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【バラ物語】偉大なバラ育種家J-P・ヴィベールを受け継ぐヴィベール農場が生み出したバラたち

【バラ物語】偉大なバラ育種家J-P・ヴィベールを受け継ぐヴィベール農場が生み出したバラたち

花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で今回取り上げるのは、最も偉大なバラ育種家とも称されるJ-P・ヴィベールから受け継がれ、数々の美しい品種を生み出したヴィベール農場のバラ。3代にわたるヴィベール農場の変遷と、彼らが生み出したバラの品種をご紹介します。

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動乱の19世紀

19世紀の初期は、英雄ナポレオン・ボナパルトの時代でした。しかし、戦えば必ず勝つという神話も次第に色褪せ、ついに没落し南大西洋の孤島セント・ヘレナに流刑となり、1821年に同島で死去しました。

しかしながら、ナポレオンが表舞台から降りたヨーロッパの政情は落ち着きに向かう訳でもなく、絶対王政の復活を目指す勢力、自由主義者による反抗など、不穏な空気は収まる気配はありませんでした。

イギリス、フランスなどは帝国主義の色合いをさらに強め、中東や衰え著しい極東の大国清への侵攻を進め、アヘン戦争、アロー戦争などを起こします。また、アジアやアフリカの植民地化に後れを取っていたプロイセンも鉄血宰相ビスマルクが主導し、ことあるごとにフランスと対立。1870年には普仏戦争に勝利したプロイセンが盟主となってドイツ帝国が成立するなど、各国が利権を巡って政治的・軍事的な駆け引きを続けている時代でした。

このような時代ではありましたが、フランスにおけるバラの育種は隆盛を誇っていました。ラッフェイやラシャルムなどが活発に新種を公表して時代を彩っていましたが、600を超える新品種を世に送り出し、後の時代、最も偉大なバラ育種家と賞賛されるJ-P・ヴィベールは、19世紀の中頃に至ると、年齢を重ねて引退の時期を迎えていました。

ヴィベール農場のヘッドガーデナーであったフランソワ-アンドレ・ロベール(Français-André Robert)は、1845年頃からヴィベール農場で育種も行っていました。当時ヴィベールによる育種と銘打たれた新品種の中にも、実際にはロベールが育種した品種もあったようですが、今日、それがヴィベールによるのか、またはロベールによるのかは分からないままです。

ヴィベール農場の変遷

ヴィベール農場の育種の主体は、ヴィベールからロベールへ。そして、ロベール・エ・モロー、さらにモロー=ロベールへと移りゆきます。

1851年、ヴィベールは引退し、農場はロベールが運営することとなりました。

ロベールは、ヴィベールが活動の終わり頃に熱心だったモス系品種の育種をそのまま受け継いで、優れたモスを数多く育種していましたが、1857年にモロー(Moreau)を共同経営者として迎え、以後ロベール・エ・モロー(Robert et Moreau)という名称で活動することになりました。

1863年、2人は現場から退き、農場はモロー=ロベール(Moreau-Robert)へ引き継がれました。モロー=ロベールは、1864年から1890年頃まで、ロベール・エ・モロー名義で数多くの品種を市場へ提供しました。そのため、モロー=ロベール名義の品種があまり記録されていません。しかし、実際には2人はすでに一線では活躍していませんでしたので、ここでは、育種者として次のように整理しました。

1851~1856年 ロベール
1857~1863年 ロベール・エ・モロー
1864~1900年 モロー=ロベール(ロベール・エ・モロー名義であっても)

モロー=ロベールは、その名前から2人と姻戚関係にある人物だと推察されますが、どんな関係であったのかよく分かってはいません。

1900年頃、農場はシェダン=ギノワッソー(Chédane-Guinoisseau)に引き継がれました。ギノワッソーは1907年頃まで育種を行っていたようですが、その後農場は他の作物などに供されることになったのか、今日見ることはできません。

繰り返しになりますが、ヴィベールの育種の情熱はロベールに引き継がれ、そこへモローが加わりさらに発展。2人の引退を受け、仕事はモロー=ロベールへ受け継がれました。彼らが活躍した1851年から1890年は、暮れなずむオールド・ローズからモダン・ローズの黎明の発展に至る時代だったといえるのではないでしょうか。

ロベール育種の品種(1851~1856)

ここからは、それぞれの育種したバラ品種を見ていきましょう。初めに、ロベールが育種した品種をご紹介します。

‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ(Mademoiselle de Sombreuil)’ -1851

マダム・ソンブレイユ
Photo/田中敏夫

花径8~10cm、カップ形、60弁を超える花弁が密集したロゼット咲きの花形。クリーミー・ホワイトの花色。樹高240~360cmと大型に育つクライマーです。アーチ仕立てにしたり、壁に這わせたり、枝をおおらかに伸ばす工夫が必要です。

