百年戦争の後にイギリスで発生した内乱、薔薇戦争(Wars of the Roses)。王位継承をめぐる、赤バラを紋章にしたランカスター家と白バラを紋章にしたヨーク家の争いは、薔薇戦争と呼ばれ、バラを愛する国、イギリスの歴史を大きく変えた出来事でした。現代、バラを庭で育てる人にも知ってほしい薔薇戦争と現代につながるバラについて、バラ文化と育成方法の研究家で「日本ローズライフコーディネーター協会」の代表を務める元木はるみさんに解説していただきます。

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赤バラと白バラの戦い

テューダーローズ
Jane Rix/Shutterstock.com

バラがお好きな方なら、「薔薇戦争」のことはよくご存じかと思います。

1455年~1485年、イギリスで起こった王位継承権を争うランカスター家とヨーク家の戦いで、それぞれの紋章が、ランカスター家は赤いバラ「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」、ヨーク家は白いバラ「ロサ・アルバ」であったため、「薔薇戦争」と呼ばれました。

チューダーローズ
赤バラと白バラが重ねられた紋章「テューダー・ローズ」。Jane Rix/Shutterstock.com

いつ頃から「薔薇戦争」と呼ばれたかは不明ではありますが、ヨーク公リチャードが、フランスとの100年戦争に負けて気を病んだといわれる、当時のイングランド王ヘンリー6世に対して反乱を起こしたのが始まりです。最初はヨーク家が勝利し、ヨーク公リチャードの息子エドワード4世、その息子エドワード5世、エドワード4世の弟リチャード3世と、ヨーク家がイングランドの王位に3代続いて就くことができました。しかし、エドワード5世とリチャード3世が内輪もめで戦い、リチャード3世が勝利すると、それに不満を持った貴族たちが、ランカスター家を復活させようと、気を病んだヘンリー6世の異父兄弟のヘンリー・テューダーを担ぎ出し、リチャード3世に対抗しました。そして、ヘンリー・テューダーが、ボースワースの戦いでリチャード3世に勝利し、ヨーク朝のエドワード4世の娘であり、リチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークを妃に迎えて薔薇戦争を終結させ、イングランド王ヘンリー7世となり、テューダー朝が始まりました。

20ペンスコイン
イギリスで発行された七角形の20ペンスコインにも王冠をいただくチューダー・ローズが刻印されています。表面は女王エリザベス2世の肖像が。Scruggelgreen/Shutterstock.com

そして、赤バラと白バラが重ねられた紋章「テューダー・ローズ/Tudor rose(別名ユニオン・ローズ/Union rose)」の紋章ができ、現代の女王、エリザベス2世にも、その紋章が引き継がれています。

このように「薔薇戦争」と呼ばれたのは、争った家の紋章がバラをモチーフにしていたのが理由で、生花のバラとはあまり関係が無かったのでしょうか。ここからは「薔薇戦争」とその後を振り返りながら、実際のバラの世界との関係を考えてみたいと思います。

ヘンリー7世の息子ヘンリー8世

ヘンリー8世
Andy Lidstone / Shutterstock.com

ヘンリー7世の二男で、兄アーサーの死により、王位に就いたヘンリー8世(Henry VIII, 1491-1547年)は、薔薇戦争に翻弄された父や母、薔薇戦争そのものへの思いから、男子の世継ぎを切望したといわれます。統治者としてのカリスマ性もありましたが、自身の意にそぐわない人物を反逆罪として処刑した件数も多く、また、6度の結婚とそれに伴う非道ともいえる離婚劇などでも有名です。

ヘンリー8世と6人の妃たち

ヘンリー8世とその妻
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1度目の結婚は、亡き兄アーサーの妻であったスペインのキャサリン・オブ・アラゴンとの政略結婚でした。ヘンリーとの間に6人の子をもうけましたが、成長したのはたった1人。後のメアリー女王だけでした。世継ぎとなる嫡出の王子を切望していたヘンリーは、王子が生まれないために、王妃キャサリンとの結婚は無効であると主張し、その侍女のアン・ブーリンとの再婚を希望しました。そして、それを認めなかったカトリック教会から離脱し、また国王至上法を発布すると、自らイングランド国教会の長として宗教革命まで起こして結婚の無効性を認めさせ、アン・ブーリンとの再婚を果たしたのでした。

アン・ブーリン
ヘンリー8世の2番目の王妃、アン・ブーリンが描かれた切手。Andy Lidstone / Shutterstock.com

2番目の妻アン・ブーリンと再婚を果たしたヘンリーは、彼女との間に、後のエリザベス1世をもうけますが、やはり世継ぎとなる王子が誕生しないまま、いろいろな罪を着せてアン・ブーリンを逮捕、処刑してしまいます。

そして、処刑の翌日には、アン・ブーリンの侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、10日後には結婚しています。

