香料作物としての価値を失い、消滅する運命にあったラベンダーが一転、北海道の夏を象徴する花に……。その背景にあった奇跡のドラマとは? 今では日本中、世界中から人が集まる観光名所となった富良野のラベンダー畑。そのきっかけを作ったのは一枚の写真でした。
目次
鉄道写真家・田沢義郎
1971年5月──。
鉄道写真家の田沢義郎は、北海道中富良野町の小高い丘の上にいた。
眼下に広大な水田地帯が大海原のように広がっている。その向こうには残雪をいただいた十勝岳連峰の雄峻な峰々が天を突くようにそびえている。
──この絶景の中を行く「ぶた」を、ぜひ撮りたい。
田沢はそう思いながら、富良野盆地の雄大な景観と向かい合っていた。
「ぶた」というのは、当時の鉄道写真家たちの業界用語。最も熱烈な憧れの対象である蒸気機関車(SL)を「かま」、電車を「エレキ」、蒸気機関車に代わって急速に数を増しつつあるが、被写体としてはあまり魅力のないディーゼル車両、気動車を「ぶた」と彼らは称していた。
田沢は5日前、国鉄富良野線を走る「ぶた」の車窓から絶好の撮影ポイントになりそうな丘を発見した。年中旅をして鉄道写真を撮り歩いているので、初めての土地でもそういう勘がすぐに働く。
田沢は大雪山系の山々がよく見えるところまで行こうとしていたのだが、その予定を変更して中富良野駅で下車し、車窓から見た丘をまもなく探し当てた。だが、いざその頂きに立ってみると、十勝岳連峰は厚い雲に覆われていて、山裾に折り重なるように連なる低い段丘が辛うじて見える程度に過ぎなかった。
──これでは写真にならない。
田沢は早々にそう見切りをつけ、旭川に引き返して、その夜は駅舎の中で寝た。
折しも国鉄が74年度末までの蒸気機関車の全廃を予告。空前の蒸気機関車ブーム、SLブームが全国を席巻していた頃のことで、旭川駅ではカメラを持った若者たちが何人も寝泊まりしていた。富良野線の貨物列車を牽引している蒸気機関車や、道東、道北方面でわずかに運行されているSL列車が彼らのお目当てだった。
翌日、田沢は朝一番の「ぶた」で中富良野に向かい、再び前日見つけた丘の上に立った。しかし、その日も天気が悪く、いい写真は撮れそうになかった。田沢はまた旭川に引き返し、予想外の冷え込みと手持ち無沙汰に苦しみながら一日を過ごした。
翌日も、またその翌日も結局は無駄足で、今日はとうとう5日目。空には依然として雲が多く、狙っているような写真が撮れるかどうかは微妙なところだが、それにしてもこのロケーションの素晴らしさはどうだろう。
「ぶた」は姿が不細工なので、近接して撮ったのでは写真にならない。ところが、遠景に小さく写し込んだり、高い位置から俯瞰で撮ったりすると、おもちゃの電車のような可愛らしい感じが出て、結構いい写真になる。ましてや十勝岳連峰とその手前の水田地帯を望むこの丘の上からなら、かなりの傑作が撮れるはずだ。もっとも、それはこの空模様がもう少し何とかなってくれればの話だが……。
田沢がそんなことを考えていると、丘の下にある農家から体格のがっしりとした60過ぎの老人が現れ、ゆっくりと斜面を登ってこちらに近づいてきた。
きっとまた怒鳴られるのだろう、と田沢は思った。いい撮影ポイントだと思うと、どこへでも見境なく踏み込んでいく癖があるので、時々怒鳴られたり、不審者に間違えられたりするのだ。
けれども、その老人は田沢のすぐそばまで来ると、文字通り、破顔一笑してこう言った。
「あんた、最近よく来るね」
この丘の畑でラベンダーを栽培している冨田忠雄の父、徳男だった。
「今度は夏に来てごらん。きっといい写真が撮れるよ」
日焼けした顔に人の好さそうな笑みを浮かべて、徳男はそう付け加えた。
それから5年後──。
ラベンダーはふとしたきっかけで全国に知られるようになり、静かな田園地帯だった富良野地方はにわかに観光地化への道を歩み始める。
まるで奇跡のようなそのドラマは、田沢が発見した小さな丘から始まったのだった。
ニセコ町のラベンダー畑
北海道のラベンダーに着目し、いち早くカメラに収めたのは、朝日新聞社の報道カメラマンから風景写真家に転じた島田謹介だった。
彼がニセコ町のラベンダー畑で撮影した写真が、1974年に毎日新聞社が前年の正編に続いて刊行した『続 日本の四季』という写真集に収録されている。その自作解説で、島田は次のように述べている。