淡いピンクのティー・ローズ、‘ギガンティスク(Gigantesque)’の実生から育種されたといわれています。

主にアメリカで、‘ソンブレイユ’という名前で流通していた品種は、ロベールが育種したものとは異なるものではないかといわれ続けてきました。1959年にオハイオ州のウィヤントが‘コロニアル・ホワイト(Colonial White)’という名前で公表したクライマーが、旧来の品種である‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’と著しく類似していたことから、流通の過程で混同されてしまい、‘ソンブレイユ’という品種名で販売されるようになったというのが、その主張でした。

2006年の秋、ARS(アメリカバラ協会)は、現在、主にアメリカで流通している‘ソンブレイユ’は、1850年にフランスで作出された‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’とは異なる品種であり、今後は‘ソンブレイユ’(Sombreuil;ラージ・フラワード・クライマー・ホワイト、1959年)という品種名に統一し、ロベールが育種した旧来の品種は、‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’(Melle. De Sombreuil;クライミング・ティー・ホワイト、1850年、Robert)という別品種として区別すると公示しました。

フランス革命は、1789年、市民によるバスチーユ牢獄襲撃に端を発します。この襲撃にあたって、市民はまず王党軍の武器庫を襲い、武器を手にしました。この武器庫の管理責任者であったのがソンブレイユ侯爵です。侯爵は後に捕らえられ、死刑に架せられることになりました。

刑執行の直前、令嬢であったマリー・ソンブレイユ(Marie Maurille Virot de Sombreuil)は、父侯爵が王党派に与していない人であることを主張して、刑の執行停止を懇願しました。革命派は刑死した王党派の血を飲み干せばその言を信じようと、刑の執行中止の受け入れがたい条件を出したのですが、マリーは見事にそれを果たして、父の窮地を救いました。

マリー・ソンブレイユ
‘父の助命を乞うマリー・ソンブレイユ’ Painting/ Pierre Puvis de Chavannes [Public Domain via Wikimedia Commons]

この美しいティーローズ・クライマーは、父を救ったマリー・ソンブレイユにちなんで命名されました。

‘グロワール・デ・ムスーズ(Gloire des Mousseuses)’ – 1852

グロワール・デ・ムスーズ
Photo/田中敏夫

これが本当につぼみなのかと思われるほど苔(モス)に覆われたつぼみから、ピンクの花弁が湧き出るように展開し、花弁が密集するロゼット咲きとなる花形になります。

花色はシルバーシェイド気味の明るいピンク、外縁部分が淡く色抜けしたり、花弁に斑模様のようにピンクの濃淡が生じることもあります。

新枝が直立して先端に大輪の単輪咲きとなる様子は、モス・ローズのイメージからは遠いものです。

1852年、ラッフェイ(Jean Laffay)によって育種されたという説もありますが、ここではロベールにより育種・公表されたとしました。交配親は不明のままです。

丸葉が多いモス・クラスの中にあって、幅狭で非常に大きな葉であること、例外的なほどの大輪花を咲かせること、秋に返り咲くことがあると報告されていることなどから、交配には他の系列の品種が使われたことが想像されます。おそらく、モス・ローズの中でもっとも大輪花を咲かせる品種です。

‘ルネ・ダンジュー(René d’Anjou)’ – 1853

ルネ・ダンジュー
Photo/田中敏夫

花径7~9cm、ルーズなカップ形、ロゼット咲きの花形。

赤みの濃いつぼみは、開花するとストロング・ピンクの花色となります。つぼみを覆う萼筒(がくとう)が飾りつけたようにカールする様子が優雅です。モス・ローズの魅力をふんだんに振りまく品種です。

幅狭で尖り気味のつや消し葉。茶褐色のモスは、他のモス品種に比べればそれほど顕著なものではありません。樹高120~180cmの立ち性のシュラブとなります。

1853年、育種・公表されました。交配親は不明です。

ルネ・ダンジュー
‘Portrait of Rene d’Anjou’ Painting/ [Public Domain via Wikimedia Commons]

ルネ・ダンジュー/Rene d’Anjou(1409-1480)の父は、ナポリ王を兼ねていたこともある、フランス・アンジュの領主ルイ2世。母は、美しいポートランド・ローズを捧げられたことでもよく知られている女傑ジョラン・ダラゴンです。 

フランス、イタリアの貴族と領地を巡って争いを繰り返す生涯を送りましたが、自らも絵をよくするなど、芸術への愛好が深いことのほうでむしろ知られている人物です。温厚な人柄から”善良王”と呼ばれたことが、それを証左しているようにも思えます。

