神奈川の庭でバラを育てながら、バラ文化と育成方法の研究を続ける。近著に『薔薇ごよみ365日 育てる、愛でる、語る』(誠文堂新光社)、『アフターガーデニングを楽しむバラ庭づくり』(家の光協会刊)、『ときめく薔薇図鑑』(山と渓谷社)著、『バラの物語 いにしえから続く花の女王の運命』、『ちいさな手のひら事典 バラ』(グラフィック社)監修など。TBSテレビ「マツコの知らない世界」で「美しく優雅~バラの世界」を紹介。
元木はるみ -「日本ローズライフコーディネーター協会」代表-

神奈川の庭でバラを育てながら、バラ文化と育成方法の研究を続ける。近著に『薔薇ごよみ365日 育てる、愛でる、語る』(誠文堂新光社)、『アフターガーデニングを楽しむバラ庭づくり』(家の光協会刊)、『ときめく薔薇図鑑』(山と渓谷社)著、『バラの物語 いにしえから続く花の女王の運命』、『ちいさな手のひら事典 バラ』(グラフィック社)監修など。TBSテレビ「マツコの知らない世界」で「美しく優雅~バラの世界」を紹介。
元木はるみ -「日本ローズライフコーディネーター協会」代表-の記事
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ライフスタイル
バラを食す! レシピ「薔薇色のバラのドレッシング」&オードブル
テレビでも話題のドレッシング バラの風味をビネガーに移して作るドレッシングは、風味だけでなく、本当にきれいな薔薇色をしています。人気のテレビ番組、TBSテレビ「マツコの知らない世界」(2018年6月26日放送、8月4日再放送)でも取り上げられ、その後話題を呼んでいるこちらの「薔薇のドレッシング」のつくり方をご紹介します。 【材料】 ・食べても安全な方法で育てられたバラの花びら5輪分(今回は、自宅の庭で無農薬で育てたロサ・マイカイを使用します)。ロサ・マイカイや食香バラのように、香りが強く、苦味、えぐみ、しぶみが少ない品種がオススメ。 ・酢/200㏄ ※ミツカンの「やさしいお酢」、アップルビネガーなど、あまりツンとこないもの ・砂糖/大さじ3 ・オリーブオイル/20㏄ ・レモン汁/大さじ1 ・ハーブソルト/小さじ1 ・コショウ/少々 【つくり方】 バラを摘んで、花びらをほぐし、さっと水洗いしたら、水分を取っておきます。 容器にバラの花びらと砂糖、酢を入れて1日置きます。 ザルで花びらを取り除き、液体をボールへ移します。 3に、オリーブオイル、レモン汁、ハーブソルト、コショウを入れ、よく混ぜ合わせてでき上がり。 新鮮な野菜にかけていただきます。 ドレッシングを活用してオードブルづくり バラのドレッシングで和えたサラダを少し使って、オードブルもつくってみましょう。 クラッカーの表面にクリームチーズを塗り、サラダ、バラ型の形に播いたスモークサーモンを飾ったらでき上がり。手早く簡単にできるのに、オリジナリティーのある一品です。 夏にぴったりのビネガードリンク また、「つくり方3」の液体を炭酸水で割ったローズサワードリンクも一緒につくると、この季節にぴったりの飲み物になります。ミントの葉などを浮かべると、より涼しげです。 熱中症予防にもなるビネガーを使用したローズドレッシングにドリンクもプラスして、バラの香りを味わいながら、暑い夏を乗り切りましょう。 ぜひ、安全な方法で育てたバラを使用してお試しください。バラを暮らしに活用し、さらに心豊かなローズライフを楽しみましょう。
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ガーデン&ショップ
横浜とバラの歴史を刻み続ける「港の見える丘公園」
バラが最もふさわしい場所 2016年(平成28)4月に、バラ園がリニューアルされた横浜・山手の「港の見える丘公園」には、現在、約330種2,200株のバラが植栽されているそうですが、元々こちらの公園にバラが植えられたのは、1962年(昭和37)のこと。「港の見える丘公園」内にあるイギリス館に合わせて、イギリスの国花であるバラが植えられました。そしてその後、開港130周年にあたる1989年(平成1)、市制100周年を記念して、市民投票で一番人気が高かったバラを横浜市の花として制定したことに加え、最もバラがふさわしい場所として「港の見える丘公園」が選定されたのでした。 バラが最もふさわしい場所とは、一体どんなところなのでしょうか。