フランスの復古王政とそれ以降、歴史に名を残した人物名を冠したバラがいくつかあります。ここでは、ナポレオンの血筋とブルボン家の血筋が絶えるまでに登場した人物とバラについて、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。今井秀治カメラマンによる美しい写真とともにお楽しみください。
目次
ナポレオンの百日天下
この連載記事で、『戦争に明け暮れるナポレオンと支えた将軍たち。そしてバラ【花の女王バラを紐解く】』などで何度か繰り返しお伝えしてきましたが、1812年、ナポレオン・ボナパルトは、ロシア遠征の失敗で50万にも及ぶ兵を失い、わずか数千の兵士とともに帰国しました。
各方面からパリに向け侵攻する同盟軍に対し、ナポレオンもよくこれに応戦し、戦線は一進一退を繰り返していましたが、次第にナポレオン側が劣勢に推移し、パリ入城を目指して侵攻する同盟軍に抗しきれなくなりました。
1814年、ナポレオンは敗北を認めて退位、エルバ島の小領主として追放されることになりました。同年、亡命していたプロヴァンス伯、ルイ・S・クサヴィエール(Louis Stanislas Xavier:刑死したルイ16世の同母弟)は、ルイ18世として王位に就き、王政復古がなされました。
しかし、ナポレオンはエルバ島を脱出。驚愕した王党派はあわててパリから脱出。ナポレオンはパリに凱旋入城し、皇帝として返り咲きました。
しかし、翌1815年、ワーテルローの戦いにより決定的な敗北を喫したナポレオンは、大西洋の孤島、セント・ヘレナ島へ幽閉され、二度と絢爛たる権力の座に戻ることはありませんでした。これが名高いナポレオンの百日天下です。ナポレオンは1821年に同島で死去。今も毒殺説がささやかれています。
七月革命とルイ・フィリップ
復古王政は、貴族院と、選挙により選出された代議員からなる下院の二院制を敷きましたが、次第に王党派が勢力を伸ばしてゆきました。そして、ナポレオンの支持者であった、軍人、地方の有力農民を襲撃するという、白色テロがのさばることを許すようになりました。この白色テロには、ルイ16世とマリーアントワネットの長女、マリー・テレーズ(ダングレーム公爵夫人)が後ろ盾となったことは、『時代をいろどったバラ~フランス、絶対王政から革命の時代へ』でお話ししました。
ルイ18世の死去の後即位したシャルル10世は、さらに王党派寄りの政策に偏ったため、1830年、反発を強めた下院はシャルル10世を廃し、オルレアン公であったルイ・フィリップを王として迎えることとなりました。これが、七月革命と呼ばれる政変です。
息子のルイは、父ルイと思想を同じくし、ヴォルテールなどの啓蒙主義に染まっていたといわれています。
ルイ・フィリップは、反貴族主義を標榜し、国民軍に加わり、プロイセンやオーストリアとの戦闘に参戦したりしました。しかし、血は争えないのか、突如、叛旗をひるがえし反革命主義のオーストリア軍に加わったりしました。このことによりフランスを追われ、スイス、ハンガリー、アメリカなどで亡命生活を送りました。
1830年フランスで七月革命が勃発すると、市民に推されて「民衆の王」として王位に就き、王制復古を果たしました。父はオルレアン公、ルイ・フィリップ2世、同名の息子ルイ・フィリップはフランス王で、ルイ・フィリップ1世と呼ばれます。じつにややこしいですね!
