にのみや・こうじ/長野県飯田市「セイセイナーセリー」代表。静岡大学農学部園芸科を卒業後、千葉大学園芸学部大学院を修了。ドイツ、イギリス、オランダ、ベルギー、バクダットなど世界各地で研修したのち、宿根草・山野草・盆栽を栽培するかたわら、世界各地で庭園をデザインする。1995年BALI(英国造園協会)年間ベストデザイン賞日本人初受賞、1996年にイギリスのチェルシーフラワーショーで日本人初のゴールドメダルを受賞その他ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール各地のフラワーショウなど受賞歴多数。近著に『美しい花言葉・花図鑑-彩と物語を楽しむ』(ナツメ社)。
二宮孝嗣 -造園芸家-
にのみや・こうじ/長野県飯田市「セイセイナーセリー」代表。静岡大学農学部園芸科を卒業後、千葉大学園芸学部大学院を修了。ドイツ、イギリス、オランダ、ベルギー、バクダットなど世界各地で研修したのち、宿根草・山野草・盆栽を栽培するかたわら、世界各地で庭園をデザインする。1995年BALI(英国造園協会)年間ベストデザイン賞日本人初受賞、1996年にイギリスのチェルシーフラワーショーで日本人初のゴールドメダルを受賞その他ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール各地のフラワーショウなど受賞歴多数。近著に『美しい花言葉・花図鑑-彩と物語を楽しむ』(ナツメ社)。
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ガーデン&ショップ
世界遺産にも登録された時代の中心地「ブレナム宮殿」【世界のガーデンを探る18】
一時代の中心となった庭 「ブレナム宮殿(Blenheim Palace & Gardens)」 数あるイギリスの庭の中にも、それぞれの時代ごとに、最もその話題の中心となってきた庭があるのではないでしょうか。今回取り上げるブレナム宮殿も、そんな印象を受ける庭の一つ。現在では世界遺産にもなっている由緒正しき庭をご紹介していきましょう。 ブレナム宮殿は、18世紀を代表するバロック建築の宮殿です。2,000エーカーを超える広大な土地を擁するこの宮殿は、後述のように、1705年初代マールボロ公爵ジョン・チャーチルが、ジョン・ヴァンブラに設計を依頼。アン女王のガーデナーであったヘンリー・ワイズも、ベルサイユ宮殿を手本としてこの庭の設計に加わっています。その後、アン女王からの援助が打ち切られて建築半ばで工事はストップしてしまいますが、さまざまな紆余曲折を経て、アン女王の死後にマールボロ公爵が自費で完成させました。しかし、建物の完成後も庭園は改造を重ね、1933年にようやく現在の姿になりました。 初代マールボロ公爵から宮殿の設計を依頼されたジョン・ヴァンブラは造園家でもあったので、その当時最先端であったフランス式やイタリア式のフォーマルガーデンを宮殿の周りに配置しました。残念ながら、当時の庭は、その後改修に当たったケイパビリティー・ブラウンによって跡形も無くなってしまっています。 もともとこの宮殿は、スペイン継承戦争の際、現在のドイツにあるブレンハイム(英語名でブレナム)という地で行われたフランスとの戦いに、初代マールボロ公爵のジョン・チャーチル率いるイギリス連合軍が勝利したため、当時のアン女王がこの土地と建築資金をマールボロ公爵に褒美として与えたことから、その歴史が始まります。この勝利は、イギリスをヨーロッパで二流国から一流国へとステップアップさせたものでもありました。ちなみに、イギリスで王室関係以外にPalace(宮殿)と名がついているのは、このブレナム宮殿だけ。個人所有としてはイギリス最大の広さであり、中世につくられたヨーロッパの宮殿の中でも指折りの壮麗さを誇っています。 ケイパビリティー・ブラウンの手による 広大なイギリス式風景庭園 ブレナム宮殿のガーデンは、18世紀半ばになって、かの有名な造園家のランスロット・ケイパビリティー・ブラウンにより、大々的な改修が行われました。彼はまず、宮殿の横を流れるグリム川を堰き止めて人工の大きな湖をつくり、広大なイギリス式風景庭園を生み出しました。 イタリア式庭園風にテラス状になった宮殿から降りてくると、ケイパビリティー・ブラウンがつくり出したピクチャレスクなランドスケープが眼下に広がります。この湖の先に、ジョン・ヴァンブラが設計した、半分水没した有名なヴァンプラの橋があります。 この風景は前回ご紹介したウィリアム・ケントのガーデンのように、まさにピクチャレスクな風景です。エデンの園から始まった西洋の庭の流れのフォーマルな整形式庭園は、前回のウィリアム・ケントと今回のケイパビリティー・ブラウンによって、自然復帰のイギリス式風景庭園に取って代わっていきます。 ところで、ランスロット・ブラウンを何故ケイパビリティー・ブラウンと呼ぶかというと、どんな場所でも彼流に風景式庭園をつくってしまうことに由来しています。アイルランドのお金持ちが彼に仕事を頼んだ時には、彼は「まだまだイギリスでやるべき仕事が終わっていないので」と断ったという有名な話もありますが、それほどイギリスで多くの庭を手掛け、それまでイギリス中にあったフランス式庭園を改修してしまいました。個人的なことですが、僕の一番尊敬するデザイナーは、このケイパビリティー・ブラウンです。ここで確認しておかなくてはいけないのは、ブラウンはランドスケーパーであるということ。ランドスケーパーというのは風景をつくり出す人という意味で、ガーデンデザイナーとは一線を画しています。皆さんがイングリッシュガーデンのイメージの一つとして思い描くボーダー花壇や花々が咲き乱れる植栽は、この後のもう一人の天才、ガートルード・ジーキル女史の登場を待たなくてはいけません。 話はブレナム宮殿に戻りますが、次にこのブレナム宮殿が歴史上に登場してくるのは1874年。イギリスの生んだ最も有名な政治家の一人、ウィンストン・チャーチルが生まれ育った場所として知られています。また、第一次・第二次世界大戦の時には、負傷者の病院としても活躍しました。 フォーマルガーデンから風景式庭園まで ブレナム宮殿のさまざまなガーデン ブレナム宮殿のガーデンは、ケイパビリティー・ブラウンによる改修後、20世紀には9代目のマールボロ公爵により2度目の大改造が行われました。その際、イタリアンガーデン、ウォーターガーデン、フォーマルガーデンなどがつくられ、現在に至っています。 宮殿の東側には、珍しい黄金キャラの生け垣とトピアリーが。その中にはフォーマルガーデンがつくられていますが、刈り込まれた生け垣が高くて外から全容を見ることはできません。その意味で、今もこの宮殿に住むマールボロ公爵のプライベートな庭というところでしょう。 フォーマルガーデンの奥にはオランジェリーが見えています。 宮殿から見たウォーターガーデン。幾何学模様に刈り込まれた生け垣と噴水に彩られたガーデンは、借景にもなっている緑の森に見事に溶け込むように見えます。この奥にはテラス状のイタリアンガーデンと、その向こうにケイパビリティー・ブラウンがつくったグリム川の池を望むことができ、この庭の広さを効果的に演出しています。 美しく管理された庭は、外壁のライムストーンの優しい色合いを見事に引き立てています。 宮殿の南東側には、イギリス特有の牧歌的風景が、無限の広がりを持って見る人を魅了しています。ケイパビリティー・ブラウンがつくり上げた風景式庭園は、まるで豊かな自然そのままの景色のよう。 宮殿の周囲には、100年先を見越したような新旧取り混ぜたパイネータム(針葉樹の森)が。森の中につくられた落ち着いた雰囲気のガゼボには、フジや常緑のクレマチスが絡んでいます。 敷地内の森の中にもいろいろな仕掛けがあり、訪れた人を楽しませています。斑入りギボウシやナンテンの赤い実が彩りを添え、その奥には斑入りのネグンドカエデなどが植えられています。 気まぐれなイギリスの天気に、日々さまざまな表情を見せるブレナム宮殿。その姿は、今なお訪れる人を魅了してやみません。 併せて読みたい ・イタリア式庭園の特徴が凝縮された「ヴィラ・カルロッタ」【世界のガーデンを探る旅5】 ・イギリス「ハンプトン・コート宮殿」の庭【世界のガーデンを探る旅11】 ・英国「シシングハースト・カースル・ガーデン」色彩豊かなローズガーデン&サウスコテージガーデン
