赤やピンク系のバラが主流だった時代に、鮮やかなイエロー系のバラの作出にチャレンジしたフランスの育種家、ジョゼフ・ペルネ=ドゥシェ。1907年にパリのバガテル・バラ園で初めて開催されたコンテストで受賞した後、出品すればほとんどのバラがメダルを受賞するという成果を残しました。彼が育種した数々の名花とその人生を、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。

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リヨンのバラ栽培農場の長男として生まれたジョゼフ・ペルネ

スイス、レマン湖から流れ出たローヌ河は、豊かな水をたたえてフランス北東部から南西に向かって流れ下り、やがてソーヌ河と合流し、地中海へと向かってゆきます。

このローヌ河、ソーヌ河合流地点は、ローマ時代から地中海とヨーロッパを結ぶ河川交易の集散地として栄えました。現在160万を超える人口を有するフランス第二のこの地方の中心都市が、リヨン(Lyon)です。

‘リヨン-ポール・クトゥリエ歩道橋’
‘リヨン-ポール・クトゥリエ歩道橋’ Photo/Jean-Christophe BENOIST [CC BY 4.0 via. Wikipedia Commons]
19世紀、リヨンの郊外には中小規模の園芸農場が数多くありました。そうした農場の一つで働いていた若者の中に、ジャン・ペルネ(Jean Pernet)がいました。ジャンは1832年生まれで、同じリヨン地域のバラ育種農場であるギヨ(Guillot)やパリ近郊のヴィクトール・ヴェルディエ(Vikctor Verdier)のもとでバラ栽培技能を習得したのち、1856年、24歳の頃、故郷リヨンでバラ栽培農場を開きました。

1858年、長男ジョゼフ(Joseph)が誕生しました。この長男ジョゼフが今回の主人公です。

父ジャンは、自身も優れたバラ育種者でした。ライト・ピンクのHP、‘バロネ・ロトシルト(Baroness Rothschild)’や、ミディアム・ピンクのモス・ローズ、‘スペール・エ・ノッタン(Soupert et Notting)’などは、今日でも広く栽培されています。

ジャンは、長男ジョゼフを農場の跡取りとして育て上げることを早くからもくろんでいたのでしょう。ジョゼフが12歳になると、近在のバラ育種農場主アレガティエ(Alphonse Alégatiér)のもとへ修行に出しました。

アレガティエは当時52歳、バラの育種に精通していました。1888年に公表した、淡いピンクに花開くポリアンサ、‘マリー・パヴィエ(Marie Pavié)’は、今日でも数多くの庭を美しく飾っています。

‘マリー・パヴィエ’
‘マリー・パヴィエ’ Photo/田中敏夫

ジョゼフは後年、アレガティエのもとでバラ育種の基礎を学んだことが大いにに役立ったと、深い感謝の念を表しています。

1879年、ジョゼフは市内のドゥシェ農場へと転職しました。20歳を過ぎたばかりでした。

ドゥシェ農場は、ジャン=クロード・ドゥシェ(Jean-Claude Ducher)が1845年に開いた農場でしたが、クロードは1874年に死去しており、ジョゼフが雇われたときには、未亡人であるマリー(Marie Serlin)がヴヴ・ドゥシェ(Veuve Ducher;ドゥシェ未亡人)と名乗って運営していました。

やがてジョゼフは、夫人の娘マリア(Maria)と恋におち、1881年に結婚しました。優れたバラを生み出した父ペルネと名門農場ドゥシェの名称を継承するためでしょう。この後、ジョゼフは本拠地をリヨン南西郊外のヴィニシュー(Vénissieux)へ移すとともに、ペルネ=ドゥシェ(Joseph Pernet-Ducher)と名乗ることになります。農場は3エーカーに満たない小規模なものでした。

育種家として人生をスタートしたジョゼフ・ペルネ=ドゥシェ

1882年、長男クラディウス(Claudius)が誕生、1886年には次男ジョルジュ(Georges)、1890年には長女アンジェル(Angél)、1893年次女マリー(Marie)、さらに三女ルイーズ(Louise)と子宝に恵まれました。