今回は、その「港の見える丘公園」についてご紹介します。 横浜とバラの関わりを知る歴史 「バラが最もふさわしい場所」をひもとくには、横浜の歴史に目を向けることが大切です。まずは、横浜とバラの歴史の年表をご覧いただきましょう。 1859年(安政6)7月1日、横浜港開港。 1867年(慶応3) 山手地区が外国人居留地(きょりゅうち)として開放され、西洋館の街が完成 居留地制度は1899年(明治32)まで続きました。 1868年(明治1) 明治維新。 1870年(明治3) 山手公園が開園。フラワーショーが開かれました。 1872年(明治5) 英国商社ヴィーチ商会のクラマー氏が、モダンローズの赤いバラを出品して、居留人に注目されます。バラが居留地の庭園に植えられ、近くに住む日本人からは、「イバラボタン」と呼ばれます。バラは当時、なかなか入手出来ない高嶺の花でした。 日本初の近代バラの広告「英国産のバラ売ります。横濱山六十三番スミス」という広告が出ました。 1885~1888年(明治18~21) かつて山手にあったゲーテ座でフラワーショーが開催され、多くのバラが出品されました。 *ゲーテ座とは、「居留地外国人たちの憩いの場」であり、演劇、音楽会、舞踏会、読書会、宗教活動など、さまざまな催しがそこで行われました。 1885年からは、バラを含めた植物の品評会「草木花卉品評会」が、計4回行われ、アレンジメント、盆栽、シクラメンやベゴニアなどの鉢植えが出品され、賞が与えられました。 1回目の1等賞は、W.B.ウォルター夫人のバラのアレンジメント。ジェームス夫人のバラのコレクション。この頃は、まだティーローズが多かったようです。2回目以降は、日本のご婦人たちによる出品が増え、生花、鉢植え、バラの出品が増えていったそうです。 同時期、有名な英国人建築士のジョサイア・コンドル氏(1852年9月28日 ~ 1920年6月21日)が設計を手掛けた「鹿鳴館」(ろくめいかん)が、1883年(明治16)日比谷に完成しましたが、鹿鳴館の夜会において、バラの切り花が贅沢に使用されていたそうです。 こうして、当時の目新しいバラは、外国人や外国人と関わりのある職業の方やそのご夫人方(いわゆる当時横浜での上流社会の催しなどにおいて、中心的な役割を担っていた人たち)の間にまず広まり、徐々に一般庶民にも広まっていったのでした。 震災を受けてからの横浜とバラ 1923年(大正12) 関東大震災により山手地区の街は壊滅状態へ。 1929年(昭和4) 関東大震災時にアメリカのシアトル市から受けた援助のお礼として、桜の苗木3,500本を贈り、その返礼として、200種3,000本のバラが贈られました。それらのバラは、当時の野毛山公園、山下公園、横浜市児童遊園地に「日米親善のバラ」として植えられました。その中には、‘ラ・フランス’、‘フラウ・カール・ドルシュキー’(新雪)、‘オフェリア’などがあったと伝えられています。 1935年(昭和10)から「バラ祭り」が開催され、「バラ行進」などは現在の「国際仮装行列」の原形になりました。 戦争に突入してからの横浜とバラ 戦争のために「バラ祭り」などのイベントは中止され、バラもほとんどが姿を消してしまいました。 1937年(昭和12) 英国総領事公邸としてイギリス館が建てられ、1969年(昭和44)まで使用されます。 今もなお、「港の見える丘公園」内にある「イギリス館」についてもご紹介しましょう。 1937年(昭和12)、東アジアに散在する英国公館の施設を預かる上海の大英工部総署の設計により、英国総領事公邸が建てられました。建物北側玄関左に、「1937年ジョージ6世時代」を示す「GRⅥ 1937」と印した紋章がはめ込まれています。その後、1990年(平成2)に横浜市が旧英国総領事公邸を買収し、「イギリス館」として市の文化財に指定しました。 1939年(昭和14) 第二次世界大戦始まる。 1945年(昭和20) 8月15日、第二次世界大戦終戦。 終戦を迎えてからの横浜とバラ 1949年(昭和24) 3月15日、野毛山公園を会場に「日本貿易博覧会」が開催。横浜市と日本ばら会の共催による日米のバラの展示会では、サンフランシスコのバラ会より空輸された‘ピース’、‘ショーガール’、‘アームストロング’などが出品され、注目を浴びました。 1962年(昭和37) イギリス館の周囲にイギリスの国花であるバラが植栽されました。 