先行きが見通せない不安な時代。人々は花や緑の植物に救いと慰めを求めていました。
そんな時代に、まるで希望を紡ぐかのように、一筆一筆、丹念にバラを描いた画家。
それがピエール=ジョゼフ・ルドゥーテでした。革命の嵐が吹き荒れる激動期のパリに生きたその生涯をたどるストーリー。
衝撃の大事件

1798年──。植物画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテは、吹き荒れるフランス革命の嵐の中にいた。フランス革命は、当初、王制を温存し、国を立憲君主制とする方向で進展した。ところが、国王ルイ16世は、きわめて非妥協的。議会や民衆への譲歩を頑なに拒み続けた。国王への不信と反発が強まる中、大事件が起きた。
1791年6月20日の深夜、国王一家は馬車で王宮を脱出。王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアへの逃亡を図ったが、フランス東部の町で発見されて拘束。パリに連れ戻されたのである。国家と国民を見捨てて外国に逃げようとしたことで、国王ルイ16世の権威は完全に失墜。王権の停止が決議され、ルイ16世はパリのコンコルド広場で処刑され、同じ年の秋にはアントワネットも処刑。37年の短い生涯を終えた。
「家族に別れを告げるルイ16世」という絵が残っている。処刑の前夜、国王一家が幽閉されていたパリ中心部の修道院で描かれたもので、画面中央に憂い顔のルイ16世と妃のマリー・アントワネット、両親に取りすがる幼い子どもたち。その右側には、悲嘆にくれ、身悶えするようにして泣いている一人の女官の姿が描かれている。絵に画家の署名はない。
しかし、革命の動乱が始まる前、ピエール=ジョゼフはマリー・アントワネットの名品コレクション室付きの画家に任命されており、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの詳細な伝記の著者シャルル・レジェは、この絵を最初に描いたのは要請をうけて修道院に出向いたピエール=ジョゼフだとしている。
植物画家の第一人者へ

王権が失われた後、革命勢力の指導者たちも、権力闘争に敗れて相次いで失脚。次々に処刑されていくという血生臭く、不穏な時代だった。王室付きの画家であったルドゥーテだが、ベルギー生まれの「外国人」である彼に身の危険が及ぶようなことはなかった。そして、そんな時代にあっても、植物学者たちは研究と観察の手を片時も休めることはなかったし、園芸愛好家たちは自宅の庭やアパルトマンの窓辺で花を咲かせ続けていた。先行きが見通せない不安な時代。希望の光がどこにも見いたせそうにない時代。そんな時代だったからこそ、人々は物言わぬ花や緑の植物に救いと癒やしを求めていたのである。
その頃、ピエール=ジョゼフがかつて毎日のように通いつめ、デッサンに励んだ「王立薬草園」は、新たに創設された自然史博物館の一部となっていた。ピエール=ジョゼフは、その自然史博物館付きの画家に任命される。いまや彼は、フランスにおける植物画の第一人者と認められるに至ったのだ。
前にも述べたが、ピエール=ジョゼフ以前にも植物画家がいなかったわけではない。しかし彼らは、絵としての見栄えだけを優先し、植物を正確に描くということには注意を払わなかった。形状はもちろん、時には色彩まで勝手に改変した。
それに対し、友人の植物学者シャルル・レリチエの導きで植物学の知識を身につけたピエール=ジョゼフは、花や植物をあくまでも正確に、精妙に描いた。しかも、その絵はきわめて美しかった。植物画の第一人者という評価を得たのは、けだし当然だったといっていいだろう。
ナポレオンとジョゼフィーヌ

