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【バラの育種史】ダマスクローズ~18世紀から現代に伝わる香りのバラ

【バラの育種史】ダマスクローズ~18世紀から現代に伝わる香りのバラ

花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で今回解説するのは、高貴な香りを放つダマスクローズ。古い由来を持つダマスクローズをご紹介した前回に続き、18世紀から現代まで愛され続ける、馥郁とした香りを持つダマスクローズの品種と逸話をご紹介します。

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育種の潮流の外にいたダマスクローズ

18世紀の終わり頃になると、主に王侯貴族の間でバラの花が庭やサロンの会場などで飾られるようになり、特に大輪で花弁が密に詰まったケンティフォリアや赤や紫に花開くガリカがもてはやされるようになりました。

しかし、強い香りが珍重されたダマスクローズは、アロマオイルなどの原料としてトルコなどで大規模に栽培されてはいたものの、庭植えバラの育種の流れからは外れていました。ダマスクローズはケンティフォリアに比べると花弁の数が少なく、花色は明るいピンクばかり。ガリカのように色変化を楽しめるわけでもなく、樹形もより大きくなりがちで、洗練度に欠けると評価されていたからでしょう。そんなダマスクローズでしたが、今の時代まで伝えられた美しい品種も少なからず存在します。

セルシアナ(Celsiana)- 1732年以前、春一季咲き

セルシアナ(Celsiana)
Photo/田中敏夫

鮮烈なダマスク香。中輪のセミ・ダブル、平咲きの花が房咲きとなります。春一季咲きですが、開花の期間が長く、長い期間楽しめます。細いけれど固めの枝ぶり、中型のシュラブとなります。

耐寒性・耐病性ともに優れ、多くのバラ愛好家に、ダマスクの美点をすべて備えた優秀な品種と評されています。

非常に古い時代にオランダで育種されたと見られ、古くはロサ・ダマスケナ・ムタビリス(R. damascena mutabilis)と呼ばれていました。開花期間が長く、開花したばかりの明るいピンクと退色して白くなった花が同時に見られることからか、“ムタビリス(色変化)”と呼ばれたようです。

1812年頃、フランスの園芸研究家であったセル(Jacques-Martin Cels)に捧げられた、あるいは彼自身が世に紹介したともいわれています。このことから、“セルのバラ(Celsiana)”と呼ばれることになりました。

アルバにクラス分けされている‘アメリア(Amelia)’とよく似ていて、クラスも異なる他人の空似の好例です。

アメリア(Amelia) – 1823年、アルバ、春一季咲き

アメリア(Amelia)
Photo/田中敏夫

マリー・ルイーズ(Marie Louise)- 1810年以前、春一季咲き

マリー・ルイーズ(Marie Louise)
Photo/田中敏夫

大輪、丸弁咲きあるいはロゼット咲き。花弁の数はケンティフォリア並みに多いですが、花形は乱れがちです。花色はくすみがちながら深みのあるピンク、花弁にピンクと白の細かな筋が入ることがあり、とても美しいです。ダマスクとしては少し小さめ。立ち性のシュラブとなります。

この品種の由来にはいくつかの説があります。

ロイE. シェファードは、著作の中で、この品種は1800年以前にすでに公表されていたと記しています。

ジョワイオ教授は、‘アガタ・インカルナータ’と同じ品種なので、さらに古いはずと主張。さらにバラ研究家のディッカーソンは、この品種は17世紀にはすでに知られていた‘ブラッシュ・ベルジック’の別名だろう、と言っていて、定説はありません。

ダマスクローズの頂点にあるといってよい優れた品種(”Graham Stuart Thomas Rose Book”より)ですが、皮肉なことに、ナポレオンの2番目の妻の名を冠したこの品種は、ジョゼフィーヌがマルメゾン館の庭園に集めたバラ品種の一つだといわれています。

古い時代には‘ブラッシュ・ベルジック’、‘ベル・フラマンド’など、別の名称だったようです。時代が下がるにつれ、‘マリー・ルイーズ’という品種名が最も一般的なものになりました。

交配親は不明です。花弁が密集する花形からケンティフォリアにクラス分けされることもありますが、葉や樹形にはダマスクの特徴が濃厚に出ることが多く、ダマスクにクラス分けされるのが適切のように思います。