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海外の庭
イングランド式庭園の初期の最高傑作「ローシャム・パーク」【世界のガーデンを探る旅17】
地上の楽園とは、美しい自然の中にある 16~17世紀のイタリア・ルネッサンスやフランス式庭園のような、直線的で幾何学的な整形式庭園が、かつてはイギリスでも主流でしたが、緩やかな丘陵の自然風景に親しんできたイギリス人にとって、それはどこか、しっくりこなかったのではないでしょうか。 そこで、より自然な風景を創り出すことで、フォーマルなエデンの園から、インフォーマルなユートピア(理想郷)へと庭の形が変わっていきます。18世紀になると、ジョン・ミルトン作の叙情詩『パラダイス・ロスト(失楽園)』に記された、“地上の楽園とは、美しい自然の中にある”という考え方がイギリスに広がっていきました。 ウィリアム・ケントがつくり出した“ピクチャレスク”な庭園 また、“芸術は自然の模倣であり、庭園は自然に従う”という考えからも、イギリスらしい風景式庭園がつくられるようになっていきました。その代表作の一つとして今回取り上げるのが「ローシャム・パーク(Rousham Park House & Garden)」です。 この庭は、イギリスの造園家であり画家である、かの有名なウィリアム・ケント(William Kent、1685〜1748)によって、1738年からつくられ始めました。ケントは、庭園とはピクチャレスク(絵画的)であるべきだという考えから、イギリス人が理想とする美しい自然な風景を大地につくり出そうとしました。そしてこの地に彼の理想とする庭園が完成しました。幸運なことに現在の「ローシャム・パーク」では、ケントがつくった当時のままに近い形が残っています。 屋敷の前にはよく手入れされた芝生が広がり、今もイギリスで人気のスポーツ、ローンボウルズ(現代のテンピンボウリングの元となった)の競技場にもなっています。 ずっしりとした重厚なジャコビアン様式の屋敷は、1635年に建てられましたが、1738年にケントが改築し、建物の内部や絵画にまで手を加え、さらにその周りには、ピクチャレスク(絵のよう)な風景式庭園がつくられました。 ローシャム・パークは、平らな敷地があまりなく、不規則に蛇行しながら、ゆったりと流れるチャーウェル川を見下ろす丘の上にあります。今も当初の姿をほぼそのまま残すこの庭は、イングランド式庭園の初期の最高傑作といわれています。 イタリアルネッサンスへの憧れとイングリッシュ・ランドスケープが見事に融合した、ウピクチャレスクな空間。 植物がのびのびと生育し、花が彩る自然風な庭 重厚な庭門をくぐると、そこには草花がのびのびと生育する宿根草ボーダーが目の前に無限の繋がりのように城壁に沿って現れます(ウォールドガーデン)。 このデザインは、初期のボーダー花壇のスタイルをよく残しています。右側の白い花は、日本では見たことがない背が高くなるスカビオサ。ピンクの花はシュラブローズ、黄花は、リシマキアとバーバスカム。足元には少し、赤いジギタリスが頑張って咲いていました。左の白花はムスクマロウ(日本の土壌ではうまく育ちません)、足元にはアルケミラ・モリス。そして、手前にはヘメロカリスのつぼみが見えます。 ウォールドガーデン横のエリアは、「ピジョン・ハウスガーデン」。ノットガーデン風なローズガーデン で、バラの花の赤と白との単純な組み合わせが、ノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。 別の年に訪れた時のノットガーデンの花壇では、バラの背丈より高く咲くジギタリスが一面に。濃い色を避け、優しい色合いでまとめているのも、ウィリアム・ケントの作庭当時からの伝承なのでしょうか。ガーデンの中心を引き締めているのはサンダイアル(日時計)。 フォーマルな印象のノットガーデンには、自然風なアルケミラ・モリスとシレネが咲き、ベンチを包み込むように咲き乱れるイングリッシュラベンダーが……。6月上旬のこの季節、イギリスの村々には、むせかえるようなラベンダーの香りが満ち溢れます。僕の一番好きな季節です。 ピジョン・ハウス(鳩小屋)の壁面に放射状に這わせている植物は、なんと日本でもよく見かけるきれいな赤い実をつける西洋ザイフリボクです。足元には赤いケシが植えられていました。左奥の花は、ユッカの白花。 キッチンガーデンへの入り口のウォールドガーデンでは、左側の壁面にはシリンガ(ライラック)、つるバラ、クレマチスなどを這わせてあります。皆さんが思い浮かべるパッチワーク状のボーダー花壇の花の植え方は、ウィリアム・ケントからさらに時を経て現れる三巨頭のひとり、ガートルード・ジーキル女史まで待たなくてはいけません。この庭は、あくまでケントが意図した自然風な要素で構成されているので、より素朴な雰囲気が随所に見て取れます。 キッチンガーデンは現在も使われています。左の白い花はサルビア、手前にはシレネ、奥には白いモナルダ。右側の畑にはアーティチョークのザラザラした感触のシルバーリーフが茂り、足元にはナスタチウムが植えられていました。 自然との調和を示す池のあるガーデン 随所に花とベンチと人工的な池があります。自然との調和を目指していたウィリアム・ケントの意向が強く感じられます。宿根草のボーダー花壇の奥へ行くと、頭上をつるバラが囲み、中央に丸い池が配され、噴水から水音も響きます。足元の白い花は、シシリンチウム・ストリアツム、淡いピンクのジギタリスが優しい色を添えています。 これまでご紹介した花のエリアとは反対側にある森を思わせるエリアには、細い水路「リル」と八角形の池があります。ウィリアム・ケントの溢れ出る庭づくりのアイデアを反映したこのデザインは、200年を経た今も斬新さを感じることでしょう。 起伏に富んだ地形を楽しむかのようにつくられた「ヴィーナスの谷」。見事なまでに自然と調和したピクチャレスクな空間づくりです。ハーハー(牧草地に設けられる段差)を思わす2段の石橋の中はカスケード(連なった滝)、上にはビーナスの像があります。優しい起伏の斜面と周りの森が、あたかも一幅の絵のようです。 屋敷にはコンサバトリー風な温室も備えられています。この頃になると、オランジェリーではなく、板ガラスの温室が作られるようになりました。入り口の右手には、優しい色のバラが咲き、左手には白いガクアジサイ。イギリスには珍しいトウジュロも植えられています。 ウィリアム・ケントが目指したピクチャレスクなイングリッシュランドスケープには、心安らぐ理想郷が表現され、今もここ、ローシャム・パークには当時の様子そのままに維持されています。こんなベンチに座って、自然と一体となる贅沢な時間。庭を散策してその景色を楽しむだけでなく、自然と一体になる時間を提供するという新しい過ごし方を創造したのではないでしょうか。 併せて読みたい ・一年中センスがよい小さな庭をつくろう! 英国で見つけた7つの庭のアイデア ・イングリッシュガーデン以前の17世紀の庭デザイン【世界のガーデンを探る旅15】 ・スペイン「アルハンブラ宮殿」【世界のガーデンを探る旅1】
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ガーデン
プラントハンターの時代の庭【世界のガーデンを探る旅16】
