花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で、今回取り上げるのは、バラを愛する人々を魅了するピンクのバラ。先人が生んだピンクのバラが、のちの銘花誕生へと受け継がれていった品種や、それに連なるバラたちをご紹介します。

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ピンクのバラを作り出した育種家たち

前記事の前編では、ピンクのバラの中から、イングリッシュローズ誕生にも深く関わる2つのピンクのオールドローズと、それに連なるバラたちをご紹介しました。この記事では、引き続きピンクのバラの育種の流れをご紹介します。まずは、育種家のジャン・デスプレのストーリーから辿っていきましょう。

生涯40種前後の品種を公表したデスプレのバラ

1800年代、フランス、パリ南東近郊の村、イエーブル(Yèbles)に住んでいたジャン・デスプレはアマチュアながら熱心なバラ愛好家として知られ、数々の美しい品種を公表していました。

美しいピンクの大輪花、‘バロン・プレヴォ(Baronne Prevost)’はそのうちの1品種です。

1842年、デスプレの住まい近く、パリ郊外に農場を構えていたコシェ農場(Pierre Cochet-père)を通して、市場へ提供されました。

コシェ農場は新品種‘バロン・プレヴォ’を高く評価し、100フランを支払って販売権を獲得したとのことです。当時の単純労働者の日給は2フランほどだったという記録があるので、庶民の2カ月分の稼ぎに相当すると思います。

バラ‘バロン・プレヴォ’
‘バロン・プレヴォ’ Photo/今井秀治

花色はミディアム・ピンク、熟成するにしたがいモーヴ(藤色)気味に変化してゆきます。丸弁咲き、またはロゼット咲き、ときに花心に緑芽が生じます。

明るい色調のつや消し葉や、小さな突起のようなトゲが密生する、細いけれど硬めの枝ぶり、中型のシュラブとなります。

秋にも返り咲きする大輪種であることから、後にもっとも初期のハイブリッド・パーペチュアル(HP)の一つとみなされるようになりました。

育種者ジャン・デスプレ(Charles-Louis-Romain-“Jean” Desprez,;1781 – 1849)は地方公務員であり、1822年から1831年にかけてはイエ―ブルの村長を務めました。

1832年、デスプレが保有する圃場にはベンガル(チャイナ)やノワゼット・クラスの鉢植え株が6,000ほどもあったと伝えられていますから、アマチュアとは言え、本格的な育種家だったと言えると思います。

後に彼の息子シャルルは1880年頃、

「ルイ・フィリップ治世の時代、イエーブルという小さな村で、退職した地方公務員ジャン・デスプレは庭を愛し、チューリップを愛し、ダリアに夢中で、とりわけ、バラを熱狂的に傾倒していた…」

と語ったとのことです(”La Rose, une Passion français”, François Joyaux, 2001)。

デスプレはこの品種を友人の一人、ダリア育成者グノンの妹(or姉)であったプレヴォ男爵夫人に捧げました。

交配親は不明のままですが、花色や、紅色の不ぞろいのトゲなど、ガリカの特徴を示しています。ガリカの血統を継いだ、いずれかの返り咲き品種の実生から生じたのではないかと思われます。

デスプレは生涯40種前後の品種を公表しています。今日でも愛されている品種を2つだけご紹介しましょう。

1828年、育種を開始から初期のころ、淡いイエローのノワゼット、‘デスプレ・ア・フラー・ジョンヌ’(Desprez à Fleur Jaunes;”デスプレの黄色花”)を公表しました。

バラ‘デスプレ・ア・フラー・ジョンヌ’
‘デスプレ・ア・フラー・ジョンヌ’ Photo/田中敏夫

大輪花ゆえに、ティー・ノワゼットというカテゴリーに入れられることも多い、香り高い、優雅なノワゼットです。

1842年、‘マルキーズ・ボッセーラ(Marquise Boccela)’をやはりコシェ農場を通して公表しました。

バラ‘マルキーズ・ボッセーラ’
‘マルキーズ・ボッセーラ’ Photo/田中敏夫

今日、‘ジャック・カルティエ(Jacques Cartier)’という品種名で流通しているダマスク・パーペチュアルは、実際にはこの‘マルキーズ・ボッセ―ラ’であろうというのが最近の理解です。

