花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で今回取り上げるのは、世界史に燦然とその名を残す英雄ナポレオンと、彼に対峙した人々。そのエピソードと、彼らに捧げられたバラの数々をご紹介します。
目次
ナポレオンの光と闇
英雄ナポレオン。栄進を続け、皇帝にまで昇り詰めながら、やがて敗北し孤島に流され、そこで生涯を閉じました。栄光、挫折と零落、あまりにも英雄的な一生でした。
そんな彼に、多くの有能な軍人や政治家たちが心酔し、ときに命を捧げました。しかし、そんなナポレオンにも、まれに敗北もあり、部下を裏切るという“負”の面もありました。今回は、そんな裏から見たナポレオンを追ってみましょう。
英雄ナポレオン・ボナパルトの登場
革命勃発後、共和派と王党派が争いを繰り返し、混乱が続くフランス。
1795年、パリで勃発した王党派の武装蜂起に対し、共和派である国民公会軍副司令官であったナポレオンは、配下の砲兵隊を動員し、人員殺傷力の高い、ぶどう弾を市街地で発砲するという大胆な戦法をとりました。こうして圧倒的な戦力差により、王党派はあっという間に殲滅されてしまいました。今日的な描写をするならば、バリケードを築いて気勢をあげる蜂起軍に対し、戦車を出して砲撃するといったイメージです。
ナポレオンはこの戦功により師団陸将に昇進しました。これが英雄ナポレオンの登場です。
ナポレオンにちなんだバラとして最も有名なのは、‘シャポー・ド・ナポレオン(Chapeau de Napoléon)’でしょう。
シャポー・ド・ナポレオン(Chapeau de Napoléon)
つぼみを覆う萼片の部分に羽毛のような苔(モス)状の突起が生じ、そのため、つぼみ全体がナポレオンの愛用した帽子に似た形となることから、シャポー・ド・ナポレオン(“ナポレンの帽子”)という名前で親しまれています。
モスの1品種として紹介されることが多いのですが、つぼみ以外にはモスは生じませんので、ケンティフォリアとされるのが本来のクラス分けかと思われます。コモン・モスの枝変わり種であるというのが大方の研究者の見解です。
実際に目にできる機会はほとんどありませんが、その他にも、1800年頃オランダから出回り始めた育種者不明のピンクのガリカ‘ナポレオン’や、1834年にフランスのラッフェイが育種・公表したピンクのチャイナローズの‘ナポレオン’などが知られています。なお、1800年頃は、ナポレオン自身、世間に知られた軍人ではありませんでしたので、ガリカの‘ナポレオン’は本来別名であったものを、彼が世間で知られるようになった後に改名して再発売されたものだと思われます。
さて、ナポレオン自身の話に戻りましょう。連戦連勝の快進撃は続きます。
1796~7年、イタリア遠征~オーストリア、ウィーンを包囲し勝利。
1798年、エジプト遠征、ピラミッドの戦いで勝利。
ナポレオンはピラミッドの前に集結した兵を前にして、「兵士諸君! ピラミッドの上から40の世紀に渡る歴史が諸君を見つめている…」と訓示したと伝えられています。
兵士を見捨てたナポレオン
ピラミッドの戦いで劇的な勝利をおさめたナポレオンでしたが、その10日後、ホレーショ率いるイギリス艦隊とフランス艦隊との間で行われたナイル海戦において、ホレーショの奇抜な戦法にフランス艦隊は虚を突かれ、大敗します。この敗北により、フランスは地中海における制海権を失い、エジプト遠征軍は兵站を断たれました。ナポレオンは兵站と退路を断たれ、窮地に陥りました。
翌1799年、ナポレオンは側近のみを連れてひそかにエジプトを脱出、帰国してしまいます。兵卒を見捨てたにもかかわらず、ピラミッド前の戦勝により手に入れたたくましいアラブ馬、数十頭を同道することは忘れなかったとの悪評を残しました。
フランスへ帰国したナポレオンは、同年、ブリュメールのクーデターを起こし総裁政府の実権を握って第一統領となり、のちに皇帝に即位するという階段を駆け昇ってゆくことになります。
ナポレオンの帰国後、遠征軍の指揮を任されたのが次将、ジャン・B・クレベール(Jean Baptiste Kleber:1753-1800)でした。
