まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2023年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2023年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
松本路子 -写真家/エッセイスト-の記事
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ストーリー
シェイクスピア劇『オセロー』の悲劇のヒロインに捧げられたバラ‘デスデモーナ’
バラのカタログから バルコニーに咲いた夏バラの‘デスデモーナ’。 わが家のバルコニーのバラ、今年のニューフェイス5種類のうちの一つが‘デスデモーナ’。昨秋に裸苗を鉢に植え付けたものが、4月下旬から5月にかけて次々と開花し、その清楚な花姿にすっかり心を奪われてしまった。よく返り咲き、夏の暑さの中でも、けなげに花をつけている。バラとの出合いは、デヴィッド・オースチン社のカタログだったが、実際の花は写真よりはるかに魅力的だった。そしてそのバラの名前は、ずっと昔に見た舞台を思い出させてくれた。 ニューヨークの劇場で 新潮文庫版『オセロー』の表紙カバー写真。初版は1973年で、現在も版を重ねている。 20代の頃、ニューヨークの小さな劇場で、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の舞台を見たことがある。当時は英語のセリフのほとんどが聞き取れなかったが、ヒロインが陰謀によって死に至ったことは分かり、その理不尽さだけが記憶に残った。後日、福田恒存訳の新潮文庫版『オセロー』を読んで、話の流れは理解できたが、理不尽さは増すばかりだった。 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』 英国ウォリックシャー州、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるシェイクスピアの生家。 『オセロー』(Othello)はシェイクスピア戯曲の四代悲劇の一つとされる。タイトルのオセローは主人公の名前で、副題は『ヴェニスのムーア人』(The Moor of Venice)。 イタリア、ヴェニスの軍隊の指揮官オセローが、部下イアーゴーの謀略によって、若き新妻デスデモーナの浮気を疑い、その息の根を止めるまでに至ってしまう。真実を知ったオセローは、冷たくなった妻に口づけしながら、自ら剣を以て果てるという物語。 『ハムレット』とほぼ同時期に書かれたとされる戯曲だが、シェイクスピアの他の悲劇のような国家を背景にした国王や王位継承者たちの壮大な人間模様は展開されない。数々の戦歴を持ち、勇敢で、沈着冷静な一人の武人が、言葉巧みな男の策略によって次第に妄想を膨らませていく、その経過を事細かに描いている。いわば心理劇ともいえるもので、現代までに繰り返し上演されてきたのは、そこに普遍的な何かがあるからだろう。 デスデモーナの愛 さまざまな思惑が交差する物語の中で、ひたすらオセローを信じ、純真な愛を貫くのが、ヒロインのデスデモーナ。だからこそ、いわれもなき罪で夫に締め殺されるという不条理な結末が胸を打つ。 「結婚を嫌って、この国の富める貴公子さえ断りつづけてきた」(父親のセリフ)デスデモーナは、父親にも告げずにオセローの妻となる。ほかの登場人物が北アフリカにルーツを持つムーア人のオセローの肌の黒さを揶揄していることに比べ、彼女はそうした人種への偏見にもとらわれていないのが分かる。純粋にオセローの人間性に惹かれていたのだ。 オセローの最後のセリフから 自分にとって宝ともいえるデスデモーナを殺めた罪を自覚した主人公は、ヴェニス政庁への罪状報告について、次のように懇願する。 「どうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして、愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取り乱してしまった一人の男の物語。(中略)かつてはどんな悲しみにも滴ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同然、潸然と涙を流していたと、そう書いていただきたい」(福田恒存訳、新潮文庫刊) そして「今、俺にできることは、こうして自らを刺して、死にながら口づけすることだ」というセリフを残し、息絶える。 理不尽な死だからこそ、永遠に生きる 清楚な花に、劇中の登場人物デスデモーナのイメージが重なる。 武人としての誇りと美学を以て愛に殉じるオセローだが、デスデモーナの身になってみると、その死はやはり理不尽だ、と思える。もっとも理不尽な最期ゆえに、彼女に思いを寄せる人が絶えないのかもしれない。デスデモーナは多くの画家たちによって描かれ、星やバラの名前として残されている。 現代に上演される『オセロー』 2007年に蜷川幸雄演出で上演された舞台「オセロー」のチラシ写真。 『オセロー』が上演された最古の記録は、1604年、英国の国王劇団によるものとされる。それから400年以上たった今でも世界各地で上演が続いている。国内で記憶に残っているのは、シェイクスピア戯曲を数多く演出している蜷川幸雄の舞台だ。彩の国さいたま芸術劇場で2007年10月に行われた公演では、オセローを吉田鋼太郎、デスデモーナを蒼井優が演じている。 公演に先立ちヴェニスを訪れた蜷川は、その旅についてインタビューにこう答えている。 「ヴェニスに来て改めて感じたのは、豪奢な貴族社会や支配体制下にあって、徹底的な美意識に取り囲まれている世界だということ。(中略)黒人のオセローがその世界の代表的存在である白人の大貴族の娘と結婚することは、一大悲劇だと確信しました。美しく無垢な魂は必ず邪悪な物に破れるに決まっているものです」(埼玉県芸術文化振興財団公式サイトより) 2018年に上演された井上尊晶演出の舞台「オセロー」のチラシ写真。 また2018年9月には、蜷川の演劇を長年支え、その演出の血を受け継ぐ井上尊晶による舞台が新橋演舞場で上演され、オセローを歌舞伎俳優の中村芝翫、デスデモーナを宝塚出身の檀れいが演じている。 オセロゲーム 余談だが、ボードゲームのオセロは、戯曲『オセロー』から名づけられたとされる。正方形の盤上に表裏を黒と白に塗り分けた石を使用し、黒と白を担当するプレイヤーが相手の石を裏返すことで勝負する。「覚えるのに1分、極めるのに一生」というキャッチフレーズがあり、単純なルールだが、多数の戦術があることで知られている。 GrooveZ/Shutterstock.com 水戸市のゲーム研究家・長谷川五郎によって現在の形が考案され、その父親・長谷川四郎教授によってオセロゲームと命名された。英文学者の四郎は、黒白の石がひっくり返りながら形成が次々と変わっていくゲームを、オセローとデスデモーナをめぐって敵味方が目まぐるしく入れ替わる戯曲になぞらえたのだという(長谷川五郎著『オセロゲームの歴史』河出書房新社刊)。ほぼ同様のゲームにリバーシがあり、こちらは19世紀にロンドンで考案されたそうだ。 バラ‘オセロー(オセロ)’Othello 1986年、イギリス、デビッド・オースチン作出のイングリッシュローズ。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公に捧げられたバラ。カップ咲きで、深紅色から赤紫色へと花色を変化させ、オールドローズの面影を色濃く残す。四季咲きで、よく返り咲く。 花径:10~13cmの大輪樹高:120~180cm樹形:半つる性香り:強いダマスクの香り バラ‘デスデモーナ’Desdemona 2015年、イギリス、デビッド・オースチン作出のイングリッシュローズ。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロー』の悲劇のヒロインに捧げられたバラ。咲き始めはピーチがかった淡いピンク色で、咲き進むにつれ白一色の花色になる。四季咲きで、よく返り咲く。 花径:5~9cm樹高:90~120cm樹形:半直立性香り:オールドローズの香り+アーモンドの花の香り
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ストーリー
イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’
