埼玉県川越市は、今や国内外から年間780万人が訪れる一大観光地──。蔵造りの町並みが続き、江戸時代さながらの情緒が漂う市中心部の一番街は、連日たくさんの人でにぎわっています。一方、市の南部には総面積約200万㎡の広大な森があります。林床に四季折々の植物が生い茂り、樹上では野鳥たちが鳴き交わす大きな森。かつての武蔵野の面影を残すこの森をこよなく愛し、散歩を日課とする二方満里子さん。遠くへ出かけなくても、身近な自然の中には心躍る発見がいっぱいあるようです。
目次
はつなつのかぜとなりたや
川上澄生という詩人をご存じだろうか?
大正末期から戦後にかけて活躍した川上は、版画家でもあり、1926年、詩と版画からなる『初夏の風』という美しい本を発表した。その中にあるのが、「はつなつのかぜとなりたや」という一節。
詩に添えられた版画では、ボンネットの帽子をかぶり、鹿鳴館風の衣装をまとった女性が……そして、そのまわりを風が吹き抜けていく初夏の爽やかな浅緑色の風が、画面いっぱいに描かれている。
私が川上澄生の『初夏の風』を知ったのは、ずいぶん前。東京・駒場の日本近代文学館で特別展が開かれた時のことだったと思う。荒々しいほどのタッチの情熱的な風の表現が、そのとき強く印象に残った。
そして、今回、久しぶりに「はつなつのかぜとなりたや」という詩を思い出したのは、大きな森への散歩でムラサキケマンに出合ったからである。
緑が濃くなった森のかたすみで、ムラサキケマンはさや状のタネを半分以上弾けさせていた。残ったさやに何気なく触れると、そのとたん、さやはパチンと弾けて中のタネが飛び出し、くるりと丸くなったさやだけが枝に残った。指に残る、さやが弾けるときの感触。パチンとは音はしないものの、かすかに空気を響かせる気配。まるで、いきなりムラサキケマンが「あっ!」と声を発したかのよう。
面白くなって、次々にさやに触ってみた。
私が触れるのを待っていたように、弾け飛ぶさやたち。ほとんどのさやは枝に残らず、中に入っていた黒いタネと一緒に、飛んでいった。
ちょっと触れたくらいでは弾けないさやでも、少し長く指ではさんでいると弾け飛ぶ。指の下で、「くすぐったいよー」と笑いながら弾けていくみたいだ。
そのうち、この1cmくらいのさやは、何かが触れると下から裂けて、くるりと丸くなるのが分かった。素早く丸くなるときの勢いで、バネのようにしなり、種子をなるべく遠くに飛ばそうとするのだ。自然の巧妙な仕組みに感嘆しながら、しばらくムラサキケマンのさやと遊んでいた。
熟したさやが弾けるのは、何かがさやに触れた時だとすると、その何かは昆虫の類だろうか? ミツバチや、チョウや、蛾。
または、風。
そうだ、「はつなつのかぜ」だ、と思った。
そして私は、「はつなつのかぜ」になって、一日中、一晩中、ムラサキケマンのさやをはじき飛ばしたいと、半ば本気で夢想した。もし本当にそんなことができたら、そのとき森は、もっとたくさんの「森の不思議」を私に教えてくれるだろうか。
原っぱに咲く花
森に入る少し手前に、まばゆい光を浴びている原っぱがある。時々、草を刈るらしく、いい具合に伸びた草を期待していくとがっかりする。
しかし、そのおかげか、今は黄色いニガナの花の群生が見られる。ニガナは5〜7片のシンプルな形をした1cmあまりの花。1つだと目立たないが、群れ咲くと綺麗。森の深い緑を背景に、その黄色は存在を際立たせて、印象的な風景を作り出している。
原っぱを歩いてみると、いろんな小さな、目立たない花の存在に気づく。
その一つが、ニワゼキショウ。ピンクの花がここにも、あそこにも、といったふうに、群れ咲いている。近づいて、よくよく見ると、6つの花弁の先は、ちょっと尖っている。中心は黄色で、黄色のまわりから、濃い赤紫色の線が放射状に走っている。アイシャドウをほどこした目のよう。おしゃれで、可愛い。
さらに、青色のニワゼキショウもあった。青色のものも、中心は黄色で、そのまわりは濃い藍色が取り囲んでいた。青色のニワゼキショウは、ピンクのものより、ずっと数が少なかった。
ニワゼキショウは、北アメリカ原産。観賞用に輸入されたものではないそうだ。明治以降、いつの間にか入ってきて、帰化植物となった。今では、よく陽の当たるところなら、芝生の中にも、駐車場の片隅にも、道端にも、原っぱにも喜んで咲いている、機嫌のいい植物だ。
家のバラの鉢に、掌状の形で、深い切れ込みがある葉を持つ草が生えてきた。
植えた覚えはない。種子がどこからか自然に運ばれてきたのだ。
何だろう?