ジェーン・シーモア
ヘンリー8世の3番目の王妃、ジェーン・シーモアが描かれた切手。 Andy Lidstone / Shutterstock.com

3番目の妻ジェーン・シーモアは、ヘンリーにとって待望の世継ぎの男子エドワード王子(後のエドワード6世)を出産しますが、出産後すぐに命を落としてしまいます。

その後ヘンリーは、側近のトマス・クロムウェルに、次の王妃を探させます。クロムウェルはユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の姉、アン・オブ・クレーヴズを、4番目の王妃としてヘンリーに推薦し、2人は結婚します。しかし、結婚後すぐにヘンリーは、結婚の無効を主張し、アン・オブ・クレーヴズもそれを受け入れます。

キャサリン・パー
ヘンリー8世にとって最後の結婚となる王妃、キャサリン・パーが描かれた切手。irisphoto1 / Shutterstock.com

ヘンリーは、5番目の妻となった若いキャサリン・ハワードにもいろいろな罪をきせ、逮捕、処刑しています。そして、最後となる6番目の妻キャサリン・パーは知的な人物であったため、エドワード王子の教育を任されます。また、キャサリンは庶子の身分となっていたメアリー、エリザベスにも心を配り、エドワード王子の下ではありますが、王位継承権を復活させました。

ヘンリー8世亡き後

イングランド女王メアリー1世
イングランド女王メアリー1世が描かれた切手。原画は、1554年にアントニス・モルによって描かれた肖像画。 Sergey Goryachev / Shutterstock.com

1547年、ヘンリー8世が逝去すると、唯一の男子エドワード王子は、わずか9歳でエドワード6世としてイングランドの王位に就くことになりました。しかし、生まれつき体が弱かった若き王は、15歳でこの世を去ってしまいます。

その後、ヘンリー8世の最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に誕生したメアリーが女王となります。敬虔なカトリック信者であったメアリー1世は、父のヘンリー8世が行った宗教改革を覆し、ローマ教皇を中心とするカトリック世界に戻しました。そこで、メアリーはプロテスタントを迫害し、約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれます。1558年、メアリー1世は病死し、次の王位継承者である異母妹のエリザベスが、25歳の時に女王エリザベス1世となります。

エリザベス1世の功績

エリザベス1世の母は、先程も触れましたようにヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンです。実の父ヘンリー8世によってロンドン塔に送られ、ギロチンの刑に処された母親…エリザベスはその時わずか2歳8カ月でした。エリザベス1世は女王になると、まずメアリー1世が行ったローマ教皇を中心とするカトリック世界を覆し、父ヘンリー8世が行った国王至上法と英国国教会体制を確立しました。そして、スペインの無敵艦隊を撃退し、貿易に力を入れ、1600年12月31日に、イギリスの独占的な東洋貿易を進めるために「イギリス東インド会社」を設立させました。エリザベス1世は生涯独身を貫き、国のために尽くした女王であったようです。エリザベス1世の死と共に、テューダー朝は幕を閉じました。

東インド会社とバラ

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Tethys Imaging LLC/shutterstock.com

19世紀、東インド会社の社員として中国に駐在していた英国人ジョン・リーヴスは、本国へお茶を輸出する仕事をしていましたが、植物の蒐集も行っており、1808年、アレクサンダー・ヒューム卿に、中国のバラの木を送りました。このバラの花は、お茶のような香りがあったため、香りのバラという意味の「ロサ・オドラータ」という名前が付けられ、「ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ」と呼ばれました。四季咲きで大変な人気を博し、ティーローズの系統の作出に貢献しました。

バラ ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ
‘ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティッド・チャイナ’

他にも、中国のバラが商人やプラントハンターによって、インドを経由し、ヨーロッパに渡ることになりました。そして、あのバラの蒐集で有名なナポレオンの最初の妃ジョゼフィーヌのマルメゾン城の庭園へもバラが集められ、そこで働くアンドレ・デュポンらによって、人工交配の技術が磨かれ、バラの新品種誕生に繋がっていったのでした。

マルメゾン城
ジョゼフィーヌがバラを集めたマルメゾン城。

また、ベルギー出身の宮廷画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテがマルメゾン城のバラを描いた『Les Roses バラ図譜』を1817年に完成させていますが、これは当時のバラの重要な資料となり、現代ではアートとしても高い人気を誇っています。

Les Roses バラ図譜

『Les Roses バラ図譜』の中には、「ロサ・インディカ」と記された東インド会社経由でヨーロッパに持ち込まれたバラと見られる画がいくつかあります。このように、薔薇戦争が、その後のバラの世界に与えた影響は、決して小さなものではなく、実は大きかったのかもしれません。

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Credit

写真&文/元木はるみ
神奈川の庭でバラを育てながら、バラ文化と育成方法の研究を続ける。「日本ローズライフコーディネーター協会」代表。近著に『アフターガーデニングを楽しむバラ庭づくり』(家の光協会刊)、『ときめく薔薇図鑑』(山と渓谷社)など。TBSテレビ「マツコの知らない世界」で「美しく優雅~バラの世界」を紹介。
http://roseherb.exblog.jp

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