マリー・ルイーズ(Marie Louise:1791-1847)は、ナポレオン・ボナパルトがジョセフィーヌと離婚した後、皇妃として迎えたオーストリア皇帝フランツ1世の娘、ハプスブルグ家の王女です。フランス革命の渦中でギロチン刑に架せられたマリー・アントワネットは大叔母にあたります。

マリー・ルイーズとナポレオン2世
‘マリー・ルイーズとナポレオン2世’ Painting/ Joseph-Boniface Franque [Public Domain via Wikimedia Commons]

ジョゼフィーヌとの間に子ができないため、自分の生殖能力には欠陥があるのではないかと悩んでいたナポレオン(ジョゼフィーヌには前夫との間に2子があった)ですが、愛人との間に私生児が誕生したことにより、名家の娘との間に子を設けて皇帝たる自分の子孫を残したいと思うようになりました。そこでナポレオンはジョゼフィーヌを離縁し、マリー・ルイーズと婚儀を結ぶことにします。この結婚は敵対するハプスブルグ家との間のもので、政略結婚そのものでした。

じつは、ハプスブルグ家が皇帝として君臨するオーストリアは、ナポレオン率いるフランス軍に何度も蹂躙され、マリーはナポレオンを忌み嫌っていました。婚儀が定められたときマリーは泣き暮らしたと伝えられています。しかし、結婚直後は、ナポレオンがマリーに穏やかに接したことから、フランスでの生活は平穏であり、嫡子ナポレオン2世にも恵まれました。

しかし、連戦連勝を重ね、無敵を誇ったナポレオンも、ロシア遠征で致命的な敗北を喫するなど敵対するヨーロッパ諸国同盟に追われるようになり、退位を余技なくされます。マリーはナポレオンがエルベ島へ流刑となった後はウィーンへ戻り、ナイベルグ伯と密通して娘を産むなどナポレオンとは疎遠になってしまいました。

ナポレオンが懇願し続けたにもかかわらず、マリー・ルイーズはエルベ島へ駆けつけることもありませんでした。ナポレオンがエルベ島を脱出し、パリへ向かっているという知らせを聞いたときには仰天して、「またヨーロッパの平和が危険にさらされる」と言ったと伝えられています。

政略結婚、また密通などにはかなり寛容な時代風潮があったにせよ、”英雄”ナポレオン・ボナパルトの”不実”な妻という悪名を後々まで残すことになってしまったのは、ある意味では気の毒なことだと言えるかもしれません。

レダ(Leda)- 1827年、春一季咲き

レダ(Leda)
Photo/田中敏夫

中輪、25弁ほどの小皿を重ねたようなオープンカップ形の花形となります。赤いつぼみは開花すると、深紅に縁取りされた白いバラとなります。筆で色づけしたように見えるため、ペインテッド・ダマスクと呼ばれることもあります。

強くはありませんが、甘い香り。深い葉緑、細いですが強めの小さなトゲが密生する枝ぶり、120~180cmほどのブッシュとなります。

現在、‘ピンク・レダ’と呼ばれているダマスクが古い時代から、主にフランス内で流通していました。ごく最近まで、‘ピンク・レダ’は‘レダ’の枝変わり種だとみなされていましたが、実際には逆で、1827年(1825年という説も)、英国において、‘ピンク・ダマスク’の枝変わりとして生じたのが‘レダ’だという説が有力となっています。

レダ
‘Leda and the Swan’ painting/Giambettino Cignaroli [Public Domain via Wikimedia Commons]

ギリシャ神話の主神ゼウスは、スパルタ王ティンダリオスの王妃であった美しいレダに横恋慕します。幾度となく思いを拒絶されたゼウスは、鷲に追われて傷を負った白鳥に化けてレダの哀れみを誘い、そしてついに想いを果たします。

この密通により、レダは2つの卵を産み、1つの卵からはクリュタイムネストラとヘレナという女の子、もう1つからはカストルとポルックスという男の子と、それぞれ双子が生まれました。ヘレナは長じて絶世の美女となり、多くの男達が妻に迎えようとして争うこととなりましたが、求婚者らが集って話し合い、ギリシャ諸都市を総帥するミュケナイ王アガメムノンの弟、スパルタ王メネラオスが夫となることが決定されました。しかし、神話は海原のうねりのようにさらに大きく展開してゆきます。

