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イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’

イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’

バラに冠せられた名前の由来や、人物との出会いの物語を紐解く楽しみは、豊かで濃密な時間をもたらしてくれるものです。自身も自宅のバルコニーでバラを育てる写真家、松本路子さんによる、バラと人をつなぐフォトエッセイ。今回は、イギリスのヴィクトリア女王の名を冠したオールドブルボンローズ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’と、ヴィクトリア女王にまつわるストーリーをご紹介します。

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イギリスの骨董市巡り

仕事でロンドンに行き、時間があると立ち寄るのが、骨董市やアンティークショップ。骨董といっても、手に入れるのはティーカップなど生活の中で使用するささやかなものがほとんどだが、時代を経て存在感が増した品々を見て歩くのが楽しい。

気に入ったものを手に取ると、店の主人から「それはヴィクトリアンだ」と告げられることが多い。ヴィクトリア女王が統治していた、1837年から1901年までのヴィクトリア朝時代に作られたものを意味する言葉だ。イギリスでは100年以上を経たものをアンティークと呼ぶので、まさに真の骨董品。ヴィクトリア朝時代は、文化やファッションが栄えた時期で、残された物のたたずまいも瀟洒だ。

バラとの出合い

‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’
今年5月、わが家のバルコニーで初めて咲いた‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。

昨年出かけた千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘バラ園」で出合ったのが、‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’。コロンとしたカップ咲きの花に惹かれて、名前を確かめた。ヴィクトリアはイギリスの女王だと推測できたが、ラ・レーヌがフランス語なので、ヴィクトリア女王を意味するのか確信が持てなかった。それでも昨秋に苗木を取り寄せて、植え付けてみた。

バラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’
細くしなやかな枝に、たくさんの花を付ける可憐なバラだが、その成長ぶりには驚かされる。

届いたのは新苗だったが、冬までに2m以上枝を伸ばし、春になるとさらに成長し、一面に花を付けた。調べると、ラ・レーヌはフランス語で女王を意味するのだという。わが家のニューフェイスは、やはりヴィクトリア女王だった。

ヴィクトリア時代

ヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王の肖像写真。1800年代半ばから写真技術の発達によって、女王やロイヤル・ファミリーの肖像が多く残されるようになった。 Everett Collection/Shutterstock.com

ヴィクトリア女王は、大英帝国を象徴する君主といわれる。女王が統治した時代、英国は世界各地を植民地・半植民地化し、領土を10倍以上に拡大している。在位は63年7カ月という長きにわたり、産業革命を経たのちの英国は、技術、経済、文化を大きく発展させ、一大帝国を築き上げた。ちなみにヴィクトリア女王は、2022年までイギリス女王であったエリザベスⅡ世の高祖母(祖父母の祖母)に当たる。

ヴィクトリア女王誕生

ヴィクトリア女王は1819年、ロンドンのケンジントン宮殿でアレクサンドリナ・ヴィクトリアとして生まれた。1837年にウィリアム4世が崩御し、王には子どもがいなかったので、姪であるヴィクトリアが、18歳にしてハノーファー朝第6代の女王に即位した。

『ヴィクトリア女王 英国の近代化をなしとげた女帝』

若くして女王となったヴィクトリアの決意を、彼女が残した日記で読み取ることができる。

「私をこの地位に就かせたのは喜ばしい神のお導きによるものなので、わが国に対する義務を全力で果たしたいと思う」

(『ヴィクトリア女王 英国の近代化をなしとげた女帝』デボラ・ジャッフェ著、二木かおる訳、原書房刊)

ヴィクトリアとアルバート

ヴィクトリア女王とアルバート公
ウィンザー城でのヴィクトリア女王とアルバート公、長女ヴィクトリア王女が描かれた絵画。Everett Collection/Shutterstock.com

ヴィクトリア女王は1840年、いとこであるザクセン=コーブルク家のアルバート王子とセント・ジェームズ宮殿で挙式し、バッキンガム宮殿にて披露宴を行った。ドイツの小さな公国の王子であったアルバートと会ったヴィクトリアは、彼を一目見たとたんに夢中になり、結婚する気になったという。アルバートはハンサムで、礼儀正しく、知的でユーモアがある青年だった。

結婚当初、女王の夫であるアルバートには何の役割も与えられなかったが、ヴィクトリアにとって信頼できる相談相手となった。ヴィクトリアは結婚から10カ月後に第一王女を出産し、その後も出産は続いたので、アルバートは妻の代理として行事に参加するようになった。やがて国政について意見するのを許されるようになり、ヴィクトリアとアルバートの共同統治の様相を帯びていった。

最初は外国人のアルバートを受け入れられなかったイギリス国民も、その存在を次第に認め始めていた。王立技芸協会の会長となり、芸術と工芸を発展させたアルバートは、1851年のロンドン万国博覧会を取り仕切るなどの実績を残している。

映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」

映画「ヴィクトリア 世紀の愛」
映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、表面。

若き日のヴィクトリア女王の半世紀を描いた劇映画に、「ヴィクトリア 世紀の愛」(原題「The Young Victoria」)がある。監督ジョン=マルク・ヴァレ、主演エミリー・ブラントで、2009年に作られた英・米合作の映画だ。11歳で王位継承順位の一番にあると知らされたヴィクトリアの、女王への自覚、アルバートとの恋、2人の共同統治に至るまでの道のりなどが描かれている。

