのバラ 食香バラの‘紫枝’ ‘オールド・ブラッシュ・チャイナ’ ‘コントゥ・ドゥ・シャンボール’ ‘ウィリアム・シェイクスピア2000’ ‘シスター・エリザベス’ ‘ハーロウ・カー’ 他 生花がない場合は、市販の飲食用のローズドライ(乾燥したバラの花弁)を準備するとよいでしょう。 バラの花びらのドライの作り方 食べても安心な方法で育てられたバラの花びらをほぐして、さっと水洗いし、水分を取ったら、クッキングシートを敷いたお盆の上になるべく重ならないように広げます。 気候にもよりますが、3日~1週間ほど室内で干して乾燥させ、パリっとしたらでき上がりです。 クッキー作りのレシピ ここでご紹介するクッキーは、ローズヒップティーの風味と色、レモンの酸味とバラの花びらの香りが絶妙な、アイスボックスクッキーです。 材料 ・無塩バター 100g ・粉砂糖 50g ・薄力粉 145g ・ローズヒップティーのティーバッグ)1袋 ・レモン汁 大さじ1 ・バラをドライにした花びら 大さじ2(市販の飲食用ローズペタルのドライでも代用可) ・グラニュー糖 ・食紅(生地に色づけをする場合) 調理道具 ・ボール ・木べら ・泡立て器 ・オーブンシート 作り方手順 バターを常温に戻しておく。 約100ccの熱湯に、ローズヒップティーのティーバッグを浸す。 2にレモン汁を入れ、混ぜる。 バターに粉砂糖を加え、木べらでよく混ぜ合わせる。 3の液を75cc(大さじ5)とり、4に何度かに分けて加え、よく混ぜる。 ドライのバラの花弁(大さじ2)を5に混ぜる。 ふるった薄力粉を加え、よく混ぜ合わせる。ここで、ローズ色の生地にする場合は、お好みで食紅を少々加えるとよいでしょう。 ラップで包んで棒状にし、冷凍庫で生地が固まるまで休ませる(約1時間)。 固まったら冷凍庫から出し、ナイフで5mmほどの厚さに切る。 生地の周りにグラニュー糖をつけ、オーブンシートの上に並べる。 170℃に予熱したオーブンで、15分焼いてでき上がり。 バラの花びら入りの、甘酸っぱい爽やかなクッキーの完成です。 ぜひ、花友達との楽しいティータイムを自作のクッキーとともに楽しんでくださいね。 併せて読みたい ・バラを食す! レシピ「薔薇色のバラのドレッシング」&オードブル ・バラの香りを閉じ込めたローズゼリーのつくり方 ・畑の食材を使った簡単・おいしい・ヘルシーなクッキーのつくり方
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ガーデン&ショップ
秋バラが咲き誇る都会のバラ園「神代植物公園」の歴史と見どころ
昭和36年から数々のバラの名花を植栽 神代植物公園のバラ園は、1961年(昭和36年)につくられました。歴史あるバラ園には、約400品種、5,200株のバラが植栽され、本園の整形式沈床庭園では、主にモダンローズを数多く見ることができます。また、その横には、野生種が植栽されたオールドローズ園や国際ばらコンクール花壇があります。 世界バラ会連合より「優秀庭園賞」が贈られた庭 2009年(平成21年)には、世界41カ国のバラ会が加盟する「世界バラ会連合」より、バラの育成、維持管理、展示様式が高い水準であると評価されたバラ園に贈られる「優秀庭園賞」を受賞しています。 かつての「日米親善のバラ園」の面影を今に伝える「本園」 「本園」内をゆっくり見て回っていると、高芯剣弁咲きのバラが多いことと、作出国がアメリカのバラが多いことに気がつきます。その理由は、1959年(昭和34年)に、アメリカ・ロサンゼルスより、同地の中央公園のバラ園で採取した約80品種のバラの接ぎ穂が「日米親善のバラ」として東京都へ贈られたことから縁ができたためといわれています。 1959年当時の名花であったハイブリッドティーローズやフロリバンダローズが東京都へ贈られ、「日米親善のバラ園」として、ここ神代植物公園に植栽されたとのことです。当時の日米親善のバラは、現在13品種が残っていて、2018年10月に訪れた時、ちょうどそのバラたちの咲く姿を見ることができました。 ‘フロリック’(F)1953年作出 ‘ワイルド・ファイアー’(F)1955年作出 ‘ヘレン・トローベル’(HT)1951年作出 ‘ピース’(HT)1945年作出 ‘クイーン・エリザベス’(Gr)1954年作出 ‘レディ・ラック’(HT)1956年作出 ‘レッドキャップ’(F)1954年作出 ‘ファンファーレ’(F)1956年作出 ‘リリベット’(F)1953年作出 ‘ヒート・ウェイブ’(F)1958年作出 ‘ルビー・リップス’(F)1958年作出 ‘グリーン・ファイヤー’(F)1958年作出 ‘ムーン・スプライト’(F)1956年作出 また、本園内では、1961年に植栽され、57年が経った現在も花を咲かせる‘クイーン・エリザベス’の古木も見ることが出来ます。 バラの歴史と系譜をたどる「野生種・オールドローズ園」 「野生種・オールドローズ園」に向かうと、春の一季咲きのバラが多いせいか、本園に比べて秋はひっそりとした雰囲気です。その中でも花を咲かせているバラたちは、中国原産で18世紀から19世紀初めにかけてヨーロッパへ持ち込まれ、ヨーロッパのバラたちに四季咲き性をもたらしました。 