ウィクラーナ・ランブラー~育種家の競い合いが数々の名品種を生む~その1【花の女王バラを紐解く】
バラの中でも、柔らかなつるを伸ばして小さめの花を多数咲かせる一季咲きの「ランブラー」。その中でもウィクラーナ(テリハノイバラ)系のランブラーの始まりの話を、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。
目次
ウィックラーナ系ランブラーの始まり
ランブラーとは、小さめの花が数メートルを超えるような柔らかな枝いっぱいに咲き誇る、華やかなバラの品種群です。
春のみの一季咲き。大きく分類すると、ウィクラーナ(テリハノイバラ)系とムルチフローラ(ノイバラ)系の2つがあります。秋などに返り咲きするランブラーもありますが、それらはラージ・フラワード・クライマーなど、別のクラスにカテゴライズされることがほとんどです。
今回は、ウィクラーナ系ランブラーの始まりのお話です。
原種のテリハ(照り葉)ノイバラは、名前の通り、小葉の表面の照りが特徴です。国内では主に関東南部以西、海外では、中国東部、台湾、韓国など比較的温暖な地域の河岸、丘陵地などに自生しています。
原種名については、かなり混乱がありました。今日ではロサ・ルキアエ(R. luciae)が正式名称とされていますが、別の原種とされていたロサ・ウィクラーナ(R. wichurana)と同じだ、いや、別種だと議論があって、かなりややこしいです。詳しくは、後ほど整理することにしますが、テリハノイバラを交配親にして生み出されたランブラーは、一般的には「ウィクラーナ・ランブラー」と呼ばれていますので、ここではそれに従います。
原種テリハノイバラの学名を正式には何と呼ぶべきか、長い間混乱していました。
一般的にはロサ・ウィクラーナ(またはロサ・ウィクライアナ)と呼ばれていましたが、現在、正式にはロサ・ルキアエと呼ぶべきだろうというのが結論です。
混乱の元は、ベルギーの植物学者であるクレパンが、ロサ・ウィクラーナとロサ・ルキアエはよく似ているけれど、別品種だとして、それぞれ登録したことに始まります。時が経つと、この2つの原種は同じものではないかという声が高まってきました。この疑問は、日本の植物学者である大場秀章教授などの追求の努力により、「同じ原種だ」という結論になったようですが、現在でもすべての異論が引っ込められたわけではありません。
ウィクラーナ・ランブラー、学名の由来
仔細に渡りますが、学名の由来をたどってみましょう。
始まりは幕末から明治維新にかけての動乱の時代。
1859(安政6)年、徳川幕府は下田、横浜、長崎、函館を開港し、英・米・仏・蘭・露の5カ国と交易を開始しました。
各国は早速、訪問団を派遣しました。そのうち、プロシャ訪問団の中に、マックス・E・ヴィックラ(Max Ernst Wichura:1817‐1866)という法曹家がいました。ヴィックラは法律だけではなく植物学も学んでおり、琉球、長崎、函館と順繰りに港を巡る間に植物蒐集も行いました。
蒐集した植物の中にあったのが、テリハノイバラでした。訪問団は4カ月後に帰国しましたが、ヴィックラは、おそらく長崎においてテリハノイバラの生体を入手したのではないかと思います。
しかし、この生体は根付くことなく枯れてしまったようです(テリハノイバラが改めてヨーロッパへ渡った経緯はいくつかの説がありますが、ここでは割愛します)。
この原種バラは1886年(1884年説も)、著名な植物学者でベルギー国立植物園を指導していたフランソワ・クレパン(François Crépin:1830-1903)によって、原種ロサ・ウィクラーナとして同定されました。
ところが、これに先立つ1871年、クレパンはよく似た原種ロサ・ルキアエ(R. luciae)を、すでに新品種として発表していました。クレパンは、ルキアエとウィックラーナの類似には気付いていましたが、形態に明瞭な違いがあるとして別原種だと判定したようです。
このルキアエがヨーロッパへもたらされた経緯は、次のように伝えられています。