イギリスの骨董市巡り 仕事でロンドンに行き、時間があると立ち寄るのが、骨董市やアンティークショップ。骨董といっても、手に入れるのはティーカップなど生活の中で使用するささやかなものがほとんどだが、時代を経て存在感が増した品々を見て歩くのが楽しい。 気に入ったものを手に取ると、店の主人から「それはヴィクトリアンだ」と告げられることが多い。ヴィクトリア女王が統治していた、1837年から1901年までのヴィクトリア朝時代に作られたものを意味する言葉だ。イギリスでは100年以上を経たものをアンティークと呼ぶので、まさに真の骨董品。ヴィクトリア朝時代は、文化やファッションが栄えた時期で、残された物のたたずまいも瀟洒だ。 バラとの出合い 今年5月、わが家のバルコニーで初めて咲いた‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。 昨年出かけた千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘バラ園」で出合ったのが、‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。コロンとしたカップ咲きの花に惹かれて、名前を確かめた。ヴィクトリアはイギリスの女王だと推測できたが、ラ・レーヌがフランス語なので、ヴィクトリア女王を意味するのか確信が持てなかった。それでも昨秋に苗木を取り寄せて、植え付けてみた。 細くしなやかな枝に、たくさんの花を付ける可憐なバラだが、その成長ぶりには驚かされる。 届いたのは新苗だったが、冬までに2m以上枝を伸ばし、春になるとさらに成長し、一面に花を付けた。調べると、ラ・レーヌはフランス語で女王を意味するのだという。わが家のニューフェイスは、やはりヴィクトリア女王だった。 ヴィクトリア時代 ヴィクトリア女王の肖像写真。1800年代半ばから写真技術の発達によって、女王やロイヤル・ファミリーの肖像が多く残されるようになった。 Everett Collection/Shutterstock.com ヴィクトリア女王は、大英帝国を象徴する君主といわれる。女王が統治した時代、英国は世界各地を植民地・半植民地化し、領土を10倍以上に拡大している。在位は63年7カ月という長きにわたり、産業革命を経たのちの英国は、技術、経済、文化を大きく発展させ、一大帝国を築き上げた。ちなみにヴィクトリア女王は、2022年までイギリス女王であったエリザベスⅡ世の高祖母(祖父母の祖母)に当たる。 ヴィクトリア女王誕生 ヴィクトリア女王は1819年、ロンドンのケンジントン宮殿でアレクサンドリナ・ヴィクトリアとして生まれた。1837年にウィリアム4世が崩御し、王には子どもがいなかったので、姪であるヴィクトリアが、18歳にしてハノーファー朝第6代の女王に即位した。 若くして女王となったヴィクトリアの決意を、彼女が残した日記で読み取ることができる。 「私をこの地位に就かせたのは喜ばしい神のお導きによるものなので、わが国に対する義務を全力で果たしたいと思う」(『ヴィクトリア女王 英国の近代化をなしとげた女帝』デボラ・ジャッフェ著、二木かおる訳、原書房刊) ヴィクトリアとアルバート ウィンザー城でのヴィクトリア女王とアルバート公、長女ヴィクトリア王女が描かれた絵画。Everett Collection/Shutterstock.com ヴィクトリア女王は1840年、いとこであるザクセン=コーブルク家のアルバート王子とセント・ジェームズ宮殿で挙式し、バッキンガム宮殿にて披露宴を行った。ドイツの小さな公国の王子であったアルバートと会ったヴィクトリアは、彼を一目見たとたんに夢中になり、結婚する気になったという。アルバートはハンサムで、礼儀正しく、知的でユーモアがある青年だった。 結婚当初、女王の夫であるアルバートには何の役割も与えられなかったが、ヴィクトリアにとって信頼できる相談相手となった。ヴィクトリアは結婚から10カ月後に第一王女を出産し、その後も出産は続いたので、アルバートは妻の代理として行事に参加するようになった。やがて国政について意見するのを許されるようになり、ヴィクトリアとアルバートの共同統治の様相を帯びていった。 最初は外国人のアルバートを受け入れられなかったイギリス国民も、その存在を次第に認め始めていた。王立技芸協会の会長となり、芸術と工芸を発展させたアルバートは、1851年のロンドン万国博覧会を取り仕切るなどの実績を残している。 映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」 映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、表面。 若き日のヴィクトリア女王の半世紀を描いた劇映画に、「ヴィクトリア 世紀の愛」(原題「The Young Victoria」)がある。監督ジョン=マルク・ヴァレ、主演エミリー・ブラントで、2009年に作られた英・米合作の映画だ。11歳で王位継承順位の一番にあると知らされたヴィクトリアの、女王への自覚、アルバートとの恋、2人の共同統治に至るまでの道のりなどが描かれている。 映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、裏面。 結婚式のシーンでは、髪に花飾りを付けた女王が登場する。実際の挙式でも伝統的なティアラを嫌い、モックオレンジの白い花飾りを用いたという。また現在、白のウエディングドレスを着る習慣はヴィクトリア女王から始まったと伝えられている。前述のデボラ・ジャッフェの著書によると、ウエディングドレスはクリーム色だったが、披露宴で白いシルクのドレスを身に着けたという。それまで花嫁はさまざまな色のドレスを着ていたので、白いドレスは印象的だったのだろう。 ロイヤル・ファミリー ヴィクトリア女王は20年の結婚生活の中で、9人の子どもをもうけている。王室のニュースが新聞や雑誌で報道されるようになると、一家はロイヤル・ファミリーとして、国民のあこがれとなっていった。その伝統は今もイギリス王室に受け継がれている。また子どもたちがヨーロッパ各地の王家と婚姻関係を結び、女王はヨーロッパ王家の家長的存在でもあった。 家族のための家 イギリス南東部に位置するワイト島にあるオズボーン・ハウス。女王一家が夏の休暇を過ごすようになって、ワイト島はヨーロッパ王室のリゾート地となった。RogerMechan/Shutterstock.com バッキンガム宮殿やウィンザー城の堅苦しい生活から逃れて子どもたちと家庭生活を過ごすために、2人はイギリスのワイト島にオズボーン・ハウス、スコットランドにバルモラル城を購入した。 スコットランド・アバディーンシャーにあるバルモラル城。A.Karnholz/Shutterstock.com 女王は特にバルモラル城を「楽園」と呼び、田園生活を楽しんだ。以前から子どもたちをスケッチしていたが、それに加え、たくさんの水彩による風景画を描いている。1850年代に写真術が発達すると、ヴィクトリアとアルバートは、積極的に被写体となった。残された写真から、2人の関係や家族の様子、当時の服装や生活様式を垣間見ることができる。 バルモラル城はエリザベス女王も夏の避暑地として愛し、この地で生涯を終えたことは記憶に新しい。 喪服の女王 1861年に夫のアルバートが亡くなると、ヴィクトリアの嘆きは大きく、オズボーン・ハウスとバルモラル城に隠遁し、その生活は10年の長きにわたった。また、生涯を喪服で過ごすことに決め、以後40年にわたり黒服を着続けている。 1870年代初頭から、徐々に気力を取り戻した女王は公務に復帰し、以前にも増して大英帝国に君臨する存在となっていった。1877年には英領インドの女帝となり、これ以降、「女王にして女帝、ヴィクトリア」と署名している。 映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」 映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」チラシ表面。 1887年、女王即位50周年を記念した式典に英領インドからイギリスにやってきたのが、のちに女王の秘書となったアブドゥル・カリム。映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」(原題「Victoria&Abdul」)は、女王とカリムの絆を描いている。 2019年に日本公開された映画、チラシ裏面。 女王は彼からインドの生活や言葉を学び、食事のメニューにカレーを加えたという。白人至上主義の時代に、インド人を重用する女王への周囲の反感は強く、息子のエドワード7世により歴史から抹殺されていた実話に基づき、2017年に作られた映画。監督スティーヴン・フリアーズ、主演ジュディ・デンチで、実際にワイト島のオズボーン・ハウスで撮影された美しい映像が印象的だ。 19世紀の終焉とともに バッキンガム宮殿の正面に建てられたクィーン・ヴィクトリア記念碑。maziarz/Shutterstock.com 女王の在位60周年記念式典が執り行われたのが、1897年。20世紀が幕開けした頃から女王の健康状態は悪化し、1月に家族に囲まれてオズボーン・ハウスで息を引き取った。波乱に満ちた81年の生涯は、19世紀の終焉とともに閉じられたのだ。盛大な葬儀の後、ヴィクトリアは夫アルバートの隣に埋葬され、バッキンガム宮殿の正面のザ・マルに巨大な記念碑が建立された。 2019年には女王の生誕200年を記念したさまざまな行事が執り行われ、バッキンガム宮殿で特別展が開催されている。 バラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’ ‘La Reine Victoria’ 1872年にフランスで作出されたオールドブルボンローズ。ラ・レーヌはフランス語で女王を表し、イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ。作出者はジョセフ・シュワルツ。コロンとした小花を枝一面に付け、よく返り咲く。枝変わりに、淡いローズ色の‘マダム・ピエール・オジェ’がある。 花形:ラベンダーローズ色のデープカップ咲き花径:5~6cm樹高:2~3m樹形:しなやかな枝が扇状に広がる香り:ティー+ダマスクにフルーツの香り ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’、6月の二番花と2色の鉄砲ユリ。
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ストーリー
【バラのアート】わが家のバラが合田ノブヨの作品「ボタニカル・エッグ」に!