現在、当たり前のように、秋に多くのバラの花を見ることができるようになったのは、このバラたちのおかげだと、しばし見入っていました。ふと周りを見渡せば、秋には花を咲かせない一季咲きのバラたちも、ローズヒップという美しく可愛らしい置き土産を残してくれています。 世界中の育種家の未発表の新品種が並ぶ「国際ばらコンクール花壇」 こちらは、「国際ばらコンクール花壇」です。このコンクールは、1963年から始まり、以来毎年、日本国内や世界中の育種家から未発表の新品種を公募し、2年間の試作を行う中で、「公益財団法人 日本ばら会」の審査員が審査を行い、入賞花を選出しています。 本園の温室寄りの花壇には、歴代のコンクール入賞花が植栽されています。この‘クイーン・オブ・神代’(HT)は、2009年度コンクールの四季咲き大輪金賞受賞花です。2011年の開園50周年を記念して、名前を公募し命名されました。 秋は春よりも気温が低くなるため、バラの開花時間が少し長くなり、さらに寒暖の差で生じる花色の深みが加わって、何ともいえない美しさを感じる時が多くあります。春より濃く感じられる香りと共に、じっくりと一輪の花と向き合って観賞するには、秋はベストシーズンかもしれません。 ぜひ、秋バラの咲くバラ園へ出かけてみてください。
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樹木
バラ研究家が教える! 知れば知るほどバラが好きになるポイント「多彩な花形」
バラ好きを惹きつける美しい花形 バラを何年も育てている方なら、花形のバリエーションが豊富にあることをご存じかと思います。しかし、今までバラに興味のなかった方が、バラにはさまざまな花形があることを知って興味をもたれることも、実は多いのです。 バラには、さまざまな魅力がありますが、その一つである「花形」について、今回はご紹介させていただきます。 バラの「花形」基本編 シングル咲き 5枚の花弁のバラで、小輪から大輪まで大きさのバリエーションも豊富です。多くは、シベを見せて平咲きになります。もともと野生種はこの5弁の花弁でしたが、園芸種のなかにも軽やかなこの咲き方があり、好む人も多く、多種作出されています。 セミダブル咲き シングル咲きを倍にしたような花弁数で、シベを見せて咲き、小輪から大輪までさまざまです。花弁数が増えたのは、雄シベが花弁に変化したからです。 ロゼット咲き 花弁が多く、オールドローズに多い花形です。4つに芯が割れる咲き方をクォーターロゼット咲きといい、緩やかなロゼット状のものから密に込んだロゼット状のものまでさまざまです。同じロゼット咲きでも、花弁の大小、形状により印象が異なります。 カップ咲き 外側の花弁が内側に少し湾曲し、中の花弁を包み込む咲き方で、湾曲が強いとディープカップ咲き、浅いカップはシャローカップ咲きと呼びます。 剣弁高芯咲き 花弁に尖ったように見える部分が現れ、花の中心が高い咲き方です。剣弁高芯咲きよりやや尖った部分が緩やかな咲き方は、半剣弁高芯咲きといいます。また、高芯でないものもあります。ハイブリッド・ティー・ローズに多い花形です。 その他の変化した花形 ここまでご紹介してきた花形のその他のバリエーションをご紹介します。 【ポンポン咲き】球形に近い咲き方で、花弁が密でダリアや菊のポンポン咲きに似ています。小輪のバラに見られます。 【カクタス咲き】花弁が尖ったシャープな形状の咲き方です。 【波状弁咲き】花弁がフリルのように波を打った咲き方で、近年とても人気があります。 また、丸弁、盆状、カーネーション咲き、芍薬咲き、ダリア咲き、菊咲き、撫子咲き、星咲きなど、表記はいろいろです。これらを組み合わせて、「波状弁ロゼット咲き」と記したり、「カップ~ロゼット咲き」と、最初はカップ咲きで時間の経過とともにロゼット咲きに変化するなどの状態を表記する場合もあります。 近年人気の「波状弁咲き」 ライラックラベンダー色のフリルが光沢を帯びて美しい。 品種名「リベルラ」(Fl)2016年 日 今井ナーサリー 作出 ピンク色の花弁の細かいフリルがぎっしり詰まっている。 品種名「レトワール」(Patio) 日 小川宏 作出 また、花心部分に小さな花弁が内側に折れ込んだように丸く並んでボタンのように見える“ボタンアイ”のある花もあります。 品種名「セント・スイザン」(S)1993年 英 David Austin作出 こちらは、白い花びらの中心に、緑のシベが覗く“グリーンアイ”がポイント。 品種名「マダム・アルディ」(D)1832年 仏 Eugene Hardy作出 バラの花はご覧の通り、本当にさまざまな花形があり、花形にも時代の流行があることが分かります。ぜひ、お気に入りのバラとローズライフをお楽しみください。 今、わたしが心惹かれる花形 最後に私が好きな花形をご紹介すると、ロゼット咲き、カップ咲き、波状弁咲き……とたくさんあって選びきれません。ゆえに、庭にバラが増えてしまったのだと実感しました。 併せて読みたい ・こんな時代からバラは愛されていた! バラが登場する日本の古書 ・バラの花形を知りたい!「一重」と「八重」咲きのバラをご紹介 ・知っておきたい! 流行中のバラトレンドと、オススメ品種10選