花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りする連載で今回取り上げるのは、パリ南東に広大な圃場を構え、4代に渡ってバラの世界に名を刻むコシェ家の人びと。コシェ家の発展と、彼らによって生み出されたバラの数々をご紹介します。

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コシェ家とは?

18世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、パリ南東郊外のグリジ=スイヌ(Grisy-Suisnes)に広大な圃場を持ち、果実や花苗などの栽培からスタートして、やがてバラ育種や園芸誌の刊行に力を注いだのがコシェ家の人々でした。初代から2代目、3代目、4代目と渡った活動をご紹介したいと思います。

ブーゲンヴィル男爵と初代コシェ

18世紀、波乱万丈の生涯を送ったフランスの軍人、航海家であったルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンヴィル(Louis Antoine de Bougainville:1729- 1811)から話は始まります。

ブーゲンヴィル男爵
ブーゲンヴィル男爵。Portrait/Jean-Pierre Franque [Public Domain via Wikipedia Commons]
18世後半、プロイセン・英国連合とロシア・フランスなどの大陸連合との間で勃発した七年戦争は、本国間同士に加え、それぞれの国の植民地での抗争を誘発しました。当時、まだ独立国家となっていなかった北アメリカでは、英国とフランスの間の植民地争奪戦として展開されました。

植民地獲得など野心的な活動により名声をあげていたブーゲンヴィルはこの戦闘に参加し、フランス軍竜騎兵を指揮していました。しかし、この地域における1759年の戦闘ではフランスは敗北し、司令官モンカルム侯は戦死。副官であったブーゲンヴィルは、フランス軍の本国への退去を指揮しました。

1766年、ブーゲンヴィルは念願であった世界周航の旅へと出航しました。航海には画家、天文学者、そして植物学者であったフィリベール・コメルソン(Philibert Commerçon、1727 -1773)も乗船していました。コメルソンは、航海の途中、寄港したブラジルで、後にブーゲンヴィレアと命名されるつる性の植物を採集したことでよく知られています。

ブーゲンヴィレア
ブーゲンヴィレア。szmuli/Shutterstock.com

1769年に、2年を超える航海ののち帰国したブーゲンヴィルは、パリ南東郊外、グリジ=スイヌの館に身を落ち着けました。後に、館の庭園丁として雇われたのがピエール・クリストファー・コシェ(Pierre Christophe Cochet:1777-1819)でした。これが初代コシェです。コシェ家も館近くに居宅と圃場を構えていました。

それに先立ち、1781年ブーゲンヴィル男爵は花嫁を迎えました。ジョゼフィーヌ・マリー・フロール(Josephine Marie Flore Longchamps-Montendre:1760-1806)です。結婚当時、花嫁は21歳、ブーゲンヴィルは51歳。若き夫人は、夫と同様、園芸植物の愛好家となっていました。

グリジ=スイヌの館にはグリーンハウスも設けられており、1799年、まだ22歳の若き初代コシェは、グリーンハウスでパイナップルやバナナを育て、夫人のために一年を通じて花々を開花させたそうです。

ブーゲンヴィル男爵と夫人はとりわけバラを愛好し、初代コシェは庭園の一角にバラ園を設けました。バラの蒐集で名高い、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌへの対抗心から、夫人はバラの蒐集にも熱心であったとも伝えられています。初代コシェはバラ育種の分野では名を残していませんが、次世代から大きく展開したバラ育種への素地が、この時代から築かれていたのかもしれません。

コシェ家におけるバラ育種の始まりと発展

バラ育種は初代コシェから庭園管理を受け継いだ息子、ピエール・フィレモン(父)(Pierre-Philémon Cochet_père:1796-1853)によって始められました。

そして、ピエール(父)の長男で、父と同名のピエール・フィレモン(息子)(Pierre-Philémon Cochet_fils:1823-1898)は父のバラ育種業を引き継ぎました。長男とともに家業を手伝っていた次男のシピオン・コシェ(Scipion Cochet:1833-1898)は1877年に、『ル・ジャーナル・デ・ローゼ(le Journal des Roses:“バラ年誌”)』を創刊し、バラの魅力を広く世界に広げることに貢献しました。