草花とコラボするアート 5月のある日、わが家に卵が届いた。瀟洒な箱に納められた1個の卵。そこにはバラ‘ルドゥーテ’の葉を染め写したというメッセージカードが添えられていた。 2023年4月末、恵比寿にあるギャラリーLIBRAIRIE6に、コラージュ作家の合田ノブヨさんの個展を見に出かけた。その折、わが家のバルコニーで咲き始めたバラを少しだけ持参した。‘Green Remembrance’と題されたギャラリーの展示は、「草花たちが見ていた景色とその記憶」として、草木染めした紙に写真や押し花をコラージュし、着彩した作品で、夢の中の草花の世界を描いている。ファンタジックでありながら、どこか凄味のようなものが潜んでいる魅力的な作品たち。作家の植物への造詣と愛の深さが感じられるものだった。 ボタニカル・エッグ展示作品。ノースポールの花や ニガヨモギ、菊の花などを卵の殻に染め写している。* ギャラリーの中央に置かれた展示ケースには、花や葉を染め写したというボタニカル・エッグが並び、不思議な雰囲気を醸し出していた。 ボタニカル・エッグ ‘バレリーナ’の花を染め写したボタニカル・エッグの制作工程。* ギャラリーに持っていったバラは、やや早咲きの‘ルドゥーテ’や‘ウィンチェスター・キャシードラル’、‘ボレロ’などだった。合田さんによると、花は大きすぎたので、バラの葉を卵の殻に染め写したという。卵に絵を描くのは、イースター・エッグなどで知られているが、彼女のボタニカル・エッグは描くのではなく、植物の持つ色素やエッセンスを写し留めるのだという。 試行錯誤の末に得た手法は、ちょっとした秘密らしいが、調合した液体で夜な夜な卵を染めるという彼女の話から、魔女めいた仕事ぶりを想像し、ワクワクさせられた。 今年のわが家のバラ、ニューフェイス バルコニーで初めて咲いた‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ。 5月に入り、バルコニーのバラたちは一斉に開花し、バラ協奏曲を奏で始めた。今年のニューフェイスは、‘ファンシー・ラッフル’ ‘デスデモーネ’ ‘ソフィー・ロシャス’ ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’ ‘アントニ・ガウディ’。もう鉢を置くスペースがないと言いながら、昨秋も5種類の苗を植え付けてしまった。 贈られた卵の無事到着のお知らせに、‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’の花と個展の案内状を写真に撮って合田さんに送った。その写真を見た彼女から「‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’は、バラを育てていた頃に苗を探して、見つけられなかった憧れの品種です。コロンとした姿がポール・ポワレのドレスに縫い付けられたコサージュのようで…」というメッセージが届いた。何となく選んだわが家の新入りのバラが、彼女の琴線に触れていたのは、嬉しいことだった。 バラの花が永遠の卵に ギャラリーに置かれていたボタニカル・エッグは、主にノースポールの花とヨモギの葉を写し留めたもの。卵の殻の大きさに合う花と草で、染め写して美しい結果が現れるものを選んでいるという。 わが家のバルコニーに咲く‘バレリーナ’。 そこでひらめいたのが、小輪のバラを染めることはできないかということ。合田さんに相談すると、試してもよいという返事だった。さっそく、バルコニーのバラの中で、卵の殻の大きさに合う、‘バレリーナ’ ‘ブルー・ランブラー’ ‘ポールズ・ヒマラヤン・ムスク’などの花を手渡した。 ‘ルドゥーテ’の葉(左)と‘バレリーナ’の花(右)のボタニカル・エッグ作品。 結果、バラを染めるのは難しいとのことだったが、黒地に花が浮かび上がった‘バレリーナ’が、ことのほか美しく仕上がった。黒地はブレンドした茶葉で染めるのだという。‘バレリーナ’の形とかすかに残るローズ色が、アール・ヌーボーの時代の絵のように見えるのは、欲目だろうか。わが家のバラが永遠の命を与えられたかのように感じた。 合田ノブヨのボタニカル・ライフ コラージュ作品「花鎖」* 合田さんは早い時期から植物に興味を持って、草花遊びをするような子どもだった。葉山に住んでいた高校生の頃、オールドローズを紹介する本を見て、庭でバラを育て始めた。一時期、バラは30種類を数えたという。 コラージュ作品「Green Remembrance/薔薇の葉・紅」* 2年前の個展で、押し花をコラージュした作品を作り、残った押し花を卵に写し留めたのが、ボタニカル・エッグを始めるきっかけだった。以来実験を重ね、今年の個展でいくつかの卵を展示するまでになった。彼女のコラージュ作品は人気で、ほとんどが売約済みだったが、卵も同様で、あっという間に人手に渡っていた。卵たちがそれぞれの家でどんなにふうに飾られているか、その様子がSNS上に飛び交っている。 彼女の現在の庭は、海外から種子を取り寄せたニガヨモギやコストマリーなどのハーブ類がほとんどで、そこからコラージュ作品やボタニカル・エッグの素材が生まれている。 アゲハチョウの誕生 何年か前にレモンの木に産み付けられたアゲハチョウの幼虫を孵化させて、家の中で蝶を誕生させたことがあった。蛹(さなぎ)が蝶になる瞬間を目撃できたときの感動は、今でも忘れられない。 それは合田ノブヨさんが、数羽の蝶を手に止まらせている写真を見て、憧れたのがきっかけだった。彼女から飼育法を伝授され、10羽ほどの蝶を誕生させた。あらためて尋ねると、1年で300羽ほどの蝶を孵化させたという。まさに「虫めづる姫君」の世界だ。 バラの花のインク バラの花から抽出したインク。* 草花からインクを作ることは、ジャーマンアイリスの花がら摘みをしていて思いついたのだという。指に染まった青色を見て、そこからインクを連想し、実際に作ってしまうのは、非凡な才能だ。中世のインクの作り方のレシピに沿って、さまざまな花や木の実で試作している。 赤いバラの花のインクで合田さんが描いたカリグラフィー。* 私が魅了されたのは、バラの花びらから抽出したバラ色のインク。書き始めは澄んだピンク色で、乾くと紫がかった色になるという。彼女の手になるカリグラフィーも美しく、こんなインクで手紙をもらったら、胸がときめくに違いない。バラのインクは紙の上に永遠に残るものなのだろうか。ある日突然文字が消えていたら! それも素敵ではないか。 ボタニカル・エッグ、再び 友人宅から枝を持ち帰って挿し木した野生のバラ、ロサ・ムリガニー。 わが家のやや遅咲きのバラに、ロサ・ムリガニーがある。純白の小輪のバラで、ボタニカル・エッグの素材になるのではと、再び合田さんにお渡しした。長い雄シベが優美なバラで、結果それが写し留められ、麗しい姿になった。 ちょっと珍しいバラなので、オレンジ色の‘ファイヤー・グロー’を花束に加えた。これは花弁が多く卵には無理だと思ったが、不思議な姿が現れた。作者がことのほか気に入っている様子で、それが何よりだった。 バラを育てる愉しみ バラを育てていると、さまざまに愉しむことができる。30年間無農薬なので、バラ風呂やバラジャム、バラの花びらを発酵させた酵母で作ったパンなどが可能で、生活の彩りも豊かになる。バラは写真の絶好の被写体でもあって、早朝つぼみが開きかけた瞬間を日々撮影できるのは自家栽培ならでは、とも思える。 ロサ・ ムリガニーや‘ファイヤー・グロー’などのバラのエッセンスを写し留めたボタニカル・エッグ作品。* 今年はそれに、ボタニカル・エッグが加わった。まだバラでは実験段階のようだが、今後、わが家の花が合田ノブヨさんの作品になって、ギャラリーに並ぶことを夢想している。
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ガーデン&ショップ
東京・根津美術館で「燕子花図屏風」を見て、庭園のカキツバタと出合う
