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赤いポピーの物語~その歴史や毒性、数多い品種をご紹介

赤いポピーの物語~その歴史や毒性、数多い品種をご紹介

Piotr Krzeslak/Shutterstock.com

美しい花を咲かせるポピーは、世界中で多くの人に愛されている花。その反面、麻薬の原材料となるケシが同属であり、どこか妖しい魅力も放ちます。ポピーには多様な花色がありますが、その中でも数多くの物語に登場するのは鮮やかな赤い花を咲かせるポピーです。ローズアドバイザーの経歴を持ち、数々の文献に触れてきた田中敏夫さんが、その概要や魅力、種類、そして赤いポピーの物語についてご紹介します。

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物語を彩る“赤い”ポピー

赤いポピー
Photo/Мыльникова Оксана [CC BY 4.0 via Wikimedia Commons]

世界中で広く愛されているポピー(Papaver rhoeas:ケシ属ヒナゲシ種)。赤、ピンク、イエローなど花色も豊富ですが、中国、ヨーロッパの語り継がれている物語に登場するのは“赤い”ポピーです。今回はそんなポピーの魅力や、赤いポピーにまつわる物語をご紹介します。

まずは、日本で多く栽培されるポピーの主な園芸種について整理していきましょう。

ポピーの主な園芸種

日本で園芸種として多く出回っているのは、アイスランド・ポピー、ポピー/ヒナゲシ、オリエンタル・ポピーの3種です。この3種に加え、“ヒマラヤの青いケシ”と呼ばれる近縁種のメコノプシスもご紹介します。

アイスランド・ポピー(P. nudicaule

アイスランドポピー
Photo/ David Monniaux [CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons]

3月頃、早咲き球根などと競うように開花するのがアイスランド・ポピーです。学名のnudicaule(ヌディカウレ種)には、茎の繊毛が目立たない、“ヌード”のケシの意味があります。

18世紀にシベリアで発見されたので、当初はシベリア・ヒナゲシと呼ばれていましたが、語呂がよいのかアイスランド・ポピーという呼称が一般的となりました。国であるアイスランドとの直接の関連はないそうです。

早咲き、豊富な花色、小さな株姿、ポピーの中では比較的花もちがよいという特徴があります。

ポピー/ヒナゲシ(P. rhoeas

ポピー
Photo/Agnieszka Kwiecień, Nova [CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons]

一般的なポピーと言うと、こちらのロエアス系の園芸種でしょう。rhoeas(ロエアス種)は“赤花”ケシという意味です。別名はヒナゲシ、虞美人草、フランス語ではコクリコ(Coquelico)。原野に群生している風景が美しい動画で紹介されたり、モネの絵画などでも題材とされたり、また言葉の響きが素敵なことから、最近はコクリコという名のほうが一般的になっているのかもしれません。

オリエンタル・ポピー(P. orientale

オリエンタルポピー
Photo/ Dominicus Johannes Bergsma [CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons]

オリエンタレ種は“東洋”のケシの意味で、原種はトルコ、イランなどを原産とします。鬼ゲシとも呼ばれる大輪・大株となる大型種で、大輪花を楽しむことができます。

ポピーは本来宿根性があるのですが、このオリエンタル・ポピーは日本の高温多湿な夏を越すことが難しいようです。ボリュームいっぱいの大株から太い花茎があがり、豪華に花咲く姿を観賞することはとても楽しいのですが、梅雨に入ると、軟腐病に感染することがよくあります。羅病してしまい、黒変して腐った株を目の当たりにするのはとても悲しいものです。

メコノプシス・ベトニキフォリア(Meconopsis betonicifolia:ケシ科メコノプシス属)

メコノプシス
Photo/Bernard Spragg. NZ from Christchurch, New Zealand, CC0, via Wikimedia Commons

ケシ属の近似種であるヒマラヤの青いケシ、メコノプシス。難渋しながら登りつめた礫岩がころがる高地に、ひっそりとスカイブルーの花がうつむき加減に咲いているという話にはロマンを感じさせます。

