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マリー=アントワネットが愛した「プチ・トリアノン」に咲くバラと矢車菊

マリー=アントワネットが愛した「プチ・トリアノン」に咲くバラと矢車菊

世界中から多くの人が訪れる一大観光地、ヴェルサイユ宮殿。そこには、マリー=アントワネットが過ごした安らぎの場「プチ・トリアノン」や理想の庭があり、2019年には改修された「王妃の家」の一般公開がスタートしました。バラや矢車菊、スミレの花などを特に好んだと伝えられるマリー=アントワネットが過ごした場所を、バラ文化と育成方法研究家で「日本ローズライフコーディネーター協会」の代表を務める元木はるみさんに案内していただきます。

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花好きの王妃に贈られたプチ・トリアノン

プチ・トリアノン
広大なヴェルサイユ宮殿の一部にマリー=アントワネットの隠れ家的存在の「プチ・トリアノン」があり、理想の農村庭園「王妃の村里」がある。Dasha Muller/Shutterstock.com

「花を愛する君に、この花束を贈る」こんな素敵な言葉と共に、王妃になったばかりの19歳のマリー=アントワネット(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d’Autriche:1755~1793年)は、1歳年上の夫であるルイ16世から、ヴェルサイユ宮殿の離宮、プチ・トリアノンの建物を含む領地を贈られました。

マリー=アントワネット
バラを手に持つマリー=アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画)。バラは、ケンティフォリア・ローズといわれています。

もともとプチ・トリアノンは、ルイ15世と公妾ポンパドゥール夫人(1721~1764年)の娯楽棟としてアンジュ=ジャック・ガブリエルの設計により、1762~1768年に建てられたものでしたが、ポンパドゥール夫人は、プチ・トリアノンの完成を見ずに亡くなってしまいます。

ポンパドゥール夫人
ポンパドゥール夫人(フランソワ・ブーシェ画)。

ポンパドゥール夫人亡き後、1769年6月に行われたプチ・トリアノンの落成式には、ルイ15世の新しい公妾となったデュ・バリー夫人(1743~1793年)が列席し、プチ・トリアノンは、デュ・バリー夫人に贈られました。

しかし、1774年5月、ルイ15世が天然痘にかかると、5月9日にはその看病に努めていたデュ・バリー夫人にポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が下され、立ち退きを余儀なくされました。

デュ・バリー夫人
デュ・バリー夫人(フランソワ=ユベール・ドルーエ画)。

こうして、プチ・トリアノンは、1774年5月10日、ルイ15世が天然痘で死去した2週間後の5月24日、マリー=アントワネットのものとなりました。

プチ・トリアノンの建物と内装デザイン

プチ・トリアノンの階段
マリー=アントワネットの紋章のある階段。

プチ・トリアノンの建物は正方形にできており、新古典主義建築で、内装はロココ様式の最高峰と評されています。

プチ・トリアノン
プチ・トリアノンの建物と周囲に咲くバラたち。
プチ・トリアノンの寝室
王妃の寝室のファブリックの絵柄は、王妃が特に好きだったバラと矢車菊がモチーフに。

プチ・トリアノンでは、ヴェルサイユ宮殿におけるマリー=アントワネットをうんざりさせていた宮廷の厳格な礼儀作法や規範などを除外し、自身が選んだ親しい友人や親族たちとの密接で気の張らない交流や、自然に親しみながらも洗練された世界感の構築を、マリー=アントワネット自らが力を注ぎ完成させようとしていました。

プチ・トリアノン
愛の殿堂。

ジャルダン・フランセ(フランス式庭園)

ジャルダン・フランセの花壇

上写真は、プチ・トリアノンとパヴィヨン・フランセの間にあるジャルダン・フランセの花壇です。長方形に囲むツゲの枠の中をよく見ると、鉢植えの植物が鉢のまま地中に入れられています。これは、各植物が枯れてしまったら、元気な植物と素早く交換できるようにという工夫です。