カキツバタの記憶 根津美術館の庭園内、茶室・弘仁亭近くの池に咲くカキツバタ。一度咲いた茎から、次のつぼみが花開き二度咲きとなる。 10年近く前に、友人に誘われて東京・青山にある根津美術館に、尾形光琳筆の「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」を観に出かけたことがある。その折の屏風の佇まいもさることながら、庭園に咲くカキツバタが見事だったことが記憶に残っていた。 庭園内の石橋の上から見たカキツバタの群生。水面に写る姿が優美だ。 屏風は毎年、カキツバタが咲く4月から5月にかけての約1カ月間公開される。今年(2023年)はいつになく開花が早いという花便りが届き、改めて国宝・「燕子花図屏風」と庭園のカキツバタを見てみたいと、根津美術館を訪ねた。 展示室にて 特別展会場に展示された、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(特別に許可を得て会場撮影をしています)。 美術館の1階の広い空間の中央に置かれた「燕子花図屏風」はひときわ輝いて見えた。屏風の公開に当たっては、毎年テーマが決められ、今年は「光琳の生きた時代1958-1716」という切り口で構成されている。宮廷や幕府主導の文化の時代から、町人が担い手となって花開いた元禄文化の時代へと、尾形光琳が生きた約60年間の江戸の美術史を切り取る試みだ。 光を放つ、燕子花図屏風 「燕子花図屏風」。6曲1双の屏風は、見る角度によって、躍動する様子が違って感じられる。 総金地に描かれた群青色の花と緑青色の葉。リズミカルで大胆な構図は、現代に生きる私たちにとってもモダンで斬新に感じられる。屏風を数える単位は隻(せき)で、1隻の中に縦長の画面を6枚つなぎ合わせたものが6曲屏風。6曲屏風が2隻で一組になっているこの屏風は6曲1双とされる。 国宝・「燕子花図屏風」 尾形光琳筆 日本・江戸時代 18世紀 根津美術館蔵(上/右隻 下/左隻) 写真提供:根津美術館 右隻には根元からすっくと立つ花の群生が描かれ、左隻では根元をほとんど見せていない。写真家の眼からは、右隻は広角レンズでやや下から仰ぎ見た図、左隻は望遠レンズでやや上から見た図、とも思える。この対照的な構図によって、燕子花は躍動し、空間は無限に広がっている。 総金地に群青と緑青の2色の岩絵具をふんだんに使い、色彩の濃淡によって幽玄の世界を現出させている(右隻の部分)。 金泊の部分は光を反射し、見る角度によって艶めかしくも、冷淡にも見える。2色の岩絵具の濃淡だけで燕子花の生気を描き出すという色彩感覚もまた驚異的だ。 尾形光琳の生涯 茶室・弘仁亭側から見たカキツバタの群生。 江戸時代を代表する絵師のひとり、尾形光琳(1658-1716)は、伝統的な大和絵に斬新な構図を取り入れ、のちに琳派と呼ばれる画派を確立した人物として知られる。 1658年に京都でも有数の呉服商の家に生まれ、幼いころからさまざまな絵画や工芸に触れて育った。30代前半から絵師の道を志し、本格的に活動を始めたのは40代になってから。「燕子花図屏風」は40代半ばの代表作とされる。その後、「紅白梅図屏風」(国宝)、「風神雷神図屏風」(重要文化財)などを制作。1716年に没するまで、わずか10数年の制作期間であった。 尾形光琳晩年の筆「夏草図屏風」。ここにも燕子花が描かれている。日本・江戸時代 18世紀 根津美術館蔵 写真提供:根津美術館 燕子花図屏風に描かれた花の群生は一部に染物で使う型紙の技法が使われ、同じ形が反復されている。これは子どもの頃から着物の意匠に接してきた光琳ならではの発案だろう。燕子花図は、平安時代前期に書かれた「伊勢物語」第九段「八橋」に想を得ているという。光琳が好んで描いた花の背景には、彼が思いを馳せた和歌や物語があることを知ると、鑑賞の趣もまた変わってくる。 根津美術館の庭園 左/池の縁に添って配されたカキツバタは、群生とは違った雰囲気を醸し出す。右)庭園南西の、ほたらか山と名づけられた石仏や石塔を集めた丘。 根津美術館を訪ねる楽しみの一つが庭園散歩。広さ2万㎡の起伏に富んだ庭園をめぐると、都会にいることを忘れるほど、深山幽谷の気配を感じることができる。美術館は実業家初代根津嘉一郎氏の古美術コレクションを保存し、展示するために作られたが、庭園もまた彼の意向に沿ったもので、いわば自然が生み出す芸術といえるものだ。その最たるものが、水辺のカキツバタの群生だ。庭内には灯篭や仏像などの石造物が100体ほど配され、薬師堂の竹林、初夏に色づく紅葉など、印象的な景観が展開する。 庭園散歩の途中立ち寄った、茶室・披錦斎(ひきんさい)のお抹茶。 庭内には4つの茶室があり、その中の一つで抹茶を味わった。カキツバタをかたどった練り菓子が供され、眼も舌も愉しんだひととき(今回展期間中のみ)。 左/孟宗竹の林を背景とした薬師堂 右/茶室・斑鳩庵へと続く小道。 庭内を悠然と散歩するサギ。毎年どこからか飛翔してくるという。 カキツバタの群生 池の周囲を360度めぐると、カキツバタの群生のさまざまな表情が伺える。 カキツバタは、庭園の中央部に位置する池の一画に群生している。開花の最盛期に訪れることができたのは幸運だった。池をぐるりと巡り、違った角度から見ると、花の趣もまた変わってくる。私が訪ねた日にはサギが園内を悠然と散歩し、池には水鳥が遊んでいた。どこからか飛来してくるのだという。 初夏の日差しを受けて、凛として華やかなカキツバタの姿は印象的だ。 カキツバタはアヤメ科アヤメ属の植物で、アヤメと違うのは、アヤメが乾燥した場所を好むのに対して、カキツバタは湿地を好む。カキツバタのほうが葉幅が広く、また花弁の付け根に網目模様があるのがアヤメで、カキツバタには1本の白い筋が見られる。 今も水が湧き出ている「吹上げの井筒」のある池と、カキツバタ。 庭園のカキツバタが池の水に移る様は、たとえようもなく優美。さらに尾形光琳の屏風絵を見た後の散策には格別なものがある。この時期ならではの贅沢な時間を味わうことができるのだ。 Information (時計回りに)美術館外観、エントランスへの道、NEZUCAFE、美術館ホール。 根津美術館 特別展「国宝・燕子花図屏風 光琳の生きた時代1658-1716」2023年4月15日(土)~ 5月14日(日) 住所:107-0062 東京都港区南青山6-5-1電話:03-3400-2536開館:10:00~17:00(入館は16:30まで)、 5月9日~5月14日は19:00まで開館(入館は18:30まで)休館:月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休)、展示替期間、年末年始入館料:[特別展] 一般1,500円、学生1,200円(オンライン日時指定予約) 当日券 一般1,600円、学生1,300、小・中学生以下は無料 (*混雑状況によっては当日券を販売しない場合もあります)アクセス:地下鉄銀座線・半蔵門線・千代田線、表参道下車、徒歩約10分HP:https://www.nezu-muse.or.jp
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牧野富太郎博士ゆかりの植物に出合える「練馬区立牧野記念庭園」
練馬区立牧野記念庭園を訪ねて 牧野富太郎博士が描いた植物画集とポストカード(高知県立牧野植物園刊)。特注の細筆で描写したという植物画の緻密さは驚嘆に値する。 子どもの頃、父の本棚にあった植物図鑑を飽かず眺めていた。その図鑑の著者が、日本の植物分類学の基礎を築いた牧野富太郎博士と知ったのは、ずっと後のことだ。植物との付き合いが今も続いているのは、図鑑の植物画が記憶のどこかに残っているからかも知れない。 ‘染井吉野’とほぼ同時期に開花する、庭園内の桜‘仙台屋’。牧野博士が名付けたとされる。 『東京 桜100花』(2015年、淡交社刊)という本を出版するにあたり、2年ほど桜三昧の日々を過ごしたことがある。桜に関するあらゆる書物を読み、都内の桜を撮影し、さらに原木のある北海道など各地にも足をのばした。その折に牧野博士が名付けたとされる‘仙台屋’という桜があることを知ったが、開花のタイミングに合わず、撮影できなかったことが心残りだった。 左/‘仙台屋’と並んで咲く‘染井吉野’。右/‘仙台屋’から数日遅れて開花するヤマザクラ。いずれも大木だ。管理室・講習室棟の前では、等身大の博士のパネルが迎えてくれた。 今年も桜の季節が到来し、わが家のバルコニーでも‘河津桜’、‘陽光’に続き、‘染井吉野’が咲き始めた。仙台屋も染井吉野と同じ頃の開花のはずと、西武池袋線大泉学園駅に近い、練馬区立牧野記念庭園を訪ねた。そこには牧野富太郎博士が晩年の30年あまりを過ごした私邸跡地に設けられた庭園と記念館がある。折しも牧野博士が主人公のモデルとなる、NHKの朝ドラ「らんまん」が始まるというタイミングで、園内は思いのほか賑わいを見せていた。 武蔵野の面影を残す庭園 庭園内には、アカマツ、エゴノキなど武蔵野の雑木林に以前からあった大樹と、博士収集の植物が今も残されている。 牧野富太郎博士は、その生涯で1,500種類以上の植物を発見・命名している。出身地の高知県には雄大なスケールの県立牧野植物園があるが、練馬の庭園も博士が「我が植物園」と呼んでいたように、各地から集めた植物など、300種類以上の多彩な草木を見ることができる場所だ。 庭園入口に咲く早咲きの桜、‘大寒桜’。薄紅色の花は終わりに近づくにつれ濃い紅色に変化していく。 今では周辺は住宅地だが、かつては武蔵野の雑木林だった地で、その面影を残す大木も見られ、草木も野にあるような自然な佇まいを見せている。博士は桜を好み、園内では仙台屋以外にもカンヒザクラ、ヤマザクラなどの野生の桜、さらに大寒桜、‘染井吉野’、‘福禄寿’などの栽培の桜が開花する。 桜‘仙台屋’の由来を辿る 咲き始めの可憐な花姿を見せる桜‘仙台屋’。 ‘仙台屋’は淡い紅紫色で5弁の楚々とした花姿を見せていた。原木はかつて高知市の仙台屋という店の庭にあったもので、その屋号にちなみ牧野博士が名付けたとされている。桜の由来については、高知の園芸家、武井近三郎氏の著書『牧野富太郎博士からの手紙』(高知新聞社刊)に以下のような記述がある。「佐伯さんという人が仙台から移動してきて、中須賀で仙台屋という屋号で商売を始めたのですが、その屋敷の庭へ移植した桜です」。 