ルネの娘、マルグリット(英名マーガレット)はイングランド王ヘンリー6世に嫁ぎました。当時は貴族の娘が婚姻するときには、領地や財産などの持参金付きであることが習慣でした。しかし、この婚姻では持参金がないばかりではなく、ヘンリー6世の領地を分割するなど王家につながる者にとっては受け入れがたいものであったため、マルグリットのランカスター家とヨーク家の王位をめぐる争い、バラ戦争へ突入する原因の一つになりました。マルグリットの気性の激しさは、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー6世1部~3部』からもうかがうことができますが、女傑ジョラン・ダラゴンの娘ですから、さもありなんという気がします。

育成者ロベールはフランス、アンジューでナーセリーを運営していたことから、その地をかつて領有していたルネへ捧げたものと思われます。

‘ジェネラル・クレベール(Général Kléber)’- 1856

ジェネラル・クレベール
Photo/田中敏夫

ロゼットまたはクォーター咲きとなります。花色はヴァーミリオン(朱色)の少し入った明るい華やかなピンク。花と樹形のバランスが取れていること、また全体的に、いかにも古い由来のものであるという印象を受けます。

1856年に育種・公表されました。交配親は不明です。

クレベール(Jean Baptiste Kleber;1753-1800)は、ナポレオンと同時代に生きたフランスの将軍です。

クレベール将軍
‘General Jean Baptiste Kleber’ Painting/Jean Guérin [Public Domain via Wikimedia Commons]

青年期には建築家になることを目指していましたが、フランス東部のストラスブルクというドイツ語圏に生まれたことから、オーストリア軍の兵卒として軍務に就いたこともありました。フランス革命の際には一兵卒として革命軍に参加し、やがて将軍にまで昇進しました。

熱烈な共和制支持が災いしてか、やがて失脚して退役しましたが、再びナポレオンに見いだされ、1798年のエジプト遠征へ同道します。当時のエジプトはオスマントルコ帝国の統治下にあり、マムルークと呼ばれる軍団に事実上統治されていました。アレクサンドリアからカイロへ向け侵攻するフランス軍は、ギザの大ピラミッド付近へ至ったとき、マムルークの騎兵の急襲を受けます。勇猛果敢に襲いかかる騎兵に対し、フランス軍は方陣という防御姿勢を敷いてこれを防ぎました。

方陣の前にはマムルークの死体の山が築かれましたが、それを越えて突撃してくる騎兵にフランス兵は恐怖し戦慄したと言われています。この戦闘は、最終的にはよく防御したフランス軍の勝利に終わりました(“ピラミッドの戦い”)。

クレベールは、この戦闘以前に行われたアレクサンドリアでの戦闘(フランス軍が勝利)の際、負傷してその地へ止まっており、この戦いには参加しませんでした。

陸戦には勝利したフランスでしたが、ナイル河口付近で行われた海戦において、ネルソン提督が率いる英国艦隊によりフランス艦隊が殲滅されると(“ナイルの海戦”)、フランス軍は兵站を絶たれ、孤立してしまいました。

この不利な状況を受け、ナポレオンは、少数の兵のみを率いてフランスへ帰還してしまいました。取り残されたクレベールは駐エジプト、フランス軍司令官として兵とともに駐留していましたが、1800年、カイロで回教徒の刺客に暗殺されてしまいます。司令官を失ったフランス軍15,000の兵は、翌1801年にオスマントルコ・英国連合軍に降伏することとなりました。信義には篤いといわれているナポレオンですが、エジプト遠征においては多くの兵を見放し、彼の経歴に汚点を残しました。

ロベール・エ・モロー育種の品種(1857~1863)

続いて、ロベール・エ・モローによる品種をご紹介します。

‘オメール(Homère)’ – 1858

オメール(Homère)
Photo/田中敏夫

花径7~9cm、丸弁咲き。株が充実していると、花弁が密集したロゼット咲きのような花形となります。

明るいピンクで、花弁の縁が色濃く染まったり、ストライプになったりと変化の出る花色です。

楕円形の縁のノコ目が強く出る、深い色合いのつや消し葉、樹高90~120cmの小さめのブッシュとなります。鉢植えにして、花色の変化を楽しむのも一興でしょう。

1858年に育種・公表されました。交配親は不明です。

オメールとは、『イーリアス』(アキレウスとへクトールの戦闘など、トロイ戦争を題材にした叙事詩)、『オデュッセイア』(トロイ戦争に勝利したのち、帰国するオデュッセウスを主人公にした叙事詩)の作者とされる、紀元前8世紀頃の伝説的な詩人、ホメロスのフランス名です。

