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「王妃の水」の香りに想いを馳せて

「王妃の水」の香りに想いを馳せて

Lee Yiu Tung/Shutterstock.com(右)

フランスのロワールの古城より一つの物語をご紹介します。それは、「王妃の水」のお話。1533年、フランスのアンリ2世のもとへ、カトリーヌ・ド・メディチが嫁いだ時のこと。故郷フィレンツェの修道院の修道士たちに発注した香水は、現代も販売され、私たちも手に取ることができます。そんな歴史ある「王妃の水」について、イタリア、フィレンツェにある「サンタ・マリア・ノッヴェラ薬局」の歴史と共に、バラ文化と育成方法研究家で「日本ローズライフコーディネーター協会」の代表を務める元木はるみさんに教えていただきます。

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歴史的香水の誕生の地
イタリアの古都フィレンツェ

フランス・ロワール地方
カトリーヌの嫁ぎ先、フランス・ロワール地方の現在。

1533年9月2日、フランスのフランソワ1世(1494 – 1547年)と王妃クロード・ド・フランスの次男であり、後のヴァロワ朝第10代のフランス王アンリ2世となるアンリ(1519 – 1559年)のもとに、イタリアのフィレンツェから嫁いできたのは、ウルビーノ公ロレンツォ2世・ド・メディチを父にもつ、カテリーナ(フランス名:カトリーヌ)(1519‐1589年)でした。この時、アンリもカトリーヌもわずか14歳でした。

イタリア・フィレンツェ
カトリーヌの故郷であるイタリア・フィレンツェの現在。

カトリーヌは、フィレンツェを出発し、60隻の艦隊が待つマルセイユ港に着きましたが、カトリーヌが乗り込んだ船には、金襴と深紅の帆が張られ、多額の持参金と彼女専用の料理人や使用人、そして彼女専用の香水の調香師たちが乗っていたといわれています。

当時のイタリアのフィレンツェは、フランスよりも先を行く文化、芸術の最先端の地であり、ルネサンスの中心地でもありました。

カトリーヌのために調合された香水「王妃の水」

アックア・デッラ・レジーナ(王妃の水)

カトリーヌがアンリのもとへ嫁ぐ際に、カトリーヌのために調合されたといわれる香水が「アックア・デッラ・レジーナ(王妃の水)」です。現在も、「サンタ・マリア・ノヴェッラ」の名で販売されています。

オレンジ・ベルガモット・ラヴェンダー、ローズマリーなどが調合されています。

フィレンツェから嫁いできた14歳のカトリーヌを待ち受けていたのは、「外国人」や「商人の娘」などの陰口や差別、そして、アンリ2世が生涯愛した20歳も年上の寵妃ディアーヌ・ド・ポワティエの存在でした。そんな苦境の中、支えとなったものの一つに、彼女のために作られたこの香水(現在はオーデコロン)の力があったのではないでしょうか。

オーデコロン
Serena Carminati/Shutterstock.com

改めて、「王妃の水」に調合されている香りについて考えてみますと、集中力や記憶力を高めるといわれるローズマリー、精神安定効果や安眠効果があるといわれるラヴェンダー、主に抗うつ作用や鎮静効果、リフレッシュ効果があるといわれるベルガモットやオレンジといった柑橘系。

イタリアの柑橘園
イタリアの柑橘園。Dionisio iemma/Shutterstock.com

イタリアはオレンジやベルガモットの産地です。つまり故郷の香りも調合されていたことを思うと、当時の修道士たちがカトリーヌのために、どう考案して調合したのかが、少し見えてくるような気がします。真意は当時の修道士たちに聞いてみないと分かりませんが…。

カトリーヌ・ド・メティチ
カトリーヌ・ド・メディチ。

カトリーヌがアンリと結婚してから3年目に、アンリの兄である王太子フランソワが亡くなり、アンリは王太子へ、カトリーヌは王太子妃となりました。

アンリ2世には、彼が亡くなるまで寵妃であったディアーヌ・ド・ポワティエの存在があったことから、カトリーヌにとっては苦難の結婚ではありましたが、アンリとの間に、9人の子(3人は幼児の時に他界)を授かることができました。

1547年、フランソワ1世が亡くなり、アンリはフランス王へ、カトリーヌは王妃となりました。

「王妃の水」を現在も作り続ける「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
「サンタ・マリア・ノッヴェラ薬局」のすぐ近くにある「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」。

世界最古の薬局といわれる「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」は、「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の前身で、カトリックの中でも最も古い宗派の一つであるドミニコ会の修道院「サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェ」が、1221年にフィレンチェに移り、その修道士たちが修道院の庭で栽培していたハーブや花、薬草を用いて調合し、薬を作ったのが始まりといわれています。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の中庭。

数々の薬の中には、バラの花を用いて、解毒浄化、鎮痛、目薬用に、ローズウォーターも作られていました。また、香水を作る技術も持っていたといわれ、1533年、カトリーヌは、この修道院の修道士たちにフランスに嫁ぐにあたり香水を発注し、「王妃の水」と呼ばれる「アックア・デッラ・レジーナ」が誕生しました。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局
フィレンツェのスカーラ通り16番が「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」の入り口。
メディチ家の紋章
メディチ家の紋章は薬玉。

薬局として認可されたのは1612年で、一般営業を開始し、メディチ家からの協力を得て、王家御用達製錬所の称号を受けました。

オーデコロンの起源

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局
イタリアの「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」店内。simona flamigni/Shutterstock.com

18世紀になると、ジョヴァンニ・パオロ・フェミニスが、旅の途中に立ち寄ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で「王妃の水」のレシピを手に入れたといわれています。これをもとに、彼が1725年からコローニア(ケルン)市に居を構えて生産を始めたのが「ケルンの水」と呼ばれる「アックア・ディ・コローニア」です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の香水瓶
「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」の古い香水瓶。simona flamigni/Shutterstock.com

フランス語で、Eau de Cologne(オー・ド・コローニュ)といわれるように、この「ケルンの水」がオーデコロンの起源と考えられています。このオーデコロンは、イタリア人調香師ジョヴァンニ・マリーア・ファリーナにレシピが伝わって製造が続けられ、その後、「七年戦争」(1756〜1763年)時に、ケルンに滞在していたフランス軍の兵士たちが、このオーデコロンを持ち帰りフランスに広めました。

また、カトリーヌが輿入れの際、連れてきた調香師は、フランスのグラースなどで花々を香水作りに活用し、後のフランスの香水産業に貢献することとなりました。

王妃の水

「王妃の水」の香りを嗅ぎながら、カトリーヌの置かれた環境や想い、また、カトリーヌのためにこの香水を調合した故郷の修道士たちの想いに、心を重ねてみてはいかがでしょうか。

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