青い花を咲かせる原種のケシはいくつかあり、大輪花の園芸種も育種されていますが、“ヒマラヤの青いケシ”といえば本種ベトニキフォリア(M. betonicifolia:betonica/カッコウソウの葉に似た)を指すことが多いようです。

ヒマラヤの青いケシという一般名が示すとおり、中国雲南省北西部やチベットでわずかに自生しているようです。

栽培が禁止されているケシ

ケシ属には、ここまでご紹介したヌディカウレ種(P. nudicaule:アイスランド・ポピー)、ロエアス種(P. rhoeas:ヒナゲシ)、オリエンタレ種(P. orientale:オリエンタル・ポピー)を元品種として多くの美しいポピー園芸種があり、全体が「ポピー」として広く愛されています。しかし、同じケシ属のなかには、一般的な栽培が法的に禁止されているもの、また、要注意外来生物とされている種もあります。そのような栽培が禁止されているケシについても解説しましょう。

モルヒネを含有していることから「あへん法」により一般的な栽培禁止されているのが、ソムニフェルム種(P. somniferum:ケシ)とセティゲルム種(P. setigerum:アツミゲシ)、「麻薬及び向精神薬取締法」により栽培が禁止されているのがブラクテウム種(P. bracteatum:ハカマオニゲシ)です。

ソムニフェルム種(P. somniferum:ケシ)

ソムニフェルム種
Photo/Parent Géry [CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons]

アヘンを含有することから、薬剤の原料生産として厳重な管理下のもとで栽培されているのが、ソムニフェルム種、一般的に言う“ケシ”です。野生種のほか、かつては牡丹のような大輪・多弁花を咲かせる園芸種がボタンゲシとして流通している時代もありました。

セティゲルム種(P. setigerum:アツミゲシ)

セティゲルム種
Photo/unknown [Public domain via Wikimedia Commons]

北アフリカ原産の一年草ですが、かつて愛知県の渥美半島に帰化して大繁殖したことがあり、アツミゲシという別名でも知られています。

ブラクテウム種(P. bracteatum:ハカマオニゲシ)

ブラクテウム種
Photo/Daniel Jolivet [CC BY 2.0 via Wikimedia Commons]

ブラクテウム種はハカマオニゲシという品種名から推察できるように、園芸種のオリエンタル・ポピー/オニゲシにそっくりで、識別が困難なので注意が必要です。萼が大きめでハカマ(袴)をはいているように見えることからその名があります。オニゲシを種子から栽培するときなどは信頼のおける供給元を選ぶなど、意図せず栽培してしまわないようくれぐれもご注意ください。

デュビウム種(P. dubiumu:ナガミヒナゲシ)

ナガミヒナゲシ
Photo/John Haslam [CC BY 2.0 via Wikimedia Commons]

栽培が禁止されているわけではありませんが、繁殖力がきわめて強く自生地が各地に拡散していることから、自治体によっては栽培を制限されているのが、デュビウム種(P. dubiumu:ナガミヒナゲシ)です。田畑の畔や空き地などでオレンジに花咲くポピーが群生しているのを見かけた方は多いのではないでしょうか。「ナガミ(長実)」という名前のとおり、結実が他の種に比べ細長いのが特徴です。

以前は「要注意外来生物リスト」にリストアップされていましたが、こちらのリストは「生態系被害防止外来種リスト」の制定に伴い廃止されています。とはいえ、繁殖させないように注意が必要です。

ケシ属の栽培禁止種等についての詳細は、厚生労働省が発行した『大麻・けしの見分け方』をご参照ください。

赤いポピー物語

ポピー
群生するポピー。Photo/ Agnieszka Kwiecień [CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons]

ポピーは本当に素敵です。だからこそ、多くの人に愛され、物語が伝えられているのでしょう。いろんな色があるけれど、ポピーはやっぱり赤い花。そんな赤いポピーにまつわる物語をいくつかご紹介します。

先ほども少し触れましたが、ポピーの和名はヒナゲシ(雛罌粟)。また、秦末の武将・項羽の愛人にちなんだグビジンソウ(虞美人草)や、フランス語のコクリコ(Coquelico)という呼び方も心地よい響きがします。

