オールドローズからモダンローズへ~ピンク花編〜<前編>【花の女王バラを紐解く】
花の女王と称され、世界中で愛されているバラ。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載で、今回取り上げるのは、バラを愛する人々を魅了するピンクのバラ。長く愛され続け、そしてイングリッシュローズ誕生にも深く関わる2つのピンクのオールドローズと、それに連なるバラたちをご紹介します。
目次
人々を魅了するピンクのバラ
バラはピンクに始まり、ピンクに終わるといわれています。
バラを愛するようになった愛好家の多くは、最初ピンクのバラを好み、それからイエロー、赤、パープル、オレンジなどさまざまな色のバラを愛するようになるけれども、時が経つにつれてまたピンクに戻ってくる。そんな例が多いからでしょう。
今回は、こよなく愛されている淡いピンクのオールドローズ、‘デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montebello)’から話を始めましょう。
小輪ながらよく整ったロゼット咲き、香り高い淡いピンクの花を咲かせます。
デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montebello)
細い枝ぶり、旺盛に枝を伸ばすオールドローズが多い中、比較的小型のシュラブとなります。花が美しいのはもちろんですが、ざらっとした感触のつや消し葉にはわずかですが青みが入ることが多く、それが他の宿根草などと混栽した時には、とてもよいコントラストとなって印象的です。
1824年、フランスのジャン・ラッフェイ(Jean Laffay)が育種・公表し、チャイナ・クラスのバラだと解説しました。
古い記述では、熟成すると花色は濃色へ変化すると解説する例があります。この性質はチャイナローズに特徴的なものです。そんな性質があってチャイナへとクラス分けしたのかもしれません。しかし、現在、私たちが見ることができる‘デュセス・ド・モントベロ’は濃色へ変化することはありません。そのことから、ラッフェイが公表した品種は、今日この名前で呼ばれている品種とは異なるものであったという説があります。
現存する‘デュセス・ド・モントベロ’についても、
「いやいや、ガリカだ」とピーター・ビールズ氏は言いますし(“Peter Beales Roses”, 1982)、
「ガリカよりアルバに近い」と言うのはゲルト・クルスマン( Gerd Krüssmann, “The Complete Book of Roses”, 1981)です。
「ケンティフォリアとされることもあるぞ!」と驚いているのがジョワイオ教授です(Francois Joyaux ,”La Rose de France”, 1998)。
花形は小さいながらもケンティフォリア、アルバやダマスクによくある花色、葉やトゲや樹形はガリカ、このような特徴から、クラス分けが定まりません。
庭でいち早く開花する品種として、古くから愛されてきました。小さめな樹形ですので、ポット植えでも楽しむことができます。開花している様子を愛でながら、「あなたはどこから来たの?」と尋ねてみてはいかがでしょうか。
花名の元になったモントベロ公爵夫人
ランヌ元帥は、ナポレオン・ボナパルトのもとで戦功があり、モントベロ公爵に叙せられた人物です。この品種はその妻、モントベロ公爵夫人に捧げられました。当時、宮廷内で最も美しいと謳われた夫人にふさわしい、美しい花です。
モントベロ公爵の人生は、フランス革命からナポレオン戦争という激動の時代を駆け抜けた男にふさわしい、波乱に富んだものでした。
革命前夜、染物師の徒弟だった若きジャン・ランヌ(Jean Lannes:1769-1809)は、1784年7月14日、市民階級によるバスチーユ牢獄襲撃によりフランス革命が勃発すると、すぐに国民衛兵隊という市民軍に加わりました。15歳頃のことです。勇敢さゆえに昇進を重ね、少佐にまでなりましたが、上官とのいさかいから退役してしまいました。しかし、ナポレオンが指揮するイタリア遠征に一兵卒として参戦すると、その勇猛さからすぐに軍曹にまで昇進しました。
元少佐の軍曹がいるという話を耳にしたナポレオンは、ジャン・ランヌを呼び出して話を聞くと、ただちに取り立てて元の少佐に戻しました。
1796年、北イタリア、アルコレ橋を巡って勃発したオーストリア軍との争奪戦においては、負傷を重ねながらも常に先頭に立って戦い、ナポレオンを感激させたといわれています。
