ロザリアンとして『Genus Rosa』という名著を残したイギリス人女性、エレン・ウィルモット。バラの名としても知られている彼女ですが、ガーデン・デザイナーとして記憶すべき女性でもあります。今回は、エレン・ウィルモットの華やかな前半生と零落する後半生、そして、彼女にちなんで命名された植物をローズ・アドバイザーの田中敏夫さんが解説します。

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エレン・ウィルモットという人物

ある日のこと、150年ほど前に創業し、現在でもオランダを本拠に宿根草や球根の商取引を行っているウォルター・ブロム社(Walter Blom Plants B.V.)の創業者・故ブロム氏は、ある時、販売促進のためエレン・ウィルモットの庭園ウォーリー・プレースを訪問しました。

少し湿性気味のメドー(自然風草花ガーデン)にどんな球根を勧めるかというエレンの問いに対し、ブロム氏は、

「カマッシア(Camassia;北米原産の球根、ヒヤシンスの近縁種)がよいかもしれません。湿性地向きで丈夫でよく群生しますので」

と答えました。

少し思案顔ののち、エレンは、

「それならブロムさん、4万球ほど送ってくださる?」

と応じました。

エレンの途方もなさを物語るエピソードの一つです。

‘カマッシア・クシキー
カマッシア・クシキー(Camassia cusickii) Alexandra Glen/shutterstock.com

カマッシアは湿地などではよく繁殖し大群生を作ることがあります。

日本では草丈120cmほどの高性のレイヒトリニー(C. leichtlinii)と草丈80cmほどで少し矮性のクシキー(C. cusickii)が秋植え、春咲き球根として出回っています。

幸せな日々~前半生

1875年、弁護士であったフレデリック・ウィルモット(Frederick Willmott)は住居のあったロンドン東部のミドルセックス、ヘストン(Heston, Middlesex)からロンドン北東部、エセックスのウォーリー・プレース(Warley Place, Essex)へ一家をあげて移りました。

フレデリックと妻エレン(Ellen)、長女エレン・アン(Ellen-Ann、1858年生まれ:Ellenは母、Annは祖母の名)、次女ローズ(Rose、1861年生まれ)の4人家族でした(3人目の末娘のアダは早逝)。

新しい住まいは石造りの瀟洒な館を構え、地所も広大なものでした。芝地、フラワーガーデン、果樹園などが広がる全体では33エーカー (130,000 m2:東京ドームのおよそ2.5倍)という広大な庭園を構える館でした。1882年にはさらに22エーカーにおよぶ農地も購入しています。

フレデリックはさらにヨーク在住の著名な園芸家であるジェームズ・バックハウス3世(James Backhouse III: 1794-1869)を招いてロック・ガーデン、池、滝、シダ洞窟などをつくりました。

エセックスは緩やかな丘陵が続く、風光明媚な土地柄です。一家の3人の女性はすぐに熱心なガーデナーとなりました。

特に熱心であったのが、祖母と母の名をもらった長女エレン・アン。彼女はこのとき17歳。今回の物語の主人公です(以後、単に“エレン”と呼びます)。

エレン・ウィルモット
‘エレン・ウィルモット’ [Public Domain via. Wikipedia Commons]
エレンが最初に熱中したのはアルペン・ガーデンでした。1882年、21歳の誕生日の祝いとして父から許可をもらい、ジェームズ・バックハウス3世が作庭したアルペン・ガーデンに蒐集したシダ類を植栽したりしました。

エレンとローズ姉妹は祖母ヘレン・アン・タスカー(Helen Ann Tasker)の遺産を受け継いでいましたが、エレンはこの資産を使い、1890年、フランスの保養地エクス・レ・バン(Aix-les-Bains)に庭付きの館を購入しました。

エクス・レ・バン
‘現在のエクス・レ・バン’ Photo/Florian Pépellin [CC-BY-SA 3.0 via. Wikipedia Commons]
1892年、父フレデリックが死去。

1898年、母エレンが死去しました。

1891年、名門バークレー家の継承者であるロバートと結婚した妹ローズは、ウォーリー・プレースに近在する館に夫ロバートとともに住んでいましたが、母の死の前年1897年にはロバートの実家であるウーセスター(Worcester)近郊のスペチェリー・パーク(Spetchely Park)に転居していました。スペチェリー・パークは11世紀に起源をもつバークレー家の館、4,500エーカーにおよぶ地所に囲まれていました。