1万5,000名を超える兵卒とともに残されたクレベールは、フランス軍司令官として兵とともにエジプトに駐留し続けましたが、1800年、カイロで回教徒の刺客に襲われ死亡しました。司令官を失い孤立したフランス軍は翌1801年、オスマントルコ・英国連合軍に降伏しました。
逃げ帰ったナポレオンは議会を制して統領となり、政権の頂点にあったことにはすでに触れました。次第に権力への野望を露にするナポレオンに対し、革命の精神を継承する純然たる共和主義者たちは、共和軍司令官であったクレベールを共和制のシンボルとして称えたのでした。
その政治的な影響力を恐れたナポレオンは、帰国したクレベールの遺体の上陸を許さず、マルセイユ沖の牢獄島に留め置く命令を発したほどでした。
その後、クレベールの遺骸は曲折を経て、彼の故郷であるストラブ―ルに移され埋葬されました。
クレベールにちなんで命名されたモスローズがあります。
ジェネラル・クレベール(General Kleber)
中輪または大輪、花色はヴァーミリオン(朱色)が少し入った明るい華やかなピンク。
尖り気味の葉先、明るい艶消し葉。樹高120~180㎝の立ち性のシュラブとなります。
花と樹形のバランスがとれていること、また、全体の印象がいかにも古い由来のものであることを感じさせます。
フランス、バラ界における重鎮、ヴィベールのもとで働き、ヴィベールが引退した後その農場を継承したロベール(M. Robert)が1856年に育種・公表しました。交配親は不明です。
話は1798年、フランス艦隊とホレーショ・ネルソンが率いるイギリス艦隊が激突したナイル海戦に戻ります。
フランス艦隊、英雄ホレーショ・ネルソン指揮のイギリス艦隊に敗れる
ナイルの海戦では、海岸を背に、浅瀬に艦を横に並べて防御態勢をとったフランス海軍に対し、ネルソンは座礁の危険を顧みず、海岸とフランス艦船との間に艦船を突入させ、防御態勢にない背面から急襲するという、思いもかけない戦法をとります。フランス艦隊は対応できず、一日にして総崩れとなり、以後地中海における制海権はイギリス海軍のものとなりました。
孤立したナポレオンが、兵士を見捨てて帰国したことはすでに触れました。
ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson:1758-1805)はナポレオン戦争時、イギリス海軍を率いた司令官(のちに提督)です。
ネルソンは1805年、フランス・スペイン艦隊とのトラファルガー沖海戦において負傷し、戦死しました。しかしイギリス艦隊は見事勝利し、ネルソンは海軍のみならず、イギリス軍の英雄として名声を勝ち得ました。戦勝を記念して命名されたロンドン・トラファルガー広場には、巨大なブロンズ製ライオンに囲まれて記念塔が立ち、塔の頂にはネルソン像があります。
このトラファルガー沖海戦、戦勝200年を記念して命名されたバラがあります。
レディ・エマ・ハミルトン/Lady Emma Hamilton
花径9〜11cm、フォーマルなカップ形のロゼット咲き。オレンジまたはコーラル(珊瑚色)となる花色。気候や環境により濃淡が出やすいようです。
つぼみの先端などに濃いオレンジ・レッドが入り、それが開花した後に残り、花弁の外縁などに色濃く染まることもあります。
フルーティな強い香り。銅色が縁に出る、深い色合いの幅広の葉。細い枝ぶり、樹高120~180cmの、こんもりとした中くらいのサイズのシュラブとなります。
2007年、オースチン農場から育種・公表されたイングリッシュ・ローズです。交配親は公表されていません。
なぜ、この品種がトラファルガー戦勝記念になるのかは、説明が必要でしょう。バラの名前のもとになったレディ・エマ・ハミルトンは、ネルソンの愛人でした。2人は、いわゆる不倫の関係にありましたが、この関係は当時から巷ではよく知られていた話でした。
美貌の公娼エマ・ハミルトン
エマ・ライアン(Emma Lyon:1765-1815、後にハミルトン)は、18世紀後半、ロンドン社交界で美貌の公娼、モデルとして名を馳せた女性です。
ナポリ駐在の英国大使であったウィリアム・ダグラス・ハミルトン卿(Sir William Douglas Hamilton:1730-1803)は、甥の紹介でエマを知り、愛人として関係を続けていましたが、5年後、正式の妻として迎えました。この結婚により、エマは“レディ・エマ・ハミルトン”と呼ばれることとなりました。ハミルトン卿はエマより30歳以上も年上でしたが、彼女は美しいだけではなく、優しく、機知に富み、愛される性格だったようです。