世界の植物を発見するまでの ヨーロッパの歴史を、まずはおさらい バビロンの空中庭園から始まった「世界のガーデンを探る旅」は、イタリアやフランスからドーバー海峡を渡り、中世以降のイギリスに移ってきました。イギリスの庭文化は、プラントハンターによって大きな変革期を迎えるのですが、その前に、少しヨーロッパの歴史をおさらいしておきましょう。 ヨーロッパでは十字軍の遠征(11〜13世紀)以降、中近東からの情報が多くもたらされました。そして歴史的な交易路であるシルクロードによって、アジアの物品や香辛料が運ばれ、植物にも人々の関心が高まりました。ただ、途中にトルコのようなイスラム国家があり、キリスト教徒の西ヨーロッパには西アジアに行く安全なルートがなく、地中海ルートもイスラム教の国に支配されていたため、新しく安全なルートが求められている時代でした。15世紀の後半になると、大西洋に面したスペインとポルトガルが積極的にアフリカ西海岸を南に下ったことで、さまざまな品物が母国にもたらされました。 大西洋に面したポルトガルやスペインは、多くの冒険家や宣教師を航海へ送り出しました。1498年にはバスコ・ダ・ガマがインド航路を発見、多くの物品や香辛料をポルトガルに持ち帰り莫大な利益を得ました。スペインが送り出したクリストファー・コロンブスは、1492年にアメリカ大陸を発見しました。また、1519年にスペインを出発したフェルディナンド・マゼランは、世界一周航路を切り開き、地球が丸いことを実証しました。 各地の植物が世界に渡る時代 17世紀の中頃には、地球上のほぼ全ての地域にヨーロッパ人が訪れ、大航海時代は終わりを告げると、植民地時代が始まります。第二次世界大戦までにはヨーロッパと日本を除く、ほぼ全ての地域がヨーロッパ列強の植民地、あるいは支配下になり、本国に莫大な利益をもたらしました。 新しく発見された地域には冒険家、宣教師とともに植物採集のためのプラントハンターが多く訪れ、いろいろな香辛料をはじめ、食料や薬草などを持ち帰りました。また、その中には珍しい花や木も含まれていました。 日本はその当時鎖国をしていましたので、自由に植物を持ち出すことはできませんでしたが、かの有名な通称シーボルト(ドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)とその前任者で植物分類の基礎を作ったカール・フォン・リンネ(スウェーデン人の植物学者)の弟子のカール・ツンベルク(スウェーデン人の植物学者、博物学者、医学者)などによって、多くの植物がヨーロッパに紹介されました。その後鎖国は解かれ、園芸品種も含む日本のさまざまな植物がヨーロッパに送られると、その園芸文化の高さに触れた当時の人々は驚いたようです。 プラントハンターが持ち帰った膨大な植物 さてそんな中、世界中に送られたプラントハンターがイギリスに持ち帰った植物は膨大な量となり、整理し分類する必要に迫られていました。そして1804年、ロンドンの植物好きが集まって、園芸文化の普及や奨励を目的とする慈善団体「ロンドン園芸協会」が設立されました。その協会が1861年に王室の許可を得て現在の名称となった「王立園芸協会」であり、当時世界中からもたらされた植物を一カ所に集めた植物園が「キュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)」です。 王立園芸協会は、庭文化の普及も目的の一つとして、ウィズレー(The Royal Horticultural Society's garden at Wisley)に最初の作庭の見本となる庭をつくりました。手がけたのは、実業家で王立園芸協会の会員であったジョージ・ファーガソン・ウィルソン(George Ferguson Wilson)氏で、1878年に約25ヘクタールの敷地に庭がつくられ、その後、拡張されて現在は約100ヘクタールになっています。 現代も世界中から多くの来園者が訪れる ウィズレーの植物園 ウィズレーへの来園者は、1905年には年間約5,000人ほどでしたが、近年は年間100万人以上の人が訪れています。イギリスで最も人気のあるキューガーデンには及びませんが、見本庭園に限らず、蔵書や植物のコレクションでも有名な場所です。 よく手入れされたキャナルガーデンは、長方形の池を中心に左右対称にデザインされ、水中のスイレンまでも左右対称に整っています。 エントランスから庭へ降りて行く途中にある正方形の庭は、なんとサニーレタスで彩られていました。野菜を使って図形を浮かび上がらせるとは、微笑ましいアイデア。 1910年に造園家のJames Pulham and Sonによって、ロックガーデンが築かれました。斜面地を巧みに利用して水はけをよくし、高山植物や球根植物が多く植えられています。また矮性の樹木や球根類も多く、スコットランドのエジンバラ植物園のロックガーデンとともに、世界中のロックガーデンの手本になっています。 なだらかな丘になっているので、高台から庭全体が見渡せます。園内の植物には全てネームプレートがつけられ、まるで生きた植物図鑑の。来園者が熱心に興味のある植物をチェックしていました。 2006年に新たにつくられた温室へ続く初秋の宿根草ボーダーには、いろいろな草花がパッチワーク状に植えられていました。 造園家のトム・スチュワート=スミス氏が関与した新しい温室は、白いフレームと曲面が多用されたデザイン。 家庭菜園サイズに区切られたベジタブルガーデンは、そのまま自宅につくれそうな見本となっています。こんなところにも、ウィズレーガーデンの本来の趣旨である、「来園者にとって参考になる庭」の展示が見られます。 きれいに刈り込まれたツゲに囲まれた空間では、低く茂る鮮やかなペチュニアと立ち上がる白いダリアが左右対称に。とてもシンプルですが、広い空間で花を引き立てるこのテクニックは、日本の街中の花壇植栽の参考になりそうです。 和を思わせるフェンスを設けて視線を遮り、盆栽が並んでいます。なかなか考えられた演出です。近年、海外の盆栽レベルもかなり向上し、イギリスでも多くの盆栽愛好家グループが活発に活動しています。 幾何学模様にきれいに刈り込まれた芝生がとてもフォーマルな雰囲気。残念ながら花の時期ではありませんが、落ち葉ひとつなく、すべての株が剪定されて清々しい景色になっていました。 花が少なく、落葉した木々に囲まれた冬でも多くの人たちが訪れて、散策を楽しんでいました。 毎年発表される多種の新品種などを比較する栽培場もありました。イギリスの園芸文化の奥の深さを感じさせます。 イギリスの庭園文化を支える植物園 プラントハンターによって多くの植物がイギリスに持ち込まれ、もともと自生の植物が少なかったイギリスに園芸文化が深く根付いた理由の一つが、王立園芸協会の存在です。植物分類はキューガーデン、植物の庭での使い方はここウィズレーガーデンと、2つの庭はイギリスの園芸文化を底辺で支える両輪となっています。ロンドンから車でもさほど遠くないので、ぜひ訪れてほしいガーデニングの聖地です。 併せて読みたい ・花好きさんの旅案内【英国】ロイヤル・ボタニック・ガーデンズ・キュー ・イギリス発祥の庭デザイン「ノットガーデン」【世界のガーデンを探る旅14】 ・カメラマンが訪ねた感動の花の庭。イギリス以上にイギリスを感じる庭 山梨・神谷邸
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ガーデン&ショップ
イングリッシュガーデン以前の17世紀の庭デザイン【世界のガーデンを探る旅15】