1989年(平成1) 開港130周年、市制100周年を記念して、横浜市の花として「バラ」が制定され、バラを植栽するバラ園をつくるために、最もふさわしい場所として「港の見える丘公園」が選定されました。 港の見える丘公園内にバラ園が誕生 このような歴史的背景を持ち、横浜港を見下ろす「港の見える丘公園」に以前からあったバラが整備されて「港の見える丘公園内バラ園」は、1991年(平成3)5月に開園しました。 そして、2016年(平成28)に、「港の見える丘公園内バラ園」は、イギリス館前が「イングリッシュローズガーデン」に、大佛次郎記念館前が「香りの庭」に、そして111番館前にかけてが「バラとカスケードの庭」へとリニューアルされ、宿根草や一年草との混植のガーデンとなりました。さらには、2017年(平成29年)に横浜で大々的なイベント「第33回全国都市緑化よこはまフェア」が開催され、多くの人が横浜を、そしてバラの咲くガーデンを訪れたのです。 このように、これまで横浜は、バラと深い歴史でつながってきました。これからも「市の花」である「バラ」と共に、共存、発展していくことと思います。
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ライフスタイル
バラの香りを閉じ込めたローズゼリーの作り方
自分で育てたバラを味わう バラを味わうことが、現在ブームとなりました。しかし、どのバラも同じように美味しく味わうことができるとは限りません。それは、特に現代バラは、観賞を目的につくられ誕生したからです。 では、どのようなバラが味わうバラに向いているのかといえば、花弁が柔らかく、渋みやえぐみが少なく、香りが強く豊かなバラです。条件を満たすバラは、オールドローズに多く、現代バラでもオールドローズの性質を受け継ぐバラに見られます。 また、食してもよい安全な方法で育てられているかも重要な条件で、使用された薬剤、または無農薬、肥料に至るまで気を配っていることも大事なポイントです。無農薬で育つバラというのは、病気になりにくく強いバラを選ぶということでもあります。また、長年の経験から、無農薬かつ有機質肥料で育てたバラのほうが、本来の香りが強く豊かであることを実感してきました。 さて、今回は、そのような無農薬かつ有機質肥料で育てた庭のバラを使用して、ローズゼリーをつくってみました。バラは、花弁が柔らかく、豊かなダマスク香にスパイシー香が少し混ざる食香(しょっこう)バラの‘豊華(ホウカ)’(薄ピンクの花)と‘玫瑰(マイカイ)’(濃いピンクの花)が、よく咲いてきたので摘みました。 たった3輪でも香り豊かなゼリーに たくさんのお花がないとつくれないと思っている方は、きっと驚かれるかもしれませんね。‘豊華’や‘玫瑰’でしたら、たった3輪でつくれるほど、香りが豊かなんですよ。では、ゼリーをつくってみましょう。 材料(グラスなど小さな器6個分) ・バラの花 3輪 ・水 300㏄ ・粉ゼラチン 5g ・砂糖 大さじ3 ・レモン汁 小さじ1 つくり方 バラの花弁をほぐして、傷んだ花びらを取り除きます。 花びらを水で洗い、ザルに上げて水を切ります。 鍋に、水300㏄と花びら、砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜながら中火にかけます。 煮立ってきたら弱火にして、鍋にアルミホイルをかけ、約3分煮ます。その際、アルミホイルをかけて、なるべく蒸発を防ぎ、香りを閉じ込めることが大切です。 レモン汁を加え、手早く粉ゼラチンを混ぜ、液が透明になったら火を止めます(レモン汁を加えると、液が綺麗なピンク色に変化します)。 火を止めた鍋にアルミホイルをかけて、3分ほど蒸らします。 容器に分け、冷蔵庫で固めて出来上がりです。この時も、容器をラップなどで密封し、香りを逃さないようにしましょう。 バラの季節にはパーティーを開きますが、このバラの香りを閉じ込めたローズゼリーは、一口含んだ瞬間にバラの香りが広がり、バラとの一体感を感じられると好評です。 また、容器の中で、優しいピンクの花弁がゆったりと舞う姿も美しく、見ているだけでも、心が癒されます。 ぜひ、安全な方法で育てたバラを使用して、お試しください。バラを暮らしに活用し、更に心豊かなローズライフを楽しみましょう。 併せて読みたい バラを食す! レシピ「薔薇色のバラのドレッシング」&オードブル 日本に上陸! 中国医学理論が認定した美と健康の「食香バラ」