母の死により、エレンはウォーリー・プレースに一人残されることになりました。

ウォーリー・プレースの庭園
‘ウォーリー・プレースの庭園’ 水彩画/Alfred Persons [Public Domain via. Wikipedia Commons]
エレンは豊かな財力をもとに植物の蒐集と庭づくりに励みました。世界中の植物を調べ、集め、栽培し、庭へ植栽するなど、その傾倒ぶりに彼女を知る人たちは誰しも驚きをもって見つめていました。それは、富裕な婦人の単なる趣味と呼ぶ範囲をはるかに超え、広範囲でずっと深いものでした。

園芸家としての名声

彼女がつくり上げた美しい庭の評判はすぐに知れわたり、当時の英国王ジョージ5世王妃であったメアリー王妃、前王エドワード7世王妃であったアレキサンドラ王妃やヴィクトリア女王の孫にあたるプリンセス・ヴィクトリアなどの訪問を受けました。

1894年、エレンはRHS(英国王立園芸協会:the Royal Horticultural Society)に入会し、すぐに熱心な活動家として知られるようになりました。

1897年、RHSはヴィクトリア女王を記念してVMH(Victoria Medal of Honour:ヴィクトリア女王記念メダル)を創出して園芸推進の功労者を称賛することにしました。

栄えある第一回の受賞者は60名。男性58名、女性2名。その女性2名のうち一人はガートルード・ジェキル、もう一人はエレンでした。

エレンの活動をもう少し見てみましょう。

最も活動的だった時代には、庭園を手入れするため104名に及ぶ庭師を雇っていたとのことです。

今日、園芸家としての名声だけが伝えられている感が強いエレンですが、フランス語、ドイツ語などの語学を学び、絵画や音楽などへの造詣も深い、教養あふれる女性でした。特に、のちに彼女の最初の著作となる『ウォーリー・ガーデンの春と夏(Warley Garden in Spring and Summer)』でみられる写真、また、バイオリン(ストラディバリウスを保有していたとのこと)やピアノ、オルガンなどの演奏にも秀でていました。

オルガンの優れた弾き手であることを知っていたある知人が、彼女に演奏してほしいと頼んだとき、エレンは即座に、

「いいえ、オルガンは弾かないわ、でも、わたしシャベルは使えるんです」

と答えたというエピソードも伝えられています。

米国、アーノルド植物園の園長であったチャールズ・スプレイグ・サージェント(Charles Sprague Sargent:1841-1927)は後で触れるルリマツリモドキ・ウィルモッティアヌムをエレンにちなんで命名したのですが(発見したのはE.H.ウィルソン)、あるとき彼女はサージェントに、

「わたしの植物たち、わたしの庭がわたしにとってはなによりも大切なのです。すべての時間、わたしはガーデニングに精を出し、日が傾いて暗くなり、草花が見分けられなくなったら、植物についての書物を読み、そして書き物をしているのです」

と語りました。

エレンはガーデナーたちに立ち混ざって作業するのが常だったようです。ガーデナーたちにとって煩わしかったのは、彼女が次にどこへ現れるのか予測ができないということでした。ガーデナーたちはそれゆえに、仕事に精を出すことを心がけ、実際、丁寧な仕事をこなす結果となりました(“ウォーリー・プレースのミス・ウィルモット”、 オードリー・ルリーヴル)。

また、エレンは中国、日本、インドなどに派遣されるプラント・ハンティングにも資金を提供していました。自邸のウォーリー・プレースには原種や園芸種など10万株を超える植物を栽培していましたが、そのなかには遠征の成果としてもたらされた新品種も数多く含まれていました。

遠征資金の提供を讃えられ、60を超える原種や園芸種が、彼女自身や彼女の庭園ウォーリー・プレースにちなんで命名されました。

1905年、エレンは地中海沿い、フランスとの国境近くのイタリア、ヴェンティミーリア(Ventimiglia)に館を購入しました。ウォーリー・プレース、エクス・レ・バンに続く3つ目の庭園でした。

ヴェンティミーリア
‘現在のヴェンティミーリア’ Photo/Gilbert Bochenek [CC-BY-SA 3.0 via. Wikipedia Commons]
きっかけは、トマス・ハンブリー卿(Sir Thomas Hanbury:1832-1907)との交遊だったのではないかと思います。ハンブリー卿は中国産の茶、絹の貿易商として上海租界を本拠にして成功し、通貨や綿取引にも取引を拡大して財をなした人物です。

1868年にはリビエラに隣接するイタリア、ラ・モルトラ(La Mortola)に居を構え、1871年には事業から引退し、ラ・モルトラに近在のヴェンティミーリアに植物園やガーデンを作るなど園芸三昧の余生を送った人です。