イタリアやフランスへの憧れから イギリス独自の庭文化へ発展 ヨーロッパの中では、文化的にも経済的にも後発国であったイギリスは、イタリアルネッサンスやフランスの宮廷文化に憧れて、国内に多くのイタリア式庭園やフランス式庭園をつくっていきました。しかし、イギリスは緩やかな起伏の丘が続くつづく地形で、イタリアほど起伏も急流もなく、また、フランスのような広くて平らな土地にも恵まれていませんでした。そのためイギリスにおいては、両方の庭園様式が深く根付く事はありませんでした。 またその頃、“知識は力なり”の格言で有名な哲学者フランシス・ベーコンや文学“失楽園”の著者、ジョン・ミルトンなどが、自然なものへの憧憬、大陸文化からの脱却を提唱し始めます。 庭園も、今までの整形的なユートピアから、自然復帰こそが神が示してくれたものであるという英国的価値観へと移行していきます。 17世紀につくられた「ハンベリー・ホール」と庭 今回ご紹介する庭は、イギリス中西部、ウスターシャーにある「ハンベリー・ホール(Hanbury Hall)」です。この屋敷は、大地主のトーマス・ヴェルノンが1701年からつくり始めました。庭園のデザインは、その当時、イギリスで流行していたフランス式庭園で、設計はハンプトン・コートも設計した造園家、ジョージ・ロンドンとヘンリー・ワイズが担当。しかし、ここには広々としたフランス式庭園がつくれるような平地はなかったため、この土地に合った小規模な整形式庭園がつくられたのです。 まずは、屋敷前の車寄せから見ていきましょう。広々とした車寄せの向こうには、樹齢300年といわれる針葉樹、アトランティックシダーが高木となり、両側には落ち着いた雰囲気の、よく手入れがされたボーダー花壇が訪れた人を歓迎してくれます。 オレンジ色の石造りの建物や柱と対比する、きれいに刈り込まれた芝のエリアには、オレンジのヘメロカリスやライムグリーンの花が咲くアルケミラモリス、ピオニー、シュウメイギク、そして塀の向こう側にはスモークツリー(ケムリの木)など、現代の私たちがイングリッシュガーデンでよく名を聞く植物たちがボーダー花壇に使われています。手前には、経年変化で味が出た鉢から鋭い葉を広げているアガベが引き締め効果に。 2人の造園家が担当した整形式庭園 建物の向こう側には、ツゲで区切られたいくつかの庭が並んでいます。順番に、そのデザインを見ていきましょう。まずは、スタンダード仕立てのナシの木と鉢植えのリンゴを配した、オランダ風のフォーマルガーデンです。その向こうのエリアでは、ほかでは見たことのないような素敵な花壇が出迎えてくれます。 丸く刈り込まれたナシの木が並ぶエリアを、低いツゲで縁取られた四角い花壇が囲むなど、木々の組み合わせで、平坦な敷地に立体感のある景色をつくっています。 屋敷から見渡せる場所には、一段下がった土地にフォーマルな沈床花壇がつくられています。きれいに刈り込まれた緑のツゲの縁取りに、独特な花の組み合わせで明るい雰囲気を出しています。薄黄色の低い刈り込みはヒメツルマサキ、真ん中のボールは斑入りのヒイラギです。 四角や円錐、丸いトピアリーを複数組み合わせてたフォーマルな、整って見える庭デザインですが、花の数が少なく、手がかからない工夫を感じました。また、色合いがイギリスにしては、はっきりとした原色系の花が使われています。現代のコテージガーデン風な色合いに慣れてしまっている私たちには、新鮮な驚きをもってこのコンパクトな庭を楽しむことができます。植えられている植物も、驚くほど少量で小さなコニファーのトピアリーと緑や黄色のヘッジ、それらが土の色と相まってつくり出している不思議な雰囲気の庭です。このような植え方は他では見たことがありません。これはつくられた当時からのアイデアか、または、今のオーナーのアイデアかは分かりませんが、皆さまも一度ここを訪れて不思議な感覚を味わってみてはいかがでしょうか? 庭を見学していたら、ガーデナーが直線的なツゲのヘッジの刈り込みをしていました。水糸を引いて神経質に思えるほど緻密な作業でしたが、その向こう側では、別のガーデナーとオーナーらしき夫婦が何やら話し合い。秋の植栽計画でも相談しているのでしょうか? 富の象徴の一つ、オランジェリー 「ハンベリー・ホール」の敷地内には、オランジェリーも当時のまま残っていました。かなり緯度の高いイギリスでは、冬に吹く冷たい北風から寒さに弱い植物を守るために、大きなオランジェリーがつくられました。その頃、イタリアルネッサンスへの強い憧れを抱いていたイギリスの富裕層にとって、イタリアへ旅行することは一種のステータスでした。そして、寒さに弱いオレンジの木などを自宅に備えたオランジェリーで栽培することも、自慢の種になっていたようです。 植物が外へ持ち出されている夏の間のオランジェリーの中は、ガランとした空間。春から秋までは、コンサバトリーのようにも使われることもあります。現在のような温室が登場するのは19世紀に入ってからですので、それ以前の時代は、寒さに弱い植物の冬越しはオランジェリーの中で行っていました。 イギリスの地形に合わせた庭デザインを模索する時代へ 庭から広がる穏やかな起伏に富んだイングランドの丘陵地、最もイギリスらしい風景です。大きな木はアトランティックシダ―。複雑な樹形は、この土地の歴史を物語っているようです。 大陸文化の模倣から始まったイギリスの庭の歴史は、イタリア式庭園、フランス式庭園、オランダ式庭園などの要素を吸収し、咀嚼しながら、ソフトなイギリスのランドスケープにフィットするような独自の様式を少しずつつくり出していきます。16世紀後半から7つの海を支配したイギリスに世界中の富が集まり、世界の文化と経済の中心としてのイギリスの時代と相まって、世界中に送られたプラントハンターが持ち帰った植物を使った華やかなイングリッシュガーデンの時代が始まろうとしています。 併せて読みたい ・イギリス発祥の庭デザイン「ノットガーデン」【世界のガーデンを探る旅14】 ・【初めてのガーデニング講座】小さな花壇で育てる一年の花サイクル ・松本路子の庭をめぐる物語 フランス・パリの隠れ家「パレ・ロワイヤル」
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イギリス発祥の庭デザイン「ノットガーデン」【世界のガーデンを探る旅14】
イギリスの庭デザインの手法の一つ、ノットガーデン 今まで見てきたように、イギリスで庭ができ始める前に、イタリア、フランスなど大陸では富と文化の変遷がありました。十字軍や、大陸との文化・人的交流により、イギリスにも大陸文化の影響が色濃く見られるようになって、国内では多くの整形式庭園やフォーマルガーデンがつくられました。 起伏に富んだイタリアや平坦な大地のフランスに比べ、緩やかな丘が続くイギリスでは両国の庭園様式は何かしっくりこなかったのか、イギリスのアイデンティティーの一つとして、ノットガーデン(Knot garden)が生まれてきました。 そこで今回、解説する庭は「スードリー・キャッスル(Sudeley Castle)」。遡ること1442年、チューダー王朝の時代に建てられたお城です。イングランドでは、中世100年戦争から薔薇戦争と続いた内乱がやっと終わり、平和な時間が訪れました。このお城が歴史に登場してきたのもそんな時代で、かの有名なヘンリー8世の6番目の王妃であるキャサリン・パーがスキャンダラスな生涯を送ったことでも有名です。 庭のあちこちに登場する樹木の刈り込み 山形や円錐形など、きれいに整えられたイチイの刈り込みが圧巻の庭の一角。ひときわ明るく目にとまるのは、黄金キャラの刈り込みです。このような形で庭の中で見られるのは珍しいものです。 この庭は、16世紀になると廃墟となってしまいましたが、近年大規模な修復がなされたことで、現在はイギリスで屈指の庭園になっています。 芝生と長方形の池が同じ高さにつくられたシンプルなデザインの庭。廃墟がそのまま庭の一部として取り入れられていて、この庭の歴史の古さを感じさせてくれます。 イギリスで発祥したノットガーデンの名所 ツゲの生け垣の緑により模様が浮かび上がるガーデンのことを“ノットガーデン(結び目模様の庭)”と呼びますが、イギリスでもノットガーデンの代表的な場所として有名なのが、この「スードリー・キャッスル」です。チューダー王朝時代にあったであろう形をそのままに再現したノットガーデンですが、つくり出されたこの模様は、エリザベス1世のドレスの模様がもとになっているといわれています。 