オールドローズとモダンローズのターニングポイントとなったバラとして語られることが多い ‘ラ・フランス’が生まれた時代、新しい発想の育種法を提言し、初期のモダンローズの作出も手掛けたイギリスの育種家、ヘンリー・ベネット。彼が自ら育種したバラについて、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。
目次
英国のバラ育種家の生い立ち
英国のバラ育種家として、後に名を残したヘンリー・ベネット(Henry Bennett: 1823–1890)は、英国中部ノッティングハム州ステープルフォードの農場主でした。
牛の飼育と小麦の生産を生業としていましたが、農場経営の先行きに不安を覚えていました。そこで始めたのが、園芸バラの育種でした。1868年頃のことです。
はじめは失敗を重ねたようです。しかし、1879年には「ティーローズの系統的交配種(Pedigree Hybrids of the Tea Rose)」という商標をかかげ、市場へ提供するようになりました。
ベネットは農場主でしたので、畜産技能に精通していました。牛の優良種の雄、雌を用いて繁殖させ、優れた子牛を得るという手法です。ベネットは、これをバラの育種にも適用することに思い至りました。
従来、バラの育種方法は、結実した種子を畑に無作為に播き、そこから生じた多くの実生種の中から美しく開花したものを選別するというものでした。
畜農技術を生かして独自の育種を進める
ベネットは、こうした従来の育種手法を批判し、結実する品種(種子親)と花粉を利用する品種(花粉親)をそれぞれ選別して受粉させて管理するという、科学的な育種をするべきだと主張し、その普及のために熱心に活動を開始しました。
フランスの園芸家、シスレーは、このベネットの手法に賛同し、彼を招いてフランス、リヨンで講演会を開催しました。リヨンはパリ近郊とともにバラ栽培が盛んな地方です。この会には多くの農場主が参加しました。出席者の中には、後日次々に華やかな新品種を育種・公表し、“リヨンの魔術師”と呼ばれることになるペルネ-ドゥシェもいました。
ベネットはまた、播種を加温ハウス内で行い、発芽促進をはかりました。冷涼な気候下で実生の非生産性に苦慮していた英国内の著名なナーサリーであるポール・アンド・サンやヒュー・ディクソンなども、ベネットが提唱するハウス栽培を導入するようになりました。
ベネットの講演に触発されたペルネ-ドウシェは、早速ベネットが育種した‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム(HT)’を入手して交配親として用いました。こうして誕生したのが‘マダム・カロリーヌ・テストゥー(HT)’です。サーモン・ピンクの香り高い大輪種です。
‘マダム・カロリーヌ・テストゥー’は称賛を浴び、大成功を収めました。この成功により、ペルネ=ドゥシェはバラ育種家としての輝かしい道を歩み始めることになりました。彼の活躍は、次回の記事で詳しく述べたいと思います。
さて、ベネットとシスレーは、リヨンのJ・P・ギヨ・フィス(父名義の農場もあったため息子の農場をフィス=息子、父の農場をペール=父と呼びます)が育種し1867年に公表した新品種‘ラ・フランス’を高く評価していました。
ハイブリッド・ティー誕生の時代
‘ラ・フランス’は、大輪で花弁が折り返る新鮮な花形が魅力の品種でした。この‘ラ・フランス’は、ハイブリッド・パーペチュアル(HP)とティーローズの性質を併せ持っていました。やがて、このHPとティーローズの交配による新品種が多くなると、これらは新たなクラス、「ハイブリッド・ティー(HT)」と呼ばれるようになりました。1893年のことです。
これがモダン・ローズの始まりです。最初のモダン・ローズ、‘ラ・フランス(HT)’の育種者、J・P・ギヨ・フィスは、モダン・ローズの創始者として広く知られています。しかし、ギヨ・フィス自身は優れた育種家ではありましたが、じつは率先して新たな世界を切り拓こうという意欲にあふれていたわけではありません。ベネットこそがモダンローズ推進の中心的な存在でした。ベネットは、その功績に比べて評価が低すぎるというのが正直な感想です。
ベネットが作出したバラたち
ベネット自身の手による品種をいくつかご紹介したいと思います。
レディ・メアリー・フィッツウィリアム(Lady Mary Fitzwilliam)- 1882年