1798年、エジプト遠征においては師団長として従軍。
1800年、モントベロの戦いでの戦功により中将に昇進、モントベロ公爵の称号を与えられました。
同年、ランヌはナポレオンの2番目の皇妃であるマリー・ルイーズの女官長であったルイーズ・アントワネット(Louise Antoinette, Comtesse de Guéheneuc)と結婚しました。前妻とは離婚しており、2度目の結婚でした。
この女性が、この品種を捧げられたモントベロ公爵夫人です。
夫婦仲は良好だったようです。子宝に恵まれ、2人の間には4人の息子と1人の娘が生まれました。長男にはルイーズ=ナポレオン、末の娘にはジョゼフィーヌ=ルイーズと命名したのはご愛敬というところでしょうか。
1808年、ナポレオンとともに参戦したドナウ河畔でのアスペルン・エスリンクの戦いでは、カール大帝が率いるオーストリア軍に敗れてしまいました。退却の際しんがりをつとめたランヌは、追撃するオーストリア軍と激しい戦闘を続けていましたが、砲弾により右足を負傷、切断手術を受け回復への望みが得られたものの、9日ほど後、この負傷がもとで死去しました。ナポレオンは彼にすがって涙を流したといわれています。公爵夫人が変わり果てた夫と再会したときの記述が残されています。
「…彼女は棺に近づき、ゆっくりと周りを歩み、立ち止まって組んだ手を下ろし、息絶えた夫の姿を見つめていた。涙の雨を夫にそそぎ、涙で亡き夫を洗ったのでした…すすり泣き、押し殺した声でこう言ったのです。私の神よ。ああ、神様! なんて変わってしまったのでしょう」
(Constant Wairy “Memoirs of Constant, first valet of the Emperor”, Constant Wairy, 1830)
この美しい品種を生み出したジャン・ラッフェイは育種活動の初期、主にチャイナローズの交配に取り組んでいました。‘デュセス・ド・モントベロ’を生み出した1824年は、その時期に重なります。
そして彼は次第に育種手法に変更を加え、返り咲きする大輪花の育種を目指すようになり、後にハイブリッド・パーペチュアル(Hybrid Perpetual:HP)の生みの親として名声を勝ち得ることになります。
その経緯は、フレデリック・キーズ女史が次のように伝えています。
「1830年代、ムッシュー・ラッフェイはチャイナローズの交配に著しい成果をあげていた…彼がウィリアム・ポールに語ったことによると、特に中輪・ダークレッドのブルボン/チャイナのアタラン(Athelin)と大輪・ミディアム・ピンクのセリーヌ(Celine)というブルボンローズと他のブルボンや返り咲きダマスクを交配し、1837年から1843年にかけて大輪・返り咲き性のある品種を生み出すことに成功したという。
プリンセス・エレン(Princesse Helene:1837)、マダム・ラッフェイ(Mme. Laffay:1839)、クィーン・ヴィクトリア(Queen Victoria:1840)、デュセス・オブ・サザーランド(Duchess of Sutherland:1840)…などがその成果であるが、1843年、ついにラ・レーヌ(La Reine)を生み出すことができた…ラ・レーヌの花色であるパープルは、その後多くの後継品種に引き継がれることになり、一群の品種のトップに君臨することとなった。香り高い、少し閉じ気味のカップ型の大輪花、花色には(濃色の赤に加え)ライラックあるいはピンクの色合いが入るというのが一般的な特徴である」
(Mrs. Frederick Love Keays, “Old Roses”, 1935)。
ラ・レーヌ(La Reine)
‘ラ・レーヌ’(“女王”)は名前にふさわしい風格を漂わせています。数多くの品種の交配に用いられました。
1853年、‘ラ・レーヌ’の実生から‘ジュール・マルゴッタン(Jules Margottin;Jacques-Julien Margottin père)’が生み出され、
1857年、‘アンナ・フォン・ディーズバッハ(Anna von Diesbach;François Lacharme)’が育種され、
1864年には‘アンナ・フォン・ディーズバッハ’から‘ポール・ネイロン(Paul Neyron;Antoine Levet père)’が生み出され、HPの頂点を極めることとなりました。
もう一つ、モダンローズに大きな影響を与えたピンクのオールドローズをご紹介しましょう。
