埼玉県川越市は、今や国内外から年間780万人が訪れる一大観光地──。蔵造りの町並みが続き、江戸時代さながらの情緒が漂う市中心部の一番街は、連日たくさんの人でにぎわっています。一方、市の南部には総面積約200万㎡の広大な森があります。林床に四季折々の植物が生い茂り、樹上では野鳥たちが鳴き交わす大きな森。かつての武蔵野の面影を残すこの森をこよなく愛し、散歩を日課とする二方満里子さん。初秋の森に咲く野の花をご紹介します。
目次
セミの交響曲〜終楽章
今年の9月はとにかく暑い。去年も同じようなことを愚痴っていた気もするが、コロナ感染防止のマスクのせいで、より暑さを感じるからなのかもしれない。森へ一歩脚を踏み入れると、樹上から降ってくるのは凄まじいセミの声!
いや、樹上からだけではなく、足元の草むらからも響き出している。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、クマゼミ、ニイニイゼミ、チッチゼミの
「ジージージージー」「ミーンミーンミーン」「カナカナ、カナカナ」「オシーツクツクオシーオシー」「チッチチッチ」
これらの声が全部いちどきに鳴り響く。まるで交響曲の終楽章が最後の盛り上がりに向けて、全ての楽器を最大の音量で鳴らし、全力疾走しているようだ。
セミたちは、命の終わりを予感し、次世代に命をつなげるために精一杯に鳴き交わしている。悲壮感はなく、どこか陽気な祭りのようでさえある。
秋の花を訪ねて
葛の花
森の入り口に繁茂していた葛は、邪魔だといわんばかりに刈り取られてしまっていた。無残な刈り痕を茫然と眺めながら、それでも大きな葛の葉陰にその花を発見した。
濃い紫から鮮やかなピンク色のあでやかな花を、凛と空に向けている。
万葉の昔から秋の七草として確固たる存在感を誇っているのも、なるほどと肯ける。
葛の花は乾燥させて、二日酔いの薬になるとされる。しかし、私は二日酔いになるほどお酒を飲まない。それで葛の花を摘み取るのはやめた。
また、つるは若いうちに摘み取って茹でて、少し水にさらして食べれば美味であるという。
摘んで帰ろうかとも思ったが、家の者の渋い顔を思い出した。野草を食べたいと思うのは、私だけの趣味なのだ。
ノアサガオ
葛とは少し距離をおいて、やや紫色を帯びた青い朝顔の花が涼しげに咲いている。もうお昼に近いのに、少しも萎れていない。家の赤い朝顔はとっくに萎れてしまっているのに。
はて、森の入り口の藪のようなところに咲く野生の朝顔なんてあったかしら?
それとも、庭から種子が飛んできたのかしら?
調べてみると、ノアサガオと呼ばれる野生のアサガオがあることが分かった。ノアサガオは、半耐寒性の多年草で晩秋まで花をつける。一年草のアサガオのように種子をつけない。眼前のアサガオの名前を見極めるには、これから晩秋まで観察し続けなければならない。
何だか、アサガオから「よく観察しろ!」と挑戦状を受け取った気分だ。
アサガオは夏休みの植物観察の定番だから、夏のイメージが強い。だが、季語は秋。日照時間が短くなると咲き出す短日性の植物。短日性植物の代表として知られるコスモスと同様に、アサガオも晩夏から秋へと移りゆく季節を感じさせる花だ。
ところで、アサガオが意外に水揚げがいいのをご存じだろうか?
先日庭のマリーゴールドを切って花瓶に挿した際、アサガオが巻きついているのを発見。そっとつるをはずすと、明日にも咲きそうなつぼみがあった。別の花器に移しておいたら、翌朝見事に開花した。朝日をまとって、そこだけ涼しい風がそよいでいるようだった。
その後、何度かアサガオの生け花を試みた。つぼみがうまく咲くこともあれば、萎んでしまうこともある。でも、つるも葉も元気である。
庭にアサガオがあったら、小さな花器に活けてみたらいかが?