満開時の‘仙台屋’と‘染井吉野’(左)。‘仙台屋’の横には地下根が伸びて育った若木が寄り添うように立っている。 桜の種類は、東北から北海道にかけて分布する野生種のオオヤマザクラ(ベニザクラ)の栽培品種ではないかとされているが、定かではない。牧野博士はこの桜を気に入り、武井氏に「高知の名物の桜にするべし」と書き送り、また苗木ができたら自分へも送ってほしいと再三手紙を出している。 庭園内の‘仙台屋’は博士自ら植栽した桜で、樹齢70年と推定される。 武井氏は博士の熱意に答え、桜の小枝1,000本を挿し木して苗木を育てた。その苗木が博士に送られたという高知新聞の記事が残っている。1953年12月4日の記事で、それによると庭園の‘仙台屋’は樹齢70年ということになる。 これは推測だが、仙台屋のあるじは望郷の念に駆られ、宮城から桜の苗木を移植したのではないだろうか。桜は高知に根付き、やがて博士が故郷を偲ぶ桜となった。そんな風に花に寄せる思いをたどることができるのも、桜ならではと思えるのだ。 牧野富太郎博士の生涯 記念館の常設展示室に飾られた牧野博士の肖像。笑顔が印象的だ。 牧野富太郎(1862-1957)は、文久2年に高知県高岡市佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な家に生まれた。子どもの頃から植物に興味を示し、小学校を中退、植物採集に励んだという。22歳で上京し、本格的に植物研究の道に進んだが、ほとんどが独学といえるものだった 記念館、常設展示室の展示資料。植物標本と博士愛用の採集道具が並ぶ。 1889年(明治22)、土佐で発見した新種「ヤマトグサ」に学名をつけ、友人と創刊した雑誌に発表するなど、創生期であった日本の植物学に大きな足跡を残している。それまで日本では、植物の学名を付けることを海外の学者に依頼していたのだ。1888年(明治21)に『日本植物志図篇』、1900年(明治33)に『大日本植物志』の刊行を始めた。さらに集大成となる『牧野日本植物図鑑』を1940年(昭和15)に刊行。この図鑑は植物研究のバイブルとして、今も多くの人々に愛用されている。 妻に捧げるスエコザサ 牧野博士胸像を囲むスエコザサ。妻への感謝と愛をこめて博士が名付けた笹だ。 博士は妻、寿衛との間に13人の子どもをもうけている。研究のために必要な経費と家族を養うために大変な苦労をしたことが、『牧野富太郎自叙伝』(日本図書センター刊)に残されている。研究に没頭する博士を支え続けた妻亡きあと、博士は仙台で見つけた笹を新種としてSasa suwekoanaと命名し、和名をスエコザサとした。スエコザサは庭園の博士の胸像を囲むように植えられている。 博士の植物画 記念館の常設展示室に置かれた、牧野博士のさまざまな著書。 牧野博士は植物画を自ら描いている。『牧野富太郎植物画集』(高知県立牧野植物園刊)によると、その数は約1,700 点という。特注の細筆や面相筆で描かれた絵は、草木の息吹まで伝わってくるような、細密で生気に満ちたものだ。『日本植物志図篇』を自費出版するに当たっては、石版印刷の技法を学び、自ら印刷を手掛けたという。日本各地で植物を採取し、描き、出版する、それは驚嘆に値する仕事量だ。 庭園の植物 300種類以上の植物が生育する庭園は、周囲を住宅に囲まれながら、そこだけは別天地の様相を見せている。 庭園では季節ごとにさまざまな植物が開花し、それを楽しみに通う人も多い。私が訪ねた3月下旬には、ヤブツバキ、ボケ、カタクリ、コブシ、ヒロハノアマナ、シュンラン、バイモなどの花を見ることができた。 左上から時計回りに/クサイチゴ、バイモ、ヤマブキソウ、カタクリ、ヒロハノアマナ、ボケ。 牧野博士が植栽した樹木には、樹名版に独特のマークが添えられている。そのマークは博士の印鑑と同じく、巻いた「の」(マキノを意味する)が描かれていて、博士のユーモアあふれる人柄が感じられる。 庭園内の施設 庭園内には、企画展示室と常設展示室のある記念館、書屋展示室、講習室などが備わっている。常設展示室には博士の遺品や資料が展示され、その生涯と業績をたどることができる。博士愛用の植物採集道具を見ていると、野山を駆け巡っている姿が目に浮かぶようだ。 書物が積み上げられた書斎は、博士が執筆し、植物画を描いた当時を再現している。 木造の家の一部がそのまま建物に覆われた書屋展示室は、今年(2023年)4月3日にリニューアルオープンし、書斎と書庫内部が当時の様子に近い状態に再現されている。 植物に寄せる思い 採集道具の中でも印象的な牧野式胴乱。 牧野博士は学問の世界に留まらず、各地の植物採集会の講師を務め、全国に植物愛好家が増えるようにと願っていた。植物への愛は尽きることなく、著書で繰り返し語った。「私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。或いは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。ハハ、、」というユーモアたっぷりの一文も残されている。 著書の表紙写真。左/『牧野富太郎自叙伝』(1997年、日本図書センター刊)、右/『好きを生きる 天真らんまんに壁を乗り越えて』(2023年、興陽館刊) 初期の自叙伝の最後を締めくくる句は「草を褥に木の根を枕、花を恋して50年」。後に「今では私と花との恋は、50年以上になったが、それでもまだ醒めそうもない」と綴っている。 植物を愛し、愛された牧野富太郎の94年の生涯。そのゆかりの庭園を散策し、あらためて植物と在ることの幸せを感じた。 庭園内の顕彰碑。「花在れバこそ、吾れも在り」という博士の言葉が刻まれている。 Information 練馬区立牧野記念庭園面積:2,576.22㎡開園:1958年(昭和33)12月1日場所:東京都練馬区東大泉6-34-4電話:03-6904-6403開園時間:9時~17時 休園:毎週火曜日、年末年始入園料:無料アクセス:西武池袋線大泉学園駅(南口)歩5分HP: https://www.makinoteien.jp
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千葉「佐倉草ぶえの丘バラ園」5月の散策
復活したバラ園 今年5月、数年ぶりに千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘バラ園」を訪れた。アーチやパーゴラ、スクリーンなどの立体的なつるバラの設えが充実し、バラの香りに包まれながらの散策は、以前にもまして、至福の時間をもたらしてくれた。 2019年9月、台風15号で壊滅的な被害を受けたバラ園が、クラウドファンディングなどの復旧支援プロジェクトを経て、見事に復活した様子は聞き及んでいたが、その後もコロナ禍ですっかりご無沙汰してしまった。今回、あらためて野生のバラやオールドローズを中心とするバラ園の景観に魅せられた。また、このバラ園の前身ともいえる「ローズガーデン・アルバ」を訪ねた時のことを思い起こしていた。 ローズガーデン・アルバ 友人に誘われて、佐倉市の「ローズガーデン・アルバ」を訪ねたのは、2003年頃だった。畑の中に忽然と現れたバラ園のユニークな佇まいと、初めて見るバラの種類が多かったことが記憶に残っている。園内の道具小屋の手前のアーチに咲くつるバラ‘シティ・オブ・ヨーク’に惹かれ、帰ってから早速苗を求めた。以来、わが家では鉢植えながら、このバラが7mほど枝を伸ばしている。 「ローズガーデン・アルバ」はNPO法人バラ文化研究所により、野生バラやオールドローズの収集・保存・研究を目的としてつくられた。わが国の「バラの父」と称される育種家・研究者の鈴木省三(1913-2000)のコレクションが母体となっている。 「佐倉草ぶえの丘バラ園」開園 「ローズガーデン・アルバ」は2004年に閉じられ、その後、現在の場所で新たに「佐倉草ぶえの丘バラ園」として開園された。佐倉市の公共施設の中にあり、バラ園の管理、運営はNPO法人バラ文化研究所に委託されている。面積は13,000㎡と広く、現在1,250種、2,500株のバラを見ることができる。 園内は15のエリアに分けられ、鈴木省三コーナー、植物画家ルドゥーテが描いたバラを集めたルドゥーテコーナー、歴史コーナー、ヨーロッパ、中国、日本それぞれの野生バラコーナー、香りのコーナーなど、テーマ別に植栽されている。 「とどろきばらえん」のこと 鈴木省三コーナーでは、彼が生み出した「天の川」「万葉」「乾杯」「ひなまつり」など、日本語の名前がつけられたバラを見ることができる。「とどろき」というバラを見つけ、鈴木省三が1937年に24歳で開いたという「とどろきばらえん」に思いを馳せた。 かつて私の父がバラの話になると、いつもなつかしそうに語ったのが、「とどろきばらえん」のことだった。第二次世界大戦後すぐのことで、若かった父がバラを育てるようになったきっかけの場所だという。父の語り口が鮮やかだったので、私は自分が訪れたことのあるバラ園のような気がしている。 