ところで、当時、革命の救世主として急速に権力の座に近づきつつあったのが、地中海コルシカ島出身の軍人、ナポレオン・ボナパルトだった。ピエール=ジョゼフは、ナポレオンの妻で植物好きとして知られていたジョゼフィーヌ・ド・ボアルネに樹木類を描いた画集を献呈。彼女の知遇を得るようになる。
ジョゼフィーヌは、中米のフランス領マルティニーク島の出身。最初の夫との離別後、生きるために大物軍人や政府要人の愛人となり、社交界で華やかな生活を送っていたが、1796年、年下のナポレオンの求婚をうけて結婚。
その数年後──。
ジョゼフィーヌは、夫ナポレオンがフランス軍を率いてエジプト遠征に出かけている間に、30万フラン以上という大金をはたいて、ある銀行家からパリ西郊のマルメゾン城を買い入れた。エジプトから帰ってきたナポレオンは、妻の法外な浪費に激怒したが、もはや後の祭りだった。マルメゾン城は広さ約0.61㎢。森と牧草地からなる素晴らしい城館だった。しかし、ジョゼフィーヌが購入したとき、城はかなり荒れ果てており、大改修が必要だった。

ピエール=ジョゼフは、装飾画家となっていた兄のアントワーヌと共にジョゼフィーヌに呼ばれ、城の新たな内装の仕事を担当する。以来、しばしばマルメゾン城に出入りし、ジョゼフィーヌが庭園に植えたさまざまな樹木や植物をスケッチするようになっていく。
ピエール=ジョゼフはすでに結婚して家族を持ち、裕福な暮らしをするようになっていた。
彼がパリ市内に庭つきの新居を構えたとき、ジョゼフィーヌはマルメゾン城の庭園に植えられていた樹木2本を新居の完成祝いとして贈った。
代表作を続々出版

ピエール=ジョゼフは毎日精力的に仕事をし、美しい植物画集を相次いで出版していた。
『多肉植物図譜』(1799)、『ユリ科植物図譜』(1802〜16)、『マルメゾンの庭園』(1803〜04)。いずれも彼の代表作となっている画集だ。
1804年5月、ナポレオンはついにフランス皇帝の座に就いた。ジョゼフィーヌは皇后となり、ピエール=ジョゼフは皇后お抱えの画家として仕えるようになっていく。だが、1810年、ナポレオンは浪費癖と浮気癖のあるジョゼフィーヌを離別。オーストリア・ハプスブルク帝国の皇女マリー・ルイーズと再婚した。ピエール=ジョゼフは新しい皇后マリー・ルイーズのお抱え画家となり、彼女にデッサンの指導をするようになった。
マルメゾン城のバラ園

身から出た錆とはいえ、ジョゼフィーヌの失意と落胆はさぞ大きかったことだろう。救いは、マルメゾン城に住み続けるのを許されたことだった。
彼女は広大な庭園に新しいバラを次々に植栽し、より美しい花色の豪華なバラを作出するよう育種家たちを督励。前から手がけていたバラの栽培にますます熱中するようになっていった。

ピエール=ジョゼフはマルメゾン城のバラの開花期には、バラの前に座り込み、丹念にスケッチして長い時間を過ごした。こうして彼の最高傑作『バラ図譜』に収録される作品が少しずつ準備されてゆく。
16世紀から17世紀の初頭にかけて、フランスではバラはわずかに4種類しか知られていなかった。しかし、その後、園芸愛好家や育種家、植物学者たちの努力により急速に数が増加。ジョゼフィーヌのバラ園では約250種が栽培されていた。
最高傑作『バラ図譜』

『バラ図譜』は、ジョゼフィーヌの死後の1817年、パリの出版社フィルマン・ディドーから第1分冊が刊行され、第30分冊まで4年間にわたって刊行が続いた。その後、第2版、第3版も刊行されており、当時の大好評ぶりがうかがえる。『バラ図譜』に収められたピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの絵は計170葉。口絵として描かれたバラの花輪と、本編の169葉のバラの絵である。