映画「ヴィクトリア 世紀の愛」
映画「ヴィクトリア 世紀の愛」のオリジナル版DVDのパッケージ写真、裏面。

結婚式のシーンでは、髪に花飾りを付けた女王が登場する。実際の挙式でも伝統的なティアラを嫌い、モックオレンジの白い花飾りを用いたという。また現在、白のウエディングドレスを着る習慣はヴィクトリア女王から始まったと伝えられている。前述のデボラ・ジャッフェの著書によると、ウエディングドレスはクリーム色だったが、披露宴で白いシルクのドレスを身に着けたという。それまで花嫁はさまざまな色のドレスを着ていたので、白いドレスは印象的だったのだろう。

ロイヤル・ファミリー

ヴィクトリア女王は20年の結婚生活の中で、9人の子どもをもうけている。王室のニュースが新聞や雑誌で報道されるようになると、一家はロイヤル・ファミリーとして、国民のあこがれとなっていった。その伝統は今もイギリス王室に受け継がれている。また子どもたちがヨーロッパ各地の王家と婚姻関係を結び、女王はヨーロッパ王家の家長的存在でもあった。

家族のための家

ワイト島 オズボーン・ハウス
イギリス南東部に位置するワイト島にあるオズボーン・ハウス。女王一家が夏の休暇を過ごすようになって、ワイト島はヨーロッパ王室のリゾート地となった。RogerMechan/Shutterstock.com

バッキンガム宮殿やウィンザー城の堅苦しい生活から逃れて子どもたちと家庭生活を過ごすために、2人はイギリスのワイト島にオズボーン・ハウス、スコットランドにバルモラル城を購入した。

スコットランド バルモラル城
スコットランド・アバディーンシャーにあるバルモラル城。A.Karnholz/Shutterstock.com

女王は特にバルモラル城を「楽園」と呼び、田園生活を楽しんだ。以前から子どもたちをスケッチしていたが、それに加え、たくさんの水彩による風景画を描いている。1850年代に写真術が発達すると、ヴィクトリアとアルバートは、積極的に被写体となった。残された写真から、2人の関係や家族の様子、当時の服装や生活様式を垣間見ることができる。

バルモラル城はエリザベス女王も夏の避暑地として愛し、この地で生涯を終えたことは記憶に新しい。

喪服の女王

1861年に夫のアルバートが亡くなると、ヴィクトリアの嘆きは大きく、オズボーン・ハウスとバルモラル城に隠遁し、その生活は10年の長きにわたった。また、生涯を喪服で過ごすことに決め、以後40年にわたり黒服を着続けている。

1870年代初頭から、徐々に気力を取り戻した女王は公務に復帰し、以前にも増して大英帝国に君臨する存在となっていった。1877年には英領インドの女帝となり、これ以降、「女王にして女帝、ヴィクトリア」と署名している。

映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」

映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」
映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」チラシ表面。

1887年、女王即位50周年を記念した式典に英領インドからイギリスにやってきたのが、のちに女王の秘書となったアブドゥル・カリム。映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」(原題「Victoria&Abdul」)は、女王とカリムの絆を描いている。

映画「ヴィクトリア女王 最後の秘密」
2019年に日本公開された映画、チラシ裏面。

女王は彼からインドの生活や言葉を学び、食事のメニューにカレーを加えたという。白人至上主義の時代に、インド人を重用する女王への周囲の反感は強く、息子のエドワード7世により歴史から抹殺されていた実話に基づき、2017年に作られた映画。監督スティーヴン・フリアーズ、主演ジュディ・デンチで、実際にワイト島のオズボーン・ハウスで撮影された美しい映像が印象的だ。

19世紀の終焉とともに

クィーン・ヴィクトリア記念碑
バッキンガム宮殿の正面に建てられたクィーン・ヴィクトリア記念碑。maziarz/Shutterstock.com

女王の在位60周年記念式典が執り行われたのが、1897年。20世紀が幕開けした頃から女王の健康状態は悪化し、1月に家族に囲まれてオズボーン・ハウスで息を引き取った。波乱に満ちた81年の生涯は、19世紀の終焉とともに閉じられたのだ。盛大な葬儀の後、ヴィクトリアは夫アルバートの隣に埋葬され、バッキンガム宮殿の正面のザ・マルに巨大な記念碑が建立された。

2019年には女王の生誕200年を記念したさまざまな行事が執り行われ、バッキンガム宮殿で特別展が開催されている。

バラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’ ‘La Reine Victoria’

‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’

1872年にフランスで作出されたオールドブルボンローズ。ラ・レーヌはフランス語で女王を表し、イギリスのヴィクトリア女王に捧げられたバラ。作出者はジョセフ・シュワルツ。コロンとした小花を枝一面に付け、よく返り咲く。枝変わりに、淡いローズ色の‘マダム・ピエール・オジェ’がある。

花形:ラベンダーローズ色のデープカップ咲き
花径:5~6cm
樹高:2~3m
樹形:しなやかな枝が扇状に広がる
香り:ティー+ダマスクにフルーツの香り

バラ‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’と2色鉄砲ユリ
‘ラ・レーヌ・ヴィクトリア’、6月の二番花と2色の鉄砲ユリ。
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