ヌスビトハギ
森の中の明るい小径を歩いていると、ヌスビトハギの群れに出合った。米粒ほどの小さな白い花は、先端が紅色に染まっている。祭りの化粧で、女の子が白粉をつけ唇に紅をさしたような可愛らしさがある。
もっとも、花はあまりにも小さいので観賞には不向き。花より特徴的な実のほうで知られている。実の形は、ヒョウタンを縦に割ったよう。そして緑色の実の表面に赤褐色のWの形をした模様がある。じつに不思議で、よく目立つ文様! さらに、実の表面はザラついていて衣服などによくくっつく。
「ヌスビトハギ」の名称は、ヌスビトのように気づかないうちにその実がとりつく、ということからきているようだ。また、実の形がヌスビトの足跡に似ているから、という説もある。古来の泥棒は足音を立てないように、足裏の外側だけを地面につけて歩いたそうだ。それでその時の足跡に似ているというわけだ。
いずれにせよ、実の形状から「ヌスビト」を連想した昔の人の想像力には驚かざるを得ない。
どちらの説が正しいのか?
「どっちかなあ‥‥」、最近見たテレビのサスペンスドラマを思い出しながら、ぶらぶら歩く。
シラヤマギク
秋の花といえば、菊が真っ先に思い浮かぶ人は多いだろう。9月9日は重陽の節句、菊の節句である。この日、菊の花を観賞しながら菊酒を飲むと長寿を得るといわれている。
菊の香や 奈良には古き 仏たち (松尾芭蕉)
芭蕉のこの句は、菊の香りとともに、もはや私たちのDNAに刻み込まれている。
こんなにも日本人に親しまれている菊ではあるが、秋の七草の中にはない。万葉集には菊を詠んだ歌は一首もない。じつは、菊は平安時代初めに中国から観賞用、薬用として導入されたと考えられているのだ。
もちろん、野生菊はあった。薄紫のノコンギクとか、白いシラヤマギクとか、黄色の花が咲くアワコガネギクなど。しかし、万葉時代の野を彩っていたはずの野生菊は、当時の人々の審美眼に訴えなかったようだ。香りがなく、花が地味なためだろうか。
フジバカマも十分地味だが、乾燥させると素晴らしい芳香を放つ。そのためか、秋の七草の仲間入りを果たしている。
この森には「シラヤマギク」の標識が所々に立っている。1mくらいの草丈の上部に白い花を集めて咲いている姿は、標識がなければ立ち止まって見ないかもしれない。
この花のよさを認識するには、時間がかかる。
キンミズヒキ
樹間に差し込む夏の陽光に、赤と白の花をきらめかせていたミズヒキソウの花はすっかり終わった。今はキンミズヒキが秋の風に身をまかせ揺れている。ミズヒキソウとキンミズヒキは姿は似ているが、全然違う種である。ミズヒキソウは、タデ科イヌタデ属。キンミズヒキは、バラ科キンミズヒキ属。キンミズヒキの種子にはトゲがあって動物などにくっついて散布される。
キンミズヒキの明るい黄金色は武蔵野の森では貴重。何となく、秋の七草の一つ、オミナエシの優しい黄色を連想させる。庭植えのオミナエシは目にするが、野生のそれは高原に行ってもなかなか出合う機会が少なくなっている。ここ武蔵野の森でオミナエシを思わせるキンミズヒキには、ぜひ増えてもらいたい。散歩する人や犬にくっついて。
ツルボ
「花野」とは、秋草の咲き乱れる風景をいう。それを知った時は、ちょっとびっくりした。咲き乱れる花といえば、私たちはつい春の華やかな野原を思い浮かべる。一方、昔の人は迫りくる冬を前にして精一杯に花を咲かせる秋草たちに哀れを誘われ、思いを寄せる感性を持っていたようだ。
よく陽の当たる草はらにピンク色のツルボの花を見いだした時、秋に咲くほかの花にはない華やかさを感じた。草丈20cmほどの先端に総状花序をつけ、下から淡いピンク色の線香花火のような花が咲き上る。ここではツルボは一群れだけだったが、しばしば群生をつくるらしい。