ルドゥーテコーナー ルドゥーテは、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌの命を受け、彼女の居城マルメゾンのバラを描いたほか、当時のバラのほとんどを網羅した『バラ図譜』3巻を出版したことで知られる。このコーナーには、ロサ・ガリカ・オフィキナーリスや‘スレイターズ・クリムズン・チャイナ’など、『バラ図譜』に登場する野生バラやオールドローズが植えられている。 中国のバラ 中国のバラが東インド会社を経由してヨーロッパに渡り、四季咲きのバラや、真紅色のバラを生み出すもととなったことは、バラの歴史の中でも特筆すべきことだろう。中国のバラコーナーでひときわ目についたのが、‘オールド・ブラッシュ’。18世紀、最初にヨーロッパにもたらされた4種類のバラのうちの一つで、それまでヨーロッパに無かった四季咲きのバラの誕生に貢献している。 日本のバラ 日本にはハマナスやノイバラなど、十数種の野生のバラが自生している。2012年に『日本のバラ』(淡交社刊)を出版した時、「佐倉草ぶえの丘バラ園」でいくつかのバラを撮影させてもらった。熊本県の球磨川河岸などに自生するツクシイバラ、本州や北海道の高山でしか見られないカラフトイバラなど、稀少なバラを見ることができる。 NPO法人バラ文化研究所の協力で、江戸時代に作られた植物図鑑『本草図譜』から、当時描かれたバラの図を写真に収めたことも忘れがたい。 ホワイト&ピンクコーナー オールドローズにもっとも多く見られるのが、白色とローズ色のバラ。同じ白やローズでも、色は微妙に異なるので、この2色のグラデーションが幻想的な情景を生み出している。東屋を覆うように咲く‘ホワイト・ミセス・フライト’がとりわけ見事だ。 「インドの夢」と「サンタ・マリアの谷」 比較的新しくできた2つのエリア。「インドの夢」では、インドの亜熱帯地域に自生するロサ・クリノフィラを使い、亜熱帯地方でも丈夫に育つようにと改良された苗が植栽されている。世界的に温暖化が進む中で、これから暑さに強いバラは、より必要とされるだろう。 「サンタ・マリアの谷」は、北イタリア、サンタ・マリアのバラ研究家、ヘルガ・ブリッシェから贈られたバラが植栽されている。バラ園の入り口付近から、谷を下りる形で散策できるエリア。 つるバラとコンパニオンプランツの設え バラの歴史や分類を辿る楽しみもさることながら、回廊式の小道を歩くと、さまざまに展開するバラの設えが眼福で、次第に気持ちが弾んでくる。‘ボビー・ジェームス’ ‘トレジャー・トロープ’などのバラが巨大な姿を見せるオールドローズガーデンや、いたるところのパーゴラやスクリーンに見られるつるバラが特に秀逸。‘ニューポート・フェアリー’のようにパーゴラの屋根とスクリーンに連なり、こぼれんばかりに咲く花もある。 景観を際立たせているのが、宿根草をはじめとする、一年草や球根植物など、さまざまなコンパニオンプランツ。ジギタリス、デルフィニウム、オルレア、カモミールなど、淡い色の花や葉がバラの株元にそよぐさまは、風薫る野原を連想させ、心地よい空間を生み出している。
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京都・奈良 西行ゆかりの桜【松本路子の桜旅便り】
桜を愛した歌人・西行 奈良・吉野山の桜を訪ねてから、桜を多く詠んだ平安末期の歌人・西行のことが気になっていた。 「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」 桜の花が咲き始めると、心が浮き立ち、花とともに宙に舞う、そんな心情だろうか。 またよく知られた歌に、次のようなものがある。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 その歌の通りに、満開の桜の下で往生を遂げている。狂おしいほどの桜への想いを、三十一文字に託した西行の生涯。その一端に触れたくて、足跡をたどる旅に出た。 武士から漂泊の歌人に 西行の出家前の名前は佐藤義清(さとうのりきよ 1118-1190年)。鳥羽上皇の御所の北面を詰所として警護に当たる北面武士だった。23歳の若さで出家したが、その動機には諸説ある。「保元の乱などの政治の混乱に嫌気がさした」「高貴な女性に憧れ、失恋した」「親友の死に世の無常を悟った」などだ。 女性への恋慕の情が溢れる歌を読むと、失恋説をとりたい気持ちにもなるが、若くして妻子を捨て仏門に入るのには、これらの出来事が重なったからではないだろうか。また、歌の道に生涯をかけるという覚悟があったのかも知れない。 勝持寺の‘西行桜’ 京都の西南郊外、大原野に西行が出家した天台宗の寺・勝持寺がある。西行が植えた桜が残っていると知り、ぜひ花を見たいと訪ねた。境内の鐘楼堂脇の枝垂れ桜が満開の枝を広げている。桜は西行が手植えの木から3代目にあたり、代々‘西行桜’として親しまれてきた。西行はこの桜の近くに庵を結んでいたという。 ‘西行桜’のほかに境内には約100本の桜が植えられ、「花の寺」と称される。勝持寺は、京の西山連峰のひとつ小汐山(小塩山)の山麓に位置しているので、‘小汐山’と名づけられた桜も、西行ゆかりの桜といえるかもしれない、 勝持寺の庭には西行が剃髪した際に、鏡代わりに使った鏡石が残され、姿を映したとされる瀬和井の泉がある。宝物館の瑠璃光殿には、室町時代に作られた、寄木造りで朱塗りの西行法師像が納められている。 西行がこの地で詠んだ歌から、世阿弥の作とされる能の演目「西行桜」が生まれた。 「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有りける」 隠遁生活を送るつもりの寺に花見客が押し寄せ、それを桜のせいだと嘆いている。能では西行の夢の中に老木の桜の精が現れ、「それは桜の罪ではない」と告げる。やがて西行と桜の精の魂は同化し、花の精は洛中の桜の名所を謡いながら、行く春を惜しみ舞う、という優美な物語だ。 庵を結んだ二尊院(にそんいん) 出家後しばらくして、西行は京都・嵯峨にある二尊院に庵を結んだ。二尊院は和歌の歌枕として知られる小倉山の麓に位置する。紅葉の名所でもあり、参道にはもみじと桜が交互に植えられ、四季それぞれ趣のある情景が広がる。 「牡鹿鳴く 小倉の山の すそ近み ただひとりすむ 我心かな」 境内には西行庵跡を示す石碑が立ち、寺の近くにある西行井戸の傍らには、この歌の石碑がある。出家後に、孤高の歌人として生きる覚悟のようなものが感じられる歌だ。 吉野山の桜に焦がれて 京都周辺の山寺に住んだ後、西行は高野山に庵を構え、およそ30年にわたりそこを拠点として、諸国行脚の旅に出た。高野山は吉野山に近く、たびたび吉野を訪れ多くの歌を残している。 「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」 「吉野山 こぞの枝折(しをり)の 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねん」 桜の季節が近づくと心は吉野山に飛び、年ごとに訪れては、まだ見ぬ桜を求めて山の奥に足を踏み入れる。桜への想いが溢れる歌だ。 「あくがるる 心はさても 山桜 散りなんのちや 身に帰るべき」 吉野の桜を見ているうちに心が身体から抜け出し桜のもとにある。花が散ってから心は身体に戻ってくるだろうかと、詠う。こうした歌は、単に花を愛でているだけでなく、桜が象徴する何か、また何者かへの哀惜の念が籠められているのではないだろうか。それが読む人の心にさまざまに響き、西行の桜は後の世まで語り継がれている。 奥千本の庵 花の季節に訪れるだけでなく、西行は吉野山の奥深い地に庵を結び、3年ほど暮らしている。 「花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ」 「吉野山 桜が枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にも有るかな」 私が訪れた時も、山の麓では桜が咲いていたが、庵に向かう山道には冷気が漂っていた。3畳ほどの広さの庵の、訪れる人もない暮らしの中で春を待つ気分はいかばかりか、と思う。 「とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば すみ憂からまし」 寂しさが山里でひとり住む身の慰めである、という境地は驚きだ。その寂寥感と無常観が、奥千本の庵の前に立つとより迫ってくる。 庵の近くには、西行が水を汲んだといわれる苔清水が今も湧き出ている。傍らには江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉がここで詠んだ「春雨の こしたにつたふ 清水哉」の句碑があった。芭蕉は西行に憧れて、奥州や諸国を旅し、『奥の細道』などの紀行作品を生み出した。吉野にも2度ほど訪れた記録が残っている。 終焉の地、弘川寺(ひろかわでら) 西行は奥州、四国、伊勢などの地を経て、文治5年(1189年)に、河内国(現大阪府河内郡)の弘川寺に居を構えた。その翌年、病のため73年の生涯を終えている。 