エマは、フランス包囲網構築のためにナポリへ来ていたホレーショ・ネルソンと運命的な出会いをします。5年後、ネルソンは再びナポリを訪れ、エマと再会しました。ナイルの海戦でフランス艦隊を壊滅させた戦功などにより、猛将としてフランス海軍を震え上がらせていたホレーショはしかし、数度の戦闘により、右目の視力を失い、右腕もなくしていました。様変わりし、凛々しい容貌を失ってしまったネルソンでしたが、むしろそれ故でしょうか。2人は激しい恋に落ち、それからネルソンが死去するまで、エマ・ハミルトンの夫のハミルトン卿、ネルソン夫人のフランシス・ニズベット(Frances “Fanny” Nisbet)との間には不可思議なほどの友愛的な関係が出来上がります。
エマは、イギリスへ帰国したウィリアム卿のもとを去り、ネルソンと同棲しはじめましたが、夫ウィリアムに先立たれ、ネルソンがトラファルガー海戦で華々しい戦死を遂げた1805年の後は零落し、貧窮のうちに死去しました。
戦えば必ず勝つといわれた、ナポレオンに話を戻しましょう。
ナポレオン、ウィーン郊外アスペルン・エスリンクの戦いで敗れる
1806年、ナポレオン率いるフランス軍18万と、プロイセンを盟主とする対仏同盟軍15万が、ドイツのイエナ-アルシュタット(Jena-Auerstadt)において激突しました。
この戦闘においては、機動力に勝るフランスが大勝利し、プロイセン軍は致命的な打撃を被り壊滅。フランス軍のベルリン入城を許してしまいました。この勝利によりフランスは広大な国土を獲得し、皇帝ナポレオンは絶大な権力を手中にし、絶頂期を迎えました。
連戦連勝、向かう所敵なしといった感が強かったナポレオンですが、一度手痛い敗北を喫したことがあります。それが1809年、ウィーン郊外、ドナウ河畔のアスペルン・エスリンク(Aspern-Essling)の戦いです。
当時、カール大公が率いるオーストリア軍は、進撃するフランス軍に対抗できず退却を続けていました。ナポレオンがドナウ河南岸からオーストリアの首都ウィーンへ入城した際にもそれを阻止せず、ドナウ北岸で軍を再編成していました。そしてウィーンから発し、ドナウ河の浅瀬で渡河を試みたフランス軍に対し、態勢を整えたオーストリア軍がこれを迎え撃ち、激戦となりました。戦況は次第にオーストリア軍へ傾き、フランス軍は退却を余儀なくされたのです。
この戦闘において、ナポレオンの忠実な部下であり、友でもあったモンテベロー公爵が戦死したこと、彼の夫人にささげられた美しいピンクのガリカがあることは、以前の記事『オールドローズからモダンローズへ~ピンク花編〜<前編>』でもご紹介しました。
ナポレオンを打ち負かしたカール大公はオーストリアの英雄と讃えられました。
カール大公と呼ばれたアルシデューク・シャルル(1771-1847)は神聖ローマ帝国レオポルド2世の子、レオポルド2世の跡を継いだフランツ2世の弟にあたります。ドイツ名はカール・フォン・エスターライヒ(Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen)といい、通称カール(仏語ではシャルル)大公と呼ばれています。
フランス革命が勃発するとすぐに軍に参加し、1796年には元帥、1801年には陸軍大臣へ昇格しています。早い昇進は皇帝の弟という高貴な血筋への配慮からきたものと思われますが、軍人としても優れた能力を発揮しました。
反革命勢力として、たびたびナポレオンやナポレオン配下の将軍たちと戦闘を行いました。ナポレオンとの直接の対決においては屈辱的な敗北を喫することのほうが多かったのですが、アスペルン・エスリンクの戦いではナポレオンを打ち負かし、オーストリアの英雄と讃えられたことは、前述の通りです。
大公に捧げられたバラがあります。
アルシデューク・シャルル(Archduke Charles)
花径7〜9cm、たおやかに伸びた細い枝先に可憐な丸弁咲きの花が開きます。
深いピンク気味の赤から淡いピンクまで、ストライプとなったり、花全体が染まったり、花弁の部分だけが色抜けするなど、赤とピンクが乱雑に現れる変異の激しい花色です。