破産に追い込まれる後半生

第一次大戦が勃発するとその暗い影はエレンにも及んできました。園芸を通じて知り合った学者、友人などは次々と死去、エレン付きの家政婦として彼女の衣服の世話、髪梳きなどすべてをこなし、イタリア、フランスの庭園を駆け回る旅にも常に同道していたララ・バルジ(Lalla Bruge)も死去しました。そして、園芸趣味を同じくしていた妹ローズも1922年に死去してしまいました。

美しいものへの審美感に優れたエレンは、園芸ばかりではなく、美術や音楽へも傾倒していたことにはすでに触れました。彼女は桁外れの浪費家で財産を保とうという意識はなかったようです。浪費を重ね、資産は減り続けました。やがて、せっかく手に入れたフランスとイタリアの館を手放す結果となりました。

エレンは心の病に侵されてゆきました。一説では、彼女は常軌を逸するほどの妄想にとらわれてしまい、盗難を防ぐためとして、庭園の周囲をワイヤーで囲ったり、トゲだらけのエリンジウム・ギガンチウム(Eryngium giganteum)を植栽したりしました。このことから、エリンジウム・ギガンチウムはやがて「ミス・ウィルモットの幽霊(Miss Willmott’s Ghost) 」と呼ばれるようになりました。

エリンジウム・ギガンチウム
‘エリンジウム・ギガンチウム-ミス・ウィルモットの幽霊’ Photo/peganum of Flickr [CC-BY-SA 2.0 via. Wikipedia Commons]
こんな話も伝えられています。彼女は賊に襲われることを恐れ、常にハンドバックに拳銃をしのばせていました。

1928年には、後日放免されたものの万引き容疑で拘束されてしまったこともありました。

生活費の工面に行きづまり、借財を重ねるようになり、法廷に呼び出されて審問を受けることも重なりました。エレンは唯一残されていたウォーリー・プレースの館にわずかに残った使用人に支えられながら寂しく暮らしていました。

1934年9月26日の朝、執事であるロビンソンは朝食が用意されていたにもかかわらず階上のエレンの寝室に人の動く気配がないことに気がつきました。階上へ登ったロビンソンはすでにこと切れたエレンを見出したのでした。

エレンは早朝、突然発作におそわれ死去したものと思われます。享年76歳、突然の死は心臓発作によると考えられています(“ウォーリー・プレースのミス・ウィルモット”)。

エレンの死後、館は売却されて借財返済にあてられましたが、1939年に解体され、庭園も放置されたままとなり荒廃してしまいました。

廃墟は長い間放置されていましたが、1977年、エセックス行政府からエセックス・ナチュラリスト基金(the Essex Naturalists’ Trust;later Essex Wildlife Trust)へ貸与され、現在は自然な状態で保全管理されています。一部に館に隣接していたコンサーバトリーの石組みやレンガ壁などを見ることができ、往時をしのぶことができます。

ウォーリープレースのコンサーバトリー
‘館に隣接していたコンサバトリーの廃墟’ Photo/Trevor Harris [CC BY SA2.0 via. Wikipedia Commons]
エレンはなぜ生涯、伴侶となる男性と出会わなかったのか。これは、彼女を知る多くの人が感じることではないでしょうか。

園芸、音楽、絵画(写真)などに並々ならぬ才能をみせる美しい婦人。彼女の前には才能や富に恵まれた独身男性が少なからず現れたのではないかと思われます。エレンは決して引っ込み思案な婦人ではありませんでした。心の病に侵されてしまう前までは、知的で機知に富み、友人たちと楽しい会話を楽しむ、そうした日常を彼女は楽しんでいました。

それは、エレンがほとんどの男性よりも知識が豊富で、機知に富み、知性に溢れていて、それを包み隠すことができなかったからではないか。

『ウォーリー・プレースのミス・ウィルモット』の著者オードリー・ルリーヴルさんはそんな感想を述べています。

著作からいくつかエピソードをご紹介しましょう。

あるとき、ウォーリー・プレースの庭を友人と散策しているとき、エレンはピンクのバラの前で立ち止まり、「これはキューピットです。わたし、(とうとう)出会わなかったの…」とつぶやいた。

エレンが植えていたバラ、“キューピッド”はこれではないかと思います。

キューピッド
‘キューピッド/Cupid’ Photo/ Andrea Moro [CC BY-SA3.0 via. Rose Biblio]
大輪、淡いピンクのシングル・カップ咲きとなります。花弁数は4弁から8弁と変化します。