ツルボはキジカクシ科ツルボ属。ヒヤシンスやシラーの仲間だ。球根で冬を過ごす多年草。
家の庭にあるシラーは年々球根を増やし、種子を飛ばして思いがけないところで花を咲かせている。いつか、可愛くて元気いっぱいなツルボの「花野」が見られるだろうか。
ガガイモ
ガガイモは不思議な花だ。「淡いピンクのフワフワした花がある!」と近づいて見ると、5弁の星形の花が10個近く集まって咲いている。花弁は長い白い毛で密に覆われ、産毛が生えたお星さまのよう。
ガガイモはキョウチクトウ科のつる性多年草。日本をはじめアジアに分布する。
「ガガイモ」という名前は、諸説あるが実の形状からきているようだ。実は10cmほどの大きさで、中に綿毛の生えた種子が入っている。それが弾け飛ぶと、空になった実の部分は、小さな船の形をしている。船は「アメノカガミ」と呼ばれ、それが訛って「ガガイモ」となった。
私はまだ実を見たことがないので、ぜひ見てみたい。
この船の形をした実の形状は、日本国の起源に関わる伝説を秘めている。現存する日本最古の書物『古事記』によれば、大国主命(オオクニヌシノミコト)が国造りをされた際、少彦名命(スクナビコナノミコト)がアメノカガミに乗って現れた。2人の神が協力して国造りをされたと記述されている。10cmほどの「アメノカガミ」に乗っていたのだから、「少彦名命」はとても小さな神様だったにちがいない。大きな神と小さな神が国造りをする様を想像するのは楽しい。絵本で描くとしたら、どんな風になるだろうか。
ノブドウ
少しずつ朝夕が涼しく感じられるようになると、ノブドウの実が色づいてくる。緑色の実がブルーに変わり、淡いブルーがだんだん濃くなる。エメラルドグリーンや紫色になるのもある。この色の変化を愛でて、庭に植えている人もいる。
じつは、白い実が本来の実で、青色や紫色は虫が寄生しているためであるという。
ブドウ科ではあるが、野生のヤマブドウとは異なり食用には適さない。毒ではないが、まずい。そのため、イヌブドウとか、カラスブドウともいう。
秋のリースを作るために、少し分けてもらおう。
武蔵野の秋の七草
秋の七草といえば、万葉集の山上憶良の次の2つの歌に由来する。
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花(をみなへし) また藤袴朝顔の花
「朝顔」は今のキキョウと考えられている。
今の武蔵野の森周辺では、憶良先生が選定した七草のうち、葛の花しか該当する植物は存在しない。そこで、勝手ながら「武蔵野、秋の七草」を選んでみた。
葛の花 盗人萩(ヌスビトハギ) ノアサガオ シラヤマギク キンミズヒキ ツルボ ノブドウ
尾花(すすき)は選びたかったが、残念ながらこの森周辺では見ない。イネ科の植物はたくさん風に揺れてはいるが、ススキではないのだ。
キンミズヒキとセミ
散歩の帰り道、種子をつけ始めたキンミズヒキに止まっているセミを見つけた。そっと近づいて観察した。半分ほど透き通った羽からニイニイゼミらしかった。前足でしっかり茎をつかんでいるが、生気がない。目は開いてはいるが、何も映していない。そして、夏の戦いを無事終えた安堵感が漂っていた。
森からはもう陽気なセミの交響曲は聞こえない。代わりにコオロギやスズムシ、マツムシ、キリギリス、ウマオイ、クツワムシなどのセレナーデが聞こえてくる。
Credit
写真&文/二方満里子(ふたかたまりこ)
早稲田大学文学部国文科卒業。CM制作会社勤務、専業主婦を経て、現在は日本語学校教師。主に東南アジアや中国からの語学研修生に日本語を教えている。趣味はガーデニング、植物観察、フィギュアスケート観戦。
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