‘晩年のジョゼフ・ペルネ=ドゥシェ
‘晩年のジョゼフ・ペルネ=ドゥシェ(Joseph Pernet-Ducher)’ Photo/[Public Domain via. Wikipedia Commons]
1880年、リヨンへ英国のヘンリー・ベネット(Henry Bennett)が訪れ、バラの系統だった育種方法を語ったことについては、前回の『ヘンリー・ベネット~モダン・ローズ発展の立役者』で解説しました。

このベネットの講演会場には、若きジョゼフの姿もありました。

講演に深く心を動かされたジョゼフは、早速ベネットが育種したHT、‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム(Lady Mary Fitzwilliam)’を入手し、それを交配親にした新品種作りに熱心に取り組むようになります。この時からジョゼフは、バラ栽培家から育種家としての人生を歩み始めることになったのです。

10年後の1890年、ジョゼフは‘マダム・カロリーヌ・テストゥー(Mme. Caroline Testout)’を公表しました。

マダム・カロリーヌ・テストゥー(Mme. Caroline Testout)-1890年

‘マダム・カロリーヌ・テストゥー’
‘マダム・カロリーヌ・テストゥー’ Photo/田中敏夫

ミディアム・ピンクの花色、つぼみがそのまま大きくふくらんだような、ボリューム感たっぷりの壺型となるHTです。

ピンクのティー・ローズ、‘マダム・ド・タルタ(Mme. De Tartas)’とベネットのHT、‘レディ・メアリー・フィッツウィリアム’との交配により育種されました。

パリやロンドンで店舗を運営していたファッション・デザイナー、カロリーヌ・テストゥーにちなんだ品種です。

彼女は服の仕入れのため、リヨンをたびたび訪れていたようです。この品種の使用権を得た彼女は1890年、自分のデザインした服を発表する際に、この品種も併せて公表しました。デザインの成果は詳しく伝わっていませんが、バラのほうは大成功をおさめました。

ハイブリッド・ムスクの生みの親であるジョゼフ・ペンバートンは、この時代、英国バラ協会の副会長でしたが、「頂点に立つとまでは言えないとしても、少なくとも最近7年間に新たに公表されたもののうちでは、これを最良の一つと評価する…」と論評しています。

この成功により、ジョゼフ・ペルネ=ドゥシェのバラ育種者としての名声は確かなものになりました。

1895年、ジョゼフは大輪のHT、‘マダム・アベル・シャトネイ(Mme. Abel Chatenay)’を育種・公表しました。マダム・シャトネイは、この品種の公表当時のフランス園芸協会事務局長夫人の名前です。

マダム・アベル・シャトネイ(Mme. Abel Chatenay)-1895年

‘マダム・アベル・シャトネイ’
‘マダム・アベル・シャトネイ’ Photo/田中敏夫

HTに特徴的な剣弁・高芯咲きとなるこの品種は、花弁の表はミディアム・ピンク、裏は濃色となる魅惑的な花色で、‘シャトネイ・ピンク’という呼称を得るなど、一時代を画しました。

オレンジピンクのティー・ローズ、‘ドクチュール・グリ(Dr. Grill)’とクリムゾンのHP、‘ヴィクトール・ヴェルディエ(Victor Verdier)’との交配により生み出されました。

イエローの大輪花のバラを目指して

こうした成功を勝ち得る一方、ジョゼフは早い時期から、原種、ロサ・フォエティダ(R. Foetida)から枝変わりで生じた‘ペルシャン・イエロー(R. foetida persiana)’の花色を大輪バラの花形で実現したいという野心を抱いていました。

‘ペルシャン・イエロー(R. foetida persiana)’
‘ペルシャン・イエロー(R. foetida persiana)’ Photo/田中敏夫

当時、バラは赤やピンク系の花色のハイブリッド・パーペチュアル(HP)が主流でした。イエローの品種としては、ノワゼットにクラス分けされる‘マレシャル・ニール(Marechal Niel)’や淡いイエローとなるティー・ローズがあるばかりで、‘ペルシャン・イエロー’のような鮮やかなイエローとなる品種は見られませんでした。