1860年、幕府勘定奉行であった小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)は鋼製戦艦の国産をもくろみ、当時幕府を援助していたフランス政府へ助成を依頼しました。フランスはこれに応じて技術顧問団を派遣、1866年に横須賀に造船所が造成され、すみやかに建造が開始されました。
このフランス技術顧問団の団員で、近在のフランス人を健診する軍医だったのがポール・アムディ・ルドヴィック・サヴァティエ(Paul Amedee Ludovic Savatier)です。
彼も熱心な植物蒐集家であり、1867〜1878年の滞在中に15,000種を超える植物をフランスの植物学者エイドリアン・R・フランシェ(Aidrian Rene Franchet:1834-1900)のもとへ送りました。この中に含まれていたバラは、フランシェからベルギーのクレパンへ回送されました。
1871年、フランシェは、新品種と思われるバラをロサ・ルキアエ(R. luciae)と命名しました。サヴァティエ夫人のルーシー(Lucie)にちなんだ命名です。同年、クレパンは、これが新品種であると同定しました。
日本の著名な植物学者である小泉源一(1883-1953)は両品種を再評価し、1917年、ウィクラーナはルキアエの変種として同定しました。これにより、ウィクラーナはロサ・ルキアエ・ヴァリエガータ・ウィクライアナ(R. luciae var. wichuraiana ( Crép.) Koidz.)が正式な学名とされました。しかし、後に植物分類学の権威である大場秀章は、ウィクラーナはルキアエの別名であることを文献の精査及びゲノム検査を経て確認したと論述しました。
これに従えば、ウィクラーナは正式にはロサ・ルキアエ、ウィクラーナの名称を用いるときは、ロサ・ウィクラーナ・シノニム(R. wichurana Crép. syn.)とルキアエの別名であると表示されることになります。
これで混乱は解決されたかと思われるのですが、異論が出ています。
ヴィックラは帰国後、当時ヨーロッパにおける代表的な植物商であった英国のヴェイチ商会に、柔らかな枝ぶりで大株となる原種バラの存在を知らせました。
ヴェイチ商会は、早速ミッションを日本へ送って入手し、持ち帰ったこの原種バラを、ロサ・ウィクラーナとして市場へ供給するようになりました。しかし、ヴェイチ商会を訪れたヴィックラは、この品種を見て、「これは自分が日本で見たものとは違うものだ」と断言しました。
それを受けて、ヴェイチ商会は2度目のミッションを日本へ送り、改めてヴィックラが見た原種を入手しました。ヴェイチ商会は、これを改めてウィクラーナとしてヨーロッパ市場へ供給しました。
この話は、アメリカの植物商であったJ. H. ニコラス(J. H. Nicolas)が1937年に刊行した『ア・ローズ・オデッセイ(A Rose Odyssey)』の中で述べていることです。
ニコラスは世界各地の育種農場を訪ね歩き、育種家のエピソードなどを紹介しています。著作は学術的なものではなく、バラにまつわる歴史をたどる旅行記のようなものですが、彼は両方の原種をパリ近郊の植物園で実際に見聞した際に聞かされたエピソードだと前置きしています。
ロサ・ウィクラーナが市場に出回って
ニコラスの記述は、このエピソードを確かなものにするため、もう少し続きます。
1900年、フランスのバルビエール兄弟(Albert et Eugene Barbier)は、ホバース、マイケル・ウォルシュなど米国のバラ育種家を訪問しましたが、彼らがこぞってウィクラーナ・ランブラーの育種を競い合っていることに強い感銘を覚えました。兄弟は帰国後すぐに、英国のヴェイチ商会からロサ・ウィクラーナを入手し育種に邁進しました。
のちに、‘アルベルティーヌ’、‘フランソワ・ジュランヴィル’などのウィクラーナ・ランブラーの名品種が生み出されたのがその成果です。しかし、兄弟が入手したウィクラーナは、ヴェイチ商会が第1回のミッションで入手したものだったとニコラスは理解していました。
