花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りする連載で今回スポットを当てるのは、戦禍の時代の中でバラを愛し続けたマリー・ヘンリエッタ・“バラ伯爵”・ショテック。偉大なロザリアンの苦難に満ちた生涯とその功績、そして彼女にまつわるバラたちをご紹介します。
マリー・ヘンリエッタ・“バラ伯爵”・ショテック
マリー・ヘンリエッタ・“バラ伯爵”・ショテック(Marie Henriette Rosengräfin Chotek)と呼ばれた女性のことはご存じでしょうか?
激動の時代に翻弄され、必ずしも幸福な生活を送ることができなかった偉大なロザリアンについて、その生涯を追うことにしました。

ショテック伯爵家に生まれたマリー・ヘンリエッタ
1863年、ウィーンから遠からぬドルナ・クルパ(Dolná Krupá:当時はオーストリア・ハンガリー帝国、現在はスロヴァキア共和国)に豪奢な館を有するショテック伯爵家に娘が生まれ、マリー・へンリエッタ(Marie Henriette Chotek:1863-1946)と名付けられました。
父ルドルフ・ショテック伯爵(Rudolf Chotek:1822-1890)は1890年に死去、爵位を継承する子息がいなかったため、マリー・ヘンリエッタは爵位と館を相続することとなりました。したがって、マリー・ヘンリエッタは伯爵夫人ではなく、本人自身が爵位の継承者です(“バラ伯爵”)。
マリー・ヘンリエッタは生来、内向的な性格でした。彼女はやがて、深くバラを愛するようになりました。
ドルナ・クルパ・バラ園の設立
ドルナ・クルパの館の周囲には、多くの池などを配した100ヘクタール(皇居ほどの広さ)を超える庭園が広がっていました。

1890年、マリー・ヘンリエッタは、相続した遺産を活用し、パリのライ・バラ園(Roseraie de L’Haÿ:1892- )あるいはドイツのザンガーハウゼン・バラ園(Rosarium Sangerhausen:1903-) のようなバラ園を造成することに決意しました。
当時、ドルナ・クルパはオーストリア・ハンガリー帝国領でした。帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公妃ゾフィー(Sofphie Chotek:1868-1914)は、マリー・ヘンリエッタの従妹にあたります(1914年、サラエボで皇太子夫妻が暗殺され、これがきっかけとなって第1次世界大戦が勃発)。
マリー・ヘンリエッタの人物像
マリー・ヘンリエッタは、王侯貴族が集うサロンなど、いわゆる貴族的な日常を嫌っていたようです。ウィーンへ赴くことなくドルナ・クルパの館にとどまり、バラを育てるという彼女の唯一の情熱に、許される時間すべてを捧げていました。
非社交的で孤独がちであり、生涯結婚することはありませんでしたが、決して偏執的な性格ではなく、使用人にも優しく接する温厚な人柄であったようです。
1903年、ドイツ・バラ友好者会(Verein Deutscher Rosenfreunde – VDR :Union of German Friends of Roses)が結成されたとき、彼女は(著名なバラ園の運営者として)さまざまなバラ・育種者会議などへ意欲的に参加していました。
1910年、 リーグニッツ(Liegnitz:今日のポーランド、レグニカ ― Legnica )において開催されたドイツ・バラ友好者会議(VDR)において、開催者の一人である、カール・フォン・ピュックラー=ブルクハウス伯爵(count Carl Friedrich von Pückler-Burghauss:1886-1945、後にナチスの将軍)は、「今日、バラによって、ドイツ(ザンガーハウゼン)、フランス(ライ・バラ園)、オーストリア・ハンガリーはつながった…」と述べました。当時のドルナ・クルパ・バラ園の高い評価を物語るエピソードの一つです。
情熱的なバラ愛好家としてのマリー・ヘンリエッタ
ドイツを代表する育種家の一人、ペーター・ランベルトも次のようなエピソードを伝えています。
マリー・ヘンリエッタが魅了されたランブラーは今日に伝えられています。