また、‘ペルシャン・イエロー’とHPの交配は結実しないと当時は考えられていて、鮮やかなイエロー品種を生み出すことは不可能に近いとみなされていました。

しかし、ジョゼフはこの難問へ挑戦します。

1883年、‘ペルシャン・イエロー’を用いた交配を開始します。しかし、‘ペルシャン・イエロー’はほとんど結実しないため、5年を経てようやく数粒の種子を得たに過ぎませんでした。

1888年、‘ペルシャン・イエロー’とオレンジレッドの花色のHPで、義父クロード・ドウシェが育種した‘アントニー・ドウシェ(Antonie Ducher)’との交配によって生じた数粒の種子が播かれました。しかし、この実生は必ずしも順調ではなく、2年後の1891年になってようやく開花したものの、花は小輪で花期も短く、期待はずれのものでした。

1893年、交配を開始してからすでに10年を経過したとき、ジョゼフは、実生苗のこぼれ種から生じたと思われる小さな株に、オレンジイエローの花が開花しているのを発見しました。これが、鮮やかなイエローのモダン・ローズが誕生した記念すべき瞬間でした。

しかし、ジョゼフはこの成功をすぐに公表しませんでした。この株は発見から5年間、ジョゼフのもとで注意深く育成されることになりました。

1898年、この品種の開花株に‘ソレイユ・ドール(Soleil d’Or;黄金の太陽)’という名前をつけて、リヨンでの展示会に出品しました。このオレンジ・イエローの大輪花はセンセーションを呼び起こしました。

2年後の1900年、正式に市場に出るやいなや、またたくまにヨーロッパ中の注目を集め、モダン・ローズにイエローの花色をもたらした画期的な出来事として、後々まで語り継がれることになりました。

ソレイユ・ドール(Soleil d’Or;黄金の太陽)-1898年

‘ソレイユ・ドール’
‘ソレイユ・ドール’ Photo/田中敏夫

ライトイエローに色づいた大きなつぼみは、開花するとイエローにオレンジをふりかけたような、名前にふさわしい華やかな花色となります。

丸い、大きな宝石のようなつぼみは、長く伸びた萼片に囲まれて大変優雅です。この淡いイエローのつぼみから、燃えるようなオレンジ・イエローの花が開花したとき、ジョゼフの喜びはいかばかりであったでしょうか。“黄金の太陽”という命名には万感の思いが込められているように思います。

しかし、‘ソレイユ・ドール’は鮮やかな花色ですが、純粋なイエローではなく、オレンジイエローと呼ぶべき色でした。ペルネ=ドゥシェはその後、‘ソレイユ・ドール’と他のHPやHTとの交配を行い、より鮮やかなイエロー品種を育成してゆきます。

1907年、ジョゼフは‘リヨン・ローズ(Lyon Rose)’を公表しました。

リヨン・ローズ(Lyon Rose)-1907年

‘リヨン・ローズ’
‘リヨン・ローズ’ Photo/田中敏夫

13cmを超える極大輪、25弁ほどのピンク・オレンジの剣弁・高芯咲きの花、典型的なHTの花形です。

交配には、ジョゼフが育種した淡いイエローのHT、‘マダム・メラニー・スペール(Mme. Mélanie Soupert)’と‘ソレイユ・ドール(Soleil d’Or)’から実生により生じた無名種が用いられました。

当時、リヨンは世界のバラ生産の中心地といってよい繁栄のもとにありました。とくに優れた品種と評価された場合には懸賞金を出し、‘リヨン’の名を冠してもよいという取り決めがありました。

ジョゼフのこの品種こそ、リヨンの名を冠するにふさわしいと評価され、命名権を獲得しました。

さらにフランス国立園芸協会はジョゼフの功績を讃え、これらのイエロー、オレンジの花色となるHT群を「ペルネシアーナ(Pernetiana)」という新クラスとすると宣言しました。