剣弁咲き、典型的なHTの花形です。
明るいサーモン・ピンクとなる花色、花弁の基部が色濃くなる傾向があり、全体の花の印象としては濃淡をつけたような色合いとなります。
樹高は、90〜120cmの小さなブッシュ。
種子親:淡いイエローまたはピンクとなるティーローズ、‘デヴォニエンシス(Devoniensis)’
花粉親:ディープ・ピンクのHP、‘ヴィクトール・ヴェルディエ(Victor Verdier)’
最初のモダン・ローズ、‘ラ・フランス’は、じつはほとんど結実しない品種でした。数多くのモダン・ローズの交配親となり、”剣弁・高芯咲き”というハイブリッド・ティー(HT)の特徴は、この‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム’から始まったといってよいのだろうと思います。育種史上、大変重要な品種です。
長い間”完璧な花形”の品種として賞賛され、栽培されていたにもかかわらず、市場から姿を消してしまい、失われてしまったのではないかと危惧されていました。しかし、研究家やナーサリーの努力により再発見され、市場へ出回るようになりました。そのいきさつは、次のように伝えられています。
英国のバラ研究家、ピーター・ビールズ氏(Peter Beales)は、著書『バラへの熱愛(Passion for Roses)』(2007)の中で、友人であるキース・マネー氏(Mr. Keith Money)が1975年にノーフォーク州のカストンで見つけた”品名不明種”が‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム’そのものではないかという推測を述べました。
この記述を受けたのでしょう。ビールズ氏は、オーストラリアからそれを支持する次のような手紙を受け取ったと記述しています。
①20世紀の初め、オーストラリアでバラ栽培を始めたナーサリーでこの品種(メアリー・フィッツウィリアム)を数多く栽培しており、その経験がある老人がそう特定したこと。
及び
②育成者ヘンリー・ベネットの息子が20世紀初めにオーストラリアへ移住し、そこでバラ栽培を開始したこと。
このことから、1975年にノーフォーク州で見出された”不明種”こそ、‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム’だと確信したとコメントしています。
メアリー・フィッツウィリアム(Lady Mary Fitzwilliam:1851–1921) は、育成者ベネットと同時代の貴婦人、フィッツウィリアム伯爵の令嬢でした。ファルマウス伯爵家の子息と結婚したことは記録されていますが、どんな女性であったのか詳しくは知られていません。
ハインリッヒ・シュルテス(Heinrich Schultheis)- 1882年
大輪、50弁前後、カップ型、ロゼッタ咲きに開花した花は、次第に崩れて丸弁咲きの花形となります。鮮やかな、しかし深みのあるストロング・ピンク。
幅広で大きな、深い色合いの半照り葉、樹高120〜180cmのシュラブとなります。
種子親:ホワイトのHP‘マーベル・モリソン(Mabel Morrison)’
花粉親:ミディアム・ピンクのHP、‘E.Y.ティーズ(E.Y. Teas)’
ドイツで19世紀からナーサリーを運営しているシュルテスの初代オーナーにちなんで命名された品種と思われます。
グレース・ダーリン(Grace Darling)- 1884年
大輪、花弁数には変化が多く、25弁ほどの高芯咲きとなることが多いのですが、充実しているときにはロゼッタ咲きとなることもあります。
ミディアム・ピンクまたは淡いピンクとなる花色。
縁に赤銅色が出る、落ち着いた色合いの葉。樹高90〜120cmの小ぶりなブッシュとなります。
交配親の詳細は不明です。
グレース・ダーリン(Grace Darling:1815-1842)はイングランド、ノーサンバーランド、フェーム島の灯台守ウィリアム・ダーリンの娘です。
1838年9月7日の夜、悪天候の中を航行していた蒸気船フォーファーシャー号は、フェーム島近くのハーカー岩礁で難破して沈没してしまいました。乗客・乗務員60名は海に呑まれてしまいましたが、船員5名と乗客4名は海上に突き出た岩礁に泳ぎつき、救出を待ちました。
