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英国庭園「ヒドコート・マナー」をつくった謎めいた園芸愛好家

英国庭園「ヒドコート・マナー」をつくった謎めいた園芸愛好家

花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で今回取り上げるのは、現在も高く評価される美しい2つの庭園をつくり上げた園芸愛好家、ローレンス・ジョンストン。ジョンストンの経歴とエピソードとともに、彼の名を冠したバラ‘ローレンス・ジョンストン’をご紹介します。

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ローレンス・ジョンストンの生い立ちと経歴

ローレンス・ウォーターベリー・ジョンストン(Lawrence Waterbury Johnston:1871-1958)は、植物コレクターとして、また植物のフォルムと繊細な色調を生かした美しい2つの庭をつくったことで知られています。1つは英国グロスター州にあるヒドコート・マナー(Hidcote Manor)。もう1つはフランス・リヴィエラ、モナコ公国から東方に位置するセール・ド・ラ・マドンヌ(Serre de la Madone:“マドンナの温室”)です。

ローレンス・ジョンストン
Drawing/Mihailo Grbic [CC-BY-SA-3.0-RS via Wikimedia Commons]

ジョンストンはじつに興味深い人物です。アメリカ、バルチモアで財をなした富裕な一家に生まれました。したがって、国籍はアメリカ。しかし、彼自身は、母が長くパリに滞在していたことからパリで生まれ、やがてイギリスへ移り住み、ケンブリッジのトリニティ・カレッジへ進学し、そこで学位を得ました。

1900年には英国籍も取得、自ら英国軍予備役に登録しました。当時イギリスは南アフリカ・ボーアにおける武力紛争(第二次ボーア戦争)に巻き込まれていました。予備役として登録されていたジョンストンでしたが、すぐさま実戦に参加。それから第一次世界大戦終了となる1918年まで、長期にわたって戦役に従事していました。彼がメージャー(少佐)・ローレンス・ジョンストンと呼ばれるのは、この長い軍歴ゆえです。

このようにジョンストンは、アメリカ国籍を持って生まれながら、フランス育ち、さらには英国空軍の少佐であったという、なかなかに変わった経歴の持ち主です。そんな彼は、戦役時に南アフリカの珍しい植物に接したことがきっかけとなったのか、やがて植物コレクションや園芸に熱中するようになりました。

1907年、母がイングランド東部、コッツウォルズ地方のマナー・ハウスであるヒドコート・マナーを取得すると、ジョンストンはすぐに庭園の設計に取りかかりました。設計にあたっては、以前の記事、『おっとりノラとお転婆ナンシー~ガーデンデザイナーの母とプラント・ハンターの娘』でご紹介したガーデン・デザイナー、ノラ・リンゼーの協力を受けました。簡単な彼の行動歴は以下の通りです。

1922年、アルプス地方でプラント・ハンティング
1924年、フランス、リヴィエラに所在するセール・ド・ラ・マドンヌを購入
1927年、南アフリカにおいてプラント・ハンティング
1930年、中国雲南省においてプラント・ハンティング
1948年、ヒドコート・マナーを庭園管理団体ナショナル・トラストへ寄贈

ジョンストン自身はフランスのセール・ド・ラ・マドンヌへ居を定め、残りの人生を同地で送り、1958年に亡くなりました。

名園「ヒドコート・マナー・ガーデン」

ジョンストンは自分の死後、ノラ・リンゼーにヒドコート・マナー・ガーデンを贈与するつもりでした。しかし、ノラのほうが先に亡くなったため、自然保護や歴史的建造物の保護活動を行っている財団ナショナル・トラスト( (National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty:“歴史的名所や自然的景勝地のためのナショナル・トラスト”)に寄贈することに決めました。

英国のコッツウォルズにあるヒドコート・マナーは、現在でもナショナル・トラストによって管理され、英国のみならず世界的な名園として名を馳せています。

ヒドコート・マナー・ガーデン
現在のヒドコート・マナー・ガーデン。Photo/ HARTLEPOOLMARINA2014 [CC-BY-SA-4.0 via Wikimedia Commons]

ヒドコート・マナーの庭づくりは、ジョンストンの母親が邸宅と敷地を購入した1907年から開始され、今日まで改良が続けられています。現在のヒドコート・マナーでは、”ルーム(Rooms)”と呼ばれる、それぞれのテーマに合わせ、壁や生け垣によって区分されたガーデンが、訪問者を楽しませてくれます。しかし実際のところ、こうした庭づくりが本格的に発展したのは、1948年に庭の管理がナショナル・トラストへ移管された後のことでした。

ジョンストン自身は、イタリアやフランスでの庭づくりの潮流であったシンメトリーに整形された庭園を好んでいたようです。そのことは、彼が、1948年にヒドコート・マナーの管理をナショナル・トラストへ委ね、自身はフランス南部、コート・ダジュールの別の庭園、セール・ド・ラ・マドンヌ(Serre de la Madone:“マドンナの温室”)を《終の棲家》としたことからも推し量ることができます。

セール・ド・ラ・マドンヌ
セール・ド・ラ・マドンヌ・Photo/ [Public Domain via Wikimedia Commons]