1840年には、コシェ家の圃場は約50ヘクタールに達し、60名ほどの従業者、600種に及ぶ品種を栽培していたと伝えられています。

これらの業務はピエール・フィレモン(息子)の息子である、シャルル・ピエール・マリー・コシェ=コシェ(Charles Pierre Marie Cochet=Cochet:1866-1936)と、シピオン・コシェの息子であるピエール・コシェ(Pierre Cochet:1858-1911)へ引き継がれました。

数々の美しいティーローズの育種で後世に名を残したコシェ=コシェが活動を終えたのち、コシェ家によるバラは業界における影響力を失っていきましたが、グリジ=スイヌのコシェ家圃場の所在地には、現在、“バラ博物館(Musée De La Rose)”という施設がつくられ、一般に公開されています。

コシェ家の系図

コシェ家の系図

ピエール・コシェとシピオン・コシェ
ピエール・コシェ(上段)とシピオン・コシェ(下段左)。 [CC BY-NC-SA 3.0 via Rose-Biblio]
なお、コシェ=コシェという、耳にすると少しくすぐったく聞こえる姓は、彼が従妹のクララ・コシェと結婚したことに由来します。

コシェ家が残したバラ

3代に渡って育種されたバラのいくつかをご紹介したいと思います。

ブーゲンヴィル(Bougainville)-1822年 by ピエール・フィレモン・コシェ(父)

ピエール・フィレモン・コシェ(父)は、ブーゲンヴィルを育種し、大手のバラ育種・販売業者であったジャン・P・ヴィベールを通して市場へ提供しました。

ブーゲンヴィル
‘ブーゲンヴィル’ Photo/田中敏夫

小輪、平咲き、ピンクがスポットのように斑模様となる花が、咲き競うような房咲きとなります。ノワゼットにクラス分けされています。

この時代、ブーゲンヴィルはすでに他界していましたが、初代コシェを庭園丁に迎えた恩を感じ、捧げたものと思われます。

シピオン・コシェ(Scipion Cochet)- 1850年 by ピエール・フィレモン・コシェ(父)

ピエール・フィレモン・コシェ(父)が育種し、次男であるシピオンの名をつけたブルボン・ローズです。

‘シピオン・コシェ’
‘シピオン・コシェ’ Photo/田中敏夫

ディープ・ピンクの大輪花を咲かせます。グレイッシュな艶消し葉などの特徴から、ブルボンにクラス分けされることが多いですが、ティーローズとする研究家もいます。

ピエール・フィレモン・コシェ(父)の2人の息子、父と同名の長男ピエール・フィレモン(息子)と次男シピオン・コシェが家業を継いだことにはすでに触れました。2人ともバラ育種を行っており、現在までいくつかの品種が伝えられていますが、育種家として今日でも高い評価を受けているのは弟のシピオン・コシェです。

アルチュール・ド・サンサル(Arthur de Sansal– 1855年 by シピオン・コシェ

‘アルチュール・ド・サンサル’
‘アルチュール・ド・サンサル’ Photo/田中敏夫

開き始めはクリムゾン、次第に青みが加わり、熟成すると深いパープルの花色となるHPです。細めですが硬めの枝ぶりのため、茎はしっかりと花を支えることが多く、よく整った樹形のシュラブとなります。

HPにクラス分けされるのが一般的ですが、よく返り咲きする性質があること、また、明るい葉緑などから、ダマスク・パーペチュアル(ポートランド)にクラス分けされることも多い品種です。確かに形態からはダマスク・パーペチュアルとするほうが適切だと感じます。

‘デスプレ・フルール・ジョンヌ’の育種で名高い、デスプレの義理の息子で、やはり熱心なロザリアンであった、アルチュール・ド・サンサルに捧げられた品種です(“The Old Rose Advisor”, Brent C. Dickerson, 1992)。

じつは、ウジェンヌ・ヴェルディエ(息子)が1887年に作出したパープルまたはクリムゾンの花色となるHPに、同名品種があります。ヴェルディエが育種した品種は実際には市場へは出回っていませんので、特に混乱してはいませんが、同名、別品種が存在することを覚えておきましょう。

マダム・シピオン・コシェ(Mme. Scipion Cochet)- 1872年by シピオン・コシェ

‘マダム・シピオン・コシェ’
‘マダム・シピオン・コシェ’ Photo/田中敏夫

スピオン・コシェが夫人へ捧げたミディアム・ピンクのHPです。じつはこの品種にも、1887年にA. ベルネ(A. Bernaix)が育種したまったく同名のティーローズがあります。ピンクの班が花弁に乗るベルネ作出のティーローズも、市場で比較的簡単に入手できますので、スピオン・コシェ作出のピンクのHPか、ベルネ作出の色変わりのティーローズか、区別する必要があります。