バルビエール兄弟が育種したウィクラーナ・ランブラーの多くは、紅色の美しい新芽が特徴的です。これらは、ホバース、ドクター・W・ヴァン・フリート、ジャクソン・ドーソン、マイケル・ウォルシュなどが育種したウィクラーナ・ランブラーとは明らかに異なる特徴を有しています。
ニコラスは、ウィクラーナとルキアエは違う品種であり、紅色の新芽はルキアエの特徴だと思っていたようです。
英国のバラや庭園史の研究家として知られるクエスト=リットソン(Charles Quest=Ritson)も、ウィクラーナとルキアエは異なる品種だと述べています。ルキアエをウィクラーナと比べると、花径はルキアエのほうが小さく3cmを超えることはない、また小葉は5から7葉で9葉になることはない、と違いを強調しています(“Climbing Roses of the World”, 2003)。
また、フランスのバルビエール兄弟はアメリカ訪問後、ウィクラーナ・ランブラーの育種を始めたというのが通説でしたが、兄弟が新品種を公表した時期はアメリカの育種家たちとほぼ同じです。したがって、兄弟がアメリカの育種家たちを訪問したのは事実でしょうが、すでに彼らはウィクラーナ・ランブラーの育種競争に参入していたと見るべきだという説があります。当を得たものだと思います。
まったく、何がどうなっているのか、よく分からないままですが、19世紀末以降、アメリカ、フランスから美しい大輪ランブラーが次から次へと生み出されたという事実をもって、クラスの始まりとしたらいいのではないかと思います。
なお、ウィクラーナについてウィクライアナ(wichuraiana)と表記することもあり、むしろそうした例のほうが多いのですが、クエスト=リットソンは、ヴィックラ(Wichura)にちなむのであるから、ウィクライアナという呼称は間違いだと指摘しています。それに従い、ウィクラーナの名称を正としました。
テリハノイバラの正式学名がロサ・ルキアエであるならば、この原種をもとに生み出されたランブラーは、ルキアエ・ランブラーと呼ぶべきなのでしょうが、既にウィクラーナ、あるいはウィクライアナと呼ばれるのが一般化していますので、これらの品種群(クラス)は、ウィクラーナと呼ぶことにしています。
世界に渡ったウィクラーナ
クレパンによって原種テリハノイバラがヨーロッパへ紹介されてから、20年を超える空白の後、ウィックラーナはバラの品種改良に利用されるようになりました。
品種改良の舞台はアメリカです。さらにフランスがこれに加わり、堰を切ったかのように美しい品種が生み出されました。
【ウィックラーナ・ランブラー 品種誕生年表】
- 1898年 メイ・クィーン(May Queen) by ヴァン・フリート
- 1899年 ウィリアム・C・イーガン(William C. Egan) by ジャクソン・ドーソン、ガーデニア(Gardenia)by ホバース
- 1900年 デビュータント(Dèbutant)by ウォルシュ、アルベリック・バルビエール(Alberic Barbier) & ポール・トランソン(Paul Transon)by バルビエール
- 1901年 ドロシー・パーキンス(Dorothy Perkins)by ヴァン・フリート
- 1902年 アメリカン・ピラー(American Pillar)by ヴァン・フリート
- 1904年 ジュルブ・ローズ(Gerbe Rose)by フォーク、ハイアワサ(Hiawatha) & ミネハハ(Minehaha)by ウォルシュ
- 1906年 フランソワ・ジュランヴィル(François Juranville)by バルビエール
- 1907年 アレクザンドル・ジロ(Alexandre Girault)by バルビエール
- 1909年 エクセルサ(Excelsa)by ウォルシュ
- 1910年 ポール・ノエル(Paul Noël)by タンヌ、ドクター・ウォルター・ヴァン・フリート(Dr.Walter van Fleet)by ヴァン・フリート