黄金の林檎を巡って主神ゼウスの妻ヘラ、智謀の女神アテネ、そして愛の女神アフロディテ(ビーナス)が争ったとき、主神ゼウスはそれをトロイア王プリアモスの息子パリスがいちばん美しいと判じた女神のものとするという裁定を下しました。

ヘラは王国を、アテネは戦いにおける勝利を、そして、アフロディテは人間のなかでもっとも美しい女を与えるという約束をして裁定者パリスを誘惑します。パリスが選んだ一番美しい女神は、アフロディテでした。パリスは約束通り、人間のなかで最も美しい女を娶ることができるという褒美を得ることとなりました。

人間の中で最も美しい女ヘレナは、すでにアガメムオンの弟メネラオスの妻となっていたのですが、パリスはアフロディテの助けによってヘレナを誘惑し、故郷トロイへ逃げ帰ってしまいます。これが、ギリシャ、トロイ間の戦争(トロイ戦争)の発端となりました。

トロイ戦争では英雄アキレウスや、アキレウスと戦って非業の死を遂げるパリスの兄へクトールなどが活躍します。この顛末は、ホメロスの叙事詩『イーリアス』で雄々しく語られています。

城壁をはさんで長く続いた戦闘は、「木馬の計略」によりギリシャ軍の勝利となることは周知のとおりです。

トロイの木馬
‘トロイへの木馬の侵攻’ Painting/Giovanni Domenico Tiepolo [Public Domain via Wikimedia Commons]

トロイ戦争に勝利したギリシャ軍は、それぞれ帰国します。ヘレナとともにレダの生んだ卵から生まれたクリュタイムネストラも美女として知られており、ギリシャ軍の総大将、アガメムノンの妻となっていました。しかし、アガメムノンは出兵の際、戦勝を祈願して娘を生贄として捧げてしまい、クリュタイムネストラは愛娘を失ったことから夫アガメムノンへの深い恨みを抱いていました。そして、トロイ戦争から戦勝凱旋帰国した夫アガメムノンを、情夫アイギストスの協力のもと謀殺してしまうのです。

イスパハン(Ispahan)- 1832年以前、春一季咲き

イスパハン(Ispahan)
Photo/田中敏夫

枝のあちこちから花芽が伸びて、中輪、60弁ほどの花弁が密集する丸弁咲きの花となります。

鮮やかなミディアム・ピンクの花は、時を経るとくずれて色を失いますが、「オールドローズの中では、最初に開花して、最後まで咲いている…」とグラハム・トーマスが解説しているなど(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)、一季咲きとしては非常に花期の長いことで知られています。

鮮烈な香り。柔らかな枝ぶりで、ボリューム感たっぷりの大きなシュラブとなります。

イスパハンはペルシャの古都市エスファハーンのフランス名です。現在のイランを中心に支配したイスラム王朝であるサファヴィー朝(1501-736年)の首都でした。

1832年に、その地で自生していた株がヨーロッパに持ち込まれましたが、育成者も育成年も不明です。

ポンポン・デ・プラーンセ(Pompon des Princes:”王子のポンポン咲き”)と呼ばれることもあります。

ニュージーランドのバラ研究家で、『オールドローズの魅力(The Charm of Old Roses)』という著作を残したナンシー・スティーンはこの品種をことのほか愛したようです。著作の中で、「このダマスクローズが満開になったとき、文字通り数千にもおよぶ完璧な花が、あたかも噴水かピンクに色づいたシャワーであるかのように、長くアーチングする枝から垂れ下がってくる…」と、賛嘆を込めて語っています。

マカロン イスパハン
‘Ispahan macaroon’ Photo/ Charlotte Marillet [CC BY SA-2.0 via Wikimedia Commons]

なお、パリの著名なパティシエ、ピエール・エルメが、ローズ・カラーの生地にライチとラズベリーをあしらったマカロン “イスパハン”は、この品種をイメージしたものとのことです。

日本にも支店があり、この“イスパハン”を味わうことができるのは嬉しいですね。

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