ママン・コシェ(Maman Cochet)- 1892年 by シピオン・コシェ

‘ママン・コシェ’
‘ママン・コシェ’ Phto/田中敏夫

花心がツンととんがり、花弁が折り返る、いわゆる剣弁高芯咲きとなる典型的なティーローズです。

淡いピンクから濃いピンクまで、花色のベースはピンクですが、濃淡の変化が大きく、ときに別の品種に見えることもあるほどです。

種親はピンク・ブレンドのティーローズ、‘マリー・ヴァン・ウット(Marie van Houtte)’、花粉にはオレンジ・ピンクのティーローズ、‘マダム・ロンバール(Mme. Lombard)’が使用されました。

耐病性に欠ける、寒さに弱いなどの弱点を抱えながらも、ティーローズに特徴的な、尖り気味のつぼみ、控えめながらそこはかとなく匂やかな花がまことに美しく、多くの人に愛され続けています。ティーローズの至宝と言ってよいでしょう。

シピオン・コシェの長男、ピエール・コシェ(1858-1911)は1906年刊行の『全バラ品種の命名について(Nomenclature de tous les noms de roses)』 や、1912年に公刊された『20世紀初頭の美しいバラ(Les plus belles roses au début de XXe siècle)』の共同執筆者となっていますが、育種家としてはあまり目立った品種は残していません。

ジャン・ピエール・コシェ=コシェ(1836-1936)はピエール・フィルモン(息子)の息子です。先述の通り、従妹にあたるシピオン・コシェの娘クララと結婚し、父方、母方のファミリー・ネームを連ねるというフランスの伝統に倣い、婚姻後コシェ=コシェと名乗るようになりました。

コシェ=コシェはハマナスを交配親として用い、耐寒性にすぐれた品種を生み出した先駆性によって高く評価されています。また、庭植えバラに関するすぐれた解説書『バラ(Les Rosiers)』を1896年に公刊し、1916年の4版まで改訂を続けました。

ロズレ・ド・ライ(Roseraie de l’Häy) - 1901年 by ジャン・ピエール・コシェ=コシェ

‘ロズレ・ド・ライ’
‘ロズレ・ド・ライ’ Photo/田中敏夫

大輪、セミ・ダブル、乱れがちなカップ形の花形。クリムゾンにパープルをたっぷりと混ぜたような深い色合いです。

ハマナス交配種に特有な、縮緬のような葉表、深い葉色が魅力です。トゲが密生する固い枝ぶり、中型のシュラブとなります。

1901年、コシェ=コシェが育種した、あるいはパリ郊外の広大なバラ園、ライ・バラ園のオーナー、ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux)が育種し、コシェ=コシェが市場へ提供したともいわれていますが、詳細は不明です。

シングル咲きの原種ハマナス(R. rugosa)の実生から自然交配で生じたのではないかと言われています。

ブラン・ドゥーブル・ド・クベール(Blanc Double de Coubert)- 1892年by ジャン・ピエール・コシェ=コシェ

‘ブラン・ドゥーブル・ド・クベール’
‘ブラン・ドゥーブル・ド・クベール’ Photo/田中敏夫

花色は純白。数多い白花種がありますが、輝くようなホワイトと呼べる品種はそれほど多くはありません。その数少ない品種の一つです。

鮮烈な芳香、ちりめんのような縮みが表皮にでる、特徴的なつや消し葉。トゲが密生する、薄茶から褐色の硬い枝ぶり。

ハマナスと白花、クライミング・ティーの名花‘ソンブレイユ(Sombreuil)’との交配により育種されたと記録されていますが、疑問を呈する向きもあるようです。

園芸家ラッセル・ページ(Russell Page)はガーデン・デザイナーのバイブルともいわれる著作『ガーデナーのための教育書(The Education of a Gardener)』の中でこの品種を、

「その素晴らしいモス・グリーンの葉は5月から10月の間、開花していない時期でも満足できるものだ。花はチョーク・ホワイトで花弁はシルキーでほとんど透けているほど、類似する品種に共通な刺激的な馥郁たる香りがある…」

と絶賛しています。

Credit

田中敏夫

写真・文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズ・アドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間の運営。2010年春より、「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズ・アドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

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