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ガーデン&ショップ
神奈川「生田緑地ばら苑」ボランティアが支える天空のばら苑
2018年に60周年を迎えた歴史あるばら苑 東京「新宿駅」から小田急線に乗って急行電車で約25分と、都心から近いにもかかわらず、緑豊かな丘の上にあることから、川崎生田緑地ばら苑は「天空のばら苑」とも呼ばれています。 かつて小田急・向ヶ丘遊園地がこの緑多き多摩区の山の上にできたのは1927年。幼稚園や小学校の遠足先として、また、ファミリー向けの憩いの場として人気を博しました。当時、来訪者を迎えるために入り口斜面につくられた、よく手入れの施された大きな花時計は、今でも訪れた方の思い出の中に残っているのではないでしょうか。 遊園地開園30年後の1958年、東洋一のばら苑としてこの遊園地内につくられたのが、「旧向ヶ丘ばら苑」、現在の「生田緑地ばら苑」です。 1958(昭和33)年といえば、今上天皇陛下と皇后陛下(美智子様)がご婚約された年であり、一万円札ができた年です。また、12月には、東京タワーが完工しました。高度経済成長時代まっただ中、勢いのある時代に、当時の人々にとって繁栄と文明の象徴でもあるモダンなバラたちが集められ、60年の時を経て現在に至っています。 ボランティアが支えるばら苑 その後、向ヶ丘遊園地は、2002年3月に残念ながら閉園を迎えますが、ばら苑の存続を求める川崎市民の多くの声によって、川崎市がばら苑の保全をすることになりました。同年4月より、「川崎市生田緑地ばら苑」として多くの市民ボランティアが協力し支えています。 私も、このばら苑の近くに住む市民のひとりとして、6年前から時折ボランティア活動に参加しています。普段は庭のバラと一人で向き合い、全て一人で作業していますが、こちらでは皆で力を合わせ、一緒にバラを育てている一体感が感じられます。剪定、誘引、花がら摘み、草取りなど、地元に暮らすバラを愛する皆さんと一緒に行う作業の時間も、また楽しいものです。 古いばら苑ならではの雰囲気と希少品種を保有 60年の歴史あるばら苑ですので、どこか懐かしい雰囲気が漂う苑内では、他のバラ園では見かけないような古い希少種のモダンローズを見ることができます。 “ロイヤル“にちなんだバラの品種が充実 各国の要人にちなんだ名前を持つバラたちが植栽された「ロイヤルコーナー」は、他のバラ園でもよく目にすることができますが、こちらのばら苑のロイヤルコーナーの充実ぶりは、特筆すべきものがあります。 ロイヤルコーナーに植栽されているこの‘スルタン・カブース’というバラは、中東のオマーン・スルタン国の現在の国王陛下の名を冠したバラです。このバラをオマーン・スルタン国駐日大使ご夫妻が見に来られるなど、バラがつなぐ民間国際交流の輪も広がりを見せています。 新しいバラや注目のバラ苗も植栽 古いばら苑であっても、各国の新しいバラ、世界バラ会連合選出の殿堂入りのバラなど、常に新しいバラの品種や注目のバラに目を向け、新しく苗を植栽しています。 オールドローズが充実のボランティアガーデン ボランティアガーデンには、オールドローズが多く植栽されています。その結果、モダンローズが多い生田緑地ばら苑の品種のバランスを保つことに繋がっています。モダンローズのルーツを探ることはオールドローズを知ることでもあり、原種のバラへたどり着くことでもあります。バラの歴史は、壮大なストーリーを秘めていることに、来訪者が気づけるような、さりげない工夫でもあるのです。 簡単ではありますが、川崎市の生田緑地ばら苑の見どころをご紹介させていただきました。 こちらのばら苑では、春と秋のバラの開花シーズンのみ一般公開を無料で行っています。 いよいよ、今年の春の一般公開の日が近付いてきました。 春の一般公開日程は、http://www.ikuta-rose.jp/をご覧下さい。 最寄駅:小田急「向ヶ丘遊園」駅南口より徒歩約20分 住所:川崎市多摩区長尾2丁目8番1号ほか(旧 向ヶ丘遊園内) 公開中は、バラの講習会、ボランティアによる庭園ガイド、庭園での演奏会等が開催予定です。(雨天中止の場合有り)
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ガーデニング
バラ愛好家が推奨! 鉢栽培の土替えにプラスする木炭の小粒で、根イキイキ!
