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花を植えて甦った町 南仏フルーランスの奇跡

花を植えて甦った町 南仏フルーランスの奇跡

LedyX/Shutterstock.com

「さあ、私たちの町を花でいっぱいにしましょう!」──。 
新しい市長のその一言で、長年の沈滞から甦った町があります。花いっぱいの町で暮らす幸せと喜びに誘われて、近隣から移り住む人も増加。町には今、笑顔と活気が溢れています。

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花の町

フルーランス──。

それは「花の町」という意味。

そして、この美しい町の名前のお手本となったのは、花の女神フローラの住む町とされているイタリアの古都フローランス(フィレンツェ)。

中世に町が築かれたとき、フローランスのような繁栄をという願いをこめて、フルーランスと命名されたのです。

繁栄から沈滞へ

アルマニャック
アルマニャック。

フランス南東部のアキテーヌ盆地にあるこの町は、15世紀頃から毛織物業で栄え、その後、瓦や靴や羽根ペンの製造業、ブランデーの醸造業などが勃興。とりわけブランデーは「アルマニャック」という名でコニャックと並ぶ世界的なブランド酒となり、フルーランスはその産地の一つとして発展しました。

しかし、第二次世界大戦が始まった頃から人口が激減。戦後になってもかつてのにぎわいは回復せず、町は長い沈滞のスパイラルに入ってしまいました。

企業や商店の閉鎖、子どもの減少に伴う学校の統廃合。暗いニュースが相次ぎ、市民たちは意気消沈する一方でした。また、郊外では木材業者による森林破壊が急速に進行。農村部では、無計画な作物栽培で地力の衰えた畑に、農民たちが大量の化学肥料や農薬を投入。かえって土壌を劣化させるという悪循環に陥っていました。

そんな時、フルーランスの市長に選ばれたのが、薬草療法家として成功していたモーリス・メッセゲでした。

新市長モーリス

ハーブ
Valentina_G/Shutterstock.com

モーリスは薬草療法の方法と技術を何百年も伝承してきた家系に生まれ、幼い頃から父親とともに山野を歩き回り、薬草についての知識を深めました。

家業を継ぐため地中海沿岸のリゾート都市ニースに出て、薬草療法のサロンを開いたのは1945年、24歳のとき。初めはまったく客が来ず、生活はたちまち困窮。日々の食事もままならぬほどでしたが、やがて評判が口コミで伝わり、サロンは連日、治療を待つ人たちでいっぱいに。

薬草療法家としてのモーリスの名声は、フランス国内はもとより、ヨーロッパ中に広まっていきました。

サロン
Witthaya lOvE/Shutterstock.com

各界の著名人たちも次々にモーリスに治療を依頼するようになりました。詩人のジャン・コクトー、画家のユトリロ、英国のチャーチル首相、英王室のマーガレット王女、オランダのユリアナ女王、フランスのジスカール・デスタン大統領。

ハリウッドの映画女優からモナコ公国の公妃となったグレース・ケリーも、モーリスの薬草療法に絶大な信頼を寄せた一人でした。

反感と告発

けれども、名声が高まれば高まるほど、医師たちの中にはモーリスに反感を抱く者が増えていきました。そのため彼は、医師免許を持っていないのに医療行為を行っているとして告発され、何度も法廷に立たなければなりませんでした。

フルーランスの市長になる3年前にも医師法違反で告発され、香水産業で有名なグラースという町の裁判所に出頭するよう命じられました。

執拗に繰り返される告発──。

そのたびに耐え忍ばなければならない心労に疲れ果て、「もう何もかも投げ出したい気分だった」とモーリスは後に語っています。

有利な証言

薬草療法
MAXSHOT-PL/Shutterstock.com

しかし、グラースの法廷での審理が始まったとき、モーリスの弁護人は彼の薬草療法を絶賛する患者1万数千人分の証言を集めていました。

さらにはモーリスに治療してもらい、その技の素晴らしさを身をもって体験した医師たち数人も、モーリス側の証人として出廷していました。

その中の一人、ある女性医師はこう証言しました。

「科学は偉大な力を持っていますが、しかしその科学にも限界があります。湿疹に悩んでいた私の娘を治してくれたのは、医師免許を持っている私ではなく、モーリス・メッセゲ先生だったのです」