このように、刈り込みが一定の高さを保つノット(結び目模様)を維持管理するのは、日が均一に当たらず生育が不揃いになるところでは非常に難しく、緯度の低い日本では再現がほぼ不可能だと思います。濃い緑一色では暗い空間になってしまうので、中心に白いタイル張りのポンドと西アジアをイメージさせる噴水のオブジェがフォーマルな庭を演出しています。 ノットガーデンを維持するガーデナーの丁寧な仕事 ノットガーデンが維持されているのを見ると、きれいに刈り込みを行い続けている作業の苦労がうかがわれます。現代になっても電動器具を使わず、手作業での刈り込みをしているところが、イギリスらしいと感じます。この「スードリー・キャッスル」には8つの庭がそれぞれ生け垣で分けられていて、どこもきれいに管理されていました。 色とりどりの花々が咲き乱れるイングリッシュガーデンの登場は、世界中からプラントハンターが持ち帰る植物が栽培されだした17世紀以降になるので、今回ご紹介している「スードリー・キャッスル」をはじめとする中世のイギリスでは、まだまだ新大陸やアジアからの新しい植物はなく、限られた植物で庭をつくっていました。そこで、庭に変化をつけるためにも、きれいに刈り込んで形づくる「ノットガーデン」やイタリアの庭でご紹介した「トピアリー」、そして庭を取り巻くイチイの生け垣やメイズ(迷路)を取り入れることで、単調な庭を変化に富んだ空間に仕立て上げたのでしょう。 ここは長い間廃墟になっていたこともあり、ある意味、当時の雰囲気がそのまま残っています。 刈り込みによる庭デザインのバリエーション 右奥にはピジョンハウス、手前はハイドランジア‘アナベル’のグリーンの花の一群。そして、奥にきれいにシェイプアップされた刈り込みの壁。男性的なデザインの庭になっています。この‘アナベル’は北アメリカの植物なので、改修後に植えられたものでしょう。 一段高く茂るスクエアの刈り込みを中央に、外へ向かって二重、三重と生け垣と芝で丸く形づくった緑に白花が浮かび上がる落ち着いた雰囲気の庭。つくられた当時のことを思いながら眺めると、ガーデンデザイナーやガーデナーの工夫と苦労を感じられます。 区切られた庭ごとに工夫があるイギリスの庭 城の壁面に沿って続くボーダー花壇では、赤花が咲く植物が多く植えられ、シックな印象です。赤花はペンステモン、ダリア、カンナ。白花はエリンジウム。建物や園路の明るいベージュと、ナツヅタや芝生の緑に花色が引き立っています。 植栽に近づいてみると、ダリアとペンステモンに、赤葉のカンナが立ち上がっています。奥のほうではジニアの深紅の丸花が控えめに咲いています。アイリスのシルバーがかった葉も、引き立て役としてうまく調和しています。 宿根草のフラワーベッドのある庭では、レイズドベッド(立ち上がった花壇)の縁取りに、コッツウォルズ独特の板石のライムストーンを積み上げ、宿根草と低木が混ざり合って多種の植物が育っています。このように、一段高い場所に植物が茂っていることで、平面的なボーダー花壇と比べ、迫力のある景色になっています。 黄ケマンソウの茂みから、放し飼いの孔雀が現れました。孔雀はもともと東アジア原産の鳥ですが、時々ヨーロッパの庭で放し飼いになっているのを見かけます。奥の木陰にはシンプルなベンチが置かれていました。 ここでは、中央に変形の池を配し、その石材の手すりに植物が寄り添い茂っていました。このように小さく区切られた敷地ごとに、いろいろなタイプの庭をつくることで、訪れる人を決して飽きさせません。「スードリー・キャッスル」では、こうしたイギリスらしい庭づくりのエッセンスをたくさん見ることができました。 緑をふんだんに使うイギリス。ナショナルカラーのブリティッシュグリーンはこんなところから始まったのではないでしょうか。 「スードリー・キャッスル」の近くにある小学校の塀にも、植物の彩り。さすがイギリスですね。 スードリー・キャッスルへ向かう途中の小さな橋も石柱が配されて洒落ています。こんなアプローチが訪れる人の心を庭の歴史に対する興味へと導いてくれます。 併せて読みたい ・スペイン「アルハンブラ宮殿」【世界のガーデンを探る旅1】 ・イギリス「ハンプトン・コート宮殿」の庭【世界のガーデンを探る旅11】 ・イギリスに現存する歴史あるイタリア式庭園【世界のガーデンを探る旅13】
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イギリスに現存する歴史あるイタリア式庭園【世界のガーデンを探る旅13】
当時のままの庭を見て知るイギリスの庭の歴史 イギリスの庭って、いつ頃から始まったのでしょうか? もともとイギリスという国自体が、前回の「ペンズ・ハースト・プレイス・アンド・ガーデン」で少し触れたように、歴史的にも国家的にも、日本人にはやや理解しづらい所があります。そもそもイギリスには建国の日はありませんし、他のスコットランドやウェールズにも建国の日はありません。イギリスとスコットランドが一緒になったのは1707年、国旗のユニオンジャックが制定されたのは1801年。憲法で統一されていない4つの国(イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランド)が集まった集合体のまま、一つの国として落ち着き始めた10世紀以降、十字軍遠征もあって、イギリスは他国の文化の影響を強く受けたのです。 ルネッサンスやフランス王宮文化に憧れを持ったイギリスは、その後もさまざまなものを他国から取り入れていきました。その中の一つが、イタリア式やフランス式の庭園です。きっとその洗練された庭の姿に憧れた当時のイギリスの領主や富豪が、こぞってイタリア式やフランス式の庭をつくったことで、国中にそれをまねた庭が溢れかえったのでしょう。しかし、その頃の庭で現存しているものが少ないのは、一人の天才造園家“ケイパビリティ-ブラウン”の存在が大きいと考えていますが、それはまた後日、お話ししましょう。 その頃使われていた植物は、イギリスに自生する数少ない植物や、大陸から持ち帰ったヨーロッパ大陸原産の植物であったはずです。今のように多様な植物が使えるようになるのは、ずっと後のプラントハンターの出現まで待たなくてはなりません。 イギリスに庭ができ始めるのは17世紀の初頭で、そのうちのいくつかは今も残っていて見ることができます。その一つは、イングランド中部のピーク・ディストリクトにある「ハドン・ホール」です。ルネッサンスの雰囲気を色濃く残すイタリア式庭園が、「ハドン・ホール」に今もほぼ当時の姿のまま残っています。この庭がつくられたのは、イギリスで最初に国立公園に指定された地域で、イギリスには珍しく起伏に富んだ地形の、中世の雰囲気を感じさせるノスタルジックなエリアです。 ハドン・ホールの庭 「中世から生き残るもっとも完璧な家」と呼ばれ、“1000 Best Houses”にも選ばれているハドン・ホールの歴史は12世紀から始まりますが、2段のテラスのあるイタリア式庭園は、17世紀前半につくられました。近年になり少し改修されましたが、ほぼ原形のまま残っています。 ハドン・ホールの庭は、もともとの地形をうまく利用して、庭の中に階段を設け、上下2つのテラス状になっています。 屋敷の周りにはいろいろな植物が植えられていますが、これには理由があります。イギリスは冬に“ゲイル”と呼ばれる冷たくて強い北西の風が吹くので、植物をゲイルによるダメージから守るために建物に沿って植えられているのです。 屋敷の広い壁面を生かして、つるバラを誘引し、たわわに咲く花が窓や入り口を彩っています。 一段下がると、敷地の中央は池を配した整形式庭園になっています。 おそらく、日本の皆さんがイメージするイングリッシュガーデンと違って、この庭は色彩的にも地味で、シンプルなデザインではないでしょうか。色とりどりの花が咲き乱れる、イギリス独自の庭の形式ができる以前の庭であると意識して観賞すると、とても興味深く感じます。またここにかけられていたタペストリーの花モチーフが、イギリスの陶磁器ブランド‘Minton(ミントン)’のハドンホールシリーズのもととなったことでも有名です。