先人が生んだピンク花を親に生まれた銘花‘コント・ド・シャンボール’

1858年、フランスのロベール・エ・モロー(Robert et Moreau)は‘コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord; “シャンボール伯爵 ”)’を公表しました。

バラ‘コント・ド・シャンボール’
‘コント・ド・シャンボール’ Photo/今井秀治

種親は先にご紹介した‘バロン・プレヴォ’、花粉親はポートランド・ローズの‘ダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland Rose)’だと記録されています。

花色、花形、香りばかりではなく、葉色、樹形など多くを‘バロン・プレヴォ’から受け継いでおり、シングルの赤花を咲かせる‘ダッチェス・オブ・ポートランド’の特徴はあまり見出すことはできません。

バラ‘ダッチェス・オブ・ポートランド’
‘ダッチェス・オブ・ポートランド’ Photo/田中敏夫

花の大きさ、樹形などは‘バロン・プレヴォ’よりも少しだけ小ぶりになることが多いのですが、花はしっかりと直立することが多く、また、返り咲きする性質は、ハイブリッド・ティーなどの現代バラと遜色ありません。

じつはこの品種、HPとするのかダマスク・パーペチュアルとするのか、また、現在この品種名で流通しているのは、本当は‘マダム・ボール’なのではないかなど、クラス分け、品種名の取り違え説などかなり混乱があります。そのことは以前、記述したことがありますが、ここでは、今日流通している“コント・ド・シャンボール”が正しいものであるという前提で続けます。

シャンボール伯爵(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonne d’Artois, Comte de Chambord;1820-1883)は復古王政時のフランス王シャルル十世の孫にあたります。王政、共和制とめまぐるしく変転する19世紀フランス政界にあって、ブルボン家の継嗣者として王政復古派のシンボルに祭り上げられた人物です。

‘アンリ・ダルトワ、コント・ド・シャンボール
‘アンリ・ダルトワ、コント・ド・シャンボール(Henri d’Artois’, Comte de Chambord)の肖像’ Painting/ Adeodato Malatesta before1890 [Public Domain via. Wikimedia Commons]
1870年のフランスはナポレオン3世が皇帝だった、いわゆる第二帝政の時代でした。

同年、ビスマルクが率いるプロイセンとの間で勃発した普仏戦争では、世論を意識したのでしょう。自ら戦場へ出陣しました。しかし、手痛い敗北を喫し、捕虜となってしまうなど屈辱的を味わうことになってしまいました。

1871年、敗戦の後を受けて開かれたフランス議会においては王政復古か共和制かという白熱した議論がなされていました。シャンボール伯爵は、議会において王政復古の象徴とされ、いったんはフランス王位に就くこととなりました。しかし、歓声をもって迎えられた議場において、フランス革命の象徴である三色旗(青=自由、白=平等、赤=博愛)の承認を拒絶してしまいました。結果、議場の議員たちは伯爵が王位に就くことを拒絶しました。

1883年、シャンボール伯爵は嫡子を得ることなく死去しました。彼の死は王位を継承してきたブルボン家の断絶を意味していました。フランス国内には依然として王政復古を望む勢力がありましたが、その根拠を失いました。フランス政権は以後、今日まで共和制を布いています。

香り高いピンクバラ‘ザ・ワイフ・オブ・バース’から‘ガートルード・ジキル’へ

香り高いイングリッシュ・ローズ(ER)の一品種として人気のあったのが‘ザ・ワイフ・オブ・バース(the Wife of Bath)’です

バラ‘ザ・ワイフ・オブ・バース’
‘ザ・ワイフ・オブ・バース’ Photo/今井秀治

この香り高い品種はリヨンの魔術師、ペルネ=ドゥシェが1890年に育種・公表した‘マダム・カロリーヌ・テストゥー(Mme. Caroline Testout)’を種親、花粉親には最初のERである‘コンスタンス・スプライ(Constance Spry)’の血を色濃く継いだ無名種が使われました。