鉢植えの土替えは、冬の大事なバラの作業の一つです 土替えをすることで、根が新しく生育し、春の開花シーズンに向けて下準備が整います。バラは、根の先端の「根冠」(こんかん)という部分で、養分や水分を吸収します。鉢の中に根が詰まっていては、うまく養分や水分を吸収できず、春によい花を見ることができなくなってしまいます。 根を少し切っても大丈夫な冬のうちに、鉢から株を取り出して、用土を新しく交換し、根が元気に育つ環境を整えておきましょう。 また、鉢の中には、カナブン(コガネムシ)の幼虫が潜んでいることもあります。根を食害されてしまっては、いくら上から肥料を与えても株は育ちません。この冬のうちに、カナブンの幼虫がいないかよく確認し、もし見つけたらすべて取り除いておきましょう。さらに、癌腫病のチェックも冬の間に行いましょう。 元気な根を育てる木炭 さて、用土を新しくして、また元気な根がたくさん伸びるようにするには、木炭を利用することをオススメします。 木炭には、顕微鏡で見るとたくさんの小さな穴があり、その多孔質な特性が、水分や養分、空気の保持力に優れ、根の生育に有害な物質を取り除き、有効な微生物を増やすという利点があります。また、アルカリ性のため、酸性土で粘土質の土壌改良に優れ、水もちがよいのに、水はけもよく、根腐れの防止にとても役立ちます。 特に鉢底に木炭を入れることで、まるで木炭をめがけて集まってくるかのように根を生育させ、根張りがよくなります。 また、用土の中にも、ひと握りほどの少量の粒状木炭を混ぜ入れます。でも、あまりたくさん入れると、用土がアルカリ性になりすぎ、株が育ちにくくなるので注意しましょう。 根を育てることで、用土の中の水分や養分を吸収する力が増し、株全体がイキイキとしてきます。その結果、春に元気にたくさんの花を咲かせてくれることにつながります。 なお、水はけがよいので、水やりは冬でも3日に1度は与えましょう。また、私は春に、つぼみが色づく前までに、液肥などの追肥を与えています。 今年の開花が待ち遠しいですね。大切に育てた分、きっとバラが応えてくれますよ。
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ストーリー
冬のバラの活用法~花のない時期でもローズライフを楽しむために
冷たい空気にさらされた冬のバラは、花開く時間も遅く、こわばった表情をしていますが、春や夏に多く発生していた害虫の姿もほとんど見られず、色の濃淡を滲ませながら、凛とした独特の佇まいを見せてくれています。 バラの冬の作業を進める中で、剪定した枝にまだ残っていたバラの花や蕾を暮らしに活かし、花のない時期でもバラが楽しめる工夫をご紹介します。 活けて間近に愛でる まず、寒さの中で健気に咲いていた冬のバラを活けて、冬のバラならではの魅力を堪能しましょう。他の季節には見ることができなかった美しさに気づくこともあります。 乾燥気味の冬は、ドライフラワーづくりに最適な季節 バラを小分け(約5~6輪ほど)にし、ゴムと紐で結びます。 逆さにして室内に吊るし、自然乾燥させます。 *窓際の場合は、結露がつかないよう注意しましょう。 飾りながら乾燥させ、ルームインテリアの一部として楽しむこともできます。 冷え症対策にローズ・バスソルトを活用 成分の抽出効果の高い荒塩に、エッセンシャルオイル(精油入り)を混ぜ、約1カ月間バラの花弁をサンドすれば、簡単に家のバラで、ローズ・バスソルトが出来上がります。 *目安として、荒塩250gにエッセンシャルオイル20滴。 *エッセンシャルオイルは肌に刺激の少ないものをお選びください。 寒い冬の時期、血行促進効果に優れ、体を芯から温めてくれるミネラル成分豊富な荒塩に、目にも嬉しく保湿効果やリラックス効果に優れたバラとエッセンシャルオイルもプラスされたローズ・バスソルトは、冷え症対策に大活躍です。ローズ・バスソルトの1回の使用量は、大さじ2を浴槽のお湯に溶かします。 *ローズ・バスソルトは、アレルギー及び敏感肌の方は、ご使用の際は十分ご注意なさるか、ご使用をお控えください。 瓶に入れて室内に置けば、春までの花のない間も、色褪せの少ないバラの花弁を楽しむことができます。 ほんの少しの工夫で、さまざまな形でバラを活用できます。ガーデンに花の少ない寒い時期でも、心豊かにローズライフを楽しんでくださいね。
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ストーリー
大正〜昭和の戦前の着物に咲いた華やかなりし洋の花
