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バラが描かれた西欧の画がのこる仙台のバラ寺「円通院」を訪ねて

バラが描かれた西欧の画がのこる仙台のバラ寺「円通院」を訪ねて

古くから伝わるバラの画とバラが咲く庭園がある「円通院(えんつういん)」、通称「バラ寺」では、6月にバラが見頃を迎えていました。今回は、バラ文化と育成方法研究家で「日本ローズライフコーディネーター協会」の代表を務める元木はるみさんに、宮城県松島町にある「円通院」のバラをご案内いただきます。

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江戸から移築された本堂のある「円通院」

円通院

「円通院」は、仙台駅より仙石線に乗って約40分、日本三景の一つ「松島」のある「松島海岸」駅より徒歩約6~7分の場所にあります。「伊達政宗」の嫡孫(ちゃくそん)「光宗」を祀る臨済宗妙心寺派の寺院で、「光宗」の菩提寺です。本堂の「大悲亭」(松島町指定文化財)は、江戸にあった光宗の「納涼亭」を1647年(正保4)に解体し、船で運んで移築されたものだそうです。

円通院

「伊達政宗」の嫡孫「光宗」は、「政宗」の次男「忠宗」(二代藩主)と徳川家の「振姫」との間に生まれた次男でした。兄が7歳で亡くなったために世子となり、幼少の頃より文武に優れていました。徳川幕府にとって恐るべき逸材であったためか、江戸城内で亡くなったことに関しては、病死なのか毒殺なのか憶測が広まりましたが、事実は不明とのことです。

円通院の三慧殿
緑の中に佇む「三慧殿」。

亡くなった時、「光宗」はまだ19歳の若さでした。その死を悼んで、父である「忠宗」が円通院の境内に、「光宗」の霊廟「三慧殿(さんけいでん)」(国指定重要文化財)を造ったのは、1646年(正保3)のことです。

「三慧殿」の「厨子」に秘められた西欧への想い

「三慧殿」の「厨子」
「三慧殿」の内部「厨子」の様子。

「三慧殿」に近寄って内部の厨子をよく見てみると、中央には、白馬に乗った光宗像があり、その左右には、殉死した7人の像が祀られています。そして、向かって右側の上には、赤い花弁と7枚の葉のバラの画が描かれています。

「三慧殿」の「厨子」
支倉常長が西欧から持ち帰ったとされる「洋バラ」の画。バラはローマを表すともいわれています。

当時の絵具は、サンゴを細かく砕き、膠(にかわ)で溶いたもので、これもそれを使って着色されているとのことですが、剥離もなく、色彩も鮮やかで、とてもよい状態で保存されていることに驚きました。こちらのバラの画は、伊達政宗の命を受け、1613~1620年にかけて、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)としてヨーロッパへ渡った支倉常長が、ヨーロッパから持ち帰った日本最古の「洋バラ」が描かれた画といわれています。

「三慧殿」解説ポスター
「三慧殿」内に示されていた解説ポスター。

また、「洋バラ」の画の他にも、向かって左側には、イタリア・フィレンツェを象徴する花「水仙」が描かれ、十字架のクロス模様、クローバー模様、ダイヤ模様、スペード模様、ハート模様など、西欧文化が図案化されています。

慶長遣欧使節、支倉常長(はせくら つねなが)とは

支倉六右衛門常長(はせくら ろくえもん つねなが)といい、祖は、伊藤壱岐守常久で、伊達氏の始祖、伊達常陸介朝宗に仕えて伊達氏の世臣となりました。常久から15代目の時正に世継ぎがなく、山口飛騨守常成の子である常長を養子として迎えました。常長は、伊達藩の鉄砲組頭を務めていました。

常長は、伊達政宗よりメキシコ、スペインとの通商目的の命を受け、1613年、宣教師ルイス・ソテロ他と共に、仙台藩の月ノ浦(現、石巻市)で製造された帆船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗って、太平洋を横断し、メキシコを経て、スペインに到着。歓迎行事が開かれる中、国王フェリペ三世に謁見し、通商同盟を希望する親書を渡しました。また、国王臨席の下に洗礼を受け、霊名ドン・フィリップ・フランシスコを授けられました。

さらにローマに行き、ヴァチカンでローマ教皇パウロ五世に謁見しました。ローマでは、公民権が与えられたうえに、貴族にも列せられるなど厚遇を受けました。しかし当時、日本でのキリスト教徒迫害の情報が入っていたためか、スペインとの交渉は成功せず、再び船に乗り、フィリピンのマニラを経由し、長崎を経て、1620年8月に仙台に帰国しました。その帰国とほぼ同じ頃、伊達政宗が幕府の反キリシタン政策に従い、領内にキリシタン禁制を布告し、家臣に改宗を命じ、多数の殉教者を出すことになってしまいました。支倉常長は、帰国から2年後の1622年、失意のうちに病死したといわれています。享年52でした。また、航海を共にしたルイス・ソテロも1624年に殉教しました。

350年間、扉が閉ざされていた「三慧殿」

三慧殿の内部は、現代になってから、こうして私たちも見ることができるようになりましたが、上記のような状況下、また鎖国制度などにより、徳川幕府には、伊達家の霊廟であると伝え、約350年間もの長きに渡って扉を開けることはなかったそうです。

境内にはバラ園がつくられて

円通院のバラ園

このように、支倉常長が持ち帰ったとされる洋バラの画や、支倉常長を通して伝わった西欧文化を図案化したものが、光宗の霊廟「三慧殿」の中に、秘蔵として大切に護られてきました。円通院の境内には、それらの偉業の象徴として6,000㎡の敷地にバラの庭「百華峰(びゃかほう)西洋の庭」もつくられたのです。

ロサ・ガリカ・オフィキナリス
ロサ・ガリカ・オフィキナリス

バラの品種はランダムに集められ、オールドローズから現代バラまでさまざまです。どれも、しっかりと手入れされ、美しく咲き誇っていました。その中に、約350年前にヨーロッパで咲いていたであろうオールドローズ「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」(G)も植栽されていました。

円通院のバラ園

かつて、西欧のバラがまだ日本に無いに等しい時代から比べると、何とバラエティー豊かにさまざまな品種が、現在の日本で愛でられるようになったことか、きっと支倉常長も喜んでいるのではないでしょうか。また、「三慧殿」の中で、日本に確かに伝わっていた西欧文化の証を、まるで護ってきたかのような若き光宗の凛々しい姿が強く心に残りました。ぜひ、多くの方に訪れていただきたいと思います。

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