赤いポピーの物語その1
第一次大戦の戦死者を悼むシンボルとしての“赤い”ポピー

ヨーロッパでは死んだ兵士たちを象徴するのも赤いポピー。だから、野に群れ咲く赤いポピーは、戦いの中で散った多くの命を忘れないためのモニュメントです。

1918年11月11日は第一世界大戦において連合軍とドイツの休戦協定が締結された日、すなわち大戦が終結した日です。

そのことから、毎年11月11日にはヨーロッパの各国で追悼式典が開催されています。11月になると、赤いポピーをかたどった造花が男性のスーツのボタンホールに差されていることに気づかれた方も多いのではないでしょうか。赤いポピーは戦没兵士を悼む徴、リメンバランス・ポピー(Remembrance Poppy:“思い出のポピー”)です。

Remembrance poppy
Remembrance poppy。Photo/ Dave Crosby from Devon, England, [CC BY-SA 2.0 via Wikimedia Commons]

なぜ赤いポピーが戦没者を悼む象徴となったのか。それには以下のような経緯がありました。

第一次大戦は戦傷者が多い戦争でした。それは各国がかつて経験したことがないほどでした。ドイツ軍とフランス、イギリスなどの連合軍が対峙して前線が膠着した“西部戦線”は、小説や、映画化された『西部戦線異状なし』などでもよく知られています。

膠着状態が続くなか、各国は兵士、戦費の不足に苦慮します。イギリスにおいて、戦時中から債券公募のキャンペーンに利用されたのが、カナダ軍の将校でもあった詩人ジョン・マクラー(John McCrae)が、1915年に戦死した友人にささげた『フランダースの野において(In Flanders Fields)』でした。

多くの翻訳があるのですが、参照しながら訳してみました。

戦時公債募集のポスター
詩の一節が載せられた戦時公債募集のポスター。Illustrate/Frank Lucien Nicole [Public domain via Wikimedia Commons]

フランダースの野において

フランダースの野にポピーはそよぐ(In Flanders fields the poppies blow )

よせる波のように連なる墓標のあいだに(Between the crosses, row on row, )

そこはぼくらのやすらぎの場所、

ヒバリはいまでも空高く舞い上がり、勇ましく囀るけれど(That mark our place; and in the sky The larks, still bravely singing, fly )

地表にとどろく砲声ゆえに、わずかに聞こえるだけ。(Scarce heard amid the guns below. )

ぼくらは死んだ…数日まえまで(We are the Dead. Short days ago)

ぼくらは生きていたのだ。朝日を感じ、暮れなずむ夕陽をみつめて(We lived, felt dawn, saw sunset glow,)

愛し、愛されていた。けれども今は(Loved and were loved, and now we lie )

フランダースの野に横たわっている。(In Flanders fields. )

敵との戦いを引き受けてくれ(Take up our quarrel with the foe:)

ぼくらはなえる手からかがり火を投げる。

きみたちがそれを高くかかげられるように(To you from failing hands we throw The torch; be yours to hold it high.)

もしきみたちが、死んでしまったぼくらを裏切ってしまうなら(If ye break faith with us who die )

ぼくらは眠らない、フランダースの野にポピーが生い茂っていたとしても(We shall not sleep, though poppies grow In Flanders fields.)

ポピー
Patryk Kosmider/Shutterstock.com

赤いポピーの物語その2
印象派の最初の絵画

クロード・モネの『アルジャントゥイユのひなげし(Les Coquelicots à Argenteuil)』(『ひなげし』とも)は、1873年、『印象・日の出(Impression, soleil levant)』とともに第1回印象派展に出展され、批評家たちの酷評を受けました。

評論家のルイ・ルロワはレビュー記事において、モネの作品を揶揄しつつ、この展覧会を「印象主義の展覧会」と評しました。はからずもこの評が定着し、展覧会に出展した作家たちは、後に「印象派」と呼ばれることになりました。

