今や北海道を象徴する花として知られるようになったラベンダーは、太平洋戦争直後にニセコ町で最初に栽培されて以降、その香りに魅せられた人々を巻き込んで、波乱万丈の歴史を繰り返し、さまざまなドラマを生んできました。今回は戦後、極めて過酷な状況にあった北海道農業をラベンダーで復興させ、希望と自信を取り戻していった北海道の農家の人々の物語をお届けします。

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歴史はニセコ町から始まった

ラベンダーは終戦直後の1947(昭和22)年、北海道の虻田郡狩太町(現・ニセコ町)の農家が新しい農作物として導入。その2年後の1949(昭和24)年には、空知郡の上富良野町でも二十数戸の農家が栽培を開始した。

かみふらのラベンダー発祥の地
上富良野町の東中地区にある「かみふらのラベンダー発祥の地」の記念碑。1993年に建立されたもので、裏面にはラベンダー導入の経緯と初期の功労者の名前が刻まれている。

ラベンダー栽培が急速に普及

その後、ラベンダーの栽培は岩内郡共和村(現・共和町)、虻田郡倶知安町、京極町、余市郡赤井川村(現・余市市)などへと普及。さらに空知郡の中富良野町、南富良野町、富良野市、音江町(現・深川市)、上川郡美瑛町、厚田郡厚田村(現・石狩市)などへと栽培が拡大していった。その間、1953(昭和28)年には、北海道庁農務部がラベンダーを「奨励特用作物」に指定。これを機に道内の各自治体も積極的な栽培奨励に乗り出し、苗を購入する農家に補助金の支出や低利の融資などを始めたため、栽培はより一層急速に普及。1960(昭和35)年には栽培農家が全道で593戸となり、エッセンシャルオイルの生産量は3tの大台に迫る勢いとなった。

ラベンダーは戦後の北海道で、なぜこのように急速に栽培が普及していったのか? その背景にあったのは、北海道の農業が当時直面していたきわめて過酷な状況だ。

『農業朝日』
『農業朝日』は朝日新聞社が1946(昭和21)年に創刊した月刊誌。ラベンダーの栽培を奨励する記事も掲載された。

北海道農業の窮状

終戦直後、北海道の農業は長かった戦争の影響で荒廃の極みにあり、農作物は軒並み収穫量が激減。米は戦前の最盛期の2割にも届かず、ジャガイモは3割減、小麦は6割減、豆類にいたっては収穫量ほぼゼロという有様だった。

農作物、特に畑作物の安定的な生産を維持するためには、同じ畑での連作を避け、いくつかの作物を交替させながら栽培する輪作体系が絶対に必要となる。

ところが、国は戦時中、農家に増産を強制した。そのため戦争が終わったときには、北海道の畑作地帯の輪作体系は完全に崩壊していた。

ジャガイモや小麦の収穫量の激減はその結果であり、畑作物のなかでも、とくに連作を嫌う豆類が収穫量ゼロにまで落ち込んだのも当然だったといえる。

激しい価格変動と暴落

しかし、日本の農業生産は全国的にみると1950(昭和25)年までには、ほぼ戦前の水準にまで回復した。

そこで国は、米を除く農産物に対する価格統制を段階的に撤廃した。すると、ジャガイモや小麦といった畑作物は一般の市場で自由に取り引きされ、激しい価格変動や、時には暴落にさらされるようになった。

北海道特産のビート、大豆、麦なども相次いで暴落。もともと経営基盤が弱く、低収入に喘いでいた畑作農家はその直撃をうけ、さらなる困窮へと追い込まれていった。

そんなときに、新しい農作物として登場したのがラベンダーだった。

ラベンダー畑
7月初旬の北海道中富良野町のラベンダー畑。花が満開となり、甘い香りが爽やかな風とともに漂う。

安心できる作物

曽田香料(本社・東京)の創業者、曽田政治氏がフランスからラベンダーの種を輸入したのは1937(昭和12)年。曽田氏はラベンダーオイルの国産化に強い意欲を燃やしていた。国産化事業は戦後になって始まり、曽田香料は北海道内の自社農場でラベンダーの栽培を行う一方、農家に栽培を委託し、契約栽培という形での生産拡大に努めていた。

したがって、自由市場で取り引きされる他の畑作物と違い、ラベンダーは価格の激しい変動や暴落が一切ない。曽田香料による1キロ当たりの買い上げ価格はジャガイモや小麦より10円程度安く抑えられていたが、しかし農家側にしてみると、いくらかでも栽培しておけば確実に一定の現金収入が得られる。