1910年、ジョゼフは‘レイヨン・ドール(Rayon d’Or;黄金の輝き)’を育種・公表しました。

レイヨン・ドール(Rayon d’Or)-1910年

‘レイヨン・ドール'
‘レイヨン・ドール’ イラスト/”Journal des roses”, 1910 [Public Domain via. Wikipedia Commons]
大輪、剣弁・高芯咲き、花色はクローム・レモン。熟成すると全体に淡い色合いへと退色してゆきます。

‘マダム・メラニー・スペール(Mme. Mélanie Soupert)’を種子親、‘ソレイユ・ドール(Soleil d’Or)’を花粉親として育種されました。これは前述の‘リヨン・ローズ’と同じ交配によるものです。

アマチュアながら『バラおよびバラ栽培(Roses and Rose Growing)』という著作も残した、熱心なバラ愛好家であるキングスレー女史(Rose G. Kingsley)は、ある時、フランス・リヨンへ旅し、ジョゼフの案内で圃場を見学しました。

以下はキングスレー女史の訪問の様子です。

彼(ジョゼフ)は彼女が余裕をもって見学できるよう気を配ったのだろう、(オレンジ)のリヨン・ローズが一面に花咲く圃場をゆっくりと案内した。そして彼女を、彼はすでに知っているけれど、彼女には未知の黄色いバラの前に導いた。

「宝石の中の宝石だわ!」

輝く黄色の花弁に驚き、彼女は思わず声をあげた。

「ムッシュー、あなたはなんてものをお持ちなの、これは私たちがこの20年間待ち望んでいた黄色いバラではないですか!」

「そうです」

静かに、しかし誇らしげに彼は応じた。

「レイヨン・ドールはまぎれもなく現存する黄色いバラの中で最上のものです」

(”The Makers of Heavenly Roses”, Jack Harkness, 1985)

1912年、‘マダム・エドゥアール・エリオ(Mme. Edouard Herriot)’を公表。

マダム・エドゥアール・エリオ(Mme. Edouard Herriot)-1912年

‘マダム・エドゥアール・エリオ’
‘マダム・エドゥアール・エリオ’ イラスト/”Journal des roses”, 1913 [Public Domain via. The Biodiversity Heritage Library (BHL)]
大輪、剣弁・高芯咲き、鮮やかなオレンジレッドのHTです。

‘マダム・カロリーヌ・テストー(Mme. Caroline Testout)’が種子親とされていますが、花粉親は不明です。

公表当時はリヨン市長、後にフランス首相になる左翼政治家エドゥアール・エリオの夫人に捧げられました。‘ザ・デイリー・メール・ローズ(The Daily Mail Rose)’という別名でも呼ばれます。その由来には、いかにも頑固者ジョゼフらしいエピソードが伝えられています。

コンテストで次々と受賞するジョゼフ作出のバラたち

ジョゼフは英国で開催されたチェルシー・フラワー・ショーに招待されました。ショーでは、デイリー・メール紙が協賛したバラ品評会も行われ、ゴールド・カップには1,000ポンドの賞金が与えられることになっていました。

そして、ジョゼフが出品したマダム・エドゥアール・エリオがみごとゴールド・カップの栄を勝ち得ました。しかし、この授与には品種名を‘ザ・デイリー・メール・ローズ’とするという条件がついていました。

ところが、ジョゼフはこの品種は命名済みであるとして改名を拒絶し、賞金も辞退すると申し出ました。困り果てた主催者は、フランス国内では従来の品種名のままとするものの、英国内では‘ザ・デイリー・メール・ローズ’という名前で流通させるということで折り合いをつけることになりました。

1905年、パリ、ブルゴーニュの森の一画に、バガテル・バラ園(La Roseraie de Bagatelle)が作られました。1907年からは、毎年バラのコンテストを実施し、すぐれた品種にゴールド・メダル(Médaille d’Or)を授与することにしました。