マリー・ヘンリエッタとルドルフ・ゲシュヴィント
マリー・ヘンリエッタは“孤高”のバラ育種家、ルドルフ・ゲシュヴィントのパトロンでもありました。
1910年、ルドルフ・ゲシュヴィントが死去したとき、マリー・ヘンリエッタはゲシュヴィントのバラ・コレクションすべてを買い取り、育種された品種の保全を図りました。彼女はバラの梱包と輸送の監督のために使用人を派遣してドルナ・クルパへ持ち帰らせ、庭園の一画に、ゲシュヴィントが育種した品種の特別の区画を設けました。
今日、ゲシュヴィントが育種したうち、100を超える品種を見ることができますが、それはひとえに、彼女の献身的な努力によって、それらの品種がザンガーハウゼンなどのバラ園に保全されたことによります。
政治情勢に翻弄されるバラ園
ドルナ・クルパ・バラ園は、ドイツ・バラ友好者会(VDR)の誇りでした。そして、1914年、ツヴァイブルッケン(Zweibrucken)におけるバラ会議(VDR)において、ヘルマン・キーズ(Hermann Kiese:1865–1923、‘ファルヘンブラウ’などの育種で知られる育種家)は会の直前に訪問したバラ園の詳細について、熱意をもって紹介したのでした。
しかし、不幸なことに、ツヴァイブルッケン・バラ会議はVDRが開催した彼女の功績を認知する最後の主たるイベントとなりました。会議終了後数日しか経っていない7月28日、オーストリア・ハンガリー皇太子、フランツ・フェルディナント大公と大公妃ゾフィー(マリー・ヘンリエッタの従妹)は、当時オーストリア・ハンガリー帝国領であったサラエボで暗殺され、ヨーロッパは一気に戦乱への道に突き進んでしまうことになりました。
この暗殺事件は第1次世界大戦の起点となったばかりではなく、ベル・エポック(Belle Époque、仏:”美しきよき時代”)と呼ばれた時代の終わりを意味していました。マリー・ヘンリエッタ・ショテック伯爵と彼女のバラ園もこのときから衰退が始まり、ついには悲惨な壊滅に至ってしまったのでした。
第1次世界大戦時、マリー・ヘンリエッタは庭園での作業を諦め、近在のティルナウ(現ドルナヴァ)で看護婦として働き、負傷兵の介護などにあたりました。1918年、大戦が終結して彼女が館へ戻ったとき、バラ園は無残に破壊し尽くされていました。さらに、大戦終了後、オーストリア・ハンガリー帝国は壊滅し、ドルナ・クルパはチェコ=スロヴァキアの一部となりました。
しかし、マリー・へンリエッタはひるむことなく、バラ園の再生に取りかかりました。
戦後すぐは、バラに興味を持つ人、あるいはそのような活動を賞賛する人は極端に少なくなっていました。それでも、バラへの興味を呼び戻すため、彼女はバラ園で働きながら、ドルナ・クルパにバラ育成の学校を設立し運営者となりました。こうして努力を続けましたが、バラ園はかつての繁栄を取り戻すことはありませんでした。
1921年、チェコの園芸家でバラ育種の専門家であるグスタヴ・ブラダ博士(Dr. Gustav Brada)はドルナ・クルパを訪問し、バラ園が戦時中に甚大な損害を受けていたことを改めて確認し、いくつかの希少種の喪失は実際上復元することは不可能だと述べました。
当時、バラ園の再生には大きな投資が必要でした。バラ栽培には多大な労働が必要とされていましたし、土壌の微量成分の減少を避けるため、4、5年ごとに植え替えなければなりませんでした。バラが移植された後の栽培場所は堆肥で覆われ、1年間はジャガイモが生産され、その翌年は豆類、その後やっと畑はバラを再び植え込むため、深く鍬が入れられる、そんな手法がとられていました。
マリー・ヘンリエッタは困難な戦後の経済状況を克服する有効な手立てを持っていませんでした。彼女は生涯を通して他の人々をサポートし続けたのですが、しかし、彼女自身がサポートを必要としたとき、彼女はどこからもそれを得ることができませんでした。彼女は努力を続けましたが、彼女自身も、彼女のバラ園も急速に衰退してゆきました。
それでも、戦後10年近くを経た1927年には228種のクライマー、33種のブルボン、210種の木立性の品種を含む、885品種をリストアップできるまでに復興していましたし、いくつかの新しい品種を生み出していました。
その最も重要なのが、ゲシュヴィントが作出した‘ノルトラン・ローズ’の改良種でした。後にゲシュヴィントのオリジナルを‘ノルトラン・ローズI’、改良種を‘ノルトラントローズII’と呼ぶようになります。