翌朝、グレースと父ウィリアムはボートを漕いで岩礁に避難した9名の救出に向かいます。大波が打ち寄せるなか、父ウィリアムは岩礁へ登って救難にあたり、グレースは岩礁近くでボートを操船して待ちました。救出は困難を極め、危険でもありました。しかし、父娘は自分たちの命をかけてこれを成し遂げ、9名全員を無事に灯台まで連れ戻りました。この時、グレースはまだ22歳という若さでした。
当時この救難劇は世の人々の感動を誘い、新聞記事で賞賛され、絵画の題材となり、また、詩人ワーズワースが彼女を主題とした詩を上梓するなど、多くの書物に取り上げられました。
しかし、彼女は1842年、結核のため26歳の若さで未婚のまま死去しました。
ヴィスコンテス・フォークストン(Viscountess Folkestone)-1886年
13cm径を超える極大輪、25弁ほどの高芯咲きとなります。花色は淡いピンク。
樹高は、180cmほどのブッシュとなります。1886年に育種・公表されました。
この品種については、ベネット自身が解説していますが、なぜか交配に用いた品種名を明らかにしませんでした。
種子親:1839年に市場へ提供されたティーローズ
花粉親:1866年に市場へ提供されたティーローズ
自身の解説の中でベネットは、交配親がともにティーローズであること、結実が困難であったこと、美しい品種でありRHS(英国王立園芸協会)では高い評価を得ているのに、ある展示会でティーローズではないと判断されて展示を断られたことに不満を述べています。(”The Garden”, 1888)
HTとされたり、ティーローズとされたり、クラスが安定していませんが、ベネットの解説に従い、ティーローズとするのがいいでしょう。
フォークストン家は18世紀から続く子爵家です。この品種は、いずれかの代の子爵夫人に捧げられたものと思われます。
ミセス・ジョン・レイン(Mrs. John Laing)- 1887年
大輪、40弁ほどのカップ型となる花形。落ち着いたストロング・ピンクの花色、いくぶんかラベンダーの色が加わったような印象を受けます。ティーローズ系の香り。
卵形の形のよいつや消し葉、樹高120〜180cm、細い枝ぶり、旺盛に枝を伸ばし、全体としてはまとまったブッシュとなります。
種子親:モーヴ(藤色)のHP、‘フランソワ・ミシュロン(François Michelon)’
花粉親:無名の実生種
当時、ロンドンに在住していた園芸研究者ジョン・レインの夫人にちなんで命名されました。
キャプテン・ヘイウォード(Captain Hayward)- 1893年
大輪、25弁前後、少し乱れ気味のカップ型となる花形。
花色は深いピンク。深い色合いの緑葉が印象的です。細いけれど硬めの枝は大輪花をしっかりと支えます。樹高180〜250cmの立ち性のシュラブ。
深いピンクのHP、‘トリオンプ・ド・レクゼポジシオン(Triomphe de l’Exposition)’の実生から生じました。
1893年にイギリスのヘンリー・ベネット作出として公表されましたが、彼は1890年に死去していました。ヘンリー・ベネットの息子により、亡父作出の品種とされたものです。
今日ではあまり流通しなくなってしまいましたが、深い色合いのピンクの大輪花は非常に印象的です。
1843年、イギリスの東海岸フォークストン(Folkestone)からフランスのブローニュ・シュル・メール(Boulogne sur Mer)へフェリーが初めて運航された際、フェリーの船長であったのがキャプテン・ヘイウォードでした。
この企画は、イギリスのサウス・イースタン鉄道会社とタイアップされたものでした。
早朝6時、ロンドンを出発した車両がフォークストンへ到着すると、連絡待ちしていたフェリー“ウォーターウィッチ(水の魔女)”号がドーバー海峡を渡って、ブローニュ・シュル・メールへ12時30分に到着。同日のうちにフォークストンに帰港すると、待機していた列車がロンドンへ向かい、同日の午後10時30分に到着しました。これは、フランスへの日帰りツアーを企画したものでした。
この企画自体は今日ではあまり省みられることはないと思いますが、このことを記念してバラを捧げられたヘイウォード船長は、美しいバラとともに長く記憶にとどめられることになりました。
Credit
写真&文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
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