ジョゼフは1907年の第1回のコンテストに参加し、栄えある最初の受賞者となりました。

マルキーズ・ド・シネティ
1907年、‘マルキーズ・ド・シネティ(Marquise de Sinéty)’、イエロー・ブレンドのHT。

ジョゼフのゴールド・メダル・ラッシュは続きます。

  • 1909年‘リヨン・ローズ(Lyon Rose)’/オレンジ・ピンクのHT(すでに解説済み)
  • 1911年‘ボーテ・ド・リヨン(Beauté de Lyon)’/オレンジ・レッドのHT
  • 1913年‘マダム・シャルル・ルト(Mme. Charles Lutaud)’/イエロー・ブレンドのHT

1914年6月28日、サラエボで起きたオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フェルディナント大公夫妻の暗殺事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発し、1918年まで続いたこと、『ペーター・ランベルト~戦争に翻弄された生涯』でも触れました。

しかし、大戦中にもかかわらずコンテストは続けられ、ジョゼフは出品を重ね、毎回のようにゴールド・メダルを獲得しました。

  • 1916年‘コンスタンス(Constance)’/ミディアム・イエローのHT
  • 1917年‘マダム・カリスティー・マルテル(Mme. Caristie Martel)’/ライト・イエローのHT
  • 1919年‘ジャン・C・N・フォレスティエ(Jean C.N. Forestier)’/レッド・ブレンドのHT
  • 1920年‘スヴェニール・ド・クラディウス・ペルネ(Souv. de Claudius Pernet)’/ミディアム・イエローのHT
  • 1921年‘スヴェニール・ド・ジョルジュ・ペルネ(Souv. de Georges Pernet)’/オレンジ・ピンクのHT
  • 1922年‘トワソン・ドール(Toison d’Or)’/アプリコットのHT
  • 1923年‘プレジダン・シェリウ(Président Chérioux)’/レッド・ブレンドのHT
  • 1924年‘アンジェル・ペルネ(Angèle Pernet)’/オレンジ・レッドのHT
  • 1925年‘ヴィル・ド・パリ(Ville de Paris)’/ミディアム・イエローのHT

出品すれば、ほとんどゴールド・メダルを獲得するという驚くべき成果です。ジョゼフが同時代の育種家の中で、いかに抜きんでた存在であったかが、このリストから分かります。

息子2人に捧げた2種のバラ

しかし、じつはジョゼフは第一次大戦でこの上ない悲運に見舞われてしまいました。

長男クラディウスと次男ジョルジュは、ともに歩兵として出兵。1915年8月25日、次男ジョルジュ戦死(享年29歳)、10月5日には長男クラディウス(享年32歳)も戦死してしまいました。

家業を継ぐ決心を固め、圃場でともに働いていた2人の息子を失ったジョゼフの悲痛はいかばかりであったでしょうか。しかし、ジョゼフは悲しみに打ちひしがれることなく、育種を続けました。まるでそれが2人の息子への供養であるかのように……。

‘スヴェニール・ド・クラディウス・ペルネ(Souvenir de Claudius Pernet)’
‘スヴェニール・ド・クラディウス・ペルネ(Souvenir de Claudius Pernet)’ Photo/田中敏夫
‘スヴェニール・ド・ジョルジュ・ペルネ(Souvenir de Georges Pernet)
‘スヴェニール・ド・ジョルジュ・ペルネ(Souvenir de Georges Pernet)’ Photo/田中敏夫

ある会合に、クラディウスとジョルジュ2人だけが出席していたときのことです。

出席者の1人から、ジョゼフには育種・管理にずさんな面があり、交配親が分からなくなってしまっているものがあると苦言を呈されました。これを受けてクラディウスは、「父は着想には優れているのですが、管理するのは得意ではない…」とおだやかに父親を弁護したといわれています。

クラディウスは頑固一徹の父とは異なり、他人への思いやりのあるおだやかな性格で将来を嘱望されていた人物でした。立派に成人し、家業を継いで仕事を始めた2人の息子を続けざまに失ってしまったジョゼフの苦衷はいかばかりであったでしょうか。