その上、曽田香料は8月の旧盆前に代金の決済をしてくれるので、農家はその金でお盆の食卓を多少はにぎやかにできる。北海道の畑作農家にとって、これほど嬉しく有難いことはなかった。

希望の灯

だが、それだけではない。

ラベンダーは6月末から色づく青紫色の花が美しく、しかも甘く香る。そして蒸留抽出したエッセンシャルオイル(花精油)は、香水や化粧品の原料になる。

ラベンダーはいかにも夢のある作物であり、当時としては戦後の日本の復興を象徴するかのような作物でもあった。

苦しい生活を強いられていた北海道の畑作農家の人々は、何よりもまずラベンダーの美しい花と甘い香りに大いに心を癒やされたことだろう。そして自分たちは香水や化粧品の原料になる作物を栽培しているのだということに、誇らしい気持ちを感じていたに違いない。

ラベンダーは農家の人々の心にひとすじの希望の灯をともした作物であり、それゆえに戦後の北海道でアッという間に栽培が拡大していったのだった。

プロヴァンスのラベンダー畑
ラベンダー畑が広がる南仏プロヴァンス地方の高原地帯。この高原で採取された種が日本に輸入され、北海道でのラベンダー栽培が始まった。

国際基準を上回る高品質

北海道のラベンダー農家の人々に、大きな誇りと夢を与えていた理由が、もう一つある。それは北海道産のラベンダーオイルの品質がきわめて高かったことだ。

当時の国際市場におけるラベンダーオイルの取引基準では、香気成分であるエステルの含有量を42%以上と定めていたが、北海道産オイルのエステル含有量は57〜61%。国際基準をはるかに凌駕するほどの高品質のオイルだったのだ。

このことは、成分分析によって比較的初期の段階から明らかになっていた。1950(昭和25)年、曽田香料の生産部次長だった手島龍雄は当時行った業務報告を次のような言葉で結んでいる。

「今後さらにエステル成分含有量の多い良質のオイル生産に努めるならば、近い将来において必ず“Lavender Hokkaido”として世界に雄飛することができると固く信じている」。

固く信じていたのは手島だけではなかった。

──ラベンダーの栽培とオイルの生産は、いずれは北海道経済を支える重要な産業として発展していくだろう。

国も、道も、道内の各自治体関係者も、そしてラベンダー農家の人々も、そう固く信じて疑わなかった。

壮大な夢

1964(昭和39)年、北海道庁農務部は、ラベンダーを改めて「奨励特用作物」に指定。各栽培地帯での蒸留所の建設や苗の増殖を行う農家に補助金を支出するようになった。

一方、曽田香料はラベンダーの栽培面積を将来的には1,000ヘクタールまで拡大したいという遠大な構想を発表していた。

ごく大まかな計算だが、1ヘクタールのラベンダー畑からは約30kgのエッセンシャルオイルが採取できる。従って、1,000ヘクタールあれば、ラベンダーオイルの国内需要の約8割を満たすことができる。そこまでいけば、曽田香料の創業者、曽田政治氏が念願としてきたラベンダーオイルの国産化を、ほぼ達成したといっても過言ではない。

これは、そんな試算に基づく構想だった。

それにしても1,000ヘクタールとはずいぶん大きく出たものだが、戦後の復興が着々と進んでいた時代。誰もが壮大な夢を見て、心を躍らせていたのだ。

ラベンダー「はなもいわ」
1967(昭和42)年に優良品種に指定されたラベンダー「はなもいわ」。花は薄い紫色、花穂と花茎は他の品種より短めだが、爽やかな香りが素晴らしい。

栽培のピーク、そして悲劇へ

1970(昭和45)年、北海道のラベンダー農家は全道で443戸、栽培面積は過去最高の235・45ヘクタールに達し、エッセンシャルオイルの生産量は栽培史上最大の5トンを記録した。

しかし、それからわずか数年後、北海道におけるラベンダー栽培は悲劇的な終末へと向かうことになる。

Credit

文/岡崎英生(文筆家・園芸家)
早稲田大学文学部フランス文学科卒業。編集者から漫画の原作者、文筆家へ。1996年より長野県松本市内四賀地区にあるクラインガルテン(滞在型市民農園)に通い、この地域に古くから伝わる有機栽培法を学びながら畑づくりを楽しむ。ラベンダーにも造詣が深く、著書に『芳香の大地 ラベンダーと北海道』(ラベンダークラブ刊)、訳書に『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアーヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社刊)など。

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