バラ‘マダム・カロリーヌ・テストゥー’
‘マダム・カロリーヌ・テストゥー’ Photo/田中敏夫
バラ‘コンスタンス・スプライ’
‘コンスタンス・スプライ’ Photo/今井秀治

そしてこの‘ワイフ・オブ・バース’を種親、上述した‘コント・ド・シャンボール’を花粉親として1986年に育種・公表されたERが‘ガートルード・ジキル(Gertrude Jekyll)’です。

バラ‘ガートルード・ジキル’ Photo/今井秀治
‘ガートルード・ジキル’ Photo/今井秀治

この品種が公表された後、数多くの香り高いERが世に出回るようになりましたが、今日でも、ERのなかで“もっとも香る”品種の一つとして高い評価を与えられています。

ガートルード・ジーキル(1843-1932)はご存知の方が多いと思いますが、20世紀初頭に活躍した、英国の園芸家です。

‘ガートルード・ジキルの肖像’
‘ガートルード・ジーキルの肖像’ Portrait / William Nicholson [Public Domain via Wikimedia Commons]
彼女はヴィクトリア朝時代、ウィリアム・モリスらを中心とするアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴して絵画、工芸家の道を歩みはじめましたが、眼疾を患ったことからそれらを断念し、ガーデン・デザインを手掛けるようになりました。特に、建築家、エドウィン・L・ラッチェンス(Sir Edwin Landseer Lutyens:1869‐1944)との協働により、多くの美しい庭園をつくり上げました。

ムンステッド・ウッド館の夏の庭
‘1897年から1932年、ガートルードが居住した、ムンステッド・ウッド館の夏の庭’ Photo/Sarah [CC BY-SA 2.0 via Wikimedia Commons]
絵画を学んだ経験を生かした、葉色、花色の組み合わせに細心の注意を払ったデザインは今日のイングリッシュ・ガーデンの基本的なコンセプトとなっています。

余談になりますが、たびたび映画化されておなじみの怪奇小説『ジキル博士とハイド氏』の”ジキル”は彼女のファミリー・ネームから採られたものです。『ジキル博士…』の著者、ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robeert Louis Stevenson)はガートルードの弟ウォルター・ジーキルと友人関係にあり、スティーヴンソンは主人公の名前を命名するときに借用したものです。

さらに余談になりますが、ウォルターは小説に登場する人物のような二重人格者ではなく、健常な性格であったとのこと。

モデルとなったのは、昼間は家具師組合の組合長として重職にありながら、夜には強盗、窃盗を繰り返していたウィリアム・ブロディー(William Brodie)という人物であったとされています。

悪行が露見し、逮捕されたブロディーは群衆の前で絞首刑に架せられました。

ブロディーは延命をもくろみ、執行人に賄賂を贈り、鉄の首輪を身に着け、蘇生することをもくろんでいたとの話が伝わっています。刑死した遺体は無名墓地へ埋葬されましたが、その後、パリで彼を見かけたという噂が広がったこともあったようです。

ブロディー像
“組合長ハウス(現カフェ)の前に立つブロディー像 ” Photo/ Daniel Naczk [CC BY-SA 4.0 via Wikipedia Commons]
現在、多くの美しいピンクのバラがあります。由来が明らかになっているもの、不明のもの、あるいは秘密にされているものなど、長く複雑な育種の試みが積み重なっていて、全体を見渡すことはとても難しくなってしまっています。前編とこの後編でご紹介したピンクのバラの育種の流れは、数多いピンクのなかの、ほんとうに細い流れの一つにすぎません。

Credit

田中敏夫

文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズ・アドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間の運営。2010年春より、「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズ・アドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

写真/田中敏夫、今井秀治

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