‘ベル・イジス(Belle Isis)’です。
ベル・イジス(Belle Isis)
繊細に飾り付けたような萼片に包まれていたつぼみは、開花すると中輪、カップ型・ロゼット咲きとなります。花心に緑目ができることもあります。淡いピンクの花色。花弁の外縁はほとんど白といってよいほど色褪せます。強い香りがします。ミルラ系の香りの典型とされる蟲惑的な香りです。細いけれども硬めの枝ぶり、立ち性の樹高90~120cmの小ぶりなシュラブです。
バラの名の元になったイシスは、エジプト神話に登場する女神です。よき妻、よき母として、また豊穣を象徴していることから、エジプトからギリシャ、ローマへ伝えられ信仰の対象となりました。イシスが幼子ホルスに乳を与える像はローマで広く信仰を集め、それが時代を下って、聖母マリアと幼子イエスの像の原形になったといわれています。
1845年頃、ベルギーのルイ-ジョセフ・パルメンティエ(Louis Joseph Ghislain Parmentier)により育種・公表されました。
「小型のガリカだ…小さな、整った明るい緑葉、小さなトゲが密生する枝ぶりはケンティフォリアに由来するのではないか。花と花茎は純粋なガリカだが」とグラハム・トーマスは解説し(“The Graham Stuart Thomas Rose Book”, 1994)、
「交配親は明らかにされていない…葉はガリカとしては明るい色調だ。おそらくロサ・アルヴェンシス(R. arvensis)の系譜なのだろう」とも記されています(Stirling Macoboy, “The Ultimate Rose Book”, 1993)。
このようにガリカにクラス分けされることがほとんどですが、赤花が多いガリカとは異なるピンクの花色、明るい葉色など他のクラスの影響が見受けられます。
ルイ・パルメンティエとそのバラ
ルイ・パルメンティエは偉大なバラ育種家でした。しかし、育種したと伝えられる膨大な数のオリジナルは彼の死後ほとんど散逸してしまい、彼の偉業の詳細は失われてしまいました。
ベルギーのアンギャン(Enghien:ブリュッセルの南西20kmほどの距離、エイヒーンと発音することも)の富裕な商人の家に生まれたルイ・ジョセフ・ジスレン・パルメンティエ(Louis-Joseph-Ghislain Parmentier:1782-1847)は、4半世紀以上にわたってバラの蒐集と育種を行い、彼の圃場には3,000種のバラが12,000株ほどあったと伝えられています。
これはにわかには信じられないコレクションです。1815年頃、ナポレオンの元皇妃ジョゼフィーヌが金に糸目をつけず贅を尽くして収集したバラの品種数は250種ほどだったと信じられていますので、その30年ほど後に、3,000にも及ぶ品種があったということが、いかに驚異的なものであったか想像できると思います。
ベルギー王立バラ協会(The Royal Rose Society ;”De Vrienden van de Roos” )のメンバーであるフランソワ・メルトン(François Mertens)氏は、1990年刊行のアンギャン考古学会報(ANNALES DU CERCLE ARCHEOLOGIQUE D’ENGHIEN, T. XXVI, 1990)の中で、ルイ・パルメンティエ育種のバラについて詳しく記述しています。メルトン氏が論拠としたのは、アドルフ・オットー(Adolf Otto)による『バラ園またはバラ栽培: “Der Rosengarten oder die Cultur der Rosen”)』の記述でした。
それによれば、
パルメンティエの圃場では系統だった品番がつけられるなど丁寧な品種管理がなされており、3,000品種、12,000株のバラが栽培されていた…
その中には市場に提供されていない855の品種(うち800種はパルメンティエの庭園にのみ植栽されている)、255種は未命名のままであった…
とされています。
パルメンティエは父アンドレ(Andre Parmentier:1738-1796) 、 母マリー・オルレアン(Mary Orlains :1748-1819)の11人兄弟の9番目の子として誕生しました。
兄ジョゼフ(Joseph Julien Ghislain Parmentier:1775-1852)はアンギャンの市長を勤め、熱帯植物などのコレクターとしても知られていた名士であり、また別の兄、父と同名のアンドレ(Andre Joseph Ghislain Parmentier:1780-1830)は米国ニューヨークへ移住し、ブルックリンに圃場を構えて庭園のデザインを行い、米国におけるガーデン・デザイナーの先駆と評されているなど、一族をあげて園芸一家であったようです。