1914年、英国のカント農場から育種・紹介されました。太い枝ぶりで5m高さへ達するほど旺盛に生育する一季咲きのクライマーです。

エレンやウォーリー・プレースにちなんで命名された原種や園芸種

60を超える原種や園芸種がエレンにちなんで命名されたとお話ししました。

今でも愛されている植物があります。いくつかご紹介しましょう。

アーネスト・ヘンリー・ウィルソン(Ernest Henry Wilson:1876-1930)は1899〜1918年まで5度にわたって主に中国四川省などで調査を行い、希少植物をヨーロッパへ持ち帰ったプラント・ハンターです。5度目の遠征では日本へも訪れ、屋久島杉の巨大切り株、ウィルソン株を発見したことでも知られています。

エレンは、ウィルソンの遠征のスポンサーの一人でもあったことも既に紹介しました。ウィルソンが発見した新品種のなかに、エレンにちなんだものがあります。

ルリマツリモドキ・ウィルモッティアヌム

ルリマツリモドキ・ウィルモッティアヌム
ルリマツリモドキ・ウィルモッティアヌム(Ceratostigma willmottianum) Photo/ Krzysztof Ziarnek [CC BY-SA4.0 via. Wikipedia Commons]
ルリマツリ(プルンバーゴ/Plumbago auriculata)と近縁種ですので、花形、花色がよく似ています。そのため和名はルリマツリモドキ。ちょっと味気ない呼び方ですね。また、チャイニーズ・プルンバーゴと呼ばれることもあります。初夏から秋までと開花期間も長く、さらに半日陰にも耐える(というよりも直射日光はむしろ苦手)という使いやすい植物です。寒冷地では秋、美しく紅葉します。

1914年、中国、四川省においてウィルソンにより発見されヨーロッパへもたらされました。

ロサ・ウィルモッティアエ

ロサ・ウィルモッティアエ
ロサ・ウィルモッティアエ(Rosa willmottiae) Photo/Stan Shebs [CC BY-SA3.0 via. Wikipedia Commons]
小輪または中輪、5弁のシングル、枝先に単輪咲きとなります。

花色は渋みのあるパープル、原種としては珍しい花色です。香りはわずか。

自生地は中国西部、チベットとの国境近くの高地、乾燥地帯です。

ヨーロッパでは樹高200cmにおよぶ大きなシュラブとなるようですが、自生地では過酷な環境のためか100cmに満たないことが多いようです。

1904年、ウィルソンによりタネが蒐集されました。タネは英国の植物商ジェームズ・ヴェイチ商会によって栽培され市場へ提供されました。この原種がパープルに花開いたとき、その開花に出会った人の喜びはいかなるものであったことでしょうか。

後述するエレンの著書『バラ属(The Genus Rosa)』にもこの原種に関するイラストと解説があります。

ロサ・ウィルモッティアエ
ロサ・ウィルモッティアエ(Rosa willmottiae Hemsl.) Illustrate/Alfred Parson [Public Domain via. BHL; Biodiversity Heritage Library]

シナミズキ・ウィルモッティアエ

シナミズキ・ウィルモッティアエ
シナミズキ・ウィルモッティアエ(Corylopsis willmottiae) Photo/ Denis.prévôt [CC BY-SA3.0 via. Wikipedia Commons]
早春に鮮やかな黄色い花を咲かせるトサミズキと同じ属のものです。ミズキ(Corylopsis)そのものは1835年にすでにヨーロッパへもたらされ、学術上も登録されていましたが、花色や咲き方などに多少変異のあるこの種は、1914年、ウィルソンにより中国西部で発見されました。

エレン・ウィルモット-Hybrid Tea

エレン・ウィルモット
‘エレン・ウィルモット(Ellen Willmott)’ Photo/田中敏夫

この園芸種はウィルソンによるものではなく、1936年、イギリスのアーチャー農場(Wm. E.B. Archer & Daughter)から育種・公表されたものです。

シングル、平咲き、クリーム色の花弁の縁に淡いピンクがでる、繊細な花色となります。

細く柔軟な枝ぶりの樹高120〜180cmのブッシュとなります。

ライト・ピンク、シングル咲きのHT、‘デンティ・ベス(Dainty Bess)’とイエローのティーローズ、‘レディ・ヒリンドン(Lady Hilingdon)’との交配により育種されました。‘デンティ・ベス’の特徴を色濃く受け継いでおり、淡い色合いの‘デンティ・ベス’という印象を受けます。