バラをはじめとする洋花がファッションのモチーフとして登場 明治維新以後、西洋からさまざまなものが輸入され始めると、それらは日本のあらゆる文化に影響を与え、和洋折衷文化が花開きました。バラをはじめとする花々も外国から輸入されたものは、「洋の花」(洋花)として高い人気を得、徐々に庶民の手に届くようになっていきました。 「洋の花」は、次第に着物の新しい文様として登場し、女性たちはその着物に身を包んで、当時の最先端のファッションを楽しんだといわれます。今回は、「洋の花」と呼ばれた花々が描かれた大正~昭和(戦前)の礼装やお洒落着の着物をご覧いただきながら、外国からやってきた新しい花々が、どのように人々の暮らしに関わっていったのかを見ていきましょう。 写実的に描かれた洋の花は、 まるでボタニカルアート 「小豆地四季花文様正絹振袖」に描かれている花々は、バラ、チューリップ、シクラメン、アネモネ、プリムラ、スズラン、フリージア、ラッパスイセン、ベゴニア、アマリリス、グラジオラス、撫子、梅、紅葉、菊などです。 写実的で大きく描かれた洋の花に対して、日本古来の梅や菊などが、古典柄で小さく描かれているのが対照的です。また、末広の意味が込められ、若い人の着物に多く用いられる文様のひとつ「扇」も、どこか新しさを感じるデザインです。 この着物に描かれている洋の花は、横浜の園芸会社で、明治45年(1912)までには輸入があったとされ、着物の文様に登場したのは、輸入以後のことだと推測されます。実物の花々を見て描いたのか、それとも花々の画や写真を見て描いたのかは定かではありませんが、描く対象を忠実に表現したことが伝わってくる、まるでボタニカルアートのような文様です。 明治から大正時代にかけては、着物の染色技術が進んだこともあり、色彩の濃淡などの表現がとても豊かになったことも、写実的な表現を可能にしました。縫い(刺繍)も所々に見られ、文様に立体感をプラスしています。 これほどまでに、洋の花を多種意識して盛り込んだ着物からは、外国からきた新しい花々への興味と関心、吉祥文様を残しながらも新しいものをたくさん取り入れ吸収するエネルギー、そして活気に満ちた時代背景が感じられます。 前身頃には、大きく描かれたアマリリスやシクラメン、グラジオラス、撫子、万寿菊など。 アール・ヌーヴォー調に 優美な自然美を表現 「紫地薔薇鈴蘭天竺牡丹文様金紗縮緬」 19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本の浮世絵や精巧な工芸品、また着物の流れるようなラインから影響を受け、欧米で人気となった装飾様式「アール・ヌーヴォー」は、逆輸入の形で、明治の終わり頃から大正時代にかけて、日本に取り入れられました。 それは着物の文様にも表れ、ご紹介の着物のように、植物の自然なフォルムが優美に表現されました。 描かれている花々は、バラ、プリムラ、スズラン、そして当時「天竺牡丹」と呼ばれた「ダリア」です。ダリアは、明治30年(1897)代の終わり頃から明治40年(1907)代に日本でブームになった時期があり、その頃、さまざまな品種が日本に輸入されました。 ご紹介の着物では、前身頃(下前)とおくみにダリア、前身頃(上前)にはバラ、という関係から、当時、洋の花の中ではバラに軍配が上がるという認識であったのではないかと推測されます。 「赤地松鶴薔薇文様縮緬留袖」 現代ではなかなか目にすることがなくなった目の覚めるような赤の縮緬留袖には、吉祥文様の「鶴」や「松」と一緒に、白い「バラ」が大きく描かれています。日本古来の文様と洋の花の「バラ」との取り合わせが、まさに和様折衷な時代背景を表しています。また同時に、この着物がつくられた頃には、すでにバラが牡丹に代わって、大役を果たしていたということが見えてきます。古い伝統や慣習にとらわれず、新しいことを切り開いていく心意気、潔さが、文様から伝わってくるようです。 アール・デコ調に モダンな抽象美を表現 「赤地薔薇文様御召縮緬振袖」 1910〜30年代に欧米で流行した「アール・デコ」は、それまでの優美で曲線的な自然美を表現した「アー ル・ヌーヴォー」とは正反対の、合理性のある簡素でパターン化された直線的な装飾様式でした。日本でも大正の終わり頃から「アール・デコ」の影響を受け、着物にも抽象的な文様が描かれました。 写真のように赤地に紺や黒の模様を描いた独特な雰囲気を持つ着物や、現代でも古さを感じさせないモダンな着物がたくさん登場しました。 着物の形は、着る人の体形を別とすれば、袖の長さが違うくらいで、あとはほぼ同じ形です。しかしながら、そこに描かれた文様からは、描かれた当時の時代背景や流行、人々の心までが見えてくるのですから不思議です。古い着物の中に、かつて「洋の花」と呼ばれた花々が華やかに咲いていました。 参考文献:『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕著(誠文堂新光社) 横浜開港150周年「港町百花繚乱」(横浜開港資料館)
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ストーリー
薔薇と銘仙~モダン文様からひもとく大正・昭和初期の薔薇の広がり