「北海道に紫色の美しい花の咲く丘があるのを知って3年続けて北海道に渡った」
ニセコ町は、1947年、北海道で最初にラベンダーを香料作物として導入した地域。しかし、農家はたびたび冬期の雪害に悩まされ、1969年までには栽培から撤退している。
従って、島田の写真はそれ以前,1950年代か、あるいは60年代半ばにかけて撮影されたものということになる。
だが、いずれにしても、島田のこの写真にはラベンダー畑の美しさが全く表現されていない。
写真手前がラベンダー畑。画面の半分以上を占める大きなスペースが充てられてはいるが、逆光下での撮影のため、黒くつぶれていて、色彩がまるで分からない。
そして、これはおそらく夕景なのだろう。目をひくのは、ラベンダー畑の向こうの丘の上を、農機具をかついで帰っていく2人の農夫の姿。つまり、この写真における島田の意図は、一種の労働賛歌として画面を構成することにあり、ラベンダーの花の美しさには関心が向けられていない。
島田が北海道のラベンダーに最も早く着目した写真家だったことは間違いないとしても、この写真が当時の社会に大きなインパクトを与えることは、結局なかっただろうと思われる。
風景写真家・前田真三
ラベンダーという植物を一挙に世に知らしめたのは、1976年版の国鉄カレンダーに掲載された前田真三の写真だった。
前田は大学卒業後、商社勤めをしていたが、プロの写真家になるために退職。1971年4月、鹿児島県の佐多岬を出発地として日本縦断の撮影旅行を開始した。時折、東京の自宅に帰って身体を休め、前回のゴール地点に戻ってまた撮影を続ける。そんな旅だった。
71年の夏、前田はついに日本列島を縦断し、北海道の稚内に到達した。
日本の内地の風景は、どこもみな優しく穏やかで、丸い。しかし、北海道の風景は、壮麗雄大にして、時には茫々漠々。内地の風景にはない峻烈な美しさに満ちている。
そんな北海道の風景と出会ったことで、前田は旧来の写真美学とは異なる新しい方向性に目覚め、風景写真家としての才能を大きく開花させていくことになる。
富良野のラベンダー
72年7月、前田は再び北海道を訪れた。
彼は表紙が分厚くて丈夫な小型のスケッチブックをメモ帳代わりに用い、その日の行動や撮影データを克明に記録するという習慣を持っていた。
そのメモ帳によると、7月6日から20日にかけて2度、富良野地方を訪れ、上富良野町の江花でラベンダー畑を撮影。さらに鉄道写真家の田沢義郎が発見した中富良野町の冨田家のラベンダー畑でも撮影を行った。
その上富良野町の江花で撮影した写真が、やがて国鉄カレンダーに採用されることになるのだが、それについて述べる前に、田沢義郎の富良野再訪について触れておこう。
田沢は71年の5月、中富良野で見つけた丘の畑で冨田忠雄の父・徳男に出会い、「今度は夏に来てごらん。きっといい写真が撮れるよ」と言われたことを忘れていなかった。
そこで72年の夏、再び中富良野を訪れ、1年前に「ぶた」の車窓から発見したあの丘の上に立った。
折しも、ラベンダーはちょうど満開になっていた。田沢がこのとき撮影した写真は、彼が長年保存しておいたメモ類によると、トヨタ自動車、メナード化粧品、サンリオ、静岡銀行のポスターやパンフレット、広告に使われ、どの企業にも極めて好評だったという。
一面紫色の花の海、とても日本とは思えないような美しい風景。それが一躍、全国津々浦々の人々に知られる日が近づいていた。
その日は1975年の暮れにやってきた。
前述したように、前田真三が72年7月に上富良野町の江花で撮影したラベンダー畑の写真が1976年版の国鉄カレンダーに掲載されたのである。
国鉄カレンダー
国鉄カレンダーは、当時の国労、国鉄労働組合が非売品として発行し、無償で全国に配布していたもので、編集制作業務を東京神田の広告代理店、日本交通事業社が担当。写真は四谷のカラー写真現像所、ボン・カラーのラボラトリーに委託管理されているものの中からセレクトされていた。
前田もボン・カラーに多くの写真を預けていたが、その中からまず75年版の国鉄カレンダーに使われたのが戸隠の風景など2点。続いて76年版の国鉄カレンダーに採用されたのが「開聞岳と菜の花」、上富良野町の江花で撮影した「ラベンダーと十勝岳」、それに知人から寄託されていた写真の計3点だった。