樹高120~180cmで、柔らかな枝ぶり、枝が繁茂するブッシュとなります。
フランスのデュブール(Dubourg)により育種された品種が、当時の著名な育種家であったジャン・ラッフェイ(Jean Laffay)のもとに持ち込まれ、1825年頃、公表されました。
最初のチャイナローズである、‘オールド・ブラッシュ(Old Blush)’の実生から生じたといわれています。
ナポレオンの凋落
ナポレオンは1812年6月、65万にも及ぶ大部隊を率いてロシア遠征を開始し、モスクワ制圧まで成功しますが、勝機が薄いと判断したロシア帝国軍は、首都モスクワなどに自ら放火するなどの焦土作戦、兵站遮断をもくろみます。フランス軍はこれに苦しみ、12月には退却を余儀なくされました。退却を開始したフランス軍兵卒は飢餓と疫病に苦しみ、執拗なロシア追撃により崩壊してしまいます。
ナポレオンはここでも部下のミュラ元帥に後を託して脱出。あとを託されたミュラ元帥自身も、兵を捨てて脱走してしまいました。侵攻開始時65万ほどいた兵員のうち、無事帰還できた将兵は2万人ほどであったということです。
零落する皇帝ナポレオン。1814年には退位を余儀なくされ、コルシカ島とイタリア本土との間にある小さな島、エルバ島に追放されてしまいます。しかし、1815年には島を脱出してパリへ進撃し、皇位へ復帰を果たします。いわゆる百日天下の始まりです。
しかし、1815年、ベルギー、ブリュッセル郊外のワーテルローにおいて、イギリスなど対仏連合軍、プロシアとの戦闘において敗れたナポレオンは、南大西洋の孤島セント・ヘレナへ幽閉され、1821年、同地で没しました。胃癌であったとも、ヒ素による毒殺であったともいわれています。
1840年、遺体はフランスへ返還され、現在はパリの廃兵院に葬られています。
ワーテルローの戦いにおいて、対仏連合軍を指揮していたのがウェリントン公爵(Arthur Wellesley:1769-1852)です。
ウェリントン公爵、アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington:1769-1852)は1769年、アイルランド、モーニントン伯爵家の三男として生まれました。生年はナポレオンと同じでした。
フランスの士官学校で学んだ後、イギリス陸軍に入隊。ベルギー、インド、ポルトガル・スペインなどで戦功を重ね、1814年、ウェリントン公爵に叙されました。
早くからトーリー党に属し政界でも活躍していましたが、ナポレオン戦争終了後は政治活動に専念しました。当時のイギリス政界はトーリー党、ホイッグ党が競い合う不安定な状況のもとにありましたが、2度内閣を組織、首班として首相も務めました。
1852年死去。墓所はロンドン、セント・ポール大聖堂内にあります。
ウェリントン公爵に捧げられたバラがあります。
デューク・オブ・ウェリントン(Duke of Wellington)
花径11〜13cmとなる大輪、高芯咲きとなるクリムゾンのHP。
樹高150cmほどの中型のシュラブとなります。秋の開花はあまり期待できないようです。
1864年、フランスのルイ=ザヴィエル・グランゲール(Louis-Xavier Granger)により育種・公表されました。一般的には英語名で知られていますが、フランス語名‘デュク・ド・ヴェリントン(Duc de Wellington’が正式な品種名です。ダーク・レッドのHP、‘ロード・マコーリー(Lord Macaulay)’の実生から生じたとのことです。
なぜフランスの育種家が、自国の英雄ナポレオンを追い落としたイギリス軍人に捧げたのか、不思議に思っています。
Credit
写真&文 / 田中敏夫 - ローズ・アドバイザー -
たなか・としお/2001年、バラ苗通販ショップ「
写真 / 今井秀治 - バラ写真家 -
いまい・ひではる/開花に合わせて全国各地を飛び回り、バラが最も美しい姿に咲くときを素直にとらえて表現。庭園撮影、クレマチス、クリスマスローズ撮影など園芸雑誌を中心に活躍。主婦の友社から毎年発売する『ガーデンローズカレンダー』も好評。
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