最愛のバラ

私が最も熱愛するバラ「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」は『バラ図譜』の第25番目に登場する。「ロサ」はローズのラテン語読み、「ガリカ」は「フランスの」という意味で、古代のフランスがガリア地方と呼ばれていたことに由来する。そして「オフィキナリス」はラテン語で「薬用の」という意味。
現在知られているガリカ系ローズのほとんどが、このバラをもとにつくられたといわれている。また、中世のイギリスで王位継承をめぐって争ったバラ戦争で、ランカスター家の紋章となったのが、この「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」だった。
径8cmほどの深紅の花は半八重咲きで、まるで若い女優か歌姫のように、しどけなく、はんなりと咲く。そして、その花には官能をくすぐるムスク調の強く甘い香りがある。
花の期間は短く、咲いてから1週間もしないうちに散ってしまう。しかし、はらはらと散るそのはかなげな様子がまた素晴らしい。しかも、このバラは一季咲き。一度散ってしまえば、再び花を見るためには1年待たなければならないが、そのもどかしい感じも何やら辛い恋をしているようで、それなりの風情がある。
画家の晩年

1825年──。ピエール=ジョゼフは植物画を飛躍的に進化させた功績が評価され、政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された。彼はそれを機に美術アカデミーの会員に立候補したが、大きな壁が立ちはだかっていた。フランスの美術界には、宗教画や歴史画を描く画家を上位とし、植物画家を芸術家ではなく一種の職人と見なす風潮がまだ残っていたのだ。既存の会員の支持が得られず、彼は落選した。
70代の半ばを過ぎた頃から、ピエール=ジョゼフは生活にひどく困窮するようになった。
彼は若い頃から金銭には無頓着で、気前がよく、あれば派手に使ったし、友人たちをもてなすのも大好きだった。将来に備えて金を蓄えておくという考えは、彼にはまったくなかったのだ。
80歳を超えると、ピエール=ジョゼフは植物画家、花の画家として歩んできた自分の人生に想いをはせるようになった。
──忘れもしない。花の画家になろうと決心したのは13歳のとき……。
画家修業の旅の途中、アムステルダムの画廊で当時の巨匠ヤン・ファン・ホイスムの花の絵に出会ったのがきっかけだった。
思い出にふけるうちに、あるアイデアがピエール=ジョゼフの脳裡に浮かんだ。
──花の絵。これまで誰も試みたことのない巨大な構図の花の絵を描いてみよう!
何がいいだろうか? バラ、それともユリ? あるいはアマリリス?
ピエール=ジョゼフが新しい作品の制作に取りかかったというニュースは、またたくまにパリ中の植物愛好家たちの間に広まった。すると、時の政府のある大臣が、完成したら高額で買い取りたいと申し入れてきた。
──ありがたい。この貧苦の生活から抜け出せるかもしれない……。
ところが、ある役人が大臣に余計な進言をしたため、絵の購入話はご破算に。ピエール=ジョゼフは大きな衝撃をうけ、その衝撃から立ち直ることができなかった。
1840年6月──。
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテは、パリのセーヌ=サンジェルマン通りの自宅で静かに息を引き取った。葬儀には花や植物を愛する各界の要人たちが駆けつけ、心から彼の死を悼んだ。
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの故郷、ベルギーのサン・ユベール──。
彼の生家のある通りは、かつては「かまど通り」という奇妙な名前で呼ばれていたが、現在は「ルドゥーテ通り」と改称され、彼はベルギーの人々に自国が生んだ偉大な芸術家として記憶されている。
●前編はこちら『「バラの画家」ルドゥーテ 激動の時代を生きた81年の生涯(1)』
Credit
文/岡崎英生(文筆家・園芸家)
早稲田大学文学部フランス文学科卒業。編集者から漫画の原作者、文筆家へ。1996年より長野県松本市内四賀地区にあるクラインガルテン(滞在型市民農園)に通い、この地域に古くから伝わる有機栽培法を学びながら畑づくりを楽しむ。ラベンダーにも造詣が深く、著書に『芳香の大地 ラベンダーと北海道』(ラベンダークラブ刊)、訳書に『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアーヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社刊)など。
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