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 彼がかつて詠んだ歌の通り、亡くなったのは、旧暦2月16日(西暦3月23日)の桜の季節、満月の頃だった。 西行没後550年を経て、江戸時代の歌僧・似雲(じうん)が西行墳を発見。似雲は境内に西行堂を建立し、西行座像を祀った。さらに西行墳の傍らに「花の庵」を建て、生涯そこで暮らしたという。 私が訪ねた日、西行墳にはなぜか一輪の赤いバラが手向けられていた。墓近くには、「ねがはくは…」の歌碑が立つ。頭上の大木の‘ヤマザクラ’が、あたり一面に花びらを散らしていた。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 勝持寺 住所:京都市西京区大原野南春日町1223-1 電話:075-331-0601 HP:http://www.shoujiji.jp 二尊院 住所:京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 電話:075-861-0687 HP:http://nisonin.jp 吉野山観光協会 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430 電話:0746-32-1007 HP:http://www.yoshinoyama-sakura.jp 弘川寺 住所:大阪府南河内郡河南町弘川43 電話:0721-93-2814 HP:http://www.town.kanan.osaka.jp(河南町HP) Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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奈良・吉野山の桜【松本路子の桜旅便り】
祈りの桜 数年前、桜の季節に吉野山へ出かけた。山陵一面に咲く花の映像に惹かれ、ぜひ訪ねてみたいと思ったのだ。吉野山は奈良県の中央部に位置し、‘ヤマザクラ’を中心に、約3万本の桜がその尾根や谷を埋め尽くす。山岳仏教と結びついた信仰の場として知られ、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されている。 吉野山の桜の由来は、今から約1,300年前に遡る。飛鳥時代に活躍した修験道の開祖である役小角(えんのおづの)が、吉野山に金峯山寺(きんぷせんじ)を開き、本堂に桜の木を彫った蔵王権現を祀った。以来、桜が御神木とされ、信者たちが祈願の折に苗木を寄進するようになった。平安時代以降、献木する人も増え、約8kmの山稜が桜で覆われるようになった。吉野の桜は、人々の祈りの象徴ともいえる。 一目千本 吉野山の桜は、標高の低い場所から高いところへと、順に開花するので、約1カ月間にわたり花見の季節が続く。尾根は下千本、中千本、上千本、奥千本と名づけられ、4月初旬から、桜の開花が駆け上っていく。 花見に格好の場所はいくつかあるが、中でも中千本近くの吉水神社の境内からの展望は見事で、古来より「一目千本(ひとめせんぼん)」と称せられてきた。 吉水神社を訪ねた日はあいにくの小雨模様だったが、山脈に霧がかかり、それはまた幻想的で悪くない情景だった。 上千本の花矢倉の展望台からは、金峯山寺を望むことができる。吉野の町や桜の尾根が見渡せ、吉野山に来たことが実感できる場所だ。義経の忠臣が追っ手に矢を放ったことから、この名前で呼ばれるようになった。 義経千本桜 吉野山は祈りの場所であると同時に、数々の歴史の舞台となり、物語をのちの世に伝えている。文治元年(1185年)平家討伐の後、兄である源頼朝に追われた源義経一行が奥州へ逃れる途中に立ち寄り、身を潜めたのが吉野山の吉水院(現吉水神社)だった。 神社の書院には「義経潜居の間」「弁慶思案の間」など、義経伝説にちなんだ部屋が残されている。追手が迫り、吉水院からさらに奥の大峰山に向かった義経だが、大峰山は女人禁制のため、同行していた愛妾の白拍子・静御前は吉野に残らざるを得なかった。それが二人の今生の別れとなった。 静御前は捕らえられ、鎌倉に送られたが、頼朝の前で「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と義経を慕う今様を唄い、舞ったという。義経と吉野の物語は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目『義経千本桜』で知られ、今に語り継がれている。吉野山の奥には義経が潜んでいたといわれる「義経隠れ塔」が残されている。 後醍醐天皇の南朝 延元元年(1336年)、時の権力者・足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、吉野山に朝廷を開いた。京都では尊氏が光明天皇を擁立していたので、2カ所に朝廷が存在することとなった。京都を北朝、吉野を南朝とする、南北朝時代の始まりである。 後醍醐天皇は吉水院に滞在した後、金峯山寺蔵王堂の西にあった実城寺を御所とし、寺号を金輪王寺と改めた。3年後に後醍醐天皇はこの地で生涯を終えたが、吉野山の南朝は4代、56年にわたり続いた。 豊臣秀吉の花見 太閤秀吉は、文禄3年(1594年)に総勢5,000人を引き連れて、吉野で花見の宴を開いている。徳川家康、前田利家、伊達政宗などの武将をはじめとして、文人、茶人を伴っての花見は、吉野の桜を一躍有名にする出来事だった。5日にわたり「歌会」「能会」「茶会」「仮装行列」が繰り広げられ、その様子は「豊公吉野花見図屏風」(細野美術館蔵)と題した屏風絵に描かれている。 西行庵 「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」 (『山家集』) 『新古今和歌集』の代表的詠み人のひとりで、『山家集』など多くの歌集を残した平安時代の歌人・西行は、吉野を愛し、たびたび訪れている。さらに奥千本の山あいに庵を結び、3年ほど暮らしていた。 武士であった西行は23歳で出家し、諸国を行脚、73歳でこの世を去るまで2,000首を超える歌を残した。花を詠んだ歌はおよそ230首で、吉野の桜も数多い。 奥千本からさらに奥地へ、険しい道を下って、たどり着いた場所には、これが住まいかと驚くほど小さな庵・西行庵が建っていた。奥千本の桜の時期には早すぎたので、訪れる人も少ない寂しい場所の、霧に浮かぶ庵は別世界のように思えた。西行と桜については、改めて綴ってみたい。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 吉野山観光協会 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430 電話:0746-34-1007 HP:http://www.yoshinoyama-sakura.jp 吉水神社 住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山579 電話:0746-32-3024 HP:http://www.yoshimizu-shrine.com Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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京都・平安京の桜 その③【松本路子の桜旅便り】
古都の桜を訪ねる旅 早咲きの桜便りが届き始めると、各地の桜のことが気になってくる。桜といえば‘染井吉野’を思い浮かべることも多いが、桜にはさまざまな名前が冠せられていることを知ってから、名前にゆかりの地をめぐる、そんな旅に興味を抱いた。 京都に原木のある桜や、ゆかりの桜を訪ねる旅の第3弾。古の都の佇まいと桜はよく似合う。今回は仁和寺と、桜守で知られる佐野藤右衛門さんの桜園を訪ねた旅の記憶を綴ってみたい。 仁和寺(にんなじ) 遅咲きの桜‘御室有明’(おむろありあけ、通称‘御室桜’) に会いたくて、桜の季節に仁和寺を訪ねた。仁和寺は仁和2年(886年)、平安時代創建という歴史ある寺院。宇多天皇が譲位後に出家して移り住んだことから、別名「御室御所」と称されるようになった。 仁王門をくぐり、直進した先に国宝の金堂が建っている。中間地点に中門が位置し、その北西に広がるのが‘御室桜’だけを集めた桜苑だ。桜木の数は200本といわれ、花の最盛期には白い雲が一面に舞うような光景が出現する。 ‘御室有明’(通称‘御室桜’) ‘御室桜’は江戸時代から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠まれている。また儒学者・貝原益軒の『京城勝覧』では、吉野の桜に比べても劣らないとし、「花見る人多くして、日々群衆せり」と、その賑わいを伝えている。 ‘御室桜’の特徴としては、見頃が4月中旬の遅咲きであるとともに、樹高が2~3mで、枝が横張り性であることが際立っている。それゆえ、ちょうど人の目線の位置に満開の花が広がって見える。背丈が伸びないのは、この土地の土質から根が張れないのが要因とされるが、詳しいことはいまだ調査中だという。