ジャルダン・フランセのバラ
7月の猛暑の中、元気に咲くジャルダン・フランセのバラ。

王妃の想いが詰まった「王妃の村里」

「王妃の村里」
「王妃の村里」

当時、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778年)をはじめ、自然への回帰を謳っていた啓蒙思想に影響を受けた王妃は、宮殿のアンドレ・ル・ノートルによるフランス式整形式庭園とは正反対ともいえる自然風で素朴な庭園づくりのために、国王の第一建築家リシャール・ミック(1728〜1794年)を監督とし、1783年より「王妃の村里(ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ)」の建設に着手しました。

リシャール・ミックは、著名な画家で庭園デザイナーでもあるユベール・ロベール(1783〜1808)からインスピレーションを受け、「王妃の村里」を完成させます。

王妃の家、婦人用の私室、衛兵の家、酪農仕込み小屋、農家、料理保温室、水車小屋、鳩舎、また「マルボローの塔」と呼ばれた塔のある人工湖、菜園、牧場、羊や牛、鶏、果樹など、多くの田園の風景を成す要素を盛り込んで、ノルマンディー風の理想化された農村を再現しました。

王妃の村里に咲くバラ。
「王妃の村里」に咲く優しい花色のバラ。

王妃はここで、幼い子どもたちに家畜の飼育や農学を学ばせ、ここを訪れる親しい者たちと牧歌的な田園風のひとときを楽しみました。

さらに王妃は、理想に近付けるためのよりよい庭づくりを続けようとしていましたが、フランス革命勃発のため、断念せざるを得ませんでした。

「王妃の家」の一般公開

「王妃の家」
「王妃の家」

今年2019年は「王妃の村里」に建つ「王妃の家」の改修が終わり、一般公開が始まりました。

1787年に建設された、王妃がごく限られた親しい友人や親族と過ごす藁葺き屋根の2階建ての家は、フランス革命による損壊とナポレオン帝政期を経て、1867年以降非公開のまま放置されていましたが、5年前に、ディオールの資金提供を受けて全面修復工事がスタートし、今年その工事が完了しました。

建物の外観は王妃在りし日のままに改修されましたが、内装は、王妃が使用していた頃の家具類は散逸してしまっているため、現在、遺っていた帝政期のナポレオンの2人目の妻で、マリー=アントワネットの姪に当たる皇后、マリー=ルイーズの時代の家具や調度品が入れられました。また、1810〜1811年の財産目録と、当時の納入業者の回想録をもとに、それぞれの部屋の装飾と家具の再現が進められたとのことです。

ナポレオンと政略結婚をさせられたマリー=ルイーズは、最初に結婚の話を聞かされた時、泣き崩れたといわれています。しかし、ナポレオンは、かつてマリー=アントワネットがつくった「王妃の家」の内装を美しく整えるなど、再婚相手であるオーストリア皇女マリー=ルイーズに対し、気を使ったようです。

再現された2階のサロンの壁やカーテン、椅子は、目の覚めるような黄色に統一され、当時流行した新古典主義の内装に設えられています。

「王妃の菜園」
「王妃の菜園」では、野菜やハーブ類が育てられています。
ヤグルマギクの鉢

また、小屋の入り口には、王妃が特に好きだった青い矢車菊の鉢植えが並んでいました。

植栽されているバラの中には、写真のような四季咲きと見られる現代バラが数種類植栽され、マリー=アントワネットがいた時代とは違う風景を作っています。

プチ・トリアノンのバラ
人工湖付近のバラ。

浪費によりフランス国民を困窮させた罪人としてのイメージばかりが強いマリー=アントワネットですが、彼女の夢見た庭づくりへの想いを探ると、素朴な庭や緑や自然は昔も今も癒やしの場であり、マリー=アントワネットの想いに、とても共感できることに気づきました。

また、バラや矢車菊、スミレの花などを特に好み、愛用のファブリックや食器の絵柄に採用したことを思うと、女性らしい感性が感じられました。

ロサ・ケンティフォリア
ロサ・ケンティフォリア。TYNZA/Shutterstock.com

そして今、世界中から一年中この地を訪れる観光客を、バラや花々で出迎えるための工夫が、品種選びや植栽方法などから感じられ、よりよい庭づくりの精神として、現代に引き継がれているようにも感じました。

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