西洋文化とともにやってきた薔薇 2018年は、明治維新から150周年を迎えますが、維新後、西洋からさまざまな西洋文化と共にやって来た当時の薔薇たちが、「薔薇は文明の花なり」として、国内に於いても人気を博していきました。 最初は、外国人居留地の庭で咲いていた、それまで見たことのないような大輪の美しい高嶺の花であった薔薇も、輸入苗や販売苗の増加で、愛培家が増え、また、公園の普及などによって、徐々に庶民も薔薇を愛でる機会が増えていきました。 大正時代には西洋文化の定着も進み、薔薇が庶民の身近な存在になりつつありました。人々の西洋文化への興味と関心、活気に満ち溢れた時代背景の中、それを反映するかのように、女性たちの着物には、さまざまな西洋文化をモチーフとした新しい文様が描かれました。 その着物の文様を「モダン文様」といい、当時の女性たちは、モダン文様の着物を着て、時代の最先端のファッションを楽しんでいたといわれます。モダン文様の中には、当時人気の薔薇もあり、薔薇文様の着物は、やはり人気であったようです。 「青地薔薇文様銘仙」 今回は、大正~昭和初期の、特に若い女性たちが愛用した銘仙の着物の薔薇の文様を見ていきましょう。 銘仙は、絹100%の織物ですが、多くは廃棄処分となる「玉まゆ」や「屑まゆ」から採れる太い絹糸で織るため、大変丈夫でありながら安価で、庶民の普段着からお洒落着まで、とても人気がありました。産地は、栃木県足利市、群馬県伊勢崎市と桐生市、埼玉県秩父市、東京都八王子市などです。 絹糸は、蚕のまゆから採る訳ですが、1枚の着物に要するまゆは、大小約2,500~4,000個にも及ぶのだそうです。写真のように、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を故意にずらすことで、色の境界がぼける「絣(かすり)」という技法が当時大流行となりました。 鮮やかな色彩の3種類と思われる薔薇が、雲を突き抜け青空に向かって枝を伸ばしています。大きく写実的に描かれた大胆な薔薇文様からは、それまでの奥ゆかしい日本らしさとは異なった、みなぎるような活力が感じられます。 着物は、元来、季節感を大切にし、描かれた花の季節より少し前に着るものとされていますが、新しく西洋からやってきた洋花は、季節に関係なくいつでも着てよいとされました。これは、当時、輸入植物の栽培に適した温室の導入・増加により、通年花が咲くようになったことと関係があるのかもしれません。薔薇のほかに、当時の新しい洋花には「チューリップ」や「鈴蘭」「洋蘭」などがあり、これらの洋花たちも着物の新しい文様になりました。 「白地梅薔薇文様銘仙」 こちらは、日本古来の花の文様である「梅」と、新しい花の文様の「薔薇」のコラボレーションです。つまり日本と西洋の混合、和洋折衷な文様となっています。そして、梅も薔薇も、かろうじて花の部分は写実性を保っていますが、どちらも茎の部分はデフォルメされて、線のみで表現されています。これは、当時西洋で流行していたアール・ヌーヴォーやアール・デコに影響を受け、異国への憧れを取り入れながら、和洋折衷でデザイン性のあるモダンを表現しているのです。 アール・ヌーヴォーは、19世紀末~20世紀初頭にかけてヨーロッパで人気を博した装飾様式で、日本の浮世絵や精巧な工芸品、また着物の流れるようなラインから影響を受けたといわれます。アール・デコは、アール・ヌーヴォーの大量生産には向かない不合理性からの脱却として、1920~30年代に流行した合理性のある簡素でパターン化された装飾様式を指しますが、当時の日本人にとっては、憧れの西洋文化として、どちらも取り入れたいものだったのかもしれません。 「桃橙色絣地薔薇文様銘仙」 ご覧の通り、薔薇の文様は、小さく簡素にデフォルメされ、薔薇自体の文様というよりは、着物全体の雰囲気を重視しているかのようです。言い換えれば、それほど、薔薇が庶民の身近なものになっていたのではないでしょうか。 銘仙は当時、大正ロマン、昭和モダンとして人気の的となった少女雑誌や婦人雑誌に描かれた抒情画や小説の挿絵などにも描かれ、人気を博しました。 このように、明治以降の西洋文化の流入と共に、日本でも栽培が広がり、着物の文様にもなった薔薇を見ていると、当時の幸せで活気に満ちた時代が垣間見えてきます。が、しかし、それは、第2次世界大戦に突入することで、一旦終焉を迎えることとなってしまいます。 平和の大切さを、薔薇は、物語っているかのようです。
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こんな時代からバラは愛されていた! バラが登場する日本の古書
~明治初期の薔薇栽培書~ この2冊は、どちらも米国人が著者であり、当時英語が理解できた日本人によって翻訳されたものです。明治8年の同じ時期に、唯一種の植物の栽培法が記された本が、2冊も日本国内で発行されたということは、当時の日本におけるバラという植物への興味の強さを表しているのではないでしょうか。また、原本の著者の国アメリカでもバラが人気であったことや、それぞれの米国人著者が影響を受けたフランスやイギリスでのバラ人気という背景も同時にうかがい知ることができるかと思います。 『ヘンデルソン氏薔薇培養法』 著者である米国人ヘンデルソン(ヘンダーソン)氏とは、Peter Henderson(1822~1890年)であり、スコットランド生まれで、21歳の時にアメリカ、サウスカロライナでバラ園のデザインをしていた兄を頼って渡米、兄弟で園芸会社を設立し、アメリカの環境に合った花や野菜販売、種子のカタログ販売をニューヨークで成功させ、「園芸の父」とも呼ばれた人物でした。