76年版の国鉄カレンダーの表紙は、函館本線を最近走り始めた電車特急「いしかり号」の写真だった。蒸気機関車はすでに全廃され、電気機関車が牽引する電車特急が時代の花形として注目されるようになっていた。
前田の「ラベンダーと十勝岳」は5月分として掲載されていた。
5月はまだラベンダーの季節ではない。しかし、日本交通事業社の編集担当者は、おそらくこの植物のことをあまりよく知らなかったのだろう。ラベンダーの開花期である7月には北アルプスの槍ケ岳の写真、8月は日本三景の一つ、松島の写真が配されていた。
企業カレンダーの最高峰
ともあれ、奇跡のドラマの始まりだった。国鉄カレンダーに掲載された「ラベンダーと十勝岳」という写真が全国各地で多くの人々の目に触れたとき、そのドラマは始まったのだ。
この時代の国鉄カレンダーが持っていた大きな影響力について、前田真三の長男で写真家の晃さんは、次のように話す。
「あの頃の企業カレンダーでは、東芝のカレンダーと国鉄カレンダーの2つが最高峰だったんです。どちらも写真のグレードが非常に高かったし、カラー印刷の技術も素晴らしかった。ですから、プロの写真家を目指す人たちは、東芝のカレンダーか国鉄カレンダーに採用してもらえるような写真を撮ろうと懸命に腕を磨いたんです」
思いもかけぬ異変
1976年夏──。
中富良野町の冨田忠雄は、ある朝、ラベンダー畑の見回りに出かけ、そこに思いもかけぬ異変が起きているのを発見した。
いったいどこからやって来たのか、大勢の男たちが集まっていて、畑をじっと見つめている。あちこちに林立しているのは、どうやらカメラ用の三脚らしい。近づいていって男の一人に声をかけ、「どこから来たのか?」と訊いてみると、陽気な関西弁の答えが返ってきた。
「大阪からですわ」
1976年版の国鉄カレンダーで前田真三のラベンダー畑の写真を見た人々、プロやセミプロ級の写真家、そして一般の写真愛好家たちが、76年7月、大挙して冨田家のラベンダー畑に押し寄せたのだった。
オイルの買い取り停止
ラベンダーは、戦後、北海道の後志地方や富良野地方で香料作物として栽培され、東京の香料会社がエッセンシャルオイル(花精油)の買い取りを行ってきた。
しかし、買い取りは1972年を最後に打ち切られ、ラベンダーは香料作物としての価値を失ってしまう。
雪崩を打つような栽培からの撤退が始まり、ラベンダー畑はジャガイモや玉ねぎ、小麦などの畑に変わっていった。
前田真三が72年の7月に撮影した上富良野町江花のラベンダー畑も、彼の写真が76年版の国鉄カレンダーに掲載されたときにはすでに転作が行われ、ラベンダーの畑ではなくなっていた。
そんな中、中富良野町の冨田忠雄はラベンダーの美しい花と甘い香りへの愛着が強く、他の作物への転作にはどうしても踏み切ることができずにいた。
加えて、小高い丘の斜面を利用してラベンダーを栽培している彼の畑は、国鉄富良野線の車窓からも、また並行して走る国道237号線からもよく見えるという好位置に立地していた。そのため、前田真三の「ラベンダーと十勝岳」という写真を見て富良野地方への撮影旅行を思い立った人々は、ほぼ例外なく冨田忠雄家の丘の畑に殺到したのだった。
急激な観光地化
冨田家の畑には、やがて、写真が目的の人たちだけではなく一般の観光客も訪れるようになり、その数は年を追うごとに3倍増、5倍増という猛烈な勢いで増加してゆく。
だが、あまりにも急激に観光地化が進展したことにより、富良野地方はさまざまな混乱を経験することになる。
Credit
文/岡崎英生(文筆家・園芸家)
早稲田大学文学部フランス文学科卒業。編集者から漫画の原作者、文筆家へ。1996年より長野県松本市内四賀地区にあるクラインガルテン(滞在型市民農園)に通い、この地域に古くから伝わる有機栽培法を学びながら畑づくりを楽しむ。ラベンダーにも造詣が深く、著書に『芳香の大地 ラベンダーと北海道』(ラベンダークラブ刊)、訳書に『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアーヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社刊)など。
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