ロンドンから北に車で3〜4時間と、ちょっと距離がありますが、イギリスの庭の始まりを感じられる絶好の名所です。 もう一つの古い庭「ハム・ハウス」 ここも17世紀の前半に建てられたカントリーハウスが当時のままに残っている数少ない場所の一つです。ロンドン市内からそれほど離れていない高級住宅地で、多くの著名人たちが住んでいることでもよく知られているリッチモンドにあります。屋敷の正面中央に立つと、建物も植栽も見事なまでに左右対称に配置されています。 建物の反対側には整形式の庭園があります。ここはガラス温室ができる前に普及していた防寒用の部屋である「オランジェリー」が当時のまま残っています。ちなみに、大きなガラス温室が世界で最初につくられたのは、ロンドン郊外にある「キュー・ガーデン」だといわれています。 建物の横には、ラベンダーが列植されたイタリア式庭園があります。 ここもハドン・ホールと同様に、イギリスの庭が色とりどりの花で彩られる以前につくられた庭なので、ちょっと物足りないかもしれませんが、当時のままを頑なに守るイギリスらしさを感じさせてくれます。 今回の2つの庭は、大陸からの影響(模倣)そのものであるといってもいいでしょう。しかしあまりにも人工的な左右対称のデザインにイギリス人が違和感を抱いたのか、その後徐々に崩れていきます。しかしそれはずっとあとのこと。話は飛びますが、日本も最初は中国から左右対称の律令制を導入するのですが、独自の文化が花開く平安時代になると、それが崩れていきます。平らなフランスと中国、起伏に富むイギリスと日本。大陸と島国、お互い世界でまれに見る独自の庭文化を育んだイギリスと日本には、大変興味深い共通点があります。庭の歴史を探っていく過程で、なぜイギリスと日本だけが、庭文化が今も進化し続けているかを考えてみたいと思います。 次回は、プラントハンターによって世界中から集められたさまざまな植物達によって彩られた庭を見ていきましょう。 併せて読みたい ・スペイン「アルハンブラ宮殿」【世界のガーデンを探る旅1 】 ・イタリア式庭園の特徴が凝縮された「ヴィラ・カルロッタ」【世界のガーデンを探る旅5】 ・イギリス「ペンズハースト・プレイス・アンド・ガーデンズ」の庭【世界のガーデンを探る旅12】
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イギリス「ペンズハースト・プレイス・アンド・ガーデンズ」の庭【世界のガーデンを探る旅12】
ガーデニングの本場といわれるイギリスの庭の発祥とは イギリスの庭の歴史はいつ頃から始まったのでしょう? これまで、イスラムの庭からイタリアルネサンス、そしてフランス、オランダとヨーロッパ大陸での庭の連綿たる歴史を見てきましたが、イギリスではどうだったのでしょうか? そもそもこの地には、石器時代から先住民が住んでいました。有名なストーンヘンジはその頃(紀元前2500〜2000年頃)のものです。その後、ケルト人が紀元前から住み着きました。紀元後になるとローマ帝国に侵略(西暦43年)され、その後4世紀まで支配されます。今でもイギリス南部にはローマ時代の遺跡や村が所々に残っています。その後、ゲルマン人やバイキングなど、さまざまな外圧、支配を受けながら現在の大英帝国(Great Britain)になっていきますが、その辺りの詳しい説明は、歴史の教科書に任せましょう。 イギリスに現存する庭の中で、最も古いものの一つ そこで今回ご紹介したいのは、僕の大好きな庭の一つ「ペンズハースト・プレイス・アンド・ガーデンズ」です。きれいに手入れが行き届いたこの庭は、イギリスで現存する庭の中で最も古いものの一つとされています。 ここでもう少しイギリスの歴史についてお話ししましょう。イギリスは11世紀から約200年に渡って行われた十字軍に参加し、帰還した兵士たちがイスラムの文化をいろいろ持ち帰ったと思われますが、この庭の歴史がはっきりしてくるのは、その後半の13世紀のイタリアルネサンスが始まった頃からです。ペンズハースト・プレイスがあるこの地は豊かな丘陵地帯で、ロンドンから馬で半日の距離にあるという立地条件も含めて、別荘としても便利なことから選ばれたようです。建物は14世紀にほぼでき上がり、建物の前にあるイタリア式整形庭園と、そこに続くウォールガーデンがつくられたようです。また、この庭は多くの詩や物語の中にも読まれていることでも有名です。 ペンズハースト・プレイスの散策を始めましょう 1554年に植えられたという記録が残るオークのアプローチです。このアプローチを歩いていくだけで、左側の城壁の向こう側に展開する庭への期待感が、歴史をバックにした重々しさとともに強まります。 屋敷の前は、この地の緩い傾斜を巧みに利用した一種のサンクンガーデン(沈床式花壇)になっています。この庭は整形式の中でも正方形に近い形で、草ツゲの段になった低い刈り込みの緑とピンクのバラを組み合わせて、他では見られない独特な雰囲気を醸し出しています。庭の向こうに低く連なる遥かな丘陵を巧みに借景として利用することで、高い場所に位置するこの地が、大きく広がる天上の楽園(ユートピア)を表しているような気がします。 庭の横に置いてあるベンチが、いかにもイングリッシュガーデンといった趣です。 イギリスらしい色彩調和が随所に見られるボーダー花壇 城壁の南側に続くボーダー花壇には、日本ではちょっと考えられない、日向が好きな植物と日陰が好きな植物の組み合わせ。淡い色のヘメロカリスが咲き、その足下には斑入りのホスタやボリジ、ニコチアナ、ラベンダーなどが咲いています。もうすぐアガパンサスも咲きそうです。ボーダーの左側には、イチイの生け垣がその背後の花壇を隠すように茂っています。 ボーダー花壇の端には小さな池があり、屋敷の明るい色の石壁に銅葉のノムラモミジが映え、広い空間のアクセントになっています。スクエアのポットの中心にはスタンダード仕立ての月桂樹、その株元に薄黄色のペチュニアと控えめな紫のロベリアを組み合わせる色彩センスは、イギリスらしさを感じさせます。 ここでは、赤いスモークツリーを中心に、ペンステモンや黄花のツキミソウ、白いフランネル草や2種類のゲラニウム、金露梅に白い花のブッシュはエリカでしょうか? 低木と宿根草がうまく立体的に混じり咲いています。左側はアスター、アルケミラモリス、そして自然樹形に伸びた白バラが見えます。 刈り込んだイチイのヘッジ(生け垣)に囲まれたバラ園 イチイの生け垣を抜けるとバラ園があります。白バラ‘アイスバーグ’のスタンダード、その株元はシルバーリーフのラムズイヤーがカーペットに。視線の先には、アイストップとしてアイボリーホワイトのベンチが配され、素敵な空間を演出しています。 ラムズイヤーのカーペットの左右には、きっちり四角くトリミングされた赤い葉のバーベリス(メギ)の生け垣があり、中にはオレンジ色のバラが植えられています。バラ園の中に、銅葉のバーベリスを使い、さらにはオレンジ色を組み合わせる例は他に見たことがありません。僕個人としては、もう少しヘッジを低く刈り込むか、バラをハイブリッドティーのような背の高い種類にすれば、より調和の効果があるような気がします。 小道を進むと、優しいカーブを描く低いツゲの模様の繋がりが楽しい細長いガーデンが。ヘッジの中にラベンダーが咲き、トーテムポールを思わせるモダンなオブジェがアクセントになっています。ポールの頭には、赤いドラゴンやその他の動物が象られていますが、もしやこのシドニー家の家紋の動物でしょうか? イギリスでもっとも古いとされる庭で、こんなモダンな演出に出合ったことに驚きました。ツゲの外側は、背丈より高く仕立てられたリンゴやナシのエスパリエで視線が遮られていることで、よりポールが引き立って見えます。 今見た庭から次の庭へと導く道の左右には、きれいに刈り込まれたヘッジの壁があります。