その彼が記した『Practical Floriculture』(1869年)(Orange Judd Company)の第15章を、水品梅處が翻訳して記したものが、こちらの『ヘンデルソン氏薔薇培養法』です。 水品梅處(本名:水品楽太郎)は、幕末期の1861年、1865年に、遣欧使節団の一員として渡欧しています。本の内容は、バラの栽培方法が中心で、挿し木や接芽(つぎめ)での増殖法、根について、バラの冬の管理方法などが詳しく記されています。また、バラを一季、四季、月季に分け、月季の種は、周年絶え間なく咲き続ける「ノワゼット」「ティ」「ベンガル」「ブルボン」などであり、特に「ノワゼット」は、<勢いよく茂り、毬の如く花を開き、寒地でも痛むことなく~>と記されています。 『図入り薔薇栽培法 上下』 こちらも著者は、Samuel Bowne Parsons(1819~1906年)という、アメリカ生まれの米国人です。やはり兄と共に園芸会社を設立し、果物やバラなどの生産販売を行いながら、バラの本『The Rose : its History, Poetry, Culture and Classifications 』(1847年) (Wiley&Putnam)を記し、1869年に『Parsons on the Rose, Treatise on the Propagation, Culture, and History of the Rose』と本のタイトルを改めて出版しました。 この本を日本語に翻訳したのは、1847年生まれの安井真八郎で、幕末の幕府留学生として英国で学びました。 上巻には、四季薔薇、二季薔薇、二季スコッチ薔薇、二季苔薔薇、ブルボン薔薇、中国薔薇、ノワゼット薔薇、茶薔薇、一季薔薇では苔薔薇、スコッチ薔薇、刺薔薇他の品種が紹介されています。品種名はカタカナのみで表記され、その横に特徴が記されています。 下巻には、挿枝法、芽接法、移植、温室他、栽培法他が詳しく記されています。 ~日本人による薔薇栽培書~『薔薇栽培新書』 上記2冊の出版から間を置いて、明治35(1902)年に発行されたこちらの本は、表紙に厚紙が使われ、当時世界的に流行したアールヌーボー調のモダンな絵が描かれています。右から左に書かれた「薔薇栽培新書」というタイトルも棘のデザイン文字で、当時の最先端を表すようなモダンな印象です。ですが、上記2冊との大きな違いは、なんといっても、著者が日本人であるということです。 とうとう、日本という国土、風土の中で、バラを育てた実践から、どうしたらバラをよりよく育てられるのかということを導き出し、栽培法や繁殖法を伝えるために記された本が登場しました。また、そればかりでなく、植物分類学上のバラ、日本産のバラの種類、中国の書籍に記された種類、日本の当時までのバラの沿革及び種類、一季咲き、三季咲き、四季咲きの種類、詩、俳句、花言葉、バラ祭り、そして応用として、バラの薬用、香料、食品への利用法にさまざまな情報が整理して記されていますので、現在手にとっても大変読み応えのある本だと思います。 残念ながら著者の賀集久太郎は、本の完成を待たず、明治33年に40歳で亡くなってしまいます。生前、『芍薬花譜』『朝顔培養全書』を記し、バラに関しても、明治30年代頃から盛んに行われるようになった品評会についての記事を「日本園藝會雜誌」に記していました。賀集久太郎の死後、遺族から遺稿を託された友人で京都博物館員でもあった小山源治が編集し、賀集久太郎が園主であった京都の朝陽園からこの本は発行されました。 本文中には、京都の平安植家が明治10年に発行した花銘表「各国薔薇花競」が転載されています。花銘表は75品種のバラの和名とその特徴を記したものですが、この本ではさらに明治22、3年頃に栽培されていた品種、明治24、5年~明治35年1月に栽培されていた品種の和名と特徴、また、同じ品種であるのに、違う和名が付けられていたバラ(異名同品種)に関しても、和名の横に異名が記されています。 明治の初期~中期には、ハイブリッド・ティー・ローズ、ティーローズ、ハイブリッド・パーペチュアルローズ、ブルボンローズ、ノワゼットローズ、ベンガルと当時呼ばれたチャイナローズ、そして原種のバラに至るまで、さまざまなバラが輸入されていました。 ~「薔薇は文明の花なり」~ 最後に、何故、バラが明治時代に日本で大人気となったのか、それには当時の時代背景が大きく作用していることを示す文章がありました。 以下、『薔薇栽培新書』より抜粋いたします。 社会の進歩、一国の文明、何れも植物の培養が伴っております。単純な自然の野生植物よりも、培養して進化した艶麗な植物を鑑賞するのが世界一般の有様で、国の文明の程度が花卉栽培によって知られるということは、一面の真理であります。その培養植物の中でも特に、薔薇は、文明国中の花の中の王として栽培されています。その王というべき理由は、花色の艶麗であり、香りであり、他に比較すべきものがない程、優雅で周年において鑑賞できることです。我が国においても、維新以来、文明進歩の状態に伴って、薔薇鑑賞の程度が上がるばかりで、薔薇は文明の花なり、と称しまする。 <薔薇は文明の花なり>という言葉が、とても心に響きました。