取らずにそのままにしておいた。やがてバラの花が咲く頃、5mmくらいの小さい白い花をつけた。フウロソウの仲間、たぶん、アメリカフウロだ。
フウロソウは、世界で240種以上が確認されている多年生草本植物。ハクサンフウロやタカネグンナイフウロは、高山植物。かつて、山形の名峰・月山に登ったとき、ハクサンフウロに初めて出会った。ようやくたどり着いた山頂に咲いていた可憐なピンク色の花。それは、険しい山道を頑張って登ってきた私への、なによりのご褒美だった。
フウロソウは、「ゲラニウム」の名で、園芸店で販売されているものもある。イングリッシュガーデンを演出する名脇役としても知られている。
薬草の「ゲンノショウコ」も、フウロソウの仲間。花は、アメリカフウロに似ているが、葉の切れ込みと花期が違う。ゲンノショウコは、アメリカフウロより遅く、夏から秋にかけて咲く。下痢止めとして、大変よく効くらしい。
アメリカフウロの花は、とても地味。森のそばの原っぱでも咲いているが、よほど注意深く観察しないと気づかない。けれども、よくよく見れば梅に似た5片の花は、とても端正な形をしている。フウロソウは、漢字で「風露草」と書く。風に宿る露。漢字の「風露草」にふさわしいのは、このアメリカフウロの花かもしれない。
山のてっぺんにも、イングリッシュガーデンにも定着せず、世界中を旅して、この原っぱにやってきたアメリカフウロ。どうぞ、ここでごゆっくり。
青嵐
「はつなつ」の風は、時に青葉をゆすって強く吹きわたる。それを「青嵐」(あおあらし)と呼ぶ。
青嵐に涼しく揺れるのが、イネ科のイヌムギ、メヒシバ、コバンソウ。
春の盛りに、林辺をにぎわせていた、オオアマナ、ヒメオドリコソウ、ホトケノザなどが、色あせ、地面に倒れ伏しているのを隠すように生い茂る。
駐車場に生えていれば、やっかいな雑草として、容赦なく抜き取られてしまう、これらのイネ科の草たち。花らしい花は咲かせないけれど、風にゆれる姿には、それぞれに風情がある。
風に吹かれて散歩していると、スイカズラの花に気づいた。かすかに甘い香りが漂ってきたからだ。つぼみは淡紅色を帯び、花開くと、くるりと反り返った花弁から、長いおしべを突き出す。花をとって、花筒をくわえると、甘い味がすることから、「吸い葛」(スイカズラ)と名づけられた。
また、咲き始めの花は真っ白だが、受粉すると薄い黄色に変わる。白い花と薄い黄色の花が一緒に咲いているように見える。そのため、「金銀花」の別名がある。
以前、スイカズラを植えたことがあった。スイカズラはつる性なので、ぐんぐん家の壁をよじ登り、枝を広げて繁茂した。花が咲くと、特に夕方から強く甘い香りを放った。常緑性の葉は、一年中壁を緑で覆ってくれた。スイカズラのつるが壁を傷めるから、取ったほうがいいと忠告する人もいた。あまり気にせずにいたけれど。結局、家をリフォームする際に取り去られてしまい、今はない。なつかしい思い出である。
ホウチャクソウ
夏本番の開花を目指し、ぐんぐん成長している森の入り口のオニユリの群れ。
その反対側の草むらの中に、ホウチャクソウがひっそりと花を咲かせている。
ホウチャクソウは、ユリ目・チゴユリ科なので、初期生育時ではオニユリと姿が似ている。それで、オニユリが増えたと喜んで見守っていたら、30cmくらいで成長をやめてしまった。そして、緑をおびた乳白色の細長い鐘のような形の花を吊り下げた。
ホウチャクソウの名前は、寺院の屋根の軒先に吊り下げられている小さな鐘、宝鐸(ほうちゃく)に由来する。たしかに、チゴユリやナルコユリのような小さくて可愛いベル形の花とは、ちょっと趣が異なる。寺院の鐘、宝鐸がぴったりくる花の形だ。
でも、もっとたくさん咲いてくれないと、夏を知らせる鐘の音は聞こえてこない。
Credit
写真&文/二方満里子(ふたかたまりこ)
早稲田大学文学部国文科卒業。CM制作会社勤務、専業主婦を経て、現在は日本語学校教師。主に東南アジアや中国からの語学研修生に日本語を教えている。趣味はガーデニング、植物観察、フィギュアスケート観戦。
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