しかし、ルイ・パルメンティエのコレクションは1847年の彼の死後ほどなく競売に供され、フランスなどで当時活動していたバラ農場主の所有となり、その後それらの農場からしばしば新たな名前を付されて市場へ出回るようになりました。
そのため、パルメンティエ作出品種の多くは散逸、あるいは別育種家により育種されたものとして記録されることとなってしまい、パルメンティエ作出と伝えられる855種のうち、彼の育種品種として特定可能なものはわずかになってしまいました。
今日、パルメンティエが育種したと明らかにされた品種をいくつかご紹介しましょう。
フェリシテ・パルメンティエ(Felicité Parmentier)
淡いピンク、花心が色濃く染まり、緑のボタン目ができることが多い、息を呑むほどに美しい花です。
蒼みを帯びた深い色合いのつや消し葉、細めだが硬めの枝ぶり、中型のシュラブとなります。花、葉、樹形の美しさはほとんど完璧といってよい優れた品種だと思います。
カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu)
パープルのガリカとして第一にあげられる名花です。
17世紀、フランス王ルイ13世のもとで宰相(在職:1624-1642)として辣腕をふるったリシュリュー枢機卿(1585-1642)にちなんで命名されました。
イポリート(Hippolyte)
1842年には、ベルギーの偉大な植物学者ルイ・ヴァン・ホウテ(Louis van Houtte:1810-1876)が残した文献に品種名が記されているとのこと(Francois Joyaux, “La Rose de France”, 1998)。
パルメンティエが生前発表した数少ない品種の一つです。
全体としては、ガリカ・クラスの特徴を示していますが、樹形が比較的大きいこと、また、ケンティフォリアのように花弁が密集した花形など、典型的なガリカとはいえない特徴も備えており、交配には他のクラスに属する品種が使われたのではないかといわれています。
註:この品種はなぜか『1990年アンギャン考古学会報』にリスト・アップされたパルメンティエ106品種に含まれていませんでした。著名な品種ですので追加しました。
イングリッシュローズの誕生
‘デュセス・ド・モントベロ’と‘ベル・イジス’。2つの美しいピンク花のオールドローズですが、じつはイングリッシュローズ(ER)の誕生に深く関わっています。
ERの生みの親、デビッド・オースチン氏が育種した‘コンスタンス・スプライ(Constance Spry)’は次のような交配によるものでした。
種親:‘ベル・イジス’
花粉:‘デンティ・メイド’
‘コンスタンス・スプライ’はその美しさばかりでなく、あまり一般的ではなかったミルラ香を広く知らしめるきっかけになったことでも知られていますが、この蠱惑的な香りは‘ベル・イジス’から引き継いだものだといわれています。
そして、‘コンスタンス・スプライ’を交配親の一つとして育種された次世代の品種が‘チョーサー(Chaucer)’でした。
種親:‘デュセス・ド・モントベロ’
花粉:‘コンスタンス・スプライ’
‘チョーサー’を交配親として生み出されたのが、‘チャールズ・オースチン(Charles Austin)’、‘キャサリン・モーリィ(Kathryn Morley)’、‘タモーラ(Tamora)’などでした。
イングリッシュローズの輝かしい名声と栄光は、美しいピンクのオールドローズである‘デュセス・ド・モントベロ’と‘ベル・イジス’の遺産を現代に生かすことから始まったといえるかもしれません。
Credit
写真&文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズ・アドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間の運営。2010年春より、「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズ・アドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/田中敏夫、今井秀治
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