ウィクラーナ・ランブラーの育種競争は、ヴァン・フリートとジャクソン・ドーソンにより先鞭がつけられ、ほとんど同時にホバース、ウォルシュ、バルビエール兄弟が続き、ちょっと遅れてフォークが参戦したといっていいでしょう。
初期の品種はいずれも美しく、今日でも広く植栽されています。公表から100年を経過していても、その輝きは失われていません。
それでは絢爛たるウィクラーナ・ランブラーの名花を2つ、公表順にご紹介しましょう。
メイ・クィーン(May Queen)-1898年
浅いカップ型、少し乱れがちなロゼット咲きの花形となります。
花色は明るく、透き通ったようなピンク。花弁の縁は退色して淡い色合いとなり、じつに優雅です。
1898年、最も早く公表されたウィクラーナ・ランブラーの一つです。育種者はW.A. マンダ(W. Albert Manda)という説がありましたが、間違いだったようです。Dr. W. ヴァン・フリート(Dr. Walter van Fleet)という説が正解です。
ウィクラーナとピンクのブルボン、‘チャンピオン・オブ・ザ・ワールド(Champion of the World)’との交配により育種されました。花は‘チャンピオン・オブ・ザ・ワールド’、樹形はウィクラーナからという、いいとこ取り。
ドクター・ウォルター・ヴァン・フリート(1857-1922)は、米国ハドソン、ピエモントにおいてオランダ系移民の子孫の家庭に生まれました。医術を学び医師となりましたが、バラ育種への情熱から医師を辞め、その後の人生をバラ育種へ捧げました。
1905から1922年に没するまで、メリーランド州グレンデールにあった米国農産物導入局(US Department of Agriculture Plant Introduction Station) に勤務し、ウィクラーナ・ランブラーを最初に公表したという輝かしい功績に加え、米国北部地域の寒冷な気候にも耐える丈夫な品種を育成することを目標とし、耐寒性の強いハマナスを交配の多くに用いたことで知られています。
ウィリアム・C・イーガン(William C. Egan)- 1899年
多弁、花心近くの花弁が内側に湾曲して密集する、ロゼット咲きの花形となります。
1899年、ジャクソン・ドーソン(Jackson T. Dawson)により育種・公表されました。ウィクラーナとレッド・ブレンドのHP、‘ジェネラル・ジャックミノ(Général Jacqueminot)’の交配により育種されました。
ドーソンは19世紀末、米国ハーバード大学付属のアーノルド植物園の庭園長として、意欲的なバラ育種をしたことで知られています。初期には、ウィクラーナやノイバラと既存の大輪品種との交配による、ランブラーやクライマーの育種に注力し、その最も初期の成果がこの‘ウィリアム・C・イーガン’でした。ウィリアム・C・イーガンは、ドーソンの依頼により、この品種の試験的な栽培を行った園芸家とのことです(Benjamin Whitacre, “A Missing Rose Claim: Jackson Dawson and the Arnold Rose”)。
淡いピンクのロゼット咲きのこの品種は、ブルボンの名花、‘スヴェニール・ド・ラ・マルメゾン’を一回り小さくして房咲きのクライマーにしたような美しさであったため、多くの注目を集め、ヴァン・フリートが育種した‘メイ・クィーン’とともに、その後のウィクラーナ系のランブラーの育種熱に火をつけたのです。
この美しい2品種の登場により、ウィクラーナ・ランブラーは最も華やかに春の庭を彩るバラとなりました。
次々と生み出される美しい品種群については、次回(その2)で詳しく解説します。
Credit
文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、バラを主体とした庭づくりに役立ちたいという思いから、2001年、50歳でバラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/田中敏夫、今井秀治
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