花(鼻)の位置が低いことから、親しみを込めて「お多福桜」とも呼ばれる。 仁和寺には‘御室桜’以外の桜も多く、中でも‘胡蝶’は、古くから寺にあったとされる桜だ。満開時には蝶が舞うような趣があり、この名前がつけられた。開花は‘御室桜’とほぼ同時期なので、併せて晩春の京都を彩る花を楽しむことができる。 桜守・佐野藤右衛門 京都の桜旅で、忘れられない場所がある。それは佐野藤右衛門の私邸にある桜園だ。代々その名前を受け継ぎ、現在16代目の佐野藤右衛門は、祖父である14代、父の15代と、3代にわたる「桜守」として知られる。家業の造園業の傍ら、全国の桜の調査、苗木の保存・増殖に努めてきたことから、敬愛の念を込めて「桜守」と呼ばれるようになった。 『東京 桜100花』という本を私が出版した時、125種類の桜について調べたが、その中の多くが、佐野藤右衛門が発見、もしくは増殖した、とされていた。絶滅寸前の木の後継木として、佐野が育てた苗木が提供された例は数知れない。‘染井吉野’が全国の桜の8割を占めるといわれる今日にあって、これほど多彩な桜に出会うことができるのは、ひとえに「桜守」たちの尽力に他ならない。 佐野家は天保3年(1832年)創業、代々植木職人として御室御所(仁和寺)に仕えてきた。明治期より造園業を営んでおり、桂離宮や修学院離宮などの庭の整備にたずさわっている。16代佐野藤右衛門は、京都迎賓館やイサム・ノグチが設計したパリのユネスコ本部にある日本庭園の作庭などで知られる。2021年には、93歳にして‘オオシマザクラ’の大木の移植作業の陣頭指揮を現場で執り行うなど、いまだ現役だ。2022年4月には94歳になるという。 ‘佐野桜’ 私が佐野藤右衛門の桜園を訪ねたいと思ったきっかけは、桜守の名前を冠した桜があると知ったから。その‘佐野桜’をぜひ、桜守の庭で見たいと思った。‘佐野桜’は京都市右京区の広沢池畔にあった‘ヤマザクラ’の種子を1万個播いた中から選抜して育成された、という。自然交配の結果生まれた新しい種類の桜で、1930年に植物学者の牧野富太郎によって命名された。 半八重の花は、‘ヤマザクラ’より薄い紅色がかかり、ふっくらとしたつぼみや花弁が、優しげな風情を見せる。花径は3~4cmで、成長すると樹高は10mを超える。 桜守の桜園 佐野家の私邸のある敷地内に広がる桜園には、200の栽培品種約500本の桜が植えられている。入り口付近の京都円山公園にある「祇園の枝垂桜」の兄弟木をはじめとして、園内の散策路には、それぞれの桜の名前が分かるように、木の名札が立てられてあり、珍しい種類の桜に出会うことができる。 佐野藤右衛門によって保護、増殖された桜には、‘御室有明’、‘胡蝶’、‘祇王寺祇女桜’、‘大沢桜’、‘平野妹背’など、京都ゆかりの種類のほか、石川県金沢市の兼六園に原木があった‘兼六園菊桜’、宮城県で発見された‘簪桜(かんざしざくら)’などがある。 また、国内では途絶えていた‘太白’は、イギリスの園芸家の庭園で栽培されているのが分かり、接ぎ木用の枝を輸送して、1932年に里帰りさせた。当時の長い船旅から、枝は何度か枯れたが、最終的にジャガイモに枝を挿して輸送に成功したという。その話を聞いて庭の‘太白’の花を見上げると、感慨もひとしおだ。 『桜のいのち 庭のこころ』『桜守の話』など、16代佐野藤右衛門の著書を読むと、彼の桜や自然との付き合い方を知ることができる。同時に、そこには人が生きていくうえでの、たくさんの指針が籠められている。‘佐野桜’が咲く季節に桜園を訪れ、佐野氏の桜に寄せる思いの一端に触れることができたのは、何よりも得難い体験だった。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 仁和寺 住所:京都市右京区御室大内33 電話:075-461-1155 HP:https://ninnaji.jp 植藤造園 (佐野藤右衛門の桜園) 住所:京都市右京区山越中町13番地 電話:075-871-4202 FAX:075-861-7280 HP:www.uetoh.co.jp *桜の季節のみ桜園を一般公開。私邸内の庭ですので、見学のマナーには十分ご留意ください。 *2022年は、コロナ禍のため桜園の公開は中止となっております。 Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html
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京都・平安京の桜 その②【松本路子の桜旅便り】
桜の名前にゆかりの地を訪ねる 早咲きの桜便りが届くと、各地の桜のことが気になってくる。桜といえば‘染井吉野’を思い浮かべることも多いが、桜にはさまざまな名前が冠せられていることを知ってから、名前にゆかりの地をめぐる、そんな旅に興味を抱いた。 今回は、京都に原木のある桜や、ゆかりの桜を訪ねる旅の第2弾。古の都の風情と桜はよく似合う。 ●第1弾はこちら。 京都御所 平安京遷都から明治維新まで、天皇の住まいであった京都御所。その一部は一般公開されている。御所の正殿である紫宸殿(ししんでん)は、即位礼などの儀式を執り行う格式ある場所だが、前面に広がる白砂の庭越しに「左近の桜」と「右近の橘」が植えられているのを望むことができる。 「左近の桜」は、かつて桜ではなく梅だった。中国文化の影響で、それまで花といえば梅だったのが、平安時代になってから、日本各地で見られる桜に代わった。わが国独自の文化が成熟しつつあった時代の証が、紫宸殿の植樹にも表れているのは興味深い。「左近の桜」は、古くから日本に分布する野生の桜‘ヤマザクラ’で、平安時代から今日に至るまで、代々植え継がれている。 御所ゆかりの桜は‘御所御車返(ごしょみくるまがえし)’。慶長16年(1611年)に即位した第108代後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が、桜を見かけその美しさに御車を引き返させたところから、名前が授けられたと伝わる。原木は宜秋門前で見ることができる。 昭和初期に御所にあった原木から増殖されたといわれるのが、‘八重左近桜’。‘ヤマザクラ’の花に似るが、白色の花弁に紅色の筋が入る、気品のある花だ。 京都御苑 江戸時代には、御所を囲むように200もの宮家や公家の邸宅が建ち並んでいた。明治維新を迎え、都が東京に移ると、公家たちは天皇とともに京都の地を離れた。その後、屋敷跡地は公園として整備され、敷地は御所を含み約100万㎡に及ぶ。 苑内には約1,000本の桜があり、中でも摂政や関白を多く輩出した五摂家のひとつ近衛家の邸宅跡の約60本の‘枝垂桜’‘八重紅枝垂’は、見事な景観を作り出している。そのほか‘ヤマザクラ’、御所の南にある‘奈良の八重桜’、出水の小川付近の‘御衣黄(ぎょいこう)’ ‘市原虎の尾’ ‘平野妹背’など、京都ゆかりの桜が並ぶ。御苑の門は24時間開放されているので、早朝の花見も可能だ。 平安神宮 平安神宮は平安遷都1,100年を記念して1895年に創建された神社で、神苑は明治の造園家7代目小川治兵衛らの手により造園された。総面積約3万3,000㎡で、平安京千年の技法を結集した日本庭園とされる。池泉回遊式庭園の池を囲むそこかしこに植えられた‘枝垂桜’は、野生の‘エドヒガン’が突然変異して生まれたもので、花色が紅色のものを‘紅枝垂’、その八重の種類を‘八重紅枝垂’と呼ぶ。 平安神宮の‘八重紅枝垂’は、明治時代に仙台市長が苗木を献上したもので、市長の名前から「遠藤桜」という別名がある。もともとは京都御苑にあった苗木を増殖したものなので、「里帰り桜」とも呼ばれている。 小説家の谷崎潤一郎は、その著書『細雪』の中で、平安神宮の桜の情景を「夕空にひろがっている紅の雲」と描写している。まさに満開の桜が空一面に広がる様が、目に浮かぶようだ。 *植物学の慣例に従い、野生の桜をカタカナ、栽培品種の桜を漢字で表記しています。 Information 京都御所 京都府京都市上京区京都御苑 https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/index.html 京都御苑 京都府京都市上京区京都御苑3 https://www.fng.or.jp/kyoto/ 平安神宮 京都府京都市左京区岡崎西天王町97 http://www.heianjingu.or.jp/shrine/heianjingu.html 桜の開花情報 日本気象協会:https://tenki.jp ウェザーニュース:https://weathernews.jp Credit 写真&文/松本路子 写真家・エッセイスト。世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2018-22年現在、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルムを監督・制作中。 『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。www.matsumotomichiko.com/news.html