しかし、ルイ・フィリップ1世は、市民の側に立った政治を進めると唱えながらも、実態は新興するブルジョアなどの権益を重んじる政策に終始しました。そのため、18年後の二月革命では逆に王位を追われ、英国に亡命し生涯を終えました。
激動の時代に、革命思想を鮮明に示したり、王制復古側へ鞍替えしたり、しかし、反革命軍のパリ侵攻には与しなかったりと、色変わりするように思想を変えたため、変節漢として後世に汚名を残すことになってしまいました。
そのルイ・フィリップにちなんだバラがあります。
ルイ・フィリップ(Louis Philippe)

7〜9cm径、25弁ほどのカップ型となる花形。開花時は中心部が色抜けして、赤の濃淡が出ますが、熟成すると深い色合いのクリムゾン・レッドの花色となります。
幅狭で尖り気味の小さなつや消し葉。フックした鋭いとげがある枝ぶり。樹高90〜120cm前後のブッシュとなります。
なんといっても、この精妙な花色の変化がこの品種の魅力のように思います。1834年、フランスのモドゥスト・グェラン(Modeste Guérin)により育種・公表されました。交配親は不明ですが、ガリカにも、クリムゾン・レッドの‘ルイ・フィリップ’という品種があるため、それと区別して‘ルイ・フイリップ・バミューダ・フォーム(Louis Philippe Bermuda form)’と呼ばれることもあります。
ナポレオン3世とジョゼフィーヌのバラ園
フランスではルイの退位の後、共和政が確立し、それが今日まで続いています。ルイ・フィリップ1世はフランスの最後の王となりました。
1848年秋には大統領選挙が行われ、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたるルイ・ボナパルトが大統領に選出されました。ルイ・ボナパルトは、ボナパルティズムと呼ばれる、おもに中産階級の間に広がっていたナポレオン・ボナパルト治世の再現をめざす勢力をバックボーンとし、次第に権勢を伸ばしてゆきました。
1852年、ルイ・ボナパルトはクーデターを起こし、さらに国民による信任選挙を経て皇帝となり、ナポレオン3世と名乗ることになります。
さらに、1859年にはイタリア統一戦争の介入して出兵を行いました。しかし、1861年に開始したメキシコ出兵では、メキシコ建国の父と呼ばれるファレスなどの抵抗により撤兵を余儀なくされるなど、当初の華々しい勢いに陰りが出始めるようになりました。
1870年、プロイセンとの間で起こった普仏戦争では、自ら戦線へ赴いたセダンの戦いにおいてあっさりと捕虜になってしまうという失態を招きました。同年、パリはプロイセン軍の侵攻によって陥落し、フランスは帝政の廃止、共和政の復活となります。
なお、このプロイセンのパリ侵攻の際、マルメゾン館は軍の駐屯地として徴用され、前回の『ジョゼフィーヌ~バラを愛したナポレオン皇妃』でお話ししたとおり、バラ園は失われました。
軍人アドロフ・ニール
アドルフ・ニール(Adolphe Niel:1802-1869)は、ナポレオン3世が帝位にある時代、クリミア戦争などに参戦した軍人です。1864年頃は元帥でしたが、ナポレオン3世の軍事顧問として重用され、1867年には軍政担当大臣にまで昇りつめました。工兵隊出身であることから特に兵装について深い知識を持ち、改良に努めました。
マレシャル・ニール(Maréchal Niel)
ライト・イエローのノワゼット、‘イザベル・グレー(Isabella Gray)’の枝変わりにより生じました。そのため、ノワゼットにクラス分けされることが多いのですが、形態としてはクライミング・ティーとするのがいいのではないかと感じています。
異説もありますが、1864年以前にアンリ・エ・ジロー・プラデル(Henri & Giraud Pradel ;père & fils)により見いだされたとされるのが一般的です。
明るい緑葉と、落ち着いたイエロー、たおやかでやさしげな樹形、房咲きとなって花の重みでうつむいて咲く花姿、そして、何よりもその豊かな香りが人々を魅了し、公表以来、今日まで変わらない人気を保っています。もっとも魅力あるイエローのクライマーの一つといえるでしょう。
半日陰には耐えますが、寒さには弱いという面があります。そのため、英国など寒冷地域では、温室やコンサバトリーで栽培されることが多い品種です。
プラデルははじめ、この品種をニール夫人に捧げるつもりで、マダム・アドルフ・ニールという名前を考えたのですが、彼が独身だと判明したため、「マレシャル・ニール」と命名したという逸話が残されています。
ナポレオン3世の息子、
ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト
ナポレオン3世の息子、ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト(Eugene Louis Jean Joseph Bonaparte:1858-1879)は、アンファン・ド・フランス(“フランスの息子”)という愛称があります。ナポレオン3世夫妻は、1853年の結婚以来子宝に恵まれずにいましたが、1858年、ようやく皇位を継ぐ男子を得て国をあげての喜びとなりました。それが「フランスの息子」という愛称がついた理由です。
1870年、父ナポレオン3世が普仏戦争のセダンの戦いで捕虜となって第二帝政が崩壊した際、ウジェーヌは英国へ亡命しました。
フランス共和政のもとで、なお、帝政への回帰を目指していたボナパルティストたちにとっては、ウジェーヌ・ボナパルトの死はナポレオンの嫡流が絶えてしまったことを意味し、深い失望を与えました。
アンファン・ド・フランス(Enfant de France)と命名されたバラがあります。
アンファン・ド・フランス(Enfant de France)

7〜9cm径、花弁が密集したロゼッタ咲き、またはクォーター咲き、カップ型の花形となります。ライト・ピンクの花色、花弁の縁はわずかに色抜けするため、花色に陰影ができ、非常に優雅です。幅広で明るい緑葉。樹高150〜210㎝、全体的にこんもりとしたブッシュとなります。
1860年、フランスのクレメンス・ラルテイ( Clémence Lartay)により育種・公表されました。交配親は分かっていません。
アルバ、ガリカにも同名の品種が複数あるため、混乱が生じがちです。1860年、ラルティ作出のハイブリッド・パーペチュアルというふうに、常にコメント付きで述べる必要があります。この品種は、ウジェーヌが誕生した時代のお祝いの気持ちを表現したものです。
フランス王シャルル10世の孫、シャンボール伯爵
シャンボール伯爵(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonne d’Artois, Comte de Chambord:1820-1883)は復古王政時のフランス王シャルル10世の孫にあたります。19世紀、フランスの政界は王政、共和政とめまぐるしく変転していましたが、ブルボン家の家督を嗣ぐ者として王政復古派のシンボルに祭り上げられた人物です。
王として議会へ導き入れられ、議員たちからも賛同の拍手をもって迎えられました。しかし、フランス革命の象徴である三色旗(青=自由、白=平等、赤=博愛)の承認を求められたことに対し、白色旗(ブルボン家の白百合の紋章)に固執し、承認を拒絶したことから議員の失望を買い、最終的には王位に就くことはありませんでした。
シャンボール伯爵には嫡子がなく、1883年、彼が死去したことにより、ついにブルボン家は絶え、フランスの王政復古のもくろみはその根拠を失い、潰え去ることとなりました。
1879年、ウジェーヌ・ボナパルトの戦死によりナポレオンの血筋が、そして1883年、シャンボール伯爵の死去によりブルボン家の血筋が絶えることとなり、フランス革命に始まり、権力の浮沈を経験した2つの家系は歴史の舞台から消えてしまいました。
コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)と名付けられた美しいバラがあります。
コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)

9〜11cm径、カップ型、いかにもオールドローズらしい、花弁が密集したクォーター咲きとなります。ピーチ・ピンクあるいはライラックがかった明るいピンクの花色。強く香ります。少し尖り気味、くすんだ、しかし、明るい黄緑の葉色。小さな突起状のとげが生えた、樹高90〜150cmのシュラブとなります。
フランスのモロー・エ・ロベール(Moreau et Robert)によりピンクのハイブリッドパーペチュアルの‘バロン・プレボ(Baronne Prevost)’とポートランド・ローズの‘ダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland Rose)’との交配により生み出され、1860年に公表されました。返り咲きするオールドローズであるポートランド・クラスの中で、おそらく最も美しく、したがって、最も高く評価され愛されている品種だと思います。その輝きは今日でも少しも失われていません。
Credit
文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/田中敏夫、今井秀治
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