ガーデンをめぐる軋轢

ヒドコート・マナー・ガーデン
現在のヒドコート・マナー・ガーデン。Mo Wu/Shutterstock.com

ヒドコート・マナーをナショナル・トラストが管理するようになったとき、オールド・ローズの研究で名高いグラハム・トーマスなどのエキスパートが協議を進め、庭園の設計の見直しや運営方法について、いくつかの改善案を提出しました。それは、庭園をレンガの壁や生け垣で仕切って独立した小庭園に区分し、訪問者はそれぞれのテーマの変化を楽しむことができるようにするというもので、現在のガーデンはグラハム・トーマスなどの提案に沿って改善された姿ということになります。そして今日までナショナル・トラストによって管理され、日々改善が加えられています。

しかしながら、その案に異を唱えたのがナンシー・リンゼーでした。ナンシー・リンゼーは、庭園全体を贈与されるはずであったノラ・リンゼーの娘です。

ナンシーは、庭園がナショナル・トラストの管理に移された際、管理法を検討する会議にメンバーとして参加していました。望まれての参加ではなく、庭園開設のときに母ノラがジョンストンをサポートしたという経緯を利用して、自ら乗り込んできたというのが事実のようです。

彼女は自身を《ローレンス・ジョンストンの目》と称していました。前述の通り、ジョンストンも世界各地へ出向き、稀少で新奇な植物のコレクションに努めたりしていましたので、ナンシーは世界中を旅するプラント・ハンターとして、ジョンストンの植物探しを代理する者だという自負があったのでしょう。社交嫌いのジョンストンのことです。はねっ返りのナンシーとの相性は悪かったでしょうが、案外園芸植物における嗜好は同じような傾向があったのかもしれません。

ナショナル・トラストへ管理を委譲した後にヒドコートを訪れたジョンストンは、秘書に手紙をしたため、

「(庭園管理については)非常に満足している。管理メンバーにナンシー・リンゼーがいることを除けば…」と書きました。彼はナンシーを忌み嫌い、「あの女には耐えられない…」とまで言ったこともあるようです。

案の定、ナンシーの常軌を逸した言動はすぐに他のメンバーとの修復しがたい衝突を引き起こし、彼女はヒドコート・マナーの運営メンバーから退くことになりました。ジョンストンが作成したと伝えられる植栽プランは残っていません。管理運営から手を引かざるを得なくなり、激怒したナンシーがジョンストンの植栽プランを焼き棄ててしまったからと伝えられています。

ジョンストン自身は育種を行ったわけではありませんが、彼に由来するバラが知られています。

ローレンス・ジョンストン(Lawrence Johnston)-  1923年

ローレンス・ジョンストン
Photo/田中敏夫

大輪、セミ・ダブル、花弁が乱れがちな平咲きの花形、伸びた新枝の先端に、数輪の房となって開花します。花色はイエロー。“純粋な”という表現がぴったりの、混じりけのない色です。

非常に深い色合いの艶消し葉は、花色と強いコントラストを見せ、見事です。クライマーですが、ランブラーとの中間的な性質を示す比較的柔らかな枝ぶりで、樹高350~500cmとなります。

1923年、リヨンの“魔術師”と謳われるフランスのペルネ=ドゥシェにより育種されました。

ピンクのHM‘マダム・ウジェンヌ・ヴェルディエ(Mme. Eugène Verdier)’と、原種交配種のイエローの‘ペルシャン・イエロー(R. foetida persiana)’との交配により育種されたといわれています。

ジョンストンは、この品種の権利をペルネ=ドゥシェから買い取り、1株のみヒドコート・マナーの庭園に植えていました。そんな品種が世に広く出回るきっかけとなったのは、彼と交友があったグラハム・トーマスの努力によるもの。“ヒドコート・イエロー”と呼ばれていたこの品種をたまたま目にしたトーマスは、これを展示会へ出す許可をジョンストンに求めました。ジョンストンは、「自分の名を冠するなら…」という条件でそれに応じたということです。1948年にはRHSのAwards of Merit(英国王立園芸協会が推薦の園芸植物)を獲得し、市場へ出回るようになりました。

ちなみに、このバラには‘ル・レーヴ(Le Rêve)’という姉妹品種があります。‘ローレンス・ジョンストン’とまったく同じ交配により、同時に育種された姉妹品種です。したがって、並べても区別がつきにくいほど似ています。

バラ‘ル・レーヴ’
‘ル・レーヴ’。Photo/Rudolf [CC BY-NC-SA 3.0 via Rose-Biblio]

公表当時、‘ローレンス・ジョンストン’は秘蔵されて世間には知られていませんでしたが、この‘ル・レーヴ’は広く流通していました。しかしながら時を経るに従い、ヒドコートにただ一つだけあった“黄色いバラ”の由来に興味を抱いて購入する愛好家が増えたせいか、立場が逆転し、現在では‘ローレンス・ジョンストン’が広く流通しているのに対し、この‘ル・レーヴ’は入手が難しくなってしまいました。「ル・レーヴ」とはフランス語で「夢」という意味です。

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