1934年、プラハ、ペトリン・ヒル・バラ園(Petřín Hill in Prague)の開設に際し、カール・ドミン博士は、次のように述べました。
「ドルナ・クルパ・バラ園は、かつての姿からは程遠いものになっている。庭園は破壊され、多くはジャガイモとコーンのために耕作されている。老いた伯爵は壮大な屋敷で孤独な生活を送っている。それでも数は少ないが訪問者があると、彼女がバラに抱いている愛情を感じることができる」
未曾有の賠償金に苦しむドイツ共和国は労働運動が活発化、帝国主義の隆盛など左派、右派入り乱れた混乱から、次第にナチス政権下で右傾化を強めてゆき、ついには第2次世界大戦へと突き進んでゆくことになりました。
チェコスロヴァキア政権下での第2次世界大戦中、もう誰もバラには興味を抱かなくなっていました。
大戦終結前、屋敷はソヴィエト軍の進駐にあい、庭園は破壊し尽くされてしまいました。マリー・ヘンリエッタが当時住んでいた山荘はスイス館と呼ばれていましたが、彼女が住んでいるにもかかわらず、村人たちによって取り壊され、彼らの家を補修する建築材として使われたのでした。マリー・ヘンリエッタは、老い、病に苦しみ、貧窮し、生をつなぐために村人の慈悲に頼らざるを得なかったといわれています。
1946年2月13日、マリー・ヘンリエッタ・“バラ伯爵”・ショテックは近在修道院の尼僧に見守られながら死去しました。享年83歳でした。彼女の遺骸はドルナ・クルパの教区教会に近接する戦災を免れたショテック家霊廟に埋葬されました。
死去してから長い時間が経過した後、村人たちは彼女が親切で、スロヴァキア訛りを流暢に話し、民族衣装に身を包んでお祭りに参加していたことを思い出しました。マリー・ヘンリエッタはまた、地域のチャリティーにも助力し、孤児や捨て子の援助も行っていました。
彼女の資産を接収して国有化したチェコスロヴァキア政府は、1949年、館を精神科病院へ改装しました。
1969年、施設は改装され、現在、博物館となっています。
かつて、世界でもっとも美しいバラ園の一つであった面影は完全に失われてしまいました。社会主義経済下ではバラではなく、トウモロコシの生産が必須であり、庭園は畑地へと変わってしまったのでした。


ようやく、1990年代になって、ドイツの園芸家ヨハネス・カルブス(Johannes Kalbusu)はかつての栄光を取り戻そうと、種々の希少品種をドルナ・クルパ地区へ寄贈しました。こうして、新たなバラ園が、マリー・へンリエッタ・ショテックを記念して建立されました。しかし、彼女の功績に対しては、それにふさわしい賞賛を受けることがあまりない、というのが現状です。
いくつかの品種が彼女へ捧げられています。
グラフィン・ショテック(Gräfin Chotek)- 1910年 by Hermann Kiese
種親にライト・ピンクのノイバラ系ランブラー‘タウゼントショーン(Tausendschön)’、花粉親にペール・ピンクのポリアンサ‘ミニョネット(Mignonette)’が用いられたとのこと。
マリー・ヘンリエッタ・グラフィン・ショテック(Marie Henriette Gräfin Chotek)- 1911年 by Peter Lambert
種親にはペール・ピンクのテリハノイバラ系ランブラー‘ファルカー(Farquhar)’、花粉親はオレンジ・レッドのHT‘リッチモンド(Richmond)’が使われました。
2つのランブラーは、ともに、1910年、リーグニッツで開催されたVDR(Verein DeutscherRosenfreunde:ドイツ・バラ友好者会)の主催者の一人であったショテック伯爵へ捧げられたのだろうと思います。
よく似た名前なので、こんがらがってしまっていますが、
ミディアム・ピンクの‘グラフィン・ショテック’はヘルマン・キーズ作出
クリムゾンの‘マリー・ヘンリエッタ・グラフィン・ショテック’はペーター・ランベルト作出
と理解するのが、正解だろうと思っています。
マリー・ヘンリエッタ・グラフィン・ショテック(Marie Henriette Gräfin Chotek)-2013年 by W. Kordes’ Söhne
種親はイングリッシュ・ローズの‘ジェフ・ハミルトン(Geoff Hamilton)’、花粉親は不明です。
ショテック伯爵の生誕150年を記念して公表されました。コルデス社の創業者ヴィルヘルム・コルデスⅠ世の名付け親はショテック伯爵だったとのことです。
Credit

写真・文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズ・アドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間の運営。2010年春より、「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズ・アドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
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