‘マルブレ(Marbrée)’ – 1858

マルブレ
Photo/田中敏夫

花径7~9cm、30弁ほどの丸弁咲き、またはカップ形となる花形。

レッド・ブレンドとされていますが、深みのある、同時に、混じり気のないピンクの花色となることが多いように思います。また、花弁に白い斑が入り、非常に印象深い色合いとなることがあります。

大きめでくすんだ色の葉、細いけれど硬めの枝ぶり、樹高90~120cmのまとまりのあるシュラブとなります。

1858年に育種・公表されました。交配親は不明です。

バラについての味わい深い記述で名高いバラ研究家、ヘーゼル・レ・ルジュテル(Hazel Le Rougetel)は、著作『ヘリテージ・オブ・ローゼズ/Heritage of Roses』の中で、

「…これはコント・ド・シャンボールと判明しました。そして、小さな庭で、この品種を育てようとするだれにでも、もう2株のポートランド、明るく澄んだピンクのジャック・カルティエと、深いピンクに斑の入るマルブレを薦めることにしています…」

と記しています。ポートランド・クラスの中でも、とりわけ美しい3品種を並べて観賞するのはさぞ楽しいことかと思います。

モロー=ロベール育種の品種(1864~1900)

最後に、モロー=ロベールが育種した品種をご紹介しましょう。

‘コマンダン・ボールペール(Commandant Beaurepaire)’ – 1864

コマンダン・ボールペール
Photo/田中敏夫

花径11~13cm、オープン・カップ形の花形。

クリムゾンとホワイトの対比が鮮やかなストライプとなりますが、どちらかといえばクリムゾンが勝って、全体としては赤が前面へ出てくるといった印象を受けます。

細いけれど硬めの枝ぶり、そのため花はしっかりと上向きに咲くことが多くなります。

1864年に育種され、1874年に一季咲き、ガリカの枝変わりによるストライプ品種として公表されました(公表当時は‘パナシェ・ダングレ’-Panachée d’Angersという品種名)。

しかし、5年後の1879年に、弱いながらも返り咲きする性質のものが現れ、それが今日ブルボン・クラスのストライプ種の一つとして、‘コマンダン・ボールペール’という品種名で流通しています。

コマンダン・ボールペール(Nicolas Joseph Beaurepaire;1740-1792)はフランス革命時代、王党派であるプロシャ軍の侵攻に対峙したフランス軍将校でした。

 コマンダン・ボールペール
‘Nicolas Beaurepaire’ Painting/ Raymond Monvoisin [Public Domain via Wikipedia Commons]

1792年、ルイ16世の架刑に憤慨したプロイセンは、革命阻止のためフランス国内へ侵攻してきました。フランス軍はフランス北部ヴァルダンに駐留していましたが、司令官であったガルヴォー将軍(General Galbaud)はもともと王党派であり、プロイセンの侵攻に敵対する気持は強くありませんでした。指揮を任されたボールペール中佐は抗戦を試みたものの、プロイセン軍の包囲に窮して自害し、軍は降伏しました。

しかし、その後、フランス軍には国の存亡の危機を感じ取った多くの義勇兵が加わり、プロイセン軍をヴェルダン近くのヴァルミーで迎え撃ちました。戦闘は砲撃戦を主体とした小競り合いといってよい程度の小規模なものでしたが、プロイセン軍は兵站の不足などもあり退却し、フランス義勇軍の勝利となりました。この勝利は戦闘という意味では小規模な勝利でしたが、フランス革命にとっては王党派を打ち破ったという点でマイルストーンになり、革命運動は嵐となってフランス中を席捲することになりました。

‘ムスリン(Mousseline、別名;アルフレッド・ド・ダルマ-Alfred de Dalmas)’ – 1881

ムスリン
Photo/田中敏夫

オールド・ガーデン・ローズとしては例外的に大輪、丸弁咲きの花となります。

花色は淡いピンク。花弁の縁は退色して白く抜け、濃淡が出ることがあります。

萼や若枝にモスが生じますが、密生するというほどではありません。モス・ローズとされるのが通例ですが、頻繁というわけではないものの、返り咲きする性質があることから、ダマスク・パーペチュアルへクラス分けされることもあります。

1855年にラッフェイ(Jean Laffay)が育種・公表したとも、ポルトメール(Portemer)が作出したともいわれていますが、ここでは、1881年、モロー=ロベールにより作出されたとしました。

さらに、この品種はアルフレッド・ド・ダルマ(Alfred de Dalmas)の名で呼ばれることもありますが、‘ムスリン’と‘アルフレッド・ド・ダルマ’は別品種とする説もあり、誰が本当の育種者なのか、また、淡いピンクとピンクの2品種は同じものなのか、異なるのかなど、大きな混乱を招いています。

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