裁判はモーリス側の勝利で終わりました。

そしてそれ以降、彼が告発されることはもう二度とありませんでした。

薬草療法は、正規の医学を補完する代替医療としての地位を確立したのです。

新市長モーリスの提案

ジェール川
ジェール川。

フルーランスは水の豊かな土地で、ジェール川、アンクーペ川、ウルティーヌ川という大小3本の川が町を潤しています。そして南には、ピレネー山脈の標高2,000〜3,000m級の山並みを望むことができます。

しかし、モーリスが市長に就任したとき、人々はこの美しい町に住んでいるという誇りも自信も失っていました。

モーリスはまず、その誇りと自信を回復させなければなりませんでした。そこで彼は、こう提案しました。

「私たちの町を花でいっぱいにしましょう」

モーリスの提案を聞いた市民たちは、久しく忘れていたフルーランスという町の名前の由来を思い出しました。

そして、花いっぱい運動に積極的に参加。町の広場をはじめ、街路樹の下の木陰に、交差点に、小川の岸辺に、いたるところに色とりどりのさまざまな花を植えていきました。

甦った町

花の町
LedyX/Shutterstock.com

すると、目覚ましい変化が起きました。

近隣の町々からフルーランスに移り住む人が増え、出生率が大幅に向上。長年、3,000〜4,000人台で低迷していた人口は、5,000人台を突破。その数年後には約6,000人となり、モーリスが市長に就任してからの10年間で1,000人も人口が増加する結果となったのです。

町のカフェや酒場はにぎわいを取り戻しました。新たな幼稚園や小学校がつくられ、花の町の美しさを伝え聞いて訪れる観光客のために、ホテルも次々に開設されました。

人々が希望を失い、暗く打ち沈んでいたフルーランスは、笑顔が溢れる花いっぱいの町となって甦ったのです。

「自然は正しい」

モーリスは32歳のとき、『自然は正しい』という本を50部だけ自費出版しました。出版社に断られたため、仕方なく自費出版したのでしたが、この本が欧米諸国で10カ国語に翻訳され、20年間で累計500万部も売り上げるという大ベストセラーになりました。

その印税の使い道を探していたモーリスは、フルーランス郊外の森を買い取り、森林破壊にストップをかけました。そして、森の近くに広大な農園を開設。バラ2万株、ラベンダー1万株のほか、ローズマリー、タイム、セージを栽培し、化粧品や健康食品、ハーブティーなどを製造する「エルブ・ソヴァージュ」(野生の草)という会社を設立。製品を日本をはじめ、世界中に輸出するようになりました。

エルブ・ソヴァージュ社は社名をモーリス・メッセゲ社に変更しましたが、「自然は正しい」を今も社是としています。

そして、現在

モーリスは1989年まで市長を務め、2017年6月、95歳で亡くなりました。

フルーランスには現在、公立と私立の幼稚園や小中学校が数校ずつあり、ホテルは5施設が営業中。この地方独特の郷土料理と美味しいアルマニャック酒、心癒される美しい景観に誘われてやって来る大勢の人々でにぎわっています。

Credit

文/岡崎英生(文筆家・園芸家)
早稲田大学文学部フランス文学科卒業。編集者から漫画の原作者、文筆家へ。1996年より長野県松本市内四賀地区にあるクラインガルテン(滞在型市民農園)に通い、この地域に古くから伝わる有機栽培法を学びながら畑づくりを楽しむ。ラベンダーにも造詣が深く、著書に『芳香の大地 ラベンダーと北海道』(ラベンダークラブ刊)、訳書に『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアーヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社刊)など。

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