エレンにちなんで命名されたバラは他にもあります。

‘エレン・ウィルモット(Ellen Willmott)’、淡いピンクのHT、1898年、フランスのブルネ作出。

‘ミス・ウィルモット(Miss Willmott)’、淡いイエローのHT、1916年、アイルランドのサム・マクレディ2世作出。

‘ミス・ウィルモット・インディカ(Miss Willmott’s indica)’、赤花・シングル咲きのティーローズ、1899年ころ、英国のジョージ・ポール作出。

この品種についてもエレンの著作『バラ属(The Genus Rosa)』のなかでイラストつきで紹介されています。

ロサ・ウィルモッツ・インディカ
‘ミス・ウィルモット・インディカ(Miss Willmott’s indica)’ Illustrate/Alfred Parson [Public Domain via. BHL; Biodiversity Heritage Library]
バラ以外でもエレンにちなんだ園芸種は数多いです。

シリンガ・ブルガリス(ライラック)‘ミス・エレン・ウィルモット’

ライラック‘ミス・エレン・ウィルモット’
ライラック‘ミス・エレン・ウィルモット’ Photo/ Salicyna [CC BY-SA4.0 via. Wikipedia Commons]
エレンにちなんで命名された白花、ダブル咲きライラックです。1903年、フランス、ナンシーで農場を運営していたヴィクトール・ルモワーヌ(Victor Lemoine:1823-2911)によって育種されました。

ルモワーヌはライラックのダブル(八重)咲き種を多く生み出したことで広く知られています。このことからダブル咲き種は“フレンチ・ライラック”と呼ばれるようになりました。

モロッコ・ナズナ(エティオネマ)‘ウォーリー・ローズ’

モロッコ・ナズナ‘ウォーリー・ローズ’
モロッコ・ナズナ‘ウォーリー・ローズ’(Aethionema ‘Warley Rose’)Photo/ Ghislain118 [CC BY-SA3.0 via. Wikipedia Commons]
アブラナ科のナズナに似た花を咲かせるので、和名は原産地にちなんで“モロッコ・ナズナ”と呼ばれています。イベリスに似た草丈15cmほどの常緑亜低木です。厚みのある小さなグレーイッシュ・グリーンの葉、早春から1カ月ほどライラック色の小花を咲かせます。這い性、排水性のよい土壌を好むロック・ガーデン向きの植物です。

エレンの庭園ウォーリー・プレースの名が付けられています。エレンが17歳のとき最初に作られたアルペン・ガーデンに植栽されていたといわれています。

ポテンティラ・ネパレンシス ‘ミス・ウィルモット’

ポテンティラ・ネパレンシス‘ミス・ウィルモット’
ポテンティラ・ネパレンシス‘ミス・ウィルモット’(Potentilla nepalensis ‘Miss Willmott’)Photo/ Kor!An [CC 3.0 via. Wikipedia Commons]
ポテンティラ・ネパレンシスは名前から読み取れるかと思いますが、ネパール地域で発見されたものです。高さ幅とも60cm前後と、こんもりと茂る低木です。

日本にも本州、北海道の亜高山帯の湿地などに自生しているクロバナ・ロウゲ(黒花狼牙)という近縁種があります。似通った花を夏に開花させることからでしょう、ポテンティラ・ネパレンシスの和名はベニバナ・ロウゲです。ロウゲ(狼牙)はとてもおもしろい名前ですが、花弁がとんがっていることから、そのように呼ばれるようになったと思われます。

ネパレンシスはピンクの花弁、花心近くは色濃く染まります。‘ミス・ウィルモット’は透き通った花色の園芸種です。7〜8月にちらほら開花する姿を楽しむことができます。

エレンは2冊の著作を残しました。

『ウォーリー・ガーデンの春と夏(Warley Garden in Spring and Summer)』、1909年

ウォーリー・プレースの庭の写真を集めた小誌です。撮影はエレン自身。モノクロですが美しい庭園の空気が感じられます。エレンの繊細な“美”の感覚が感じられます。

『バラ属(The Genus Rosa)』 Vol. I & II、1910~1914年

英国王エドワード7世王妃であったアレキサンドラ王妃に捧げられました。2冊にわたる大著です。

この本にはアルフレッド・パーソンズ(Alfred Parsons) による132葉のバラの植物画が掲載されています。

Credit

田中敏夫

文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズ・アドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間の運営。2010年春より、「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズ・アドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

参考文献/
『ウォーリー・プレースのミス・ウィルモット(Miss Willmott of Warley Place, Her Life and Her Gardens)』, オードリー・ルリーヴル(Audrey Le Lievre), 1980

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