『ア・ローズ・オデッセイ/A Rose Odyssey』(1937)の中で、著者J.H・ニコラス(J.H. Nicolas)は友人が彼に語ったとする悲話を紹介しています。

ジョゼフ・ペルネ=ドゥシェは同じリヨンにあるギヨ農場のピエール・ギヨと競い合う関係にありました。ピエールは最初のHT、‘ラ・フランス’を育種し、モダン・ローズの生みの親となった、J・B・ギヨ・フィス(Jean-Baptiste Guillot Fils)の息子です。偉大な父の後を受け農場を経営していましたが、ジョゼフの名声に押されがちでした。

ある時、ジョゼフとピエールは激しい口論のすえ、修復不能なほど仲違いをし、絶好状態となってしまいました。

ところが、ジョゼフの長男クラディウスは、こともあろうにピエールの娘マリーと愛し合う仲になっていました。クラディウスは2人の結婚を許してくれるよう父親に懇願しましたが、ジョゼフは頑としてこれを許さず、そのため、この結婚話は立ち消えてしまいました。

天才的なひらめきを持ち、一代で時代をリードする育種家となったジョゼフは、名門ナーセリー、ギヨへの激烈なまでの対抗心を隠さなかったと伝えられています。真偽のほどは分かりませんが、彼はマリーを指して、育種の秘密を探るために送り込まれたスパイだとまでこきおろしたともいわれています。

当時は第一次世界大戦が勃発した時代です。ドイツ帝国軍によるフランス侵攻が開始される直前の緊迫した空気に包まれていました。戦闘が始まると、結婚話の破談に落胆していたクラディウスは、予備役であったにもかかわらず、自ら志願して参戦したということです。

もう一つ、語り継がれた逸話をもつ品種をご紹介しましょう。

ローレンス・ジョンストン(Lawrence Johnston)-1923年

‘ローレンス・ジョンストン’
‘ローレンス・ジョンストン’ Photo/田中敏夫

セミダブル、花弁が乱れがちな平咲きの花形、伸びた新枝の先端に、数輪ずつ置いたように開化します。

花色はイエロー、“純粋な”という表現がぴったりの混じり気のない色です。

非常に深い色合いのつや消し葉は、花色と強いコントラストを呈し見事です。クライマーですが、ランブラーとの中間的な性質を示す比較的柔らかな枝ぶり、樹高350〜500cmとなります。

ピンクのHP、‘マダム・ウジェンヌ・ヴェルディエ(Mme. Eugène Verdier)’と‘ペルシャン・イエロー’との交配により育種されたといわれています。

ジョゼフ・ペルネ=ドゥシェが1923年に作出した品種ですが、英国の植物コレクターで、代表的な英国庭園の一つとして名高いヒドコート庭園(Hidcote)のオーナーであった、ローレンス・ジョンストン(Lawrence Johnston)が権利を買い取って、1株のみ庭園に植えていたものです。

ヒドコート
ヒドコート庭園

この品種は庭園で賞賛されていたようですが、それを世に広く出すきっかけとなったのは、ジョンストンと交友があったバラ研究家グラハム・トーマスでした。

当時“ヒドコート・イエロー”と呼ばれていたこの品種を手にしたトーマスは、これを展示会へ出す許可を求めました。ジョンストンはそれを許可する条件として、自分の名を冠するよう求めたとのことです(”Graham Stuart Thomas Rose Book”、1994)。

1924年、リヨンの魔術師(Wizard of Lyon)と呼ばれ、栄光と不幸の両極端に見舞われ、波乱の人生を送ったジョゼフ・ペルネ=ドゥシェは、ジャン=マリー・ゴジャール(Jean-Marie Gaujard)に農園のすべてを譲り引退しました。

ジャンは大農場主の息子で、ジョゼフの農場へ修業に来ていました。20歳を過ぎたばかり、はからずも若きジョゼフが名門ドゥシェ農場へやってきたときとほぼ同じ年齢でした。

引退から4年後、1928年にジョゼフは死去、享年69歳でした。

Credit

写真&文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

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