これは、前の庭のイメージをシンプルな空間に入ることでリセットさせて、次の庭へ進むことができるイギリス独特の仕掛けです。 このエリアは、緑のイチイの生け垣で周囲をぐるりと囲み、真ん中に真四角の池があるというシンプルな庭です。池に咲く睡蓮が、この庭デザインの人工的な構図を和らげてくれています。庭としては、ある意味とても大胆なデザインです。一条の噴水が何か物悲しげな感じがします。 ペンズハースト・プレイスで一番華やかな庭 睡蓮が咲く池の隣のエリアは、なんとユニオンジャックの庭です。青地に白のクロスのスコットランド、白地に赤のクロスのアイルランド、白地に赤の十字のイングランドの旗が重なってできた現在のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリスの正式な国名)の旗が浮かび上がる花壇です。何度か訪れたなかでも、初めてユニオンジャックに見えた時の写真です。紅白のバラとイングリッシュラベンダーが同時に咲くことで成立する植栽デザイン。この遊び心、なかなか真似できませんね。 さまざまな庭デザインのバリエーションが敷地内に凝縮している「ペンズハースト・プレイス・アンド・ガーデンズ」。14世紀に建てられた邸宅としては保存状態もよく、内部の部屋も一般公開されている観光名所で、貴族の日常がどのようなものであったかを知ることができる貴重な場所。いにしえに思いを馳せながら庭をあとにすると、駐車場横には、子どもたちの歓声が響く賑やかなアドベンチャー公園が。その元気な声が、人々に愛されている生きた場所なんだと、この庭の今を感じさせてくれました。
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イギリス「ハンプトン・コート宮殿」の庭【世界のガーデンを探る旅11】
スペインのアルハンブラ宮殿からスタートして、ヨーロッパの歴史とともに、イタリア、フランス、そしてオランダと、いろいろな庭を見てきましたが、いよいよナポレオンもヒトラーも渡れなかったドーバー海峡を渡って、イギリスの庭を見ていくことにしましょう。 今回はロンドン郊外、テニスで有名なウィンブルドンの近くにあるハンプトン・コート宮殿です。 ハンプトン・コート宮殿を正門からご案内 まずはハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)の全敷地を確認してみましょう。写真手前の広場に正門があり、建物の奥に放射状に広がるのが、中央に大きなプールがあるオランダ式とも呼ばれる整形式庭園で、まっすぐ奥へと長いプールが続いています。毎年7月上旬に行われている大イベント「ハンプトン・コート宮殿 フラワー・ショー」は、このプールの周りで開かれています。 テムズ川河畔に沿って広がるハンプトン宮殿ですが、空から見ると写真右手が南側になり、テムズ川と微妙な角度で、宮殿とその周りに庭が配置されていることがよく分かります。宮殿を東に抜けると大きなオランダ式ともいわれる整形式のグレート・ファウンテン・ガーデンが、まるで無限の広がりを持っているかのように目の前に現れます。そして、その右側には、フランス式整形庭園が南側のテムズ川に向かって広がっています。川沿いには船着き場があり、下流のロンドン中心部(写真奥側)から船で来ることも可能です。 宮殿は、1521年に、イングランドの聖職者で政治家だったトマス・ウルジー氏によって建てられました。しかし、そのあまりの美しさにヘンリー8世が妬んだので、すぐに王のものとなりました。元々はイタリアルネサンスへの憧れのもとつくられた、チューダー様式とゴシック様式の入り交じった左右対称の幾何学的模様の宮殿で、幾度もの改築や改修が施されながら、18世紀にほぼ現在の形になりました。その後、1838年に大改修の工事が終わると、当時のビクトリア女王によって一般公開されるようになったのです。敷地内にある「プリヴィ・ガーデン」は、1995年の大改修により建設当時の姿に復元されて現在に至っています。 庭は、宮殿の東側と北側に広がっていますが、東側の大きい場所から順に「グレート・ファウンテン・ガーデン」、テムズ川に向かって伸びる「プリヴィ・ガーデン」、その横、宮殿の南側に2つの庭「サンクンガーデン」と「ポンドガーデン」があります。宮殿の北側には「ローズガーデン」や「キングサリのトンネル」、さらには有名な「メイズ(迷路)」、高く刈り込まれた生け垣の迷路などが宮殿を取り巻くように配置されています。 庭園を散策しながら特徴をご紹介 きれいに刈り込まれたイチイは、デアーライン(家畜が下枝を食べたような形)と呼ばれる下枝の刈り込みによって、見通しを確保し広がりを見せています。 シルバーリーフのシロタエギクと、紫花のヘリオトロープとを組み合わせた落ち着いた色合いで、フランスやイタリアの花壇植栽とはまったく違うテイストです。 宮殿から南に広がる「プリヴィ・ガーデン」 当時は新興国だったイギリスの、イタリアルネサンスとフランス文化への憧れが顕著に現れた、見事なまでのフォーマルガーデンです。 この庭は1995年に再現されましたが、完璧なまでに幾何学的な左右対称庭園です。イギリスらしく両側は小高い土手に囲まれ、きれいにメンテナンスされたフォーマル庭園が俯瞰できるようになっています。左側の土手の上には5m以上の高いシデのトンネルがあり、あまりにも人工的な幾何学模様にイギリスらしさが加味されているように思われます。 宮殿横に可愛らしい「ノットガーデン」とオランジェリー 草ツゲの緑のフレームの中は、ベゴニア・センパフローレンスが。はっきりとした色の対比がイタリアの庭を思い出させます。これも、ルネサンスへの憧れの表れなのでしょう。その奥にはオランジェリー(温室)があります。 大きく立派なオランジェリーの前には、テンダー(寒さに弱い植物)な植物の鉢植え。これらの鉢は、すべて冬前にはオランジェリーの中へ入れ、寒さから守ります。 一番の見せ場「サンクンガーデン(沈床花壇)」 オープンで広い「プリヴィ・ガーデン」は緑が中心でしたが、このサンクンガーデンは周りを高い生け垣で囲み、完全に周囲から隔離された空間になっています。 春は、チューリップとパンジー、夏はサルビアやマーガレット、デージー、シロタエギク、そして赤いゼラニウムとベゴニアでカラフルに植栽され、ここではイギリスらしい色とりどりの花が主役になっています。 隣のポンドガーデンは、サンクンガーデンより一回り小さくて色合いもデザインもシンプルです。素敵な2つの庭が並んでいるのも何かもったいないような気がしますが、はっきりと生け垣で区切られているのはイギリスらしい庭の見せ方です。 世界最高齢のブドウの木は、1768年にケイパビリティー・ブラウン氏によって植えられたと伝えられています。イギリスの庭づくりを根底から変えた天才造園家であるランスロット・ケイパビリティー・ブラウン氏については、また今後ご紹介する予定です。 北側の園路には、ゴミ箱さえもブリティッシュグリーンにペイント。ご存じのようにイギリス人が大好きな色です。 イギリスらしい庭のデザインといえば、ボーダー花壇。冬の寒い西風から植物を守るレンガの壁(ウォール)に沿って手前に低い植物、奥へ高い植物を組み合わせて、細長く配置する手法で、イタリアでは見られないスタイルです。さまざまな植物をパッチワークのように組み合わせて植えていく、イギリスでは当たり前に見られる手法は、イギリス庭園史上もう一人の偉人として知られるガートルード・ジーキル女史が始めたもので、今もイギリスの花壇植栽はこの手法がもとになっています。 日本でも憧れて育てる人が多いキングサリをトンネルに仕立てた場所もあります。イギリスでも、なかなかここまで見事な景色にはお目にかかれません。 ハンプトン・コート宮殿は、さまざまなタイプの庭や歴史が詰まっていて、一日いても飽きることはありません。ある意味、ここからイギリスの庭は始まったともいえるでしょう。次回からは、今、ガーデニングの本場といわれているイギリスの庭巡りの旅を始めるとしましょう!