この作品は、当時モネが住んでいたアルジャントゥイユの野に群生するヒナゲシ(コクリコ)を楽しむモネの最初の妻カミーユと長男のジャンを題材にしたといわれています。

クロード・モネ『アルジャントゥイユのひなげし』
『アルジャントゥイユのヒナゲシ(Les Coquelicots à Argenteuil)』Painting/Claude Monet [Public domain via Wikimedia Commons]

赤いポピーの物語その3
虞美人草/グビジンソウと呼ばれる由来

紀元前100年頃、漢の武帝の治政下、吏官であった司馬遷が残した史書『史記』。奈良時代には日本にももたらされていたといわれます。

史記、本紀7巻『項羽本紀』が伝える猛将が項羽です。楚の将軍であった項羽は身の丈8尺2寸(190cm)、貴人の相と言われる重瞳(チョウドウ:眼球に2つの瞳孔がある)であったと伝えられています。

勇猛果敢、しかし投降した兵をすべて生き埋めにして殺すなど残虐さで知られていました。後に漢の祖となる劉邦と戦功を競い合うようになりますが、劉邦はやがて軍を分けて漢を起こし、楚に残った項羽と敵対するようになりました。はじめ優勢であった項羽でしたが、次第に劣勢となっていきます。

本拠地垓下(ガイカ)に籠城していた夜、宿営している兵の歌が聞こえてきます。それは自国である楚の歌でした。項羽はかつて指揮していた楚の兵でさえ今は自分に抗しているのだと知ります。これが有名な「四面楚歌」の逸話です。

力は山を抜き 気は世を蓋(オオ)う

時利あらず 騅(スイ:項羽の愛馬)逝(ユ)かず

騅逝かざるを 奈何にすべき

虞(グ)や虞や 汝を奈何せん

項羽は歌を詠じ、それにあわせて項羽の寵妃であった虞は舞い踊ります。

虞は舞を終え自害しました。

項羽はわずかの兵を率いて包囲を突破し長江の渡し場までたどりつきますが、ついに自らの首を切り落として自死しました。

翌年の夏、虞の墓に赤い花が咲き乱れ、虞美人草と呼ばれるようになったと伝えられています。

赤いポピーの物語その4
夏目漱石『虞美人草』

東京帝大の英文学講師であった夏目漱石が職を辞し、朝日新聞社専属の職業作家となったのが1907年(明治40年)でした。漱石は同年、『虞美人草』の連載を開始します。漱石がこの植物の名を小説の題名にした理由について、以下のように書いています。

「昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買つた。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄(おりから)小説の題に窮して、予告の時期に後れるのを気の毒に思つて居つたので、好加減(いいかげん)ながら、つい花の名を拝借して巻頭に冠(かぶ)らす事にした。

純白と深紅(しんく)と濃き紫のかたまりが逝(ゆ)く春の宵の灯影(ほかげ)に、幾重の花弁(はなびら)を皺苦茶(しわくちゃ)に畳んで、乱れながらに、鋸(のこぎり)を欺(あざむ)く粗き葉の尽くる頭(かしら)に、重きに過ぐる朶々(だだ)の冠を擡(もた)ぐる風情は、艶(えん)とは云へ、一種、妖冶(ようや)な感じがある。余の小説が此花と同じ趣を具(そな)ふるかは、作り上げて見なければ余と雖(いえど)も判じがたい。

社では予告が必要だと云ふ。予告には題が必要である。題には虞美人草が必要で―はないかも知れぬが、一寸(ちょっと)重宝であった。聊(いささ)か虞美人草の由来を述べて、虞美人草の製作に取りかゝる。」

(明治40年5月28日 東京朝日新聞 「虞美人草」予告)

『虞美人草』のヒロイン藤尾のイメージは、一般的なポピーの印象である清楚さではなく、牡丹のような妖艶なものでした。漱石が買い求めた虞美人草は「純白と深紅」、「幾重の花弁を皺苦茶に畳んで」と記述されていることから、現在は「あへん法」により栽培が禁止されているソムニフェルム種(P. somniferum:ボタンゲシ)ではないかと思われます。

ボタンゲシ
ボタンゲシ(P. somniferum var. laciniatum)Photo/Unknown [CC BY 2.0 via Wikimedia Commons]
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