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オランダ「ヘット・ロー宮殿」と「キューケンホフ」の庭【世界のガーデンを探る旅10 】
前回までフランス式庭園についてご紹介してきました。フランス革命(1789年)により、かのマリー・アントワネットも処刑され、時代は貴族から庶民へと移り、ナポレオンの出現(1799年)によりヨーロッパは大きく動きました。ヨーロッパ中の憧れの的であったフランス式庭園は、イギリスをはじめ、あちこちでつくられるようになっていました。その動きがドーバー海峡を渡る前に、もう少し大陸の中の庭園のお話をしましょう。 オランダ王室の夏の離宮「ヘット・ロー宮殿」 15世紀、バスコ・ダ・ガマやコロンブスなどの活躍で大航海時代が始まりました。ポルトガルやスペイン、16世紀には、オランダやフランスも加わって、17世紀に入るとオランダ、イギリスが世界の海を支配し、世界中の富がそれぞれの国へ集まってきました。オランダでは、16世紀にトルコで見つかったチューリップが引き金になって、「チューリップ狂時代」が始まりました。 今回ご紹介する「ヘット・ロー宮殿」も、オランダ大航海時代に、オランダ王室の夏の離宮、狩猟の場所として1684年に建てられ、1975年まで実際に使われていました。広大な庭園は幾何学模様のバロック式庭園です。オランダ人の友達から聞いた話ですが、ナポレオンがフランスから攻め上がってきた19世紀初頭に、その素敵な庭園をナポレオンに見られるのが悔しくて、なんと埋めてしまったそうです。その後、近年になって庭は掘り起こされ、当時のままの姿に再建されて、1975年から貴重な博物館として一般公開されています(2018年1月8日から2021年頃まで宮殿の博物館部分は改修工事のため休館予定。工事期間中は、4〜9月のみ、庭園と厩、レストランのみ一般公開)。 アッペルドーン郊外の森を背景に、宮殿の各部屋の窓から遠くに見下ろす広大な幾何学模様の整形式庭園。きれいに低く刈り込まれた緑一色の草ツゲの間に、色砂利を敷き詰めて彩りを見せています。 春限定の公開庭園「キューケンホフ」 オランダにはもう一つ、必ず訪れてほしい庭があります。それは春の季節にだけ開園する「キューケンホフ」です。 3月中旬から5月中旬の春の間だけ一般公開されるこの庭は、あまりにも有名で、世界中から観光客が押し寄せます。元々ここは、かつてはハーブを育てていたことから「キューケンホッフ(台所の畑)」と呼ばれるようになりました。1949年に「キューケンホフ」があるリッセ市の市長のアイデアにより、球根を使った庭のコンテストが開催されたことをきっかけに、現在のような素晴らしい庭になりました。 実は、この場所は個人の持ち物で、リッセの球根生産者が春の期間だけ借りて、地域の自慢の球根や新品種を植え込んで、商談を進める見本市の要素も持ち合わせているのです。ですから、春の季節が終われば静かな森に戻ります。僕も以前、このキューケンホフで、鳥取の花回廊の寄贈による日本庭園をつくったことがありました。つくった当初は球根は植え込まれていなかったのですが、やはりそこはオランダ。翌年からは、球根で花いっぱいになっていたのです。 リッセ市のカラフルな球根畑 ここリッセは、球根の世界的産地でもあります。キューケンホフへ行くまでに、色とりどりの球根による縞模様の畑を見ることができます。この地域でなぜ球根栽培が盛んなのかというと、すぐ西側が砂丘になっている砂地であること、また偏西風が球根栽培に向いているためだと思われます。 球根の熟成のため、満開になってから花摘みをするので、毎年花のカーペットがリッセ市中に出現します。ただまったく平らな土地なので、空撮でなければこの壮大な景色を見ることはできません。 ムスカリとスイセンのあとは、ヒヤシンス。色合いはぐっと落ち着いて、よい香りが園内に溢れます。 そしていよいよ主役のチューリップが咲き始めると、世界に類を見ない光景で観光客を驚かせます。 球根でいえば、チューリップが終わると百合の季節ですが、ここではヨーロッパブナの芽吹きが始まって、黄緑色の世界が静かに広がり、それまでの華やかさとは打って変わって静かな公園に戻るのです。
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オーストリア「シェーンブルン宮殿」【世界のガーデンを探る旅9】
ここまでは、フランス王室のシンボルであったベルサイユ宮殿のお話をしてきましたが、今回は、中世ヨーロッパのもう一つの富と文化の中心で、ウィーンのハプスブルク家の住まいであった「シェーンブルン宮殿」の庭を見ていきましょう。 東ヨーロッパの富と文化の中心地 中世のヨーロッパは、西半分はパリのブルボン王朝が、東半分はウィーンのハプスブルク家が富と文化の中心として君臨していました。ブルボン王朝はフランス革命により終わりを告げましたが、ウィーンのハプスブルク家は第一次世界大戦まで東ヨーロッパの富と文化の中心として、また音楽の都の頂として長く繁栄していました。当時、フランスの貴族文化の象徴であるヴェルサイユ宮殿(17世紀〜)はヨーロッパ中の憧れの的。その頃、ヨーロッパの東半分の富をある意味独占していたハプスブルク家も例外ではありませんでした。広大なフランス式庭園を持つ憧れのヴェルサイユ宮殿を手本に、このシェーンブルン宮殿がつくられたのです。 ハプスブルク家の夏の離宮としてウィーンの郊外につくられたこの宮殿には、1,441室もの部屋があり、さらには、ベルサイユ宮殿に勝るとも劣らない素敵なフランス式庭園がつくられて、それらは現在まで残っています。この宮殿は、女帝マリア・テレジアの居城として、そしてその娘マリー・アントワネットの数奇な運命とともに現在まで語り継がれています。 現在、この宮殿一帯に、年間670万もの人々が訪れる、ウィーンでもっともポピュラーな観光地になっています。 宮殿から広がるシンメトリックなフランス式庭園は、はるか遠くの小高い丘のグロリエッテまで続きます。 グロリエッテの手前には大きな噴水があり、宮殿と噴水の間には広大な毛氈花壇がシンメトリックに広がります。 原色の植物が緑に浮かび上がる平面的な花壇 ウィーンはパリに比べるとかなり寒い場所なので、この庭を楽しむには、やはり夏から秋が一番でしょう。僕が訪れたのも初夏でしたが、何も遮るものがないこの庭園を、グロリエッテまで歩いた時、陽射しが強烈だったことを鮮明に覚えています。 この花壇は芝生の緑をベースに原色系の植物を、おもに線状に並べて模様を描くことによって、はるか遠くに見えるグロリエッテまでの距離感をより強調しています。鮮やかな色と人工的な幾何学模様を際立たせるために、平面的な花壇の横には、小高く刈り込まれた濃い緑の生け垣が巡らされ、大理石の真っ白な彫刻が気持ちを和らげてくれます。 宮殿から数百メートルも離れた噴水の周りには、夏の花のベゴニアで赤と白のはっきりとした曲線が描かれ、背の高い黄色いカンナが立体感を出しています。ここでは前回解説したようなフランス式の花の混植は見られません。 ウィーンのもう一つの有名な宮殿である「ベルヴェデーレ宮殿」の早春の花壇は、春の空気までも表しているかのような優しいカラーリングです。宮殿の壁や屋根の色と調和する、白と黄色のチューリップの混植に、ガーデナーの優れたセンスが溢れています。 世界で2番目に古い温室「パルメンハウス」 有名なパルメンハウスとその前の線描花壇。パルメンハウスは1882年に建てられた世界で2番目に古い温室です。世界最古の温室は、これより4年前に建てられたイギリスのキューガーデンのパームハウスです。さて、パルメンとはドイツ語で手のひらを意味し、ヤシの木を指します。このような大規模な温室ができたことにより、世界中の植物がプラントハンターによって集められ、寒いウィーンでもさまざまな植物が栽培されるようになりました。これは、産業革命と技術革新により曲面ガラスの製造が可能になったことも大きく影響しています。 それにしても、なんと重厚で美しい姿なのでしょうか! 園路両脇のイチイのトピアリーもこの温室をひときわ優美に引き立てています。 巨大な生け垣と彫刻を配置する効果 視線を遮る西洋シデ(Carpinus beturus)の刈り込みが高く幾重にもつながり、正面はるか彼方にある大理石の彫刻に視線を集めています。 訪れた人に、この庭の奥行きと重厚感を伝えるデザインです。この手法は、後のイングリッシュガーデンにも多く取り入れられています。 こちらは緑の芝生に立ち並ぶ直線的なトピアリーと、生け垣に埋め込まれた大理石の彫刻。これもベルサイユ宮殿の影響なのでしょうか? 補色関係にある赤い屋根と深い緑が白い彫刻をアクセントとして上手にまとまった空間をつくりだしています。 最後に紹介するのは、あまりにも有名なモーツァルトの大理石の像と、その前にあるト音記号のマークの花壇です。ハプスブルク家歴代の皇帝の居城にして音楽の都、ウィーンの中心にあるホーフブルク庭園が、やはりウィーンの庭巡りの始まりでしょう。